21-8 真実の分水嶺

文字数 4,122文字

ここは…?

陽炎のようにすぐそこの視界が揺らめく。

暖かく…それでいて粘りの無い無色透明な風がこの身を抜けていった。

本能で僕は悟る。

この場所がどこなのかはわからない。
ただこの妖艶な美しさは…きっと僕を病ませるものだ。

「待ってたよ。」

すぐ後ろから声がして、僕は振り返る。
その人は僕の顔を見ると…いつものように、慣れ親しんだあの笑顔を浮かべた。

「…どうして。」

「そ、そんな顔しないでよ!…ひょっとして会いたくなかった?」

「違う!違うよ。僕が…どれだけ会いたかったか。」

僕の言葉に、クリスは安堵の表情を浮かべる。
その姿を見て、僕はどこか複雑な気持ちになった。

「ちゃんと2人で話するのって久しぶりだよね。」

「…そうだね。」

「…具合悪いの?」

「え?あぁ、いや…ちょっと、色々あったんだ。」

クリスは俯いて黙り込む。

「…ごめんね。」

「なんで?」

「私のせいで、みんなに迷惑かけたから。」

「おかしいよ!」

「…エレン?」

「クリスは何も悪くない。だから謝ったりしないで。」

そう思わず前のめりになった僕をぱちくりまんまるな目でじっと見つめる。
そして数秒経って…まるで糸が切れたみたいに彼女は吹き出した。

「…そんなに積極的なエレン初めて見たよ。」

「あ…え、いやそういうわけじゃ…」

そして声を殺してクスクス笑う。

「エレンは私たちが初めて宙に上がった日のこと…覚えてる?」

「…え?う、うん。忘れるわけないよ。」

あの時はさ〜、と彼女は続ける。

「エレンの足が取れるんじゃ無いかって心配してたんだよ。膝ガクガクだったからさ。」

「やめてよ。…あんまり思い出したくない。」

「ごめんごめん。でもエレン、結局一回も泣き言言わなかったよね。行きたくない!とか、もう帰る!とか。周りを見ればそんなこと言ってる大人もいたのにさ。」

「…言わないよ。」

「だから私ね、エレンって結構頑固なんだろうなあって思ったの。人間的な部分と同時に、凄く論理的な物事の捉え方をしてる。そして気持ちよりもそんな理性の方が勝る人なんだなってさ。」

「…ひょっとして悪口言われてる?」

「…そうかな。」

僕が目を細めると、また彼女はくしゃっと笑う。

「でもあれから、ずっと一緒にあの舟で過ごして…段々あなたの見え方が変わってきた。エレンは私が思ってたよりもずっと…強い"想い"を持っている。それは自分自身の気持ちにも勝る、誰かへの願い。…私前食堂で話したよね。」


『自分ではない他の人たちのために、あなたは自分の時間を使うことができる。』


「私ね、そんなエレンが本当に…」
「ちょ…ちょっと待って。」

僕は我慢できなくなって口を挟んだ。
すごくモヤモヤする。
何かおかしい。
こんなの普通じゃない。
そしてこのむず痒さの正体に頭が追いついた時、僕は火がついたように声を荒げていた。
「……?」
「どういうこと。」
「うん…?」
「これは一体…何のつもりなのクリス。」
「わ、私はただ…」

これで最後みたいに言うなっ!

彼女はやり場を失ったような表情で露骨に戸惑う。

「エレン…。」

僕は、込み上げる何かを押し殺して言葉を吐き出した。

「自分だけ言い残したこと言って消えるつもり?それで全部聞いたらはいさようならって、僕が言うと本気で思ってる?おかしいよ。なんで?なんで何もかも受け入れてるの?もう全て終わったことになってるの?もしかしたらクリスは何かの誤解でまだ生きてるかもって、そんなふうに思わせてすらくれないの?ひどいよ。ひどすぎるよ。僕がこれまでどんな」

あなた死のうとしてるでしょ。

「…!」

僕は息を呑んだ。
さっきまで溢れ出てきていたものが一瞬で引っ込む。
彼女の急所を狙った瞬間、同時に自らの急所も晒してしまったのだ。
情けない?
いや、でもこれでいい。
もう後悔なんかしたくないんだ。

「私が伝えたこと、ちゃんと覚えてる?私があの時リスクを負ってでも真実を追いかけたのは、ただ世界のため…ネメシスのためだったと思う?」

「…。」

「私はね、自分にとって大切な人たちに…生きていて欲しかったの。ずっと…面と向かって伝えられなかった。率直に言葉にはできなかった。全部私のわがままだってことはわかってる。でも!あなたが今追い込まれているのをみて、伝えずにはいられなかった。あなたには…生きて欲しいの。それが私の願いだと…ちゃんと伝えたかった。…伝えたいことなんてもっともっと沢山あるよ。でもそれは今じゃなくていい。」

「今じゃなかったら…。」

「生きて。私のことを大切に思ってくれているなら。生きてさえいれば、時間なんていくらでもあるわ。あなたの気持ちを…目に見える世界を…守って。ただ否定するのではなく…受け入れて初めて、見えてくる真実もある。」

彼女はそう言って、静かに目を閉じた。

まだ最後の言葉の意味を捉えられない。

世界はゆったりと、心地よく輪郭を失ってゆく。

いつだってそうだ。

——結局僕は、こうやって流されることしかできないのだろう。



…夢は、いつか醒める。

痛みだ。

徐々に僕の意識から霧を払っていく。

そしてどちらが現実なのか薄ら思い知った僕は、掻きむしるように自ら後ろ髪を引いた。

「お目覚めのようだ。」

まだ判然としない視界の中で、そう黒い影が言った。
頭が痛い。
焦点を合わせようにも、まだ何か捉えられずにいる。
足はちゃんと動かないようだ。
右腕と同様、痺れていて感覚がない。

状況は最悪だ。

ただ光の加減から見て、僕は恐らく檻の中にいるのだろう。
格子状に遮られた光たちが、尚のこと僕の視界を撹乱した。

「ゾウを見にきたのなら…教えてあげるよ…ここは…動物園じゃない。」

影は鼻で笑う。

「洗脳でもされたかと心配したが、いつも通りか。エレン、お前だいぶ無茶したみたいだな。」

「…フィクサー?」

声でわかった。


『他でもないお前の偽善が、彼女を殺したんだ。』


そう言ってB28を去った、あの時以来の声だ。

「わざわざお前の様子を見に来るやつなんて、他にいないだろ。」

「…そうだね。」

「具合はどうだ。」

どうせ大体見ればわかるくせに、聞くなよ。

言わないけど、心の中で思った。

「最高だよ。」

「足を撃たれたんだな。薬が抜けるまでもうしばらくってところだろう。」

「…ねえ。」

「なんだ。」

「さっきから何…同情しにここへ来たの?」

あの時の言いがかりを、僕はまだ忘れちゃいない。
いや訂正しよう。
多分、言いがかりではなくて事実なのだ。
僕の偽善が、クリスの命を奪った。
それは…きっとそうだ。

でもその事実を僕へ突きつけるなら、もうこんなふうに馴れ馴れしくして欲しくなかった。
0か100か、はっきりして欲しかった。

「ふん、残念ながらそうじゃない。俺は…お前の意思を確認するために来た。」

「…意思?」

焦点が徐々に定まってきた視界の中で、彼は腕を組みながら話を続ける。

「そうだ。お前がそこに放り込まれた経緯は全て聞いている。だがどうしてあんな行動に出たのか…その理由を知りたい。」

…理由。

「そんなこと知って…何の意味が?」

僕の問いに彼は一瞬黙り、それからじっと天井を見上げる。
その先の遥か遠くにいる何か…誰かを、まるで探すように。

「俺は奴を殺す。」

「…奴?」

「ギブス。」

「………。」

狂い始めた何かが、また一つ何かを狂わせる。
それは虚しさを連鎖させる…愚行だ。

「それは…復讐のつもり?」

「そうだ。俺自身の…ためのな。」

「彼を殺せば…解決すると?」

「…わからない。でも、何かしなきゃ…俺は正気じゃいられない。」

「もう正気じゃないよ。僕たちは。」

「…そうかもな。」

フィクサーも、僕も、目を閉じた。
彼がそうした理由はわからない。
でも僕は…この現実が脳へ焼き付いていく感触に辛くなったのだ。
いっそ視界がぼやけたままでよかったのに。
夢など、醒めなければよかったのに。

「やめてくれ、と言ったら?」

「言うな。例え思っていたとしても。」

「シークレットサービスがいる。自殺行為だよ。」

「それをお前が言うとはな。」

「…。」

「殺しが無理でも、奴の目論見通りにはさせない。そのための…」

「僕がMCRを襲ったのは、復讐が目的じゃない。」

「…だったら何故?」

「自分たちの責任を…人類を、守るため。」

「……。」

「僕はネメシスの暴走を止めるため…悪意を持った人間の手に渡さないためにMCRを襲った。確かに今思えば浅はかだったよ。でもあそこの中枢を破壊できれば、ネメシスを無力化できると僕は…」

「一つ聞かせてくれ。」

その一段と太く低い一言で、彼は僕の言葉を引き裂いて言う。

「お前はギブスの…あの計画を実行する気か?」


『これが私から君たちに伝える、”頼み”だ。』


至極身勝手な彼の言葉。
でもそれがもし、この世界に残された唯一の希望なのだとしたら。
仮に裏切られたとしても…この期に及んで失うものなどもう何もないのであれば。

「もし…ここを出ることができたら、やるよ。」

彼は口角を釣り上げて笑った。

「…そうか。あぁ、そうだよな。」

「…。」

「薄々わかってはいたが、残念だ。」

「フィクサーだって!」

俺はっ!

「…。」

「俺は絶対に、奴の思い通りにはさせない。例えその遣いがお前だったとしても…」

「…僕も、殺す?」

刹那彼は僕から目を逸らす。

「…わからない。でも、止めてみせる。」

僕は食ってかかった。

「この世界はどうでもいいの?僕らの都合だけで、そんなこと!」

「だったらクリスはどうなんだよっ!」

そして口を噤む。
…お互いに。

「…それは彼女のためなの?」

「…違う。自分のためだ。」

「クリスがそんなこと望んでいるはずない!」

「黙れっ!」

「……。」

そして肩で息をしながら、彼は僕を睨み言い放った。

「お前の…そういういい子ぶった中途半端な態度が俺は大嫌いなんだよ!」

「フィクサー…。」

「よく覚えておけ。もし…お前が今後もギブスのマリオネット(人造人間)を演じるつもりなら、必ずまた俺はお前の前へ現れる。その時はただの会話じゃきっと済まないだろう。」

「…。」

「エレン、俺は手加減しないからな。」

彼は振り向き様にそう言い残し、足早に立ち去っていく。

…何故こうなってしまったのだろう。

ただ無が檻越しに照らされるこの空間の中で、僕はそんな考えるだけ無駄な問いを悶々と抱え…温め続けていた。
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