13 “僕”の屍を越えて(後)

文字数 15,841文字

「…お前たち、まさか”解放戦線”か。」
それに対してジョゼフは驚き目を見開いた。
じわっと眼球の血管が浮き出て見える。
「…あんな奴らと一緒にしないで頂きたい。」
「野蛮さで比べりゃどっこいどっこいだ。」

私はこの村のために!

ジョゼフが一瞬叫び…そして我に返ったように口をつぐんだ。
もう顔が真っ赤になっている。
数秒、また部屋が静かになった。
ジメジメした屋内で、不気味な無音が妙にむさ苦しく感じた。

「私はこの村で生まれ、この村で育ちました。」

ジョゼフが、徐に話し始める。
「昔から、ここは静かな村でした。人が多いわけでもなく、観光客がたくさんやってくるわけでもなかった。」
「ただそれでも、かつてこの村には活気がありました。何故ならここは幾本もの県道が交差する場所で、移動に疲れた長距離ドライバーたちの中継地点として人気があったんです。」
俺たちと同じだな、という目でセバスチャンが僕に一瞥をくれた。
「ここにあるのは美しい自然と、美味しい空気だけ。でもそれが却って運転手たちには好まれた。当時は昼夜問わず人通りがあって、村の人々も皆元気だった…。」

彼の大きな眼は、何もない虚空を捉えている。
セバスチャンは一瞬彼に何か言おうとしたが、その様子を見て留まった。

ですが、とジョゼフは続ける。
「ご存知の通り21世紀中盤から、世界は急激な技術革命を迎えました。もちろんこの国も例外ではありません。人間の運動量の85%を、機械技術が代行する時代になったのです。そして人間は、自動車を運転しなくなりました。ただもしもの時のために乗っているだけ。疲労を感じることも、この村を訪れる必要も、なくなってしまった。」
科学者は、技術の進歩を世の中の”合理化”と呼ぶ。
技術に地域差はない、皆が享受すればよいのだと。
しかし現実はそううまくいかない。
進化していくテクノロジーの裏で、淘汰されていく存在がある。
遥か昔にダーウィンが遺した予言から、逃れることはできないのだ。
「”この村に未来はない”、誰かがそう呟いた瞬間からこの村の崩壊は始まりました。掌を返すように、それ以来村の人々は未来都市計画の対象になった100km先の大きな街へと次々流れていったそうです。」
“未来都市計画”は、後に世界中へ広まったフランス21世紀後期の大規模プロジェクトだ。
それは、警察・消防、その他電気・ガスといった都市インフラの全てを機械技術・AIによる情報統制により都市単位で一元化するというもの。
後に食糧や製品の生産、物資の配達から保険の営業まで人の手から離れることとなったそんな”未来都市”で、住民は等しく配られるベーシックインカムのもとで高度にマニュアル化された”有意義なくらし(A meaningful life)”を嗜むようになった。
しかし対照的に、計画へ参加できなかった辺境の町村からは住民がどんどん消えていく。
土地の価値は暴落し、徐々に人々は生きていく術を失ってしまう。
「丁度そんな時でした。フランス政府からある申し出があったのは…。」
「…政府?」
突然話へ現れた新参者に違和感を覚えたセバスチャンが尋ねる。
「…そうです。今から約70年前のこと。突然、村長のもとに一報が届きました。厚生省の大臣が、面会を希望しているという内容だったそうです。」
「…何故そんな国のお偉いさんが、過疎の始まった村までわざわざやってきたんだ?」
「私たちに、ある提案を持ちかけるためでした。」
「…なあジョゼフ、そのすぐもったいぶる喋り方やめてくれ。簡潔に、まとめてくれないか。」

「”この村に国営の医薬品研究施設を作りたい”という提案です。」

「ほう?」
「確かに、この場所は水が綺麗で交通アクセスも悪くない。おまけに使える土地は広大です。化学研究を行うにはもってこいの場所だったでしょう。」
「それで、受け入れたのか?」
「村民の流出は、留まることを知りませんでした。仕事すらまともにないこの村に若者は残らない。このままじゃ、リュジーは本当に滅んでしまう。だから、当時の村長はフランス政府の申し出を受け入れることにしたのです。」
国の施設が建ったというだけで、街にもたらす利益は十分大きい。
街に出入りする労働者(ここで言う科学者だ)が増えれば自ずと商売の顧客も増えるし、土地負担分の還元として税金が控除されたり給付金が支払われるというケースもある。
限界集落寸前だったこの村にとって、それはまさしく天からの光に思えたはずだ。
「…なるほど。だから、村中に蛇がいたんだな。」
「…蛇?あぁ、ヒュギエイアの杯。」
「君もよくスラスラ出てくるな…。」
「施設ができて以降、この村にはまた人が戻り始めました。国のため、人類のためになる研究の手助けをしているのだと、村民は皆誇りを持てるようになったのです。ヒュギエイアの杯は、そんな小さな誇りの証だった。」
「…話が見えてこないな。」
「?」
「だから、なんでそれだけ立派な村が核攻撃の標的に…」

——全部フェイクだったからだよ。

さあ…ここからは僕の番だ。


僕の突然の横槍へ、2人の強烈な視線を感じる。
セバスチャンも、ジョゼフも、まさに”お前が黒幕か”と言わんばかりの目で僕を見ていた。
誰も、何も言わなかった。
僕が続きを話すのを、待っているのだ。

「事の発端は、アメリカへのEU招致。」

僕は続ける。
「21世紀末、中東の再開発で世界の覇権を握った東側諸国に対抗するべく、EUはかつての超大国アメリカをその傘下に入れようと交渉の席を設けた。でも当時の米国大統領エリクソンは、その申し出を断った。彼は体裁としての紐帯より”大国アメリカ”としての面子を優先した。」
「なんだよ。そんなのどこの歴史の教科書にだって載ってるぜ。」
僕の間を置いた表現からもっと突拍子のない話をされると思っていたのか、セバスチャンが口を挟む。
「あぁ。でもこれらの史実は全てエリクソンが用意した所謂”でっち上げ(cover story)”だった。昔から”敵を欺くにはまず味方から”っていうだろ。本国の官僚たち、大統領補佐官でさえ、米国と欧州の交渉は消滅したものだと思っていた。」
「つまり”表向き(fake)”だと?」
「…そう。彼らの交渉は、破談になったのではなかった。EU加盟を辞退する代わりに、エリクソンは別の提案を持ちかけた。後に起こるであろう東側との戦争のために、ある技術開発の協力を要請していた…。」
それは全ての始まり。
人類が、決して踏み入れてはならない次元へ大手を振って乗り込んだ過ちの歴史。
「なんだよ。お前まで勿体ぶるのか。…ああわかった聞いてほしいんだろ。でもってその”技術”ってのは何なんだよ?」

——遺伝子操作による、人体改造。

「あ…あれは中国の言いがかりじゃなかったのか?だってそんな、」
セバスチャンが言葉を止め、一瞬チラッとジョゼフの顔を見た。
でもジョゼフは全く気にしない。
彼はずっと、言葉を続ける僕へ厳しい視線を送り続けている。
「…この技術自体は、そう目新しいものじゃない。”デザイナーベビー”と呼ばれたその概念は、20世紀後半から既にあちこちで議論が始まっていた。
『親の思い描いた通りの子供を”手作り(design)”する。』
このアイデアは結果多くの倫理的批判を生み、難儀とされた民間組織による研究も完遂されないまま50年ほどで打ち止めになっていた。
そんな、埃の被ったプロジェクトの推進をアメリカは持ちかけたんだ。
大統領が独自に進めていた、膨大で価値ある研究データを手土産にして。」
「それは、第三次大戦の…ために?」
「このプロジェクトの趣旨は、新しく生まれてくる人間に対して、物理的な身体組成・反射神経から精神面での状況判断力・総合的なマインドコントロールまで、戦争を生き抜く兵士としてふさわしい素質を人工的に遺伝子レベルで組み込むと言うものだった。第三次大戦は、二世紀前みたいに人と人とが銃で撃ち合うだけの戦争じゃない。高度に情報化され、相手は人間から機械に代わる。流動性の高い戦場で効率的な戦果を上げるためには、常人離れした情報処理能力と肉体が必要だった。恐らくこの計画は、当時衰弱し切っていた西側勢力にとってまさに最後の切り札として映ったのだと思う。」
「おいそれじゃまるで…人間を戦争の道具にしようってことじゃないか!」
「研究へ参加したフランスもベルギーも、あんたの言う通りそのまま素直に”遺伝子操作します”じゃ倫理的に国の予算を使えなかったんだろう。だからこの村のようなことが起こった。」
「”国営の医薬品研究施設”…。」
「実際はアメリカの息がかかった遺伝子研究の隠蓑。当然、住民はそんなこと知る由もない。ただその日を生きることで精一杯だった人々にとって、国が何をしようとともはや関係なかったのだと思う。施設があるからこそ、毎日ご飯を食べることができる。その事実だけで、彼らにとっては…」
「もうわかった!」
ジョゼフが、静かに僕の言葉を堰き止めた。
「…それ以上はやめてくれ。」
「あんただって被験者にされたんだろ!」

「もうやめてくれっ!!」

…。

「…あぁそうだ。俺たちは衛生兵器(Nemesis)が打ち上がって以降ずっと、いつこの村が狙われるのかと怯えながら暮らしてきた。戦争を誘発した非人道的研究行為に手どころか体まで貸し続けてきたんだからな。…生きていくためには仕方なかった。でもそんなことお前たちは理解してくれない。研究協力国であるベルギーに核が落ちたと聞いた時、俺らは確信した。次に狙われるのはここだと。補助金のない場所に引っ越したって生活の展望はない。でもここで焼け死ぬよりはずっとマシだ。…何故今更になってここを攻撃するのか?それはわからない。反逆の起点となりうる危険な技術を闇へ葬っておきたいのか、それとも人類史上の黒歴史をその存在共々消し去りたいのか。だがどっちだとしても、絶対にここの村人の命を奪わせたりはしない。研究データを回収するなり好きにしろ!ただし、皆の避難が終わるまでお前たちには…」
「だから…僕たちはあんたらの敵じゃない!」
「ふざけるな!今更手遅れだ!」
「なんでだよ!」
「だったら…」
「?」

「だったら何故、そこまでのことを知ってるんだ。納得のいく説明をしてみろ!」

きた。
この返しを、ずっと待っていた。
なのに、決定打になる一言が、口から出てこない。

「僕は…」

肝心なところで、つっかえてしまう。
でもここまで来てしまったら、もう全て話さなければならない。

言葉にするということは、その事実を自ら肯定するのと同じだ。
なけなしの自尊心を支える小さな憂いが、今更になって僕の邪魔をした。

『お前の…そういういい子ぶった中途半端な態度が俺は大嫌いなんだよ!』

——脳裏へ刻まれた友の言葉が蘇る。
きつく唇を噛んだ。
いいや、違う。
そんなんじゃない。
絶対に。
僕は…。
「なんだよ…はっきりしろ!」
「僕はっ!」
「…。」

「僕は、———デザイナーベビー(この場所から作られた人間)なんだ。


「な、なんだと…?」
これでもかというほど大きな眼を見開き、そして憤りからかわなわな震えていた。
「僕は、あんたたちと”同類”なんだ。」
「ふざけるな!」
「ふざけてない!ここにわざわざ立ち寄ったのだって、それが理由だった。僕の…この忌まわしい体の軌跡を辿るため、世界を戦争の渦へと巻き込んだ元凶達が今どんな顔をして生きてるのか確かめるため…。」
「嘘をつくな!デザイナーベビー生成の技術は、結果実用化に至らなかったはずだ!だから俺たちはいつまでも…」
「それは嘘だよ。」
「…どういう意味だ。」
「現実ここの実験は2120年代既に一定の成功を収めていた。でもアメリカ側はそれに対し”失敗”と虚偽の通告をし、出口の見えない無駄な研究を故意に続けさせた。」
「…。」
「成功したデータをもとに本国では極秘の最終実験が行われ、結果人類で初めてのデザイナーベビーが誕生した。僕が作られたのはその25年後。蓄積された実験成果をもとに、僕は…」
「黙れ!全部嘘っぱちだ。そんな話信じられるかっ!よくも…俺たちの犠牲を…!」
「そうは言ってない!僕は…」
「黙れ黙れ黙れッ!!!」
激昂したジョゼフは叫びながら足元のオイル缶を蹴っ飛ばした。
ガランゴドンと大きな打撃音が室内に響く。
「もうお前たちの戯言にはうんざりだ。このままこの場所で、いつまでもゆっくりしていくといい。」
「お…おいちょっと待ってくれって、もう少しちゃんと話し合えば…」
ずっと黙っていたセバスチャンがここですがるように口を挟んだ。
ジョゼフは鼻で笑う。
「断る。すべて自業自得だ。初めから…」

「本当にいいんだな。」

僕はジョゼフの大きな眼をひたと見つめ、静かに問うた。
「そうやってまた俺に嘘を吹き込もうったって…」

「第三次大戦を引き起こしたことへの自責が、あんたたちには無いのか?」

「…!」

「ずっとあんたの口から出てくるのは言い訳ばかり。消えかけの村を守りたい?生きていくためには仕方なかった?そんなの僕や世界には関係ない。ここの研究が三次大戦を招き、あんたたちはその研究に手を貸した。生まれてくるはずなかった僕の定めを歪め、この腐った運命へと導いた。ああ。僕らをずっとこうしておきたいなら好きにすればいい。でも間違った道を歩んだ後でも尚、今度は自分と同じ痛みを知る者すら苦しめようというのなら、あんたに被害者面する資格なんてない。時代を憎む権利なんてない。これまでだって間接的に多くの命を奪ってきたくせに、あんたはまだ懲りないんだな。…そしてそれが、この村の総意なんだな。」
言うまでもなく、これは賭けだ。
もし時間に余裕があったなら、きっとここまでのことはしなかっただろう。
でも僕は"今すぐ脱出するか"、"ここで死ぬか"の勝負を選んだ。
この二択で生き残るには、ジョゼフが、自分をこの村の救世主(Messiah)だと気取る程の強い自意識を持っていなければならない。
そして仮に読みが当たりセバスチャンの誘いに乗ったとしても、その先までちゃんと続いてくれるとは限らない。
“おうその通りだ、さようなら”と言われてしまったら、その場でゲームオーバーなのだ。
でも…僕の言葉は、確かに届いているようだった。
彼は少し俯いてから、僕の両眼を見据える。
「今、”自分と同じ痛みを知る”と言ったな。」
「…あぁ。」
「だったら… その証拠を、 証拠を見せてくれ。」
「全てを知っているということ。」
「それだけじゃだめだ。衛星兵器からの使いとして、村を消す前にデータを回収しようとしていた可能性が消えない。」
「なら残った研究データの中に、僕の情報が残っていると思う。完全に一致する事はないだろうけど、信頼できる遺伝情報が…」
「だめだ。俺は研究者じゃない。データなんて見せられても、判断できるものか。」
「なら…」
「なんだ。」
僕は少しだけ間を置いて、それから続けた。
「僕は…デザイナーベビーと言っても、失敗作なんだ。」
「…失敗作?」
「あぁ。僕には…生まれつき左腕がない。遺伝子情報を操作した結果、奇形児になってしまった。」
「…それで?」
「今僕の左肘から先は、義手になっている。僕の成長段階に応じて使用感を調整できるよう作られた特殊な義手だ。これが後天的なものではないって根拠くらいには…」
「…。」
ジョゼフがまた、下を向いた。
考え事をするときの癖なのかもしれない。
10秒くらい黙り込んで、それから
「…わかった。ただし信じるかどうかは見てから決める。見せてみろ。」
僕はわざとらしく両手をガチャガチャ鳴らした。
「無理だよ。こんなザマじゃ。」
ジョゼフは僕の後ろへ回り込んだ。
「…どう見ても義手には見えないが?」
「手袋で覆っているんだ。外さないと、中身が見えない。」
「…。」
「疑っているのなら、触ってみればいいよ。手袋で誤魔化せるのは見た目だけだ。」
直後ジョゼフの手が僕の右腕に伸びた。
想定外の触覚に体がびくっとする。
「そ、そっちは義手じゃないよ」
「そのようだな。」
そう言って、今度は左腕に触れた。
触覚はないが、些細な振動を感じる。
手指を動かしながら、中の形状を探っているのだ。
「…どう?」
「まだ中身を見てみないことにはわからない。」
木で鼻をくくったような返事だ。
「だからこのままじゃ、無理だよ。」
「あぁそうだな。」
するとジョゼフは突然上に向かって何かを叫んだ。

「@×%¥!」

よく聞き取れなかった。
誰かの名前だろうか。
すると少しして扉の開く音がした。
階段から、男が1人降りてくる。
さっきジョエルを上へ担いで行った男だ。
「Qu'est-ce qui se passe ?」
「こいつの左手を改める。もし変な動きをしたら、それで殴り倒してくれ。」
“それ”とはきっとあの鉄パイプのことだ。
いまだに側頭部はズキズキ痛む。
「…おう。わかった。」
そう言ってこいつも僕の後ろへと回っていった。
「いいか、今から君の手錠を外す。変な事は考えるなよ、それが君のためだ。」
「それはそれは…ご親切にどうも。」
背中越しに金属の擦れる音がまたシャリシャリ聞こえる。
ふと横へ視線を移すと、セバスチャンが僕の手元を細目で見つめていた。
もたついている時間はもうなさそうだ。
するとカチャッと耳心地のいい音がした。
右腕に感じていた不快な違和感が消えていく。
両手を動かしてみる。
「待て!だめだ勝手に動かすな!」
「わかったわかったって!…別にラジオ体操しようってんじゃないんだからこれぐらいで怒らないでよ。」
「君、物の言い回しが若くないな?」
「うるさい。今関係ないだろ。」
「…あぁ。」
そうしてジョゼフが僕の目の前へやってきた。
二つの大きな眼が、僕の全身を見下ろす。
「よし、じゃあゆっくり両腕を前に出せ。ゆっくりだ。いいな。」
「…わかったよ。」
僕は言われた通り、ゆっくりと両手を上体の前へと持っていく。
そのとき、左手の指を少し動かした。
全ての指をパーで開いてから、人差し指と薬指を手のひらへ向け曲げる。
左肘のあたりで、何かの外れる感覚がした。
「よし、そうだ。そのままゆっくり前へ…」
ふとジョゼフが言葉を止めた。
まずい…気づかれたか。
「お前たち…フランス語はわからないんだったよな…?」
「…?」
「だったらジョエルが言ってた言葉ってのは…」
ジョゼフがセバスチャンを疑いの目で見つめた。

今だっ!

僕は素早く右手で左手指を引っ張った。
肌色の薄い膜が外れ、中から合成金属の禍々しさが顔を覗かせる。
そしてぐっと右足に力を込め、思いっきり左足から前に飛び出した!
突然の出来事に、ジョゼフは何故だと言わんばかりの眼で僕の足元を凝視する。
だが遅い。
そうだ。僕の足を縛っていた綱は…もう外れている!
完全に不意を突かれたジョゼフは、何も言わず半歩後退りしただけだ。
僕は左手を開き、ジョゼフの露出した首元めがけ襲いかかった。
金属で出来た掌から、黒い球状のトゲトゲが飛び出す。
電極だ。
それはいつかメイテックが僕へ警告した時のそれと同じもの。
でも、大きく踏み込んだつもりなのに腕が短くてわずか首へ届かない…?
いや違う。
全ての指をいっぱいに伸ばすと、手がバネのように手首から飛び出した。
それはまるで蜘蛛が飛びかかったみたいに、がっしりと細い鉄指はその首を捉える。
「…!」
>>>バチン!!
蒼い閃光と共に痛々しいスタンガンの唸り声が短く響いた。
僕が素早く左肘を引くと伸びた手は元の手首へと戻り、そして支えを失ったジョゼフは床に倒れこむ。
「あ…兄貴っ!!」
慌てて後ろを振り向くと、鉄パイプを手にした男がジョゼフを見て棒立ちしていた。
僕が見つめると…視線が合った。
「おい…とりあえずもう物騒なことはやめにしないか?あいや、こっちが言えたセリフじゃないような気もするけど…」
「貴様ぁっ!!!」
血相を変えた男が武器を構えて向かってくる!
「ちょちょ、やめろって!」
セバスチャンがかすれ気味の声で叫ぶ。
だが彼との一騎討ちは、意外にもテンポよく5コマで決着がついた。
初めは…男が僕の側頭部を狙って横薙ぎにパイプを振ってきた。
しかしまだ僕との距離が十分詰まっていなかった。
相当怒りに身を任せていたのだろう。
少し上半身を後ろに引くだけで、問題なく避けられた。
それを察した彼は次に、僕から見た左側へと一歩踏み出しぐっとその距離を詰めた。
それはまるで僕を捕らえたあの時のように、素早い一撃で一気に仕留めるつもりだ。
3コマ目。
ついに男は大きく振りかぶって、僕の脳天目がけ鉄パイプを振り下ろした。
無機質な風切音が、僕の素朴な緊張感を刺激する。
まさに今にも殺してやると言わんばかりに、彼の目には真っ赤な血がたぎっていた。
もしまともに命中していれば、きっと僕は再びの眠りにつかされていただろう。
でも流石に、この一撃は想定できた。
鉄パイプを思いっきり振り上げた一瞬、彼は僕に考える時間を与えてしまった。
僕は左腕を伸ばし、掌を返す。
そして猛スピードで向かってくる冷たい影を、痛覚のない”作られた”手でガシリと受け止めた。
金属と金属のかち合う厳しい音が短く弾ける。
さあ…ここからが僕の反撃シーンだ。
受け止めた鉄パイプを、僕は全ての指で固く掴んだ。
もう離さないぞ。
男は取り返そうと腕を引く。
そうはさせない、僕はすかさずパイプに電極を押し当てた。
「うッ…!」
痛みなのか、むしろ驚きとも取れるような声をあげ男がパイプから手を離した。
この時点で、パイプを握っているのはもう僕だけだ。
最終フレーム。
不意の衝撃にうろたえる男…まさに隙だらけ。
僕は腕を少しだけ戻して、狙いを定める。
男と一瞬視線が交わった。
何かを訴えようとしているのか、だがもう手遅れだ。
僕は躊躇うことなく、男の顔へ思いっきりパイプを振り切った!
悲しいことに僕は身長が低い。
だから顔と言っても当たりどころが悪い…例えば顎なんかに当たっても有効な一撃とはならなかったはずだ。
しかしこの局面では強く運が味方した。
僕の渾身の一発は、男の柔らかなこめかみへ命中したのだ。
ガツンという鈍い打撲音の後、男も床へと倒れ込む。

——終わった。

いや、まだだ。
僕は床で寝そべるジョゼフの懐から手錠の鍵を引っ張り出す。
振り返り、セバスチャンの方を見た。
彼は口をあんぐり開け、じっと僕のことを見つめている。
「…何。」
「えっ?あ…いやあ、確かに…その手じゃ飛行機には乗れないなと思っただけさ…。」
「今助けるからじっとしてて。」
「あぁ…ありがとう。」
僕は彼の手錠を外し、立ち上がるのに肩を貸した。
「あんたもよかったよ。辛い中長々とジョゼフの相手をしてくれてありがとう。」
少しふらついている。
でも十分血が巡ってくれば、すぐに元気になるだろう。
「なあ…俺の体は…どれくらいもつんだ。」
「さっき僕が言ったとおりなら死ぬことはない。少し歩いて、数時間もすれば元の調子に戻るはずだよ。」
「そうか…。」
つれない返事だ。
僕はセバスチャンの屈伸を横目に外した手袋を元に戻す。
屈伸の次は、大きく伸びをして見せた。
まるで母音に濁点をつけたような、骨の内から捻り出すような声をあげる。
「しかし…案外座り仕事ってのも疲れるんだなぁ。今後は役所のおじさま方にも…親切にしてやらないとってな。」
「脱出しよう。時間がない。…歩けるか?」
「おう、まあどうにか行けそうだ。」
周りを見回すと、後ろの棚に僕たちのリュックが置いてあった。
駆け寄って中身を確認してみる。
「何か減ってる?」
「いや、変化なしだな。お前は?」
「こっちも大丈夫。物盗りではなかったんだね。」
「そりゃあ、”村を守る正義のヒーロー”だからな。」
僕たちは荷物を持って、ゆっくり階段を上がった。
いざ上ってみると、質素なものだ。
ただ泥を塗り固めてそれっぽい形にしただけ。
地下水でも流れたらまともに歩けないだろう。
僕は階段から、木製の扉をそっと開けた。

右を見る。

左を見た。

——誰もいない。
ここは廊下のようだ。
やはり窓はない。
まだ地下なのかもしれない。
「おい、あれを見ろ。」
小声でセバスチャンが囁いた。
そこには古びたソファ。
誰かの両足が肘掛に乗せられている。
あのスニーカーには見覚えが…?
「…ジョエルだ。」
セバスチャンがそう呟いて、彼に近づいた。
僕がフロッグと便宜的に読んでいた男。
ずっと、彼が僕たちを嵌めたのだとばかり思っていた。
でも実際は違った。
彼は果敢にも僕らを縛る綱を断ち、身を挺して脱出への糸口となってくれた。
——疑ったりしてごめんね。
心の中で、僕はそう呟いた。
「おうジョエル、お前は”何もできない人間”なんかじゃない。…幸運を祈ってるぜ。」
セバスチャンは彼の耳元でそう告げると、だらりと垂れた右手を強く握った。
「もう行こう。あの量じゃしばらくは目覚めないはずだ。」
「…あぁ。」
僕らは背後にある目新しい階段を登ろうとした。
だが右足を上げた瞬間、僕の体がピタリと止まる。
「…近いな。」
誰かの話声だ。
まさにこの上から聞こえてくる。
「降りてきたらどうする?また…ビリビリさせるのか?」
「…冗談よしてくれ。」
さっきのは、じっくり策を巡らせる時間があったからこそできたことだ。
こんな閉所で、しかも出会い頭で…相手が拳銃なんて持っていようものなら。
考えるだけでゾッとする。
だが次第に話声は、どんどん大きく、近づいてきているように感じた。
それだけではない。
ゴトゴトゴト…と、木製の床を歩く重たい足音が、まさにこの真上から聞こえてくるじゃないか…!
「おい…やばいぞ。」
僕たちは一歩、思わず後退りする。
足音が、ついに階段の一歩を踏みしめたようだ。
僕らの鼓膜にすら、その音がずしりと重たく響き渡る。
その時だ。

>>ギィィィィィッ

「!?」
廊下の奥にある、一枚の扉がゆっくり開いたのだ。
そこには誰かが、こっちに向かって片手を振っている。
あれは…?
「あん時のばあちゃんだ!」
——どうする。
罠かもしれない。
だが優柔不断に考えている時間もない。
僕らは一か八か、その扉へと向かってみることにした。
早歩きで、できるだけ足音を立てず、真後ろよりどんどん迫ってくる音から逃げるように廊下を進む。
そして扉の前にたどり着くと、老婆は黙って僕らを中へ通した。
背後で、静かに扉が閉まっていく。
さっきまでどんどん大きくなっていた男たちの声も、ガチャッというドアノブの金具の音ですっかり小さくなった。
「ここは…書斎か?」
いくつも壁沿いに並ぶ本棚。
そして部屋の中央には、艶やかに光る焦げ茶色のワークデスク。
さっきまでの貧乏くさい雰囲気が嘘のようだ。
どうもこの部屋は、まるでこれまでと全く違う家であるかのように豪勢な色彩で溢れていた。
あたりを見回す限り、入ってきたところ以外に扉はなさそうだ。
セバスチャンはずっと老婆の動きを観察している。
やはり彼女は背中を丸めることなく、若々しい立ち姿でワークデスクの横へとゆったり歩いて行った。
——何かを凝視している?
それはワークデスクの隅に置かれた金色の球体。
地球儀だ。
老婆は、それにそっと右手を伸ばし…ちょこんと乗せた。

「お、おい…マジかよ。」

セバスチャンの指差す先は、ただの本棚。
いや…?
小さな重低音が穏やかに耳を揺さぶる。
本棚が、動いているのだ。
少し奥に引っ込んで、それから右へとゆっくり消えていく。
「これは…こっちに逃げろってことなのか?」
「そうかもしれない。」
老婆はじっと僕たちのことを見つめている。
何を伝えようとしているのか…それはわからない。
でもその目は怒りでも恨みでもなく…哀れみのようにも思えた。
どちらにせよ、元の扉へ引き返すのだってリスクが大きい。
「行こう。」
僕らは丁寧にコンクリートで象られた通路を歩くことにした。
10mくらい進んだくらいで、後ろの本棚がゆっくりと元の位置へ戻っていく。
真っ暗になってしまうのか…とも思ったが、背後が閉まるのと同時に頭上の小さな電球に光が灯った。
「…よく出来てるな。」
「おう、思春期の子供が家出の為に掘ったトンネルとは訳が違いそうだ。」
「ねえあれ、扉じゃないかな。」
僕が指差した通路の先には、銀色の光沢を放つ一枚板がある。
自動扉だろうか。
「なんだ?これ。」
もう動かなくなった自動扉には、小さなステッカーが2枚貼られていた。
1つは黄色と黒の配色で、扇風機のようなマークが文字の隣に描かれている。
もう1つには、三角形状に並べた3つの円の中心にもう一つ円を置いたようなマーク。
「ハザードシンボルか…嫌な予感がしてきたぜ…。」
「一応気をつけながら進もう。」
僕らは力尽くで自動扉を思いっきり引いた。
案の定それはびっくりするほど重たかったけれど、それでも少し、人が通れるくらいの隙間は開いた。
体をよじって、どうにか扉を抜ける。

「こ…これは…。」

床は一面純白のタイル。
一つ一つの区画は透明なガラスで仕切られ、部屋の真ん中に置かれた真っ白な作業台には見たこともない器具と無数の試験管が並べられている。
清潔感のある、故に却って恐ろしい…まさに、
「研究所…って感じだな。」
マイアミの研究所も、こんな感じだったな。
「早く出口を探そう。」
僕らは無機質な空間を足早に進む。
手術台があった。
隣は植物(?)の培養室。
中身は空っぽだ。
仕切りのガラスを下から照らす常設灯の薄明かりが不気味さに拍車をかける。
「なんか匂わないか?」
セバスチャンのいう通り、どこからか鼻を突くような腐敗臭が漂ってきていた。
歩けば歩くほど、その不快な香りはどんどん強さを増していく。
「うぇっ…なんなんだよ…吐きそうだ…。」
「…大丈夫?」
「お前は平気なのか?」
「いや…頭が痛い。」
「ひょっとして、あそこからか?」
セバスチャンが指さした先。
まるで銀行の奥にドシリと構えてあるような…鋼鉄製で真ん中にハンドルのある、うんと大きな壁。
半開きになっている。
焼却炉でもあるのか?
と思いかけた時、そばに貼られた黄色いステッカーと几帳面に並べられた試験管を目にし僕は全て悟った。
「ジョゼフの言ってたこと、いや…お前の話していたことは…あー…なんというかその…全部…ほんとうだったんだな。」
試験管の中には、

がホルマリン漬けにされていた。
考えるだけで、胸糞が悪くなる。

あぁ。

心の片隅で、まだ”全部嘘だったら”という思いが拭えずにいた。
——この目で全て確認するまで、事実かどうかなんて分からないじゃないか。
でもそんな聞き苦しい希望論は、あっけなく終わりを迎えた。
僕らしい結末だ。
もし今僕1人だったら、この場に崩れ落ちていたかもしれない。
言葉にするのと、現実で目にするのと。
全く重みが違った。
逃げようだなんて思ってはいなかった。
ずっと直視してきたつもりだった。
でも違った。
「これらは所詮… ジュースワゴンで色とりどりに並べられたミックスジュースのフレーバーみたいなものさ。好きなものを選んで、混ぜるだけ。そこには偶然も、運命もない。人種…そして遺伝子は、生得的なものから過度にまで恣意的なものになった。 命を扱っているなんて意識も…きっと無かったのだと思う。」
「…。」
「”失敗作”は、あの扉の向こうで全て処理されたんだ。放射線は遺伝子の内部情報を完全に破壊する。それさえ済んでしまえば、もう彼らにとってはただのゴミさ。ここが破棄されてからは、そのゴミ処理すら怠っていたみたいだけどね。」
「…。」
「あんたはここに来てすぐ僕に、この村が目当ての場所か聞いたよね。」
「…あぁ。」
「ここは、僕になれなかった…無数の”僕”らが眠る場所。」
「…。」
「これから…僕は自分への覚悟を決めるために…」

>>>バサバサバサッ!

「なんだよ!?」
セバスチャンが飛び上がった。
僕もびっくりして、突然音のした方向を凝視する。
だがそこには何も、
…いや違う。
黒い何かだ。
だから暗がりの闇に紛れて輪郭がはっきりしない。
僕は恐る恐る、そのうごめく何かの方へと歩み寄った。

——これは…?

「カラス…か?」
そこにあったのは、金色で僕の腰くらいまでの高さがある鳥籠。
そして中にはカラス…だろう。だがカラスにしては羽が短く身体のあちこちが隆起しすぎている。
こんなに足の太いカラスは見た事がない。
人間だけではなく、こんな動物達まで…
「毛並みがいい。ロンドン塔の守護鳥みたいだ。」

「オナカスイタ!オナカスイタ!」

「おいこいつ喋んのかよ!?」
「えぇ…。」

僕は度肝を抜かれてしまった
インコを黒く塗りつぶしたわけではない?
…わけないよな。

「ココカラダシテ!ココカラダシテ!」

「冗談だって言ってくれよ…。」
「でもこれが現実だ。」
「しかもこいつなんか言ってるぞ。」
「あぁ。」
「どうする?…放っておくか?変なカラスだし、襲われでもしたらたまらないが。」
「うーん…。」
僕はカラスの目を見つめた。
こういう時は、生き物の目を見るのだ。
別に何か特殊な能力があるわけではない。
でも… 何かを感じ取れるような気がする。

「?」

カラスも不思議そうに僕を見つめた。







「逃してあげよう。」
「…まじか。」

僕はそっと扉の(かんぬき)を外す。
するとカラスは自ら足で戸を開けて、外へ飛び出してきた。

>バサバサッ バサバサッ

セバスチャンは両腕で顔を隠した。
でも襲ってくる感じではなさそうだ。

「ヨクヤッタ!ヨクヤッタ!」
…なんか上からだな。
僕はカラスにそっと声をかける。
「これからは人間に捕まらないよう気を…」

Je l'ai trouvé!

誰かの叫び声と共に、激しい炸裂音が鼓膜に響いた。
一瞬で近くのガラスが粉々に砕け散る。
ライフルだ!
「走れっ!!!」
僕らは一目散に走り出す。
あのカラスは何処かへと飛び去った。
音から聞く限りかなり古びたハンティングライフルだろう。
コッキングの間を開けることなくどんどん撃ち込んでくるその様は、NAGASHINOのNOBUNAGAを彷彿とさせる。
僕は吹き荒れるガラスの嵐から頭を守りつつ叫んだ。
「あんたも銃で応戦しろって!」
「あ!?一般市民相手に武器向けられる訳ないだろ!」
僕は思わず鼻で笑ってしまった。
「流石は公務員人情味のある判断だね尊敬するよ!!!」
僕らは狙いをうまくつけさせないため遮蔽物を使いながらジグザグに走った。
迫り来る銃声から逃げるこの感覚は、まさに”あの時”と同じだ。
今鼓動が昂っているのはきっと、走っていることだけが理由ではない。
すると視界の先へトラック2台分ほどの大きさはあるシャッターが現れる。
その隣には小さな窪み?
いや、あれは階段だ。
緩やかではあるが確かに上へと伸びている。
「あそこだ!」
腰を低くして、高さ2m横1m程度の窪みへと飛び込む。
階段を駆け上がる四つの足が、狭い空間の中で小刻みに鼓動した。
果てにあったのは、すっかり錆び付いて古臭い風貌をした藍色の鉄扉だ。
僕はすぐさまドアノブに手をかけたが、
「だめだ開かないよ!」
ノブの上には埃だらけのキーパッドが備えてあった。
多分、これが鍵だ。
僕は何度も開けようと戸をガチャガチャやったがびくともしない。
後ろからは物騒な追手が迫っている。
階段は一本道だ。
射線を切るものも隠れられる場所もない。
「おい!ちょっとどいてろ!」
セバスチャンは僕と入れ替わって、鉄扉を思いっきり蹴り付けた。
1回、2回…3回
凄まじい轟音と共に鉄扉が吹き飛ぶ。
放り出された鉄塊の真ん中には、セバスチャンの足跡が焼印のように残されている。
出た先はちょっと大きな民家のガレージだ。
とてもこの先で研究などやっているとは思えない。
いいカムフラージュだろう。
「これ開けられる?」
大きくて重たそうなシャッター。
セバスチャンは僕に言われて引き上げようと試みたが、数cm上がっただけで到底通れそうもない。
「クソっ、だめだ。」
悪態をつくと彼は周りを見廻し…何かに目をつけた。
——三脚だ。
真っ黒で、でも少し埃の被った古めかしい… 良くも悪くもアンティーク。
セバスチャンはそれを手に取りひょいと担ぐと、そのまま壁の高所に備えられた採光用の小窓へ思いっきり突き出した。
…ガラスの割れる音を聞くのは、いい加減これが最後であって欲しい。
「さあ担いでやるから、ここから出ろ!」
「あんたはどうするんだよ!」
「大丈夫だ、ほら…来いっ!!!」
言い合いをしている場合ではない。
僕は差し出された彼の両手に足を乗せ、彼はそれをぐっと持ち上げる。
一瞬ふらついた。
倒れないよう前傾姿勢で右手を壁につきバランスを取る。
左手で、窓枠に割れ残ったガラスのかけらを綺麗に全て取り除いた。
右手も窓枠へかけ、全身の力を込める。
上半身が外へ乗り出した。
真下は雑草の生えた土のようだ。
僕は背中を放るように窓から体を投げ出した。
猫のように体を丸め、背中から着地する。
体の中心を走る丈夫な骨が衝撃を柔らかに吸収していく。
僕は立ち上がって辺りを確認した。
——人影はない。
…。
「ちょっと!早く!」
何をもたもたしているのか。
僕が呼びかけても、返事は返ってこなかった。
だから試しに嘘をついてみる。
「大変だ…!外にも追手がいるよ!」
すると窓枠に8本、指がニョキッと現れる。
じんわりとそれに筋が張ると、ゆっくり彼の上体が上がってきた。
!?
突如耳を劈くようなライフルの発砲音が炸裂した。
コンクリの壁を砕く衝撃がそれに続く。
セバスチャンはその音に驚いて窓枠から前のめりに落下した。
危ない!と思ったが、彼はすかさず受け身を取って地面を転げる。
「撃たれてない?平気?」
「みたいだな、さあ走るぞ!」
多分ライフルを持ったままこの窓を抜けるのは不可能だろう。
ガレージを開ける術がないとすれば、一先ず振り切ったと考えて良さそうだ。
とはいえ今の音を聞きつけて別の村人が向かってくるかもしれない。
道路脇の表札には”Rue de la Perrière”とあった。
茶色いツタの絡みついた家屋の脇を素早く抜けていく。
左側には小さな教会。
そして見慣れた道路。
県道981号線だ。
右手奥から、一台無人タクシーが走ってくる。
「あれに乗るぞ!」
セバスチャンは手をあげてそれを呼び寄せる。
「だめだ…あれじゃ…!」
僕の声などモノともせず、タクシーはスムーズな横付けをしてみせる。
ヌルッと扉が開いた。
「だめだ、これには乗れない!」
「乗れない?ふん、意外だよあいつらとの方が波長(ノリ)が合うってか?だったらお前はせいぜいここで奴らと素敵な一夜を満喫するんだな。」
「そういう意味で…」
「つべこべ言うな!ここで異論は無しだ!」
僕は突き飛ばされた。
彼も続いて乗り込んでくる。
「行き先を指定してください。」
電子音に言われ、渋々僕は少し南の座標を入力した。
よく調べたわけではないが、めちゃくちゃな場所には連れて行かれないだろう。
「保安上の理由により、お客様の生体情報並びに赤外線写真を取得させて頂きます。」
>カチャッ
「シートベルトをお締めください。発車致します。」
そしてタクシーは丁寧に、ゆったりと加速を始めた。
リュジーの町並みが静かに後ろへとぐんぐん流れていく。
それに応じるように、身体を巡っていたアドレナリンもじんわり引いていくのを感じた。
ふぅ、ここでホッと一息。

…いや。

多分そうはならないだろう。
この数日間(記憶が飛んでいて何日経ったのかはわからない)で、確かに何かが綻んだのだ。
でも今は先のことを考える余裕なんてない。

ただ運命に、身を任せるだけだ。
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