10-3 黄昏時の宙(後)

文字数 5,977文字

——クリスと初めて出会ったのは僕が10歳の時。日本の、羽田空港だった。

当時僕はマイアミのラボを脱出し、ギブスらと逃げるように研究データを持って日本へやってきていた。
2160年8月。
その日はとても天気が良くて、茹だるように暑かった。

「お母さんを待ってるの?」

突然耳へ飛び込んできた優しい声に、僕はちょっとびっくりして後ろを振り向いた。
その時は緊張でとっさに言葉が出てこなくて、僕は黙って首を横に振った。

「…良かった。英語が通じる人で。」

そう言うと彼女はニコッと笑う。
僕より少し背が高くて、焦げ茶色の綺麗な長い髪が印象的な女性だった。

「これ、どうぞ。」

彼女は僕に水の入ったペットボトルを差し出した。

「こういう日はちゃんと水分取らないと、体がくたくたになっちゃうからね。」

そして、彼女は再び笑った。


2166年10月14日。
僕は通気用の格子を持ち上げた。
前後に人がいないことを確認して、通路へと出る。
とりあえず博士の研究室へ向かおう。
そう思い角を曲がった時だった。
突然誰かに僕の首元を掴まれた。
その勢いのまま壁に押しつけられる。
「なぜお前がここにいる!」
驚きながらも顔を見た。
フィクサーだ。
「なんだよ、痛いよ!」
「お前はガレージに戻ったはずだろ!どうしてここにいるのかって聞いてるんだ!」
僕は必死に訴えた。
「2人が無事に着いたのか気になっただけだよ!」
「言ってたことと違う!」
「こっちだってあんな現場見せられたら動揺するに決まってるよ!何も説明なんてしてくれなかったくせに!」
「お前が俺たちをメイテックに売ったんだろ!じゃなかったら、奴らはどうしてあのダクトの前で俺たちを待ってた!」
段々僕は泣きそうになってきた。
「そんなの知らないよ!第一僕が通報したとして、君たちと別れてからの時間でメイテックをそこに待機させるなんて現実的じゃないでしょ!何でそんな見え透いたこと聞くのさ!」
半分震えた声で叫ぶと、途端彼は弱々しくなって僕の首を離した。

「…悪かった。俺は最低なことを言った。」

彼の声も、少し震えている。
「…もういいよ。その代わりちゃんと、話して。」
彼は力ない目で僕を見た。
「本当に、何も知らないのか?」
「うん。」
「…そうか。」
そう言うと、彼は軽く左右を確認してから…徐に話し始めた。
「E棟の第7層がメインコンピュータールームってことは…お前も知ってるよな。」
ネメシスは計5つの建造物から成り、中央に小さなE棟、そしてそれを巨大なA~D棟が取り囲むような構造をしている。
ネメシスの制御や砲塔そのもの、御三家の思考を司るコンピューターといった重要な設備は全てE棟に集約されていて、有事の際外部から攻撃されても周りの建物がこれを保護してくれるように設計されているのだ。
E棟第7層のメインコンピュータールーム(MCR)は、主に御三家の思考を司るCPUが稼働している場所。
まさにネメシスの心臓部と言える。
もしMCRで何かの異常が起きていたとしたら、それは確かにネメシスにとって一大事だ。
「MCRに、何かあったの?」
彼は一拍置いて、それに答えた。
「MCRに、クリスが出入りしていたという話がある。」
「えぇっ!?」
ネメシスのクルーがMCRへ出入りすることはまずない。
MCRには高度なセキュリティが敷かれているし、仮に中に入れたとしても僕たちにはどうせ”わからない”のだ。
出入りする者といえばここのCPUをメンテナンスするために”アーサー”が作った特殊なメイテック達くらいで、そこは僕らにとってまだまだ謎の多いネメシスの暗部なのである。

これでようやくさっきの騒ぎに合点がいった。

MCRへの侵入で想起されること…。
それは例えばウイルスの流入、物理的な破壊…。
あのコードイエローは、クリスによる破壊行為への警告だった…?
だが彼女はコードイエローの真意を調べるためだと言っていた。
きっと前後関係が曖昧なのだ。
いずれにせよ、このネメシスを危機に陥れた疑いが、他でもないクリスにかけられている。
状況の深刻さを、僕は今更になって理解した。
クリスは僕にとって大切な友達だ。

彼女がそんなことするはずない。

僕は確信をもって言えた。
何かできることをやらなくちゃ。
いてもたってもいられなかった。

僕とフィクサーは、その日からクリスの無実を嘆願するための署名活動を始めた。
実際ネメシスという場所において、名前など大した価値はない。
でも御三家のAIは、"人類による民主主義"という概念をベースに構築されている。
…下手なやり方よりも効果が見込めるかもしれない。
勿論現時点ではまだ取り調べの段階だろう。
だが鉄は熱いうちに打てと言う。
僕らはネメシス中を走り回った。
1日…
5日…
そして1週間経っても、望むような成果は全く出なかった。

言うまでも無く、ずっと同じ場所から動いてこなかった僕にまともな人脈なんて無くて、そんな僕の言葉に耳を傾けてくれる人などいなかった。
ましてや、「何故彼女を庇うのか」と怒り狂ったクルー達から襲われかけたこともあった。
中には心の優しい人も何人かいたけれど、皆「こんな危ないことはやめておきなさい」と小さな声で呟きながら立ち去っていくだけだった。

——クリスが取調に連行されてから8日後。
僕らは藁にもすがる思いでカタギリ博士のもとを尋ねた。
クリスがずっと助手を務めていた人だ。
博士は、僕らがやっていることを既に知っていた。
そして僕らが全てを説明し終える前に、
「悪いが、協力はできない。」
「…何故です!」
断った博士に対してフィクサーが食ってかかる。
「彼女がそんな人物でないことは、博士が一番よくご存じでしょう!」
「ああ、私だって彼女のことは信じたい。だが…」
「だったら何故!」

証拠があるからだ!

博士が怒鳴った。
そして少し後悔した様な表情を浮かべた後、また穏やかな口調に戻った。
「いいか。クリスはあの部屋(MCR)から出てくるところを、写真に撮られているんだ。E棟で彼女を見たと言う目撃証言だってある。彼女の仕事は私の補佐だ。E棟に用事なんてない。命じたこともない。明らかに彼女の行動は不可解なんだよ。」
「写真なんて、いくらでも偽造できるだろ!」
「確かに、ネメシス内での撮影行為は固く禁じられている。故にそれが偽造されたものなのかどうかは、今同時並行できっと調べているだろう。…彼女はもう8日も会議室に篭りっぱなしだ。じきに答えは出る。」
僕もフィクサーも、黙るしかなかった。
「君たちも、そんな無駄なことはもうやめなさい。出てきた証拠が有効であれば彼女は有罪、無効であれば無罪。それだけのことだ。君らがいくら名前を集めたって、確かな根拠から導かれた結論がひっくり返ることはない。ただ自分の身を危険に晒すだけだと、いい加減気づくんだ。」

結局、僕らはうなだれるように博士の部屋を出た。
博士が言っていることは、まさしく正論だ。
じゃあ僕らは、何もしないでただ待っていろということなのか。
「あの男…自分がテロリストだと疑われるのが嫌だからって…」
「フィクサー。乱暴な言い方はダメだよ、僕らだって今疑われてるんだから…。」
「じゃあ俺たちは…!」
そうフィクサーが言いかけたその時だった。

「おいエレン!フィクサー!」

A棟の廊下で突如響いた僕らの名前に、驚きながら後ろを振り返る。
そこには3人の男女がいた。
僕たちの方へ駆け寄ってくる。
「おいおいずっと探してたんだぞ2人のことを。」
「…マックス!何年ぶりだろう。久しぶり!」
「私たちもいま〜す。」
「メイル…それにスーも!」 
A棟分析官のマックス、D棟整備士のスー、そしてE棟機関士のメイル。
彼彼女は、ネメシス建造の段階から共に頑張ってきた古い仲間達だ。
ただ僕たちの役割や持ち場はそれぞれ大きく異なり、宙に上がって以降もう全くと言っていいほど顔を合わせていなかった。
「なんでお前達が俺らを探してたんだよ。」
「名前、書きにきたんだよ!」
「そうそう、名前をな。」
「えっ!?
「クリスの…か。」
僕らの反応に対して、マックスが返す。
「…クリスのことは俺も残念だ。だが俺たちもエレンやフィクサーと同じように、彼女のことを信じたい。…お前らも、行動してくれて、ありがとな。」
スーが続く。
「お姉ちゃんには、手袋の時のお礼もしたいしね!」
「手袋…。」
ここにいる僕たちは全員、義手だ。
皆片腕の肘から先が、光沢のある生々しい合成金属でできている。
クリスは、そんな僕たちが常に周りの視線を気にしていることを誰よりも早く見抜いた。
そして、覆い被せることにより生身の腕とまるで見分けがつかなくなる義手用のカバーを作ってくれたのだ。
その時クリスは僕やフィクサーだけでなく、ネメシスの中で同じ悩みを抱える人々にもその手袋を配った。

『私の両腕をモデルにしてるから、男の子からしたらちょっと物足りないかもしれないけど許してね?』

そう言って笑う彼女の顔が、僕の脳裏に浮かんだ。
「俺たちの他にも、A棟の技術者の何人かが署名に協力してくれるそうだ。後でB28を訪ねるよう彼らに伝えておく。」
そう言いながらマックスは署名済みの書類を僕に手渡した。
「そんなの…」
「ありがとうみんな。恩に着るよ。」
「もしいつか事が落ち着いたら、クリスも混ぜて皆でうまい物でも食おう。勿論、地上でな。」
「それ賛成!」
「だろ?」
一通り話し終えると、彼らは両手を振りながら去っていった。
久しぶりの、平和な時間だった。
そしてコードイエローが出て以降、どれだけその事実が僕にとって心理的負担だったかを思い知らされる。
でも、いつかきっと訪れる素敵な時間のために、今は頑張らなければならない。
「どれだけ名前を集めたって、どうせ無駄なんだろ…。」
「それでも、やれるだけやってみなきゃ。…ね?」
その日以降僕のB棟28番ガレージには、署名活動に協力してくれるクルーが名前を書きにチラホラ訪れるようになった。
これは僕らの人望ではない。クリスの人望だ。
勿論、集まっている数はまだ少ない。
だがクリスが取調室から出てくる前に、可能な限り数を集めなくてはならなかった…。


——それから3日後の2166年10月25日。
クリスが連行されてから、11日後のこと。
僕は28番ガレージでフィクサーと話をしていた。
少しずつ、名前が集まってきている。
もう一度カタギリ博士の部屋を訪ねようか。
そんなことを相談していた時だった。
突然、ガレージの扉が開いた。
外の廊下が、やけに騒がしい。
原因はすぐに分かった。

入ってきたのは、メイテックだったのだ。

視界に捉えたフィクサーが突っかかる。
「おい、お前らがここに何の用だってんだよ。」
「フィクサーさん。どうもこんにちは。いや、おはようございます、でしたね。おはよう…」
「どっちだっていい!」
苛立ちからかフィクサーが声を荒げる。
「フィクサー、落ち着いて。…あなた方がわざわざここまでいらっしゃるとは、しかも3機も。何か私にご入用でしょうか。」
僕の言葉で、メイテックのモニターが ^_^ に変わる。
これには見覚えがある。

…あの時と同じだ。

「エレン・トールさん、フィクサー・ボルトさん。我々と共に会議室までご同行下さい。」
「おいお前らいい加減に…」

そう言って憤慨したフィクサーがメイテックの間を抜けようとした時、メイテックが彼の道を塞いだ。

「なんだよ。」

「これは、『お願い』ではなく、『命令』です。私たちにはあなた方に、レベル2までの身体的苦痛を加える権利が与えられています。」

直後、3機の両手のカバーが同時に開き、中から丸くて黒い電極が露出する。

…スタンガンだ。

彼らは本気らしい。

一体どうなっているのだろう。
彼らにこんなことをされる言われはない。
だが、言い争っている場合ではなさそうだ。
ここでできる選択はただ2つ。
自分の足でついていくか、彼らに引きずられていくか。
それだけだ。
「ふざけやがって…。」
「…行くしかないよ。」
「お前ら、もしクリスにそんなことしたら…!」

「それでは、参りましょう。」

フィクサーの言葉は、まるで届いていない。
本当に、為す術はないようだ。
僕らは3機のメイテックに囲まれながら、ガレージを後にした。

B棟からE棟の防音室へ連れて行かれるまでの間、僕らはひどいヤジを浴びせられた。
恐らく僕たちは、クリスと同様の疑いをかけられている。
ネメシスを危機に陥れるという目的を持ったテロリストの一味だったのではないかと、ついに捜査の手が伸びてきたのだ。
もしそれが事実だとしたら、署名に協力してくれた他の仲間達に申し訳がたたない。
僕らの短絡的な行動で、全く今回と関係のない彼らにまで疑いの目が向けられてしまう…。
罪悪感と後悔で、胸が押し潰されそうだった。
誘導された部屋に辿り着くと、2機のメイテックはその場を立ち去った。
——重々しい、灰色の空間。
背後のドアの鍵がガチッと閉まる音がすると、メイテックは徐に喋り始めた。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。このような手荒いやり方になってしまった事、お詫び致します。」
頭を下げたことで首のジョイントがシーシー音を立てる。
「クリスはどうしてる。少しでも彼女の身に何かあったら…」
「クリス様の健康状態に問題はありません。我々がクリス様に対して与えられている権限は、お話を伺う事のみです。」
「あの…僕たちは、何もしていません。この場所が危険に晒されているなんて、そもそも何の実感すら湧いていないんです!だから…」

「その件につきまして、お二人に重要なお話がございます。」

メイテックは、僕の言葉を遮って、そのまま続けた。

「お二人へこれからお伝えすることは、Lクラスの機密情報です。もし情報が管理者以外へ流出した場合、お二人の身に危険が及ぶ可能性があります。また、この会話が終了した時点で、本機から今回のやり取りにまつわるデータは全て消去され…」
「…いやちょっと待って下さい。」
我慢できず僕は口を挟んだ。
「何故最高レベルの機密情報を僕たちみたいな一技術者に漏らすんですか?そんな重要な情報と僕たちに一体何の関係が?」
恐ろしくて鳥肌が立った。
この状況も事の深刻さを物語っている。
僕たちは連れられてくる際、脅されているのだ。
一体僕たちはここで何をされるのか。
このままテロリストの一味として、ネメシス存続の生贄に捧げられてしまうのだろうか。
それとも…。

お二方にしか、お頼みできないことなのです。

もしかしたら、僕はこの命をかけなければならないかもしれない。
いや、それ以上に、僕は知りたくもなかったことを、耳にしなければならないかもしれない。

この時僕は本能的に察知した。
その”頼み”が何であれ、きっとそれは僕たちの日常の一切を大きく変えてしまうということを。

——もう既に、平和の崩壊は始まっているのだ。
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