19-7 宵の迷宮を進め
文字数 15,979文字
——今だ走れ!!
耳元で低い男の声が鳴る。
僕は通路の角から思いっきり飛び出した。
可能なだけ出口から遠く、より深くを目指して。
——皆のためにも…全てを終わらせろっ!
こんな時にプレッシャーをかけるなんて。
普段ならそんな小言を口にしていただろうが、今はそんな余裕もない。
新たな障害が現れる前に、最後の希望が絶たれてしまう前に、僕たちの罪が…歴史へ刻まれてしまう前に。
僕は左手でEMP爆弾を握りなおす。
ここは他でもない、ネメシスの心臓。
今この手で、僕は人類の新たな「歴史」を…無様にぶち壊してやるのだ。
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「ありえないっ!」
僕の叫び声がB28に響いた。
「…エレン?」
マックスは怪訝な表情を浮かべる。
「僕のハルが、クーデターに利用されたなんて…そんなこと絶対にっ!」
「君の…?一体どういう…」
静かにフィクサーが踵を返す。
「待って…違うんだフィクサー!」
「黙れっ!」
振り向かず張り上げられた声が、真っ白な壁を返して僕へと突き刺さる。
「僕は…」
「ああわかってる!何だってこの世界の為だもんなお前はそういう人間だ!」
「フィクサー…」
「だがこれだけは覚えておけ。」
彼は振り返り僕の目をじっと見た。
その目力の奥に透ける、どこまでも静かな訴えを湛えて。
「他でもないお前の偽善が、彼女を殺したんだ。」
俯いたまま、彼はB28を静かに去っていく。
一連のやりとりを、マックスはただ呆然と見つめている。
無理もない。
僕がネメシスの防衛圏拡大プロジェクトに、メインエンジニアとして参画していたことを知っているのはフィクサーとクリス、博士…そしてギブスだけなのだから。
ハイデルベルクの研究所…そこはまさに、ハルの生まれ故郷だ。
つまりマックスの言葉は、僕の御三家へ提案した計画…電磁技術による瞬間防衛圏拡大プロジェクトが、ギブスによるクーデターの布石として利用されたことを示唆している。
フィクサーからすれば、それは僕がクリスを殺したも同義なのかもしれない。
でも一方で、僕がどれだけクリスを大切に思っていたか彼はよく知っている。
だからあの目は恨みでも、憎しみでもない。
むしろ哀れみに近いような、微かな粘り気を持った感情を湛えていた。
その穏やかさが、一層僕を焦らせた。
「エレン、もしや君は…」
「僕はテロリストなんかじゃない!!僕はただ…」
「エレン。」
「違う!クリスのことだって、この世界のことだって、僕は…僕は…!」
「エレン!そうじゃない、一旦落ち着けっ!」
僕の行動がクリスを死に追いやった。
…絶対にありえない。
ありえてはいけない。
そして彼らから向けられた疑念に、僕の精神は重力を失っていた。
両肩を彼にぎゅっと押さえられる。
マックスは僕へ目線を合わせた。
ターコイズブルーの眼だ。
それは瞬く間に、頭の中へ湧き出ていたギブスの表情、クリスの死に様、ネメシスでの生活…その全てを吸い込んでいった。
——彼は敵ではない。
昂った心が静まっていく。
「エレン、俺はてっきり武装をギブスが直接仕込んだのだとばかり思っていた。でもそうではなかったんだな。君が全ての始まりで、整備したのも君だ。分析官の俺が知らないということは水面下で…つまりギブスと君だけの間で進められていた。…フィクサーは協力者だった?」
「…違う。僕の関与を知っているだけ。」
「協力者はいない?」
「あぁ。」
「…なら俺たちには時間が残されているかもしれないな。」
「…時間?」
何を言っているのかわからなかった。
「ギブスがネメシスに到着したのは、ほんの4時間前だ。何故わざわざ本人がここに来たのか疑問だったが…武装の最終確認だとすれば頷ける。君がクーデターに関わっていないのなら、念のため自分の目で一通り確認したいと考えるのが普通だろう。そして仮に到着後すぐ、君が仕込んだ武装の確認を始めたとしても、全てを見終えるにはもうしばらくかかるに違いない。」
「ちょちょ…ちょっと待って。」
「…なんだ。」
「マックスは…一体さっきから何を言ってるの?ギブスがクーデターの犯人だってことも、いや…もしかしたらそうなのかもしれないけど、もし本当にそうだったとして、僕たちに一体何ができる?今更地球に逃げたって意味ないし、彼を止めることだってシークレットサービスがいる限り無理なんだよ?だったらもう、クリスのことを最後まで思わせてよ。この慣れ親しんだ場所で、穏やかに…僕を1人にさせてよ。頼むよ…。」
「俺はネメシスを… 無力化しようと思ってる。」
突然彼が口にした言葉に、僕は一瞬自分の耳を疑った。
正直今更インプットされる情報になど興味がなさすぎた。
故の聞き間違いだと僕は思った。
「俺はネメシスを止めるつもりだ。」
…聞き間違いではなかった。
僕は目がまさに点になる。
“俺は神になるつもりだ。”
突然そう言われたような気持ちになった。
彼がすごくイタい人に見えて、僕は2,3歩無意識に後退りする。
「…ふざけるな。」
「…。」
「もう出てけよ!」
「もしクリスだったら、どうするだろうな。エレン。」
彼は落ち着き払った声で、そう言った。
クリス…。
もし彼女が生きていたら。
もし、ネメシスが堕天すると知ったら。
コードイエローが出たあの時、彼女は誰よりも真っ先に行動した。
『まさか行く気じゃないよな?』
『…大丈夫。』
あんな顛末になることすら、きっと覚悟の上だったのかもしれない。
メインクルーでもなく、単なる助手でしかない彼女に…僕らは押し付けてしまった。
——それはネメシスをこの世に産み落としたという責任。
決して目を逸らしてはいけない…罪。
もう、彼女はいない。
僕たちの目の前で、無惨にもころされた。
あまりにも…あまりにも…僕には耐えきれない事実だ。
——死にたい。
そう思っていた。
自分の生きる理由が、何もかも崩れ去ったような気がした。
「僕は何の為に生きるか」
人造人間であると明かされた瞬間生じた問いは、皮肉にもクリスの死によって明かされた。
それはクリスと…ギブスの存在。
彼女達は僕にとって平和の象徴で、2人が元気に笑っていてくれることが…そんな日常を守ることが、僕にとって全てだったのだと思う。
人造人間がどうとか、目的のために作られたとか、そんなことは関係ない。
僕は自分の知らないうちに、ちゃんと自ら生きる理由を手にしていたんだ。
だから…。
だからこそ今の僕には…生きる理由がない。
ずっと無意識に縋って生きてきた、そんな理由が。
だから終わろうとした。
ここで終えてしまって、いいとさえ思った。
でも彼女が今の僕を見たら、一体なんて言うだろう。
『あなたの”正しさ”は、決して独りよがりなものではない。自分ではない他の人たちのために、あなたは自分の時間を使うことができる。私もフィクサーも、それをよく知っているわ。』
本当にそれでいいのか?
僕はB28を見回す。
ハルは物静かに、僕の決断を見守っていた。
僕らの会話を耳にした今、彼はどんな風に思っているのだろう。
…ごめんねハル。
でも僕は、君たちを悪者になんてしたくない。
そうだ。
もしまだ何か手が残っているのなら。
…決着をつけよう。
この罪が…宙で完結しているうちに。
世界に希望を植えつけた責任を、果たさなければならない。
「本当に…実現可能なの。」
「君が手を貸してくれるなら。」
「…どういう意味?」
「俺は…とても運が良かったのさ。武装強化の真相と、電磁技術の叡智。探していた二つを同時に実現してしまう人間が、すぐ近くにいたんだからね。」
「……。」
「その気になってくれたのなら、俺についてきて欲しい。紹介したい男がいるんだ。」
あの事件以降、ネメシスの中は閑散としていた。
きっと僕のように自分の居場所へ引きこもって出てこないか、または地上行きのドローンに押しかけたかのせいぜいどちらかだろう。
僕はマックスに連れられ、A棟の研究室へと向かった。
同じ船の中でもAまで来ることは殆ど無い。
一体僕はどんな男に会わされるのだろう。
右も左もわからずまごまごしながら、僕は歩いて行った。
「…ここだ。」
暗証コードを入力し(僕のB28とは大違いだ)、彼は扉を開ける。
「よおマックス、”相棒”は見つかったか?」
下から声がする。
マックスは鼻で笑った。
「…そう願いたいがな。エレン、紹介しよう。」
声の主は、床にあぐらをかいて座っていた。
丸刈りで色黒なその表情に笑みが浮かぶ度、眩しいほど真っ白な歯が煌めく。
「彼はルキィ。俺と同じく分析官…いや、今の文脈では”地図オタク”と紹介するべきかもな。」
ルキィと呼ばれた男が、すっと立ち上がる。
「彼はエレン。この前話した、クリスの署名の子だ。」
その名を耳にして、再び心臓が震えた。
「あぁ…。いい噂は沢山聞いてるよ。俺はルキィ、空間情報を主に扱う分析官だ。よろしく。」
差し伸ばされた手を、僕は弱々しい力で握り返す。
その力加減を見て、ルキィは眉を顰めた。
「…無理もないね。ただ少し長話になりそうだ。会話はできそうかい?」
僕は黙って頷いた。
「…ありがとう。マックス、彼にどれくらい説明を?」
「まあ”ネメシスを止める”…くらいだな。」
「ひどいな、そんなんでここへ連れてきたのか?」
「時間がないと言ったのはお前の方だぞ。それにエレンは…」
「僕は電磁化学が専門の技術者、そして君たちの言う”武装強化”に…手を貸した張本人。」
自分の意思でここに来たわけではないように思われるのが嫌で、僕は口を開く。
僕の言葉を聞いて、マックスは軽く頷き纏めた。
「…そんなところだ。」
ふーむ、と腕を組みながらルキィは目を細めた。
「なるほど…ある程度彼の事情を知った上で連れてきたわけか。つまり”手を貸して”いるもののそれは問題にならないような背景がある…と。」
「そうだ。」
マックスの返事に、ルキィの表情が引き締まった。
「わかった。であれば、君に僕らが考えている計画の概略を説明しよう。…はっきり言って、これは相当な覚悟がなければとても遂行できないものだ。今の自分に無理だと思ったら、素直に断ってくれて構わない。今の君に、この話を他言するゆとりもないだろうからね。」
もしゆとりがあったら、どうなったのだろう。
頭の片隅でそんな雑念が揺らめく中、僕は言葉の続きを待つ。
「まあ”計画”と言ってもそんな複雑なことじゃない。さっきマックスが言いかけたが、俺は昔から地図を作るのが趣味でね。技術者なら少しはわかってくれるんじゃないかな、設計図を作るのは楽しいだろう?」
僕も設計図は大好きだ。でも味覚が消え失せた今の僕に”楽しさ”という感情は表現できない。
「それで俺はこのミステリアスな場所にやってきて以来、ずっとあることにコツコツ没頭してきたのさ。そう…ネメシスの”地図”を作ることにね。」
「…地図?」
「これを見てくれ。」
そう言うとルキィは円卓にあるホログラムを投影してみせた。
5つの建造物に、大きな砲塔。
ネメシスだ。
すると彼は指でそれを回して、少し引っ張る。
映像が大きくなり、今度は内部構造が繊細な光によって映し出された。
「ここに…見覚えはないかい?」
僕はある一部屋の見取り図を見せられた。
横長の大きな物体が部屋にいくつか横たわっているように見える。
梯子が透けて見えるあたり下部構造も…
「…B28?」
「ご名答。」
僕は呆気にとられた。
「一体どうやって…?忍び込んだの…?」
「いいや。音の反響、熱の電動、放射線の到達率…そういった複合的な要因を駆使して空間分析を行なった結果がこの地図なのさ。とはいえ正確性には難ありだから、もちろん自分の目で見られる部分は目視しにいく。でもそうじゃない場所だって、ある程度調べる手立てはあるということなんだ。」
「…つまり、ルキィには…このネメシスの”心臓”がどこにあるかわかるってこと?」
僕は事の核心に迫った。
“心臓”とは、その名の通りネメシスの命を司る中軸CPUのことを指す。
もしこの船を殺すなら、これを討つのが一番わかりやすいだろう。
そしてそんなベールに包まれた獲物の在り処を見つけ出す術を持っている。
彼が言いたいのは、きっとそういうことだ。
「君も知っているだろうけど、この場所の”心臓”…それはMCRの中にあると言われている。あのテニスコート推定120面分のどこかにある心臓を、何の下準備なしに見つけ出すというのは現実的ではないだろう。でももし地図があれば…その在処を示した設計図があれば…ネメシスの停止も現実味が帯びてくる。」
…ネメシスの物理的な破壊。
それはクリスが捕縛される原因になった疑いの一つ。
まさかそれを追うことになろうとは…。
そんな風に思っていたら、彼は想定外の言葉を放った。
「だが結論から言って、俺はMCRの地図を作ることができなかった。」
「…え?」
「当然のことだが、あそこは他の棟と比べて監視が厚い。俺もどうにか色々探ろうと攻めた手に出ようとしていた矢先、クリスが捕まった。あと一歩踏み出していたら、俺もあっち側にいたかもしれないな。」
「………。」
「とにかく、”心臓”に関する正確な情報は現時点で一切ない。じゃあ何も手がかりがないのかと聞かれたら…そういうわけでもない。このネメシスの構造を調べ尽くしてきた中で、俺は気づいたんだ。この場所の、設計上の…癖をね。」
「癖…。」
「このネメシスは、どうやら1人の技術者が全てを設計したようなんだ。インフラ設備の動線、管理区域の分散方法、非常時における危機管理意識などあらゆる面で共通した方向性をあちこちから読み取ることができる。もし…この方法論にMCRも則っているとすれば、俺たちは隠れた”心臓”の在処を推察によって導き出せるかもしれない。」
“七賢生”の話を僕は思い出す。
ネメシスの設計者が僕と同じ七賢生の1人であるなら、これは十分にあり得る話だ。
「それにもう一つ、MCRへの侵入が成功するかもしれないと考える根拠が俺たちにはある。…クリスだ。」
「………。」
「彼女はMCRから出てくるところを写真に撮られて問題になった。でもこれは裏を返せば、彼女は捕まることなく目的を達成し、あの場から脱出することができたということになる。一体どのようにしてそんなことができたのかはわからないが…でも何かしら方法はあるという大きな証拠なんじゃないかな。」
僕はしばらく考え込んでから、言葉を返す。
「言いたいことは…なんとなくわかったよ。ただでさえ計画の実現性は低い。でももし仮にあそこへ侵入できたとして…その”心臓”を捉えたとして、それから一体どうするつもり?爆薬はおろか拳銃すら持ち込めないのに…それともどうにか基盤を取り出して、スパナかレンチで頑張ってぱんぱん叩くの?無理だよ。そんなの。」
「おぉっ…と。」
こわばったルキィの表情を見て、僕は我に帰る。
「…ごめん。その…方法が、具体的なやり方を知りたいんだ。じゃないと、わからないよ。」
これに対しマックスが返した。
「俺がエレンを訪ねたのは、その方法に関係があるんだ。君は電磁化学が専門だろう?」
「…。」
元から知っていたような口ぶりに、僕は目を細める。
「まあ…分析官だから、と言っても納得はしてもらえないだろうな。正直初めは単なる整備士だと思ってた。レールシステムの整備担当で、開発は別なのだろうとね。だがマイアミの国設研究室に…君によく似た少年の記録が残っていた。それだけじゃないぞ。他にも金や物、情報の流れが…君の技術者としてのただならぬ力量を証明している。…そしてその大きな成果の一つが、EMP爆弾だ。」
ルキィが続ける。
「君はここのターミナルAIに対して、防衛用のEMP手榴弾開発を提案しているね。」
「……。」
「そして却下された。推測するに管理上の理由からだろう。誤作動を起こせば敵機は愚かネメシスの回路まで焼き切ってしまうからだ。裏を返せば…言いたいことはもうわかるね?」
僕は食ってかかる。
「でも結局開発には至らなかったんだ。そんな物ここにはないよ。」
「いいや、提案するにあたって技術者なら必ず試作品を用意しているはずだ。机上の空論を審議するほどAI達も暇じゃない。そしてエレン、君の好奇心旺盛な性格から考えて…それはまだB28のどこかに眠っている。一体どこにあるのか…それも、」
「大体検討はついているんだね。じゃあ…もう時間を無駄にするのはやめよう。」
ルキィが頷いた。
「助かる。」
「でも言ったことは半分本当なんだ。今僕が持っているのは、御三家の指示でEMPとしての機能が無力化されたいわば残骸でしかない。即発的に高圧の電磁波を発生させるには膨大なエネルギーとそれを圧縮する技術が必要になる。とてもこんな小さい方舟の中でできるようなことじゃないんだよ。」
「あぁ。具体的な開発方法に関しては、話し合う必要があるな。でも今はまず、君にわかってもらわなければならないことがある。いや、わかった上でそう言ってくれているのかもしれないが…念のため、確認だ。」
「…?」
「知っての通り俺たちがやろうとしていることは、MCRの物理的な破壊だ。あそこが制御しているのは兵器管制系だけじゃない。クルーが生きるために必要な生命維持装置だって全て、あの部屋に繋がっている。今回のテロ事件に関わっているクルーは、ここにいる中でもほんのひと握りだろう。それでも…俺たちの計画が成功すればここの人間は否応なく、——全員死ぬ。」
「…皮算用だよ。」
「だとしてもさ。たとえ自分を死なせる覚悟はあっても、仲間を死なせる覚悟を持つことが君にできるかどうか…これはそういう話なんだ。」
ネメシスは、僕の大切な”居場所”。
周りの目を気にすることなく、僕らしくいられるきっと唯一の場所。
…だった。
かつて抱いていた”夢”が、いかに浅ましかったか。
今の僕にはよくわかる。
仮にこの場所が、僕…いや、クルー全員の棺になろうとも構わない。
きっと、今僕はとても恐ろしいことを言っているのだと思う。
でもそれ以上に、僕と…この場所が存在し続けているという事実こそ僕には怖かった。
僕だけが死んでも意味がない。
生み出した責任を、この親が果たすのだ。
「やれる。いや…やるさ。」
「決まりだね。」
ルキィは再び僕の方へ右手を差し出した。
「君のいう通り時間は限られている。早速計画を練ろう。」
それから僕たちは、実際に実行するにあたっての具体的な検討を始めた。
まず初めに煩雑な情報群を「既にわかっていること(これ以上新たな情報を得る余地がないこと)」・「これから調査・検討して明らかにすること」・「どうにも知りようがないこと」の三つに分類する。
いうまでもないことではあったけれど、「既にわかっていること」に関しては殆ど見つからなかった。強いていうなら「内部警備をすり抜ける方法が存在すること」、「EMPの起動はネメシスになんらかの不都合な影響を及ぼすこと」くらいだろうか。
「どうにも知りようがないこと」は、「MCRの内部構造」や「警備体制」などが該当した。内部構造に関しては、”癖”から推測した換気口の大まかな配置程度の情報しか得ることができていないらしい。勿論排熱という概念は位置把握に重要な手掛かりになるが、決定的な判断は当日中へ入ってからということになる。
他にも深刻な不明点はいくつかあったのだが、ここで僕たちがまず考えなくてはならなかったのは「これから調査・検討して明らかにすること」の筆頭。
「EMP爆弾をどう用意するか…か。」
マックスが下を向いて呟く。
「例の爆弾は、どのように動作してパルスを引き起こすんだい?」
今度はルキィが尋ねた。
「専門的な話は省くよ。あのEMP爆弾は、大まかに二種類の物質を放出する仕組みになっている。一つは放射線、もう一つはミラリアントだ。爆弾が起動すると、半径5m圏内へ星形に整形したミラリアントの粉末が拡散される。そこへ同時に放射線が放たれることで、細かなミラリアントの側面で何度も反射を繰り返し…結果一帯に強力な電磁波を発生させるんだ。この爆弾の欠点は、一定密度以上のミラリアントの散布範囲内でしか電子機器をショートさせるに足りる電磁波を発生させられないこと。あとは被曝のリスクかな。」
「この船で実現が難しい技術はそのうちの?ミラ…なんとか?」
「ミラリアントに関しては試作品を用意した際の残りがある。問題は放射線を発生させること。そのためには瞬時に高電圧をかけるための膨大なエネルギーを手のひらサイズの入れ物へ圧縮しておく必要がある。でもそんな設備ここにはないんだ。」
「試作品の時はどう作ったんだい?」
「レール用のブースター装置だと偽って地上の研究所に作らせた。…ハイデルベルクのね。」
「…大胆だね。」
「あそことのやりとりは全てギブスの名義なんだ。僕の関与を知る人間は誰もいないさ。」
すると待って、とルキィが声色を変える。
「放射線が出せればいいなら、空間解析用に俺が持っている装置の部品が使えないかな?」
「放射線ならなんでもいいってわけではないよ。」
「あぁわかってるけど、試してみる価値はあるだろ。別に最悪半径5mもなくたっていいんだ。そもそもないよりはずっと、マシだからな。」
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E棟に流れる空気は、いつ訪れても酸素が薄く感じる。
でも生きた心地がしないのは、裏を返せば生きてる証拠だ。
僕らはMCRへの侵入準備を終え、ルキィの地図に記された整備用ダクトを静かに這って進んでいた。
このまま行けば、入り口のすぐそばへ出られる。
…僕たちはあれから、大急ぎで簡易的なEMP爆弾の作成を始めた。
ルキィの持っていた装置は、確かに少ないエネルギーでそれなりに有効な放射線を放つことができるものだった。
だが正規品よりも明らかに出力不足が著しいと言わざるを得ない。
おまけに試作品の外殻と形状が全く合わず、急遽器と起動装置を用意しなければならなかった。
だが悪いことばかりではない。
彼の装置の部品を転用し作り直した結果、爆弾は二つ用意することができた。
実際有効範囲はせいぜい半径2,3mあるかないかだろうが…捨て身で叩き込めばいい話だ。
——よし、ここで俺はお別れだ。
耳元でルキィの声がする。
彼は参謀役としてこのダクトに残るのだ。
小型の無線機を通して、僕とマックスは指示を受ける。
——繰り返しにはなるが、一応換気口に中継機を仕込んでいるとは言え入室した瞬間無線が切れる可能性もある。交信が途絶したら…すぐにMCRを出るんだ。命を賭けるのと、無駄にするのとでは意味が違う。頼んだよ。
——俺は君たちのことを今周波数az173でモニターしている。だが入室後は周波数が5.3秒おきに自動で切り替わるからな、くれぐれも長話には気をつけてくれ。
「ふん、気をつけるのはお前の方だろ。」
マックスが小声でツッコミを入れる。
——俺が君たちとこんな風に話せるのは、計画が成功しようと失敗しようと…これが最後になるかもしれない。本当なら熱い抱擁をしてあげたかったけど…
「ほんと、ダクトの中でよかったぜ。」
——ははっ、だよな。ほんと……あぁ。
湿り気のある彼の呼気が無線越しに伝わってくる。
——いいか…すぐ俺も君たちを追いかける。君たちと知り合えて良かった。健闘を…
「馬鹿。他人事のつもりか?別れの台詞は全部が終わってからにしろ。そう簡単に俺たちはやられねえよ。なあ?エレン。」
「え?う、うん。」
心許ない返事だったかな。
——そうか。…そうだよな。悪い!君たちの暴れっぷり、期待しながら見てるぜ。
誰だって死ぬことは怖い。
救いのない未来の前で、孤独は何よりの毒だ。
だからきっとこの無線は僕とマックスだけでなく…ルキィにとっても命綱なのだろう。
僕たちは彼を置いて、ダクトの中を引き続き進んで行く。
——予め説明しているように、MCRの内部がどうなっているかは全くわからない。入室したら、できるだけ多く情報をくれ。喋ってくれと言ってるわけじゃないよ。周りを見回してくれさえすれば、カメラ越しに俺が確認する。入室直後、君たちは身の安全を最優先に考えて行動するんだ。情報の分析から指示まで、あとは全部こっちで引き受ける。あぁ…カメラがこめかみから外れないようには気をつけてくれよな。いくら最後の勇姿だからって、自分を写そうと…
「…もう時間みたいだ。ルキィ。」
マックスの言葉で僕は耳を澄ませる。
微かだが、モーターの優しい駆動音が少しずつこちらへ近づいてきていた。
——E棟の人感センサーに反応は無かったみたいだな。…上出来だ。
「エレン…やれそうか?」
「…頑張るよ。」
マックスはダクトの格子を少しずらしてから、ゆっくりと右足を乗せた。
少しずつ心拍数が上がっていく。
たった数時間前の僕は、署名を持って再び博士の元を訪ねようとしていた。
…クリスを救う為に。
心の準備をする余裕など与えられなかった。
でも不思議と、”逃げたい”とは思わなかった。
とっくに平穏な夢など捨てたのだ。
これが自分の運命だと思えば、何故か腑に落ちてしまう。
…悲しいな。
格子の先に、僕らは一機のメイテックを捉えた。
MCRの認証装置へ向かって、”彼”は腕からケーブルを伸ばす。
…1秒
…2秒
小さな電子音と共に、その扉が開かれる。
「行くぞっ!」
彼は勢いよく格子を足で踏みつけ、そのまま下へと一気に飛び降りる。
鋼鉄の床にぶつかる黄色い音が、何もない無機質な通路で大きく響いた。
僕も彼に続いて下へ降りる。
彼はもうメイテックに一撃浴びせていた。
それは突然の不意打ちになす術ないまま体勢を崩す。
「エレン!」
僕はメイテックの腕から垂れ下がったケーブルを右手で掴みとった。
マックスはそれを見て素早く機体をホールドする。
…刹那、カメラの焦点が僕と合った。
どうにも居た堪れない気持ちになりながら、それでも僕は腕へ力を込める。
「…ごめんね。」
僕は、そのまま”彼”のケーブルを底から力強く引き抜いた。
バチバチと内部で弾ける音が数回鳴って…メイテックはどさりと倒れる。
「ルキィ!これから中に入る!」
——了解。こちらで映像を確認する。
僕たちは、ついにその中へ足を踏み入れた。
「でかいな…。」
思わずマックスが言葉を漏らす。
体育館なんてものではない。
扇状にどこまでも広がる真っ黒なその空間の中、たくさんのタワーがネオンの如く怪しげに光っていた。
それはまるで壁のように聳 え立ち、緩やかな弧を描いている。
こんな場所ネメシスのどこで見たこともない。
内装が何もかも黒く塗られているせいで、体感とても暗く感じる。
冷たい風の流れがある一方で、不思議とそこまで涼しいとは思わなかった。
——だめだ、これじゃあ暗すぎてこっちから何も見えない。暗視表示に切り替えるから少し待ってくれ。
「光学レーザーが使い物にならなかったのは…」
——このせいだろうね。いくら壁をすかしたところで全部吸われてしまう。
マックスとルキィが言葉を交わす間、僕はキョロキョロ周りを見回していた。
「やっぱり…中をレーザー光線が隙間なく走っているとかではなかったね。」
——みたいだね。そっちから何か変わったものは目視できる?
「…奥にメイテックがいる。」
…鉄網の遥か先。
それはまるで悪の手先のような、ステレオタイプのSFに悪役として出てきそうな見た目をしたメイテックだった。
そう感じたのは、彼らの外装もまた黒々としていたからだろう。
僕に続いて、カメラ越しにルキィもそれを捉えようとするが、
——くそっ、赤外線表示でもこっちからは視認できそうにない。
「そうか。」
——警備兵たちの位置関係は君達だけで整理できそうか?厳しければ今すぐこの計画は…
「大丈夫だ。俺はやれるぜ。」
「僕も大丈夫。」
——わかった。こっちからメイテックを確認することはできないが、どうやらそこは通路とタワーの温度差が相当あるみたいだ。
——部屋の構造程度なら分析精度をいじって判別できるかもしれない。
「了解。」
これは僕だ。
「ルキィ、俺もメイテックを確認した。詳しいスペックまではわからないが、恐らく特別危険な武器は所持していないだろう。」
——その根拠は?
「所々タワーの基盤が剥き出しだ。通路の間隔も狭いし、派手にどんぱちやったら共倒れだぜ。」
——君にしては心許ない推測だな。
それにマックスが鼻で笑う。
「…そうかもな。プランEchoで行こう。Echoだ。2人ともいいか?」
——Echo了解。
「囮はどっちがやる?」
「囮役は俺が引き受ける。”心臓”を頼む。」
いや囮なら僕が…と言いかけ、今更どっちを選んだとて末路は同じなのだと気づく。
正直ちょっと荷は重いけれど、僕は1人じゃない。
「…任せて。」
——ここから2人には分かれて動いてもらうぞ。各自超音波レーダーを活性化させるんだ。
「了解。」「了解。」
僕たちはお互いに目を合わせてから、狭い通路の左右へと静かに散らばっていく。
視界に映るレーダーを確認する限り、まだ僕の周囲に危険は無さそうだ。
僕は身を隠せそうな場所を探した。
そしてタワーとタワーの合間に、小さな作業用のドッグを見つける。
——2人とも、悪い知らせだ。もう気づかれたらしい。
—だろうよ。
——各棟のメイテックが陣形を崩してそっちへ移動し始めた。
—到着までの時間は?
——5分無いくらいだろうな。恐らくMCR内の奴らにも知らせが行っているはず。
「…失敗した時の逃げ道は無くなったね。」
—おいおい、念頭にあったのかよエレン。
「…まさか。」
まさか。
—ひとまず、俺が奴らに視認されるまで待っててくれ。
——いや、それだと時間が足りなくなる。
突如ルキィが口を挟んだ。
—計画と違うぞ。
——大丈夫、俺がエレンの周囲をモニターする。
「もう動いていいの?」
——あぁ、左方向へ1ブロック進むんだ。
「左へ1ブロック了解。」
——マックス、そっちはどうだ。
—不自然だな。
——どうした。
—向こうから現れる気配がない。
——メイテックか?
—あぁ。何故彼らは皆奥で固まっているのだろうか。
——“心臓”を守るためでは?
—だったらむしろ固まるべきじゃないだろ。場所を教えているようなものだ。
マックスが腑に落ちていない中、僕はゆっくり通路を進んでいく。
確かに、近くにメイテックの姿はない。
僕たちの侵入を察知しているのにも関わらず、全く動いてこないのは不思議だった。
でも今そんなことを案じている余裕はない。
少しでも奥へ、この場所の中枢へ…。
事前の予想通り監視カメラらしきものはMCR内部に取り付けられていなかった。
僕とルキィはレーダーを注視しながら、忍足で出来る限り部屋の奥を目指す。
その先に”心臓”があるのかはわからない。
だがそこにメイテックたちが群れているのであれば、可能性は十二分にあるはずだ。
—こちらマックス。
——どうした?
—ルートの簡易確認が一通り済んだ。これからメイテックと接触する。
その言葉が耳に入った瞬間から、自然と心拍数が上昇する。
——了解。じゃあそっちの映像を…
—いや、ルキィはエレンの周囲をモニターしてくれ。
——大丈夫なのか?
—問題ない。
——了解した。
「…ありがとう。」
上がった息で思うように言えなかった。
—これからスティンガーを使用する。相対音響はついてるか?
——スティンガー了解。相対音響問題無し。
—よし…いくぜ!
彼の声とほぼ同時、柔な鼓膜を内側から抉るような金属音が室内に響き始めた。
…始まったのだ。
視界の隅でセンサーの波形が波打つ。
三半規管を介し、僕の脳もぐらぐら揺れた。
1秒…
2秒…
そしてプツッと音は止まる。
——無線に乗らない周波数とは言え波形は大分物騒だな。エレン平気か?
「…大丈夫。」
間髪入れず鋭い声が耳へ飛び込む。
—何機か釣れたぞ!こっちに向かってきてる。空間図は出せそうか?
——了解。今そっちに表示する。
—確認した!見たところまだまだ釣れそうだ。…っておいマジかよ。
彼の言葉は、大きくマイクが動くようなノイズとその乱雑な足音の中に消えていく。
——どうしたマックス。
—くそっ数が多すぎる!エレン、俺はいつ捕まるかわからない!
息を切らしながら、彼は僕に叫ぶ。
—心臓を…頼む!
「…了解。」
僕も、ルキィも、詳しいことは聞かなかった。
——エレン、進もう。体調は大丈夫か?
「うん。平気。」
——よし、そのまま3ブロックだ。
「3ブロック了解。」
ルキィは続ける。
——エレン。スティンガーによる反響を解析して、ここの構造がある程度把握できた。
——君にもその地図を共有する。
「…だいぶぼやけてる。」
——反響が致命的に弱かったんだ。思ったより相当広い構造になってるな。
「これで心臓の位置がわかるかな?」
——いや。でもこの地図の中に心臓はない。
「…なぜ?」
——通路の構造と赤外線分析、換気口の配置予測を重ねて見ればわかる。
「…?」
——この辺りのタワーは、それ自体熱を持っている一方殆ど排熱をしていないんだ。
「全部ダミーってこと…?」
——そうだ。しかも見る限り通路はフラクタルな構造になっている。
フラクタル構造とは、ある図形の中に同じ図形を繰り返し描いていくような構造のことを言う。
つまりどこまで行っても似たような光景が延々と続くため、空間把握が非常に困難なのだ。
そしてこの構造にはもう一つ特徴がある。
「…中心に空間がある?」
——恐らくね。これだけ大きい部屋なら相当な広間になるはずだ。
「フラクタルなのがここだけって可能性は?」
——それはないと思う。拘りの強さこそ設計者の”癖”だ。
「その中心にはどうやっていける?」
——問題はそこだよな。だが…よし。
僕は3ブロックを進み終え、辺りを伺う。
だが嘘かと思うくらい、何の気配もしないのだ。
だったらどんどん進んでしまえばいいじゃないか。
そう思ったが、ここが迷いやすい構造になっていることを思い出し踏みとどまる。
——フラクタルな構造は全体を数学的に導き出すことができるはずなんだ。
「時間はどのくらいかかる?」
——すぐに。ただ…
「ただ何?」
——相対音響のデータが不完全だ。どれくらいの比で自己相似になっているかがわからないと…。
「どうすればわかる?」
——もう一度大きな音を出すしか。
マックスは時間稼ぎで手一杯だ。
今も無線が時々彼の雑音を拾う。
到底”もう一度”を頼める状況ではなかった。
「そんな無茶な。」
その時、視界の片隅を楕円形の黒い物体が僅かに掠めた。
「ルキィ、メイテックが見える。」
——なんだと?
「今はもう手がかりがない。行くよ。」
——ちょっと待て!危険だぞ!
僕はルキィの忠告を無視し、そのメイテックがいたはずの場所へと歩を進める。
——エレン!聞いてるか!落ち着け!
…不思議だ。
彼は、まるで僕のことを導くかのように先へ進んでいく。
幾度か角を曲がり…5ブロック、10ブロック…。
すると急ブレーキをかけたみたいにピタッと動きを止めた。
「ルキィ、突然止まった。なんでだろう。」
——ああなんでだろうな!だがさっきいた場所より空気が熱を持ってるのは確かだ。
「奥にもう一体いる。…きっとあの先だ。どうにかして進まないと!」
——エレン、一旦落ち着くんだ。エレ…
—俺に任せろ!
耳元でマックスの声が弾ける。
彼との接近警告が視界に表示された。
呼応するかの如く、次々目の前のメイテックたちも動き出す。
「今2機そっちに向かった…!」
—おうよ!
——今だ走れ!!
今度はルキィが叫ぶ。
あぁ、言われなくとも。
力強く地面を蹴り上げて、彼らのいた通路を一思いに駆け抜ける。
少しでも奥へ…マックスより遠く…!
—くそがっ!ああだめだ囲まれたっ!!
断末魔だった。
でもわかっていたことだ。
推測されるあらゆる結果から目を逸らし、僕はただ目の前へ焦点を定めようとする。
—嘘だろ。
また耳元でマックスの声がした。
だがさっきとは声の張りが違う。
…なんだろう。
僕の直感が訴えた。
何かが起こる!
刹那視界で陽炎が揺れた。
それが機材の不調のせいではなく、突然の爆裂音によるものであると気づいたのは、頭を内側から削るような耳鳴りがなんとか落ち着いてきてからだった。
耳当て越しにまた三半規管がぐちゃぐちゃになる。
でもさっきとは格が違う。
突き刺さるような痛み…それに続く激しいノイズとハウリング。
後発的に機材たちも悲鳴を上げる。
気がつけば、僕は床に膝をつき強く頭を押さえていた。
——エ…ン!マ…クス!
雑音と耳鳴りをかき分けるかのように、ルキィの声が途切れ途切れで聞こえてくる。
「ううっ…。」
——しっか…しろ!…丈夫か!
「あ…あぁ…。」
呼吸があがる。
体を打ちつける動悸で言葉が跳ねた。
耳と頭が割れるようだ。
でも僕の思考より先に、体の苦痛はみるみる引いていく。
これが人造人間の力か…最高だね。
——何が起こった!音声へのダメージが…
「マックスは…!」
——だめだ、何も…らない!
衝撃の瞬間、マイアミで刻まれた古傷が覚醒した。
この感覚を…僕は知っている。
僕は、今マックスの身に何が起こったのかすぐに見当がついた。
「…M84だ。」
——何?
「スタングレネードだよ!マックスの映像はどうなってる?」
——…切れてる!EMPと相打ちになったんだろう!
ならチャンスは今だけだ。
…今しかない!
僕は手のひらに力を込め立ち上がる。
眼球が揺れるような不快感に耐え、一歩ずつ。
——今の…音で構造解析が…プデートされたぞ!これなら!
彼の言葉に続き、不鮮明だった解析図へ幾重もの線が書き足されていく。
あの爆発が、僕たちに欠けていた最後のピースを埋めた。
走る。曲がって、また走る。
体の軸はブレたままだ。
だが例えみっともなくても。
「広間がある…!奥に…何かがっ!」
息を切らし、僕は叫んだ。
通路の先にぽっかり開いた闇の先、ぼんやりと光る何かへ…!
——熱が…上がってるぞ!!
確証はない。
あれが”心臓”であると。
だがここまで全てが僕を導いてきた。
もう…引き返す道はない。
——皆のためにも…全てを終わらせろっ!
爆弾を左手に持ち直す。
通路を抜け…ついに僕は広間へ出た。
…あれだ。
まるでかつての映画で見た、モノリスのよう。
全ての人類を導かんとする、艶さえも感じさせる煌めき。
——ちょ……てっ!エレン何かが…しい!
彼の声はノイズにかき消された。
でももう今の僕には関係ない。
ピンに指をかけた。
もう投げられる。
“心臓”の元へ…!
「!?」
突如、僕を纏った運動エネルギーが逆転する。
右肩を誰かに叩かれた。
さっきまで駆けていたはずなのに、僕はのけぞり足を止める。
肩に視線をやって僕は呆然とした。
…矢だ。
大きな何かが、突き刺さっている。
アドレナリンが吹き出した。
咄嗟に悟る。
もう僕に命はない。
せめて…爆弾だけは…!
「エレン様、おやめください。」
闇の向こうから、微かに男の声がした。
それはゆっくりと僕に近づき、正体を表す。
「ピ…アース…!」
彼は再び僕へ矢のついた銃を向けた。
それでも僕は怯まない。
まだ動きそうな腕をどうにか、どうにか振ろうと足掻いた。
「あなたは死を恐れないだろうと…大統領の仰る通りだった。」
二発目の矢が僕の右足を襲う。
込み上げる虚しさが僕から痛みを奪い去る。
全て、見抜かれていた。
僕は悟る。
…死ねないんだ。
矢から流れ込んだ薬品が、僕の体組織を素早く蝕んでいく。
膝をつき…そして左腕から崩れ落ちた。
「こ……の…」
負け犬に相応しい掠れた声。
そして微睡に支配されていく視界。
ピアースが迫ってくる。
歯を食いしばって睨みつけることすら、もはやままならない。
ほの暗い迷宮の底で…無力にも僕は悪の手へ落ちた。
いっそもう二度と目覚めませんように。
心の底からそう願うことしか、僕にはできなかった。
耳元で低い男の声が鳴る。
僕は通路の角から思いっきり飛び出した。
可能なだけ出口から遠く、より深くを目指して。
——皆のためにも…全てを終わらせろっ!
こんな時にプレッシャーをかけるなんて。
普段ならそんな小言を口にしていただろうが、今はそんな余裕もない。
新たな障害が現れる前に、最後の希望が絶たれてしまう前に、僕たちの罪が…歴史へ刻まれてしまう前に。
僕は左手でEMP爆弾を握りなおす。
ここは他でもない、ネメシスの心臓。
今この手で、僕は人類の新たな「歴史」を…無様にぶち壊してやるのだ。
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「ありえないっ!」
僕の叫び声がB28に響いた。
「…エレン?」
マックスは怪訝な表情を浮かべる。
「僕のハルが、クーデターに利用されたなんて…そんなこと絶対にっ!」
「君の…?一体どういう…」
静かにフィクサーが踵を返す。
「待って…違うんだフィクサー!」
「黙れっ!」
振り向かず張り上げられた声が、真っ白な壁を返して僕へと突き刺さる。
「僕は…」
「ああわかってる!何だってこの世界の為だもんなお前はそういう人間だ!」
「フィクサー…」
「だがこれだけは覚えておけ。」
彼は振り返り僕の目をじっと見た。
その目力の奥に透ける、どこまでも静かな訴えを湛えて。
「他でもないお前の偽善が、彼女を殺したんだ。」
俯いたまま、彼はB28を静かに去っていく。
一連のやりとりを、マックスはただ呆然と見つめている。
無理もない。
僕がネメシスの防衛圏拡大プロジェクトに、メインエンジニアとして参画していたことを知っているのはフィクサーとクリス、博士…そしてギブスだけなのだから。
ハイデルベルクの研究所…そこはまさに、ハルの生まれ故郷だ。
つまりマックスの言葉は、僕の御三家へ提案した計画…電磁技術による瞬間防衛圏拡大プロジェクトが、ギブスによるクーデターの布石として利用されたことを示唆している。
フィクサーからすれば、それは僕がクリスを殺したも同義なのかもしれない。
でも一方で、僕がどれだけクリスを大切に思っていたか彼はよく知っている。
だからあの目は恨みでも、憎しみでもない。
むしろ哀れみに近いような、微かな粘り気を持った感情を湛えていた。
その穏やかさが、一層僕を焦らせた。
「エレン、もしや君は…」
「僕はテロリストなんかじゃない!!僕はただ…」
「エレン。」
「違う!クリスのことだって、この世界のことだって、僕は…僕は…!」
「エレン!そうじゃない、一旦落ち着けっ!」
僕の行動がクリスを死に追いやった。
…絶対にありえない。
ありえてはいけない。
そして彼らから向けられた疑念に、僕の精神は重力を失っていた。
両肩を彼にぎゅっと押さえられる。
マックスは僕へ目線を合わせた。
ターコイズブルーの眼だ。
それは瞬く間に、頭の中へ湧き出ていたギブスの表情、クリスの死に様、ネメシスでの生活…その全てを吸い込んでいった。
——彼は敵ではない。
昂った心が静まっていく。
「エレン、俺はてっきり武装をギブスが直接仕込んだのだとばかり思っていた。でもそうではなかったんだな。君が全ての始まりで、整備したのも君だ。分析官の俺が知らないということは水面下で…つまりギブスと君だけの間で進められていた。…フィクサーは協力者だった?」
「…違う。僕の関与を知っているだけ。」
「協力者はいない?」
「あぁ。」
「…なら俺たちには時間が残されているかもしれないな。」
「…時間?」
何を言っているのかわからなかった。
「ギブスがネメシスに到着したのは、ほんの4時間前だ。何故わざわざ本人がここに来たのか疑問だったが…武装の最終確認だとすれば頷ける。君がクーデターに関わっていないのなら、念のため自分の目で一通り確認したいと考えるのが普通だろう。そして仮に到着後すぐ、君が仕込んだ武装の確認を始めたとしても、全てを見終えるにはもうしばらくかかるに違いない。」
「ちょちょ…ちょっと待って。」
「…なんだ。」
「マックスは…一体さっきから何を言ってるの?ギブスがクーデターの犯人だってことも、いや…もしかしたらそうなのかもしれないけど、もし本当にそうだったとして、僕たちに一体何ができる?今更地球に逃げたって意味ないし、彼を止めることだってシークレットサービスがいる限り無理なんだよ?だったらもう、クリスのことを最後まで思わせてよ。この慣れ親しんだ場所で、穏やかに…僕を1人にさせてよ。頼むよ…。」
「俺はネメシスを… 無力化しようと思ってる。」
突然彼が口にした言葉に、僕は一瞬自分の耳を疑った。
正直今更インプットされる情報になど興味がなさすぎた。
故の聞き間違いだと僕は思った。
「俺はネメシスを止めるつもりだ。」
…聞き間違いではなかった。
僕は目がまさに点になる。
“俺は神になるつもりだ。”
突然そう言われたような気持ちになった。
彼がすごくイタい人に見えて、僕は2,3歩無意識に後退りする。
「…ふざけるな。」
「…。」
「もう出てけよ!」
「もしクリスだったら、どうするだろうな。エレン。」
彼は落ち着き払った声で、そう言った。
クリス…。
もし彼女が生きていたら。
もし、ネメシスが堕天すると知ったら。
コードイエローが出たあの時、彼女は誰よりも真っ先に行動した。
『まさか行く気じゃないよな?』
『…大丈夫。』
あんな顛末になることすら、きっと覚悟の上だったのかもしれない。
メインクルーでもなく、単なる助手でしかない彼女に…僕らは押し付けてしまった。
——それはネメシスをこの世に産み落としたという責任。
決して目を逸らしてはいけない…罪。
もう、彼女はいない。
僕たちの目の前で、無惨にもころされた。
あまりにも…あまりにも…僕には耐えきれない事実だ。
——死にたい。
そう思っていた。
自分の生きる理由が、何もかも崩れ去ったような気がした。
「僕は何の為に生きるか」
人造人間であると明かされた瞬間生じた問いは、皮肉にもクリスの死によって明かされた。
それはクリスと…ギブスの存在。
彼女達は僕にとって平和の象徴で、2人が元気に笑っていてくれることが…そんな日常を守ることが、僕にとって全てだったのだと思う。
人造人間がどうとか、目的のために作られたとか、そんなことは関係ない。
僕は自分の知らないうちに、ちゃんと自ら生きる理由を手にしていたんだ。
だから…。
だからこそ今の僕には…生きる理由がない。
ずっと無意識に縋って生きてきた、そんな理由が。
だから終わろうとした。
ここで終えてしまって、いいとさえ思った。
でも彼女が今の僕を見たら、一体なんて言うだろう。
『あなたの”正しさ”は、決して独りよがりなものではない。自分ではない他の人たちのために、あなたは自分の時間を使うことができる。私もフィクサーも、それをよく知っているわ。』
本当にそれでいいのか?
僕はB28を見回す。
ハルは物静かに、僕の決断を見守っていた。
僕らの会話を耳にした今、彼はどんな風に思っているのだろう。
…ごめんねハル。
でも僕は、君たちを悪者になんてしたくない。
そうだ。
もしまだ何か手が残っているのなら。
…決着をつけよう。
この罪が…宙で完結しているうちに。
世界に希望を植えつけた責任を、果たさなければならない。
「本当に…実現可能なの。」
「君が手を貸してくれるなら。」
「…どういう意味?」
「俺は…とても運が良かったのさ。武装強化の真相と、電磁技術の叡智。探していた二つを同時に実現してしまう人間が、すぐ近くにいたんだからね。」
「……。」
「その気になってくれたのなら、俺についてきて欲しい。紹介したい男がいるんだ。」
あの事件以降、ネメシスの中は閑散としていた。
きっと僕のように自分の居場所へ引きこもって出てこないか、または地上行きのドローンに押しかけたかのせいぜいどちらかだろう。
僕はマックスに連れられ、A棟の研究室へと向かった。
同じ船の中でもAまで来ることは殆ど無い。
一体僕はどんな男に会わされるのだろう。
右も左もわからずまごまごしながら、僕は歩いて行った。
「…ここだ。」
暗証コードを入力し(僕のB28とは大違いだ)、彼は扉を開ける。
「よおマックス、”相棒”は見つかったか?」
下から声がする。
マックスは鼻で笑った。
「…そう願いたいがな。エレン、紹介しよう。」
声の主は、床にあぐらをかいて座っていた。
丸刈りで色黒なその表情に笑みが浮かぶ度、眩しいほど真っ白な歯が煌めく。
「彼はルキィ。俺と同じく分析官…いや、今の文脈では”地図オタク”と紹介するべきかもな。」
ルキィと呼ばれた男が、すっと立ち上がる。
「彼はエレン。この前話した、クリスの署名の子だ。」
その名を耳にして、再び心臓が震えた。
「あぁ…。いい噂は沢山聞いてるよ。俺はルキィ、空間情報を主に扱う分析官だ。よろしく。」
差し伸ばされた手を、僕は弱々しい力で握り返す。
その力加減を見て、ルキィは眉を顰めた。
「…無理もないね。ただ少し長話になりそうだ。会話はできそうかい?」
僕は黙って頷いた。
「…ありがとう。マックス、彼にどれくらい説明を?」
「まあ”ネメシスを止める”…くらいだな。」
「ひどいな、そんなんでここへ連れてきたのか?」
「時間がないと言ったのはお前の方だぞ。それにエレンは…」
「僕は電磁化学が専門の技術者、そして君たちの言う”武装強化”に…手を貸した張本人。」
自分の意思でここに来たわけではないように思われるのが嫌で、僕は口を開く。
僕の言葉を聞いて、マックスは軽く頷き纏めた。
「…そんなところだ。」
ふーむ、と腕を組みながらルキィは目を細めた。
「なるほど…ある程度彼の事情を知った上で連れてきたわけか。つまり”手を貸して”いるもののそれは問題にならないような背景がある…と。」
「そうだ。」
マックスの返事に、ルキィの表情が引き締まった。
「わかった。であれば、君に僕らが考えている計画の概略を説明しよう。…はっきり言って、これは相当な覚悟がなければとても遂行できないものだ。今の自分に無理だと思ったら、素直に断ってくれて構わない。今の君に、この話を他言するゆとりもないだろうからね。」
もしゆとりがあったら、どうなったのだろう。
頭の片隅でそんな雑念が揺らめく中、僕は言葉の続きを待つ。
「まあ”計画”と言ってもそんな複雑なことじゃない。さっきマックスが言いかけたが、俺は昔から地図を作るのが趣味でね。技術者なら少しはわかってくれるんじゃないかな、設計図を作るのは楽しいだろう?」
僕も設計図は大好きだ。でも味覚が消え失せた今の僕に”楽しさ”という感情は表現できない。
「それで俺はこのミステリアスな場所にやってきて以来、ずっとあることにコツコツ没頭してきたのさ。そう…ネメシスの”地図”を作ることにね。」
「…地図?」
「これを見てくれ。」
そう言うとルキィは円卓にあるホログラムを投影してみせた。
5つの建造物に、大きな砲塔。
ネメシスだ。
すると彼は指でそれを回して、少し引っ張る。
映像が大きくなり、今度は内部構造が繊細な光によって映し出された。
「ここに…見覚えはないかい?」
僕はある一部屋の見取り図を見せられた。
横長の大きな物体が部屋にいくつか横たわっているように見える。
梯子が透けて見えるあたり下部構造も…
「…B28?」
「ご名答。」
僕は呆気にとられた。
「一体どうやって…?忍び込んだの…?」
「いいや。音の反響、熱の電動、放射線の到達率…そういった複合的な要因を駆使して空間分析を行なった結果がこの地図なのさ。とはいえ正確性には難ありだから、もちろん自分の目で見られる部分は目視しにいく。でもそうじゃない場所だって、ある程度調べる手立てはあるということなんだ。」
「…つまり、ルキィには…このネメシスの”心臓”がどこにあるかわかるってこと?」
僕は事の核心に迫った。
“心臓”とは、その名の通りネメシスの命を司る中軸CPUのことを指す。
もしこの船を殺すなら、これを討つのが一番わかりやすいだろう。
そしてそんなベールに包まれた獲物の在り処を見つけ出す術を持っている。
彼が言いたいのは、きっとそういうことだ。
「君も知っているだろうけど、この場所の”心臓”…それはMCRの中にあると言われている。あのテニスコート推定120面分のどこかにある心臓を、何の下準備なしに見つけ出すというのは現実的ではないだろう。でももし地図があれば…その在処を示した設計図があれば…ネメシスの停止も現実味が帯びてくる。」
…ネメシスの物理的な破壊。
それはクリスが捕縛される原因になった疑いの一つ。
まさかそれを追うことになろうとは…。
そんな風に思っていたら、彼は想定外の言葉を放った。
「だが結論から言って、俺はMCRの地図を作ることができなかった。」
「…え?」
「当然のことだが、あそこは他の棟と比べて監視が厚い。俺もどうにか色々探ろうと攻めた手に出ようとしていた矢先、クリスが捕まった。あと一歩踏み出していたら、俺もあっち側にいたかもしれないな。」
「………。」
「とにかく、”心臓”に関する正確な情報は現時点で一切ない。じゃあ何も手がかりがないのかと聞かれたら…そういうわけでもない。このネメシスの構造を調べ尽くしてきた中で、俺は気づいたんだ。この場所の、設計上の…癖をね。」
「癖…。」
「このネメシスは、どうやら1人の技術者が全てを設計したようなんだ。インフラ設備の動線、管理区域の分散方法、非常時における危機管理意識などあらゆる面で共通した方向性をあちこちから読み取ることができる。もし…この方法論にMCRも則っているとすれば、俺たちは隠れた”心臓”の在処を推察によって導き出せるかもしれない。」
“七賢生”の話を僕は思い出す。
ネメシスの設計者が僕と同じ七賢生の1人であるなら、これは十分にあり得る話だ。
「それにもう一つ、MCRへの侵入が成功するかもしれないと考える根拠が俺たちにはある。…クリスだ。」
「………。」
「彼女はMCRから出てくるところを写真に撮られて問題になった。でもこれは裏を返せば、彼女は捕まることなく目的を達成し、あの場から脱出することができたということになる。一体どのようにしてそんなことができたのかはわからないが…でも何かしら方法はあるという大きな証拠なんじゃないかな。」
僕はしばらく考え込んでから、言葉を返す。
「言いたいことは…なんとなくわかったよ。ただでさえ計画の実現性は低い。でももし仮にあそこへ侵入できたとして…その”心臓”を捉えたとして、それから一体どうするつもり?爆薬はおろか拳銃すら持ち込めないのに…それともどうにか基盤を取り出して、スパナかレンチで頑張ってぱんぱん叩くの?無理だよ。そんなの。」
「おぉっ…と。」
こわばったルキィの表情を見て、僕は我に帰る。
「…ごめん。その…方法が、具体的なやり方を知りたいんだ。じゃないと、わからないよ。」
これに対しマックスが返した。
「俺がエレンを訪ねたのは、その方法に関係があるんだ。君は電磁化学が専門だろう?」
「…。」
元から知っていたような口ぶりに、僕は目を細める。
「まあ…分析官だから、と言っても納得はしてもらえないだろうな。正直初めは単なる整備士だと思ってた。レールシステムの整備担当で、開発は別なのだろうとね。だがマイアミの国設研究室に…君によく似た少年の記録が残っていた。それだけじゃないぞ。他にも金や物、情報の流れが…君の技術者としてのただならぬ力量を証明している。…そしてその大きな成果の一つが、EMP爆弾だ。」
ルキィが続ける。
「君はここのターミナルAIに対して、防衛用のEMP手榴弾開発を提案しているね。」
「……。」
「そして却下された。推測するに管理上の理由からだろう。誤作動を起こせば敵機は愚かネメシスの回路まで焼き切ってしまうからだ。裏を返せば…言いたいことはもうわかるね?」
僕は食ってかかる。
「でも結局開発には至らなかったんだ。そんな物ここにはないよ。」
「いいや、提案するにあたって技術者なら必ず試作品を用意しているはずだ。机上の空論を審議するほどAI達も暇じゃない。そしてエレン、君の好奇心旺盛な性格から考えて…それはまだB28のどこかに眠っている。一体どこにあるのか…それも、」
「大体検討はついているんだね。じゃあ…もう時間を無駄にするのはやめよう。」
ルキィが頷いた。
「助かる。」
「でも言ったことは半分本当なんだ。今僕が持っているのは、御三家の指示でEMPとしての機能が無力化されたいわば残骸でしかない。即発的に高圧の電磁波を発生させるには膨大なエネルギーとそれを圧縮する技術が必要になる。とてもこんな小さい方舟の中でできるようなことじゃないんだよ。」
「あぁ。具体的な開発方法に関しては、話し合う必要があるな。でも今はまず、君にわかってもらわなければならないことがある。いや、わかった上でそう言ってくれているのかもしれないが…念のため、確認だ。」
「…?」
「知っての通り俺たちがやろうとしていることは、MCRの物理的な破壊だ。あそこが制御しているのは兵器管制系だけじゃない。クルーが生きるために必要な生命維持装置だって全て、あの部屋に繋がっている。今回のテロ事件に関わっているクルーは、ここにいる中でもほんのひと握りだろう。それでも…俺たちの計画が成功すればここの人間は否応なく、——全員死ぬ。」
「…皮算用だよ。」
「だとしてもさ。たとえ自分を死なせる覚悟はあっても、仲間を死なせる覚悟を持つことが君にできるかどうか…これはそういう話なんだ。」
ネメシスは、僕の大切な”居場所”。
周りの目を気にすることなく、僕らしくいられるきっと唯一の場所。
…だった。
かつて抱いていた”夢”が、いかに浅ましかったか。
今の僕にはよくわかる。
仮にこの場所が、僕…いや、クルー全員の棺になろうとも構わない。
きっと、今僕はとても恐ろしいことを言っているのだと思う。
でもそれ以上に、僕と…この場所が存在し続けているという事実こそ僕には怖かった。
僕だけが死んでも意味がない。
生み出した責任を、この親が果たすのだ。
「やれる。いや…やるさ。」
「決まりだね。」
ルキィは再び僕の方へ右手を差し出した。
「君のいう通り時間は限られている。早速計画を練ろう。」
それから僕たちは、実際に実行するにあたっての具体的な検討を始めた。
まず初めに煩雑な情報群を「既にわかっていること(これ以上新たな情報を得る余地がないこと)」・「これから調査・検討して明らかにすること」・「どうにも知りようがないこと」の三つに分類する。
いうまでもないことではあったけれど、「既にわかっていること」に関しては殆ど見つからなかった。強いていうなら「内部警備をすり抜ける方法が存在すること」、「EMPの起動はネメシスになんらかの不都合な影響を及ぼすこと」くらいだろうか。
「どうにも知りようがないこと」は、「MCRの内部構造」や「警備体制」などが該当した。内部構造に関しては、”癖”から推測した換気口の大まかな配置程度の情報しか得ることができていないらしい。勿論排熱という概念は位置把握に重要な手掛かりになるが、決定的な判断は当日中へ入ってからということになる。
他にも深刻な不明点はいくつかあったのだが、ここで僕たちがまず考えなくてはならなかったのは「これから調査・検討して明らかにすること」の筆頭。
「EMP爆弾をどう用意するか…か。」
マックスが下を向いて呟く。
「例の爆弾は、どのように動作してパルスを引き起こすんだい?」
今度はルキィが尋ねた。
「専門的な話は省くよ。あのEMP爆弾は、大まかに二種類の物質を放出する仕組みになっている。一つは放射線、もう一つはミラリアントだ。爆弾が起動すると、半径5m圏内へ星形に整形したミラリアントの粉末が拡散される。そこへ同時に放射線が放たれることで、細かなミラリアントの側面で何度も反射を繰り返し…結果一帯に強力な電磁波を発生させるんだ。この爆弾の欠点は、一定密度以上のミラリアントの散布範囲内でしか電子機器をショートさせるに足りる電磁波を発生させられないこと。あとは被曝のリスクかな。」
「この船で実現が難しい技術はそのうちの?ミラ…なんとか?」
「ミラリアントに関しては試作品を用意した際の残りがある。問題は放射線を発生させること。そのためには瞬時に高電圧をかけるための膨大なエネルギーを手のひらサイズの入れ物へ圧縮しておく必要がある。でもそんな設備ここにはないんだ。」
「試作品の時はどう作ったんだい?」
「レール用のブースター装置だと偽って地上の研究所に作らせた。…ハイデルベルクのね。」
「…大胆だね。」
「あそことのやりとりは全てギブスの名義なんだ。僕の関与を知る人間は誰もいないさ。」
すると待って、とルキィが声色を変える。
「放射線が出せればいいなら、空間解析用に俺が持っている装置の部品が使えないかな?」
「放射線ならなんでもいいってわけではないよ。」
「あぁわかってるけど、試してみる価値はあるだろ。別に最悪半径5mもなくたっていいんだ。そもそもないよりはずっと、マシだからな。」
*************************************************
E棟に流れる空気は、いつ訪れても酸素が薄く感じる。
でも生きた心地がしないのは、裏を返せば生きてる証拠だ。
僕らはMCRへの侵入準備を終え、ルキィの地図に記された整備用ダクトを静かに這って進んでいた。
このまま行けば、入り口のすぐそばへ出られる。
…僕たちはあれから、大急ぎで簡易的なEMP爆弾の作成を始めた。
ルキィの持っていた装置は、確かに少ないエネルギーでそれなりに有効な放射線を放つことができるものだった。
だが正規品よりも明らかに出力不足が著しいと言わざるを得ない。
おまけに試作品の外殻と形状が全く合わず、急遽器と起動装置を用意しなければならなかった。
だが悪いことばかりではない。
彼の装置の部品を転用し作り直した結果、爆弾は二つ用意することができた。
実際有効範囲はせいぜい半径2,3mあるかないかだろうが…捨て身で叩き込めばいい話だ。
——よし、ここで俺はお別れだ。
耳元でルキィの声がする。
彼は参謀役としてこのダクトに残るのだ。
小型の無線機を通して、僕とマックスは指示を受ける。
——繰り返しにはなるが、一応換気口に中継機を仕込んでいるとは言え入室した瞬間無線が切れる可能性もある。交信が途絶したら…すぐにMCRを出るんだ。命を賭けるのと、無駄にするのとでは意味が違う。頼んだよ。
——俺は君たちのことを今周波数az173でモニターしている。だが入室後は周波数が5.3秒おきに自動で切り替わるからな、くれぐれも長話には気をつけてくれ。
「ふん、気をつけるのはお前の方だろ。」
マックスが小声でツッコミを入れる。
——俺が君たちとこんな風に話せるのは、計画が成功しようと失敗しようと…これが最後になるかもしれない。本当なら熱い抱擁をしてあげたかったけど…
「ほんと、ダクトの中でよかったぜ。」
——ははっ、だよな。ほんと……あぁ。
湿り気のある彼の呼気が無線越しに伝わってくる。
——いいか…すぐ俺も君たちを追いかける。君たちと知り合えて良かった。健闘を…
「馬鹿。他人事のつもりか?別れの台詞は全部が終わってからにしろ。そう簡単に俺たちはやられねえよ。なあ?エレン。」
「え?う、うん。」
心許ない返事だったかな。
——そうか。…そうだよな。悪い!君たちの暴れっぷり、期待しながら見てるぜ。
誰だって死ぬことは怖い。
救いのない未来の前で、孤独は何よりの毒だ。
だからきっとこの無線は僕とマックスだけでなく…ルキィにとっても命綱なのだろう。
僕たちは彼を置いて、ダクトの中を引き続き進んで行く。
——予め説明しているように、MCRの内部がどうなっているかは全くわからない。入室したら、できるだけ多く情報をくれ。喋ってくれと言ってるわけじゃないよ。周りを見回してくれさえすれば、カメラ越しに俺が確認する。入室直後、君たちは身の安全を最優先に考えて行動するんだ。情報の分析から指示まで、あとは全部こっちで引き受ける。あぁ…カメラがこめかみから外れないようには気をつけてくれよな。いくら最後の勇姿だからって、自分を写そうと…
「…もう時間みたいだ。ルキィ。」
マックスの言葉で僕は耳を澄ませる。
微かだが、モーターの優しい駆動音が少しずつこちらへ近づいてきていた。
——E棟の人感センサーに反応は無かったみたいだな。…上出来だ。
「エレン…やれそうか?」
「…頑張るよ。」
マックスはダクトの格子を少しずらしてから、ゆっくりと右足を乗せた。
少しずつ心拍数が上がっていく。
たった数時間前の僕は、署名を持って再び博士の元を訪ねようとしていた。
…クリスを救う為に。
心の準備をする余裕など与えられなかった。
でも不思議と、”逃げたい”とは思わなかった。
とっくに平穏な夢など捨てたのだ。
これが自分の運命だと思えば、何故か腑に落ちてしまう。
…悲しいな。
格子の先に、僕らは一機のメイテックを捉えた。
MCRの認証装置へ向かって、”彼”は腕からケーブルを伸ばす。
…1秒
…2秒
小さな電子音と共に、その扉が開かれる。
「行くぞっ!」
彼は勢いよく格子を足で踏みつけ、そのまま下へと一気に飛び降りる。
鋼鉄の床にぶつかる黄色い音が、何もない無機質な通路で大きく響いた。
僕も彼に続いて下へ降りる。
彼はもうメイテックに一撃浴びせていた。
それは突然の不意打ちになす術ないまま体勢を崩す。
「エレン!」
僕はメイテックの腕から垂れ下がったケーブルを右手で掴みとった。
マックスはそれを見て素早く機体をホールドする。
…刹那、カメラの焦点が僕と合った。
どうにも居た堪れない気持ちになりながら、それでも僕は腕へ力を込める。
「…ごめんね。」
僕は、そのまま”彼”のケーブルを底から力強く引き抜いた。
バチバチと内部で弾ける音が数回鳴って…メイテックはどさりと倒れる。
「ルキィ!これから中に入る!」
——了解。こちらで映像を確認する。
僕たちは、ついにその中へ足を踏み入れた。
「でかいな…。」
思わずマックスが言葉を漏らす。
体育館なんてものではない。
扇状にどこまでも広がる真っ黒なその空間の中、たくさんのタワーがネオンの如く怪しげに光っていた。
それはまるで壁のように
こんな場所ネメシスのどこで見たこともない。
内装が何もかも黒く塗られているせいで、体感とても暗く感じる。
冷たい風の流れがある一方で、不思議とそこまで涼しいとは思わなかった。
——だめだ、これじゃあ暗すぎてこっちから何も見えない。暗視表示に切り替えるから少し待ってくれ。
「光学レーザーが使い物にならなかったのは…」
——このせいだろうね。いくら壁をすかしたところで全部吸われてしまう。
マックスとルキィが言葉を交わす間、僕はキョロキョロ周りを見回していた。
「やっぱり…中をレーザー光線が隙間なく走っているとかではなかったね。」
——みたいだね。そっちから何か変わったものは目視できる?
「…奥にメイテックがいる。」
…鉄網の遥か先。
それはまるで悪の手先のような、ステレオタイプのSFに悪役として出てきそうな見た目をしたメイテックだった。
そう感じたのは、彼らの外装もまた黒々としていたからだろう。
僕に続いて、カメラ越しにルキィもそれを捉えようとするが、
——くそっ、赤外線表示でもこっちからは視認できそうにない。
「そうか。」
——警備兵たちの位置関係は君達だけで整理できそうか?厳しければ今すぐこの計画は…
「大丈夫だ。俺はやれるぜ。」
「僕も大丈夫。」
——わかった。こっちからメイテックを確認することはできないが、どうやらそこは通路とタワーの温度差が相当あるみたいだ。
——部屋の構造程度なら分析精度をいじって判別できるかもしれない。
「了解。」
これは僕だ。
「ルキィ、俺もメイテックを確認した。詳しいスペックまではわからないが、恐らく特別危険な武器は所持していないだろう。」
——その根拠は?
「所々タワーの基盤が剥き出しだ。通路の間隔も狭いし、派手にどんぱちやったら共倒れだぜ。」
——君にしては心許ない推測だな。
それにマックスが鼻で笑う。
「…そうかもな。プランEchoで行こう。Echoだ。2人ともいいか?」
——Echo了解。
「囮はどっちがやる?」
「囮役は俺が引き受ける。”心臓”を頼む。」
いや囮なら僕が…と言いかけ、今更どっちを選んだとて末路は同じなのだと気づく。
正直ちょっと荷は重いけれど、僕は1人じゃない。
「…任せて。」
——ここから2人には分かれて動いてもらうぞ。各自超音波レーダーを活性化させるんだ。
「了解。」「了解。」
僕たちはお互いに目を合わせてから、狭い通路の左右へと静かに散らばっていく。
視界に映るレーダーを確認する限り、まだ僕の周囲に危険は無さそうだ。
僕は身を隠せそうな場所を探した。
そしてタワーとタワーの合間に、小さな作業用のドッグを見つける。
——2人とも、悪い知らせだ。もう気づかれたらしい。
—だろうよ。
——各棟のメイテックが陣形を崩してそっちへ移動し始めた。
—到着までの時間は?
——5分無いくらいだろうな。恐らくMCR内の奴らにも知らせが行っているはず。
「…失敗した時の逃げ道は無くなったね。」
—おいおい、念頭にあったのかよエレン。
「…まさか。」
まさか。
—ひとまず、俺が奴らに視認されるまで待っててくれ。
——いや、それだと時間が足りなくなる。
突如ルキィが口を挟んだ。
—計画と違うぞ。
——大丈夫、俺がエレンの周囲をモニターする。
「もう動いていいの?」
——あぁ、左方向へ1ブロック進むんだ。
「左へ1ブロック了解。」
——マックス、そっちはどうだ。
—不自然だな。
——どうした。
—向こうから現れる気配がない。
——メイテックか?
—あぁ。何故彼らは皆奥で固まっているのだろうか。
——“心臓”を守るためでは?
—だったらむしろ固まるべきじゃないだろ。場所を教えているようなものだ。
マックスが腑に落ちていない中、僕はゆっくり通路を進んでいく。
確かに、近くにメイテックの姿はない。
僕たちの侵入を察知しているのにも関わらず、全く動いてこないのは不思議だった。
でも今そんなことを案じている余裕はない。
少しでも奥へ、この場所の中枢へ…。
事前の予想通り監視カメラらしきものはMCR内部に取り付けられていなかった。
僕とルキィはレーダーを注視しながら、忍足で出来る限り部屋の奥を目指す。
その先に”心臓”があるのかはわからない。
だがそこにメイテックたちが群れているのであれば、可能性は十二分にあるはずだ。
—こちらマックス。
——どうした?
—ルートの簡易確認が一通り済んだ。これからメイテックと接触する。
その言葉が耳に入った瞬間から、自然と心拍数が上昇する。
——了解。じゃあそっちの映像を…
—いや、ルキィはエレンの周囲をモニターしてくれ。
——大丈夫なのか?
—問題ない。
——了解した。
「…ありがとう。」
上がった息で思うように言えなかった。
—これからスティンガーを使用する。相対音響はついてるか?
——スティンガー了解。相対音響問題無し。
—よし…いくぜ!
彼の声とほぼ同時、柔な鼓膜を内側から抉るような金属音が室内に響き始めた。
…始まったのだ。
視界の隅でセンサーの波形が波打つ。
三半規管を介し、僕の脳もぐらぐら揺れた。
1秒…
2秒…
そしてプツッと音は止まる。
——無線に乗らない周波数とは言え波形は大分物騒だな。エレン平気か?
「…大丈夫。」
間髪入れず鋭い声が耳へ飛び込む。
—何機か釣れたぞ!こっちに向かってきてる。空間図は出せそうか?
——了解。今そっちに表示する。
—確認した!見たところまだまだ釣れそうだ。…っておいマジかよ。
彼の言葉は、大きくマイクが動くようなノイズとその乱雑な足音の中に消えていく。
——どうしたマックス。
—くそっ数が多すぎる!エレン、俺はいつ捕まるかわからない!
息を切らしながら、彼は僕に叫ぶ。
—心臓を…頼む!
「…了解。」
僕も、ルキィも、詳しいことは聞かなかった。
——エレン、進もう。体調は大丈夫か?
「うん。平気。」
——よし、そのまま3ブロックだ。
「3ブロック了解。」
ルキィは続ける。
——エレン。スティンガーによる反響を解析して、ここの構造がある程度把握できた。
——君にもその地図を共有する。
「…だいぶぼやけてる。」
——反響が致命的に弱かったんだ。思ったより相当広い構造になってるな。
「これで心臓の位置がわかるかな?」
——いや。でもこの地図の中に心臓はない。
「…なぜ?」
——通路の構造と赤外線分析、換気口の配置予測を重ねて見ればわかる。
「…?」
——この辺りのタワーは、それ自体熱を持っている一方殆ど排熱をしていないんだ。
「全部ダミーってこと…?」
——そうだ。しかも見る限り通路はフラクタルな構造になっている。
フラクタル構造とは、ある図形の中に同じ図形を繰り返し描いていくような構造のことを言う。
つまりどこまで行っても似たような光景が延々と続くため、空間把握が非常に困難なのだ。
そしてこの構造にはもう一つ特徴がある。
「…中心に空間がある?」
——恐らくね。これだけ大きい部屋なら相当な広間になるはずだ。
「フラクタルなのがここだけって可能性は?」
——それはないと思う。拘りの強さこそ設計者の”癖”だ。
「その中心にはどうやっていける?」
——問題はそこだよな。だが…よし。
僕は3ブロックを進み終え、辺りを伺う。
だが嘘かと思うくらい、何の気配もしないのだ。
だったらどんどん進んでしまえばいいじゃないか。
そう思ったが、ここが迷いやすい構造になっていることを思い出し踏みとどまる。
——フラクタルな構造は全体を数学的に導き出すことができるはずなんだ。
「時間はどのくらいかかる?」
——すぐに。ただ…
「ただ何?」
——相対音響のデータが不完全だ。どれくらいの比で自己相似になっているかがわからないと…。
「どうすればわかる?」
——もう一度大きな音を出すしか。
マックスは時間稼ぎで手一杯だ。
今も無線が時々彼の雑音を拾う。
到底”もう一度”を頼める状況ではなかった。
「そんな無茶な。」
その時、視界の片隅を楕円形の黒い物体が僅かに掠めた。
「ルキィ、メイテックが見える。」
——なんだと?
「今はもう手がかりがない。行くよ。」
——ちょっと待て!危険だぞ!
僕はルキィの忠告を無視し、そのメイテックがいたはずの場所へと歩を進める。
——エレン!聞いてるか!落ち着け!
…不思議だ。
彼は、まるで僕のことを導くかのように先へ進んでいく。
幾度か角を曲がり…5ブロック、10ブロック…。
すると急ブレーキをかけたみたいにピタッと動きを止めた。
「ルキィ、突然止まった。なんでだろう。」
——ああなんでだろうな!だがさっきいた場所より空気が熱を持ってるのは確かだ。
「奥にもう一体いる。…きっとあの先だ。どうにかして進まないと!」
——エレン、一旦落ち着くんだ。エレ…
—俺に任せろ!
耳元でマックスの声が弾ける。
彼との接近警告が視界に表示された。
呼応するかの如く、次々目の前のメイテックたちも動き出す。
「今2機そっちに向かった…!」
—おうよ!
——今だ走れ!!
今度はルキィが叫ぶ。
あぁ、言われなくとも。
力強く地面を蹴り上げて、彼らのいた通路を一思いに駆け抜ける。
少しでも奥へ…マックスより遠く…!
—くそがっ!ああだめだ囲まれたっ!!
断末魔だった。
でもわかっていたことだ。
推測されるあらゆる結果から目を逸らし、僕はただ目の前へ焦点を定めようとする。
—嘘だろ。
また耳元でマックスの声がした。
だがさっきとは声の張りが違う。
…なんだろう。
僕の直感が訴えた。
何かが起こる!
刹那視界で陽炎が揺れた。
それが機材の不調のせいではなく、突然の爆裂音によるものであると気づいたのは、頭を内側から削るような耳鳴りがなんとか落ち着いてきてからだった。
耳当て越しにまた三半規管がぐちゃぐちゃになる。
でもさっきとは格が違う。
突き刺さるような痛み…それに続く激しいノイズとハウリング。
後発的に機材たちも悲鳴を上げる。
気がつけば、僕は床に膝をつき強く頭を押さえていた。
——エ…ン!マ…クス!
雑音と耳鳴りをかき分けるかのように、ルキィの声が途切れ途切れで聞こえてくる。
「ううっ…。」
——しっか…しろ!…丈夫か!
「あ…あぁ…。」
呼吸があがる。
体を打ちつける動悸で言葉が跳ねた。
耳と頭が割れるようだ。
でも僕の思考より先に、体の苦痛はみるみる引いていく。
これが人造人間の力か…最高だね。
——何が起こった!音声へのダメージが…
「マックスは…!」
——だめだ、何も…らない!
衝撃の瞬間、マイアミで刻まれた古傷が覚醒した。
この感覚を…僕は知っている。
僕は、今マックスの身に何が起こったのかすぐに見当がついた。
「…M84だ。」
——何?
「スタングレネードだよ!マックスの映像はどうなってる?」
——…切れてる!EMPと相打ちになったんだろう!
ならチャンスは今だけだ。
…今しかない!
僕は手のひらに力を込め立ち上がる。
眼球が揺れるような不快感に耐え、一歩ずつ。
——今の…音で構造解析が…プデートされたぞ!これなら!
彼の言葉に続き、不鮮明だった解析図へ幾重もの線が書き足されていく。
あの爆発が、僕たちに欠けていた最後のピースを埋めた。
走る。曲がって、また走る。
体の軸はブレたままだ。
だが例えみっともなくても。
「広間がある…!奥に…何かがっ!」
息を切らし、僕は叫んだ。
通路の先にぽっかり開いた闇の先、ぼんやりと光る何かへ…!
——熱が…上がってるぞ!!
確証はない。
あれが”心臓”であると。
だがここまで全てが僕を導いてきた。
もう…引き返す道はない。
——皆のためにも…全てを終わらせろっ!
爆弾を左手に持ち直す。
通路を抜け…ついに僕は広間へ出た。
…あれだ。
まるでかつての映画で見た、モノリスのよう。
全ての人類を導かんとする、艶さえも感じさせる煌めき。
——ちょ……てっ!エレン何かが…しい!
彼の声はノイズにかき消された。
でももう今の僕には関係ない。
ピンに指をかけた。
もう投げられる。
“心臓”の元へ…!
「!?」
突如、僕を纏った運動エネルギーが逆転する。
右肩を誰かに叩かれた。
さっきまで駆けていたはずなのに、僕はのけぞり足を止める。
肩に視線をやって僕は呆然とした。
…矢だ。
大きな何かが、突き刺さっている。
アドレナリンが吹き出した。
咄嗟に悟る。
もう僕に命はない。
せめて…爆弾だけは…!
「エレン様、おやめください。」
闇の向こうから、微かに男の声がした。
それはゆっくりと僕に近づき、正体を表す。
「ピ…アース…!」
彼は再び僕へ矢のついた銃を向けた。
それでも僕は怯まない。
まだ動きそうな腕をどうにか、どうにか振ろうと足掻いた。
「あなたは死を恐れないだろうと…大統領の仰る通りだった。」
二発目の矢が僕の右足を襲う。
込み上げる虚しさが僕から痛みを奪い去る。
全て、見抜かれていた。
僕は悟る。
…死ねないんだ。
矢から流れ込んだ薬品が、僕の体組織を素早く蝕んでいく。
膝をつき…そして左腕から崩れ落ちた。
「こ……の…」
負け犬に相応しい掠れた声。
そして微睡に支配されていく視界。
ピアースが迫ってくる。
歯を食いしばって睨みつけることすら、もはやままならない。
ほの暗い迷宮の底で…無力にも僕は悪の手へ落ちた。
いっそもう二度と目覚めませんように。
心の底からそう願うことしか、僕にはできなかった。