第21話 エピローグ

文字数 1,991文字

 ダイニングテーブルに残されたメモには、見慣れた母さんの字でこう書かれていた。

《あーくんはもう中学生でお兄ちゃんだし、一人で大丈夫よね。ママはパパのところへ行きます。食事のことは(たすく)おじさんにお願いしてあるから、困ったことがあったらおじさんに相談してね》
 
 それだけ、走り書きのような文体で書かれていた。
 
 俺はそのメモを読んだとき、意味がわからなかった。こんなにも簡単な文章なのに、理解するのにひどく時間がかかった。

 そのときの俺の感情は、絶望だったのか、(あきら)めだったのか。
 
 どうして突然、なぜ、なんの相談もなく、こんな急に? 
 なぜ話してくれないんだ? なぜ、こんな風に突然消えるんだ? 
 
 電車で二時間の場所じゃない。飛行機で十五時間以上かかる場所に、なんで、どうして? どうして……。

 うちの両親は常識を越えるほど、仲がいいのはわかっていた。嫌というほど、この目で見てきた。
 でもそれは、一人息子よりも優先すべきことなのか。俺を放り出して、夫婦一緒に暮らすことの方が、大事なのか。
 
 ほんの一言でもいいから、話してくれていたら、そりゃ驚くけど心の準備もできたのに。

 俺は今朝、いつものように母さんに見送られて登校し、帰宅すれば母さんが迎えてくれるものと思っていた。

 俺は、あの二人にとって、なんなんだ? 夫婦が愛し合って生まれたのが俺じゃないのか?

 俺の存在はなんだ?

 邪魔だったのか?

 メモに書いてあった「(たすく)叔父さん」は、母さんの弟だ。同じ団地の隣の棟に、家族四人で暮らしている。
 
 (たすく)叔父さんは母さんとは違い、おとなしくて気が弱い雰囲気の人で、子供がいたずらをしても怒らずに、優しく諭すような人だ。
 俺が小学校低学年のころまでは、従妹とよく遊んでいて、たまに泣かせてしまうこともあったりした。
 しかし叔父さんは声を荒げたりせず、俺の話もよく聞いた上で、静かに叱ってくれた。

 いつだったか、母さんの親戚が集まる機会があったとき、お喋りな連中が多い中、叔父さんは常に聞き役に徹していた。
 
 そんな叔父さんが、俺のために電話口で母さんを怒ってくれた。
 何も言わず中学生の子供を置いて、勝手に突然出発した母さんを、強い口調で批難していた。いつも温厚な姿しか見せない叔父さんが、顔を真っ赤にして。

 それでも、母さんの気持ちは変わらなかった。
 
 父さんも、母さんを帰す気がなかったんだろう。ましてや、俺のために帰れなどと、母さんに言わなかったんだと思う。
 
 それきり、両親は帰って来ない。母さん一人での帰国もない。俺はあの瞬間からたった一人、この団地で寝起きしている。

 それでも、なんとかやってこられた。毎日の食事は、朝は食パンと牛乳、昼は購買の温かいうどん、そして夕飯は(たすく)叔父さんの奥さんの、叔母さんが作ってくれている。
 タッパーに詰めたその料理を、叔父さんや小学生の従妹(いとこ)が届けてくれる。
 
 叔父さんは当初、一緒に暮らそうと言ってくれた。その時は素直に、叔父さんの気持ちが嬉しかった。
 
 けど、叔父さんの家もうちと同じ間取りで、四人で住むには狭すぎる。
 それに、従妹は小学五年生で俺と年齢が近いから、叔母さんが乗り気でなかったようだ。

 叔母さんの気持ちはもっともだと思った。それに俺は、一人の方が気楽だろうと感じていたから、叔父さんの家に厄介になるつもりはなかった。

 食事以外のことは全部自分でやらなければならないけれど、なんとかなると考えていた。しかし、それは甘かった。
 実際、料理以外のすべてを自分でやってみて、毎日の家事がとんなに大変でしんどいものなのか、思い知る日々だ。

「まあ、家賃や学費は親が払ってくれてるんで問題ないんですけどね。生活費も、必要以上に振り込まれるし」
 
 草本先輩は相づちも打たずに、静かに俺の話を聞いていた。

「両親の仲が良すぎて、俺はほったらかしです。親が離婚して、家族がバラバラになることはあっても、こんな、俺みたいなケースって、あるのかな……」

 だから余計に、海斗を放っておけなかった。海斗のために、自分のために、思い出を作って(きずな)を深めたかった。

 先輩は、床に足を縫い止められたように、立ちすくんだまま、ゆっくり口を開いた。

「星を一緒に見た友達は知らないのか、お前の事情」

「話していません」

「話すつもりないのか」

「知られたくない。……あいつには」

「……そうか」

 ダイニングの椅子に座っていた俺は、先輩にも座るよう(うなが)した。

「先輩までそんな顔しないでくださいよ」

「あ、ああ……」


 
 
 


 
 
 
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