第5話 

文字数 1,935文字

「ここじゃ話せないから、出よう」

 海斗(かいと)がそのまま歩き出しそうな勢いだったので、慌てて自分の鞄をつかむ。読みかけの本を棚に戻してから、海斗の後を追いかけた。
 
 図書館を出たところで、海斗は振り向くと俺を真っすぐ見た。ややためらった後、ゆっくり口を開く。

「お母さんの実家がある北海道の旭川市に、夏休み中に引っ越すんだ。だから、二学期からは新しい中学校へ行くんだよ」

「なんだよ、それ………。どういうことか全然意味わかんねえ」

「離婚するんだってさ。うちの親」

 海斗は無表情に淡々と言った。伏せられた目は暗い色で、何も映していないように見えた。その様子は、告白が真実なのだと思わせる。
 
 俺はさっぱりまとまらない頭で、必死に海斗にかける言葉を探した。

「で、でもさ。いきなり北海道って……せっかく入った学校は」

「転校するしかないよ。通えないもの」

「そんな……」

 離婚。引っ越し。転校。北海道。それらの単語が頭の中をぐるぐる回る。海斗が遠くへ行ってしまう。何より、そのことが俺を打ちのめした。

 二人の間に沈黙が続いた。
 それは今まで感じていた、心地のよい時間とは真逆のもので、俺の口は石のように動かなくなった。俺からはこれ以上何も()けないし、海斗も、何も言わなかった。

 駅で海斗と別れ、バスの停留所へ向かった。その間もさっきの会話を頭の中で反芻(はんすう)し、ぼんやりしたまま終点へ到着する。
 
 そういえば、いつバスに乗り込んだのか覚えていなかった。
 
 バスを次々降りていく乗客たちをぼんやりながめながら、俺は運転手に降車を(うなが)されるされるまで動けなかった。
 
 いつのまにか、頭痛は治まっていた。

 
 

 
 今日は体育の授業がなかったのに、足が(なまり)のように重かった。
 
 終点のバス停から自宅まで、徒歩二分の距離は遠く感じ、見上げたコンクリートの建物が巨大な要塞に見えた。エレベーターなどないから、四階の自宅まで重い足をひと踏みづつ持ち上げ、なんとかドアまでたどり着いた。
 ディンプルキーを差し込み、鍵を開ける。
 
 ――疲れた……
 
 コンクリートの箱の中は、ひんやり静かだった。ダイニングテーブルの上には、ラップのかけられた夕食が用意してある。
 頭痛がまた始まるかと思ったけれど、平気だった。
 
 ――帰ったの? おかえり
 
 母さんの声が遠くで聞こえる。俺は無意識に耳を(ふさ)ぎ自分の部屋へ入ると、(かばん)を放り投げ、制服のままベッドへ倒れこんだ。
 
 薄いシミが所々に浮く天井を見上げていると、いろんなものが、感情がこみ上げてくる。海斗のあんなに暗い顔は、あの頃だって見たことがなかった。

「ひでえ、そんなの、ありかよ……」
 
 手に触れたものを思い切り壁に投げつける。ボスッとすっきりしない音を立て、クッションが落下した。

「離婚て、なんだよそれ、勝手すぎるだろ……」
 
 海斗は俺より一年以上早く、四年生から進学塾へ通っていた。そして、第一志望の難関中学合格を果たした。俺に出来なかったことを、海斗はやり()げた。

 (うらや)ましくて悔しかったけど、自分のことのような嬉しさもあった。

 なのに、何年も努力して入った学校をわずか五ヵ月未満でやめるなんて、そんなのおかしい。
 遊びたいのを我慢して必死に努力した三年間は、いったい何だったのだ。
 
 ――あーくん、もうすぐご飯よ
 
 母さんの声が聞こえた。

「……食欲ない」

  ――やだ、何か食べてきちゃったの? しょうがないわねえ。じゃあ、明日の朝のおかずに回すからね
 
 パタパタとスリッパの音が遠ざかっていく。わが家は今夜も平和だ。俺は長いため息をついた。

 海斗の両親が、離婚する。
 
 まだ子供の俺には、その理由がどんなものなのかわからないし、想像もつかない。けれど、幸せボケのうちの両親にはありえないということだけはわかる。
 バカみたいに仲が良いのだから。
 
 ――ひとつの家族が、壊れて、()()りになる
 
 まるで小惑星の爆発だ。飛ばされて粉々になって、他の惑星に衝突(しょうとつ)したり永遠に宇宙をさまよったり、あるいは、ブラックホールへ吸い込まれたり。それが生身の体の中で起こるようなものだ。
 
 海斗はあの細い体で、その衝撃(しょうげき)に耐えていかなければならないのか。

 ベッドに投げ出した俺の手足が、どんどん体温を失う気がした。
 
 少しでも、海斗の気持ちにより()えたらいいのに。そう思った。
 
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