第9話 

文字数 3,015文字

 海斗のお母さんにとって、苦労して入学させた難関中学校をやめることは、ショックなことだとは思う。
 
 俺の意思を尊重するうちの両親と比べても、海斗のお母さんは、子供の受験に人一倍熱心に見えた。いわゆる教育ママってやつだろう。
 
 もしも、俺の母さんが海斗のお母さんみたいだったら、俺はきっと本番前に(つぶ)れていた。だから、あんな風に海斗を不安にさせるようなことはしないで欲しい。
 
 一番辛いのは、海斗なのだから。
 
 海斗と星を見に行くことを、俺は誰にも話していない。
 
 学校では教師や友達に聞き回ったからバレバレなのだが、両親や近所に住む親せきにも、内緒にするつもりでいる。 
 
 もう中学生だし、干渉されたくないというのが一番の理由だけど、俺は海斗と二人きりで行くことに強くこだわっていた。
 
 二人で忘れられない夏の思い出を作りたいからだ。

 さっきの海斗の動揺した声が、まだ耳に残っていて胸がざわざわしたけれど、今は振り切るしかない。俺はベランダに出ると、いつものように空を見上げる。

「おー、今夜もきれいじゃん。当日もこれくらい見えるといいんだけどなあ。でも、先生の話だともっとよく見えるはずだし。……あ、大角も」
 
 大角――――夏の大三角は、こと座のベガ、わし座のアルタイル、白鳥座のデネヴを結んだ形が直角三角形の形に見える。

 織姫であるベガと、ひこ星のアルタイルのために、伝書鳩の役割なのがデネヴだという神話がある。
 
 去年の夏は、塾帰りに海斗と二人で夜空を見上げた。駅前は明るすぎて見えないから、俺はバスに乗らずに、自転車を引く海斗と一緒に歩いた。
 
 そうして緑の多い場所まで移動すれば、段々はっきりと星が俺たちを迎えてくれた。
 
 受験勉強に追い立てられる毎日でも、塾の定期テストの成績が下がって落ち込んでも、いつもの夜空にあたりまえのように星たちが見えると、ピリピリした気持ちも徐々にほぐれていった。
 
 それらを思い出し、俺は星にずいぶん救われているんだなと再確認したんだ。

 今日、海斗は図書館に来るだろうか。昨夜の電話で伝え忘れたから、ここで海斗を待つしかない。
 
 今どきは、小学生が最新のスマートフォンを持っていても驚かないくらいなのに、海斗は携帯を持っていないのだ。
 
 親のお下がりのガラケーすらない。家庭の方針なんだろうけど、こんな時に連絡がとれないのは不便に感じてしまう。
 
 俺はスマホを持っていても、ゲームをやらないし、ラインのやり取りもほとんどやらない。親や親戚との連絡に使うくらいで、短いからショートメールで事足りる。
 
 学校には持ち込めるが、中等部は校内での携帯利用が禁止だから、日中は電源を切っている。毎月の通信費はどのくらいなのか知らないけれど(支払ってるのは親だし)俺みたいなやつは旧タイプのガラケーで充分だと思う。
 
 反対に、海斗の学校は校則が(ゆる)く、制服の詰襟(つめえり)さえ着用していれば、大抵のことは許される。髪を金髪に染めようが、ピアスの穴を開けようが、携帯ゲームを持ち込もうが、注意されることはない。
 
 けれど難関学校だけに、真面目な人種ばかりが集まっているようで、いまのところは金髪や茶髪の生徒は見たことがないと、海斗が教えてくれた。

 いっそ海斗が髪を金髪に染めて不良になれば、両親も離婚を悔い改めるんじゃないかと名案のように頭に浮かぶが、すぐにそれは浅はかな考えだと思い直した。
 

 ふいに、見慣れた制服が視界に飛び込んでドキリとする。
 
 だけど、よく見るとそれは、俺の学校の高等部の制服だった。小柄に見えたから中学生かと思った。
 
 顔見知りだったら、面倒なことになるところだったなと胸を()で下ろすと、その制服は俺に背を向けたまま、本棚の間へスッと入っていく。

 ――あー、ヒヤッとした……

 海斗との約束のために、このところずっと走り続けている状態だった。
 
 それは充実しているし楽しいけれど、海斗の家庭のことを思うと、たちまち緊張感や不安でいっぱいになる。

 中学生になったとはいえ、つくづく自分がまだガキなのだと思い知るのはこんなときだ。
 
 ほんの些細(ささい)なことがきっかけで、心細さや不安が顔を出してしまう。
 
 もしも、もっと大人だったなら、感情の引き出しから小さな不安がこぼれてしまったとしても、(あわ)てずに対処できるはずだ。なのに俺ときたら、一つの不安と一緒に、他の引き出しまで開けてしまい、それは芋づる式にボロボロこぼれ落ちてしまう。
 
 早く大人になりたいと強く願うのは、こんなときだ。
 
 俺は自分が冷静になれるように、ゆっくり深呼吸した。気持ちが落ち着いたところで、手元の本を開いく

 それから一時間ほど図鑑を読んでいたけれど、海斗は現れなかった。
 
 時計の針は、閉館まで残り十五分を指している。俺はしかたなく本と(かばん)を抱え、図書館の出口へ向かった。

「あれ、田神くんじゃん」

 親しげな声に名前を呼ばれ、警戒心なく振り向く。
 そこには、会いたくない人物が俺に笑顔を向けて立っていた。

「草本……先輩?」

 ――なんでこの人が、ここにいるんだ

 さっき見かけた高等部の制服は、この人だったのか。

「奇遇だねえ」

 先輩は笑顔をキープして俺に近づいてくる。俺は動揺を悟られないように応えた。

「そうですね……」

 ――くそ……なんでもっとよく観察しておかなかったんだ俺は

 今さら後悔しても後の祭りだ。

「田神くんて、この駅使ってるの? あ、家が近くなのか」

「先輩は……。自宅はこっち方面なんですか」

 草本先輩は楽しそうに、周囲をキョロキョロ見ながらにこにこしている。
 一見(さわ)やかそうだが、俺には邪気(じゃき)(ふく)んだ笑顔にしか見えなかった。

「いやあ、僕けっこう図書館とか好きでさあ。あちこち行ってんだよね。ここは初めて来たけど、駅と連結してるからいい立地だし、天文関連の書物もそろっていてなかなかいいねえ」

 初めてだって? まさかこの人、俺が常連だと知ってわざわざここまで来たんだろうか。

 仮に偶然だとしても、学校で関わりたくない人間に遭遇(そうぐう)するなんて最悪だ。お気に入りの場所を褒めてもらっても嬉しいわけがない。

「ここに置いていないものが、うちの部には結構あるよ。顧問が個人で(そろ)えた蔵書になかなか貴重なのが多くてさ。僕らにはいつでも貸し出してくれるんだ」

 先輩の視線は、俺の抱えた本に注がれている。

「そうなんですか」

 俺は簡単に応え、歩き出す。棚に本を戻している間も、先輩は構わず俺の後に着いて話しかけてきた。

「ねえねえ、田神くんの家ってさ、北口と南口どっちなの」

「ここの駅じゃないです。……あの先輩、俺、友達と約束あるんで」

「あ、田神くん!」

「失礼します!」

 逃げるように出口へ向かい、図書館を出た。

 今日は海斗が来なくてよかった。草本先輩から質問攻撃を受けたら、海斗は(あらが)えないだろう。

 あの調子で根掘り葉掘り聞かれたら、たまったもんじゃない。



 



 
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