防衛機制
文字数 1,379文字
夕風が田んぼの苗を揺らし、あぜ道には沸き立つような泥の臭いが漂い、淡く色を失い始めた空にひぐらしの声が響いていた。僕たちは長く伸びた影を引きずって、用水路の水音を聞きながら住宅街への方へと歩いていた。
「今日ナイターある?」
「あるよ。巨人対広島」
「なんだよ。じゃあドラゴンボールはやらないか」
亮平と正樹の話を聞いていた和希が「あ、そうだ」と立ち止まった。僕たちの傍らでは夕方の景色を反射した溜め池が、不思議な色に輝いていた。
「忘れることろだった」和希はズボンのポケットからキラキラするカードを引っ張り出した。「ウメ、これあげるよ」
ドラゴンボールのカードダスだった。少し前に、ウメのお母さんが何の理由もなくウメのカードダスのコレクションをすべて捨ててしまったのだそうだ。ある日学校から帰ってみたら一枚もなかったらしい。人を殴る描写が不快だからといってアニメも観せてもらえない。その話を聞いてから、僕たちは引いたカードが被ったりいらないものがあったりするとウメにあげていた。見つからないところに隠しておけよと忠告しながら。
「え? いいのこれ?」
ウメはカードを遠慮がちに受け取りながらも、口元が嬉しそうに笑っている。
「うん。こないだ引いたら同じの二枚出たから」
僕と正樹と亮平がウメの持つカードを覗き込む。
「おお、トランクスじゃん」
以前、一緒にヨーカドーへ行った時に隼が引こうと必死になっていたカードだった。
「見せて」
ウメが隼にカードを渡した。隼は黙って手のカードを見つめていた。どんな気持ちで隼がそのカードを見ていたのかわからない。自分が持っていないものを人が持っていることへの嫉妬かもしれないし、自分が手に入れられないものをあっさりと手に入れられる人間への羨望かもしれない。
「あっ」
ウメが吐息のような声を漏らして、僕たちは名残の陽差しの中を、くるくると音もなく飛んでいくカードを目で追った。カードは溜め池の水面に落ち、小さな波紋が広がる。
「手が滑った」
夕陽の逆光で、隼の顔はただほの黒い影に染まっていた。僕らは黙ったまま、水面で揺れるカードを見ていた。浮かんだカードのまわりでは、細かなさざ波が夕陽を反射してきらめいていた。
和希の明るい笑い声が重い沈黙を破った。
「しゃーないな。また今度引いたらやるよ。あれは諦めろ」和希が立ちすくんだウメの背中を軽く叩いた。「帰ろうぜ」
和希に促されて、みんなは黙って歩き出した。僕も少し歩いて、隼が動こうとしないのに気づいて立ち止まった。
「隼」
僕が呼びかけても隼はそのままぼんやり突っ立っている。和希たちの背中が少しずつ遠ざかっていく。隼は空を指差すように、顔の前あたりで右手の人差し指を立てた。どこからか飛んできたシオカラトンボが一匹、何度かその指先に止まったり離れたりを繰り返して、やがてそこにしがみつくと羽を休めた。隼がぱっと親指でトンボの足をつまみ、囚われたトンボは必死になって羽をばたつかせて逃げようとする。隼はトンボの羽の両端をつまんで、ゆっくりと左右に引っ張った。トンボの背中が割れて、筋のような肉が見えた。飛べなくなったトンボが、溜め池沿いの草の上に落ちる。仰向けのトンボはもがくように六本の脚を動かしていたが、次第にその動きが弱々しくなり、やがて脚を体の方へ折り畳んだまま動かなくなった。
「今日ナイターある?」
「あるよ。巨人対広島」
「なんだよ。じゃあドラゴンボールはやらないか」
亮平と正樹の話を聞いていた和希が「あ、そうだ」と立ち止まった。僕たちの傍らでは夕方の景色を反射した溜め池が、不思議な色に輝いていた。
「忘れることろだった」和希はズボンのポケットからキラキラするカードを引っ張り出した。「ウメ、これあげるよ」
ドラゴンボールのカードダスだった。少し前に、ウメのお母さんが何の理由もなくウメのカードダスのコレクションをすべて捨ててしまったのだそうだ。ある日学校から帰ってみたら一枚もなかったらしい。人を殴る描写が不快だからといってアニメも観せてもらえない。その話を聞いてから、僕たちは引いたカードが被ったりいらないものがあったりするとウメにあげていた。見つからないところに隠しておけよと忠告しながら。
「え? いいのこれ?」
ウメはカードを遠慮がちに受け取りながらも、口元が嬉しそうに笑っている。
「うん。こないだ引いたら同じの二枚出たから」
僕と正樹と亮平がウメの持つカードを覗き込む。
「おお、トランクスじゃん」
以前、一緒にヨーカドーへ行った時に隼が引こうと必死になっていたカードだった。
「見せて」
ウメが隼にカードを渡した。隼は黙って手のカードを見つめていた。どんな気持ちで隼がそのカードを見ていたのかわからない。自分が持っていないものを人が持っていることへの嫉妬かもしれないし、自分が手に入れられないものをあっさりと手に入れられる人間への羨望かもしれない。
「あっ」
ウメが吐息のような声を漏らして、僕たちは名残の陽差しの中を、くるくると音もなく飛んでいくカードを目で追った。カードは溜め池の水面に落ち、小さな波紋が広がる。
「手が滑った」
夕陽の逆光で、隼の顔はただほの黒い影に染まっていた。僕らは黙ったまま、水面で揺れるカードを見ていた。浮かんだカードのまわりでは、細かなさざ波が夕陽を反射してきらめいていた。
和希の明るい笑い声が重い沈黙を破った。
「しゃーないな。また今度引いたらやるよ。あれは諦めろ」和希が立ちすくんだウメの背中を軽く叩いた。「帰ろうぜ」
和希に促されて、みんなは黙って歩き出した。僕も少し歩いて、隼が動こうとしないのに気づいて立ち止まった。
「隼」
僕が呼びかけても隼はそのままぼんやり突っ立っている。和希たちの背中が少しずつ遠ざかっていく。隼は空を指差すように、顔の前あたりで右手の人差し指を立てた。どこからか飛んできたシオカラトンボが一匹、何度かその指先に止まったり離れたりを繰り返して、やがてそこにしがみつくと羽を休めた。隼がぱっと親指でトンボの足をつまみ、囚われたトンボは必死になって羽をばたつかせて逃げようとする。隼はトンボの羽の両端をつまんで、ゆっくりと左右に引っ張った。トンボの背中が割れて、筋のような肉が見えた。飛べなくなったトンボが、溜め池沿いの草の上に落ちる。仰向けのトンボはもがくように六本の脚を動かしていたが、次第にその動きが弱々しくなり、やがて脚を体の方へ折り畳んだまま動かなくなった。