「修行」

文字数 4,581文字

 僕たちは一度解散して、家にランドセルを置くと正樹の家に集まった。みんなが集まってくるなか、隼だけがいつまでたっても姿を見せない。
「隼は?」
 和希が少し不安そうな顔をした。
「電話してみる?」
「別にいいだろ、こなけりゃこないで」
 ヤマトのことが尾を引いているのか、正樹も亮平も隼がこなくても冷淡で、結局、隼抜きでストⅡ大会が始まった。トーナメントをやってリーグ戦をやって、馬鹿みたいに盛り上がっていたところでウメが名残惜しそうに帰って行った。
「五時に帰ってこいって言われてるから」
 まだ早くないかと思って時計を見ると本当にもう五時近い。友達の誰かに気を使わずにゲームをしていると、こんなに時間が早く経つのかと驚いた。ウメが帰ったあと、僕たちは二対二に分かれてチーム戦で遊び、結局正樹の家を出たのは六時少し前だった。帰り道が逆方向の亮平とは家の前で別れ、僕と和希は夕暮れの住宅地の道を一緒に歩き始めた。夏の夕方はまだ明るかった。傾いた太陽が空の淵に浮かんだ雲を桃色に染めている。僕は自転車を押して和希の隣を歩きながら、広い夕空を眺めた。
「ザンギエフのスクリューパイルドライバーってさ、技だすの難しくない?」
「十字キーを一回転させるやつだよな。無理無理。正樹よくだせるよな」
 少し先に曲がり角があり、その先から何人かの笑い声が聞こえた。変声期が過ぎたばかりのようながらがらした声で、笑い方にはまだ幼さが残っている。中学生の男子が数人で遊んでいるのだろう。僕は緊張で少し身を固くした。中学生のなかにはガラの悪いのもいて、ときどきからかい半分で絡んでくることがあったからだ。少し怖かったが、和希が平気そうにしているので、僕も虚勢を張り、なんともないような振りをして角を曲がった。
 道の少し先には中学生の男子が五人いて、その中には直登くんの姿もあった。道沿いには消防団の器具庫があり、外壁が道に面している。中学生たちは路上からその器具庫の外壁に向かって緑のゴムボールを投げていた。壁の前には、隼が頭にコーラの空き缶を乗せて立たされていた。
「おし、じゃあ次俺の番な」
 顎にニキビのある中学生がボールを持って振りかぶり、隼に向かって思いきり投げつけた。ボールは風を切る音をさせながら隼の耳の近くをかすめて壁に当たる。隼が体をすくめた拍子に頭の空き缶がぐらりと倒れ、アスファルトに落ちて鋭い音を立てた。
「ばか、避けんなよ。いま避けなきゃ絶対当たってたべ」
「ねーよ、ちょっと下だったじゃん」
「次、投げんの誰?」
 僕は立ち止まり、引き返して別の道を行こうか迷った。できれば今見た光景の記憶を消したかった。隣では和希が立ちすくみ、きょとんとした顔で目を泳がせ、目の前の状況に混乱している。
「あ、ちょっと待って」中学生の一人が僕たちに気づいた。「投げんのたんま。人通る」
 ほかの四人が一斉にこっちを見て、投げようと振りかぶっていた人がフォームを解いた。
「あれ、雄太くんじゃん」直登くんが僕だと気づいて笑顔を向けた。僕は無理に笑って会釈した。「ごめんな、通るの邪魔して。早く通っちゃって」
 直登くんに促されて引き返しにくくなった。隼は今の姿を、僕や和希に、特に和希には絶対に見られたくなかったはずだ。屈辱に耐えるように歯を食いしばって、空き缶を持った手が震えていた。僕はどうしていいかわからなかった。自分より頭一つ分ぐらい背の大きい中学生が五人もいる。今、自分たちがこの状況をどうにかできるとは思えなかった。僕はうつむいて、足早に通り過ぎてしまおうと自転車を押し始めた。
「なにしてるんですか?」
 少し震えた、それでも落ち着いた和希の声がした。
「これ? ウィリアム・テルごっこ。あの空き缶にあてた奴がみんなからジュースおごってもらえるんだ」
 直登くんが明るく答える。五人の中でもひときわ体格のいい男が力一杯ボールを投げる。ボールは隼の右肩に当たり、その衝撃で頭から空き缶が落ちる。和希が眉をひそめて強く拳を握った。壁に跳ね返って足元に転がってきたボールを直登くんが拾う。
「危ないですよ。怪我するかもしれません」
「大丈夫だよ。このボール柔らかいから」
 直登くんがボールを握ると、緑色のボールは簡単に楕円の形に潰れる。友人のひとりに催促され、直登くんはトスしてボールを渡す。
「でも目に当たったりしたら。失明するかもしれません」
「それも大丈夫。人間は目の前に物が飛んできたら自分の意思とは関係なく目をつぶるようになってるんだ。反射っていうんだけどね。中学になったら理科で習うよ。それにほら、これは心を鍛える修行でもあるから」
 ボールが顔にぶつかりそうになり、隼は両手をあげてかばった。その拍子にまた頭から空き缶が落ちる。
「てめえ、よけんなよ。殺すぞ」
 投げた男が低い声で怒鳴り、周りがぎゃはははと野蛮に笑った。
「僕、隼と変わってもいいですか」
 和希がそう言うと直登くんは驚いて、和希の顔を不思議そうに眺めた。
「なんで?」
「僕も修行してみたいです。ダメですか?」和希が深く頭を下げた。「お願いします」
「あの、僕も」自転車のスタンドを立てて和希の隣に立つと、同じように頭を下げた。
「修行つけてください。お願いします」僕の声は震えていた。本当は怖くて仕方なかった。ボールが顔に向かって飛んでくるのだ。でも、その恐怖を今、隼が嫌というほど味わっている。
「お願いします」僕の隣で和希がさらに深く頭を下げた。
「そんなに受けたいの?」
「はい。隼は友達なんです。友達だけ修行して強くなるのは悔しいんです」
「ははは、漫画みたいだね」
 直登くんは困ったように微笑んだ。
「そんなに言うなら、いいよ。でも今日はもう遅いから、また今度ね」
 仲間たちに振り返ると「帰ろうぜ」と声をかけた。
「えー、ジュースどうすんだよ」
「ちゃらだよ、ちゃら。どーせ当たんないじゃん。これ以上やっても暗くなったらもっと当たんねーって」
 ぶつぶつ文句を垂れる友人をなだめながら、直登くんたちは夕闇に沈み始めた道を歩き出した。僕たちは、五人の背中が突き当たりの角を曲がって見えなくなるまで見送った。緊張と恐怖で弾んでいた胸が収まっていくにつれて、立っているのがやっとになるほど全身から力が抜けた。
「だいじょぶか」
 和希が隼に近づいて声をかけた。隼は手に持っていたコーラの空き缶をアスファルトに叩きつけた。
「余計なことすんじゃねえよ」
 ほとんど絶叫に近い声で隼は怒鳴り、和希の肩を思い切り突き飛ばした。和希がよろけて転びそうになる。暮れ残った陽光が二人に射していた。隼の顔に浮かんだ怒りを目にすると、僕は仲裁にも入れないで、ただ動けずに立ち尽くしていた。誰かを助けることが、そいつにとって一番救いにならない場合もあるのだと知った。
「お前なんか最初から友達じゃねえよ」
 隼は泣き声を喉から絞り出すように吐き捨てた。瞳から涙があふれそうになり、慌てて逃げるように走り去っていく。和希は地面に転がった空き缶へ目を落としていた。少しうつむいた横顔は深く傷ついているようにみえた。しだいに藍色を濃くしていく空に、半円の月がぼんやりと光り始めている。
 小さな蛾が数匹、外灯の光のなかを円を描くようにして飛び回っている。和希と僕は夕暮れの道を無言で歩いた。別れ際、沈黙を破ったのは和希だった。
「今の人が隼の兄ちゃん?」
「直登くん? うん」
「家ではいつもあんな感じなのかな」
「機嫌が悪いと当たられるとは言ってたけど、前はあんなにひどくはなかったはず。直登くん今年高校受験だから、ストレスが増えたのかもなあ」
「隼がウメに当たるのは……」
「隼なりの仕返しなんだと思う。矛先を変えて。やり方が直登くんとそっくりだから」
「置き換え、ってやつだ」
「置き換え?」
「前に太田先生が言ってた、防衛機制って覚えてる?」
「脱線したときの話? 聞いた気もするけど、どんなんだっけ」
「人間がストレスを受けた時に、自分を守るためにとる心の動きだって言ってた。逃避とか退行とか、いくつか種類があるんだけど、隼のは置き換えってやつだよ、多分。攻撃してきた相手が自分よりずっと強くてやり返せないとき、人間はそのとき受けたストレスを、違うものを攻撃して解消するんだって」
「あ、ほんとだ。まさにそれじゃん」
「あいつ、大丈夫かな……」
 僕は何も答えられなかった。大丈夫だよ、なんていう安っぽい気休めを軽々しく口にできなかったし、大丈夫じゃない、といったところで何かを変えられるとは思えなかった。薄暗がりの住宅街では、窓に明かりが灯り始めている。僕たちは分かれ道のところで手を振って別れた。

 登校してくると僕たちはまず教室の後ろに集まって、朝の会が始まるまで前日のドラゴンボールやとんねるずの話をしたりゲームの攻略の情報交換をして時間を過ごす。今日は隼がまだ来ていないので、五人で昨晩のドラマに主演していた女優の話で盛り上がっていた。足は長いけど歌があんまり上手くない、顔がちょっとミニラに似てるなどと好き勝手言っては大笑いしていると、教室の引き戸が開いて、湧いていた空気がしんと静まった。教室に入ってきた隼は僕らには顔を向けずに自分の机まで行くと、席についてランドセルから漫画を取り出して読み始めた。ちらりと表紙が見えたが、いつか部屋で読ませてもらったあの漫画のようだ。
「隼、おはよう」
 和希が後ろから声をかけるが、隼は聞こえないふりをしてこっちを振り向きすらしなかった。
「なんか機嫌悪いな」
 亮平がひそひそと耳打ちし、正樹が露骨に顔をしかめる。
「昨日のことでふてくされてんのかな。元はと言えばあいつがヤマトにウメの帽子投げつけるのが悪いんじゃん」
 和希がそばまで行って「何読んでんの」と声をかけても隼は本当に聞こえていないように漫画から顔すらあげなかった。
 一日中、隼は僕たちを避け続けた。僕や亮平が話しかけてもそっけなく返事をするだけで、和希の声には反応すら示さない。正樹は呆れて近付こうとさえしなかったし、ウメは隼の不機嫌な雰囲気に萎縮して声すらかけられずにいた。昼休みに僕が中当てに誘っても、「俺はいい」と目も合わせずに答えて、ひたすら漫画を読んでいる。
「どうしよう」
 和希が不安げに僕にささやいた。どうしていいか僕にもわからなかった。
「そっとしといたほうがいいんじゃないの。明日になりゃまたいつもどおりになってるでしょ」
 僕の楽観的な予測は当たらなかった。翌日になっても隼は僕たちと関わろうとせず、誰も寄せ付けようとしない空気をあたりに滲ませながら、教室の机で漫画を読みつづけた。和希が何度か話しかけてみたが、隼は殻にこもったように頑なに無視を決め込んでいた。僕たちはその態度にいい加減げんなりし始め、結局さじを投げて話しかけるのをやめてしまった。それでも和希だけは何かと機会を見つけては話しかけ、隼の心を溶かそうとしていた。教室の後ろでいつものようにみんなで喋っていても、和希だけが心苦しそうな目をちらりと隼の背中にむける。僕たちがどれだけ盛り上がっていても隼は後ろをふり返ろうとせず、少し前かがみになって漫画を読み続けた。
 いつもどおりの隼が何日経っても戻ってこないまま、夏休みがやってきた。
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