マジック

文字数 4,230文字

 七月に入り、社の林で蝉が鳴き始めた。校舎の前の小さな時計台を囲む花壇に向日葵が咲いている。学校が終わると、僕は一度家に帰ってランドセルを置いてから秘密基地の社へと向かった。石段を駆け上ると、まだ誰も来ていない様子だったが、社の前の階段に何か置いてあるのに気がついた。よく目をこらすと、わりと大きめのテディベアが夏の午後の陽射しを浴びてぽつんと置いてあった。古いもののようで、遠くから見てもくたびれているのがわかる。なんであんなところにテディベアなんかあるんだろうと不思議に思っていると、テディベアがかすかに動いたような気がした。横に垂れていた手をこっちにむかって振るような動きをしたのだ。気のせいかと思いながらそろそろと近づいていき、おそるおそるその薄茶色のクマを覗き込むと、突然そいつがぴょん、と飛び上がり、踊るように跳ね回り出した。
「うわあっ!」
 僕は慌ててあとずさり、足を滑らせて尻もちをついた。驚きのあまり座り込んだまま動けずに、口をぽかんと開けて飛び跳ねるクマを見ていると、ぴたっと動きが止まり、上から笑い声が降ってきた。見上げると、拝殿の屋根に隼がいて、恐怖のあまり動けないでいる僕を見て大笑いしている。拝殿の屋根の上には太い木の枝が張り出しているので、木登り伝いに上にあがることができるのだ。
「……なにしてんの?」僕は尻の汚れを払いながら立ち上がった。
「びっくりしたべ? ドッキリ大成功」
「どうやったの、今の」
「これだよ、これ」
 隼は手に持っているものを僕に見せたが、下からだと距離があって見えにくい。何か丸い、家庭科で使う糸巻きのようなものらしい。
「なにそれ?」
「釣り糸。見えにくいから、手品にも使われるんだぜ。父ちゃんのやつ持ってきたんだ。これをそいつに結びつけて動かしてたわけよ」
「このクマは?」
「そいつは母ちゃんの。貸してって言ったらあげるよって言われたから貰ってきた」
 僕も木を伝って社の屋根にあがり、次にくる誰かを驚かせるために待機した。上からテディベアを動かして遊んでいると、石段の方から足音が聞こえてきた。隼は糸を操るのをやめて、足音に耳を澄ました。
「亮平だ」
 隼が囁き、僕は笑いを抑えるために両手で口を覆った。
「あれ、誰も来てねえじゃん」
 亮平はでかい声で独り言を言いながらきょろきょろし、社の前のテディベアに気づいたようだった。
「お、なんだあれ」
 亮平が小走りで社に近づき、テディベアに手を伸ばしたのを見計らって、隼が釣り糸を思い切り引っ張った。テディベアが空中に舞い上がって、亮平は凄まじい悲鳴をあげてひっくり返った。僕と隼は堪えきれずに喉が裂けるほど大爆笑した。亮平は屋根の上の僕たちに気づいて、地面に大の字になったまま「お前ら、ほんと死ね」と力の抜けた声で吐き捨てた。
 亮平が林へ隱れ、僕たちは次の標的を待った。石段を一段飛ばしで駆け上がってくる足音がする。その音を聞いて隼が悪魔のような笑顔を浮かべた。足音がペースを緩め、鳥居の下に和希の姿が現れる。和希が社の方を見て不思議そうな顔をした。テディベアに気づいたようだ。和希が少しずつ社の方へ向かってきて、僕の隣で隼が興奮と高揚で鼻息を荒くしている。涼しい風が吹いて木々の葉がかすかな音を立てた。和希が少し眉をひそめて、石畳の途中で足を止めた。と思うと、いきなり顔をあげて、屋根の上の僕たちを見た。動揺して、僕は慌てて顔を伏せた。顔を隠したところで向こうからは全身を見られているから意味がない。
「何してんだよ、そんなとこで」
 和希が笑いながら呼びかけてきたので顔をあげた。
「和希、なんでわかったの?」
 僕が下に向かって叫ぶと和希は声をあげて笑った。
「こんなとこにクマのぬいぐるみなんてあるのが不自然だから、注意して見てたら細ーい線みたいのが一瞬揺れて光ったんだ。それを辿ったらお前らがそこにいたと」
「なんだよ、ひっかかれよ。つまんねえな」
 亮平が文句を言いながら林の中から出てくる。
「下りようぜ」と隼がつまらなそうに言った。
「まだ正樹とウメきてないよ」
「いいよ、もう」興ざめしたような顔をしている。和希にタネを見破られたのが相当面白くないらしい。
 木を伝って下へおりると、ちょうど正樹も石段を上がってきた。
「なんだ? このぬいぐるみ」
 階段を上ってきたばかりの正樹は額に汗を浮かべていた。
「ハンドパワーで浮くんだよ。な?」
 和希が笑顔を向けたが、隼はむっつりとしたまま返事をしなかった。
「ウメのやつおせえな」 
 隼がテディベアの腹をぼすっぼすっと殴りだした。和希へのドッキリが失敗したのがよほど悔しいのか、だいぶ苛々しているようだった。
「まだ宿題終わってないんじゃないの。もうちょい待ってればくるよ」 
 ウメは学校の宿題が終わるまで遊びに行かせてもらえない。宿題のない日は漢字の書き取りと算数の問題集をしなくてはならず、やったところを母親にみせてやっと家を出られるのだ。
「あいつ待ってると遊ぶ時間がどんどん減ってくよな」
 クマの腹に入るパンチがどんどん激しくなっていく。
「いいじゃん、先に俺らだけでなんかしてて、ウメが来たら一緒に遊べば」
 正樹の提案に隼は睨むように眉をひそめた。
「お前、冷たいな。友達待っててやれないの?」
 隼の言っていることは正論のようでただの難癖だったが、正樹は隼の鋭い目を見て言い返す言葉に詰まっている。二人のやり取りに、亮平も気まずそうに目を伏せていた。
「隼、言ってることおかしいぞ」と和希が口を挟んだ。
「は? どこが? 友達が遅れてたら待っててやるもんでしょ。遅れてきてみんな先に遊んでたら仲間はずれにされた気になるじゃん。俺が言ってることおかしいか?」
 隼が僕らの顔を見回したが、誰も何も言わない。正樹は考え込むように顎に手を当てているし、亮平はどこを見ればいいのかわからずにテディベアの方へ目を向けている。ただ、二人ともうんざりしたような冷たい目をしていた。多分、僕も二人と同じ目をしていたはずだ。
「それなら来るの遅れたぐらいでぐだぐだ文句言うなよ」
 僕は隼の顔をちらりと見た。目に浮かぶ怒りを隠そうともせず、隼は和希を睨んでいた。和希はまっすぐにその目を受け止めている。社の壁で蝉がうるさく鳴き始め、次第に弱くなるとまた鳴き止んで沈黙があたりに満ちる。重く、嫌な空気が僕たちのあいだに張り詰めていた。
 僕が下腹部に力を込めると、狙った通りの、勢いよく紙を破るような音が尻で鳴った。みんなが「え?」という顔をして一斉に僕へと目を向けた。音の正体に気づいた亮平が、口を抑えて必死に笑いをこらえている。
「あっ、やべ」と僕は尻を抑えた。
「み、み、み——」僕は眉を八の字に寄せて、悲しそうな顔をした。「実も出ちゃった……」
 僕が泣きそうな声を出すと、亮平が我慢しきれずに吹き出した。つられて和希が笑い出し、正樹も笑いながら鼻をつまんで、顔の前でにおいを散らすように手を扇いでいる。隼も手で口を覆いながら、顔を真っ赤にして肩を震わせている。重苦しい緊張が途端にほぐれていった。
「そういやみんな、夏休みはどっか行くの?」
 ひとしきり笑いが治ると、和希が話を切り出して、話題は夏休みの予定に移っていった。唐突な気もしたが、また険悪な雰囲気に戻らないよう配慮したのかもしれない。亮平も正樹もうまく話に乗ってきて、目前に迫った夏休みへの期待で、ぎこちなかった雰囲気に笑い声が戻った。
「河原でさ、俺らだけでバーベキューしたくない?」
「さすがに子供だけで火を使うやつはまずいって。怒られるよ」
 隼が何かに気づいたように石段の方へ顔を向けた。
「ウメが来たぞ」
 耳をすますと一歩一歩を慎重に確かめるような足音が蝉の声に混じる。ウメの姿が鳥居の下に現れる。
「おせーぞ、ウメ」
 隼が怒鳴ると、ウメは取り繕うような笑顔を浮かべた。「ごめん」
「じゃあみんな揃ったし、始めるか」
 最近僕たちは鬼ごっこにはまっていた。普通の鬼ごっこには飽きてしまっていたので、木に登って逃げたり、そこから社の屋根にあがったりしてもオッケーのような独自のルールを加えて、どんどん過激にしていった。一歩間違えれば大怪我につながったが、木から落ちそうになったり、屋根で転びそうになったりするときに感じるひやりとした一瞬は、病みつきになるほど興奮した。
「鬼決めようぜ」  
 隼が含みのある目つきをしてちらっと僕らを見た。ウメがいつも最初にチョキを出す癖を知っていて、グーを出すように合図しているのだ。また「修行」に駆り出して、さっきの憂さ晴らしをしようと企てているらしい。僕はサッとうつむいて目を逸らした。
「はい、さーいしょはグー」みんなで拳を構えた瞬間、どういうわけか、直登くんに柔道の技をかけられて、土で汚れた隼の背中がふと思い浮かんだ。
「じゃーんけーん」和希に付き添われて、泣きながら保健室に向かうウメの背中が重なった。
「ぽん」
 隼はグーを出し、ウメはいつもの通りチョキを出していた。和希もチョキを出していた。亮平も、正樹もチョキだった。
 僕の拳からは、人差し指と中指がまっすぐに突き出ている。自分がチョキを出したとわかるまで少し間があった。はっとして隼をみると、隼は表情のない顔のまま固まっていた。隼を抜いた五人で鬼を決めるじゃんけんが再開される。何度かあいこになったあとで、鬼に決まった正樹が朽ちた賽銭箱の前で十数える。僕たちは散り散りになって逃げ出す。鬼の正樹が、亮平を追うと見せかけてウメの方へ走り出し、ウメは楽しそうに笑い声をあげて正樹の手から逃れる。僕は早々と木に登って、太い枝にまたがって上から眺めていたが、僕に気づいた正樹が思い切り飛び上がって爪先に触れようとする。僕は足を引っ込めるのが遅れて正樹の指がスニーカーを擦った。僕は往生際よく木から降りて、社の下で待機する。
 隼がわざと正樹に近寄り、挑発するように手を叩いた。正樹は反応しない。隼がさらに近づき、一歩踏み出して手を伸ばせば捕まえられる距離まで迫る。正樹は隼から顔を背け、木に登ろうとしていた和希に向かって、何か叫びながら走っていった。和希は慌てて木から飛び降り、逃げ出そうとしたところで足を滑らせて転び、うしろから正樹に肩を掴まれてアウトとなった。隼ははしゃぐ二人を眺めながら、同じところにじっと立ち尽くしていた。
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