ウメ

文字数 8,267文字

 色の剥げた賽銭箱の中には何重にもなった厚い蜘蛛の巣が張っていて、かなぶんの死骸が引っかかっている。箱の底には枯れ葉やお菓子の包装紙、煙草の空き箱に破れて色あせた漫画のページと、罰当たりなごみばかりたまっている。社までの道すがら、ハーフパンツのポケットへ手を突っ込むたびに、空の飴の包装紙がかさかさして気になっていた。俺は包装紙を賽銭箱の中に捨て、拝殿の階段に腰を下ろした。湿った木の冷たさが背中に伝わる。
 石畳の両脇には苔むした二匹の狛犬が鎮座している。右の狛犬は、右の耳が根元から折れてなくなっている。小学五年の頃、俺が狛犬によじ登って遊んでいたら耳をつかんだ拍子にポキリと欠けてしまったのだ。俺は焦ってまた元の通りにくっつけようとしたが、うまく割れ目を合わせてそーっと手を離してもすぐにぽろりと落ちてしまう。何度かやっているうちに俺はいい加減腹が立って、欠けた耳を林の中へ思い切りほうりなげてしまった。そのとき一緒に遊んでいた雄太は青ざめた。
「おい、バチ当たるぞ」
 俺は鼻で笑って気にしないふりをしていたが、それから自転車で転んで膝を擦りむいたり、野球でショートバウンドを取り損ねて顎にボールが直撃したりするたびに、心の中では必死になって狛犬に「ごめんなさい」を繰り返していた。
 涼しい風が吹いて、石畳の上で木の葉の影が揺れる。石段の方から誰かが上がって来る足音が聞こえた。俺はTシャツの裾を煽って風を入れながら、その足音に耳を澄ました。足音は一段一段ゆっくり踏みしめるように歩いてくる。いつか聞いた覚えのある足音だけど、誰のなのかが思い出せなかった。ひょっとしたら、集落の誰かが気まぐれを起こしてこの廃墟に参拝にでもやってきたのかもしれない。じっと耳を凝らして足音を聞いているうちに、不思議な懐かしさがかすかな残り香のようにふっと鼻先をかすめた。
足音は石段の上辺りまできて止まった。社の前に座っている俺に気づいたようだった。気配がこちらを伺っているのを感じた。俺はうつむいたまま、気配が去るのを待っていた。少し迷ったような間をおいて、また足音が聞こえだす。引き返すのかと思ったがこちらへ近づいて来るらしい。顔を伏せていた俺の目の前で細い脚が止まる。俺は顔を上げて足音の主を見た。やせた、色の白い男が目の前に立っていた。同じ年頃のようにみえるが、地元の人間ではない。この辺に住んでいる歳の近い奴なら顔も名前も全員知っている。
「隼くん?」
 名前を呼ばれて面食らった。どっかで会ったやつだろうかと思いながらじろじろ見ていると、男の目が気弱そうにきょろきょろと泳いだ。睨んでいるように見えたのかもしれない。
「あの、覚えてないかな。小五までこっちに住んでて、よく一緒に遊んだんだけど」
 男の薄い唇が細かく震えている。
「あ」震える唇を見ながら俺は立ち上がった。「おまえ、ウメか?」
「思い出した?」男はほっとしたように笑った。「 久しぶり」
 幼かった丸顔がいくぶんすっきりとし、当然ながらあの頃よりも背が伸びてはいるが、いつも眠そうに垂れた目が当時の面影をそっくり残している。梅原浩太だった。一つ上の学年に大島康太という下の名前の同じ友達がいたので、区別するために皆んなからはウメと呼ばれていた。
「背、ずいぶん伸びたな」
「まだ隼くんには敵わないけどね」
「またこっち戻ってきたのか」
「夏休みの間だけ、こっちにいることになったんだ」
ウメは春頃に気管支を少し悪くしたらしく、その療養として、夏のあいだは空気の綺麗なこの町へ滞在することにしたそうだ。
「昨日から叔父さんちに泊まってるんだ」
  ウメは狛犬の耳の欠けたところを懐かしそうに指先で撫でた。
「朝飯はもう食ったのか」
「うん。こっちはご飯が美味しいね。水がきれいだからかな」
「このあと何すんの?」
「懐かしいからこの辺ぶらぶらしようと思ってる。久しぶりに学校も見たいし」
「じゃあ、俺も付き合うよ。一緒に行こうぜ」

二階建ての木造校舎が朝陽を浴び、ところどころ割れた窓ガラスが輝いている。校舎の裏は小高い山になっていて、形のはっきりした綿雲が、生い茂った木々の緑から湧き出すように浮かんでいた。俺とウメは校庭を歩きながら静まり返った校舎をみあげた。
「廃校になったんだね」
「おれらが中一のときだから、三年前か。今この辺の小学生はバスで隣の学校に通ってるよ」
校庭の真ん中に、空気の抜けたサッカーボールが転がっていた。ウメは土で汚れたボールを蹴ってよこした。二人でパスを回しながら鉄棒まで歩いていった。鉄棒には青い模様のあるアゲハチョウが羽を休めていたが、俺たちが近づいていくと青い色をちらちらさせて飛び去っていった。
ウメは茶色く錆びた鉄棒を掴み、足元の砂を蹴り上げて逆上がりをし、手と服についた錆びを払うと俺に笑顔を向けた。
ウメは小学四年になっても逆上がりができずにいた。八人ほどいた同級生の中で逆上がりができないのはウメだけとなり、みんなで相談して、逆上がりの特訓をすることにしたのだ。ある日の放課後、ウメに鉄棒を握らせ、同級生が何人か地べたに座り込んで練習の様子を眺めた。ウメのフォームは酷かった。足だけが上がって体が上がらない、典型的な逆上がりのできないやつのフォームだ。蹴り上げた足が鉄棒に届くことなく地面に落ちてくる。その様子を見て周りのやつらは笑ったり、野次を飛ばしたり、「もっと腹をひきつけるんだよ」とアドバイスを与えたりしていた。しばらく練習を続け、蹴り上げた足を俺が無理やり持ち上げて一回転させられるようになったが、一人でやらせるとまた足だけしか上がらないフォームに戻ってしまう。そんなことを繰り返しているうちに俺は苛立ってしまい、細かいつばを飛ばしながら怒鳴ったり、苛立ちまぎれに足元の小石を掴んで地面に叩きつけたりした。ウメは目に涙をため、唇を細かく震わせていたが、それでも鉄棒を離そうとしなかった。特訓は長引き、あたりが夕暮れの色を濃くしていくにつれて、見ていた友達はしびれを切らしてひとりふたりと帰ってしまい、やがて校庭に残っているのは俺とウメだけになっていた。夕暮れの赤い空に月がぼんやりと輝き始めていた。もう今日は諦めようか、と考えていたとき、地面を強く蹴ったウメの足がまっすぐに空を指し、つま先が大きく弧を描きながらくるりと回って地に着いた。
「できた……」ウメがきょとんとして呟いた。
 俺は無茶苦茶に悲鳴をあげながらウメに飛びついた。ウメはしきりに鼻をすすっていた。校舎に続く石段のところで誰かが拍手をしていた。薄暗かったが、背の高い輪郭で担任の太田先生だと見分けられた。俺とウメは石段まで全力で駆けていった。
「先生見てた? ウメが逆上がりができるようになったよ」
「見てたよ。よく頑張ったな」
 先生が嬉しそうに俺たちの頭を掴んでゆすった。
「今日はもう遅いから先生の車に乗ってけ。送ってってやる。その前に梅原、ちょっと手見せてみろ。うわー、こりゃひどいな。職員室で消毒しよう。こい」
 ウメの手のひらは皮が擦り切れ、豆が潰れて血が滲んでいた。
「何年前だ? あれ」
「今十六で小四が九歳だから、七年前だね」
「あの時さ、よく諦めなかったな」俺は柔らかいサッカーボールを爪先で転がした。「手、痛くなかったのか」
「そりゃ痛かったよ。でもやめらんなかったよ。あの時の隼くんがほんと怖くて」
「あはは、悪かったな、怖くて」
 校舎へ続く階段を上がると花壇に囲まれた小さな時計台がある。時計は二本の針が十時二十分を差したまま止まって、花壇は背の高い夏の雑草に覆われていた。花壇の上には小さな羽虫が群れをなして飛んでいる。ウメが懐かしそうに校舎を見上げた。
「入ってみるか?」
「入れるの?」
「一階の端に図書室あったろ。あそこの窓の鍵が一箇所壊れてるんだ」
図書室のがたがたいう窓を開けて乗り越えると黴と埃が強く臭った。窓を越えるのに苦戦しているウメに俺は手を差し伸べて引っ張ってやった。本棚には背表紙の色あせた本が並んでいる。ウメは並んだ本を眺めながら、時々その中の一冊を手にとって懐かしそうにめくっていた。
 薄暗い階段を二階へ上ると教室がある。ウメは机に積もった埃を指先で拭い、ちょっと眺めてから指先を擦り合わせて払った。机の上に一本、指で描いた線が伸びていた。
「小さく感じる。机も教室も」
 がたがたいう窓を開けて風を入れると、蝉の鳴き声が鮮明になる。窓から見下ろす校庭をおにやんまが横切っていくのが見えた。
「そういえば、かくれんぼのときさ、お前いつもどこに隠れてたの? 雄太や正樹なんかはすぐ見つけられたのに、お前は絶対に見つかんなかったな」
「絶対にみつからない、秘密の隠れ場所があったんだ」
「へえ、どこ?」
「階段の下の物置き」
 言われてみればたしかにそんな場所があった。余分な机や椅子、大掃除のときに使うワックスなんかがしまわれている場所だ。
「あー、あそこか。見落としてた。でもあそこ真っ暗だろ。よく怖がらずに入れたな」
「うん、ドア閉めるとほんと何も見えない。一人じゃ無理だったよ」

 一通り校舎の中を見て記憶を振り返ると、俺たちは学校を出て畦道をぶらぶら歩いた。一面の田んぼに高くなり始めた太陽が煌めいていた。田んぼの横を細い農業用水路が流れている。小学生の男の子がふたり、水の流れに凧糸を垂らしてザリガニを釣っていた。稲の上を熱い風が吹いて、泥の臭いを運んできた。
「そういえば大丈夫だったか? 喉」
「え?」
「気管支悪くしてたんだろ。さっき学校の中、すげえ埃っぽかったじゃん」
「ああ、平気だよ。本当はもう治ってるんだ。お母さんが心配性だから無理やり来させられただけで」
 ウメのお母さんは鼻筋の通ったきれいな人で、いつも優しそうな笑顔を浮かべていた。
 いつだったか、雄太と俺でウメのうちに遊びに行ったときに、一緒にご飯を食べに連れていってもらったことがあった。ウメの家のリビングで、三人で録画のスターウォーズを観ていると、ウメのお母さんがご飯を食べに行こうと声をかけてきた。お昼ご飯だったから、日曜か祝日だったのだろう。連れていってもらったのは、車で二十分ほどいった市街地にあるファミレスだった。ウェイトレスのお姉さんに席まで案内され、渡されたメニューを三人で眺めた。
「雄太、何にすんの」
「俺はこれ、ネギトロ丼セット。ウメは?」
「僕はこれ。てりやきハンバーグのセット」
「あ、それおいしそう。俺もそれにしようかな」
「すごいおいしいよ! この前来たときに食べたんだ」
「あら、ラザニアがある」三人でわいわいとメニューを選んでいると、ウメのお母さんがテーブルの向かいから身を乗り出してきてラザニアの写真を指差した。「こうちゃん、これにすれば」
「え?」
 ウメは困ったような顔でお母さんを見た。
「ラザニア食べたことないでしょ? おいしいから食べてみれば」
「ハンバーグにしようかなって思ってたんだけど……」
「ハンバーグはこの前食べたじゃないの。絶対においしいからラザニアにしなさい、ね」
 ウメはメニューに目を落としたまま黙ってしまった。唇がかすかに震えていて、俺と雄太もどうしていいかわからず黙っていた。
「これでいい? 黙ってたらわからないでしょ。はっきりしなさい」
 お母さんの声が棘で少しざらついた。ウメの弱々しい笑顔にじわりと薄い闇が滲んで、口の端がこわばった。
「——ラザニアにする」
 ウメの口から母親の話が出て、そのファミレスでのやりとりをふと思い出した。健康体なのに無理やり田舎へ療養にやられるなんて、高校生になっても相変わらず母親には逆らえないらしい。
「今通ってる高校は東京の?」
「そう。駅から微妙に歩く」
「楽しくやってんの?」
「まわりが明るい友達ばっかだから、楽しいよ。バカなことばっかり言ってる。一応偏差値はそこそこ高いんだけどね」
「ははは、偏差値高いとか自分で言うなよ」
「あ、でも一人めんどくさい子いるなあ。やたらと馴れ馴れしくて、すぐ肩組んできたりしてくるんだよね」
「そういうめんどくさいやつはシカトしときゃいいんだよ。俺なら嫌いなやつはその辺の看板かなんかだと思って口もきかねーよ」
 一匹の牛蛙が目の前の畦道をのそのそと横切っていた。牛蛙を眺めながらのんびり歩いているとうしろからクラクションを鳴らされ、ウメと俺はあわてて道の端へと避けた。
「こら、ちんたら歩いてると轢いちまうぞ」
 軽トラの窓から日に焼けたじいさんが顔を出した。黒岩のじいさんだ。農協の帽子の下から、短髪にした硬そうな白髪がのぞいている。黒く焼けた腕は太い血管が浮き出て、年に似合わない硬そうな筋肉がついていた。開け放った軽トラの窓から演歌が流れている。
「あ、こんちは」俺は内心では少し身構えながら、口の端に愛想笑いを浮かべた。
「よう、隼。見たことないぼうず連れてるな。学校の友達か?」
「前にこの辺住んでたやつですよ。梅原浩太。松尾さんとこの甥です」
「お久しぶりです」 ウメがほほえんで軽く会釈した。「昔、こっちに住んでた時はよく黒岩さんの田んぼで取れたお米いただいてました。すごく美味しかったです」
「おお、そうか。また収穫の時期が来たら持ってってやろう。松尾んとこだな」
 米を褒められた黒岩のじいさんは機嫌を良くし、これで冷たい飲み物でも買え、と窓から手を伸ばして千円くれた。皺の寄った千円札はところどころ乾いた土で汚れていた。
「いつだっけ? 隼くんが黒岩さんに坊主にされたの」
 土煙を立てて遠ざかっていくトラックを見送りながらウメが言った。
「なんでそんな事まだ覚えてるんだよ、はやく忘れろ」
 小学生の頃に、少しも思い出したくもない、黒岩のじいさんにいまだに萎縮してしまうきっかけとなった出来事があったのだ。
 まだ四年生の頃だ。その年の五月、俺は十歳の誕生日プレゼントに両親からサッカーボールをもらった。ずっと自分のサッカーボールがほしかった俺はその日嬉しさのあまりボールを抱いて寝た。翌日、ボールを蹴りながら通学し、休み時間になるとサッカーばかりしていた。帰り道も友達とパスを回しながら歩いていたが、少し強めに蹴ったボールが逸れて苗を植えたばかりの田んぼに落ちてしまった。俺は慌てて裸足になると、ボールを拾いに田んぼへ入った。早く拾おうと気ばかりが急くがぬかるんだ泥に足を取られて体が前に進まず、俺はバランスを崩して田んぼへ派手に倒れこみ、植えてあった苗をいくつか倒してしまった。と、突然、少し離れたとこからしわがれた怒鳴り声が聞こえた。声のする方を見ると黒岩のじいさんが陽に灼けた額に血管を浮かび上がらせて何か叫んでいる。田んぼに入って苗を倒したことに怒鳴り散らしているらしかった。俺は青ざめた。黒岩のじいさんにとって田んぼは命よりも大事なものなのだ。勝手に足を踏み入れて苗まで倒してしまったとなれば、じいさんにしてみれば家に侵入されたうえに、大事にしていた宝物を壊されてしまったようなものだ。俺はとっさに立ち上がり、泥に足を取られながらも必死で逃げ出した。逃げる途中でまた苗を何本か倒した。畦道に上がると裸足のまま全力で駆けた。怒鳴る声と走る足音がうしろから徐々に迫り、荒い呼吸を首筋に感じた瞬間、シャツの襟首をぐいと掴まれ、目から火花が散るような衝撃が頭に走った。げんこつだけでは許されず、俺はじいさんの家まで引っ張られ、バリカンで頭を刈られた。泣きながら家へ帰ったが、母親は「さっぱりしたじゃない」と新しい髪型を褒め、今度から黒岩のおじいちゃんに髪切ってもらいなさいととんでもないことまで言い出した。兄貴はずっと腹を抱えて笑っているし、夜になって仕事から帰ってきた父親も笑いながら俺の頭を撫でては坊主頭の感触を楽しんでいた。俺の受けた罰は田んぼを荒らした当然の報いというわけだ。
「先祖代々引き継いでいる大事な田んぼだからな。墾田永年私財法が施行された時から引き継いでるらしいぞ」
「おお、まじか……。奈良時代じゃん」
 その日以来、ザリガニを釣るときも黒岩のじいさんの田んぼには絶対に近づかない。
 畦道の途中に無人の野菜販売所があり、その横にコーラの赤い自販機がある。昨年の四月に消費税が五パーセントに上がったせいで缶ジュースの値段も百二十円になったが、この自販機はまだ百十円で買える。
「コーラでいいか?」
「うん」
 五百ミリのコーラを二本買ってお釣りを二人で分けた。
「なあ、ロシアンルーレットやろうぜ」
 俺は片方のコーラを思いきり振り、ウメに見えないように二本を背中で何回か持ち替えた。
「おら、好きな方選べ」 
 俺が差し出した二本の缶をウメは真剣に見比べ、「こっち」と右を選んだ。
「こっちの方がついてる水滴が多い。振られていない可能性が高い」
「ちょっと待て」
 俺はTシャツで二本とも水滴を拭きとり、また背中に隠して何度か持ち替えてから差し出した。
「ずるくない?」
「余計なこと言うからよ」
 推理を活かせなくなったウメは勘で右を選び、せーのでタブを起こすと俺の缶からコーラがいきおいよく噴き出した。
「ぶわっ!」
 慌てて缶に口をつけ、噴き出すコーラを飲み込んだら気管に入って激しくむせた。ウメは目に涙を浮かべてバカみたいに笑っている。あふれたコーラが指から滴り、乾いた道に染みを作った。俺は手を振って滴を払った。指先がべとべとして気持ち悪かった。
「最っ悪だよ。手ぇ洗いてえ」
「水道なんてこの辺にないよ。あそこで洗う?」
 ウメの指差す先に田んぼ用水のための溜め池がある。
 水際にしゃがみ込み、冷たい水にべたべたする手を突っ込んで洗った。ウメは草の上に座り、俺のそんな様子を見てにやにやしながらコーラを飲んでいる。手を振って水を切りながらウメの隣に腰を下ろした。ウメと一緒に溜め池を眺めていると、あのころの記憶の断片が頭にぱっと浮かんだ。このため池のほとりで、その頃流行っていたドラゴンボールのカードダスを自分が手に持っている場面を、どういうわけかふと思い出したのだ。映像だけが頭に浮かぶが、前後のつながりがよく思い出せない。何のカードだっだろうと考えていると、ほつれた糸を引くようにするすると記憶が蘇ってきた。今思い出したのは、トランクスのカードをウメに渡そうとしている場面だ。そのころ、ウメがお母さんにカードダスをすべて捨てられてしまい、俺たちは同じカードがでるとウメにあげていた。だが俺がカードを手渡そうとしたとき、風が吹いてカードが飛ばされ、溜め池に落ちてダメになってしまったのだ。
「この池にトランクスのカード落としちゃったことあったな。ありゃもったいなかった」
「あの時の空気やばかったよね、今だから言えるけど」とウメが苦笑する。
「この池まだメダカ採れる?」
「そりゃいるんじゃない。さすがに高校生にもなってメダカ採りはしないけど」
 コーラを一口飲んでかたわらに置き、太陽が反射する水面を眺めた。一匹のトンボが、尻尾を何度も水につけながら飛んでいた。
「メダカ採ろうとして牛蛙のオタマジャクシ捕まえてパニックになってたの誰だったっけ。雄太くん?」
「あ、あったわ。用水路に虫取り網つっこんだら入ってたんだよな。オタマジャクシの妖怪が採れたとか騒いでたな。あはは、バカだよな」
「雄太くん元気?」
「あいかわらずバカなことばっかやってんぞ。社にいればそのうちくるだろ」
「亮平くんは?」
「あいつ甲子園目指すっていうんでS学いったよ。今ちょうど予選やってる頃だろ。一年じゃさすがにスタンドで応援だろうけど」
「じゃあ」その時だけウメはすっと息を吸って一拍おいた。
「カズキくんは?」
 その名前を聞いた瞬間、心にじわりと闇が滲むのを感じた。コーラに伸ばした手が動揺して、草の上に置いた缶を倒してしまった。黒い色が緑の草の上に広がり、俺は慌てて缶を起こす。俺はウメの顔を見た。無邪気そうな顔で答えを待っている。
「カズキは——」なんて答えればいいかわからなかった。今までその名前を忘れていたのに、耳にした瞬間に真っ黒な靄が胸に溢れてくるのを感じた。「いない」
「え?」ウメの顔に失望が浮かぶ。「なんで? 転校したの?」
 俺は曖昧に言葉を濁しながら「腹減ったな。昼飯食いに帰ろーぜ」と尻の草を払いながら立ちあがった。

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