孤立

文字数 1,794文字

 五時間目が終わる頃に激しかった雨が突然止んで、放課後にはすっかり雨上がりの晴れた空が広がっていた。校庭にはいくつもの大きな水たまりができて、太陽を反射して輝いている。
「今日さ、うちに来てストⅡターボやろうよ」
 下校途中、田園を抜けて住宅街を歩いているときに、正樹がそう言って波動拳を出すような手の動きをしている。
「え、お前もう買ったの? あれ昨日発売でしょ?」
「うん。昨日家族で宇都宮の東武デパート行ったら売っててさ。速攻で買ってもらった」
 みんながストⅡの話で盛り上がっているなか、隼だけが黙り込んで、話しかけてもろくに返事すらしなかった。昼休みのかくれんぼで和希とウメを見つけられなかったのがおもしろくないらしかった。もし見つからなかったのが正樹や亮平だったら放課後まで引きずるなんてありえなかったと思うけど、和希だから悔しいのだろう。
 通学路の途中に加藤さんという老夫婦の住んでいる家があった。加藤さんの家ではヤマトという名前の柴犬が庭で放し飼いにされている。ヤマトは家の前を人が通ると門のところまで駆けてきて、格子の間から鼻先を突き出し、唾液で濡れた牙をむき出しにして吠え立てる。僕たちが通学や下校で家の前を通るたびに、ヤマトは毎回門のところに出てきてはうるさく威嚇した。僕らはヤマトが苦手だった。特にウメはヤマトを恐れていて、一人で歩くときは遠回りになってもその道を迂回していくほどだった。
 みんなで加藤さんの家の前を通りかかると、いつものようにヤマトが門扉のところに走ってきてけたたましく吠え出した。たちまち隼の顔が紅潮し、突然ウメの被っていた帽子を奪うとヤマトに向かって投げつけた。帽子は門扉に当たり、鉄の格子越しにヤマトの顎の下に落ちた。ヤマトはさらに激しく吠えだした。ウメは顔を真っ青にして、狂犬のように吠え立てるヤマトを見て足をすくませていた。僕たちも噛まれそうな気がして近づけず、帽子を拾ってやることができない。どうしようと思って立ちすくんでいると、和希が何の迷いもない足取りで吠え立てるヤマトに近づいていった。すぐ目の前まで行くと、和希はヤマトの頭にゆっくりと手を伸ばしていった。噛まれる。そう思って僕たちは身を硬くした。和希の手のひらがヤマトの頭に触れた。とたんに、あれだけ狂ったように吠えていたヤマトは急に大人しくなり、鼻先を和希の手のひらに押し付けて匂いを嗅ぎ、ぺろぺろと舐めながら尻尾を振りだした。僕たちは何が起きたかわからずにぽかんとしていた。和希がサーカスの猛獣使いか何かのように見えた。和希はウメの帽子を拾って戻ってきながら、一瞬凍るような冷たい目を隼に向け、帽子についた汚れを払ってウメに渡した。
「ウメに謝れよ」
 和希の声は冷たく、静かな怒りをにじませていた。
「なんでだよ。余計なことすんなよ。俺はウメを鍛えてやろうと思ったんじゃん」
 隼はにやにや笑っていたが、虚勢を張っているのか口元が引きつっている。二人は黙ってにらみ合っていた。加藤さんの家の庭では大きな夏みかんの木が枝を広げ、葉の茂った梢が道まで張り出している。木漏れ日の混じった葉の影が、にらみ合う二人の顔を斑らに染めていた。塀から張り出した枝に黄色い実がいくつもなっていて、その木のどこかで、張り詰めた空気に少しも調和しない声で小鳥がさえずっていた。
「いこう」
 和希は隼から目をそらすと、ウメを促して歩き出した。ウメは迷うような目でちらりと隼の顔色を窺ったが、和希のあとを追って歩き始めた。
「そんなんじゃいつまでたっても弱虫のままだぞ!」
 隼が二人の背中に捨て台詞を吐いた。その言葉が言い終わると同時に、正樹が隼の方を見もせずに二人の背中を追って歩き出した。三人の背中が遠ざかっていき、ずっとうつむいていた亮平が突然、隼と僕を残して走り出し、三人に追いつくと歩調を合わせて歩き出した。僕と隼は二人で取り残された。僕はそっと隼の顔を窺った。隼の目には怒りと悲しみの溶け合った色が浮かんでいる。
「行こうよ」
 僕はそう声をかけた。隼は何も答えなかった。アスファルトに夏みかんの木の葉陰が揺れている。僕はうつむいたまま一歩踏み出した。この一歩が隼にとってどんな意味を持っているか僕にはわかっていた。路上に聞こえるのは僕の足音だけだった。しばらく歩くと、背後でまたヤマトが吠え出すのが聞こえた。
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