文字数 3,953文字

 霧雨に濡れたシャツが冷たく体に張り付いている。僕はもう十五分も、拝殿のひさしの下で細かい雨粒を避けながら、境内でウメが隼を追い回す様子を見ている。濡れた石畳には、どこから飛んでくるのか桜の花びらが張り付いて、白い点がいくつも散っているように見えた。僕の隣では亮平と正樹が、雲のように白いため息をつきながら鬼ごっこを眺めている。隼は挑発するようにわざとたちどまってはウメの手をかわし、楽しそうな笑い声をあげてまた距離をとる。ほとんど走りっぱなしのウメは辛そうに息を切らしていた。ウメの遅い足では隼を捕まえられるはずがなかった。僕たちだって本気を出せばウメを交わすのなど簡単だったが、冷たい霧雨の中の鬼ごっこを早く終わらせたくて、滑って転んだふりをしたりフェイントにひっかかったふりをしたり、何とかわざとらしくならないようにしながら自分たちから捕まったのだ。だいたいこんな小雨交じりの霧雨の中、本当だったら外でなんて遊びたくない。春休みに入って暖かい日が増えたが、雨が降る日は冬に戻ったように寒い。ところが隼には、「小雨が降る中、外で遊ぶのはたくましさの証明だ」という謎の美学があり、僕たちはそれに付き合わされているのだ。
 去年のバレンタインの日のことだ。朝のホームルーム前、男子が教室のうしろに集まって話していると、クラスに三人しかいない女子のうちの一人がみんなにチョコをくれた。隼の貰ったチョコだけが他と比べて外箱が豪華だった。
「本命なんじゃないか」
 僕たちはやっかんだ気持ちもあって、みんなでさんざん冷やかした。隼は本気で鬱陶しそうにしていたが、隼が不機嫌になればなるほど僕らは調子に乗って囃し立てた。
「結婚式はいつですか?」
 僕がにやけながらマイクを突きつけるような手振りで聞くと、隼は近くにあった椅子の脚を握って持ち上げ、窓ガラスに思い切り叩きつけた。飛び散った破片が陽を反射して輝いていた。教室の中に沈黙が張り詰めた。誰もが青ざめていた。その日以来、僕たちは隼の機嫌が悪くなることを恐れている。
 ウメの顔は雨で濡れているが、辛そうな表情を見ていると泣いているようにも見える。濡れた顔を拭いながらそれでも必死に鬼を続けるウメを見ていると、うなじから垂れた水滴が背中を伝って僕はぞくりと身震いした。
「なあウメ、もうギブアップしちゃえって」亮平が鼻をすすりながら声をかける。亮平の助け舟に、ウメが少し嬉しそうにこっちを見た。本当はもうやめたくて仕方ないはずだが、言い出せないのだ。
「何言ってんだよ、だめだよ途中であきらめちゃ。こういうのだってウメの体力アップに役立ってるんだぞ。せめて五十メートルで十秒は切れるようにならないと」と隼が言い返してきた。
 人は家族からいろんなことを学ぶ。相手のためにやっているという大義名分をつけていじめ抜く手口は、隼の兄ちゃん、直登くんのやり方そのものだった。先週の土曜日の夕方、僕がボンドの散歩で隼の家の前を通りかかると、庭で隼が兄ちゃんと組み合っているのが見えた。隼の家の庭は低い生垣で囲まれている。二人ともなにしてんだろうと思って生垣越しに見ていると、兄ちゃんが隼に足払いをかけて転ばせた。背中が土に叩きつけられる鈍い音がして、ぐっ、と隼が苦しそうな息を漏らし、僕は思わず持っていたリードをきつく握りしめた。
「ほら早く立てよ。あと三十本な」
 隼はよろよろと立ち上がった。着ていたTシャツが土で汚れている。もうだいぶ転がされているようだった。
「これが大外刈り」
 隼が立つやいなや、また兄ちゃんが足をかけて隼を地面に叩きつける。隼のうっうっと絞るような声がかすかに聞こえる。泣いているらしかった。
「よう、雄太くん。犬の散歩?」
 目が離せずに立ち尽くしていたら兄ちゃんが僕に気づいて、微笑みかけてきた。
「こんにちは」と僕はとっさに引きつった笑顔を返し会釈した。「なにしてるんですか?」
「いま? 柔道の練習。学校で周りからなめられないように、こうやってたまに鍛えてやってるんだ。修行だよ、修行」
 兄ちゃんはあははと屈託なく笑った。本当に柔道の練習なら隼が一方的に技をかけらているはずがなかった。隼は僕の方を見ようとしない。泣き顔を見られたくないのだろう。僕はお辞儀をするとボンドを引っ張ってその場を離れた。
 隼からは時々兄ちゃんの愚痴を聞かされた。四つ上の兄ちゃんは現在中二で、学校では成績上位で外面もよいが、弟への扱いは獲物をなぶる残酷な虎のようだった。定期テストの点数に納得がいかなかったり、学校で嫌なことがあったりすると、隼は「修行」と称したストレス解消に駆り出されるのだそうだ。「修行」は両親が出かけている時など大人の目の届かないところで行われ、告げ口なんてすれば報復が待っている。他にもひどいことをしてくるそうで、この前はお年玉で買ったスーファミのソフトを勝手に売られたと言って怒っていた。
 兄貴から「修行」をつけられた隼は、その後でウメに似たような「修行」を課した。去年の夏休み前の事だ。ある日の放課後、隼が突然、ウメに逆上がりの練習をさせようと言い出した。その日の前日、隼は兄貴から「宇宙空間で生き抜く修行」を受けていた。お風呂に張った水の中に無理やり顔をつけさせられ、限界がくるまで頭を抑えつけられる。がんばれ、これくらい我慢できないと宇宙では生き残れないぞ。僕はその話を通学途中のあぜ道で隼から聞かされた。
 逆上がりの練習には僕らも付き合って、棒に腹を引き付けるんだよとアドバイスをしたり、蹴り上げた足を持ち上げるのを手伝ったりしていた。三十分ほどすると手の皮がむけだした。その痛みで、半泣きになってぐずぐずと鼻をすすりながら練習するウメを、隼はスパルタを装って散々怒鳴りつけていた。練習を始めて一時間くらい過ぎたころ、何が起きたのか突然するりとできるようになった。鉄棒を一回転したあとで、ウメは何が起こったのかわからずきょとんとしていて、僕と亮平と正樹は飛び上がったりお互い抱きしめあったりしながらその瞬間を喜んでいた。
「やったな、隼」
 僕が隼を振り返ると、その時の興奮が一気に引いていった。隼は笑っても喜んでもいなかった。亮平と正樹にもみくちゃにされているウメを、冷たい目でつまらなそうに見ていた。
 隼は兄ちゃんからされた仕打ちの鬱憤を、他の誰かで晴らしたいだけだったのだ。標的にされるのはいつもウメだった。「修行」という名目は、みんなの中で一番体力がないウメにうまく調和させやすかったのだろう。それに気が弱いウメなら逆らってくる心配もなかった。不正じゃんけんで延々と鬼ごっこの鬼をやらされても、手の皮がむけてまで鉄棒の練習をさせられても、ウメは泣きそうな顔で唇を震わせながら仕打ちに耐えているだけなのだ。助けてやりたかったが、口を出そうとするたびに、あの時のガラスが割れる音が脳裏をよぎって、結局僕らはウメをいけにえにした。申し訳ない気持ちはあったので、同じのが二枚出たカードダスをあげたり、捕まえたカブトムシの飼育を任せたりしては、傍観するだけのやましい罪悪感をつぐなったような気になっていた。
 マリオワールドでクリアできない隠しコースがあるので手伝ってほしいとウメに頼まれたことがあった。その日は一緒に下校した。途中僕のうちに寄って、玄関でウメに待っていてもらい、ランドセルを置いてお母さんに遊びに行ってくると伝えてから二人でウメのうちへ向かった。
「おじゃましまーす」
 玄関を上がってリビングへ入り、ウメのお母さんに挨拶をした。
「おばさん、こんにちは」
「あら、雄太くん」
 僕を見るとおばさんは少し困ったような顔をした。
「ごめんね雄太くん。せっかく遊びに来てくれたんだけど、浩ちゃんこれから水泳の練習で出かけなきゃならないのよ」
「え? そうなの?」
 僕が驚いてウメを見ると、ウメも驚いて口をぽかんと開けたまま固まっていた。この辺りにスイミングスクールはないので、市の中心地へ車で向かわないといけないのだとおばさんは言った。マリオはまた今度やることにして、その日は仕方なくそのまま帰った。
 次の日の学校で、ウメが昨日のことをわざわざ謝りに来た。
「別にいいけどさ。スイミングあるの忘れてたの?」
「いや。僕もあるなんて知らなかったんだ」
「あ、そうなん? 毎週あるんじゃないの?」
「ううん、昨日が初めて。お母さん、そういう習い事とか僕に聞かないで勝手に決めちゃうんだ。僕が知らないうちに申し込まれてて、いつも、今日からどこどこにこれ習いに行くから、って急に言われるんだ」
「うわ、最悪じゃん。俺なら行きたくねーっ、て大暴れしそう。おまえ、いやじゃないの。自分がやりたくもない習い事無理やり通わされて」
「そりゃ嫌だけどさ」
「じゃ、やりたくないっていえばいいじゃん」
「そんなこと言ったら、そんなわがままをいう子はうちの子じゃない、気に入らないのなら出て行きなさい、って言われる」ウメは笑っていたが、声に悲しそうな色が濃くなった。
 自分が言われたわけでもないのに、その言葉を聞いて僕はなんだか嫌な気持ちになった。親という立場を最大限に利用した脅し文句だ。さすがに本気で出て行けとは言っていないのかもしれないけど、小学生に家から出て行けというのはその辺で野たれ死にしろと言っているのと変わらない気がする。言う方が想像する以上に言われた方は恐怖を感じるにちがいない。そんな言葉を言われたら、いやでも黙って習い事に通うより他に選択肢なんてない。ウメが人の顔色をうかがって強くでられずに、嫌なことでも従ってしまうのは、お母さんが反抗の牙を抜いているせいのような気がした。
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