1998

文字数 2,228文字

 苔生した石畳の上で死にかけの蝉に蟻がたかり始めていた。仰向けの蝉は弱々しく足を動かし、その上には夏の朝の太陽が木の葉の影を落としている。
 俺は社の階段に座って蝉の体でうごめく黒い点をぼんやり眺めていた。俺の背後には荒れ果てた社がひっそりと建っている。賽銭箱の中は枯れ葉とゴミが溜まっていて、大きな鈴をガラガラと鳴らす太い綱は腐ってちぎれ、蛇の化け物の骨みたいに賽銭箱の横にとぐろを巻いて落ちている。社を囲む林では何百もの蝉が喧しく鳴いていて、狂ったように猛る激流のようだった。木の葉の間から強い陽が射して俺は目を閉じる。ちらちらした陽の光をまぶたの裏に感じたまま、たちまち蝉の声の洪水に包まれる。
 忘れ去られたように佇む社は、田園のはずれにある小高い森の中に建っていた。俺がこの場所を見つけたのは小学二年の夏休みのことだ。川原でザリガニを捕るのにも飽きて、みんなであたりを散策していると、道から林に向かって伸びる石段を見つけた。石段は長く、最後まで上りきるころには額にも背中にも汗をかいていた。石段を上りきったところに石の鳥居があって、そこをくぐった開けた場所には古びた神社があった。苔むした石畳の参道に午後の陽があふれていた。手を入れる人がいないらしく、石畳の隙間から長い雑草が伸びていて、色あせた木造の拝殿を苔のようなものがところどころ薄緑に染めていた。
「秘密基地だ!」
 誰かが恍惚としてつぶやいた。秘密基地だ——。俺たちはその響きに魅了された。一面田んぼと畑の農村地帯では子供の遊ぶ場所が限られている。メダカやザリガニの捕れる用水路も毎日では飽きるし、住宅地にある小さな公園は乱暴な上級生がきたら場所を譲らなくてはならない。境内は少人数で鬼ごっこをするのにちょうどよい広さで、なにより木登りをしても咎める大人の目がないのは嬉しかった。かくれんぼをしたり、あたりを探索したりして、夕方になるまでそこで遊び、帰る頃にはすっかり俺たちのお気に入りの場所になっていた。それからずっとこの場所は俺たちのたまり場になっている。高校生になった今でも、何人かで集まっては親父からパクってきた煙草を吸ったり、誰かが持ってきたエロ本を読んだり、だらだらと喋ったりして時間を潰していた。
 涼しい日陰の風が耳を掠めて、蝉の声にかすかな足音が混ざった。誰かが社へ続く長い石段を上がってくる。俺は目を閉じて足音に耳をこらした。ここへくる奴は幼馴染の友達しかいなかったし、その数も五人にも満たない。過疎化が進んだ農村で、一学年に生徒が十人いればいい方だったのだ。この場所を遊び場にしてから、いつしか俺は友達の足音を聞き分けられるようになっていた。亮平は四年生の時に野球を始めてから、一段一段をしっかり踏みしめながら駆け上がってくるようになった。ダッシュのトレーニングを兼ねているのだ。体力のない正樹は階段の途中で何度か立ち止まって休憩し、その度にのんびりとした足音が途絶える。一段飛ばしに駆け上がってくる軽快な足音は——。
 足音が次第にはっきりとしてきた。この引きずるような歩き方は気が沈んでいるときの雄太の足音だ。普段ならもっと軽快に、スキップでもしているような音を立てて上ってくる。少し前に足を引きずって上がってきたときには、俺の顔を見るや否や「この辺に俺の定期落ちてなかった? 買ったばっかなんだけど」と泣きそうな顔をしていた。
 石段を踏む足音が次第に大きくなる。スニーカーの靴底が石段を踏んで、砂を擦ったような音を何度も立てている。その足音を聞いていると、不思議と心にかすかな闇が射すようだった。雄太とは腐れ縁で、幼稚園から今まで、それこそほとんど毎日のように一緒に遊んできた。足音だけでその日の機嫌がいいか悪いかもすぐにわかる。どういうわけか今日の足音だけは感情が読み取れない。ここまで弱々しい雄太の足音を聞くのは初めてのような気がする。
 石段の方を見ていると、鳥居の下に雄太の姿が見えだした。少し俯いていた顔が泣いているように見えた。暗い目のままこっちに顔を上げたので、俺は軽く手を振った。
「どうしたよ、元気ねえな。今度は財布でも落としたか?」俺は目の前まできた雄太に笑いかけた。雑木の葉陰が顔にかかり、雄太の頬はひどく青ざめて見えた。顔の前に飛んできたやぶ蚊を俺は手で払った。
「今朝、ウメが——」
  雄太の小さな声はほとんど蝉の声にかき消されていた。
「死んだ」
 聞き間違いだと思った。蝉の声が鬱陶しかった。
「……なんで?」
「部屋で首を吊ってたらしい。自殺だ」
「自殺?」
 指先が冷たく痺れた。雄太が俺の隣に腰を下ろし、なにか言おうと口を開きかけてはためらっていた。雄太は黙ったまま、落ちていた細い木の枝を拾ってふたつに折った。
「あいつが突然死ぬ原因がさっぱりわからないんだ。おとといの夜、お前とウメの二人で俺のうちに泊まって、一緒にゲームやって肝試しして、昨日の朝帰って行った。俺にはいつも通りに見えた。なにか自殺するようなことを抱えているようには全然見えなかった」
 雄太は手に持っていた枝を投げ捨てた。
「隼、なにか心当たりあるか」
 雄太が疑うような、責めるような、答えを恐れているような目で俺を見ている。その視線から逃れるように俺は目を伏せた。昨日の光景が、夕暮れの鮮やかな色彩とともに目に浮かんできた。俺の見る白昼夢のなかで、ウメが狂ったように泣き叫んでいる。
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