友達

文字数 3,309文字

 外で鳴く蝉の声に、鉛筆が紙の上を滑る音が重なっている。僕は一度問題を解く手を止めて、みんなの答えを覗き込んだ。
「なあ、なんでこの問題の答え、俺とみんなのとで違うの? 計算間違ってる?」
 僕が訊くと、正樹が僕の書いた計算式を覗き込んだ。
「雄太、平行四辺形の面積は底辺かける高さだぞ。なんで底辺に横の辺の長さかけてるんだよ」
「あ、やべ。そうだった」
 夏休みが始まって一週間がすぎた。僕と和希と亮平は、正樹の家に集まって夏休みの宿題に取り組んでいた。ウメはスイミングがあるというので参加できず、隼とは終業式から顔を合わせていない。テーブルの真ん中には細かい水滴のついたバヤリースのペットボトルが置いてある。亮平が自分のコップにジュースを注いで半分ほど飲んだ。
「あー疲れた。ちょっと休憩」
「お前さっきも休憩してたじゃねーかよ。とっとと終わらしてストⅡやろうぜ」
 正樹に促されて、はあーと深いため息をついて亮平はまた鉛筆を握った。
「なあ」少し迷ったような間をおいて和希が口を開いた。「隼も呼ばない?」
 正樹がちらりと亮平に目配せを送り、亮平がかすかに首をかしげるような仕草をした。あまり歓迎したくない提案のようだ。和希の瞳にふと悲しそうな色が浮かぶ。
「なあ、頼む」
 和希の声には懇願するような響きがあり、普段は見せない和希の様子に正樹と亮平は少し動揺して目を見合わせた。
「まあ和希がそう言うなら、別にいいよ」
 宿題のノルマを終えると、正樹に隼の家へ電話してもらった。子機の受話器から隼のお母さんの声がかすかに漏れているが、なにを言っているかまではわからない。向こうの電話口に隼がでた様子がないまま正樹は会話を終えて、「失礼します」と挨拶すると通話を切った。
「隼のやつ、どっか遊び行っちゃったらしいぞ。一緒じゃないのって言われた」
「……そっか」
 和希の顔に落胆が浮かぶ。つらそうな横顔を見て僕まで苦しくなった。夕暮れの住宅街でウィリアム・テルごっこに遭遇していらい、和希は誰よりも隼から避けられていて、それに和希も気がついていた。和希は、自分のせいで隼と僕たちとの間に亀裂が入ってしまったと気に病んで、それを必死に修復しようとしているのだ。和希一人に抱え込ませていいわけがない。もともと隼の横暴を見て見ぬふりをしてきたのは僕たちだし、その横暴に立ち向かえる相手が現れた途端に手のひらを返したのも僕たちなのだ。
「俺、探してくるよ」
 僕が立ち上がると、正樹が怪訝そうな顔をした。
「探すって、どこ探すの? そもそも」
「どっかその辺ぶらぶらしてるんでしょ」
「じゃあ俺も行くよ」
 和希が一緒についてこようとしたが、僕は一人で大丈夫だと言って押しとどめた。和希が一緒だと、隼がまたつまらない意地を張って話がこじれてしまうような気がしたのだ。
「どーせ俺今日チャリだしさ。パーっとその辺を一回りしてくるわ。三人で先にストⅡやってて」
 僕は靴を履いて玄関を出ると、強い陽差しのなかを自転車に乗って走り出した。


 田んぼの泥臭い風を煽りながら社へ向かってペダルを漕いだ。そこに隼がいるかどうかは確信がなかったが、ほかに当てがあるわけでもない。田園を抜け、神社の麓にたどり着くと自転車を降りて石段を上がった。踏み出す足が重かった。「修行」の痛みを持て余した隼が、冷たい怒りに染まって僕を待っているような不安がずっとしていた。
 社には誰もおらず、湧き上がるような蝉の声に包まれて二体の狛犬が佇んでいるだけだった。僕はがっかりすると同時に少しほっとした。しばらくここで隼を待ってみようかと考えながらうろうろしていると、急に小便がしたくなってきた。社で遊んでいるときにトイレに行きたくなると、僕たちは裏の林で用を済ます。僕はいつものように社の裏手に回り、林の奥に入っていった。
 林の中で用を足しながら傍らにある栗の木をなにげなく見上げると、幹の少し高いところで何かが動いているのに気がついた。目をこらすと、大きなミヤマクワガタがそこに溢れている樹液を吸っている。僕は興奮して、どうにかして捕まえたくなった。小便をすべて出し終えると服装を整え、改めて幹を見上げる。クワガタは大人が手を伸ばしても届かないくらい高いところにいる。木には足掛かりになりそうな枝がなく、登るのは無理そうだ。何度か木を蹴ってみたが太い幹はびくともしない。その辺に落ちている長い枝を探してきて、なんとか突ついて落とす作戦に出た。背伸びして枝を振り回したが届かず、飛び上がってやっと先端がクワガタの背中を掠めた。手応えを感じてもう一度飛び上ろうとすると、クワガタは危険を察知したのか羽を広げて飛び立ち、葉の茂った枝のなかに逃れて見えなくなってしまった。
「あ、くそ」
 僕は諦めきれずに、クワガタの消えていった梢をしばらく見上げていた。緑の葉の隙間から、破片のような青空が見えた。
 往生際悪くクワガタの行方を気にしていると首の後ろが痛くなりだしたので、しぶしぶ諦めて引き返した。社の横を通っていると、拝殿の方から隼の笑い声が聞こえた。僕がクワガタに気を取られているうちに来ていたようだ。久しぶりに聞く機嫌の良さそうな笑い声だった。隼が何か話す声が聞こえる。誰といるのだろうと気になってそっと覗き込んだが、拝殿の前の階段には隼一人しか座っていない。一人で喋って、一人で笑っているのだ。様子がおかしかった。独り言というより、誰かと会話しているように時どき相槌を打ったり、相手の言ったことに反応するみたいに笑い声をあげている。僕は凍りついたように動けなくなり、そのまま隼の様子を見守っていた。
 ふいに僕の耳の横を羽音がかすめた。はっとすると、目の前を一匹の大きなスズメバチが飛びまわっていて、僕は思わず顔を背けながら「うわっ」と声をあげてしまった。手を振って追い払い、スズメバチがそのままどこかへ飛んでいったあとで、しまったと思って僕は目をつぶった。目を開けて恐る恐る隼を見ると、隼はもちろん声に気づいていて、驚いた顔をこちらへ向けている。
「あれ? 雄太か。びっくりしたー。来てたんだ」
 なんとなく気まずい思いで、僕は隼の前へ出ていった。
「うん。下にチャリ止めてあったの気づかなかった?」
「どこに止めた? 全然気づかなかった。裏で何してたんだよ」
「しょんべんしてた。でかいミヤマクワガタいたよ」
「うそ? 捕まえた?」
「いや、逃げられた」
「ははは、ざまあ」
 夏休み前のことなどなかったかのように、隼に笑顔が戻っている。独り言を見られた気恥ずかしさなど少しも感じていないようだった。
「今さ、正樹んちでみんなしてストⅡやってるんだけど、隼も来いよ」
 ここで何をしていたのか、どうしてあんな大きな声で、誰かと会話するみたいに独り言なんか言っていたのかを聞く勇気がわかず、そのまま本題を切り出した。
「そうなの? 行きてえけど、俺今からバスケやりに行くんだ」
「バスケ? どこで?」
「夏休み入ってからさ、校庭にバスケのゴール設置されたんだよ。先生言ってたの覚えてない? 夏休み明けたら校庭にいいものができてるから楽しみにしとけよって」
 そういえば終業式の日にそんなことを言っていた。みんなで「ブランコ?」「うさぎ小屋?」「池?」などと自分の予想をあげて聞き出そうとしたが、先生は夏休み後のお楽しみだと秘密めかして笑い、何ができるのかは教えてくれなかった。
「あー、言ってたね。そんなのできたんだ。嬉しいけどさ、別にそこまで隠すほどのものでもなかったじゃん」
 隼と僕は一緒に石段を下った。自転車にまたがって、隼との別れ際にふと思いついて訊いた。
「ひとりでやるのか? バスケ」
「いや、二人だよ」
「誰と?」
 隼は一緒に遊ぶ相手の名前を口にした。聞きなれない名前だった。顔が思い浮かばなかった。下級生や上級生たちの顔を思い出してその名前と一致させようとしているうちに、「じゃあな。今度みんなでバスケしようぜ」と手を振って、隼が学校の方へ歩き出してしまった。遠ざかっていく後ろ姿を見ていると、僕はまた隼が一人で笑う声を聞いた。
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