兄
文字数 3,404文字
よく晴れた日曜日、昼食を食べ終えてリビングでごろごろとテレビを観ていると、隼から「遊ぼうぜ」と電話があった。家にあったポテトチップスとポッキーを手土産に持つと、僕はマウンテンバイクにまたがって隼の家に向かった。インターホンを押すと隼のお母さんが出てきた。
「こんにちは」
「あら雄ちゃん、いらっしゃい。どうぞあがって、隼なら部屋にいるから」
「はーい、お邪魔しまーす」
いつも日曜に隼の家に遊びに来ると、おじさんがリビングでくつろいでいるのを目にするのだが今日は姿が見えない。
「今日おじさんいないんですか?」
「朝からゴルフに行ってるの。夜まで帰ってこないから楽でいいわ。あ、おばさんがこんなこと言ってたなんておじさんに言っちゃだめよ」
おばさんはにこにこして口元に人差し指を立てた。
二階に上がって隼の部屋に入ると、隼はベッドに寝転がって漫画の単行本を読んでいた。
「よう」
「うん。ポテチとポッキー持ってきたから食おうぜ」
「やった! 気がきくじゃん」
隼は読んでいたページを下に伏せて漫画を置き、体を起こしてベッドに腰掛けた。
「何読んでたの?」
「これ?」隼は伏せてある漫画を指差した。
「おれたちトゥルース探偵団」
「全然知らない。おもしろいのか?」
「めちゃくちゃおもしれーよ。そのへんに一巻あるからさ、読んでみ」
ノートやら鉛筆やら消しゴムやらが散らばった学習机の上に漫画は置かれていた。僕は言われるままに、椅子に座ってページをぱらぱらとめくりだした。トゥルースというコードネームのIQ200の小学五年生が、難解なトリックを解いて殺人事件を解決するという内容だった。最近になって少し流行りだした推理ものだ。
「トゥルースってどういう意味?」
「主人公の名前を英語にするとトゥルースなんだって。読んでれば第一話のどっかに書いてあったはず」
ストーリーはひとつの事件が四、五話に渡って展開し、解決される構成だ。最初の事件は密室殺人で、いざ読み始めてみるとトリックと犯人が気になってしまい、僕は集中してページをめくりだした。隼もポッキーを開けながら自分の読んでいた続きに取り掛かり、僕たちはしばらく無言で漫画を読み続けた。一巻を最後まで読んだが、犯人は壁をすり抜けることができたというトリックもくそもないオチに僕は愕然とした。
「なあ隼」僕は漫画から顔を上げた。「これほんとにおもしろいと思うか」
「おもしろいじゃん。トゥルース頭いいし」
隼はトゥルースの頭脳に憧れているらしい。テストの点が悪かろうとだいたい平気そうな顔をしているが、心の底ではコンプレックスだったのかもしれない。
「トゥルースの決め台詞がかっけーのよ」
隼は単行本をパラパラとめくり、その決め台詞のページを僕に見せてきた。
「ほらこれ。『トリックを暴くのは難しい、でも不可能じゃない』。毎回事件が起きて、殺人現場を前にするたびに言うんだ」
隼の指差すコマを義理で覗き込んだが、そのセリフを言っているキャラに違和感がある。トゥルースは小学生という設定だが、隼の指差しているキャラはもっと年上だ。
「これトゥルースじゃないじゃん」
「トゥルースだよ。探偵だから、どんな年齢の男にも女にも変装できるんだよ。これは高校で起きた事件を解決するために、高校生に変装して学校に潜入してるわけよ」
無茶苦茶にもほどがあるなと思って、僕は単行本を閉じて机の上に置いた。僕が単行本を置いた横に、ノートが広げたままになっていた。ノートには何か絵が描かれていて、僕はなんとなくその絵を見て顔をしかめた。隼が描いたのだろう、それほど上手くはないが、男の人の腹が刀で割かれて内臓が飛び出している。飛び散った血が丁寧に赤で塗られていた。気持ちの悪い絵だった。男の人には矢印が引っ張ってあって「直登」と書かれてあった。隼のにいちゃんの名前だ。ボンドの散歩の時に見かけた、「修行」をしている二人の姿がふと浮かんだ。
「あーあ、転校生がトゥルースだったら良かったのに」心底落胆したように隼が呟いた。
「そういえば今日直登くんは?」
「兄貴? 朝から塾で模試だって。あいつ今年受験だから」
「あ、中三だっけ。俺らも中学生になったら模試とか受けなきゃいけないのかあ。やだな」
ポテトチップスとポッキーを食べ終えると、隼がイトーヨーカドーに行こうと言いだした。ヨーカドーにはカードダスの販売機が置いてある。市街地の方まで出ないといけないので自転車で行くと一時間近くかかる。今日みたいな晴れた日には、市街地まで遠出するとちょっとした冒険気分を味わえた。
「今日こそスーパーサイヤ人トランクスを当ててやる」
隼が財布の中のお金を数えている。僕は隼を連れて一度自分のうちに戻り、部屋から財布をとってくると、二人で自転車を飛ばしてヨーカドーへと向かった。僕らが走るアスファルトの道のずっと先に、いつまでたっても追いつけない逃げ水が揺らめいていた。
「くそっ、また19号だよ!」
「あははは、いらねー」
二十枚引いても目当てのトランクスは一枚も出なかった。四枚目の人造人間19号が出たところで、隼は「今日はだめだ、また今度にしよう」と言いながらカードダスの機械を蹴る真似をした。隼と僕はフードコートでアイスを食べ、帰ったらお互いに引いたカードを見せ合おうと話しながら一時間の距離を自転車で引き返した。
隼の家についたのは四時になる少し前だった。玄関を開けると、家を出た時にはなかった黒いローファーが一足、靴脱ぎのところに揃えてある。
「帰ってきてる」
隼が引きつった顔でボソッとつぶやいた。家へ上がると、リビングで直登くんがソファに座って漫画を読んでいたが、僕たちに気づくと顔を上げて微笑みかけてきた。
「おかえり。よう、雄太くん。きてたんだ」
「うん、おじゃましてます」
模試に手応えがあったのか、直登くんは機嫌が良く、隼はホッとしたように頬を緩めた。
「模試、お疲れさま。どうだったの?」
「まあまあかな。一次関数のグラフで代入ミスって時間食ったけど。それよりお前、なんだよこの漫画。くそつまんねえじゃん。もっと面白い漫画買ってこいよ。金田一少年とかさ」
直登くんは呆れたような笑顔を浮かべると、読んでいた漫画を閉じて、コーヒーテーブルの上にぽんと投げ出した。『トゥルース探偵団』だった。
「それ、俺の部屋にあったやつ?」
「うん。暇だったから借りた。もう読まないから持ってっていいよ」
「わかった」
隼がテーブルの上の漫画に手を伸ばすと、直登くんは「あ、あとさぁ」と思い出したように切り出した。
「お前の絵、デッサンがなってないわ」
悪魔の声を聞いたかのように、隼の体が凍りついた。ノートの絵のことだ、と僕は思いあたった。切り刻まれた男の絵に自分の名前が書かれているのを、直登くんは漫画を借りに部屋へ入ったときに見つけてしまったらしい。
「あとで俺が絵の描き方を教えてやるよ」
直登くんはにこにこと笑っていたが、目の奥には残酷そうな冷たい光がちらついていた。
隼と僕は部屋に戻って、お互いの引いたカードダスを並べたが、隼は張り詰めた顔をしてずっと上の空だった。僕が帰ったあとに下される制裁のことを考えて気が気じゃないのだろう。
「おい隼、大丈夫か」
「え? うん」
五時を過ぎた頃に、おばさんが部屋に顔をだした。
「雄ちゃん、今ね、お母さんから電話あったわよ。そろそろ帰ってきなさいだって。今から外にご飯食べに行くんだってよ」
「あ、わかりました」
僕が立ち上がると、隼の表情はさらに不安そうに曇る。このあと隼に待っている悪夢を考えると、見捨ててしまうような気がしてなんとなく帰りにくかった。
「あと隼、お母さん今からちょっと買い物行ってくるから、お留守番してて」
隼の顔が恐怖でこわばった。
「俺も一緒に行くよ」
隼が慌てて立ち上がろうとしたが、おばさんは咎めるような目をした。
「宿題はやったの?」
隼は立ち上がりかけた姿勢のまま黙り込んだ。
「ほらやってないでしょう。お母さんが買い物行っている間に宿題済ませちゃいなさい。なにかお菓子買ってきてあげるから」
おばさんが買い物に出てしまい、僕は帰りがけにリビングにいた直登くんに「お邪魔しました」と挨拶をした。
「おう。またな」
僕に微笑みかけた直登くんの顔は、その時なぜか奇妙に歪められた仮面のように見えた。
「こんにちは」
「あら雄ちゃん、いらっしゃい。どうぞあがって、隼なら部屋にいるから」
「はーい、お邪魔しまーす」
いつも日曜に隼の家に遊びに来ると、おじさんがリビングでくつろいでいるのを目にするのだが今日は姿が見えない。
「今日おじさんいないんですか?」
「朝からゴルフに行ってるの。夜まで帰ってこないから楽でいいわ。あ、おばさんがこんなこと言ってたなんておじさんに言っちゃだめよ」
おばさんはにこにこして口元に人差し指を立てた。
二階に上がって隼の部屋に入ると、隼はベッドに寝転がって漫画の単行本を読んでいた。
「よう」
「うん。ポテチとポッキー持ってきたから食おうぜ」
「やった! 気がきくじゃん」
隼は読んでいたページを下に伏せて漫画を置き、体を起こしてベッドに腰掛けた。
「何読んでたの?」
「これ?」隼は伏せてある漫画を指差した。
「おれたちトゥルース探偵団」
「全然知らない。おもしろいのか?」
「めちゃくちゃおもしれーよ。そのへんに一巻あるからさ、読んでみ」
ノートやら鉛筆やら消しゴムやらが散らばった学習机の上に漫画は置かれていた。僕は言われるままに、椅子に座ってページをぱらぱらとめくりだした。トゥルースというコードネームのIQ200の小学五年生が、難解なトリックを解いて殺人事件を解決するという内容だった。最近になって少し流行りだした推理ものだ。
「トゥルースってどういう意味?」
「主人公の名前を英語にするとトゥルースなんだって。読んでれば第一話のどっかに書いてあったはず」
ストーリーはひとつの事件が四、五話に渡って展開し、解決される構成だ。最初の事件は密室殺人で、いざ読み始めてみるとトリックと犯人が気になってしまい、僕は集中してページをめくりだした。隼もポッキーを開けながら自分の読んでいた続きに取り掛かり、僕たちはしばらく無言で漫画を読み続けた。一巻を最後まで読んだが、犯人は壁をすり抜けることができたというトリックもくそもないオチに僕は愕然とした。
「なあ隼」僕は漫画から顔を上げた。「これほんとにおもしろいと思うか」
「おもしろいじゃん。トゥルース頭いいし」
隼はトゥルースの頭脳に憧れているらしい。テストの点が悪かろうとだいたい平気そうな顔をしているが、心の底ではコンプレックスだったのかもしれない。
「トゥルースの決め台詞がかっけーのよ」
隼は単行本をパラパラとめくり、その決め台詞のページを僕に見せてきた。
「ほらこれ。『トリックを暴くのは難しい、でも不可能じゃない』。毎回事件が起きて、殺人現場を前にするたびに言うんだ」
隼の指差すコマを義理で覗き込んだが、そのセリフを言っているキャラに違和感がある。トゥルースは小学生という設定だが、隼の指差しているキャラはもっと年上だ。
「これトゥルースじゃないじゃん」
「トゥルースだよ。探偵だから、どんな年齢の男にも女にも変装できるんだよ。これは高校で起きた事件を解決するために、高校生に変装して学校に潜入してるわけよ」
無茶苦茶にもほどがあるなと思って、僕は単行本を閉じて机の上に置いた。僕が単行本を置いた横に、ノートが広げたままになっていた。ノートには何か絵が描かれていて、僕はなんとなくその絵を見て顔をしかめた。隼が描いたのだろう、それほど上手くはないが、男の人の腹が刀で割かれて内臓が飛び出している。飛び散った血が丁寧に赤で塗られていた。気持ちの悪い絵だった。男の人には矢印が引っ張ってあって「直登」と書かれてあった。隼のにいちゃんの名前だ。ボンドの散歩の時に見かけた、「修行」をしている二人の姿がふと浮かんだ。
「あーあ、転校生がトゥルースだったら良かったのに」心底落胆したように隼が呟いた。
「そういえば今日直登くんは?」
「兄貴? 朝から塾で模試だって。あいつ今年受験だから」
「あ、中三だっけ。俺らも中学生になったら模試とか受けなきゃいけないのかあ。やだな」
ポテトチップスとポッキーを食べ終えると、隼がイトーヨーカドーに行こうと言いだした。ヨーカドーにはカードダスの販売機が置いてある。市街地の方まで出ないといけないので自転車で行くと一時間近くかかる。今日みたいな晴れた日には、市街地まで遠出するとちょっとした冒険気分を味わえた。
「今日こそスーパーサイヤ人トランクスを当ててやる」
隼が財布の中のお金を数えている。僕は隼を連れて一度自分のうちに戻り、部屋から財布をとってくると、二人で自転車を飛ばしてヨーカドーへと向かった。僕らが走るアスファルトの道のずっと先に、いつまでたっても追いつけない逃げ水が揺らめいていた。
「くそっ、また19号だよ!」
「あははは、いらねー」
二十枚引いても目当てのトランクスは一枚も出なかった。四枚目の人造人間19号が出たところで、隼は「今日はだめだ、また今度にしよう」と言いながらカードダスの機械を蹴る真似をした。隼と僕はフードコートでアイスを食べ、帰ったらお互いに引いたカードを見せ合おうと話しながら一時間の距離を自転車で引き返した。
隼の家についたのは四時になる少し前だった。玄関を開けると、家を出た時にはなかった黒いローファーが一足、靴脱ぎのところに揃えてある。
「帰ってきてる」
隼が引きつった顔でボソッとつぶやいた。家へ上がると、リビングで直登くんがソファに座って漫画を読んでいたが、僕たちに気づくと顔を上げて微笑みかけてきた。
「おかえり。よう、雄太くん。きてたんだ」
「うん、おじゃましてます」
模試に手応えがあったのか、直登くんは機嫌が良く、隼はホッとしたように頬を緩めた。
「模試、お疲れさま。どうだったの?」
「まあまあかな。一次関数のグラフで代入ミスって時間食ったけど。それよりお前、なんだよこの漫画。くそつまんねえじゃん。もっと面白い漫画買ってこいよ。金田一少年とかさ」
直登くんは呆れたような笑顔を浮かべると、読んでいた漫画を閉じて、コーヒーテーブルの上にぽんと投げ出した。『トゥルース探偵団』だった。
「それ、俺の部屋にあったやつ?」
「うん。暇だったから借りた。もう読まないから持ってっていいよ」
「わかった」
隼がテーブルの上の漫画に手を伸ばすと、直登くんは「あ、あとさぁ」と思い出したように切り出した。
「お前の絵、デッサンがなってないわ」
悪魔の声を聞いたかのように、隼の体が凍りついた。ノートの絵のことだ、と僕は思いあたった。切り刻まれた男の絵に自分の名前が書かれているのを、直登くんは漫画を借りに部屋へ入ったときに見つけてしまったらしい。
「あとで俺が絵の描き方を教えてやるよ」
直登くんはにこにこと笑っていたが、目の奥には残酷そうな冷たい光がちらついていた。
隼と僕は部屋に戻って、お互いの引いたカードダスを並べたが、隼は張り詰めた顔をしてずっと上の空だった。僕が帰ったあとに下される制裁のことを考えて気が気じゃないのだろう。
「おい隼、大丈夫か」
「え? うん」
五時を過ぎた頃に、おばさんが部屋に顔をだした。
「雄ちゃん、今ね、お母さんから電話あったわよ。そろそろ帰ってきなさいだって。今から外にご飯食べに行くんだってよ」
「あ、わかりました」
僕が立ち上がると、隼の表情はさらに不安そうに曇る。このあと隼に待っている悪夢を考えると、見捨ててしまうような気がしてなんとなく帰りにくかった。
「あと隼、お母さん今からちょっと買い物行ってくるから、お留守番してて」
隼の顔が恐怖でこわばった。
「俺も一緒に行くよ」
隼が慌てて立ち上がろうとしたが、おばさんは咎めるような目をした。
「宿題はやったの?」
隼は立ち上がりかけた姿勢のまま黙り込んだ。
「ほらやってないでしょう。お母さんが買い物行っている間に宿題済ませちゃいなさい。なにかお菓子買ってきてあげるから」
おばさんが買い物に出てしまい、僕は帰りがけにリビングにいた直登くんに「お邪魔しました」と挨拶をした。
「おう。またな」
僕に微笑みかけた直登くんの顔は、その時なぜか奇妙に歪められた仮面のように見えた。