1993

文字数 3,743文字

 学校が終わり、ランドセルを玄関へ放り投げるようにして置くと俺はいつもの社まで走った。長い石段を二段飛ばしで上がって一番乗りで駆けつけた。誰もいないうちに、少し前に勢いで投げ捨ててしまった狛犬の耳を探そうと思ったのだ。狛犬の耳をぶっ欠いてしまってからいいことがない。自転車でこけて怪我するし熊ん蜂に脚を刺されるし黒岩のじじいには無理やり頭を刈られた。たぶん狛犬の祟りだと思うのだが、友達たちの前では強がっている以上、今さら投げ捨てた耳を探している姿なんか見られたくない。
 俺は狛犬に近づいて耳を見た。欠けてしまっているところだけが不自然に白い。その白い色を指先で撫でながら、心のなかでごめんなさいをひたすら繰り返す。
 誰かが石段を上がってくる気配がして俺はあわてて耳から指を離した。石段の方へ目を向けて誰がくるのか待っていたが、突然麦わら帽子を被ったのっぺらぼうがのっと顔を出し、俺は悲鳴を上げかけた。立ちすくんでいると、のっぺらぼうを肩に担いで真が現れた。よく見てみれば何のことはない、のっぺらぼうはただのかかしだった。
 真は一本足のかかしを地面に置いて一息ついた。わらと布でできたかかしはそれほど重くもなさそうだが、真の額からは汗がだらだら流れていた。俺はかかしをじっくりと眺めた。田んぼでよく見る、典型的なかかしだ。ボロ布にワラがぱんぱんに詰め込んであり、その上からぼろい半纏を着せられて両手を広げている。
「なにこれ」
「これ? かかし」
「それは見りゃわかるよ。こんなのここまで持ってきてどうすんだってこと」
「実験しようと思って」
 真はある心理学の実験を図書室の本で読んで興味を覚え、自分でもやってみたくなったらしい。
 まず被験者の九人に一本の線Xを見せる。それから長さの違う三本の線A、B、Cを見せ、その三本の中から最初の線Xと同じ長さを選ばせる。この時Xと同じ長さの線がBだとして、あとの二本の線は長いか短いかのどちらかとなっており、その違いははっきり見て取れる。ところがこの実験の被験者九人のうち八人はサクラで前もって実験内容を知らされており、わざと間違えるよう指示されている。Xと同じ長さの線はどれかと聞かれた時に、他の八人が明らかに長さの違うAを選ぶと、最後の一人、本物の被験者も正しいBではなく間違ったAを選んでしまうというのだ。同調現象というらしい。ずいぶん難しい本を読んでるもんだなと思った。
「かかしとなんの関係があるんだよ」
「まず誰か一人に実験のことを秘密にして、このかかしをみんなで友達みたいに振る舞う。こっちから話しかけたり、こいつが話しているように振舞ったり。それで、そいつが周りと同じようにかかしに話しかけだしたら見事実験成功」
「わざわざそんな面倒くさいことしなくてもさ、その本の通りに線使ってやればいいんじゃないの」
「そうなんだけど、もう一個の実験も兼ねてるから」
 人間の記憶に関する実験もしてみたいんだと真は言った。真の話によると、人間の記憶というものは、起きた出来事が頭にそのまま保存されているのではないのだそうだ。遊園地に行ったという出来事を思い出すとき、ジェットコースターに乗ったときの光景、周りの喧騒、楽しかったという感情、一緒に行った人、その日の天候、そういったいくつもの情報の断片がパズルのピースのように存在していて、頭に思い浮かべるたびにその都度組み直される。ある出来事の記憶は、思い出すたびに断片を組み合わせることで一から作り直されているというのだ。その思い出はビデオのように起きた通りに頭の中で再生されるわけではなく、断片にノイズが入ると実際の出来事とは異なった内容で記憶が呼び起こされるという現象が起きる。ジェットコースターに一緒に乗ったのが実際は兄弟となのに、思い出す記憶の中では友達と乗ったことになっている、というような思い違いが起こるというのだ。
 少し前にちょうどそんな経験をしたので、真が言っていることは納得できた。二つ上の学年に拓次くんという友達がいる。二年ほど前、拓次くんと二人で川へ水遊びに行くと、水辺で大きな青大将が蛙を丸呑みしている光景に出くわし、俺たちはその光景のすさまじさにたちすくみ、しばらく一緒に眺めていた。拓次くんは俺に向かって「見ろ、隼。あれが食物連鎖だ」と得意げに言った。今年のお正月に、親戚の集まりでひとつ年上のいとこに会った。健介という名前で、俺はいつも健ちゃんと呼んでいた。親たちが酒を飲んでいるあいだ健ちゃんと二人でオセロをして遊んでいたら、そういえば、と健ちゃんが話しはじめたのが川で見た蛇のことだった。なんで拓次くんと見たことを健ちゃんが知っているのかと驚いて聞いてみると、「だって一緒に見たじゃん」とあきれたように言われた。その様子を思い起こすときに浮かぶ顔は拓次くんなのに、実際に経験したのは健ちゃんとだったのだ。
「何かを思い出すときに、記憶の断片を組み合わせるという現象が頭で起きることによって、実際には体験しなかった記憶も思い出させることができるんだって」
 これは何を言っているのかよく分からなかった。
「どういうこと?」
「アメリカでこんな実験があったんだ」
 ある心理学の大学教授が、授業で生徒に課題を出した。自分の知り合いに、実際にはなかった出来事の記憶を思い出させること。そこである生徒が自分の弟に、おまえが五歳のときに家族でショッピングモールに行って、おまえが迷子になって知らないおじいさんに助けてもらったのを覚えているか、と実際にはなかった出来事をでっちあげて聞いた。弟はもちろんそんな記憶はないので覚えてないと否定するが、よく思い出してみろと兄に言われて必死で思い出そうとする。
「これから毎日、思い出したことをメモしてあとで教えてくれ」
 一週間くらいして兄が弟に何か思い出したか尋ねた。
「思い出したよ。おもちゃ屋さんを夢中で見ていたらいつの間にかみんなとはぐれちゃってたんだ。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、探したけど見つからなくて不安になって泣き出してたら、青いシャツを着たおじいさんが声をかけてくれて、手をつないで一緒に探してくれたんだ。優しいおじいさんだったな」
 実際にそんな出来事は起きていないのに、弟は迷子になった店やおじいさんの着てた服まで鮮明に思い出したというのだ。兄が弟にその記憶は間違いないかと尋ねると、弟は間違いなくこの通りだったと答えた。
 へえと思ったが何だかいまいち信じられない。
「なんでその弟は本当はなかった出来事を思い出したんだよ」
「全然関係ない出来事の断片が頭の中で組み合わさっちゃったんだ。ショッピングモールに行ったとか、家族とはぐれたとか、知らないおじいさんに優しくしてもらったとか、きっとこの辺の記憶は誰でも一回は経験したことがあるだろ。このショッピングモールに行ったときの記憶の断片、家族とはぐれたときの記憶の断片、知らないおじいさんに優しくされたときの記憶の断片、それぞれ違う日に違う場所で起こった記憶なのに、その断片が兄の話を聞いて弟の頭の中で再構成されて全然違う記憶となって作り直されたんだ。ガンプラでいうとゼータの頭とザクの胴体とズゴックの腕と足のパーツ組み合わせて全然違うモビルスーツ作っちゃうようなもんだね。それで、断片のつぎはぎが完成すると、記憶が戻ってきたと錯覚しちゃうんだって。この実験じゃ四人に一人が実際に体験していない出来事を思い出したらしい」
「へぇー。じゃあ今俺の頭の中にある思い出もひょっとしたら全然体験したことのない出来事の可能性もあるってわけか」
「そうかもしれない。人間の記憶は自分の都合のいいように簡単に書きかわっちゃうってのが認知心理学の研究でわかってるんだってさ。いやな記憶なんかは実際に起こったことから自分が望むような方向に歪めてしまうこともあるらしいよ」
 本当かどうかを確かめるために、身近な誰かを使ってこのかかしを友達だと思い込ませたい、と真は言うのだ。
「それはさすがに難しいんじゃないか」
「そりゃ難しいかもね。だが不可能じゃない。難しいと不可能は違うんだ」
「まあ、ちょっとしたどっきりだな」
 どっきりの標的は最後に社へやってきた誰かにしようと決まった。大体いつも最後にくるのはウメだった。ウメのお母さんは学校の宿題が終わるまで遊びに行くのを許してくれないのだ。
 それでなくても、普段から悪戯はウメが格好の標的にされていた。度が過ぎた悪戯だと他の友達は本気で怒り出し、殴り合いの喧嘩になったりしばらく口をきかなくなったりしたが、ウメは何をされてもただ困ったような笑顔を浮かべているだけだからだ。川で遊んでいた時にウメの背中に蛙を入れたことがある。
「とって、とってよ」
 ウメは悲鳴をあげながらぬるぬるした蛙をとろうとした。足をばたつかせながら背中をまさぐる動きが火の上で踊ってるようで、俺たちは腹を抱えて笑った。ウメは河原の大きな石につまづいて体ごと川に落ち、スネぐらいまでの深さしかない水の中でばしゃばしゃと水しぶきをあげてもがいていた。俺たちは涙まで流しながら息ができなくなるほど笑った。
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