イマジナリー・フレンド

文字数 2,985文字

「心理実験のカズキか」
 校門に身を隠し、石段に座るウメを観察しながら真は呟いた。ウメははしゃいだ様子で、手振りをくわえながらかかしに話しかけていた。洪水のような音でアブラゼミが鳴いていて、ウメの声は聞こえない。楽しそうなウメの顔を遠くから見ていると、なぜか苦しいほど胸が締め付けられるのを感じた。
「なあ、まずいぞ」
 真は独り言のように呟いた。
「まずい? なにが?」
「解離を起こしてる」
 張り詰めたような声の調子からいやな気配がした。ここまで重く、暗い声で言わなくてはならないような、ひどく悪いことがウメに起こっているのだ。
「なんだよそれ」
「人間の防衛機制の一種だ」
「おい、わかる言葉で言え」
 いらいらして口調が荒くなった。ウメに何が起きているのか早く知りたかった。
「とりあえずここを離れよう」真はウメの方を用心深くうかがった。「ここで話してると見つかるかもしれない」

「防衛機制ってのは、人間が強いストレスや不安から逃れるために起こる心の動きだ」
 畦道を引き返しながら真が話しだした。
「たとえばガキの頃、男は好きな女の子にわざといじわるして泣かせたりするだろ、あれも防衛機制だよ。本当の気持ちと逆のことをすることで自分の好きな気持ちがばれないようにしてるんだ。ばれて振られでもしたら傷つくことになるからな」
「ああ、あの行動ってそういうことなんだ」俺は歩きながら足元の小石を軽く蹴った。小石は何度か弾むようにして転がって用水路に落ちた。
「解離は耐えられないほど辛い苦痛から心を守るために起こる。解離の中にもいくつか種類があるが、ウメは空想の中に逃げ込んでいて、現実と空想の区別が分からなくなってるんじゃないか。ああやって実際には存在しないが本人だけには見えている空想上の友達はイマジナリー・フレンドって名前が付いている。想像上の友達を作り出し、一緒に遊んで孤独を癒したり、悩みを相談したりして苦痛を逃れようとするんだ。周りにはその友達は見えなくても本人にはちゃんと見えているし声も聞こえている。ぬいぐるみだとか人形、漫画や小説の登場人物を友達にしたりする場合もある。かかしはこのパターンかも知れない。想像力が豊かで空想好きな人には幼い頃に経験することが多いみたいだ。桐生祐奈って小説家が書いた『霧のなかの友だち』って本も、小さい頃のイマジナリー・フレンドの体験を元にして書かれている。その小説家も解離性障害に悩まされていて、晩年は特に酷かったらしい」
「晩年? もう亡くなってるのか」
「うん、自殺でね」
  突然、底の見えない崖の淵に立っているような恐怖を感じた。
「三十代前半くらいじゃなかったかな、亡くなったの。スランプが続いてたときに頭の中で、お前は才能がないよ、こんなつまらない文章誰が読むんだ、またゴミを量産してるね、とか罵倒する声がずっと聞こえ続けて、一文字も書けなくなり耐えられなくなったんだと。遺書にそう書かれていたって新聞で読んだぞ。ヴァージニア・ウルフみたいだな」
 午後の強い陽射しが肌を焼いて、俺は何度も額の汗を拭った。唾を吐こうとしたが、口の中はからからに乾ききっていた。
「お前は」俺はうつむいたまま立ち止まった。「ウメが耐えきれないほどの苦痛を感じていたとしたら、原因は何だと思う」
「母親じゃないか。レストランでメニューをかわりに決める、習い事に無理やり通わせる、集めていたものを勝手に捨てる、好きなテレビを観せない。ウメの母親はあいつの価値観を否定して自分の価値観を押し付けてた。押し付けられた子供は、小さい頃はよくても、成長して自我が生まれるとひどく苦しむことになる。自分の価値観に自信が持てなくなるからね」
「ウメの母ちゃんは優しいし、いい人だぞ」
「それが一番たち悪いんだよ。自分では子供のためを思ってやってるんだから」
 母親のこと以外にも、真はまだ原因の核心を隠している気がした。
「ほかには考えられる原因は?」
 用水路の水の流れる音が聞こえる。じっと俺を見つめる真の視線を感じた。
「お前がいじめすぎたんだろ」
 頬が熱くなり、顔をあげられなかった。一番聞きたくない答えだった。あの頃俺はウメに何をしただろう。みんなで鬼ごっこをすれば、あいつの最初にチョキを出す癖を利用して、ずっとウメを鬼にし続けた。足の遅いウメでは誰も捕まえられず、最後にはぐずぐずと泣きだした。その姿をみるとつまらない優越感に浸ることができた。ドラクエ5をウメの家でやっていた時、はぐれメタルが仲間になった冒険の書を間違えたふりして消してしまったこともある。滅多に仲間にならないモンスターなので、仲間になった瞬間ウメは悲鳴まであげて喜んでいた。俺はウメがトイレに行っている間にデータを消した。羨ましかったのだ。戻ってきたウメに、「ごめん、コードにつまづいてコンセントが抜けた」と本当らしく聞こえるよう真面目な顔で謝った。ウメは呆然としてしばらく立ち尽くしていた。給食で嫌いなトマトの入ったスープが出ると、やるよ、と恩着せがましく言いながらウメに食べさせていた。ウメは胃が弱いのか食が細く、量が多いと食べきれない。それを知っていたのに、ウメが残そうとするとせっかくあげたのに無駄にすんなよと理不尽に怒った。ウメは唇を震わせながら無理をして食べきったが、五時間目の授業中に机の上に吐き、苦しさと恥ずかしさで泣きながらそのまま早退した。俺はそのとき、ウメに悪いことをしたとは思わなかった。ただ、無理やりスープを食べさせたのが先生にばれて怒られたらどうしようと一人でびくびくしていた。
「真、どう思う」
「なにが?」
「俺らがしたことって、そこまで酷かったか? 殴られたり持ち物壊されたり、もっと悲惨ないじめを受けても心を病まないやつだっているだろ。俺はウメを殴ったりしてない」
 卑怯な自己弁護だと気づいて、口にして後悔した。
「苦痛の感じ方なんて相対的なもんだろ。同じことでも、誰かにとっては小石が当たったくらいの痛みかもしれないし、他の誰かにしてみれば両腕を全部つぶされるような痛みかもしれない。死ねと言われて笑って返せる奴もいれば、傷ついて本当に死んじまう奴もいる。まあでも、たしかにウメはちょっと繊細すぎるような気もする」
 社に戻り、拝殿の前に座り込むと頭を抱えた。嫌な汗でシャツが背中に貼り付いている。無言のかかしに楽しそうに話しかける様子は、滑稽とか間抜けを越えて狂気じみていた。その狂気を作ったのは自分だ、ただカードダスが欲しくて、おもしろそうだからという薄っぺらい理由で。自分の欠落した部分が形になって、いま目の前に突きつけられている。幼馴染の現実を狂わせ、陳腐な幻想に作りかえてしまったと思うと胸が突き破れるほど苦しかった。何か大切なものを奪われてしまうこの苦しみを、いつか感じたことがあるような気がした。胸を裂きそうな痛みをどうやっても消し去りたかった。
「なんかないのか? ウメの解離を治す方法は」
「無理だよ。おれらは精神科医じゃない。精神科医にだって治すのは難しいらしい」
 俺はうなだれて舌打ちした。
「でも俺たちの手で、あれがただのかかしだって分からせることならできるかもしれない。荒っぽいやり方にはなるが」 
 真の言葉で、俺の胸にかすかな希望が灯った。
「どうするんだ?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み