かかし

文字数 4,085文字

「用意はいいか」
 真が校門から少し顔を出してウメの様子を伺う。俺たちは一度家に帰り、かかしの呪いを解くべく準備をすると、五時にまた校門で合流した。気が重く、もうウメが帰ってくれていればいいと思ったが、あいつはまだ校舎前の石段に座ったまま、かかし相手に時間を忘れて思い出話に夢中になっている。俺は家から持ってきた、コットンのトートバッグに触れた。母親が買い物に行くときに使っているバッグだ。ざらざらしたコットンの生地の上から、冷たく固い鉄の手触りを確かめた。
「じゃあ、やろう」
 俺は石段に向かって歩きだした。あたりは幾重にも重なる蜩の声に包まれていた。鉄棒の影が長く伸び、傾いた陽が誰もいない校庭を茜色に染め、悪夢を描いた絵画のように見えた。
 ウメは石段の下から三段目ほどのところに座り、笑顔を浮かべながらかかしに話しかけている。夢中で喋っては笑い声をあげて、俺が石段のところまで来ても気づかない。
「ウメ」
 俺が声をかけると、ウメは話をやめて顔をあげた。隣にある薄汚れたかかしを俺は見ないようにした。
「あれ、隼くんいつの間に来てたの?」
 いつも通りの笑顔を俺に向けた。
「お昼ぐらいにその辺ぶらぶらしてたら、カズキくんと道でばったり会って、ずっと話してたんだ。昔のこととか今の学校の話とか」
 どうやらその辺の田んぼに仕掛けてあったかかしを見つけて、カズキと認識して持ってきてしまったようだ。
「うわ、もう夕方じゃん、全然気づかなかった。今何時?」とウメがカズキの方を向いて訊いた。「うそ、もう五時過ぎてるの? 四時間ぐらい話してたね!」
 何も知らないウメの無邪気な顔を見て、また胸が苦しくなった。
「なあ、ウメ。いろいろ悪かったな、昔いじめたりして」
「急にどうしたの」ウメは面食らって、どこか不安そうな表情をした。
「そういえば、隼くん、カズキくんと……」
 あのなウメ、と俺はさえぎった。トートバッグに手を突っ込んで、指を切らないように注意しながら柄をつかんだ。手ににじむ汗で柄がべと付いた。俺はバッグから手を抜いた。
「そいつはかかしなんだ」
 石段に足を踏み出しながら俺が手に持った包丁を、ウメは向日葵でも眺めるような顔で見ていた。かかしの顔をおさえつけ、俺は何度もかかしの胸に包丁を突き刺した。汚れた布の裂け目から細かい藁の破片が飛び出し、夕陽を浴びて金色にきらめいた。
 ガラスを釘でひっかいたような悲鳴で我に返ると、薄い紫に染まった逢魔刻の夕空と、形を崩しながら浮かぶ雲をぼんやりと眺めていた。ぼろぼろのかかしを抱きかかえながらウメが泣き叫んでいた。顔は涙と鼻水とわらにまみれている。
「ははは、狂犬病の犬みたいだな」と真が笑った。
「なあ隼、あのかかしどうすんだ?」
 かかしは滅多刺しにした胸や腹が裂けて、溢れた藁が石段の上に散っている。
「ほっとけよ。もうゴミだろあんなの」
「でもあれ黒岩のじいさんの田んぼにあったやつだろ」
 さっと血の気が引いた。むかし拳骨を食らって坊主にされてから、あのじいさんに俺は完全に萎縮している。大切な田んぼを守るかかしがなくなっていたらきっとあのじいさんは怒り狂うし、ここまで使い物にならないくらいぼろぼろにしたのが俺だとばれたら何をされるかわかったもんではない。どこか目につかない場所に、林の奥あたりにでも捨てなくては拳骨どころでは済まされないだろう。
「おいウメ。そのかかしどっかに捨ててくるからよ、こっちよこせ」
 俺はかかしの手のところを掴んで引っ張ったが、ウメは抱きかかえたまま離そうとしない。何か泣きわめいているがひどく興奮していて聞き取れない。本当に友達が殺されてしまったと思い込んでいるような泣き方だった。
「なあ、よく見てみろよ、これかかしだぞ」と言っても無駄だった。
「なあ真、こいつ大丈夫なのか」
「うーん、この様子だとまた違うかかし見つけたらカズキだと認識して持ってきちゃうかもな。ちょっと違う方法考えたほうがいいかもしれない」
 俺は嗚咽をあげているウメを見て苛立ってきた。違う方法を考えるにしても、とりあえずこのかかしだけはなんとか処分しないと俺がじいさんに殺される。俺は平手でウメの頰をひっぱたいた。ウメはわめくのをやめて、頰を抑えながら涙で膜の張ったような目で俺を見た。
「おまえ、離す気ないなら責任もってこのかかしどっかに隠しとけよ、絶対見つかんないとこに。じゃないと俺が黒岩のじじいに殺されるんだからな」
 ウメの唇が震えていた。細かく震える青ざめた唇を見て、ウメはきっとかかしをどこかに隠すだろうという気がした。ほとんど確信に近い予感だった。俺はウメとぼろぼろのかかしに背を向けて、校門へ向かって歩き出した。
 夕方の太陽が一面の稲穂を金色に染めている。稲穂は夕風に揺れて琴のような音を立てている。畦道を歩きながら、俺は自分が蛇に、飢えに耐えきれずに自分の尻尾を飲み込む蛇になったような気がした。耐えられない苦しさをもっと耐えらない苦しさで塗りつぶしただけだった。心は晴れずにひどく喉が渇いた。無人野菜販売所にある自販機でコーラを買い、プルタブを開けると茶色がかった白い泡が勢いよく吹きだして手に溢れた。
「畜生!」
 俺は中身の入った缶を力一杯地面に叩きつけた。へこんだ赤い缶からコーラが溢れて地面にしみていった。用水路の流れに手を突っ込んでぬるぬるとしたコーラを洗い落とした。
 Tシャツが汗でべとついて気持ちが悪い。家に帰ってそのまま二階に上がり、部屋でシャツを着替えた。汗で湿ったTシャツは細かい藁のくずが付着していて、払っても取れなかった。俺はそのシャツをそのままゴミ箱に叩き込むようにして捨てた。どうせ古着で買った安物だから惜しくはなかった。一階に下りると台所で母さんが晩飯を作っていた。
「ねえ隼、包丁知らない? 一本見当たらないんだけど」
 母に言われてはじめて包丁を忘れてきてしまったことに気がついた。かかしを刺した後に手から放してしまったようだが、気が昂っていたせいで気づかなかったらしい。
「あ、やべ」俺はとっさに言い訳を考えた。「川で遊んでて、西瓜切るんで借りたんだ。多分川原に忘れてきたからとってくるわ」
 俺は慌てて家を飛び出し、学校への道を走り出した。
 学校へついてもまだ陽は暮れきっていなかった。夕陽の名残が西の空の薄い雲を桃色に染め、月がぼんやりと輝き始めていた。息を切らして石段まで急いだが、ウメが座っていたあたりには細かい藁が散らばっているだけで包丁は見つからなかった。包丁を入れていた綿の買い物袋が落ちていた。俺は焦りながら、石段の脇の草叢をかき分けてしばらく探してみた。気づくと墨を溶かしたようにあたりを夕闇が包み始めていた。俺は仕方なく、買い物袋だけを拾って家へと走り出した。
 包丁が見つからなかったことを謝ると、母さんは顔をしかめて軽く文句を言っただけだった。
「まあ一本くらいなくなってもいいけど。今度から気をつけてね」
 俺は電話の子機を持って部屋に戻った。ウメは親戚の叔父さんの家に泊まっている。遊びに誘うときのためにそこの電話番号を聞いてメモしてあった。俺が電話をかけると叔母さんがでてウメに取り次いでくれた。
「はい」
 ウメの声は重く沈んでいた。何の説明もなくかかしを刺してしまったのは悪いことをしたような気がする。その事について何か謝ろうかとも思ったが、何と言っていいのかわからずいきなり本題を切り出した。
「あ、ウメ? あのさ、俺、石段のとこに包丁忘れていかなかった?」
 ウメは黙っていた。何かを考え込んでいるというよりは答えるのを迷っているようだった。沈黙が受話器を通して耳に染み込んでくる。
「ウメ? 聞いてるか」と俺は促した。
「うん、あったよ」
「まじ? 見つかんなかったんだけどさ、どこやった?」
「だいじょうぶ」
「え? なにが」
「ちゃんと見つからないところに隠したから」
「隠した? どこに」
 受話器は音の出し方を忘れたように沈黙し、かすかな耳鳴りのような音だけが聞こえていた。
「なあ、どこだよ」
 電話は切れていていた。もう一度かけ直そうかとも思ったが、親類の家にそう何度もかけるのは気が引けた。落ちていた包丁をどこかへ持っていったのはウメで間違いないようだった。どこにやったのかは今度会った時にでも聞けばいい。一階に降りて通話機を戻すと夕食の支度ができていた。父さんがビールを飲みながら巨人広島戦を見ている。入来の投げたスライダーを江藤がレフト方向に高く打ち返した。
「あーっ、入るな入るな」
 父さんが画面に向かって叫んだ。打球はポールのぎりぎり外側のスタンドに消え、父さんは安堵のため息をついていた。
 夕食を終え、やる事もなかったので父さんの隣に座って野球を見た。六回表、三対三の同点、ワンナウト三塁で四番の松井に打順が回ってくる。ゴジラのテーマが演奏され、ひときわ大きくなった応援の音に重なるようにして電話が鳴りはじめた。電子音はしばらく鳴り続けていたが、父さんも僕も松井の打席が気になって動こうとはせず、台所で夕食の片付けをしていた母さんがぶつぶつ文句を言いながら受話器を取った。
「ねえ、ちょっとボリューム下げて」
 松井が内角低めのボールを見送り、バッターボックスを外す。母さんが電話を保留にしたらしく電子音のトロイメライが流れるのが聞こえた。
「ねえ、隼」
「なに?」
 僕はバッターボックスを足で慣らす松井に目を向けたまま面倒臭そうに答えた。
「カズキくん知らない? こんな時間なのにまだ帰ってきてないんだって」
 血の気が引いて体が凍りついた。鋳型に押し込まれたように、指の先まで身動きが取れなくなった。松井の打球が総立ちの観客で溢れるライトスタンドへと吸い込まれていき、父さんが大喜びで拍手している。隼、と母さんがまた呼びかけてくる。振り向くと、母さんは心配そうな顔をして俺の答えを待っていた。
「隼、今日一緒じゃなかったの?」
「誰と?」
「カズキくんよ、黒岩和希くん。あんたの同級生の」
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