I - 9

文字数 1,140文字

蝶を取り終えた所で、彼はかがんで花畑から白い花を何本か摘んでいた。

「何をしているの」

「帰り道の途中に叔母のお墓があるんだ。ここに来たときは、いつも行くようにしているんだ。君も来るかい」

彼は数本の花を手に持ち、空いている手で持っていた紐で茎を束ねていた。

「もちろん、わたしもご挨拶するわ」

並木道には先日に降った雨水が轍に溜まっていた。木々の間からリズミカルに差す西日は心地がよかった。なだらかな丘に敷き詰められた田園と、そこに点在する薄褐色のレンガ造りの家。ここにはそれしかなかったが、今のわたしにはそれで十分なように感じられた。

これまで生活してきた市街の活気は、わたしには過剰で煩わしく、不快感を催すことも少なくなかった。娼婦という仕事は言ってしまえば、その街の欲望をその身に受ける受け皿としての立場を、象徴的にも、肉体的にも担う存在であった。

娼婦になってからの暮らしは、決して良いものとは言えなかった。働けど働けど、給与の大半は娼館の女将に取られ、決して借金は無くならない。その上に起きたあのトラブルで、そこからさえ追い出される。

途方に暮れていたわたしに声をかけた彼は、薄汚れたわたしのどこを買ってくれたのかは分からないけれど、多くのことを教えてくれた。わたしの中にある知識の半分は、それは月のものだけど、あまりにも未来に偏っていたし、この時代とかけ離れすぎて役に立たないことも多かった。それに、その知識はここでの言葉に言い表せないことばかりだから、そのまま取り出せないことも多かった。このわたしの中であれば、その言葉のまま理解することが出来ても、誰かに伝えるために、外に向かって言葉に言い表すことが出来ないから。

彼は芸術的な教養も身に着けさせてくれ、私娼として生きる上で必要な”格”を、彼は身に付けさせてくれた。おかげで位の高く品位のある客が取れるようになった。トラブルや嫌な思いをすることも殆ど無くなり、そこで初めて娼婦業を仕事として看做せるようになった。

娼婦という仕事は好きという訳ではない。でも、その仕事は確実にわたしの一部をなしており、わたしという存在の一面を肯定している。娼婦でなかったわたしなんて存在しない。娼婦であることは、このわたしの本質を成している。

わたしは前を歩く彼の背中を眺める。彼は器用にぬかるんだ泥を避けながら歩いていた。あなたは一体わたしのことをどのように捉えたのだろう。なぜあの時わたしに声をかけたのだろう。なぜわたしと結婚しようと言ったのだろうか。

終わりから始まってしまったこと、それは普通ではないわたしには似つかわしいものだ。娼婦と客から始まったあなたとわたしの関係は、その濁りと共に始まった関係は、澄み切った純粋なものになり得るのだろうか。
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