I - 10

文字数 1,681文字

小さな墓地には、腰の高さくらいの質素な墓石が並び、ここに来る度に世のいくらかの人たちは、世界に波立てることなく静かに息を引き取り、このような永い眠りにつくのだと感じる。

私は墓地の右端に見えている小柄なブナの木を目印に墓石の間を進んでいき、彼女はその少し後ろからついてきていた。ブナの木から手前に三つ目の石。右端が少し削れている以外は他との区別らしい区別も無い、小さく慎ましげな石の前で立ち止まった。

私は屈んで手に持っていた花を墓石の前の段に置いた。”安らかに眠る”という死んだような無機質な字はいつ見ても変わらない。苦楽と共に数十年を生きた末に行き着くのは、この小さな石の下。後は私たちの記憶に、薄っすらと故人の姿が残滓のように残るのみ。

そして、それさえも時間と共に段々と無くなっていく。ここに来る度に思うことだ。いつものようにしばらく石を眺めていたが、ふといつもと違う彼女の存在のことを思い出す。後ろを振り返ると彼女も叔母の墓石を静かに眺めながら固まっていた。

「ごめん、いつもは一人だから、すっかり待たせているのを忘れてたよ」

「構わないわ、あなたにとって大事なことなのでしょう」

彼女は、気にする必要はないというように、優雅な笑みを返した。

「ありがとう、行こうか」

そう切り出して再び私と彼女は墓地を歩き始めた。墓地を抜けた所で彼女は尋ねた。

「叔母さんとは仲が良かったの?」

よくいる親戚の一人、というもの以上の思い入れを感じとったのかもしれない。

「優しい人だったよ。私がここに来るのは時々で、そう頻繁ではなかったけど、とても可愛がってくれたんだ。実をいうと、ピアノを始めたきっかけも叔母さんなんだ。

プロの演奏家では無かったけど、腕前は結構なもので。私は内向的な少年で友達もあまり出来ずにいつも一人でいたんだけど。この家に来た時に、遊びで弾いていたら、そんな私に叔母がピアノを教えてくれて。お前には才能があるぞ!って、本格的に習うのを勧めてくれたんだ。

ピアノと出会って、それまで上手く表現できずにいた心の中の色んなものが、音になって広がっていくように感じられて。そこから少し活発にもなれたんだ。それからも時折病気で亡くなるまでは、ここに来る度に勉強してきた曲を聴かせて、いつも上達を喜んでくれたよ」

温かく柔らかな記憶が蘇る。青春よりも更に前。それは、まだ世界のことを何も知らなかった頃。世界を美しいと称えるにはあまりに若く、むしろ、まだその世界の美しさの一部だった頃のことだ。

「簡単な言葉で片付けるのは申し訳ないけれど、大切な人だったのね。叔母さんのことを話すあなたには、優しさが溢れているのを感じるわ」

確かにそうかもしれない。距離感が良かったのか、関係性が良かったのかは分からない。一つ言えることは、そういった存在を得られたことはとても幸運なことだったのだろう。誰しもにあることではない。美しく大切なものが閉じ込められて封がされた記憶。それは私にとって宝箱のようなものなのだろう。

「そうだね。今の演奏家としての自分にとって欠かせない人だったと言えるかな。本当は演奏家になりたかった叔母のためにも、少しは世に認められるような仕事ができるといいなと思っているよ」

そう話していると懐かしさと喜びと、寂しさが入り混じったような微妙な感情が湧いてきた。音楽家としての大きな仕事をすること、その未来に対する熱意は枯れていない。

しかし、それが達成できた時に何が得られるのか。得られたそれは墓石に持ち越せるものなのか、宝箱にしまっておけるのか。その答えは分かるはずもなかった。得たいもののことを考えるほど、疑念が湧き、その輝きには陰りが見え始める。

もし求めるほど、それがいらなくなるのであれば、一体私は”本当は”何を求めているのだろうか。その問いは進もうとする自分の足を絡め取ろうとする。厄介なものだ。

そんなことを考えても仕方がない。得てから考えれば良いことだ。隣を歩いている彼女を眺める。私は大切なものを既に一つ得たのだ。今はただ彼女がいること、それに私は満足すべきなのだろう。
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