I - 21

文字数 5,866文字

演奏会当日。何列かに椅子が並べられた100席ほどの会場はすでに殆ど満席になっていた。わたしは後ろの方にぽつぽつと空いていた席に腰掛けた。舞台には天板の開かれた光沢あるピアノが1台置かれている。

会場を見渡すと、身なりや振る舞いを見るに、中上流の人が多く見えた。やはり音楽家というのは品と教養が求められ、それに近づく人間には自ずと、地位や格が伴ってくるのだと思った。

しかし、娼婦としてそれくらいの人を相手にすることは少なくなかったし、何よりこちらは女王でもあるのだから、いざとなれば、地味なドレスからも漏れ出てしまうその威厳で跪かせてみせようと思った。

しばらくして、いつもよりピシッとした背広姿で彼が袖から入ってくる。拍手に一礼をした後に、彼はピアノの前に座った。

はじめにバッハを弾き、その後先日話していた通り、ブラームスの間奏曲を数曲、ショパンのワルツやノクターン、穏やかなロマン派作品を中心的に進む。彼の表情には気負ったり、入り込みすぎる様子はなく淡々と弾いていく。そこには余裕が感じられた。後半は彼の自作曲を演奏していく。後半につれて、音楽史としては現代に向かって近づいていくが、通して聴いていると、音楽は次第に多様に、複雑に、自由になっていくことが感じられた。

プログラム最後の曲が終わりを迎えるのとほぼ同時に、観客からは拍手が沸き起こる。演奏は成功したようだった。彼は立ち上がり、上品に礼をして観客に応える。予定演目を終えて袖から戻り、アンコールを弾くことになる。

彼はピアノに座ったまま、少し考え込むようにしていた。しばらくして聴衆に向かって穏やかに語りだした。

「引く前に少しご説明を。これから弾くのは、曲としてまだ公に出版していませんが、私がプライベートで作った曲です。私にとって思い入れのある曲で、いずれ世にも出したいと思っています」

といって、彼は弾き始めた。

最初の一音からゆっくりと鍵盤を昇っていくのを聴いて、わたしはこの曲を知っていると分かる。それは彼がわたしに贈ってくれた曲であった。観衆はその音一つひとつに耳を傾けようとしている。しかし、改めて聴いても、やはりこの音楽は明らかに異質だった。今日これまで辿ってきた音楽の歴史からは明らかに外れていて、この場に似つかわしくないと思える。

期待に応えることが音楽ならば、徹底的に期待に応えない音楽というのは在り得るのだろうか。それはその本質に反する。しかし、それが完璧なまでに期待に応えることを拒絶するならば、そうであることによって、ある点で期待に必ず面しているはずなのだ。単にわたしが素人なだけなのだろうか。一体この場のどれほどの人がこの音楽を理解しているのだろう、と疑問に思えた。

あなたは一体どんな気持ちでこの曲を弾いているのか。なぜこの曲をアンコールに選んだのか。このリサイタルは演奏家のあなたにとって、支持者を得るために重要な場ではないだろうか。より大衆に分かりやすく、皆が好きな曲を弾けばよいのではないだろうか。

演奏が終わると、束の間の空白の後、観客は拍手を送る。ちらほらと座ったまま怪訝な表情を浮かべている人たちも居たのが気に掛かった。

演奏が終了して、エントランスでは、彼は知人や友人、業界関係者に囲まれていた。わたしはそれを入口近くで眺めていることにした。自分から輪に入っていこうとは思えなかった。

「お一人ですか」

そうすると、一人の紳士に横から声をかけられる。

「連れを待っているの。ナンパなら他を当たることね」

わたしは顔も見ずに冷たく突き放した。以前は、仕事外でよく男に声をかけられることがあり、相手にしないようにしていた。町中で声をかけて来る奴にろくなやつは居ないのだと、身に沁みて分かっていた。

「お連れ様がいましたか。あまりにお綺麗だったので、年甲斐もなくお声をかけてしまいました。今日はご招待で?」

男性の対応は思いも寄らず上品だった。よく考えれば、この場に来ている時点でわたしが忌避するような人間というのはそういないのだろう。顔を上げると、男は端正な背広に身を包み、皺が入り始めてはいるが、その整った顔立ちが分かる品のある中年紳士だった。

「今日の演奏家が主人なのよ」

「なんと、先生の奥様でしたか。先生はご結婚されていたのですね。存じ上げませんでした」

彼は驚いた様子だった。予想外の反応だった。

「あら、周りの人には伝えていないのかしら。彼の結婚なんて聞いたことない?」

「知人からも聞いたことはありませんね」

「そう」

そうなのか、と寂しな気持ちになる。別に外に自慢してほしいという訳では無い。妻を自慢するのは、夫自身の虚栄心に過ぎないということも分かる。そして、彼がそういう人間でないことも分かっているつもりだ。しかし、外に出すどころか、わたしは覆い隠されているのだとさえ思う。

「あなた、音楽には詳しいのかしら」

「アマチュアですが、一応音楽院の出なのですよ。プロの演奏家になるには、少々忍耐と才能が足りませんでしたが。先生よりも上の世代ですが、先生の曲は私の感性に合うので、気に入っているんです。初めて先生の演奏を聴いたとき、これが私に足りなかったのものだったんだ、と分からされましたよ。今日は知人に招待してもらえて、とても幸運でした」

彼は満足げな表情をしていた。こういった観客が演奏家を支えているのかもしれない。

「今日の演奏はどうだったのかしら。わたし自身は音楽に詳しい方ではなくて」

「良かったと思いますよ。いつもどおり端正に弾かれていて。ただ、所々少し浮いているような感じはありましたね。テンポが走ったり、鳴らすところを大胆に鳴らしたりして。3番目に弾いた間奏曲なんかは顕著でしたね。2年ほど前に聴いたときは、かなり感情を排して弾くという印象があったのですが、今日は少し先生の人間味が見えたようにも感じられました。

誤解しないでいただきたいですが、決して悪い意味ではありませんよ。人間性は音楽に、演奏に深みを与えますから。奥様はいつも演奏会にはいらっしゃらないのですか」

慌ててフォローを付け加えたようだったが、特段嘘をついているようには見えなかった。

エントランスの階段下には、まだ人の輪が捌けていないのが見えた。

「今日が初めてよ。家にはいつも遅く帰って来る人で、彼の演奏のこともよく分かってないの。わたしは音楽も素人だから、彼が世間的に評価されているということは分かっているけれど、自分自身でその評価を理解するのは難しいの。月並みにすごいと感じることしかできないわ」

「現在かなり売れていらっしゃいますからね。お忙しいことは間違いないのでしょう」

中年の男は、わたしの言葉に陰りを感じたのか、よくないことを尋ねてしまったのかもしれないと思ったようだった。忙しいだけなのだという細やかな気配りに、中身の伴った紳士だと思った。

そういえば、と思い出すように、わたしは他の観客に聞きたかったことを切り出した。

「最後のアンコールの曲は、どうだったのかしら」

「ああ、あの曲ですね。とても驚きました。あのような曲を先生が書かれるというのは非常に意外でした。無調の音楽というのには、私もあまり馴染みがないので、まだ私自身も上手く受け止められていません。先生は新しい音楽を志向しながらも、聴衆である私たちを置いていかない、その絶妙なバランス感覚を大事にされている方ですから。その意味では、あの曲は私たちを置き去りにしてしまいました。恐らく今日聞いた人の中でも、かなり感想や評価は分かれるでしょう。

先生が仰った通り、あくまで実験的で個人的な趣味の延長なのでしょうが、それでも曲自体は大変に練られて作られたものだということは私にも分かりました。まさに先生の違った一面が見られたような気がしましたよ。

あまり大衆向けで売れるような曲では無いでしょうが、別にそれは曲自体の善し悪しとは全く関係ないことです。もし外に出すならば、今日のような見知った人たちでの小さな会なのでしょう」

音楽に精通している人間でも、簡単に理解できる曲ではないらしい。そこに込められた彼の感情とは、それをこの場所で弾いた彼の気持ちというのは一体どういったものだったのだろうか。

ふと思い返すと、結婚して娼婦をやめてからというもの、開けっ広げに男とこうやって話すようなことは無かった。わたしは尋ねた。

「あなた、結婚しているのよね」

わたしは目と顎で紳士の指を指す。男は眉を吊り上げ、その手で顎を撫でながら、ほほうと言った。男の薬指には白銀の輪が光る。

「おっと、もしかして私に興味が出てきてしまいましたか。

夜遊びも悪くないですがねえ。でも残念ながら、私には大事な妻と娘がおるのですよ」

彼は芝居がかったように申し訳そうな顔をしたが、口元が笑っている。ユーモアのセンスは嫌いではないが、少し遊ばれているのは癪だった。

「まったく違うわよ。ただ、あなたに聞きたいことがあるの。男はどうして女と結婚するのかしら。それにしたがるのかしら」

予期せぬ質問に、紳士はしばらく固まった様子だった。その言葉から真剣さを汲み取ったのか、彼の表情は引き締まった。

「先生と上手くいっていないのですか」

「わたしのことはいい。言葉通りに男としての一般論が聞きたい」

「なぜそのようなことを問われるのですか。もちろんお答えできますが、御婦人がなぜそのようなことを問われるのかによって、どのようにお答えするかが変わりそうなものですから」

そう問われて、わたしは自分の中での問いを整理する。

「結婚とは一種の契約よね。つまりそれは縛りでもある。でも、本来は自由である方がいいじゃない。鳥が猟師に羽をもがれてしまうのは分かるわ。でも鳥が自分で自分の羽をもぐはずがないでしょう。もし自分で自分を進んで縛り付けるとしたら、代わりにそこから何かを得ているはずなのよ。

そうでなければ、そうしている理由がないわ。あなたが結婚するなら、その縛りと引き換えに一体あなたは何を得るの」

そうですね、と紳士は顎をさする。

「結婚とは、家同士の結びつき、そして家族を築くための1つの単位ですから。もちろん法的な面も含めてですね。婚姻はそれらが成立するための条件といえますね。社会的な枠組みの中で家族が成立するためには、結婚が必要になるでしょう」

「そんなことは分かっているわ。でも、それは”外側”の話でしょう。機能的な面を求めるだけならばそれでいいかもしれない。でもそれだけではないでしょう。つまり、わたしが言いたいのは、気持ちとか感情とかそういった話なのよ」

「相手のことを好きだから、愛しているから、結婚するのではないですか」

当たり前の如く紳士はそう返す。でも、内と外の間にある隔絶に橋は掛かっていない。

「わたしには、それがわからないのよ。

既に愛があるならば、愛している、以上、では駄目だったのかしら。

わたしは結婚という契約が、その前後で二人の間に大きな違いを生むのだと思っていた。愛という形の無い、触れることの出来ないそれを幸運にも得た二人が、そこに結婚という硬い楔を打ち込む。そうやって言葉に出来なかった愛の輪郭に初めて触ることができるようになる。

そして、その楔の存在が翻って二人で自分たちの愛を確認させる。結婚は、外から内へ、内から外へ、因果の円環を作り出し、二人はその輪の中心で以前よりも固く強く結びつく。

わたしは信じていた。もしそうであるならば、結婚という現実によってひとたび円環に加わわりさえすれば、二人の間に愛の種火が芽吹き、薪をくべながらその円環は反転して廻り続けるのだということを。

ただ今はそうではないのかもしれないとも思う。その現実から始まっても、二人の間に愛は生まないのかもしれない。初めから結婚という契約は夫婦にさらなる愛をもたらすものではなかったのかしら。

でも、もし二人の愛に何ももたらさないのだとしたら、その縛りにはどんな意味があるというの。それと引き換えにあなたは何を得たの?」

「難しいことをおっしゃいますね。そこまで考えたことはありません。何も疑いませんでしたよ。元々親同士で決められていた結婚でしたからね。

小さい頃からずっと一緒にいて、元々大きくなったら、この女の子と結婚するんだと思って成長して、そのままに自然に結婚したというだけです。初めから私たちの関係性は輪を描くことは無く、ただ一直線に進んでいるだけなんです。そして私たち夫婦はまだその道程の過程にいるのですよ」

「その道は一体どこに向かっているというのよ」

男は、はは、と笑った。

「さあ、どこでしょうかね。私にも分かりません。でも、このまま彼女とたくさん語らいながら、一緒に老いていければ幸せだと思いますよ」

わたしは唇を噛む。きっとこの紳士はわたしの言っていることの意味を分かっていないし、きっとそこまで考えもしない。それなのに。いや、むしろそうであるからこそ、わたしが欲しいと願ってやまないものを持っているような気がする。その無知で無垢な姿が、そしてそこに隙の無い紳士な姿が相まって一層腹立たしかった。

「気まぐれに少し声をかけてみるつもりが、まさにこんな話になるとはね。こういった偶然の出会いには感謝するべきでしょう。どうやら先生のお話も終わりそうですから、私もそろそろ失礼すると致しましょう。

御婦人が何を気にされているかは推し量ることしかできませんし、私から何かを申し上げるといのもお節介でしょうから、これは聞き流していただければいいのですが。

愛とは、ただそうであることに気づき、認め、尊重すべきものです。もし自分の背中から愛の翅が生えてきたような気がしたら、どうかそのままにしてあげてください。

慌てて振り返っても駄目ですよ。それはあなたの背中から生えているのですから。それでも必死に藻掻こうとすれば、せっかくの美しい鱗粉が落ちてしまいます。だから、ただ舞えばよいのです。

お会いできて光栄でした、御婦人」

嫌味の無い爽やかな笑みと共にそう言い残して、紳士はそのまま会場を出ていった。男は別に誰かを待っていた訳ではなかったようだ。壁に寄りかかるようにエントランスの隅で居場所なさそうにしていたわたしのことを気にかけ、軽やかに去っていった彼はやはり憎たらしいほどに紳士だと思えた。

やがて知人たちとの話を終えた主人は、小走りでこちらに向かって歩いてきた。一瞬目が合った後に、わたしは先に扉を開けて先に外へ出た。
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