I - 28

文字数 5,649文字

「外傷は大事では無かったですがね。自殺というよりも、どうやらパニックになって突発的に鏡を割って、その鏡で自分を差したようです。本当に死にたいと思えば、もっとやりようがありますから。自傷行為というのは、理解が不可能な精神的な苦痛を、理解可能な身体的な苦痛に置き換えるというのが動機であることが多いのです。何か奥様との間に問題が?」

私は彼女を診てくれている医師に呼ばれ、再び眠りについた彼女を病室において医師の部屋に来ていた。白衣を着た医者は手脚を組んで体を机に向けたまま、脇目にこちらを見ている。

事情を話すかどうか迷ったが、こんなことになってしまうと、何よりも彼女の安全を守りたいと思った。私はこの医師に自分の知っている全てを打ち明けることにした。

「荒唐無稽な話ですが、彼女はずっと自身が見る夢のことについて悩んでいました」

毎日月にいる同じ人間の夢を見ること。お互いの存在を支え合っているということ。最近になって夢での自分に命の危機が迫っていたこと。それによって寝るのが怖くなって、寝不足で調子を悪くしていたこと。私は彼女とそのことで喧嘩をしてしまったこと。

医師は姿勢を崩さずに黙って、何度か頷きながら私の話を聞いていた。一体医師はどういった反応を示すのだろう。

「事情はわかりました。私は精神分析の専門ではないので、詳しいことは言えませんがね。

幼少期のトラウマが原因で妄想が発生するという事例はあります。小さい頃に両親から虐待を受けたり、心的にショックの大きい出来事を経験すると、その過酷な現実に対するために、自身の認識の側を変えようとする、ということです。

多重人格の事例なども、これに当てはまりますし、少し前にドイツのフロイトが、シュレーバーという精神分裂病の患者について《ある神経病患者の体験記》という本を出して、話題になったところです」

私は息を呑んだ。彼の話には既に前提が置かれていた。要するに、医師は彼女の夢は妄想、病気だった、とみなしているのだ。私は医師の見解を確認をする。

「つまり、彼女は病気のために妄想している。彼女の夢は全て現実と付き合っていくための妄想なのだと」

「話を聞く限り、そういう事例なのではないかと思いますね」

淡々と医師は答える。特に物珍しいという素振りも無い。それもそうなのかもしれない。医者というのはそういう仕事なのだろう。これまでも多くの事例を目にし、目の前の患者にそれを当てはめているだけ。

「もし病気だと言うならば、回復することはあるのでしょうか」

「先程もお話した通り、トラウマになるような出来事が原因になっているのならば、そのトラウマ自体が融解するように、当然それは実際に起きた出来事なので無くなるということは在りませんが、満たされなかったものを満たしていく、もしくはトラウマに対する認識を変えていくことで、回復に向かう、具体的には妄想が次第に無くなっていくということはあり得るでしょう。

妄想の内容に ”夢” という概念を持ち出されているのも興味深いですが。これもフロイトですが、夢の役割は願望充足だとも言われます。

妄想とは簡単に言うと、耐え難い現実を正当化するための、その現実に居場所を与えるための役割を担う物語とも言えますから、その現実自体が受け入れられるものに変わってしまえば、妄想も不要になっていく、ということです。現実的な存在が、入れ替わっていけば良いのです。

もし現実が肯定できるものに向かっているのであれば、妄想の側にも変化があるかもしれません。夢を見なくなったというとか。夢の存在側が命に危険にさらされているのは、ある意味で夢自体が終わりに向かうこと、終わらせたいということの象徴で、その兆候と見てもいいのかもしれません」

医師はそういうが、彼女は最近どちらかと言えば具合が悪いように見えていたのだが。それについて尋ねると

「不快な夢の内容が直接的にその願望を表しているとは限りません。例えば誰かを攻撃するような夢が、そのまま現実でもその人を攻撃したい欲求を持っているのだとは単純に解釈は出来ません。抑圧に伴う夢の歪曲というのは、しばしば起きることですから」

ということらしい。怖い夢を見るから眠れない、ならば、一体その夢はどんな願望を満たしているというのだろうか。どうも、どんなこじつけも全てが正になるような論理、それは詭弁というものだろうが、それで丸め込まれている気がしなくもない。

「しかし、何が回復に向かわせているのでしょうか。心当たりがありませんが」

ここしばらくの彼女の様子もあって、回復していると言われても、彼女にとっての現実が好ましいものに変わって言っていると言われても、あまり納得は出来なかった。

「結婚されたのは比較的最近なのですよね。旦那さんの存在が彼女に良い影響を与えているということなのでしょう」

「ですが、彼女とは喧嘩をしましたし、彼女は自分に欲しい物を与えてくれないと不満をぶつけていました。それに今回の出来事だって」

医師は初めて身体を回してこちらを向いた。

「身の回りに起きる不快な出来事のような現実的な問題と、例えば”人は生まれながらに不幸なのかもしれない”というような観念的な問題は分けて考えなければいけませんよ。

トラウマとはいわば思考自体を規定する、より根幹的で肉体的にも近い土台に抱えた問題で、前者に属するものです。その変化や解決は、本人の思考の対象として登りません。それは思考の後ろ、陰で起きている出来事なのですから。そして本人自身の知らない内に、どのように、どのようなことを思考するか自体に影響を及ぼします。

一方で観念的な問題とは、意識下の思考の対象となるものです。今どきの若者がしばしば抱える虚無感や無意味さとは、この観念的な部分に抱えている問題といっていいでしょう。

そして、多くの人がこの現実的な問題と観念的な問題の二つを取り違えます。なぜなら、前者自体は、思考によって解決するものではなく、もしくは思考する対象とすることはできず、その根本的な解決は現実的な行動によってのみ成し得るからです。しかし、それには現実的な力と強い意思が求められます。大半の人はそれができるほど強くありません。

だから、自己完結できる観念的な問題にすり替えて自身の認識の側を歪めるのです。圧政に苦しむ貧民が、革命を起こさないまま、弱さこそが美徳なのだと言ってその現実を肯定し始めるようにね。

私の見立てでは、今回の奥様の出来事は観念的な問題なのだと思います。現実的な問題が生み出したはずの妄想が、それが和らいだとしても、本来の原因から既に独立した思考内容として、自分自身の中に根を伸ばし、奥様自身を捉えて離さなくなっているのだと」

医師の話を聞きながら、これまで断片的に彼女から聞いてきた話が、一つの物語として浮かび上がり始めていた。幼少の頃、彼女は愛を受けなかった。彼女が固執してきたもの。愛。トラウマになるような出来事を経験し、何らかの事情で娼婦になり、他者の欲望をその身に受け続ける。その日常から愛が手に入るようなことはない。

彼女はその過酷な現実に対して、愛へ救いを求める。その現実を受け入れるための存在。それが半身である月の女王。夢と現実で繋がれたお互いが、彼女に現実的に満たされることのない愛を与える、ということなのか。それによって、彼女は耐え難い現実を生き抜いてきた。

複雑な形を持った破片同士が必然的に綺麗に嵌って、一つの大きな絵を描き始めていくような感覚を得る。しかし、それと同時に私ははっとする。

”これ” が。”これ”こそがいけないことなのだ。

私は自分でも少々馬鹿げた質問かもしれないと自分でも思いながらも医師に尋ねた。

「本当にそういう夢を見る可能性はないんでしょうか。つまり、ずっと同じ人の夢を見ていて、その人も自分の夢を見ている、というようなことは」

医者は面食らったような表情をしたが、やがて笑い始めた。

「それは本気で言っていますか。まさか、そんなことがあるわけないでしょう。本当にそんな夢があるとあなたは信じてたのですか」

小馬鹿にするような態度にいらっとし、私は食い下がる。

「ですが、彼女の夢の話は一貫していますし、現代では誰も思いもつかないような、考えられないような未来的な概念もあります」

しかし、医師は私を何も分かっていない素人と見下すような表情をしている。

「先のシュレーバーの話ですがね、彼も普通の人では信じられないような、思いつかないような一貫した妄想の体系を作り出していましたよ。私も論文を読んで驚きました。それ自体が一つの宗教になり得るような物語ですよ。

奥様も育ちは良いとのことですから、小さい頃はきちんとした教育を受けられてきたのでしょう。ご聡明でそれらの知識が素材となって巧みに組み立てられているのでしょう。いくら妄想とは言え、その想像力には目を見張るものがありますね」

この男は医者であって、何を言ったところで、何を見たところで、一度それを患者とみなせば、すべては症状の表れとして見えなくなる。症状が患者性を確定するのではなく、論点先取のように患者性が症状を裏付けていた。今の彼の中では結果が原因を裏付けている。決して原因が結果を導き出すことは認められなかった。

もうこれ以上は何を聞いても仕方ないと思った。それに。

「必要でしたら、知り合いの精神分析家も紹介しますよ。いずれにせよ、しばらくの療養を勧めます。明後日には退院できますから」

それに。彼女は真剣なのに、それを夢だ、妄想だ、という簡単な言葉で片付けていいのか。彼女が戦い続けている問題に、夢だとか、妄想だとか、私がそういった居場所を与えて良いのだろうか。

“これ”が避けなければいけないことなのだ。これこそが彼女を蝶として扱うということにほかならないのだから。そのように解釈するということこそが、私と彼女を結び付けず、彼女のいう愛を結ぶことができずにいるのだ。

あるがままを受け入れなければいけない。しかし、そのように語ることも出来ない。それ自体が一つの解釈とならざるを得ないからだ。だから、どんな居場所も与えることは出来ない、ということさえも言うことが出来ない。それを前にただ立ち尽くすしかないような、そんな徹底的で非情な深淵に立つ。

演奏と何も変わらない。物語としての人生は全てが予定された、期待された終結部に向かっていく楽譜に過ぎない。それは自分のためのものではない。物語とは初めから他人の中にあるものだ。

その物語の音をこの私の耳で聞くために、私は解釈しなければならない。私という生がその瞬間に唯一の音を奏でなければいけない。そうしなければ、私の耳にその音は聞こえない。そして、そうすることで、それは常に期待された物語から逸れていく。きっとそれに他人は幻滅する。あの課題曲はそれへの抵抗。

医師の部屋から出た廊下は薄暗く、肌寒かった。

私は、彼女が退院してから、すぐに半年間の休暇を申請した。学長からもあまりいい顔はされなかったが、何よりも今の私たちに必要なことだと思った。それから予定通り叔母の家に戻った。ただ何も考えず、しばらく自由にゆっくりしようと決めた。

彼女はいつも居間のテーブルで静かに本を読んでいる。そして、時々その青紫の目で外を眺めては、うとうとと船を漕いでいる。彼女は夜更かしを止めて早く眠るようになった。もう夢は見なくなったのだといった。女王も長い眠りに付いたのだと。それは寂しいね、と私は言った。

以来、彼女は夢のことについては何も話さなくなった。そして、同じように彼女が例の歌声を発することもなくなった。

時々私は思い入れのある叔母の古いピアノを弾いている。言葉には言い表せないことを音に包み込んで、この気持ちが彼女に届けばいいと思った。しかし分かっていた。それは決して叶うことのない願いなのだと。それが分かっているからこそ”願い”なのだと。

そんな穏やかな日々がしばらく続く。

不意に背筋を撫でるような涼しさに夏の終わりを感じ始めた頃、音楽院時代の恩師の訃報を受け取り、私は葬儀の出席のため一日だけ家を開けることになった。彼女には家に居てもらい、なるべく早く帰ると言って出ていった。一人にしておくのは少々心配ではあったが、しばらく時間が経っているし、落ち着いているように見えるから大丈夫だろうと思った。

葬儀は早く済み、恩師の親族や学友への挨拶もそこそこに足早に立ち去った。

家に帰ると食欲をそそる香ばしい匂いが玄関まで漂っていた。キッチンを覗き込むと彼女が鍋と向き合っていた。

「おかえりなさい、もうすぐ出来るわ」

この家に来てからは、これまではいつも私が作っていたので、少々心配になり駆け寄った。

「あまり無理するなよ」

「大丈夫だから。あなたは向こうで座っていて」

と彼女は笑った。もちろん彼女が元気になってくれるのならば、それはいいことだと思った。私は大人しく彼女に従ってテーブルについた。程なくして出来た料理が並んでいく。机の上には夏野菜などを使った色とりどりの料理が並ぶ。私が家を出る頃には無かった食材もあった。

「昼に市場に行ってきたのよ」

「あまり焦らなくていいんだよ。時間は十分にあるんだから」

彼女は瓶から澄んだ黄金色の食前酒を私のグラスに注いだ。急いで帰ってきて喉が乾いていた私は早速口をつけた。香りがよく甘く濃厚な味わいだった。彼女はじっと私を見ている。

「市場で見つけたのよ。はちみつから作ったお酒なんですって。珍しいわよね」

どおりで甘みが強い訳だ。彼女は瓶をテーブルに置いた後に私は気がつく。彼女の手元のグラスを見ると、そのグラスは空のままだった。

「君は飲まないのかい」

そう尋ねると、彼女は侘びしげに微笑んだ。

「もう飲んでしまったのよ。ずっと前にね」

その言葉を最後に強い眠気に襲われ、明かりが消えていくように暗闇が私を包み込んでいった。
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