I - 11

文字数 4,035文字

綺羅びやかなまだら模様、宝石のように透き通った光沢、一つ一つ異なる衣装をその羽に着飾った蝶たちが壁には並び、時間を止めて、永遠がその箱の中に閉じ込められているように思える。

昨日花畑で見た黄色い蝶や、どこでも全く目にしたことが無い、絵本からそのまま取り出してきたような、鮮やかな翡翠色の蝶が目を引いた。しかし、わたしは壁にかけられた標本箱をひと通り見て、気になったことがあった。

「あなた、Noctuelles は飾っていないの?」

「Noctuelles?」

彼はこの言葉にピンと来ていないようだった。わたしはいつもの二人の言葉でそれを何というか分からなかったので母国語に頼ったが、彼はこの国で仕事をしているとはいえ、時々通じない語彙もある。

「ええ。ここに飾ってあるものよりも、もっと触覚が太くて、よく夜に見かけるやつよ」

わたしは両手の指先を頭の上に乗せた仕草をする。

「夜に見かける蝶?ああ、蛾のことを言っているんだね。蛾は飾らないよ。私が集めているのは蝶だからね」

蝶は飾るけど、Noctuelles、蛾は飾らない?

彼のいう区別がよく理解できず、わたしは更に尋ねた。

「どうして?どちらも同じでしょう」

「いや、蝶と蛾は別の虫だろう」

どうも話が上手く噛み合っていない気がする。そこでわたしは表現を変えることにする。この言葉なら彼にも分かるはずだ。

「あなたが言っているのは、papillon de jour と papillon de nuit は別だっていうことよね」

「ええと、nuit と jour、は昼と夜で。Papillonは蝶、そうだね。蝶と蛾は当然別物だよ」

彼の応答には違和感がある。話が同じところを廻っているような気がする

「あなたの母国語では、私の国の言葉の Papillon をどう理解するの?」

「Papillon は 蝶 という意味だよ」

おかしい。わたしも同じ理解のはずなのだけど。

「でも、そうしたら、Noctuelles、蛾も蝶よね。蛾は papillon de nuit、夜の”蝶”なんだから。これはあなたも同意するでしょう」

「いや、蛾は蛾であって、蝶では無いものだよ」

また振り出しに戻った気がした。話は平行線というよりも、円環を描いていた。わたしは上手く今起きている出来事を捉えきれずにいたが、彼の方が思い当たることがあったようで、状況の説明を始めた。

「確かに聞いたことはあるな。この国では蝶と蛾を区別しないのだと。私の国では、その言葉が明確に分かれているように、蝶と蛾は全くの別物なんだ。蛾は蝶ではないものだし、蝶は蛾ではないものなんだよ。

だからこそ、それぞれに ”蝶” と ”蛾” という違う名前がつけられているんだ。学名上の分類がどうなっているかは知らないけれど。

私からすると、papillon という言葉がよくわからないな。この標本に入っているものは蝶だし、夜に飛んでいるのを見かけるのは蛾で違う生物なんだ。私からすると不思議なのは君たちの方だな。

蝶と蛾を区別しないと言っても、papillon de nuit ****と papillon de jour という二つの言葉の存在が示す通りに、その区別自体は持っているじゃないか。でも、それらになぜ同じ papillonという言葉をあてて使っているのか、私にはよく分からない。

いや、そもそも二者を区別していなくて、単に見る時間帯で曖昧に区別をしていて、私の思う蝶と蛾というように区別しようとしている訳ではないのか?」

彼は顎に手を当て考え込むような仕草を始めた。わたしに説明をするつもりが段々と自問自答するように自分の思考の内に入り込んでいく様子だった。それにしても、彼のつぶやく言葉も所々噛み合っていないように思えた。

彼は自分が思索に潜りつつあることに気がついたのか、話を整理しようとした。

「君も私も、papillon は ”蝶” という言葉に対応することを理解している。しかし、どこかで、その言葉に含まれているはずの意味がズレているのかもしれない。

ここまでの話で、私が ”蝶” と呼ぶものは、正確には君がいう “papillon de jour” に当たるものだと思う。でも、それを再び私の中での理解に訳そうとするとき、それは ”昼の蝶” になってしまう。papillon という語も単体で ”蝶” と訳さなければ私は理解できないからね。

この理解は一言にするとこうなる。つまり、”蝶” は ”昼間の蝶”のことである、と。

しかし、今度は ”昼間の蝶” の ”蝶” とは一体何なんだろう。

君はそれのことを papillon と呼んで、その概念をそのままに理解しているかもしれないけど、それは私には分からない。恐らく papillon が君の中で意味することと、私の中で意味していることは違うんだ。それでも、papillon を 蝶 と訳するしか無い。私にはその言葉の対応関係、それ以外の理解が無いからだ。

だから先程の問にはこう答えるしか無い。”昼間の蝶” は ”昼間の昼間の蝶” のことである、と。

この鎖はずっとずっと伸びていく。こうして、私は君の理解に寸前の所で手が届かない。問えば問うほどに、君の蝶はひらひらと舞いながら私の手を逃れ続けて、永遠にこの手の中に収まることがない」

なんとなくだが、わたしは彼の言いたいことは分かった。

「でも、初めに君が言っていた ”Noctuelles”という言葉は不思議な感覚がするよ。あくまで私にとってはだけど。接頭辞 Noct- は Nocturne と同じで ”夜” のことだろうし、この言葉自体はそのまま ”夜の蝶” と言っていると思う。それが指しているものが私の考える蛾に当たるなら、別に ”蛾”と訳しても ”夜の蝶” と訳しても、その意味は変わらないように思えるね。私の理解でも ”夜の蝶” を ”蛾”と自然に解釈することは出来るから。

でも、それと同時に、蝶と蛾として見るならば、やはりそれらは別物だ。

だから、Noctuelles という語をただ ”眺めている” 間は、本来決して交じることが無いはずの蝶と蛾がその語の中で重なり合っている。でも、一度そこから踏み込んで、私の中に取り込んで、それを解釈しようとすると、蝶と蛾は一緒には居られなくなってしまい、片方を押しのけた排他的な姿を得る」

蝶と蛾は一緒に居られない。

「Μό眺端 ένα エτοイάμο μ長πορシ雨είφειノκατ独άο忍偲ται」

ため息のように、口が言葉を紡いだようだった。

「ごめん、何か言ったかい」

「それは寂しい話ね。”Noctuelles” 自身にとっては、どちらも自分の本質、欠かせないものでしょう。そのどちらも自分なのだと理解してほしいと願うはずよ。どちらが欠けても本当の自分とは言えないだろうから。

でも、理解するものとされるもの、その二人の間にそもそもその種類の対話しかありえないなら、それは酷くもどかしいものね」

半ば適当な感想のように口にしたつもりの一言だったが、彼は一瞬はっとしたような表情をした。やがてその表情は緩んだ。

「その言葉は含蓄に富むね」

しばらくして彼の考えはまとまったようだった。二人で始まった会話を、彼はしばしば一人で思考の向くままに突き進み、そのままわたしの手元を離れて見えなくなり、そして最後に形だけ戻ってくる。よくあることだった。

「きっとこういうことだ。もし仮に君が ”これはpapillonだ” という理解を得る場面があったとしても、私にとってそれは蝶か、蛾のどちらか片方にしか理解できないと思う。お互いは排他的な概念としてあって、それは蛾なのか、蝶なのかって、解釈をして片方を後ろに下がらせて、白黒をつけようとするはずだ。

同じ名前を知っていても、そこに意味することは君と私で違っている。話し合えば、そこで意味していることの違いをつぶさに見ていくことはできる。そこから、その二つの概念を人為的に足し合わせることは出来ると思う。”papillon = 蝶 + 蛾” だという風にね。でも、それは、君の理解のそれとはきっと異なったものになる。

だって、君のその理解には、初めから私の言う蝶や蛾なんて概念は必要としていないだろうから。何よりも先に papillon という理解があるのだろうから」

ただ Noctuelles を飾らない理由を尋ねたつもりが、想像以上に思弁的な話に進んでしまった。わたしは最初の小さな疑問に対する答えを得ていなかった。質問を仕切り直すことにする。

「じゃあ、どうしてあなたのいう ”蛾” は集めないの?わたしは可愛らしいと思うのだけど」

虚をつかれたような表情をして、彼は少し考えた様子で答えた。今度こそ単純な質問に噛み砕いたつもりだったが、先程までで彼の頭は熟考型に切り替わってしまっているのかもしれない。

「蛾は私の国では害虫として見られているんだ。あまり蛾を集めて飾るという発想自体がなかったよ。それにそういったイメージを抜きにしても、蛾は蝶と比べると色味が薄くて地味だから、わざわざ飾ろうという気にはならないな。それに比べると、多彩な模様をその翅に浮かべた蝶は宝石のように思えるんだ」

彼は立ち上がって自分でも壁に掛けられた標本箱を眺め始めた。その彼の目は少年のような輝きに満ちており、蝶と共に封がされた自身の少年時代を重ね合わせているのかもしれない。

「それでも、その宝石は人に見せびらかすというよりも、こうやって手元で大切に飾っておきたいと思うんだけれど」

「わたしは蛾の落ち着きある静淑な姿の方が、気品があって好きよ。蝶が光り輝く太陽だというならば、Noctuelles はその名前の通り、夜を美しく舞う月のように思えるわ」

「その感性は私も理解できるよ。だからきっと単に好みの違いかな」

そういって彼はソファに深く腰掛けた。
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