I - 29

文字数 1,944文字

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肌を焦がすような熱気を感じ、私は目を覚ます。まだ冴え切らない意識の中、ぼやけた視界の向こうには赤らかに灯った部屋の様子が映っている。ピアノの弦が弾けるような音を立てながら燃え上がり、壁に並んだ蝶たちはその翅に炎を映し、幻想的に見せていた。

そして目の前の人影。その炎の明かりを体に反射して赤く神々しくも見える彼女。まるで燃え上がるような紅赤の翅を携えているように思えた。私の上にまたがって目覚めたばかりの私の顔を黙って眺めている。

静かな涙が浮かび、その瞳は部屋を包む炎が映り込み、ゆらゆらと揺れていた。胸元を抑え、唇を噛みしめるように苦しい表情をその顔に滲ませていた。

「夢を見なくなってから、ずっと考えていたの。

わたしは”彼女”の夢だったのか、”彼女”こそがわたしの夢だったのか。もちろん、そんなことは確かめようもなく考えても分かるはずがない。

確かなことがあるとすれば、彼女の存在がわたしに与えてくれていたものは、今のわたしの中からは失われ、それは虚となったということ。

代わりにあなたはそのぽっかりと空いた穴を優しさで満たしてくれた。それはすごく幸せなことだった。昔のわたしが得られなかったものを、あなたは与えてくれたわ。それがあなたの言う愛なのかも知れない。

でも、あなたのことが大切だと思うほど、あなたとの間に生まれた新しい愛が、わたしとあなたが一緒にはなれないことを突きつけてくるの。大事であればあると思うほど、それが一層本当の意味で手に入らないものだと分かってしまう。大切に思うのは、あなたはあなたであって、わたしではないことの証明だから。

分かっているわ。こんなの普通じゃないってことくらい。きっと皆が考えているのは、愛っていうのは、もっとありふれていて、不完全で。あなたのいうように時に理解し合えないこともその内に包んでしまうような。きっと、そういうもの。

でも、夢と現実を往来する中で、一度その理解を得てしまった。わたしの理解を表す概念や言葉の外には出られなくなってしまった。そのように、その場所からしか現実を捉えるしかできなくなった。その理解こそが、わたしの世界そのものとなってしまったのよ。

もう元には戻れない。どんな夢を思い描いても、それを思い描けるということ自体が自身の現実を証明してしまうように。一度その理解を得てしまったら、もうその”夢”には二度と戻れない。

わたしはいつも言葉という鏡の前に立っている。

そして何か語る時、自分と瓜二つな、でも決定的に何かが異なっている不思議な虚像を目にする。

右を向いても、左を向いても。好きと言っても、嫌いと言っても。

鏡。鏡。鏡。鏡。

そうじゃない、そうじゃない。わたしに反射する虚像がわたしを閉じ込める。

一体わたしはどこにいるの?

無限の次元に敷き詰められた鏡の空間。

どこを見渡しても、いつを見渡しても、何を見渡しても、全てにわたしが映っている。

ここにはわたしの全てが映っている。

でも、本当に大切な何かだけは決して映らない。全てが虚ろな像。

どうしたら、鏡の外に出られるの?

どうしたら、鏡に映った像ではない、本当がこの目で見られるの?

無限に続く鏡合わせ。

明かりさえないその場所は果てしなく、ずっと暗い」

彼女は優しく私の頬に触れた。その手は震えていた。向けられたその目は、私のもっとその奥にある何かを見ているように感じられた。

「その徹底的な孤独が、誰かの存在を求める。わたしの心が ”一人にしないで” と叫ぶ。

でも、一度その場所に立ってしまったら、この手に触れる感触も、その温もりも、向けられた眼差しも、全てが言葉になってしまって、わたしはそれを読み、語るしかない。

自覚するの。わたしが触れているのは、そこにいるのはあなたではなく、わたしは鏡に映った自分の虚像を見ているだけなのだと。一度入ったら最後、もうその場所からは出られない。なぜならその理解自体が鏡合わせの虚像となってしまうから。

だから、今のわたしにとって大切なあなたは、わたしの夢なのよ。

あなたの言った通り。わたしはあなたを夢見ているのかもしれない。どんなに相手のことを知っても、知ろうとしても、強く触れ合っても、決して一つにはなれないの。二人を隔てる鏡が無くなることはない。

夢と現実、それがわたしとあなたの間にある、埋まることのない距離。どんなにあなたのことを掴もうとしても、このわたしの現実の奥に逃げてしまう。目覚めと共にやわらかな朝霧のように広がって、そして消えてしまう。

どんなに強く繋がっていても、月の彼女がわたしを夢見ても、わたしが月の彼女を夢見ても。たとえ、わたしがあなたを夢見ても、あなたがわたしを夢見ても。蛾が蝶の夢を見ているのだとしても」
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