I - 26

文字数 4,152文字

「へ音の部分、ここはpの指示がある。フレーズは29小節目から入っていて、ここで沈んでいくように小さくなっておく。ここから先、30小節目から36小節目に向かって徐々にクレッシェンドをかけていくようになっているから、始めをかなり小さくしておかないと、この部分全体が頂点に向かって盛り上がりが示せなくなってしまうよ」

午後の授業、午前に引き続いて同じ女子生徒の演奏の授業だった。彼女は私の自作曲の小品に取り組んでいる。

「36小節目のトレモロの部分だけど、イメージは羽ばたきなんだ。空を飛ぶものは色々あるけれど、鳥の羽ばたき、トンボの羽ばたき、蝶の羽ばたき。同じ羽ばたきでもそれぞれイメージは違うよね。

この部分はそうだな。蝶のようにその羽ばたきは私たちの目を引き付けて離さないような、揺れるように宙を舞っている。でも、ここはただ蝶というだけでは正確ではない気がする。少しこの曲想に対して明るすぎるかな。

そうだな。暗夜で舞うそれは、その羽音は静寂で、小刻みで震えるような翅の動きには月明かりが反射して、まるで私たちの前で月が瞬いているように見える。それは優雅でどこか神秘的でさえあるんだ。まるで蛾のような ー 」

そう言いかけたところで、私にはあることが思い出され、それ以上は語らずにおいた。彼女にトレモロのイメージを伝えるために、私は両手を重ねるように鍵盤におき、6本の指を震わせるように音を出した。

彼女は同じトレモロの部分を何度か繰り返し、私のニュアンスを再現しようと苦心していた。何度か弾く内に、かなり私のイメージに近づいていた。彼女が私の鍵盤の方を見やったので、私は再び彼女に演じてみせた。同じ音楽の道を歩む者同士、口であれこれ語るより、そのまま音にする方が伝わりやすかった。

そして彼女は29小節目から流れを通して弾き始めた。それを何度か繰り返している内に、彼女は彼女なりの独自のイメージを捉え始めていた。それは次第に私の思い描いていたものとは異なっていったが、一つの解釈として、それはそれでとても良い表現だと思った。私の言葉で彼女の輝く才能を縛る訳にはいかない。

授業終了を告げる鐘が校内に響き、私が譜面台の楽譜を片付けているところ、彼女は尋ねた。

「先ほどの女性は先生の奥様ですか」

唐突な質問に少々びっくりした。正面からの質問に嘘を付きたいとは思わなかったので正直に答える。

「そうだね。さっきの短い時間でよくわかったね」

「どこか二人の間に特別な親しさみたいなものが見えたので。先生はご結婚されていたんですね」

そういう彼女の表情には、普段の涼し気な表情とは違い、その目には湿り気を帯びた陰りのようなものが見える。口元には2本の直線で作られたような微笑が貼り付けられている。

「言っていなかったけど、少し前に結婚したんだよ」

「いえ。別にわざわざ一生徒に言う必要は無いですものね。ちょっと、そこで結婚されている先生に聞きたいことがあるのですが」

「もちろん。言ってごらん」

「他の授業での課題に、結婚を扱った曲について提出する課題があるんです。でも、私は学生ですし、まだ結婚を考えたことも無いので、その曲が扱っているテーマや感情がよくわからなくて、中々書き進まなくて。なので、経験のある方に聞いてみたくて」

彼女は私の鍵盤の方を眺めながらそう言った。私も音楽院の在籍時は芸術史や作曲などの授業で、楽曲について分析や長ったらしい論考を書かされたことを思い出した。

「その曲の楽譜とかは持ってる?よかったら見てみるけど」

「いえ、今は手元になくて。少し聞いてみたかっただけですので。ご夫人はどんな方なんですか」

彼女は鞄を胸に抱えた。

「生徒にそういうことは少し話しにくいな。うーん、そうだね。不思議な魅力がある人かな」

「不思議、ですか?」

彼女は首をかしげる。確かに不思議というのは褒め言葉としては聞き慣れず、むしろネガティブに聞こえるかもしれない。

「ちょっと変わっていて、儚げで朧げにさえ思える。眼の前にいるはずなのに、時々ここにはいないような虚ろさもある。そんな不安定なところもあるけれど、静かな存在感があって、時々氷を照らしたように光る。でも、やっぱりどれだけそう言ってみても、彼女の魅力を言い尽くすことはできないな」

「先生は、そういう風に人を見ているんですね」

彼女は笑っていたが、それは冗談なのか、苦笑なのか、私には掴みかねた。

「そういう人が好きなんですか」

「彼女は私にとってインスピレーションを与えてくれる存在でもあるんだ。常に私と違う視点で世界を見ている。そんな彼女と話しているのは楽しいし、話している内に作曲や演奏においても色々なイメージが湧いてくるんだ」

そう問われれば、そう説明せざるを得ない。行き場の無い違和感が私の中でわだかまる。

彼女の言葉、彼女の振る舞い、彼女の表情、その先に私は彼女を見ようとする。しかし、彼女に向かっていく光は、言語の鏡面に跳ね返り、その反射光が私の眼に入る時、そこに見ていたのは、私なのだと気がつく。

「先生と同じように音楽をされていたんですか」

「いや、きちんとやったことはないみたいだね。時々遊びでピアノを弾いているくらいかな」

「音楽とは関係ない方なのですね。どこで知り合ったんですか」

確かにそれは当然の疑問だった。私たちの馴れ初めをおおっぴらに話すのは少々憚られる。特にうら若い女性に話すのは。私がそう思っていないとしても、本当にそう思っていないとしても、娼婦なのだと語れば、そこに付きまとう汚名の烙印からは逃れられないのだろう。

初めからそうだったのかは分からないが、今その言葉はそのようにしてあるから。その烙印と共にあるものだから。清廉な娼婦という撞着した鏡は、実像と虚像によって支えられているのだから。

「えーと、彼女の職場かな。彼女は接客の仕事をしていて、お客として出会って話すようになったんだ」

嘘はついていない。

「そうなんですね。授業でお会いする時、先生はいつも指輪をされていなかったので、てっきり独身でおられるのかと思っていました」

私は、はっとして自分の左手を眺める。

「そうなんだ。演奏するときに指輪がついていると、どうも気になってしまってね。演奏や指導の時はつけないようにしていたんだ。いつも持ち歩いてはいるんだけどね」

思わず右手で左手を包む。私は彼女のことを隠してきたのだ、ということが改めて認識される。それは追認だったのか、自覚だったのかは分からない。しかし、そうなのだと思ってしまった。出来事に対して、秘匿の物語がぴたりと嵌る。同時にそれ以外の出来事は後ろに下がる。

変わらなければいけない。しかし、それを決意してもいけない。そのように語るたびに訪れる”追認”と”撤回”と共に生きることは、あまりにももどかしい。この葛藤を歯がゆい蜃気楼のままにしておくことが、きっと彼女と向き合うということなのだ。

そんなことに頭が回り始め、これ以上結婚について、彼女について聞かれたくはなかった。

「そろそろ次の生徒も来るし、今日はこれくらいでいいかな」

そういって話を切り上げた。

「はい、ありがとうございました」

彼女は小さくお辞儀をして、鞄を抱え直した。

「それと、改めてご結婚おめでとうございます」

彼女は私に向かって微笑む。その表情はいつもよりも温かく、普段がクールなこともあって、かえってぎこちなく見えた。ありがとう、と私は返す。

彼女は扉に向かって、そのままいつものように颯爽と去っていくかと思いきや、扉の前で立ち止まって振り返る。そして私に問うた。

「最後に一つだけ。結婚して良かったですか」

そんなことは考えるまでもない。

「良かったよ。彼女のこと、愛しているんだ」

彼女が学校にいきなり現れたのには驚いた。本当に退屈だったのかもしれないし、夢に何かが起きたのかもしれない。しかし、わざわざ「話したいことがある」というのは、古来から別れを切り出すための文句でもある。いずれにせよ、今夜分かることではある。

作曲の再提出を早く仕上げなければいけなかったが、なんだか彼女のことが気になってしまい、進捗は芳しくなく、そこそこのところで切り上げることにして、いつもより早く日が落ち始める前に学校を出た。まだ校舎内に楽器の音が鳴り響いている内に学校を出るのは久しぶりだった。私は途中の市場に寄って、彼女の好物であるブルーベリーパイを1ホール買っていった。

食べ物でご機嫌を取ろうというつもりではなかったが、あったらあったで嬉しくないことは無いだろうから。私と彼女は先日の夜に言い争いをしてからというもの、少々ぎこちなくなっていた。私は言いすぎてしまったことを謝り、彼女もそれを受け入れていたが、それから彼女は夢について切り出すこともなく、私から聞くこともなく、生活上の会話を交わすのみであった。

家に着く頃には日は落ちようとしていた。しかし、家には明かりがついていないように見えた。鍵を回して玄関の扉をあけると、広間から見える部屋には明かりはついていない。もう疲れて寝てしまったのか、とそう思った。左手の廊下の方を見ると浴室の方だけ薄っすらと明るくなっているのが分かった。

私はひとまず荷物とブルーベリーパイを居間の卓上において浴室へと向かった。薄暗く光る浴室に向かって、一歩ずつ廊下を進む。途中浴室のほぼ向かいにある寝室が視界に入ったが、半開きの扉の隙間から彼女は寝室にはいないのがわかった。そのまま廊下を進み、薄暗い光が浴室の戸から漏れ出している。ゆっくりと扉を開くと、いきなり床の方から突き刺すような光が私に向かって照り返した。思わず顔を覆う。指の隙間から、それは浴室一面に割れ散らばる鏡なのだと分かる。

すぐに飛び散っているのは鏡だけではない、ということに気がついた。床に描かれた赤黒い斑点。それは血であった。そして、その血の主。彼女が腕から真っ赤な血を流して、眠るようにバスタブにもたれかかっていた。私は駆け寄った。彼女の手元には、尖った大きな鏡片が血に濡れている。腕には定規でまっすぐに貫いたような傷口。そこからは溶岩のような血がドロドロと流れ出ていた。彼女は”ここ”ではないどこかへと行こうとしていた。
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