I - 12

文字数 2,973文字

「小さい頃に少しやったことがあるくらいなのよ」

「自由に弾いていいよ。私が合わせるから。難しかったら黒い鍵盤を使わずに、白い鍵盤だけで弾いてみて」

昼食を食べた後、部屋のピアノに興味を示したわたしに、彼はせっかくなら一緒に弾こうと声をかけ、小さな椅子に二人で並んで腰掛けていた。

わたしは自分の記憶を頼りに、頭の中にうっすらと浮き上がってくる音の並びを弾いてみる。まず白鍵のE、そのあとにG。昔に歌ったことがあって覚えていたのかもしれない。それに合わせて、左に座っている彼は左手で幾つかの音を抑えた。そうするとただのつまらなかったはずの音が装いを変え、音楽の体を成して聴こえた。背景に和音が加わると途端にそれらしくなってくる。

それに気を良くしたわたしは、彼が支えてくれるのに期待して、適当なリズムに乗せて文字通り自由に鍵盤を押していった。それが一体どのように決められるのか分からないが、眼の前の鍵盤をひたすらに抑えていく。

「良いリズム勘しているじゃないか」

最初は彼の言いつけ通りに白い鍵盤だけを弾いていたが、次第にそれだけでは物足りなくなり、黒い鍵盤にも手を出し始めることにした。黒鍵を押したときの響きは、この場に在ってはならない異物が混じり込んでしまったようだった。

しかしすぐにそれはまた秩序の中に戻る。わたしが変わったのではなく、世界がわたしに追いつき、わたしは新たな秩序に溶け込んでいくのだった。それは彼がわたしの音に合わせて調和する和音に柔軟に変えているのだということに気がつく。即興でそんなことをこなして見せる音楽家とは凄いものだと感心する。わたしに楽典的な知識は無かったので、とにかくここに在るべきではなさそうな音を押し続ける。

秩序と無秩序は渚のように寄せては返し、混沌と調和の追いかけっこは続く。わたしたちの連弾、この素人の演奏をそう呼ぶことを許してもらえるのならばだが、それは外から聴いている人にとっては美しいはずもないだろうが、そんなことはどうでも良かった。この瞬間はわたしと彼だけのものだった。

鼻高々に実はピアノが弾けたのかもしれないと錯覚しはじめていたわたしは、再び頭に浮かんで来るものを鍵盤に叩きつけていく。こんな曲はどこで知ったのだったのだろうと疑問に思ったが、どのように弾いても彼が上手く合わせてくれるので、とにかく手が動くままに鍵盤を叩き続けた。わたしたちの連弾は混沌の様相を呈していた。

さすがに勝手にやりすぎたのか、彼もわたしに合わせるのに少々真剣になっている表情が見て取れた。いくら遊びとは言え、音楽家なりに負けたくないプライドがあるのかもしれない。混沌にも既に耳に慣れてしまい、滅茶苦茶な音はもう当たり前のように聞こえ始めていた。

そろそろ終わってもいいだろうと、始めの白鍵だけの旋律に戻ると、それにすぐに気がついた彼も耳慣れた音使いに戻る。終わり方が分からないわたしは鍵盤から手を離し、後は任せたと念を込めて彼の目を見る。彼もわたしを見てそのメッセージを受け取ってくれたようだった。

水を得た魚のように彼の指は一人で鍵盤上を縦横無尽に駆け回った後に、最後はしばしばロマン派に見られるような終わり方で壮大に閉じられた。わたしたちは秩序と無秩序が交錯する旅から無事に帰郷した。

彼も鍵盤からだらんと手を下ろし、大きなため息をつく。緊張が解けたわたしと彼はお互いを見合って、しばらくの間笑っていた。

「実は君に作った曲があるんだ」

セッションの後、ソファに腰掛けていた彼は切り出した。

「あら、いつの間にそんなもの作ってたの」

「前から君はわたしにインスピレーションをくれると言っていただろう。だから、その言葉通りに君から得たイメージを1つの曲にして、君に贈りたいと前から思っていたんだ。気に入ってもらえるかは分からないけれど、披露してもいいかな」

「もちろん。楽しみだわ」

わたしは彼に椅子を明渡し、ソファに腰掛けた。これまで彼のきちんとした演奏を聴いたことは少なく少し緊張する。彼は椅子を調整し、鍵盤に柔らかく手を委ねた。

初めの単音が奏でられ、柔らかくゆっくりと音階を昇っていく。しかし、そこで示される音は、その軌跡は全くの異質だった。タッチの柔らかさと対照的に、常にギシギシと軋むような不協和的な響きを伴って進んでいく。自分の居場所がわからなくなるような、宙に投げ出されて上下左右もわからないまま、ただ漂うように。時間が過ぎていくことさえも、これが音楽であるということさえも、忘れていくような感覚に包まれる。

鍵盤に向き合う彼の腕はピアノと繋がっているように見えた。ピアノは楽器という外付けの道具なのではなく、彼自身の一部であるような、彼の手が歌っているようであった。しかし、それが歌い上げるのは決して頌歌や賛美歌などではなく、もはや呪詛とでもいった方が近いかもしれない。退廃的で不可解。

不安定な音の流れにしばらくとろけていると、不思議な感覚に襲われる。その虚ろな響きの中に、徐々に道筋が見えてくる。それは未だ通ったことがないが、たしかにそれは道を示しているのだということが分かる。これまで知らなかったというだけであって、新しい何かがそこにあることだけがわかった。そして、ある一瞬、それは偶然だったのか分からないが、ある美しさがわたしの心を捉えたような気がした。そして、それもまた一瞬の後、さざ波の中に消えていった。

そのような感覚の満ち引きが続いた後、重厚な鐘のような低音の一音が鳴り、彼は鍵盤から静かに手を下ろした。そこで初めてわたしは、曲が終わったのだと理解した。彼は、ふーっと息を吐いた。

「タイトルは一先ず Nocturne sans tonalité、無調のノクターン、とでもしようかな。君にはもっとロマンチックな曲を送るべきだとは考えたんだけど、君から感じるものをきちんと形にしようとすると、どうにも違ったものになる。作曲家として、そこには妥協できなくてね。

でも誤解しないでほしい。少々不気味で無機質で、グロテスクとも言える音楽かもしれないけれど、別にこんな風に君のことを見ているということでは無いんだ。あくまで創作者としての私が、着想から想像力と技術を働かせた結果として出来上がった作品というものだから。

私は普段は色んな本に書かれた物語や、日常での出来事・体験や情景をイメージしながら音楽を作る。でも君との関係は、君という存在は、それらとは全く異なった特別な霊感のように感じられた。それをどうにか形にしたいと思って、結果いつもの作風とは全然違ったものが出来上がったんだ。でも、間違いなく熱を込めて作ったつもりだよ」

異質と分かりながら贈るのには、少々躊躇いもあったのだろう。確かに変わった音楽ではあったが、わたしのことを考えて作り贈ってくれたというその事実には素直に嬉しい気持ちがした。彼がわたしを思う気持ち、わたしをどのように思っているのか、その実は分からなかったが、彼がわたしを思ってくれているということは分かった。

「ありがとう。気持ち嬉しいわ。自分で弾くのは流石に難しそうだけれど、また時々聞かせてほしいわ。ααισ1ινγ υηί 全αααμε νν」

わたしの胸は暖かく満たされている。しかし、これはまだ愛ではない。
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