I - 16

文字数 1,199文字

「今度の7月にあるコンクールなんだが、君も応募してくれるか。

主催の協会と当院の関係性できちんとした作品を出しておきたいんだ。いつもは生徒で光る子がいれば推して出させていたんだが、今年はあまり目ぼしい子がいなくてね。若く才能ある生徒の減少は問題だな。君のところの生徒にも声を掛けたんだが、今は授業を優先したいと断られてしまったんだ。君なら年齢的にも規定通りで問題ないし、応募してくれると助かるんだが」

講義後の廊下で、通りかかった学長に突然呼び止められる。

「手は空いていますが。ちなみにどんな課題なんでしょうか。あまり条件が厳しいと分かりません」

「課題自体に細かい縛りは無いがね。15分以内の作品を出してくれれば良いんだ。ただ知っての通り協会は新しい音楽を求めている。

伝統に囚われ過ぎず、適度な逸脱を含んだ作風も、君もその一人な訳だが、既に当たり前になりつつある。似たような作風でやっている人は全く珍しくなってきている。

当然君もわかっている通り、演奏会で取り上げられる作品も結局古典派・ロマン派が中心で、現代曲というのは取り上げられても、結局人口に膾炙することなく人知れず忘れられていく。そうならないような新しい音楽を提示できるか、というのが1つの評価点になるのだろうと思う。私も審査に関わる予定だから、これ以上のことは言えないがね。

入賞すれば君の実績にもなるし、今後のキャリアでも今回の実績があれば、私の方でも方方に口が利きやすくなるから、取り組んでもらうには悪い話ではないと思うがね。一応当院としての推薦として出すから、提出の前に一度我々の方に見せてもらうことにはなるだろうが」

しばらくは演奏活動に力を入れようと思っていたところだったが、順番が前後するだけの話だ。新しい音楽とは望むところだった。それは、何よりも私が成し遂げたい仕事の一つなのだから。

「それならば、おそらく引き受けられるかとは思いますが、今週中にお返事でも良いでしょうか。他にも仕上げるべき仕事をいくつか残しているので」

「中々他に頼めそうな人がいなくてね。良い返事、期待しているよ」

そういって教授は立ち去っていった。

すでにアイデアの種はある。試したいこともある。彼女からのインスピレーションも、無調のノクターンでまずは一つ形にできた。きっとあのまま出しても際物になるだけであろうが、もっと洗練させていけると思うし、あの作風の創作技法を体系化できれば、新たな風を吹かせることが出来るように思う。

私は自身の研究室に戻って、いくつかの事務仕事を片付けた。窓から見える中庭は既に薄暗く、校内から演奏の音は、ほとんど聞こえなくなっていた。

そろそろ帰らなければ。彼女が真夜中に本を読んでいるのは、どうやらあの日だけではないようだった。顔は少しやつれたようで、朝起きると居間で彼女が机に伏して寝ていることもままある。彼女はきっと何かを抱えている。
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