I - 22

文字数 5,354文字

先日に無事に演奏会を終えた私は、友人たちといつもの居酒屋に来ていた。

人付き合いが良いとは決して言えない私だったが、何かあれば酒を酌み交わす友人が居た。小さな頃からの付き合いというのは、細々とであっても長く続いていくものだ。

集中して準備をしていた演奏会が終わり気が抜けたのか、普段はほとんど飲まないはずの酒が進んでいた。私たちのテーブル上には3人が飲んだ酒で空いたグラスが並んでいた。彼らは私のように別に何か一仕事を終えた訳ではないのだが、何かと理由をつけて酒を飲むのはいつものことだった。

演奏会にも来ていたルイが話を切り出す。

「この前の演奏会に来てたあの美人、お前が招待したのか」

唐突にそう言われて私の心臓が飛び上がる。結婚について周囲には殆ど言わずにいたが、当然こうなることは彼女を演奏会に招待しようと決めた時から分かっていたことだ。それを承知の上で、というよりもそのために呼んだのだから。

「ああ、そうだよ」

冷静を取り繕いながら答える。それを聞いて、ルイはニヤリと笑みを浮かべている。

「やっぱりな、他に誰か連れがいる訳ではなさそうだったし。それであんな美人も滅多にいないから見間違うことも無いと思うんだが、どこかで見たことあると思ってな。あの女、娼婦か?」

ここから思わぬ方向に話が進み初めた。私の心臓は忙しく飛び跳ね続け、口から出てきそうだったがなんとか自分の中に押し込む。

「どうして」

平然を装って咄嗟にそう返したが、その答えが聞きたいとは思っていなかった。どんな答えが返ってくるかは、既に大体の想像がついたからだ。

「昔一度娼館でそっくりな女と寝たことがあるんだ」

その受け入れがたい言葉は一瞬私の耳を素通りしかけたが、何とか掴みなおす。想像通りだった。

彼女が以前にしていたのは娼婦という仕事なのであって、当然そこには客がいて、偶々その昔の客が目の前のこいつだった、というだけの話だ。そんなことがあって当たり前だ。そんなことで不快に思ったりする必要はない。それに娼館に居たのは私に出会うよりも前の話。仕事は、所詮仕事なのだ。ましてや、それによって彼女の素晴らしさが失われるということはない。

うるさい心音の中で、私は反射的にそう自分に言い聞かせていることに気がついた。

そこに黙って聞いていたレオも話に入ってきた。

「お前、娼婦なんかに熱を上げてるのか」

その言葉には嘲笑、蔑視の色が見えた。それに思わず私は感情的になる。

「ちがう、熱を上げているとかじゃない。正式に彼女は私の妻だ。もう結婚しているんだ」

私はテーブルに身を乗り出し、思わず左の胸ポケットから、いつも忍ばせている銀色の結婚指輪を二人に見せつける。刹那、ルイとレオの時間が止まる。その間は私を冷静にさせるには十分だった。私は大人しく席につく。

恐らく少しからかう位のつもりだったのだろうが、思わぬ話の流れに二人はしばらく目を点にしていた。やがて理解が追いついたのか、二人は笑いだした。

「女は指輪もしていたからまさかとは思ったんだ。おれらにも秘密にしやがって。なんで持ち歩いてるくせに指にしてないんだよ。一体どんな感情だ、それは」

冷ややかな目をしながらルイは私の肩を叩く。うるさい、私にも色々あるのだ。

「でもお前、娼婦なんかと結婚するなんてな」

娼婦”なんか”。再びのその言葉が癇に障ったが胸にしまい込んだ。苛立ってはいけない。そう、苛立ってはいけないのだ。苛立つことで、娼婦が蔑まれる対象であることを認めたことになってしまうのだから。

「今はもう違うさ」

私の口から出たのはそんな言葉だった。彼らの軽蔑を未来に迂回しようとしたその言葉は、彼女に対する私の態度を映し出していた。それは、結局私が彼女の一面だけを切り取って捉えようとしているのだということを、曇り無き鏡のように無慈悲に、徹底的に、私自身に突きつける。

娼婦であったことも私の愛する彼女の紛れもない一面。その仕事は私と彼女を引き合わせたものでもある。それを取り除いてしまえば、彼女は彼女ではなくなってしまうのだから。彼女が彼女であるのは、それがあるからなのだ。

しかし、そうだとすれば、一体どう答えれば良いというのだろう。何かを語れば、必ず何かがこぼれ落ちてしまう。私は全てを飲み込んで一先ず口を閉じて、はなさないことにする。

「その時から、ど偉いべっぴんでどことなく気品さえ漂わせて、なんで娼婦なんてやってるかよく分からなかったが。無口で愛想は良くなかったが、体は最高だったな」

妻が他人と寝た話を、その当人から正面切って聞かされるほど不快な話も無いだろう。お前こそ、一体どんな図太い神経だ、それは。何とか沸々と湧き上がる言葉を抑え込む。

「お金さえ払えば誰とも寝るような奴らだぞ。なんで新進気鋭の音楽家様が娼婦なんかと結婚するんだ。今のお前は評判も稼ぎもあるんだから、他にもいくらでも良い相手はいるだろう。それに、お前もこう言われることは分かってたんだろう」

その言葉の一つ一つに反論して叩き潰してやりたい気持ちになるが、私はなんとか感情を落ち着けて冷静に答える。

「彼女の存在は、仕事の想像力を掻き立ててくれるんだ。それはその辺の人、君たちみたいなね、と話しても得られない、創作者の私にとってかけがえのないものだ。それに彼女は娼婦を仕事として誇りを持っていてやっていたし、たとえ仕事であっても誰とでも寝るような人じゃない」

しかし、そう話した途端に、今度は自分の口を紡いで出たはずのその言葉一つ一つを叩き潰してやりたい気持ちに駆られる。私は結局のところ彼女の存在は、自分の創作のための手段にしか思っていないのか?娼婦はわざわざ誇らなければ正当化できないような卑しい仕事なのか?寝る相手をより好みする程度には、全てを仕事として割り切っているわけではないのか?

自身の発した言葉に映った影が、それを生んだはずの私を絡め取り続ける。

「娼婦にインスピレーションを受けた曲なんて、ろくなものじゃないだろ。それに作曲家は、曲のイメージやモチーフを正直に話すもんじゃないぞ。俺たち聴衆の感動が、娼婦の嬌声だったなんて知ったら皆が幻滅するぞ」

そういうルイに、少しかじった程度の素人に音楽を語られるなんて舐められたものだと思った。

「曲は楽譜に書かれた音だけ、その曲の全てだ。その曲の全てだ。それ以外の全ては聴き手自身の先入観、解釈でしかない」

「けどよ、多かれ少なかれみんなそういう先入観で聞くんだぜ。モチーフにした題材があると知れば、その曲の中にそれらしいものを見出そうとする。聴衆っていうのはそういうもんだろ」

思わぬ鋭い反論に、私は返す言葉が無くなってしまう。不覚にも一理あると思ってしまったのだった。全くこんなことになるなら来るんじゃなかった。きまり悪く感じた私は目の前のグラスに入っていたウィスキーを一気に飲み干し、テーブルに空のグラスを叩きつける。もうこの話は終わりにしたい。

「いずれにせよ、妻を悪く言うな。私は彼女を愛している。彼女にも事情があるんだ。そのことも知らずに彼女をけなすことは許さないぞ」

その言葉に静かな剣幕を感じたのか、二人はしらけたようにため息をつく。人をからかっておきながら面白くない顔をするなんて理不尽な奴らだ。だが、彼らもこれ以上この話に触れないほうが良いと思ったようだった。

「おうおう、かっこいいねえ。悪かったよ。終わり終わり。そんなことより、知ってるか、二丁目の洗濯屋の女なんだけどよ」

それからルイとレオの心底どうでもいい話に花が咲き誇り、気がつけば店内の客は私たちしか居らず、店主に追い出されるように店を出た。全く得るところの無い時間だったが、その不毛さを求めてきっとまたこいつらと会うのだろう。

夜道、私は彼女の存在を明かして友人に強く主張したことに、ある種の満足感のようなものを得ていた。しかし、それは同時に私自身が目を背け続けてきた彼女に対する態度を映し出している。心地よい酔いがはぐらかすように、それらをいっしょくたに包み込んでいた。




「まだ起きていたのか」

家に帰ると彼女が机の上に本を積み上げて読んでいた。彼女は今でも眠れない時には時々こうしていた。演奏会の準備で慌しく気が付かない内に、本から顔を上げた彼女の輪郭はやせ細っているように見えた。

「今日はあまり眠りたくないのよ」

「向こうに戻りたくないのかい」

彼女と夢について時々話すようになったとはいえ、自分から夢の話を切り出すのは珍しいかもしれない。酔いが自分の気を大きくしているのか。

「そうね」

そう彼女はつぶやき、本に顔を戻す。今夜の彼女は元気がないように見え、少々心配になる。

「弱っている君を見ていると私も苦しいんだ。心配なんだよ。今日はもう一緒に寝よう」

私は後ろから彼女の首に腕を回す。しかし、彼女はそれを振りほどこうとする。

「離して」

彼女の私に冷たい目を向ける。

「もうあなたの形だけの愛はいらないの」

形だけの愛。私はその言葉の意味を掴みかねた。

「何か気に触ったかな」

更に鋭い目つきで私を見てくる。はあ、と彼女は深い溜め息をついた。

「あなた、結婚のこと、わたしのこと、全然周囲に言っていないのね。この前の演奏会でも、あなたにも事情やタイミングがあるでしょうから、終わった後も目立たないようにして待っていたのに。結局、あなたは最後まで私のことを誰にも紹介しなかった」

「違う、偶々言う機会を逃してしまっただけなんだ。仲の良い友人には言っているさ」

口をついて出たのは、新鮮取れたての薄っぺらい真実。しょうもない友人二人は知っているのだから嘘はついていない。意を決して踏み出そうとしたところに、彼女の言葉が深く突き刺さる。

「あなたが考えていることは大体分かっているわ。わたしが元娼婦だということに、娼婦と結婚したということをあなたは汚点に感じているのよ。それでそのことを周囲に知られたくないのでしょう」

「そういうわけじゃない」

私はぐっと喉元を押されたような気持ちになった。

「違うんだよ。それは、君が私にとって大切だから、大事にしたいと思っているから」

そう、私は君を大事にしたい。大事だからこそ、他人に見せびらかしたくない。この気持ちは間違っていないはずだ。しかし、私に落ちたその言葉の影は粘着くように絡みつく。

見透かすように彼女は私に冷たい目を向ける。

「そういうところが気に入らないのよ。結局のところ、あなたはわたしのことを蝶として見ようとしているだけ。そっと大事に自分だけの標本箱に入れて、それを一人で飾って眺めて、可愛い、綺麗だ、と愛でているだけなのよ。そして闇夜に舞い踊る娼婦という蠱惑的な翅の模様は覆い隠そうとする。そうしないと、それは蝶ではなく、あなたの嫌いな蛾になってしまうから。

わたしはあなたとの間に愛を求めたのに、あなたとわたしの間に一向に愛は生まれてこない。心配だとか、大切だとか、愛しているとか。そういう形だけの言葉で取り繕って、何でもわたしに寄り添って優しくしようとする。

あなたはそれが届くと思ってる。でも全く届かないのよ。その外側、形しか届かない。愛は愛しているという言葉じゃない。愛は献身的な行動でもない。”愛してる” なんて ”言葉” があり得る訳ないじゃない。その言葉はあなたの自家撞着を晒すだけ。

別に何を言うかの問題じゃないのよ。優しい言葉でも、嘘でも真実でも関係ない。あなたが発したそれは、わたしから見ればいつも外側にすぎないのよ。どれだけそれを重ねても、その中身がこのわたしに届くことはないわ」

なんと理不尽なことを言うんだ。

「それ以外に一体どうしろって言うんだ。自分の気持を伝えるために、それ以外の方法なんて一体ある理由がないだろう。君の要求は初めから不可能で、理不尽だ。君の理解では、他人との間に愛が生まれるなんて、そんなことあり得ないことになる」

しかし、彼女の反応は予想したものと違った。その顔には貼り付けたような無機質な微笑が浮かんでいる。後ろに差し込んだ月明かりがその表情に影を差し、それは薄気味悪くさえ思えた。彼女は自分の胸に手を当てる。

「わたしはそれがあり得ることを知っているわ。月のわたしは、間違いなくこのわたしを愛しているもの。それがわたしには、ただ分かるの。その愛は言葉や行動に堕ちることなく、純粋なままで混じり気なくこのわたしに直接届くのよ。ここでは αλο融γノιβ在ξωπ τψ αί本μςρια α ασ観ρα が成立するのよ。

わたしがあなたに求めたのは、夢と現実との間にあるわたしを、同じように内側から満たしてくれるような在り方での愛なのよ。それを得るために、わたしはあなたと結婚したの」

無茶苦茶だ。彼女は本気で言っているのだろうか。自分の夢を持ち出して、想像上の概念で批判をされるなんてまったく不条理だとしか思えなかった。

それに、彼女はやはり、まだ自分の言っていることの意味に気づいていない 。というよりも、むしろ気づかない”ふり”をしている?

彼女はそれからも理想の愛と現実との差について語り続ける。理不尽なことを一方的に言われていることが癪で、次第に腹立たしくなってきた。
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