I - 4

文字数 7,188文字

日向の入らない廊下角の教室には、今朝の冷気が逃げ場無く残り続けていた。

ピアノの前に腰掛けた私は、この個人的な作曲こそが、自分の仕事の中で最も意味あるものになるのかしれないと予感していた。しかし、それは単なる霊感にも近い予感なのであって、それは創作者によくある、行き詰まりを正当化するための自惚れにすぎないのかもしれなかった。

半ば勢いのままに、湧き出るインスピレーションを五線譜に書きなぐり続けられたのも束の間、今の私は前にも後ろにも進みかねていた。既に存在する規則が私を固く縛っていることを改めて自覚する。

既存の規則からの逸脱。それは一見容易なことに見えて、貫徹するのは困難、もとい不可能なことである。なぜなら、逸脱とは規則の存在を前提とした概念だからだ。

“あることではない”こととは、 ”あること” の存在を前提としなければいけない。いわば硬貨の両面的な関係、実像と虚像の結びつき。徹底的に規則から逸脱しようとした存在には、必ずその背に規則の影が映らざるを得ない。それは単に陰と陽が入れ替わるということでしかない。そこにあるべきものが徹底的に欠けた存在は、逆説的にあるべきものへの執着を一層露呈してしまうのだ。

故に本当の逸脱とは、規則からの”独立”でなければいけない。しかし、その独立とは、それが独立的に語られるのであれば、それは新たな規則の存在を示すことになる。こうして話は循環する。

結論、創作において規則からの逸脱など不可能なのだ。それでもそうせずには居られないのは創作者の性であり、業なのであろう。

頭に思い浮かぶ響きを鍵盤に跳ね回るように乱雑に叩きつけていく。しかし、どうしても私の耳が捉えるのは、聞き覚えのある使い古された旋律、故郷のように慣れ親しんだ和声。それはいわば期待されたものである。私は想像以上に、自分自身の音楽性がつまらない規則にがんじがらめに囚われていることに失望した。

もっと無知に、廊下を通りすがった人間が、一体どんな素人が弾いているのかと顔を顰めるような、そんな無秩序を求めなければならない。私は自身の頭に生まれる調和した微温い響きを振り払い、音と音をぶつけ、割れた皿と皿を断面同士で擦り合わせように鋭く響き合わせる。その音に教室の冷たい空気がさらに凍りつくように不愉快に震える。

彼女から感じられる音は。彼女という存在は、この枠には収められそうにない。まだ、しばらく時間がかかりそうである。まるで素人のはずの彼女が、慣れない手付きで叩いた鍵盤から鳴った偶然的な音が、なぜそこまで未来的な響きを得たのか。意味を理解できないはずの彼女のあの”歌声”が、なぜ私の感性に”語りかける”のか。

今でも耳に残っているその音の断片は、インスピレーションとしては十分であったが、その全体像が見えないことによるフラストレーションも十二分だった。耳に残る未来的な響きと彼女という存在のイメージは同期して混ざり合い、着想として私を捉え続けていた。

「よろしいですか」

控えめな声が幽かに耳に入り、ふと我に返った。鍵盤から手を離して後ろに振り返ると、女子生徒が入口のドアから覗き込むように顔を出して、様子を伺っていた。

「ごめん、気が付かなかったよ。入って」

生徒は静かにドアを締め、慎ましげな足音を立てて、私の座っているピアノの右隣に並んだ、もう一台のピアノに軽やかに腰掛けて、譜面台に課題の楽譜を並べた。私も彼女が先日提出した楽譜を自分の譜面台に広げ始めた。

「作曲中でしたか?」

しまった。そう尋ねる彼女は、私が気がつく少し前から居たに違いない。

「ちょっと気分でね。遊びでちょっと弾いていたんだ」

「すごい不協和音が廊下に響いていたので、一体誰が弾いているんだろうと思ってんですが、この教室に近づくに連れてその音が大きくなっていくので、まさか先生だとは思いませんでした」

彼女は薄く苦い笑みを浮かべていた。私はとっさに誤魔化そうとする。創作の過程とは泥臭く汚い。それは決して人に見せられたものではない。ただ完璧な作品だけを何の苦労もなかったようにさらっと披露するのが一流なのだ。

「ちょっと作曲に行き詰まっていてね。たまにこうして童心に帰るみたいに、乱雑に弾いてみたくなるんだよ。驚かせたら済まないね」

「いえ、少し意外だっただけです。こちらこそ、なんだかすみません」

変に気を使わせているようで、真面目な彼女に少々申し訳ない気持ちがした。この話題は切り上げて、早く授業に入っていくのが良いと思われた。

「では先日の課題だった作曲について、講評していこう。まずは全体的な評価としては、よくできていたよ。

ソナタ形式の意図を正しく理解しながら、それぞれの部分を上手く構成できていると思う。

甘美な第一主題から、打って変わって痛切にも聞こえる印象的な第二主題で、その対比を保ちながら進んでいき、終盤にかけて、それらが混ざり合っていくところが、とても魅力的に感じたかな」

私は、彼女の作曲した課題曲の第一主題と、第二主題の主旋律のみを取り出して右手で弾いて見せた。やはり、この子には類稀なる感性、センスがあるように思われた。この音楽院で生徒を教えるようになってから四年ほど経つが、演奏も作曲双方においても、これまでの生徒の中で図抜けている。このまま行けば素晴らしい音楽家になっていくことは、火を見るより明らかだった。

彼女を見ると、私の手元の鍵盤に視線を向けたまま固まっていた。

「大丈夫、聞いているかい?」

彼女ははっとした様子で、背筋を伸ばした。

「すみません、大丈夫です」

「続けるよ。少々問題があるのがコーダの部分だね。

ショパンもベートーヴェンも熱を入れてコーダを作るけど、特にショパンは終結部分をあまり冗長にはしたがらない。逆に作り込んだコーダは本当に素晴らしいものを作るんだけど。例えば、バラード4番とかね。なぜ曲の最後にコーダを作るか分かるかい」

「コーダはその曲の終結部で、クライマックスとしての盛り上がりを作り、その曲全体が終結したことを分かりやすく示す役割があります」

彼女は考え込む様子も見せず、教科書通りに即答した。才能がある上に努力を惜しまない。ほとんど成功を約束されたようなものである。あとは周囲の人間に恵まれれば、というところであるのだが。そういう意味で彼女を指導する私の責任は重い。

「そうだね、模範的な回答だ。そうしたら、もう少し抽象的に考えてみようか。

曲も捉え方によって一つの物語だと考えられるよね。特にロマン派の作品なんかは、物語が暗示されているように感じることも多いと思う。では物語の結末というのは、その物語全体に対してどういう意味を持つと思う?」

今度は彼女は俯いて考え込む様子を見せた。先程の即答と打って変わりしばらく固まっていた。そして、その結果あまり納得できる答えは出なかった様子で私に尋ねた。

「すみません、先生の質問の意味が、あまり分かりませんでした。もう少し具体的に仰っていただけますか」

「そうだな、例えば、家族に裏切られた男がいるとしよう。彼はその家族に対する復讐を考える。そして、二つの結末が用意されているんだ。

一つは ”破滅”、そしてもう一つは ”和解”。前者では、燃えたぎる復讐心は実現することのないまま、唯一の大切なものさえも失い、失意の死を遂げる。後者では、ふと力を手に入れた男は、裏切った家族をその力で弄びながらも、最後には和解を選択する。

そのどちらを選んでも物語自体としては一貫して成立するだろう。それはなぜだと思う」

「どちらも ”復讐” というテーマから必然的に生み出されるべき結末だからではないですか。復讐を主題とする物語が解決するには、復讐を遂げるか、決意の上で復讐を取りやめる、もしくは復讐が失敗するという結末しか、論理的にありませんから」

「そうだね。私も普通はそう考えると思う」

「普通は、ということは、間違っていましたか」

彼女は首をかしげながら、不安そうな表情を見せる。物事を正誤だけで考えてしまうところは若さであり、未熟さでもある。

「間違っているということはないよ。しかし、こういう時にもう少し想像や飛躍、可能性を膨らませてみる。こんな考え方も出来るというくらいで聞いてくれればいいんだが。実は事態は全くの逆なんだ」

「それはどういうことでしょうか」

彼女は私の方に顔を向けて残したまま、慌てて鞄の中を探り始めた。私の話すことを書き留めようとしているようだった。私は彼女に向けて、どうぞと手を差し出し、筆記具の準備が出来るのを待ってから答え始めた。

「君は言ったよね。先の物語のテーマは”復讐”だと。でもこの物語の中で、この作品のテーマは復讐です、とはどこにも語られていないんだ。それは単に私たちが”復讐”を軸にして、この物語を解釈しようとしたということに過ぎない。

例えば、3つ目の結末を用意してみよう。復讐を考えた彼は、事故にあって記憶喪失になる。そして、事故から助けてくれた女性と恋に落ちるんだが、実はその女性は自分を裏切った家族に加担していた仲間で、記憶を取り戻した彼との間でその事実が明らかになり、二人の関係は修羅場を迎える。しかし、最後は愛を選び、二人は幸せになる。

この時に”復讐”という事態は一体どこへ行くだろう。この時の復讐は、単に二人の愛における障害の一つに過ぎなくなる。この作品の主題は、どうみても”愛”へと切り替わっている。

想像してみてほしい。君の前に物語内での全ての出来事の一つ一つが等しく並べられている。そこに、ある1つの結末が訪れると、その結末の意味を必然的とするために必要な出来事だけが前に出てきて、それ以外の出来事は全て後退して、ただの背景になる。

しかし、それをまた別の結末に取り替えると、背景だったはずのものが今度は途端に重要になって目の前に現れる。そしてさっきまで大事だったはずのものは、取るに足らない些細なことになって後景へと変わる。

昼下がりに飲んだ微温い平凡な一杯の紅茶が、心臓が止まる最後の瞬間に全ての物語の始まりだったのだと悟るのかもしれないし、その日初めて入った店で交わした店員との何気ない会話が、別の物語では人生を変える出会いだったかもしれない。

もしそうならなかったのならば、単にこの物語がそういう物語ではなかったということだ。逆の言い方もできる。”この物語がそういう物語だったから、それはそうなったのだ”と」

私が話している間、彼女は譜面台に向かいながら、しばらく筆記具を動かし続けていた。その後、自分の書いた内容を眺め直してから、こちらを向いた。

「先生のおっしゃりたいことは何となくわかりました。その作品の性質は結末が訪れるまで分からない。そして結末次第でそれまでの過程は、柔軟にその在り方を変えるということですね」

彼女は私のニュアンスを正しく捉えていた。決して簡単なことを言っているつもりはなかったが、それでも彼女はきちんとついてくる。

「そういうことだね。正確なことをいうと、決して物語自体が在り方を変えている訳ではない。物語は常に読み手とは切り離せないんだ。読み手が居ない物語は”あり得ない”とも言える。

つまり、それがどのような物語と見做すかは常に読者が決めていて、その内容に応じて、物語は読者一人一人の中で、ある意味で個別に再構築されているということだ。

出来事が集まって物語が出来上がっている。しかし、結末が来るまでは、過程がどのような意味を持っているかは確定しない。出来事の一つ一つは、その集合である物語全体によって初めて意味づけられるんだ。この二つには切っても切り離せない、というよりも必然的な関係性にある。部分が全体を構成し、全体は部分を意味づけている」

なめらかに筆記具を走らせ、彼女は書き留め続けていた。いつもの悪い癖で話が脱線しかけていたことを自覚した私は、彼女の提出課題についての評価という本筋に話を戻した。

「少し抽象的な話になってしまったね。提示部から展開部、再現部という中心の流れはよくできている。そして、さらに言えばコーダも単体としてはよくできている。

でも、あくまでそれは単体としてだ。これを、ある一つの曲のための、君が作曲したこの曲のためのコーダである、という文脈をもっとしっかり捉えなければいけない。

文脈がなくても良くできているというのは、逆に言えば、この曲の結末としての必然性が欠けているということでもあるんだよ」

そう言って私は、彼女の曲のコーダ部分を弾き始めた。音域を幅広く使った分散和音の展開や、不安を煽っていくような半音階の響き、右手のオクターブ連打など、終末部としての盛り上がりを作っている。

多分に技巧的な要素が盛り込まれているが、まだまだ洗練させる余地がある。演奏技巧と作曲の適切な関係についても教えていく必要があると感じた。私は即興で少し左手の和音に変化を加えて見せた。

悲痛の叫びのような最後のカデンツが、唸るような低い響きを作りだし、空気を震わせた。そして教室に染み込んでいくように徐々に消えていき、ペダルから足を離すと、教室には静寂が訪れた。

彼女は、再び私の手元を見たまま静止していた。しばらくしてハッとした彼女は居住まいを正す。

「このコーダが弾かれている時、表面的には聞き手は確かにこのコーダを聴いている。でも、それと同時にこの曲全体を聴いているんだ」

彼女は首をかしげながら尋ねた。

「曲の全体を聞く、とは一体どういうことでしょうか。私たちは常に曲のある部分が演奏されて進んでいくのを聞いていますよね」

「当然の疑問だね。面白いことだけど、時間の芸術であり、常に ”今” において展開され、未来に向かって前方向に進んでいくはずの音楽が ”遡及的”に理解されていくんだ。

これはどういうことかというと、”聴く” という行為は二つの次元で行われていることを示しているのだと私は考えている。

一つは感覚的、肉体的な次元。空気の振動としての音を聴く、という単純な行為のことだね。この意味では確かに、人は曲を聞く時、今演奏されている部分だけを聴いているはずだ。

そして、もう一つは意味的、物語的な次元だ。知性的な活動とも言えるかもしれない。私たちは、音楽を聞く時、同時に必ず文脈を認識している。時間の芸術である音楽は、文脈の存在を前提としていて、瞬間的には成立しないから、誰もが全ての音楽を一定この次元で捉えているといって間違いはないと思う。和声”進行”なんてのは、文脈無くしては成立しないからね」

私は適当にありきたりな Ⅰ- Ⅳ - Ⅴ - Ⅰ と和音を抑えた。落ち着きのある、そして酷くつまらない響き。

「ドミナント - トニックみたいな数小節レベルでもそうだし、曲全体の構成を見てもそうだ。

例えば、再現部を聴く時には”戻ってきた”と感じるだろう。そして、変奏を聞けば、曲を通して用いられるモチーフが明らかになり、随所にそれらを色んな形に変えて散りばめられるその巧みさに驚嘆する訳だよね。こういったものは、単にその音を聴いているだけではない。これは理解や解釈を伴った知的な作業だ。

ここまで言えば、初めに話した物語の例えも合わせて、言いたいことは分かってもらえると思う。

コーダは終結部として、その物語の全てを決める訳だ。君がこの曲の中で散りばめられてきた過程の”伏線”が一体どういうものだったのか、それはこの物語の主役だったのか、その主役を彩るために欠かせない脇役としてのドレスだったのか、後景にひっそりと咲く路傍の花に過ぎなかったのか。それらの全てがこの結末で氷解する。最後の最後にこれまで全ての期待を裏切るような革命があってもいい。ただ、それは文脈あってのことだ。

だから、もっとその連関が分かるように展開しないといけないね。例えば、この結末は悲劇的なものだと思う。でも、悲劇はただ悲しいだけであってはいけない。それに対比するような明るい場面が存在し、それがあって初めて悲劇性を引き立てられる。

だからコーダに入る直前までは、もっと明るさや輝きが欲しい。具体的には、和音はそのままでも、もっとこの曲を特徴づける第一主題や動機などの要素を香らせたい。音価の拡大、縮小でもいいし、反行、逆行でもいい。後は、より高音域での展開を増やしたり、分かりやすく駆け上がっていくようなアルペジオを入れていっても良い。

そうすると例えば、地獄から逃げ出して天まで駆け上り、雲を突き抜けた先に美しい星々を見たが、それも束の間、最後は悪魔に足を掴まれて天から地の底まで引きずり落とされていく。そんな物語だということが分かる、とかね」

彼女は私の話す言葉を聞き漏らさないように、紙に小さな文字で書き連ねていった。彼女の几帳面で生真面目な性格を思えば、もっと回りくどくなく話したほうが良かったかもしれないなと思った。要点以外の話も一字一句漏らさず書き取ろうとするだろうから。

一通り話すべきことを話し終え、譜面台に広げていた彼女の課題の楽譜を束ねた。

「提出課題としては十分すぎるものだから、良い評価をつけるよ。ただ、もし君がもっと良くしてみたいと思ったら、また持ってきてくれていい。他の課題と一緒に見るから」

受け取った彼女は、まっすぐに私の目を見て言った。

「ありがとうございます。必ずもう一度持ってきます」

星のような眼差しは眩しいくらいだった。彼女が必ずというのならば、必ず持ってくるのだろう。創作者は自身の持つことの出来なかった眩しい才能に出会うとニ種類の反応を示す。1つ目は嫉妬。もう1つは畏敬。才能の星彩は周囲のその二つの影を生む。

「それでは、また午後の授業で。連弾の課題をよくやっておくようにね」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み