I - 13
文字数 1,445文字
川面から不揃い浮き出た石の足場をつたって、颯爽と向こう岸へ渡っていく。歩き疲れた私は近くにあった手頃な大きさの石に腰掛けて、彼女の様子を眺めている。
「ピアニストってば、体力がないのね」
対岸に渡った彼女が声を飛ばしてくる。街へ帰る前日、私たちは近くの小川に散歩に出ていた。こちらに来てからの彼女は普段よりも活発だった。その存在が一層近くに感じられる。
一方でどんなに近くに感じられても、そうであるが故に残る隔たりを感じるようになった。それは近いからこそ、近くにあるはずだからこそ、感じられる隔たりなのかもしれない。私と彼女を隔てているものは、単なる理解や価値観の相違か、あるいはもっと根源的な何かであるのか。それはまだ分からない。
上手く言葉として掴むことは出来なかった。確かに掴んだと握った掌を開くと、中にはその”確かに掴んだと握った掌”があったというような、外が中にあったというような不可解な奇術に化かされる。なんとか言葉を離れて曲に落とすことで、素描的ではあるけれども、自分の中の彼女から受けるイメージをこの想像を一定表すことが出来たようにも思う。
「ほら」
川の対岸をぼんやり眺めていると、彼女が石の足場を伝って小川の真ん中まで戻ってきていた。彼女は手を振っている。私は重い腰を持ち上げて立ち上がり、彼女の元へ歩き出す。
大体30センチ間隔に、平らだが不揃いな石が足場をなしていた。水深も深いところで数十センチといったところで、万一落ちてもどうということはないが、彼女に不格好な姿は見せたくはなかった。運動神経に自信がある方ではないので、一段一段足裏をベッタリとつけながら、丁寧に飛び越えていき、川の真ん中で差し出された彼女の手を掴む。
彼女は私の手を引き寄せながら、そこで笑いながらさっと身を躱す。嫌な予感はしたんだと思いつつ、慣性はその身を預ける先を失い、そのままバランスを崩しながら振り返る私の視界の端には、やけに楽しそうな彼女の笑顔が無窮のようにゆっくりと流れている。小さな水しぶきが舞わせながら私は川に落ちた。彼女は石の上でしゃがんで意地悪い笑みを浮かべながら、ずぶ濡れになった私を見下ろしている。
彼女に一杯食わされた私は少しムキになり、油断している彼女にバシャバシャと水をかけ、顔を覆った右腕を掴んで、自分の方に向かって引っ張り込んだ。彼女も体勢を崩して、私の上に覆いかぶさるように落ちてきた。二人とも全身ずぶ濡れだった。してやったりという気持ちだったが、予想外にも私の上の彼女はくしゃっとした笑顔で声を上げて笑っていた。
「楽しいわ」
私も何だか可笑しくなってしまった。私たちの笑い声は、光踊る川面に反射して、どこまでも飛んでいく。清爽な風が地平線を滑るように青々とした野原を撫でている。遠くに見える山々は手に取るように近く見える。
もし誰かが見ていたら一体私たちのことをどう思っただろう。大の大人二人が何をやっているのだろうと思っただろうか。しかし今はそんなことはどうでもよかった。ただこの世界に、君がいて、私がいる、それだけだった。
君の胸の内がここまで分かりやすかったのは初めてだ。そんな無垢な表情を見ていると、私と君の間にある隔たりなどというものは、仮に存在するのだとしても、全く些細なことのようにも思えてくる。憂いを帯びた顔つきの彼女が、腹を抱えて笑っていられるような、この瞬間のために、私の世界、私という世界の全てが君に収束し、君によって根拠付けられているようにさえ思えるのだ。
「ピアニストってば、体力がないのね」
対岸に渡った彼女が声を飛ばしてくる。街へ帰る前日、私たちは近くの小川に散歩に出ていた。こちらに来てからの彼女は普段よりも活発だった。その存在が一層近くに感じられる。
一方でどんなに近くに感じられても、そうであるが故に残る隔たりを感じるようになった。それは近いからこそ、近くにあるはずだからこそ、感じられる隔たりなのかもしれない。私と彼女を隔てているものは、単なる理解や価値観の相違か、あるいはもっと根源的な何かであるのか。それはまだ分からない。
上手く言葉として掴むことは出来なかった。確かに掴んだと握った掌を開くと、中にはその”確かに掴んだと握った掌”があったというような、外が中にあったというような不可解な奇術に化かされる。なんとか言葉を離れて曲に落とすことで、素描的ではあるけれども、自分の中の彼女から受けるイメージをこの想像を一定表すことが出来たようにも思う。
「ほら」
川の対岸をぼんやり眺めていると、彼女が石の足場を伝って小川の真ん中まで戻ってきていた。彼女は手を振っている。私は重い腰を持ち上げて立ち上がり、彼女の元へ歩き出す。
大体30センチ間隔に、平らだが不揃いな石が足場をなしていた。水深も深いところで数十センチといったところで、万一落ちてもどうということはないが、彼女に不格好な姿は見せたくはなかった。運動神経に自信がある方ではないので、一段一段足裏をベッタリとつけながら、丁寧に飛び越えていき、川の真ん中で差し出された彼女の手を掴む。
彼女は私の手を引き寄せながら、そこで笑いながらさっと身を躱す。嫌な予感はしたんだと思いつつ、慣性はその身を預ける先を失い、そのままバランスを崩しながら振り返る私の視界の端には、やけに楽しそうな彼女の笑顔が無窮のようにゆっくりと流れている。小さな水しぶきが舞わせながら私は川に落ちた。彼女は石の上でしゃがんで意地悪い笑みを浮かべながら、ずぶ濡れになった私を見下ろしている。
彼女に一杯食わされた私は少しムキになり、油断している彼女にバシャバシャと水をかけ、顔を覆った右腕を掴んで、自分の方に向かって引っ張り込んだ。彼女も体勢を崩して、私の上に覆いかぶさるように落ちてきた。二人とも全身ずぶ濡れだった。してやったりという気持ちだったが、予想外にも私の上の彼女はくしゃっとした笑顔で声を上げて笑っていた。
「楽しいわ」
私も何だか可笑しくなってしまった。私たちの笑い声は、光踊る川面に反射して、どこまでも飛んでいく。清爽な風が地平線を滑るように青々とした野原を撫でている。遠くに見える山々は手に取るように近く見える。
もし誰かが見ていたら一体私たちのことをどう思っただろう。大の大人二人が何をやっているのだろうと思っただろうか。しかし今はそんなことはどうでもよかった。ただこの世界に、君がいて、私がいる、それだけだった。
君の胸の内がここまで分かりやすかったのは初めてだ。そんな無垢な表情を見ていると、私と君の間にある隔たりなどというものは、仮に存在するのだとしても、全く些細なことのようにも思えてくる。憂いを帯びた顔つきの彼女が、腹を抱えて笑っていられるような、この瞬間のために、私の世界、私という世界の全てが君に収束し、君によって根拠付けられているようにさえ思えるのだ。