I - 18

文字数 3,063文字

洗面台に手をついて苦しそうにしている彼女。できる限り彼女の力になりたいと私は思った。

しかし、彼女はこちらに振り向かないままにこう言った。

「きっとあなたには理解できない」

初めからそう突き放されてしまうのは、少し辛かった。そして彼女は更に遠ざかろうとする。

「これはあなたが避けている月での話。あなたにとっては、まさに夢のような、荒唐無稽で非現実的な話。それに聞いた所で、あなたに出来ることはきっと無いわ」

彼女はまだこちらを振り向かず、鏡越しに小さく目が合っていただけだった。

「避けているなんてことはないさ。話してくれよ」

彼女はため息をついてから、こちらを振り返り、私の顔を一瞥した後に、向かいの壁にもたれかかった。どうやら話してくれるようだった。私も彼女の左隣に動いた。触れる彼女の肩は、萎んだように弱々しかった。正面に掛かった楕円の鏡には、彼女と私が左右反転して並んでいた。

「これは全てわたしの夢の、月の女王としての話。

月では地球との国交正常化30年の記念万博が開催されようとしていたわ。でも、そこで同時多発テロが発生し、それを引き金に月と地球が全面的な戦争を始めることになってしまった。これは結局、火星移住を余儀なくされた地球が、月の固有資源を略奪するための計画。月の女王であるわたしは地球に征服されまいと月軍の指揮を取っている。

もしこの戦争に負ければ、女王としてその責任も取らなければいけないことになる。わたしはこの戦争に負ければ恐らく殺される。

でも、初めから勝ち目なんて無いのよ。いくら月に進んだ技術と Τρω壊弱τό脆 Γogito我εrg在suμatiト があると言っても、月と地球の単純な兵力差は歴然としてる。そんなことは初めからわたしは分かってる。だからわたしは勝利とかそういったもののために戦おうとしてない。本当に頑固で馬鹿よ。

案の定、すでに地球の猛攻を受けて、月の一部地域は奪取されそうになっている。結局は時間の問題」

彼女の言っていること、というよりも、話し方には違和感がある。わたしと言いながら、自分のことを語ると言うよりも、まるで他人に対して言い放つような。

私が彼女の夢について知っていることは、彼女が夢の中では月の女王でいるということ。月と地球は戦後30年ぐらい平和が続いていたと聞いていたが、その静寂は破られてしまったらしい。現実離れしている、というのは認めざるを得ないが、今はそれが現実であるかどうか、仮にそれが現実だとすれば、それはすなわち夢だということになるのだが、とにかくその真偽などは関係ない。彼女の気持ちが全てだ。彼女は話を続けた。

「最近、わたしは寝たくても寝られないの。だって寝るのが怖いのよ。寝たら、あちらで目を覚まし、あちらの世界の時計の針が着実に進んでいく。そして、戦争の終末でわたしが死ぬ可能性に向かって、その崖に向かって進んでいくことになる。

向こうで死んだら一体どうなる?夢で死んだら、ただこの現実に戻る?。もしわたしの存在が夢だったら、それを夢見ているわたしが死ねば、わたしもわたしと一緒に死ぬことになるの?

あちらの世界のことについて、どうすることも出来ない。どちらも一つのわたしだけど、生きている環境が違うから、向こうでの決断は、向こうの状況に合わせて行うしか無いの。

この瞬間に、二つの同じ体を持って動かすということはできない。こちらでは、目覚めとともに、向こうのわたしはどのように考え、どのように振る舞ったのか、というその決断と結果を知るだけ。直接的にこのわたしの言葉が届く訳では無い。

彼女は足先を透かすように手を裏表にひらひらと返している。その彼女の目は遠い。わたしは彼女をどうにか励ますように声をかけたいと思った。

「大丈夫、君は夢なんかじゃないよ。私が保証できる。確かに君は私の目の前にいる」

しかしその言葉は却って女を苛立たせてしまったようだった。彼女は俯いたまま声を荒げた。

「**¡**διγφής知ζ νί σεν εί ντεετόσί無αΗόιο現ίω ενηα!」

その歌声は、意味を必要としない純粋な怒気そのものが、彼女の口から漏れ出しているように思えた。彼女は顔を赤くして再び叫んだ。

「そんな保証が役に立つはず無いわ!あなたのその確信をどうやってこのわたしに渡せるというのよ」

私には彼女の言いたいことは結局よく分からなかった。それでも自分の心配を伝えようとする。

「それでも少しは寝ないと君自身が保たない。君が死んでしまえば元も子もないだろう」

鏡の先で、彼女が怒りを超えて呆れるように深い溜め息をつくのが分かった。

「あなたはわたしのことが何も分かっていないのね」

そのささくれた言葉に今度は私の気持ちが立ってきてしまった。だがそれでは事態はもっと悪くなる。気持ちを落ち着かせて、なんとか歩み寄ろうとする。

「わかろうとしているさ。確かに君の言っていることは、私にはよくわからないこともある。それでもわかろうとしたいんだ。君がどのように世界にいるのか、君はどのように世界を見ているのか。君の言っていることが理解できるような場所に、同じ場所に私も一緒に立ちたいんだよ」

「その気持ちは嬉しいけれど、どうしてもそれは出来ないのよ」

先細るような声は悲しさというよりも、寂しさと諦めに包まれているようだった。その姿に返す言葉が見つからなかった。しばらく私と彼女は黙っていた。鏡に映る彼女は下を向いたままでいる。

少し落ち着きを取り戻した声で彼女は再び尋ねた。

「あなたは月のわたしのことをどう思ってるの」

「どう思うというのは」

「そのままの意味よ。あなたは、あちらのわたしについて、どう思っているのか」

一体どう答えるべきなのか、皆目分からなかったので、自明な答えを返すしかなかった。

「君の夢だと思っているよ」

「真面目に答えて」

彼女の声色には、少々張り詰めた感じがあった。

「そういわれてもな」

別にふざけているつもりは無かった。私は答えに窮する。彼女はある答えを期待しているのではないだろうかと思えた。しかし、彼女のことを理解したいと思いながら、先程から彼女と話して明らかになっていくのは、私が彼女の言うことについて、そして彼女自身について理解していない、ということばかりだった。いまの私には、そのことを正直に答えるしか無かった。

「正直に言えば、それ以上は分からないよ。直接話したことは愚か、会ったこともないのだから。私が月の君について知っている全ては、君を通じて聞いた話でしか無いよ」

「じゃあ、その夢を見ているこのわたしのことは、どう思っているのかしら。不気味?異常?」

再び、先程と同じような違和感を覚える。なぜ彼女は同じはずの問を二回唱えるのか。夢も現実もどちらも同じ一つのわたしという彼女にとって、あちらのわたしとこちらのわたしをどう思うか、という質問は、同じ質問でなければいけないのではないか。彼女自身がそれに自覚的なのかは分からないが、その二つの質問自体が、彼女の理解を示している?

「そんなことは思わないよ」

「Το ψ嘘α δεν θα διノαρκέ償σει για πάντα.」

思わず耳を疑う。彼女の口は話すように動いているのに、そこから紡ぎ出された音が意味を構成せずに私の頭を素通りする。異界の歌声。今は明確に分かる。それは言葉であったに違いない。

「なぜあなたは彼女の話を避けようとするの、なぜわたしの言葉を聞かないふりをするの、どうしてわたしを区別しようとするの」
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