I - 23
文字数 3,187文字
とうとう彼にかねてから吐き出せずにいたことを言ってしまった。けれど、それを言った所でわたしの心には暗い影が射したままだった。これは怒りではなく、悲しみだったのだと思う。怒りは不健全なりにも活力をもたらす。しかし、悲しみがもたらすのは衰弱だけだ。
自分の中に押し込まれていたものが出切った後、その間黙っていた彼が静かに何かを呟いている。上手く聞き取れずに聞き返す。
「なんといったの」
「君の言う愛なんて、意味がわからないよ!」
いきなり声を張り上げた彼に、わたしは吃驚して身を縮めた。穏やかな彼が怒鳴ることなど初めてのことだった。彼は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「君は夢のことを、月にいる君のことを自分の半身で、その間にあるのが愛というがそれはそもそも勘違いなんだよ。君の方こそ、そのことから目をつぶっているんだ。本当は分かっているんだろう。
夢で繋がっている、お互いの出来事を全て自分の出来事として知っている、それが一体どういう感覚なのか私にはわかるはずもない。でも君の話を聞いていれば分かる。
月にいる君でさえ、全てを知って共有しているはずの存在でさえ、”他人”なんだよ。
君は月の女王のことを単に”よく知っているだけ”なんだ。
そして、よく知るということと、君が彼女自身である、”わたし”であるということは全くの別物だ。
君は”夢の君”である時のことを、”この君”自身である時に思い描くしか無い。君が夢であった時の体験を知ることが出来るのは、常に君が”現実の君”である時だけなんだよ。
君が本当に月の女王”である”ならば、この君のほうが今度は夢に引っ込んでしまうのだから。
夢と現実は決して混ざり合ってはいけない。それが夢と現実という概念の本質なんだよ。
別に明晰夢とかそういう話をしているんじゃない。もっと言葉の原理的な話だ。夢の中で ”これは夢だ” だと自覚することはあり得ない。なぜなら、その自覚を持つ場所こそを私たちは ”現実” と呼んでいるからだ。だから、それは結局のところ、現実の中で “これは現実だ” といっていることにしかならない。”夢を語る”時、人は必ず現実の側にいる。
別になんと主張してもいい。その主張をする、語る場所こそが現実なんだよ。
語る地点を ”現実” と呼び、語られるそれを ”夢” と呼ぶんだ。それらは相対的にお互いを指し示さなければいけない。夢と現実はそういった関係でなければいけないんだ。
だから、現実の君と夢の君は決して混じり合わない。私と君が他人同士であるのと全く同じように、君と夢の君も他人同士なんだよ。なぜなら、”わたし” と ”あなた” という関係が、そのまま夢と現実の関係と相似的に在るからだ。だから、全く同じように言おうじゃないか。
あなたの中で ”わたしはあなただ” と “わたし”が自覚することはあり得ない。なぜなら、その自覚を持てる場所こそを ”わたし” と呼んでいるからだ。だから、それは結局のところ、わたしの中で “これはわたしだ” といっていることにしかならない。”あなた” を語る時、人は必ず ”わたし” の側にいる。
“あなた” と “わたし” は混ざり合わない。そうでなければ、“あなた” と “わたし” も無くなってしまう。これがこの概念の本質だ」
体の内側から湧き上がる不安にわたしは耳を塞ぎたくなる。しかし同時にそれを聞かなければいけないような気がする。わたしの葛藤をよそに彼は一人で先へ先へと進んでいった。
「君も言っていただろう。夢での君は、この君の思う通りには動かないんだって」
「何度も言わせないで。それは単に存在している環境が違うのよ。どちらも一つの同じ私であってただ違う世界に生きているから、そこでの状況に合わせて違うように生きているだけなのよ。そこにある原理は一緒だわ」
「でも、今そうやって捉えているのは、まさにこの君だろう」
やめて。
「いいえ、月にいる時も同じように考えているわ」
「違う。私の言いたいことはそうじゃない。今そのように話しているのは、月の君ではなく、この君だという、この現実性についてだよ」
ちがう。
「一体どういうこと」
聞きたくない。
「月の君も、この君も、同じなのだ、それらは対称的に並べられているのだ、という"外"側からの主張が、いうならば神の視点からの主張が君にできるはずがないということだよ。
それは鏡の前に立ち、鏡に映った自分の虚像と実像を、客観的に線対称のように等しく見ているようなことだよ。そんなことできるはずがない。実像は見ている世界のことであり、虚像とは見られている世界のことだから。虚像側から見れば、自分こそ実像だと思っているはずだ。
それができるとすれば、実と虚、夢と現、わたしとあなた、蝶と蛾。鏡が隔てたそれらの二つの世界を外から眺めている者だけだよ。
君が言っている愛も同じことだ。わたしとあなた、夢と現実を重ね合わせて一つにする。それを実現するものが君のいう愛なんだろう。でも、そんな愛は、はじめからあり得ない。わたしとあなたは他人同士であるから、”わたし”と”あなた”なんだよ。それがわたしとあなたの間に”最初から最後まで”用意された距離なんだよ。だから君のいう意味で愛を結ぶことは決してできない。
夢と現実が一つになるなんてあり得ない。
あなたとわたしが一つになるなんてあり得ない。
それが仮に一つになってしまった時、そこにはもうわたしとあなたも無いんだよ。
だから、他人である私に出来るのは、外から君に気持ちを伝えることだけだ。その意味では、どこまでも独りなんだよ。君も、私も。でもだからこそ、できるだけ近づこうと、人は寄り添い合おうと努力するんだ。あの夜も私は言った。理解できないからこそ一緒になりたいと思うんだと」
うるさい。聞きたくない。言葉でわたしを説こうとするな。言葉でわたしを定義しようとするな。あなたがわたしを決めるな。わたしにあなたを見ようとするな。わたしの鏡の前に立つな。
「月の私が、私が他人だって。そんな訳無いじゃない。わたしはあちらでの全ての出来事を知っているのよ。わたしが"彼女"であることの全てを知っているのよ。そんな”彼女”が他人であるはずがないじゃない」
「その言葉自体が、既に他人として見ているということが、なぜ分からないんだ!」
「違う、彼女はわたしの半身!彼女はわたし!わたしなの!」
彼女。私は耳を塞ごうとする。
「じゃあ、名前を呼んでごらんよ」
名前。わたしの名前?
「月での君の名前はなんというんだい?月の君は私にまだ名乗っていなかったよね」
「それはわたし。わたしなのよ。確かに名前はあるけど、周囲の人が付けた名前に過ぎないわ」
「言ってご覧」
「ちがう、”彼女”はわたし。わたしなのよ」
「いいから言うんだ!」
名前。わたしの?
誰の?
「Ψυχή . . . 」
口からこぼれた音と共に涙が出てくる。
「あれ、どうして」
「Ψυχή . . . Ψυχή !Ψυχή !」
わたしは今、口を紡いで出たその言葉を外から見つめている。わたしであったはずのその言葉は、もう”わたし”ではなかった。
口を紡いで出るのは、どこまでも夢の言葉。しかし、それはこのわたしのものにならない。わたしの言葉で彼女の名前を呼ぼうとする。しかし、それは途端に彼女の言葉へと変わってしまう。その間は無い。
「Ψυχή !Ψυχή !!」
その叫びは月にも、もちろん夢にも届かない。その言葉は鏡となって、わたしと "あなた" を隔てるようだった。
掠れた視界の先には月輪が浮かぶ。わたしは窓に向かって手を伸ばす。幽夜に浮かび上がり、手に取れるように近くあるそれはどこまでも遠い。
そこに見えたかと思った孤独な表情は、冷たい窓に映し出されたわたしの虚像だった。
自分の中に押し込まれていたものが出切った後、その間黙っていた彼が静かに何かを呟いている。上手く聞き取れずに聞き返す。
「なんといったの」
「君の言う愛なんて、意味がわからないよ!」
いきなり声を張り上げた彼に、わたしは吃驚して身を縮めた。穏やかな彼が怒鳴ることなど初めてのことだった。彼は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「君は夢のことを、月にいる君のことを自分の半身で、その間にあるのが愛というがそれはそもそも勘違いなんだよ。君の方こそ、そのことから目をつぶっているんだ。本当は分かっているんだろう。
夢で繋がっている、お互いの出来事を全て自分の出来事として知っている、それが一体どういう感覚なのか私にはわかるはずもない。でも君の話を聞いていれば分かる。
月にいる君でさえ、全てを知って共有しているはずの存在でさえ、”他人”なんだよ。
君は月の女王のことを単に”よく知っているだけ”なんだ。
そして、よく知るということと、君が彼女自身である、”わたし”であるということは全くの別物だ。
君は”夢の君”である時のことを、”この君”自身である時に思い描くしか無い。君が夢であった時の体験を知ることが出来るのは、常に君が”現実の君”である時だけなんだよ。
君が本当に月の女王”である”ならば、この君のほうが今度は夢に引っ込んでしまうのだから。
夢と現実は決して混ざり合ってはいけない。それが夢と現実という概念の本質なんだよ。
別に明晰夢とかそういう話をしているんじゃない。もっと言葉の原理的な話だ。夢の中で ”これは夢だ” だと自覚することはあり得ない。なぜなら、その自覚を持つ場所こそを私たちは ”現実” と呼んでいるからだ。だから、それは結局のところ、現実の中で “これは現実だ” といっていることにしかならない。”夢を語る”時、人は必ず現実の側にいる。
別になんと主張してもいい。その主張をする、語る場所こそが現実なんだよ。
語る地点を ”現実” と呼び、語られるそれを ”夢” と呼ぶんだ。それらは相対的にお互いを指し示さなければいけない。夢と現実はそういった関係でなければいけないんだ。
だから、現実の君と夢の君は決して混じり合わない。私と君が他人同士であるのと全く同じように、君と夢の君も他人同士なんだよ。なぜなら、”わたし” と ”あなた” という関係が、そのまま夢と現実の関係と相似的に在るからだ。だから、全く同じように言おうじゃないか。
あなたの中で ”わたしはあなただ” と “わたし”が自覚することはあり得ない。なぜなら、その自覚を持てる場所こそを ”わたし” と呼んでいるからだ。だから、それは結局のところ、わたしの中で “これはわたしだ” といっていることにしかならない。”あなた” を語る時、人は必ず ”わたし” の側にいる。
“あなた” と “わたし” は混ざり合わない。そうでなければ、“あなた” と “わたし” も無くなってしまう。これがこの概念の本質だ」
体の内側から湧き上がる不安にわたしは耳を塞ぎたくなる。しかし同時にそれを聞かなければいけないような気がする。わたしの葛藤をよそに彼は一人で先へ先へと進んでいった。
「君も言っていただろう。夢での君は、この君の思う通りには動かないんだって」
「何度も言わせないで。それは単に存在している環境が違うのよ。どちらも一つの同じ私であってただ違う世界に生きているから、そこでの状況に合わせて違うように生きているだけなのよ。そこにある原理は一緒だわ」
「でも、今そうやって捉えているのは、まさにこの君だろう」
やめて。
「いいえ、月にいる時も同じように考えているわ」
「違う。私の言いたいことはそうじゃない。今そのように話しているのは、月の君ではなく、この君だという、この現実性についてだよ」
ちがう。
「一体どういうこと」
聞きたくない。
「月の君も、この君も、同じなのだ、それらは対称的に並べられているのだ、という"外"側からの主張が、いうならば神の視点からの主張が君にできるはずがないということだよ。
それは鏡の前に立ち、鏡に映った自分の虚像と実像を、客観的に線対称のように等しく見ているようなことだよ。そんなことできるはずがない。実像は見ている世界のことであり、虚像とは見られている世界のことだから。虚像側から見れば、自分こそ実像だと思っているはずだ。
それができるとすれば、実と虚、夢と現、わたしとあなた、蝶と蛾。鏡が隔てたそれらの二つの世界を外から眺めている者だけだよ。
君が言っている愛も同じことだ。わたしとあなた、夢と現実を重ね合わせて一つにする。それを実現するものが君のいう愛なんだろう。でも、そんな愛は、はじめからあり得ない。わたしとあなたは他人同士であるから、”わたし”と”あなた”なんだよ。それがわたしとあなたの間に”最初から最後まで”用意された距離なんだよ。だから君のいう意味で愛を結ぶことは決してできない。
夢と現実が一つになるなんてあり得ない。
あなたとわたしが一つになるなんてあり得ない。
それが仮に一つになってしまった時、そこにはもうわたしとあなたも無いんだよ。
だから、他人である私に出来るのは、外から君に気持ちを伝えることだけだ。その意味では、どこまでも独りなんだよ。君も、私も。でもだからこそ、できるだけ近づこうと、人は寄り添い合おうと努力するんだ。あの夜も私は言った。理解できないからこそ一緒になりたいと思うんだと」
うるさい。聞きたくない。言葉でわたしを説こうとするな。言葉でわたしを定義しようとするな。あなたがわたしを決めるな。わたしにあなたを見ようとするな。わたしの鏡の前に立つな。
「月の私が、私が他人だって。そんな訳無いじゃない。わたしはあちらでの全ての出来事を知っているのよ。わたしが"彼女"であることの全てを知っているのよ。そんな”彼女”が他人であるはずがないじゃない」
「その言葉自体が、既に他人として見ているということが、なぜ分からないんだ!」
「違う、彼女はわたしの半身!彼女はわたし!わたしなの!」
彼女。私は耳を塞ごうとする。
「じゃあ、名前を呼んでごらんよ」
名前。わたしの名前?
「月での君の名前はなんというんだい?月の君は私にまだ名乗っていなかったよね」
「それはわたし。わたしなのよ。確かに名前はあるけど、周囲の人が付けた名前に過ぎないわ」
「言ってご覧」
「ちがう、”彼女”はわたし。わたしなのよ」
「いいから言うんだ!」
名前。わたしの?
誰の?
「Ψυχή . . . 」
口からこぼれた音と共に涙が出てくる。
「あれ、どうして」
「Ψυχή . . . Ψυχή !Ψυχή !」
わたしは今、口を紡いで出たその言葉を外から見つめている。わたしであったはずのその言葉は、もう”わたし”ではなかった。
口を紡いで出るのは、どこまでも夢の言葉。しかし、それはこのわたしのものにならない。わたしの言葉で彼女の名前を呼ぼうとする。しかし、それは途端に彼女の言葉へと変わってしまう。その間は無い。
「Ψυχή !Ψυχή !!」
その叫びは月にも、もちろん夢にも届かない。その言葉は鏡となって、わたしと "あなた" を隔てるようだった。
掠れた視界の先には月輪が浮かぶ。わたしは窓に向かって手を伸ばす。幽夜に浮かび上がり、手に取れるように近くあるそれはどこまでも遠い。
そこに見えたかと思った孤独な表情は、冷たい窓に映し出されたわたしの虚像だった。