I - 3

文字数 1,586文字

私は彼女の手が震えているのを見て取った。話し始めはプロポーズを断る口実、それも飛び切り変わった文句だが、そういうことなのかとも思った。しかし、普段は淡々としている彼女が分かりやすく感情を見せた。

彼女が言っていることの意味を十分に理解したとは言い難かった。彼女はあまり自分のことを語ってこなかったし、私も必要以上の詮索はしてこなかった。そういう意味では、私は彼女について、これまでも十分に理解出来ていたとは言い難い。私は私に分かる彼女について分かってきたのだが、それは同語反復というものだろうが、つまるところそれ以上のことはできないだろう。

抽象的な内容もさるところながら、所々混ざる異界の言葉のような、歌声にも聞こえるいつもの音吐。出会った頃、彼女が美しく冷たい氷の彫刻のようだった頃にはなかったことだが、この関係が始まってから、次第に彼女の言葉の中に、不思議な歌のようなものが混ざり合うようになってきた。その音色は、彼女の神秘性に更に彩りを添えていた。

以前それについて尋ねた時、彼女は ”きっと変わった口癖のようなもので特に意味はない” と笑っていた。以来、私はそれを気にしないことにし、物事ある場所に必ず伴う影のようなものだと思うようにしていた。今はそれは言葉のようなものだったということが分かる。ただし、それが月の言葉というならば、それが私たちの言葉に置き換えることが出来ないのならば、結局のところ、私に理解する術はなく、ただその響きに耳を傾けるしか無かった。

私は先ほどの彼女の話が、本気で言っている、それも話せば可笑しく思われると分かっていて、それを不安に思いながらも、彼女なりに向き合おうとしてくれているその意志を感じた。その姿勢に取り繕うことはしないと決めた。

ベッドから立ち上がって私は彼女に近づく。

「正直に言おう。君の言ったことは、私にはよく分からなかった」

その言葉に意を決して話したであろう彼女は、俯いて落胆した様子だった。手に持ったシーツの裾をぎゅっと握りしめている姿は、とてもいじらしく思われた。

「君の中には、ふたつの私がいるとか、君が夢を見ている間、君は月の君になっているとか、私には分からない。

でも、そんなことは初めから分からないことだよ。それでも、私は君が自分のことを話してくれて嬉しいと思った。

初めて出会ったときの君は、人の形をした氷のようで、自分の意志を持たず、ただ相手の欲求に従い、それを叶えようとする。それだけが自分に残された最後の存在意義なのだと縋っているような。ぎこちない笑みがとても痛ましく思えた。

でも、段々と氷が溶け始めて、そこには何も残らなかったなんてことはなかった。君にはきちんと自分があることが分かっていったんだ。そこに見た君に私は惚れたんだ」

婉曲的で比喩的な表現は芸術家としての職業病だろうが、こんな時くらいは活躍してもらっても構わないだろう。

「それに」

そう。私は一番こう伝えたかった。

「理解できないからこそ、一緒になりたいと思うんだよ」

彼女はまだ顔を上げずにいた。私は俯く彼女の頬を柔らかく撫で、顎を優しく引き上げる。潤んだ彼女の青みがかった紫色の目は月の光を照り返し、それは紫水晶のように思えた。

「わたしは普通ではない、異常な人間なのよ。娼婦になって他人からの欲望を受け止めるだけの毎日。体は繋がっても、心のつながりは得られない。

わたしが求めているのは本当のつながり、愛だけなの。ずっと孤独だったわたしは、あなたとだったら一緒になれるのかしら。あなたとなら愛を結べるのかしら」

君のことを愛するかだって?そんなこと改めて問うまでもない。私は既に君を愛している。

「突き放すなよ。関係ないさ」

私は微かに震える彼女を抱きしめる。それに安心したのか、ようやく彼女の緊張も解けたようだった。こうして私と彼女は月明かりの元で結ばれた。
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