I - 14

文字数 3,134文字

まとわりつくような夢の沼から起き上がった。鼓動が早い。習慣のように右を見渡すと、そこにいつもいないものは、いつものようにいなかった。大丈夫、”この”わたし はわたし。

叩きつけるように乱雑に顔を洗ってから、身を投げだすように椅子に腰掛ける。これほどに不安な気持ちになったことは無かった。まずは状況を整理しなければならない。わたしは禁忌が詰め込まれた蓋を開けるように恐る恐る記憶を呼び起こす。一昨日の記憶から深く根が伸びていくように、出来事が ”この身” に起こったことのように思い出され、同時に不安も体の下の方から湧き上がってきた。

とっさにわたしは部屋を見渡す。木造の家、ピアノ、太陽の明かり、指輪。わたしは自分自身に言い聞かせる。大丈夫、これらの記憶は ”こちら” の世界で ”このわたし” に起こったことではない。それは確かに夢の中での出来事なのだ。わたしは手元の水をぐっと飲み干し、ふうと息を吐く。

いずれにせよ、今こちらにいるわたしには、月のことは一切どうこう出来ないのだ。どちらも同じ一つのわたしだと言っても、違う世界に生きている以上、それしかできないのだ。生きている環境が違うのだから、どう決断・行動するかは、状況が決めることである。だから、わたしはこれまで通り日課を続けるだけだ。わたしはそのように自分自身に言い聞かせる。

> 万博、開会式、三駅同時爆破テロ、月と地球、開戦目前

30年間の平和は破られてしまった。それは結局のところ、表面的な問題から目をそむけ、欲しかった和平という虚栄の結果だけを外から持ってきて置いただけだったのかもしれない。水面下で彼らは、ずっとこの時を待っていたのだ。

ありありと目の前の出来事のように思い返される。熱気と煙、転がる瓦礫と死体、狂乱する人々の叫び声。その凄惨な光景がわたしの脳裏にこべりつくようだった。わたしは腹の底の方から湧き上がる不安に、何度もこちらで起きていることではないとだと言い聞かせ、息を整えようとする。

我々月側には強気に見せていたが、人口抑制策 も失敗し、火星移住に本気で乗り出さなくてはいけなくなったのだろう。国交上の最低限の技術供与だけでは、今の地球の人々が火星に移住するは到底不可能。月の固有資源に生活を支えられ、小さくも満たされた月で自由に暮らし、移住などに微塵も興味のないわたしたちから技術と資源を手に入れるには、もう征服するしか無いと踏み切ったと考えるのが妥当だ。

> わたし、無事

頭がぐっと重い。処理すべき情報量が多すぎる。そうか、昨日は2日も寝なかったのか。徹夜はしないようにしているが、この有事には仕方がない。王宮も今は混乱で寝るどころではない。

賽は投げらてしまった。再び戦争になるのだろう。月の娘、国の娘として国民に愛され、父の意思を継ぐ誇り高き女王であるわたしは、当然月を守るために戦う。

この戦争はきっとわたしが死ぬまで終わらない。それほどに月は女王を中心に回り、女王のために人々が結束しているとも言える。女王が生きている限り、月の人々は闘い続ける。

いつもより時間を掛けて、昨日の出来事を手帳に書きつけた。気分の悪くなるような光景に時々吐き気が込み上がってくる。頁の上半分を書き終える頃には、もうくたびれ果ててしまった。

向こうでわたしが死んでしまった時、このわたし、こちらのわたしは一体どうなってしまうだろう。

このわたしが眠りについた時、夢が目を覚まし、あちらの世界の時計の針はチクタクと音を立てながら、迫るように死の可能性に一歩ずつ進んでいく。

あちらのわたしが死んだら、一体こちらのわたし、いや、”わたし” はどうなる。もしこのわたしが、月のわたしの夢なのだとしたら、一緒に死ぬことになるのか。

あちらでの判断は、結局あちらの状況に依存する。あちらの状況に直接干渉できない以上こちらにはどうすることもできない。こちらのわたしにできるのは、向こうでの自分の判断を後から、目覚めと共に知り、”事後承諾”することだけでしか無い。

それを知ることが今すごく恐ろしい。目が覚めるたびにあちらの状況が変わっていることを知る。

でも、それを知ることが出来たことは同時に安心できることでもあるのだ。なぜなら、本当に恐ろしいのは、眠りについたら最後もう二度と何も知ることがなく、そのまま暗闇に落ちていくことなのだから。わたしは目覚める度に崖の先端に一歩一歩近づいていることを後から知る。そして、奈落の底に落ちた時、わたしはもう二度とそれを知ることは無いのだ。

結局、あちらでのわたしは女王としての選択を優先するだろう。わたしの中にある女王としての矜持が、あちらの状況によって自分の命を犠牲にするような選択をする可能性さえも決断させるかもしれない。国民のために自分の命を捨てる覚悟を持っている。個人のために、わたしのために国民の命を犠牲になどしない。

一度その決断をしてしまえば、いくらこのわたしがどう思おうが、”なんと言おうが、聞かない”だろう。とても不思議だ。どちらも同じ一つのわたしのはずなのに。

生きている環境が違えば、違う世界に生きていれば、同じものも違うように生きるだろう。そのはずだ。でも、これは。この気持ちは。

まるで他人を見ているよう。わたしの中に、わたしが無いみたい。

わたしは、"わたし"が心配だ。愛する"わたし"に死んでほしくない。

"わたし"はわたし。

"わたし"がいなければ、"わたし"との愛がなければ、わたしは生きていられなかっただろうから。

"わたし"がいなければ、もうわたしはわたしではないだろうから。

> わたし、死なないで。生きて。

手帳の下端に最後にそう書きつけた文字は虚しく響いていた。眺めている内にその言葉が意味を失った、ただの生乾きの黒いインクの線に見えてきて、段々と気分が悪くなってきた。この光沢を帯びた文字の並びは一片の鏡となってわたしを映し出しているように思えてくる。

内に向かって、外向きの言葉を投げる。内に向かって、外に願う。わたしに向かって、死なないでと、心配する気持ち、これは一体誰に、何に向かっているのだろうか。

“死なないで”とあちらのわたしを心配する気持ち、これは本心だろうか。

月での出来事を心配する気持ち、月での自分の運命を心配する気持ち。これは本当だろうか。夢での心配は、翻ってただ”このわたし”のことが心配なだけなのかもしれない。

二つの心配は入り混じり、二つの不安は実像と虚像のように対称を描く。言葉にしようとすればするほど、その鏡は強く照り返す。もう語りようがなかった。ただ行き場の無い不確かな気持ちだけが、そのままの姿でわたしの心に重くのしかかる。

震える手で手帳を閉じた。書くべき出来事は他にも残っていたが、起きた出来事があまりにも多すぎて、もうこれ以上書く気が起きなかった。

今回の対局も終盤に差し掛かっていたが、今日はあちらからの指し手は無かった。当然だ。この状況で悠々とチェスを指している時間など無い。それでもほとんど欠かさずに打ち続けてきたのだ。いずれはまた動くだろう。

所詮は夢なのだから、心配しなくてもいいと人は言うのかもしれない。でも、月のわたしを “ただの夢” に堕としてしまえば、大切なものが失われる。夢と現実の双方が一つのわたしとして共に在り、孤独だったわたしが愛を結ぶことができたのだから。

あちらでの出来事を、現実とは無関係のただの夢に過ぎないと思うようになった時、同時にわたしは唯一の愛を失うことになる。
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