I - 15

文字数 4,405文字

夜中に急に目が覚めた私は、寝返りをうつと隣に彼女がいないことに気がつく。居間の方を見やると、ほのかに明かりがついていることに気がつく。水を飲みに居間へ向かうと、そこでは机に弱々しく灯るランプの元で、本を読んでいる彼女がいた。

「眠れないのかい」

声をかけられて初めて私に気がついたようだった。かなり集中して読書に入り込んでいたらしい。

「ごめんなさい、明かりで起こしてしまったかしら。そうね、眠れなくて本を読んでいたのよ」

彼女が手にしていた本の擦り切れた背表紙には『ロミオとジュリエット』と書かれていた。その他にも『黄金の驢馬』や『創世記』などが机に積まれている。どの本も私の本棚にあり、小さい頃から何度も読み込んできたものだ。

時々見るたびに本の並び順は変わり、彼女はよく本棚から好きに漁って読んでいるようだった。それらの大半は、私の趣味と創作の参考にするためのものであったが、読書が好きという彼女には自由に使ってもらっていた。しかし、今の彼女は心なしか柔弱に見え、少々心配になった。

「眠れなくても、布団に入っていると自然と眠くなるものだよ」

私は彼女にそう言った。

「でも、布団に入ってるのに眠くならないと不安になるわ。その不安で更に眠くならなくなるの。だから、布団に入らない方が、実は眠くならなくなるんじゃないかしら」

その言葉は何だか同語反復のように感じられた。予め存在する構文に機械的に言葉をはめ込んで文を構成したような。呂律がよく周る機械のような。言っている意味は分からなくなかったが、不可解さが残った。彼女は手元の本を閉じた。

「少しお話しでもしないかしら。ちょうど読み終えたところなの」

「私も目が覚めてしまったからね。あまり遅くならない程度にね」

明日も朝は早いが、次第に頭が冴え始めていたので、布団に戻っても眠れないかもしれなかった。私は椅子を引いて彼女の向かいに腰掛けた。特段話したいことがあった訳でも無いのか、しばらく彼女の方から口を開く様子がなかったので、彼女の手元を見やって尋ねた。

「『ロミオとジュリエット』面白かったかい」

「ええ、とても好きよ。もう何度も読んだわ。時代の違いもあるのかもしれないけれど、シェークスピアの作品はどれも愉快よね。特にこれはお気に入り」

「戯曲だからか、少し大仰な感じはあるけれど、登場人物の語りに活き活きとした動きがあるよね。これも悲しい結末ではあるのけれど、全体としての重苦しさはあまり感じないかもね。一応は悲劇とされているけれど」

出会ったときから、既に彼女は文学については詳しかった。小さい頃によく家で読まされたのだという。何かしらの事情があることを感じ取っていた私は、彼女の身の上について詳しく尋ねることはしてこなかった。それでも断片をつなぎ合わせる限りでは、彼女は裕福な家の生まれだったこと、きちんと教育を受けてきたということが伺えた。そんな人が文字通り身を削るように娼婦として働いていたのには事情があるはずだった。そんな彼女に客として当時支援できたことは、金銭と資源の提供くらいで、むしろ彼女に教えられることもあった。

彼女は尋ねた。

「わたしもこの作品を読む度によく考えるのだけど、『ロミオとジュリエット』ってどうして悲劇なんだと思う?」

この有名な物語について改めてそう問われると中々に考えさせられる。とはいえ、小さい頃から何度も読み込んできているし、音楽家としては物語論に一家言が無いわけではない。

「すれ違いと偶然の不幸が理由じゃないか。悲劇的な結末の原因になったすれ違い自体は、手紙が伝染病のせいで届かなかったのは、彼らには予想できない、彼らの手には余ることだ。悲劇を悲劇とするために、自分たちにはどうしようもない、人為的でない出来事がその条件になることも多いよね。

ただ、私は彼らのシェークスピアの意図は、双方が相手の死を理由に自殺するという現実では不可能なドラマを作ろうとしたんだと思っているけど。魔法の小道具とも言える仮死薬の力を借りてね。それは心中とは全く違った意味を持つ。あくまで自殺は孤独なものであって、愛する相手を前にしながら、お互いが自殺をするという孤独な結末は、まさに悲劇的だと思わないかい」

自分なりにこの解釈には納得感があったが、彼女の反応は少々冷めていた。

「そうかもしれないわね。ロミオとジュリエットという物語の中では、わたしもあなたの言うことに賛成できるわ」

「物語の中では?やけに含みのある言い方だね」

彼女はうっすらと冷笑的な笑みを浮かべていた。普段あまり見せない表情だった。

「ロミオとジュリエット二人の悲劇が生まれたのは、そもそも意地悪なシェークスピアが二人の物語を書いたせいよ。もしシェークスピアが書かなかったら、二人が悲劇に見舞われることもなかったんだから」

私は一瞬彼女が何を言っているのか、よくわからなかった。そんなことを彼女が言うとは意外だった。投げやりな口調に、冗談なのか本気なのか、掴みかねる。

「はは、そんなこと言ったら、シェークスピアは幾つもの国を滅ぼし、罪の無い清廉な女性たちを悲劇の中で殺してきた大悪人ということになるね」

冗談のつもりで私は乗っかることにしたのだが、彼女の表情は笑っていなかった。

「あら、わたしは本気で言っているのよ」

本気と言われても、この突拍子もない意見を本気で捉えようとしても、それは一体どういうことかもよく分からない。

「そんなことを言ったら、物語が成り立たないよ。ロミオとジュリエットの悲劇があるのは、シェークスピアが書いたからこそだろう。彼が『ロミオとジュリエット』を書かなければ、そもそも二人は存在していないんだ。

”悲劇に見舞われないロミオとジュリエット” なんて存在しない。仮に居たとしてもそんなのは、ロミオとジュリエットじゃない、別の誰かだ。彼女たちは悲劇的であることを二人の本質として運命付けられているんだ」

「彼らが求めていたのは、若くて瑞々しい情熱的な愛なのは、あなたも認めるわよね。それは当然二人だけのものしたかったはずでしょう。でも二人は自分たちが、まさか物語の中の存在とは思いもしなかった。

もし自分たちが物語の中の登場人物なのだと気がついてたとしていたら?彼らは本当に自殺なんてしたのかしら?

誰かに何かを伝えるために、物語は存在しているでしょう。物語は皆に読まれ語られていくもの。でも、それは逆に言えば、そんなことをしたら、自分たちが愛の物語になってしまったら、自分たちの愛は他人に消費されるだけの陳腐な愛になる。

自分たちの物語を読んだ奴に ”ああ!これこそが愛なんだわ!” なんて感動された日には、二人はそいつに怒鳴りつけてやりたいはずよ。わたしたちが命を燃やしたものは、殉じたものは、決して外から眺めているだけのお前が思うような安いものではないって」

なりきるように大げさな身振りを交えて語る彼女は、いつも以上に冷笑的で攻撃的にさえ見えた。彼女は続ける。

「皆から同情されるような結末、皆が憧れるようなロマンティックな告白、皆が悲劇的だと思えるような物語。自分たちの真剣な人生がそのようになることを知っていたら、本当に彼らはそんなことをしたのかしら。

そんなはずないわ。自分たちの愛は、自分たちだけのものにしたかったんじゃないかと思うわ。だって、そうでしょう。読まれるたびに、何度も二人は舞踏会で出会い、何度も一目惚れして恋に落ち、何度も結婚し、何度もお互いの死に絶望して自殺する。何杯もの毒を煽り、どっぷりと深く短剣を胸に突き刺す。何度も、何度も、何度も、何度も。

それを外から眺めている読者がうっとりした表情で ”これこそ愛” と自慰に耽る。

全く、ふざけないで。一体そんな愛にどれほどの価値があるというの。

本当の愛が”外”に転がっているはずはないのよ。それを知っている人は、それを幸運にも得ることが出来た人間がいるとすれば、自分の心の奥底に、その”内”にそっと秘めているはず。

だってそれは語ることで、その価値を貶めてしまうことになるから。語られたその時にそれはもう、元々の愛ではなくなってしまうから。二人はそのことに気が付かなかった。その自覚があれば、この愛を他人に読ませまい、誰にも決して渡すものかと思ったはずよ。

でも、彼らが無自覚であったが故にこの悲劇が成立して、あなたやわたし、みんながこの悲劇のことを知った。それが”悲劇”であるからこそ、わたしたちはそれが悲劇だと知っているのよ。

ロミオとジュリエットは読み手によって食い物にされた。それは二人が読まれ、語られることに無自覚だったから。そして、読み手のために良いように利用されて殺されたのだとも言える。主犯はシェークスピアだけど、それは二人の過失でもあるのよ。

この視点でみれば、むしろこの悲劇の物語は滑稽で、皮肉的であり、その存在自体は”喜劇”的でさえある。わたしたちが二人を悲劇の檻に閉じ込めて殺したのよ。そして、これからも、同じ悲劇の中で何度も何度も殺し続けるの」

これは、さすがに暴論だ。彼女の言うことは詭弁にすらなっていない。それどころか。

「でも、そう主張したとしても、そんな機会は、自分の背中に糸が縫い付けられていたことに、シェークスピアの操り人形だったなんてことに気がつくなんて彼らにできるのかい。

いくらそれを悲劇と言っても、結局のところ『ロミオとジュリエット』に登場する一言一句全てが創造神シェークスピアによる被造物なんだ。仮にロミオが自分の悲劇的な運命を悟って、

> おお、不幸の夢、報いの夢!悲劇と知るだけに、まさかにみんな現実ではあるまいな。心もそぞろ、あまりにも不幸で、現実とは思えない。

と言ったとしても、それさえも ”神の思し召し” の範疇ということになってしまう。彼がそれに気がつくこと自体が、シェークスピアの意図したことになる。結局被造物の彼らがその作られた世界の中で何をしようが、どう思おうが、主の計らいの外に出られないだろう。彼らは他にどう出来たと言うんだい」

私がそう指摘すると、しばらく彼女は口を開けたままで居た後に、俯いて彼女は口をつぐんでしまった。先程までの畳み掛けるような勢いは、しぼむように影を潜めてしまった。

「わたしにもそれはまだ分からない。一体どうすればよかったのか。そうするしかなかったのか」

本の表紙を指でなぞる彼女の顔は陰り力なく、それは何かを訴えているようにも見えた。大きな情緒の揺らぎに、私は彼女が少々心配になる。閑談というにはあまりに必死さが伴っていた。

「ここまでにしようか。一緒にベッドに戻ろう」

と私は切り出した。もう眠ったほうが良さそうだった。立ち上がって彼女にそっと手を差し出す。彼女も呟くように、そうね、と言ってその手を取った。彼女の手はひんやりとしていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み