第11話 ハオス

文字数 39,791文字

 一体どうしてピロットは、この入り江から逃げ出すように舟を漕いでいったのか、イアリオには分かりませんでした。何があったのでしょう。確かなことは、あの日、同日に盗賊どもも倒されたということでした。彼は、やはり彼らと接触したのでしょうか。そこで様々なことが起きたのかもしれないと、彼女は推理してみました。
 一方レーゼは冷静にもやい綱の跡を分析していました。どうにも彼は、その跡が新しいものに思われたのです。杭は、古びていて最近立てられたものとは思われませんが、綱の擦った線などは、仮に十年前ピロットがいなくなる際に付けられたものだとしても、違和感がありました。彼には線が幾重にも見えたのです。ですが、その線のすべてが最近のものだとは判別ができませんでした。
 イアリオはレーゼに尋ねました。
「どう?ここに、エンナルやシュベルがいた痕跡があるかしら」
「あるようなないような、だな。はっきりとは判らない。気にはなるけど、断言できない」
 ハリトは光り輝く入り江の向こうを見つめました。えもいわれぬ興奮が、あちらの海から掻き立てられるのを感じました。ですが、彼女も町の人間でした。海や、黄金の憧れは厳しく咎められていたのです。…それ以外の欲望なら、解放して許されるものはありました。町は、性に対しては開かれていました。女性と男性は一人と一人でなくても結婚できました。男女のいざこざは絶え間なく、テラ・ト・ガルのメンバーであったテオラでさえ、既に奥さんがいる人に婚姻を申し入れて、後で正妻の座を奪っています。いざこざがあまりにひどくなってしまった時にはさすがに調停が入りますが、抑圧的なこの環境において、性は恰好の発散の場でした。
 しかし、黄金を求める意思は、性にも似ています。壊したことのないものには、彼らもいささか不注意でした。いいえ、本当なら破滅の時に、そうしたことも行われていたのですが、曙に目覚めて、彼らはすべてを金のせいにしてしまったのです。そうしなければ、生きていく意思も維持できなかったのです。
 ところで、黄金への激しい憧れは子供時代から戒められていたにもかかわらず、どうして十五人の子供たちは黄金都市を経巡ってそれを探していたのでしょうか。それは、町とはまったくの異世界を冒険しているからでした。町で従っていたルールがそこでは効かず、十五人全員が(あるいは年長者ラベルの判断が)決めたことが約束事になったのです。その時、黄金を巡る昔話は、本来の機能を取り戻したかのようでした。ハリトは、十年前の彼らと同じような体験をしていました。素直な性格が、素直な希望を欲しました。それはここにいる三人がずっと一緒にいて、この場所での思い出を大事にし続けることでした。
 イアリオはここから立ち去りがたく思いました。レーゼとハリトは、海を眺めながら、そしてイアリオの傍にいながら、ゆったりと安らいでいました。しかしイアリオはざわめくものを感じていました。きらめく美しい海は、彼女をそこへ誘っていました。あれから十年、彼女には経っていたのです。再出発の時が、ここから、始まるのです。
「ここは、誰かには決して教えてはならない場所ね。勿論、三人して地面の下に侵入したことの延長だからだけど、咎められるからじゃなくて、ここをそのままにしておきたいからだけど」
 二人とも頷きを返しました。
「ピロットの逃亡はまだ疑問が残っている。シュベルたちのことも。でもこれ以上の追跡はできるかな。さて、私たちの本題はあの光の霊たちの奇妙な言葉を確認することだったわ。でも、御先祖の話もどこまで確認できるものかどうか…わかるものかどうか」
「でも、やっぱり確かめないと」と、ハリトが言いました。「イアリオに来たメッセージなんだから。本物でしょ?」
「イアリオは気が進まないの?」
 レーゼが尋ねました。
「そうね」彼女ははっとしたように目を開き、すぐに目を細めました。「気が進まない、のか。うーん、それはどうしてか、わからないけれど。まだ、夢だったらって、思っている自分がいるわ」
「それはどうして?」
 レーゼがしつこく訊きました。
「俺たちは、無視できないからここに来ている。あの言葉、はっきりと聞こえて、あの幽霊、俺の方を見てよくわからないことを言いやがったから。ハルタ=ヴォーゼ、きっとあいつの名前だけれど、そいつを俺は許せないんだ。あいつの言ったことを自分なりに確認しなきゃあ収まらないぜ」
 イアリオの中に、「エアロスの伝説」という言葉が閃きました。それは、彼女が白い光たちに遭った後に、倒れる直前に漏らした呟きでした。イアリオはあっと小さく叫んで、急速に頭脳が整理されてゆくのを覚えました。
「逃げられないと、思うからだよ」
 彼女は、がっかりと言いました。
「そうは思いたくない、というのもあるけれど」
「どういうこと?」
「ううん、違う。結局、ピロットの事件も三百年前の出来事も、私の祈りも、みんなみんな集約されるのはわかっているわ。レーゼの言う通りなんだよ。私の心に、あの霊たちは呼びかけに来たんだって。でも未整理なの、まだね。彼らの言葉を本物かどうか、追求していくには、足りないものがあると思うわ。自分自身の、内側にね」
 彼女の言には実感が伴っていました。レーゼもハリトも、それ以上は何も言えませんでした。
 その日は、ここで解散しました。収穫多い一日となりましたが、また新しい課題が、三人各々の中に様々に浮上していました。

 冷たい光が、現れました。それは、命の灯火でした。残酷な運命を辿った、昔の人間の光でした。あかりがふわふわとある人物の側に近づいていきました。相手は眠っていました。
 その頬に額を寄せ、そのふわりとした唇に手をかざして、光は行ってしまいました。いいえ、出掛けていったのでした。首には年齢を思わせない艶やかさが残っていました。霊の衣装は、真っ白でした。どんよりと暗い、大地の下に、幽霊は潜りました。そこにある、広大な街に。
 霊は、ある存在とそこで出会いました。大きな大きな、怪物でした。いいえ、怪物のようでした。そこにあるのは、人間の意識、悪に染まった、哀しむべき力たちだったのです。霊は手を相手に当てました。すると悪は、黒々した腕を伸ばして、冷たい光を包みました。煌々と明るく光が弾けました。やがて、太陽が洞窟に昇ったかのごとく周囲は激しく明滅し、本来の都の姿を照らし出しました。人が、人々が、一斉にこぞってうたい祈りました。こうあるべきだ。我々はこうしてあるべきだ、と。
 涙を流した一人の人間がいました。彼は生きていました。テオルドはそこにいました。自分の来し方と、向かうべき道のりと、破滅へのかぞえうたを、彼はもらっていきました。

 にぎやかさにイアリオは目を覚ましました。何だろうと思って外に出てみると、少年が自慢の歌を披露していて、人々がそこに集まっていました。子供は美しい声で、鳥のように囀り、川のように滔々とうたい、彼らの心を慰めました。彼らは悦びました。それを見て、イアリオは、自分も癒される心地がしたものの、同時になんて彼らは悠長で、蔑むべき人たちなんだろうという、醜い心理にも襲われました。軽く眩暈がして彼女は寝床に戻りました。そして、彼のことを考えました。なぜ彼が、あの街から逃げていったのか。
 目を瞑ってみると、彼の面影が思い出されます。針のような、剣のような、鏡のような鋭さをもった瞳と目。彫りの深い顔立ち、尖った鼻、賢い眉毛、皮肉な微笑み、立派な首筋、頑強な肩。彼のすべてがいとおしく蘇りました。彼女はため息をつきました。
 もし、彼が逃げるとすれば。彼女は、自分が知る限りのピロットを思い出して、それは次の勝利のためかもしれないと考えました。彼は決して屈しませんでした。いつもあざとく、強者を眺めて、馬鹿にします。彼を殴る者がいても、どうせやつらは年長である今のうちさ、俺の背が追いつけば、頭の回る俺の方が勝つに決まっていると言いました。実際、腕力に頼らず何度もいたずらだけで相手をやり込めていました。彼女は彼のそこに魅かれたのです。ピロットは、何から逃げて、どんな勝利をつかもうとしたのでしょうか。彼は、黄金の街に来ていました。そこで、盗賊たちに出会ってしまったことは考えられました。失踪したあの日に。もしかしたら彼らから逃げたのでしょうか。いいえ、あの二人組は前日からずっと上の町の人々に追われていました。そんな状況の相手とやり合っても、ピロットは満足しなかったでしょう。
 では、何のために再び地下へと潜ったのでしょう。彼を追いかけた町人は、自分たちから逃げているようだったと言いました。なぜ町の人間から逃げる必要があったのか?
「本当?」
 彼女はこの推測を疑いました。見かけの逃亡と思いました。でも、と彼女は思い留まりました。もしかしたら、本当に、彼は町人から逃げたのかもしれないぞ?だって、もし私たちがあの場所でずっと遊んでいて、大人たちに発見されそうになっていたら、逃げたでしょう?ならば彼の目的は、盗賊たちではなく、地下にあるもの、つまり、黄金や宝石だった…?
 これはありそうなことでした。もし彼が、大人たちに自分らの探索を邪魔されたと考えていたなら、自分のプライドのために、何らかの手段を講じようとしたでしょう。何かを諦めるのは彼らしくありません。その時は、命をかけて、反発したはずです。「私は彼を、半分もわかっていなかったかもしれない」彼女はそう呟きました。
 ならば、とさらに彼女は考えました。ピロットは、どうして人々から逃げ回ったのでしょうか。これは不思議でした。反発する相手は、まさに彼らでは?いいえ、違いました。彼が逃げたとするならば、もう目的は、別のことになっていたはずでした。彼はきっと、当初の目的を果たしたのです。きっと、黄金を見つけたに違いない、そうイアリオは思ってみました。すると、するすると謎が解けていきました。彼は盗み出したのです。あの暗がりから、彼の手に持つことのできる宝石を!そうなれば、人々に見つかれば、逃げることしかできなくなります。盗人は罪人であり、立派な悪人だからです。彼の逃げ場所は、あの入り江、であれば、見つけた舟に乗って、どこまでも遠くへ行こうと望んだでしょう…!
 イアリオはかっと目を見開き、喉と額に熱を感じました。彼女は寝床から起き出して、顔を洗い、手を洗いました。取り置きのパンと燻製の肉だけを用意した、軽い朝食を摂りました。ぼんやりと半時ほど過ごしたか、その辺りで、玄関を叩く音がしました。開けてみると、レーゼ少年が立っていました。
「ごめんなさい。今、時間あるかな?」
 彼は神妙に、彼女に願いました。
 思いがけない訪問者に、彼女はどきっとしました。彼とは二人きりで会ったことがなかったのです。ハリトとは一緒に出掛けたことはあっても、レーゼとは、いつも少女と三人で付き合っていました。
「あら、どうしたの?珍しいわね」
 彼女は彼を招き入れました。
「今、お茶を出すわ。相手してあげられるのは、ほんのちょっとになるけど」
「そうか」
 レーゼは木の椅子に座り、勧められるままに、緑茶を啜りました。
「あのさ、イアリオは、ずっとピロットのことを考えていたの?」
「えっ」
「今までさ、彼がいなくなってから。だから、まだ結婚していないのはそのせいかな、て思ったんだけど」
 イアリオは何て答えたらいいかわかりませんでした。ですが、彼が尋ねたいのは本当は別のことだと思って、じっと相手を見つめました。しかし、彼を見つめて、彼女は自分の心をも凝視しました。
「そうね」
 彼女は唇に手を当てて、彼の目の中を覗き込みました。
「このまま結婚しない人生ってのも、ありかもしれないわね」
 レーゼはしばらく黙って、また口を開きました。
「実は、うちの姉が結婚をするんだ。でも本意の相手ではないんだよ。ずっと好きだった人ではなくて、ずっと好かれていた人を選んだんだ」
「うん」
「姉はそれでいいって言っている。でも俺の気持ちの整理がつかなくて…それでイアリオに相談に来たんだ」
「お姉さんは、納得しているんだね?」
「そう。うちの姉は、丁度二十歳で、適齢期だから」
「…少年」
「何?」
 うつむいてしゃべっていたレーゼは顔を上げました。イアリオは微笑んで言いました。
「それで丁度良かったのよ。何事も時期があるわ。決めなければいけない時期、そしてその時が来れば、人間は決断する」
 彼女は右手を振り上げました。
「決まらない間は、悩みの期間。無駄なことなんてないわ。私も、そういった決断を下す時がきっと来るのだと思うけれど」
 レーゼは黙してイアリオを見つめました。相手から、何か解答が見つかりそうな気がしたからでした。
「今無理に自分の気持ちに決着を付けることはないわ。でも、あなたの気持ちもわかる気がする」
「姉は、好きだった人のことを自分が好きだということを、誇りに思っていたんだよ。でも、丁度母親が倒れたり、姉を好きだった相手の家でも残念な事があったりして、色々と色んな事情が重なったんだ。だから…」
「お姉さん、相手の気持ち、よくわかったんじゃないかしら?」
 イアリオは机の上を撫でながら言いました。
「自分も好きだったから。それで一緒になったんだと思うわ。きっとね」
「俺、よくわからない。姉の気持ちは?ずっと好きな人がいた姉は?」
「どういうこと?」
「姉が、自分が好きだった人への思慕を、どのように整理つけたかわからないんだよ」
「それを含めて、『好き』な気持ちなんだよ。自分が『好き』という感情は、相手だけじゃない、自分自身も含めてなんだよ。お姉さん、言っていたんでしょ?彼を好きな自分が誇らしいって。彼女はきっと、そんな自分を、まるごと愛してくれる人を発見して、心を許したに違いないわ。でなければ、そりゃ、結婚なんか決断しないわ」
 純愛はこの町にもありました。性愛は錯雑としていてそのパターンも無限にありましたが、そうであればこそ、一途な恋愛も一つの市民権を獲得していたのです。
「よくわからないよ…」
 合点のいかない少年は、まだ、苦しみの表情をしていました。彼は、新しくつがれたお茶を飲み干すと、自分が今までずっと彼の姉の思い人の世話になっていたこと、その人を兄のように慕っていたこと、その人も姉ならば一緒になってもいいと言っていたことなどを打ち明けました。レーゼは、その人と自分の姉と、二人分の思いを背負っていたのです。
「それは苦しいね…」
「俺は、俺だけの気持ちに整理がつきやしないんだ。その人たちの分まで、なんか考えちゃうんだ」
「そう…」
 イアリオは立ち上がり、後ろから、彼の肩に手を置きました。レーゼは急に緊張したように、背筋をぴんと伸ばしました。イアリオは、この少年の、たくましい情念に思慕を抱きました。
「あなたらしさを大事にして。今は、それでいいわ。でもきっと自分のことだけを考えていれば大丈夫よ。お姉さんも、お姉さんが好きだった人も、自分で決着をつけるから。恋愛はそれが大事。て、たった一人しか好きだったことがない私が言っても仕方がないかな」
 彼女は恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻きました。レーゼはぶんぶんと首を振りました。
「よくわかったよ。何だか、納得した。ありがとう」
「よかった。ねえ、レーゼ、あなた今好きな人はいないの?」
「いない」
「はっきり言うわね」
「しょうがないだろ。本当なんだから」
「だったら勧めるわ。誰かを好きになるのって、苦しいけど、色々なことがわかるわ」
「イアリオは…」
 レーゼは、言いかけてやめました。それは訊くまでもないことでした。しかし彼女はなんとなく彼の言おうとしたことがわかって、口を開きました。
「もうすぐ、私も自分に整理がつくわ。ピロットがなぜ逃げ出したか、わかってきたの。もしかしたらこれを越えれば、新しい自分になれるかもね。でも、今の自分もこうして気に入っているのよ。誰かを十年間、ううん、それ以上に想い続けているなんて、そうそうできない私だけの体験でしょ?」
 イアリオは片目を瞑って見せました。その仕草は、ぐさりと刺さるナイフのように、鋭く少年の心を貫きました。
「結婚願望も本当はあるのよ、私は?まあ、検証は後日、あなたたちに、私の推理、全部教えてあげるわ!」

 三人はまた東地区の三叉路の、地下から伸びた煙突から入って、都の工場に降りました。
「彼は、盗賊たちを追い詰めた捜索隊から、やはり逃げたんだわ」
 ぼうっと赤く輝く灯が残酷な運命を辿った都の一部を照らして、呻くように、その姿を現させました。
「きっと、何かをこの街から持ち出したんだと思うの」
「それって、盗賊と同じことをしたというの?」
 ハリトが尋ねました。
「その可能性もある。彼は、盗賊たちと張り合っていたから。そうした気持ちにもなっていたかもしれない。どちらにしても、もしここから何かを持っていったなら、盗みになるわ。そうしたルールだからね。しかし、私たちは当時この都の事実を知らなかった。ただ、彼が手に入れたものは、ひょっとしたら、人々から逃げ出さなきゃいられないくらいのものだったと、考えられるわ」
「それって、黄金?」
 そういえば彼は欲張りだったと…イアリオは、思い出しました。あの時、盗賊のことも、行方不明になっていたテオルドのことも、皆自分に任せとけと言って、彼女と約束したのでした。欲張りな彼が、果たして持ち出した小金を人々から見つけられかねなかったとして、逃げ出すほどの焦燥に駆られるでしょうか。いいえ、違いました。彼らは、この町の人間は追及する欲望を禁じられていたのでした。もし、ピロットが一人で黄金をせしめようとしたなら、その禁忌の気分は、彼をも襲うはずでした。子供たちが皆で探索している時は、何を発見しても、それが皆のものであるとしていたのですが。あっとイアリオは思いました。そうだ。ピロットは、彼は、独りで挑戦しに行ったんだわ…!
 イアリオは急に頭が痛くなりました。黄金は、忌まわしい、人間の心を痛めるばかりに利用して搾取して思い通りに動かそうとする力でした。彼女は、ハルロスの日記も読んでそうしたことが滅びの日に行われていた実情を確かめていました。黄金が個人個人に働きかければそうしたことになるのです。だから、人々はその力を恐れて、皆で管理しようと努めたのです。
「だんだんはっきりしてきたわ」
「どういうこと?」
「運命は、私たちにも降りかかっているのよ。この街を怖がる気持ち、自分自身を疑う気持ち。自分たちの先祖がしたという事実が、何よりも重く感じられるから、どうしようもなく、この街と、黄金とを恐れたわ。ピロットはそれを破った。彼なら破ってもおかしくはなかった。彼の力は、そうしたところに向かおうとするから。ああ、いけないな。また泣きたくなってきちゃうなあ。どうしようもないね」
 イアリオは言葉を切り、うつむいて、唾をごくりと飲み込みました。そして、目を開けて、はっきりと、この地下世界を仰ぎ見ました。
「この街は、危険なものを包含しながら、私たちをいまだ誘惑し続けているのか。でもそれは、私たちが人間だから、こうした力に恐れたり、誘惑されたりするんだわ。ピロットは、彼も人間だったにちがいない。何が本当に彼を騙して彼を入り江の向こうに連れて行ってしまったか、それは確認できないけれど、私たちが、いいえ私が…自分が、一番知っている彼の姿は、ああ、逃げていっても、おかしくはない気がする。ここね。ここだね。ああピロット、さようなら。私は、あなたの逃亡に一つの決着をつけたわ。これからは…失ったあなたと共に、生きていくんだわ」
 この言葉は、二人の子供らの耳に、違った印象をそれぞれもたらしました。レーゼは彼女の心がよくわかる気がしました。といっても彼は、彼女に同情しなければ、また激しく共感もしませんでした。彼は、一人の女性が自分自身と向き合って決意を持つ様子を細かに確認していたのです。だから、彼は、固い意志をこの人の中に見つけて、尊重したいと思いました。一方ハリトは、イアリオの心情に心を寄せるも、シンパシーを持った事柄はその他でした。つまり、物語で聞いたような話の中に…例えば、恋人を喪失した女の話とか、大事な物を失った後の孤独な人間のストーリーとかに、彼女を重ね合わせて聞いていました。そうすることで、ハリトの中で、イアリオはまた新たな位置を占めました。それまで、どちらかといえば彼女から一方的に尊敬していた人が、いつのまにか、物語の登場人物に引き寄せられて、対象化できるようになったのです。よく似た話をハリトは思い出し、そのいくつかをイアリオに当ててみることで、その相手をよく知ろうとしたのは本当なのですが、そうすることで、イアリオの価値は相対的に下がってしまったのです。

 エンナルは、以前夜中にハリトに目撃されていた時に、黄金を布袋から出していました。それは、相手の子供を勧誘するためだったのですが、相手はそれを拒みました。彼は子供を殴りつけて、自分の言うことを聞かせましたが、相手も、それでまんざらでもない様子でした。なぜなら、その後黄金の塊を手に持たされて、ずっしりとした重みが興奮を誘ったからでした。まるで今流した血のように、その重みは意味を持ちました。
「できるんだよ」
 エンナルは彼に囁きました。
「自由にさ。何でも、自分の思い通りにだ。みんな優しい。お前も、来い。素晴らしい世界が、お前を向こうで待ち構えているんだ」
 エンナルは、昼と夜とでは違う顔を持っていました。職人として働く彼の昼の姿を知っていた子供はその様に怯え、震えましたが、その立派な体躯の若者に、追従したいという気持ちも持っていました。彼が適わない相手が、彼を誘っているのです。それは、確実に自分が今よりも強くなることを、確証していたのです。黄金は、彼の手の中で、そのように、悪の気持ちを囁きました。しかし、毒々しいその色は、本物の黄金のものではありません。それは、怪物オグがいるという、地面の中深くの洞窟にできる、ゴルデスクという、偽物の金でした。
 いいえ、ゴルデスクにも、金と同じほどの価値を人間は認めています。それほどの希少性と、魅力とを持っているからです。ゴルデスクで出来た飾り物は、金以上に人々を魅惑し、怪しい噂を広げました。奪い合いが絶えなかったからです。盗賊のトアロはこの石を生まれ故郷で元海賊から奪いました。そして、下の街に持ち込みました。ゴルデスクは、奇妙に光り、彼女の声に応えました。いいえ、彼女の側面、最も悪に近い破滅の意識に応えました。魅力ある宝石は、人間の本能をくすぐり、とてつもない事件を引き起こすことがあります。ゴルデスクの塊は、そうした力を根本的に具えた、最も悪質な宝玉だったのです。たとえば、トアロの身に起きたことを思えば、かの玉石の力を感じることができるでしょう。彼女は、この暗い街で在りうる欲を、喰らおうとして、殺されたのです。
 エンナルはこうして子供たちを誘い続けていました。そしてある日、彼は一人で、袋に入ったゴルデスクを抱えて、ゴミ街へとやって来ました。個別の欲望に目覚めた彼は、不遜な顔色で、夕方の町を歩きました。黄金は、触るに禁忌と言われながら、町にも存在していました。細かい装飾の置物に、美しい髪留めに、つまりはおめでたい日にしか披露しないような物に使われていました。この町ではそうした付加価値の高い代物を、誰か個人が一手に持つことを禁じていました。それらはある意味で彼らの共有の財産で、三百年前人々を刺激したような要素のない使い方をしていたのです。ですが、エンナルの抱える塊はそうした使い方を超えて用いられました。彼は、どこでこれを手に入れたのでしょうか?
 子供の時分、揺らぐ若草の心は、刺激に対して無防備です。
 地面の下には、黄金都市の、さらに下、オグが住まう、古くからの洞窟がありました。エンナルは、ゴミ街を通り過ぎ、イアリオの先祖の墓地近くの、とある民家へと入っていきました。エンナルその他、子供たちは、皆このルートを通って来るように、ある人物から命令されていました。教わった身隠しの技と、忠実なところを示すよう求められたのでした。彼らは、もう耄碌してしまったおばあさんのいる部屋の廊下を抜けて、突き当たりのドアを開けて、何も置いていないがらんとした部屋の、床石の一つを持ち上げました。穴がそこに空いていました。穴がその中に誘いました。
 地下に下りていった先に、ひんやりとした湖がありました。エンナルはゴルデスクの袋を何度か持ち直しながら、松明の灯を行き先に伸ばし、ぱちぱちと爆ぜる炎に甘えるように、突き進みました。湖は、半径四十メートルほどの小柄なものでしたが、奥にさらに大きな別の湖とつながっていました。鍾乳石が垂れ下がり、湖面はしんと静かで、生き物の気配はまったくありません。いいえ、その場所を通り道にしている怪物がいました。かの化け物は、何度か、そこに来た子供たちの頭上をかすめ、その体に触れていました。
 悪が、自分の中に潜んでいると、気付いた子供は、自分をどう思うでしょうか。そのうち成人した人間の何人かが、職場で暴れ、何もかもに無頓着になって、つらい心の病気に悶えていました。悪は、人を魅了し、唆します。自分の仲間にならないか、と。自分の側に来ないかと。偉大な悪の化け物が、その町の真下にはいました。怖い物語は、すぐそばにありました。エンナルは硬い地面を歩いていって、湖を回り込み、先の、墨を張ったような黒々した一つの洞穴を入りました。そこに誰かがいました。
 男が、にょきにょきと伸びた岩に腰掛けていました。上半身裸で、下は上の町のスカート様の穿()き物ではない、二股に分かれたパンツでした。男はあご杖をついてエンナルを待っていました。
「遅かったじゃないか」
「すみません。お待たせしました」
 エンナルはこの男に強い憧憬と恐ろしいほどの驚異を感じていました。彼よりも、男は体つきも小さく、筋肉もついていません。むしろ痩せさらばえて、不健康な感じすら受けます。しかし眼光は何者よりも鋭く強烈で、こちらを威嚇し、皮肉り笑っています。そして絶え間ない不安感を送り続けるようです。エンナルは、この男に見込まれていました。そのことに、彼が誘惑した少年のように、彼は猛烈な喜びを認識していました。
 男はエンナルからゴルデスクを受け取ると近くの別の岩にそれを乗せました。
「他の連中は?」
「皆帰したよ。しばらくの間、おとなしくしているように」
「はい」
 エンナルが踵を返し行こうとした時、男が呼び止めました。彼が振り向くと、素早く男の手が彼の喉を掴みました。
「何を…」
 エンナルは背筋が凍りつくようなぞっとした冷たさを覚えました。その男の手も、それくらい冷たかったのです。
「お前、お前なりによく頑張ったじゃないか」
「ええ、それは、もう」
 手の力が強くなってきます。
「これは俺の愛情表現なんだよ」
 ゴキリと嫌な音がして、エンナルの体は崩れました。男は高笑いすると、青年を優しく抱き上げ、ぽんぽんと背中を二回叩きました。
「怖いか?どうだ?」
「あ…あ…」
 彼は首が曲がった状態で、一言も声が出ませんでした。痛みを超えて、呼吸ができず、ただひゅうひゅうと喘ぎ、涙を垂れ流すばかりでした。男は彼を笑いながら見つめるばかりです。エンナルは、ひょっとして自分はこのまま死んでしまうのではないかと恐ろしくなりました。そして、ぐるんっと彼の両目が一回転しました。
 気がつけばまだ男の両腕の中に、彼はいました。首は元通りになり、息もできました。あんなに恐ろしいことをされたのに、彼はほっとしていました。そして、不思議に安らいでいました。
「頚椎がポイントだ。その部位をいかにずらすか、な。お前は体験した。慣れればすぐにできる。いずれ、実践してみよう。相手の生殺与奪の権利はお前に具わるんだ」
「はい」
 エンナルは首を持ち上げました。胸元が垂れ流した涎で濡れていることに気がつきました。けれど、うっとりとして、頓着しませんでした。
「次の渡航日を楽しみにしています」
 男はにこやかに暗黒の洞穴から青年を送り出しました。

 イアリオとハリトとレーゼは再び太陽の下に出て、息を吸い込み吐きました。ところが、地面の下と地上とで、少しも空気の味は変わらない気がしました。イアリオはさっぱりした顔つきになっていました。しかし他の二人はそうではありませんでした。
 三人はしばらく東の市を見て回りました。二本のメイン・ストリートがあり、道を挟むように雨よけと陽射しよけの幕を張った軒が連なっています。市といっても売り子はおらず、職人が軒先に出て客の相手をしました。町には貨幣経済はなく、物と物で品物を交換し合っていましたが、重要な価値と認められるものは希少性のあるおいしい作物でした。農夫たちがつくった農作物は、全部町が管理して、大工や針子、芸術家といった農夫以外の人々にはそれぞれの仕事に応じてそれを分配していたのです。市ではそれぞれの職業の集団が自分たちの仕事の見本を置いていて、その職能を争うことができました。その集団ごとにも町から配布される食物には量や質の差異があって、毎年の改定でそれは変わりましたが、彼らはうかうかと自分たちの仕事を疎かにできないようにされていたのです。また、彼らは各々の仕事の成果を交換し、配分された食べ物によっても仕事を「買う」、「売る」ことができました。
 東の市に並び立つ店の幅や奥行きは相当ありました。そこに、各集団がつくる服飾や飾り物、レンガ、あるいは食器などを並べるからです。彼らが仕事を終える夕暮れ時などはこの辺りは特に活気に溢れました。
「さて、これからどうしようか」
 市場の端辺りまで歩いて、まだ人前でしたが、イアリオはハリトとレーゼに訊きました。
「これで、イアリオの問題は、一つ解決したんだね」
 レーゼが言いました。
「次はあの幽霊たちの言ったことが、本当かどうか、ということだよね」
 ハリトがイアリオを斜めに見上げるようにして言いました。
「そう、そうなんだよね」
 イアリオはうつむきました。子供たちは彼女の次の言葉を待ちました。
「または、どう墓参りをしていくか、ということでしょ。表じゃそれはできなくなったから」
 イアリオが黙っていたので、レーゼがひそひそと話しました。それでも彼女は口を閉じています。
 二人はその様子を見つめました。思い悩むようではなく、表情はすっきりとしたままでしたが、その眼はずっと何かを見続けていて、様々な事を考えている感じではありませんでした。
 その表情が少し崩れました。匂い立つような女らしさを彼女は二人に見せました。
「イアリオは、あの霊たちの言葉を確かめるのは気が進まない、て言っていたけれど、今も?」
 何か言わないと気が済まなくなって、レーゼがまた口を開きました。
「うん」
 イアリオは首を縦に振りました。
「でもほっとした。束の間の安泰ってところかなあ。私自身の問いに、答えが出たから、しばらくはこの余韻に浸りたいって思っているわ。けれど、そうだね…認めたくないけれど、次の課題が、もう目の前にある感じがしている」
「それって?」
「オグ…」
 彼女は、天女の言葉にも出てきた、そしてハルロスの日記の中にも登場した、いにしえの怪物の名前を言いました。
「どういうわけか知らないけど、ざわざわするの。その名前に。ピロットのことは、きっと私の中に収まった。でもまだ、私からはみ出ているものがあって、それを、体全体で感じているの。何が何だか、まだよくわからなくて、こうして言うのも憚られるのだけれど」
「イアリオの言うこと、俺はよくわかるぜ」
 レーゼが彼女の言を引き継いで言いました。
「俺も、よくわからない。ハリトは?」
 ハリトも首を横に振りました。ですが、少女は二人があの白い幽霊たちの話したことを言っているのだと思っていました。当然これからはその真偽を確かめにまた地下に行くのだと。
「ついこの前までは気づかなかった感じ。でも、何かが動いているようなのね。奇妙ね。とても奇妙。でも、きっとずっと前からこうだったんだわ。でも…こう言いながら、私はただ当てずっぽうに何事かうわ言みたいに言っているだけかもしれない。ああ、もどかしいな。きっと今の言葉、文にして書いてみたら、読み返したらやっぱりもどかしいはずね」
「でも、そうなんだから。どうしようもないじゃないか」
「何がもどかしいのか…鍵は、多分あの話にあるのだと思うわ。でもどうしたら確かめられるのかしら。いいえ、できればやっぱり、確かめたくないわ」
 イアリオはうろうろと市場の端を歩き、そわそわと街路を眺めました。市のまっすぐの道はここまでで、住宅地に入るとその幅は狭くなり、くねくねと折れ曲がります。市場の隅の展示は絵画や彫刻などで芸術家たちの肝いりの作品が並んでいました。どれも線が太く、かっちりと対象物の輪郭を描き存在感を際立たせていましたが、その隣の店の別グループの作品群は反対に線が柔らかく、繊細な様式でした。芸術の店の対面は下着屋さんで、着心地のいい長襦袢が木の十字架に架けられて質の良さをアピールしていました。それぞれの店の奥にはたくさんの籠があり、売買のための交換用の食材が積まれていました。瓜が香り立ち、ハーブが芳香を漂わせていました。
 夕日が赤々と西の空を照らしました。もうすぐ帰る時間です。レーゼとハリトは互いの顔を見合わせました。
「俺たちはまた入りたい。だから、イアリオが無理というなら、鍵を預けてくれないか?」
 レーゼの側で、ハリトが頷きました。
「それはできないわ」
 そもそも、私がそこまでやる必要はどこにあるのだろうか?と、またイアリオは消極的なことを考えました。あの天女たちの言葉を、わざわざ確かめに、自分自身だって十分危険だとわかっているあの暗黒の地下に臨むのは。どう考えても、無謀であり無駄なこと、なんじゃないか。ピロットについては私の中で確かな位置取りを得られた。それで、もう、あの場所に分け入る意味はないはずでしょう?違う?墓参りも禁止になったけれど、もしかしたら、そんなことしなくても私は十分かもしれない。この子たちだって私が自ら危険に誘ってしまっているもの。もうこんなこと、やめても、いいかもしれない。やめてしまおう…。
 そして、自分の新しい人生を…。
 その時、イアリオの目が二つの目に吸い込まれました。紫に近い、藍の深い、深い、瞳でした。それは、レーゼの二つの瞳でした。えっと彼女は思いました。やがて、二つの言葉が口から漏れました。
「そうじゃないわ。行くんだわ」
 どこへ?
「やっぱり、私は行くんだ」
 だから、どこへ?………イアリオは可哀相なものを見るような目つきになりました。しかし、その対象は視線を向ける相手ではありませんでした。その瞳に映る、自分自身でした。彼女ははっとしました。自分がレーゼに目を向けていることを、今更知りました。
 何か不思議な安堵が彼女の体を駆け巡りました。イアリオはハリトも見つめました。まだあどけない顔の少女は、こちらを見て、頬を紅潮させています。イアリオはゆっくり、口元を緩んで微笑みました。「結局はそうか」と、呟きました。
「なんだか、私が、私を一番怖がっている気がするね。あのどうしようもなく、自分の運命だって感じた夜の事を、意味もなく後悔する気持ちは、何かの始まりを知らせたその場面が、あまりにも大きいからだ。わかってはいるんだ。私の前に、あの光たちが来た理由も。私が、地下の幽霊たちを供養したいと願っていた理由も。私は…白い町が、滅びた方がいいなんて考えをしている。この町が嫌いなんだ。心の底で、すごく嫌悪しているんだ。だから、言ってみれば、私はあの天女の言ったことを望んでいた。…それを確かめるということは、自分の思いを確かめることでもあったんだよ。だから、そう、ピロットをどうにかしなきゃならなかったんだね!彼のことが、私の嫌悪感につながっているからだ。彼はいなくなったことが、やっと私の中で落ち着いた。いよいよ、私は私自身に向き合う必要が出てきた。だから…生活に戻りたいと、考えた。普段通りの仕事に返って、落ち着いて生活したいと。でも…違う、違うんだ。あの言葉、はっきりと覚えているわ。白光がうたった文言、天女の姿、光たちの顔、顔、顔。皆私にこう言った。これは事実だって。どうしようもない進行中の現実だって。なぜ、そう思うか自分でもわからない。だけど、焦燥がある。どこか、言い知れない焦りがある」
 レーゼが、真剣な顔をして頷きました。
「物凄い現象が、自分のものの考えに近いことをしゃべってしまったから、受け入れるのに時間がかかってしまったのね。ええ、一緒に行きましょう。今度は、あの不可思議な話を、ちゃんと確かめに!」
 いつのまにか、三人は市場からはずれて住宅地も通り過ぎて、郊外の人気ない野原まで来ていました。彼らは草に寝転がり、沈む夕日を一緒に眺めました。イアリオは、自分の傍に彼らがいることが、何よりも心強く思われました。彼らがいなければ、あの神秘的な入り江にも入ることができず、恐らくピロットは永遠に彼女の一部にはならなかったでしょう。

 季節は冬を巡り、春を迎え、夏の兆しがあちこちに見られるようになりました。この町は海辺ということもあって気候は穏やかで、一年中それほど気温は変わらず、ゆえに服装も変わりませんでした。チョッキのセジルを材質を変えて薄くしたり厚くしたりということだけでした。彼らの冬は短く、雪は見られません。春が長く、大きな催しがこの季節に集中しています。種蒔き祭に開漁祭、馬肉祭、そして誕生祭です。大きくはこの四つでしたが、他にも小さなお祭りが開かれました。大きな祭の前三つでは冬越しの食料の余りをふんだんに使った料理が供されました。秋に行われる収穫祭では、採れ立ての食物がテーブルに並びますが、三つの祭はその逆で、放っておいても腐ってしまう、もしくは悪くなってしまう保存食をメインに食べましたが、何より各々の仕事始めの滋養に大切な儀式でした。しかし、それだけたくさんの食べ物を、彼らの町の持ち畑は生むことができました。土壌がたいへんよかったのです。それに近隣の河川では豊かな魚介が獲れ、また牛や馬などが食む牧草も、十分によくありました。ここは恵まれた土地でした。北の山脈まで伸びた田畑はどれも実りが良く飢饉に陥ったことはこの三百年間でほとんどわずかでした。
 当然、人口も増えました。誕生祭は、この一年で生まれた赤ん坊を皆で祝福する行事でした。イアリオは教職を持ちつつ議会の仕事も手伝っているので、こうした行事に追われて、地下の探査は中断せざるをえませんでした。三人で会うこともなかなか難しくなり、そのうちにハリトは学生を卒業して、お針子の見習いになりました。イアリオが十年ぶりに入ることになった、黄金都市で子供たちが遊んでいた一件から、およそ一年がたとうとしていました。
「やっと自分の時間が持てるようになったわ」
 久し振りに集った三人は、イアリオの部屋に集まって蝋燭を囲んでいました。
「随分待たせてしまったねえ」
「イアリオ、ほっぺたに染みができてる」
「あら」
 ハリトが指差すところを、彼女はさすりました。
「本当?まあ、どうでもいいけれど」
「イアリオって色気ないよね」
 ハリトが針のように言いました。
「顔つきはいいのに」
「そう?」
「…誰か好かれている人はいないの?」
「そうねえ…」
 彼女は黙って宙を見つめました。彼女が好きだった相手は、もう遠くへ遠ざかっていました。以前は幻影の彼を追って、どんな危険も躊躇しない、猪突猛進もいいところの勢いがあったかもしれませんが、今は、日々の仕事に追われたせいもあるのでしょうが、保身の方が強まっていました。彼女は新しい恋愛をしようとは思いませんでした。それは自分自身を変えてしまうからです。彼女は今の自分のままで十分でした。
「イアリオは、さ」
 レーゼが口を挟みました。
「多分、本気で好きにならなきゃ動かないんだと思うよ。冗談にも恋愛をする奴はいっぱいいるけど、そうした性格じゃないからだ。いいんじゃない?」
「あら、まるで私のことを、よく知ってるような口振りね」
 イアリオは久々に会った青年をつぶさに眺めながら言いました。
「そりゃあ、一緒にピロット探しをしたんだもの。あんた、誇りに思ってたじゃないか。彼を愛していたことを」
 イアリオはふっと笑いました。
「そんなこともあったね。いいえ、間違いではないわ。だからかもしれないよ。私が、今のままの自分でいいと思っているなんて」
「勿体ない!」
 ハリトが叫びました。
「私は納得がいかない!」
「なんでお前がそう怒るんだよ」
「イアリオには、普通に結婚して、子供を産んで、幸せになってもらいたいもの!そうでなきゃいけないわ!」
 ハリトの言うこともわかるのですが、イアリオは、どうしても自分にそういったイメージを持てませんでした。人間の幸福は人それぞれで、普通の幸福といわれるものを、掴めないことも当然ある。そう考えるイアリオは今でも十分幸せだと自分を思っていました。ですが、きっとハリトの中では、幸福のイメージが彼女の言ったとおりである以上に、彼女自身にそうしたものを求めているのでしょう。イアリオは優しい目をしました。
「じゃあ、私の分まで、あなたが幸福になってくれるといいわ」
「どうして?」
「人の幸せは私のものよ。だって私、教師をしているんだから」
 この言葉に違和感を覚える人はいるでしょう。自分の幸福感なくして、どうして他人の福をそれと感じられるものでしょうか。
 そして、もう一つ違和感を覚えるべきことが、この場に現れていました。ハリトは、イアリオを先生として仰いでいたような時期には、言わなかったことを言ったのです。彼女の中で、この年上の女性は相対的に価値を低めていました。イアリオは気にしませんでしたが、それはねちねちとしつこく付きまとい、得物を決して放さない軟体動物の捕食にも似た心持ちでした。彼女はイアリオに、さっぱりした気持ちで望んだのではなく、自分と相手とを切り離していませんでした。
 ハリトとは違ってレーゼは、「人の幸せは私のものよ」と語る、イアリオの仕草がとてもエロティックに見えました。それは、酒場の女主人が言うような、張り裂けるばかりの人生訓を思わせました。彼は、この女性といるととても安心しました。
「まあ、私のことはともかく、これからどうすればいいか、やっと相談できるんだから、そっちを話しましょう。二人にはまだ熱い火があるんでしょ?おおよそ半年前の、あの光の言葉。それを、確かめたいって」
 二人とも頷きました。
「私も同じ気持ちよ。どういうわけか、焦りがあるの。早くにこの探索をしたいとも思っていた。でも待たなければならなかった。いくら焦っても、慎重に事を進めなければ何事も成功はしない。私への醜聞は本当だったから。シャム爺の言う通りお墓参りはやめて正解だった。あれ以上疑われてしまっては、もう一度、地下に潜るなんてできなくなっていたでしょう。私が、黄金に囚われているなんて噂が広がっていたのよ!議会はまだ私の探査を認めているし、手続きには問題はないから、恐ろしいのは人の立たせるこの噂話だけ。でもそれももう下火」
 彼女は言葉を切って、立ち上がりました。
「私は人の噂話が嫌いなところがある。だから、ちょっとだけ振り回された。その状態で、もう一度地下探索をしてみるなんてことはできなかった。私の心、意外に弱いんだって発見したわ。今はすっかり落ち着いてる。これは推測にすぎないけれど、ピロットを誘惑して逃亡させたのが黄金なら、私もそうなるかもしれないって、考えてしまったの。自分が黄金を持ったら、ここから逃げ出してしまうかもって。ずっとその調子の苦しい気分だったわ」
 しかし、その気分があるから、彼女はこの町の住人であると言えたし、この町の人々は、今も黄金に囚われているのだとも言えました。
「けれども一方で不思議な焦りがあった。その駆られる感じは、やっぱり天女の話から出てくるものだった。さあ確かめに行きましょう、ということだけれども、何から手をつければいいかしら?あなたたち、考えはある?」
「まず俺たちに訊くの?まあいいけれど。ずっと考えていたのはやっぱり地下だよ。あそこに行ってみなければわからないことだと思う」
「ハリトは?」
「同感です。私もまた行ってみたくてうずうずしていた」
「おい。単なる探検じゃないんだぜ?」
「でも、どきどきするよ。あそこに黄金があるかどうかじゃなくてさ、あの街が、懐かしいところってあるじゃない。やっぱり私たちのふるさとなんだって」
「それは、俺も否定しないけれど」
「そうね。あの光たちも言ってたわ。ふるさとはどこにある?ここにあるというのに、誰も見ないって。私たちが、あの街を再認識することって、やはり重要なんだと思う。これからの私たちの活動は、それにも触れていくかもしれない。私は私で、十五人の仲間たちに連絡してみようと思うの。彼らが今あの都をどう思うのか、是非聞いておきたいから。それが、ゆくゆくはあの話を解釈する手がかりになっていくかもしれない」
 そういえば、と彼女は思い出しました。確か、テラ・ト・ガルの皆で初めて大きな屋敷を冒険してみた時のことでした。テオラと、ハムザスと、カムサロスが、とても慌てて飛び出してきた使用人宅の下には、洞窟があると言っていました。洞窟?ハリトがエンナルから聞いた立ち話の中にもその単語がありました。ですが、少年たちの事件はすっかり片付いています。
 イアリオは奇妙な感覚に囚われながら、そのことを二人に話しました。
「じゃあ早速そこに行ってみようよ」
 レーゼがまるでハリトのように叫びました。
「どっちにしても、あの街を調べ尽くさなきゃわからないことだと思うから。俺は、たまに、呼ばれている気がするんだ。地面の下から、なんて言うと、怖い気がするけどさ。あの街と、死人と、入江を見たせいもあるかもしれないが。イアリオは、今の自分のままがいいなんて言ったけれど、俺を含めて、この町も含めてそうならない予感がするよ。原因は地下にある。あいつらの話は、そうした内容だったと思っている」
 ハリトも頷きました。こうして、三人は再び地下に、そして洞窟にへと赴くことになったのでした。
 イアリオが、その運命を変えられた地下には、依然、大量の魑魅魍魎どもがいました。彼らは漂い、有象無象の怨嗟を撒き散らしていました。イアリオには前よりも彼らの言葉が明瞭に聞こえるような気がしました。子供の頃から抱いていた問題に一つの決着がついたからでしょうか、彼らと同じような怒り哀しむ心になっていたのが、今はそうではなくなっていました。彼女は以前会った女の亡霊を思い出しました。その亡霊に連れられ、ハルロスの日記帳を見つけたことを。そうするとあの幽霊は、もしかしたら、ハルロスの近親ではないかと思いました。なぜ、あの女性はまだもこの暗がりに囚われていたのでしょうか。ハルロスは、あんなにここを愛していたのに。日記の作者はこの都には自分の思いなど残していないと感じられました。彼は成仏しているでしょう。間違っても魍魎などにはなっていない。それなのに、彼に近しいであろうあの女性は、私を虜にしようとしたし、危険な感覚をこちらにぶつけてきていた…上からの光に呑まれて、あの女性は天井へ昇っていったが、その指で指し示したところに、黒表紙の本が置かれていた…。イアリオは、それが変なことに思われました。
 テオルドは?ふと、彼女はあのでっぱり額の、もの暗い男のことを考えました。でも、彼は私の気持ちを正しくしてくれたじゃないか。やっぱり、ピロットの無事を自分は願っているのだと、彼と話をして私はわかったはずだ…。イアリオは、このことを考えまいとしました。いまだ、彼女にはわからないことばかりがたくさんあったのです。彼女は、側に一緒に歩いているハリトを呼び寄せて、肩を並べました。大きくなったハリトの背丈を眺め、彼女は満足しました。そうした気持ちが、今の自分を成り立たせているかもしれない、とイアリオは思いました。彼女が愛を手向ける相手は今いないのですから、子供たちの成長に、まるで自分の愛がその滋養を送っているかのような、少々複雑な経路の満ち足りた心地を彼女は味わっていました。ピロットを失い、依然彼女の心は分散したままでしたが、代わりになるものを求めて、四苦八苦をしている最中でした。彼女は生徒たちを好きでしたし、彼女の教室を卒業した者たちも、また好きでした。彼女が現在の生活を維持したいと求めるのは、このためでした。それが、天女の言に触発された、言い知れぬ焦りにつながっていることを、イアリオは感じていました。あの白霊は、この町が破滅すると言ったのです。信じなければ早いのですが、彼女が、これまで探索を繰り返して味わってきた経験が、あの言葉は無視できないと常に警告を発してきました。イアリオの焦燥は日ごとに増してきていました。なんとしても、天女たちの文言を自分の理解できるものにしなければいけませんでした。
「そういえばさ、イアリオたちがここに来ていた時、盗賊たちもいたんだよね。盗賊は、どこから入ってきたの?」
「そうね。考えられるのは、陸路か海路なんだけど…あの後、どうも街のどこかを封じ込めていたらしいけれど、少なくとも海路ではないと思うわ。でも陸路の場合、ここにやって来れるのは、北の山脈を越えてしか無理なの。大昔は西の大亀裂と山脈の間に街道が走っていて、たくさん人が通ったらしいんだけど、そこも破壊した。今は密林になっていて、見張りもいるの。だから、直接山を越えてきたとしか、考えられないわね」
「洞窟を入ってきたとは、思えないわけ?」
 ハリトが尋ねました。
「まあ、それがどこかにつながっていれば、の話だけど」
「陸伝いに来たのなら、街のどこかに蓋をする必要はないんじゃないか?ケアするべきは、盗賊が辿ったルートだろう?」
「そうね。その通りだわ。じゃあ、洞窟がどこかにつながっていて、そこから侵入したんであれば、大人たちは、その道を塞ごうとした、てわけか」
「で、陸伝いは考えられない、と。じゃあやっぱり、海から来たんだね」
 ハリトがおかしそうに言いました。イアリオは、そうだ、その可能性があると思いました。軍艦を係留していた港湾付近でなければ、暗礁は無いと考えられましたので、きっと彼らの経路は海を渡って洞穴へ侵入したのでしょう。彼女はまったく海からの可能性を思っていませんでした。ピロットのことがありましたから、おのずと、その考えを意識しなかったのです。
「でも、もしかしたら私たちがこれから行く洞窟は、塞がっていることも考えられなくない?」
「それはないと思うよ。十一年前、用事があったのは盗賊のルートを壊すことだもの。きっと彼らの入った、海に近い場所だけを崩したんだと思うわ」
「それならいいけど」
 三人は例の煙突のトンネルから入って、都の工場地区から西へ向かっていました。目指すは都市の中でも新興住宅地にある、大屋敷ですが、その途上で、彼らは不思議な影を見つけました。それは、道の隅っこにうずくまり、ぷちぷちと呟いているような気がしました。よく見ると、それは木の瘤で、地面から隆起して折れ曲がり、また地面に沈んでいました。
「何、これ。気味が悪い」
「イアリオ、ハリト。あそこ」
 レーゼが指差したところは、木の瘤のさらに奥でした。ぽっかりと壁が砕けていました。その壁は、建物の外壁ではなく、周りの岩に沿って築かれていました。三人は都の北辺を辿ってきたのです。削られた岩壁が右手に迫る、息詰まる天井の下を歩いてきたのでした。
 壊れた壁の奥は、地下道になっていました。もしかしたら元は洞窟でそこを整備したのかもしれませんが、手入れされた左右の壁はすっきりと切り立ち四角い進み易い道幅でした。
「人工の、地下道」
「何のために?」
 三人はその先に進みました。始めのうちはほとんど頭上すれすれだった天井が、しばらく行くと急に高くなりました。道幅も太くなり、二人が手をつないで精一杯腕を伸ばしたほどになりました。その通路は、都のあちこちを結び、荷物の運搬のために使われた道でした。大昔、限りない富を占有した海賊どもは、こうした道をも作らせて、より便利な機能都市を目指したのでした。イアリオは松明を掲げ、岩壁に何か赤い文字が描かれているのを見つけました。そこには、「鼓の音に気をつけろ」と、古い言葉で書かれていました。
 その文字は意味通りいかにも警告的に見えました。
「もしあの崩れた壁が、ここに来る穴を塞いでいたのだとしたら、警告も本物と考えられるわね」
「でも何があるの?」
「それは…」
「イアリオ、風の音がする」
 レーゼが声を潜めて言いました。地下道の向こうから、さわさわと聞こえます。不自然な風です。街とて風なんて吹いたことがありません。ましてこの暗い坑道に、空気を動かすものがあるはずがありません。
 その音は、あっというまに彼らに近づきました。もやのような白いものが、空中を飛んできました。そして、彼らの頭上をかすめて過ぎていきました。すると、今度は別の何かが同じ方向からやって来ました。呻き声がそちらからしました。それは真っ黒く、穴のようでした。ぼこぼこと頭のようなものが付いていました。凍えるくらいに冷たい風が、頭上を飛び越え、後ろに吹き過ぎていきました。
 それはたいへん恐ろしいものでした。身も凍る寒さが、あれが行った後で三人を襲いました。じっとりと額を汗で濡らした三人は、しばらくしてから止めていた息を吐きました。身をとっさに屈めていた彼らは頭を上げられませんでした。しかし、レーゼが勇気を絞って後ろを振り返りました。
「もういないよ」
 彼は、本当に小さな声で囁きました。イアリオは目を行く道に戻しました。すると、白っぽい服を着た男がぼんやりとそこに立っていました。三人の持つ松明の明かりの届くか届かないかの所に男はいて、さながら幽霊のようでした。彼女はびくりと身を弾ませました。
「また、逃してしまった」
 男は三十代後半ほどの、面やつれた青い目の好男子でした。その目許は涼しく濁りがありません。しかし、やや病的な趣きがありました。手も指も細長く、その肉付きはわずかだったのです。彼は簡素な外套を着用し、ぼうっと光を放つように感じられました。胸元を留めているブローチは、赤銅色をした細い線で飾り付けられ、歴史を感じさせました。
 男はじっと三人を見つめていました。イアリオは立ち上がり、ぱんぱんと服の埃を払うと、この男性を見据えました。盗賊らしくはないですが、そうかもしれないと疑ってみたのです。
「あなたは誰ですか?ひょっとして、この街に住んでいるのかしら」
 ここは地下道にもかかわらず、イアリオは「この街」と指しました。足元の道は都の一部だと思っていたのです。
「いや」
 男は答えました。マントの裾を揺らして、こちらに歩いてきます。
「私はハオス。湖の番人をしている」
「湖の?」
 彼の声はよく通り過ぎるくらい透き通っていました。神官が祝詞を唱えるような声音です。
「この先へ行ってはならない。なぜなら、この向こうにはオグがいるからね」
「あなたは誰ですか」
 もう一度イアリオは同じことを尋ねました。今度はもっと厳しい声色でした。
「クロウルダの、ハオスだ。君たちは、評議会から何か聞いていないのかね?私はオルドピスの手引きで、こちらに派遣されてきたのだ」
 ハルロスの日記の中に、「クロウルダ」という民族について触れた記述があったことを、イアリオは思い出しました。彼らは「オグ」という怪物を宥めに各地に港や川べりの町を造り、神官職に就いたという話でした。さらに、彼の言ったオルドピスというのは、彼女の町が唯一交流を許している国のことでした。イアリオは、このハオスという男がこちらを値踏みするように見つめていることが気に入りませんでした。
「私はイアリオ。見て判る通り、上の町の住人ですが」
 イアリオは剛毅に振舞いました。
「私たちも、オグについて調べているんです」
「ほう」
 ハオスは顎に手をあててさすりました。まったく髭のないつるつるした肌を滑らせて、彼は微妙な声で話し出しました。
「今、あなたたちの上を通り過ぎていった者、あれは悪霊と、そうではない亡者たちだ。彼らは私から逃げた。どうやらオグと同化しようとしていたのだ。オグは人間の魂を捕らえようとする。惹きつけて放さない、強力な悪の親玉なのだ。クロウルダはこの魔物を生涯大地に封印してその栓を監督することを担う者、ここで起きつつある現象は、しかし我々の知識を超えている」
 ハオスは、長い裾をひらりとさせて、立つ様子を変えました。腰に手を当て、先程の微警戒の態度を崩し、これから先は絶対に行かせない門番の様相で立ちはだかったのでした。
「我々はかの魔物を千年以上も追っている。我々があの魔物を監督せねば、いずれオグは暴れ出し、破格の消滅をもたらすのだ」
「破格の消滅って?」
「この街で起きた…三百年前の悲劇に勝ることだ…」
 彼は知恵ある者の眼差しをして、てこでも動きそうにない仁王立ちでした。イアリオたちは、何も言うことのできない雰囲気でした。ハオスは三人の様子を眺めて、後ろに返り、行ってしまおうとしました。
「待って。あなたはオルドピスの手引きでこの街に来たと言ったけれど、どうして今まで来なかったのかしら?オグを、長年追いかけているんでしょう?」
「知らなかったからだ。我々の仲間が、急に消息を絶つことはよくあることだ。この街がそうであったと、最近になってわかったのだ。オグの恐ろしさは、いつのまにか、人々と町を全滅させることにあるのだ。ここが我々の看守なしで長の月日を無事に生き長らえられたことこそ、わからぬことだ。かの魔物は慰められなければならぬ。あれは、人の悪である。赤子と同様なのだ」
「この向こうに、それがいるのね」
「近づいてはならない。彼は、人間の悪意に取り憑く。出会えばたちどころに奴の虜囚となるだろう。そして、自らが唆され悪を行ったと誰もが知らず、決定的な悪をその町に働く。いつのまにか、そこには人々の悪が蔓延して、互いに傷つき合う、恐ろしい事態となるのだ。知らぬうちに蝕まれ、いつしか町は亡びてしまう」
「私たちはもうそうした経験はしたわ」
 イアリオは毅然と言いました。
「でも、生き残ったわ」
「かの魔物は違う。あれは、憎しみ、わだかまり、人間に怨嗟をのみもたらす恐ろしい怪物である。太古からの人間の悪意なのだ。しかも、無限の数がいる。太刀打ちはできない。慰めなければならない」
 ハオスは行ってしまいました。イアリオはまだ訊きたいことがあったのですが、もう一度呼び止めることもできませんでした。
「何なんだよ、これって」
 レーゼがぼそりと呟きました。イアリオもまさにそうした心理でした。彼女はクロウルダのハオスと対峙して、当てずっぽうなことを言っていました。オグを調べにも来ていませんでしたのに、そう言って、彼の気を引き留め、会話を主導しようと試みたのです。「どうして今まで来なかったの」と質問したのも、彼ないし彼らがいつからここに来たのか知らないために、その情報を得ようとしたのでした。できるだけ、彼女はこの未知の人物を相手に知れることを増やそうとしたのです。ですが、今の一連の現象には、謎が多すぎました。

「あれが天女の言っていた言葉の現われかい?」
 煙突から地上に出て、日の光を浴びられる場所で三人は休憩をしました。風が、彼らの素肌を撫でました。今度はちゃんと大地を吹いてくる自然の風です。
「さあ、どうだか」
 イアリオは立腹していました。自分たちの探索を見知らぬ人間に止められて、その人間も気に入らないからでした。
「相当、怒ってるな」
「ああ、もう!」
 彼女は縮れた髪の毛をがしがしと擦りました。まるで男のような仕草にハリトもレーゼも驚いてしまいました。
「納得がいかない。もやもやするわ。そして、吐き気がする。あの悪霊といい、変な男といい!」
「イアリオ、あれは、やっぱり悪霊だったの?」
「そうじゃない?あそこに顔がへばりついていたわ。苦しそうな、辛そうな表情!穴のように黒かった!あれが、私たちの御先祖様、ね。やっぱり…お墓参りを、しないなんて考えられなくなってきたわ」
「でも、それは白いもやを追ってきていた。ハオスの言うことを信じれば、そっちは悪霊じゃない亡者らしいけど。いいや、正しく言えば、あいつらはハオスから逃げたのか」
「その両方かもしれないよ。でもわからない。ああ、わからないわね!」
 イアリオがまた頭を掻きむしりました。
「評議会に問い合わせた方がいいかしら?私に連絡はなかったわ。あのハオスが来ているなんて。でも、オグだか何だかに詳しいらしい彼に、直接色々聞いた方がいいでしょうね」
「ところでさ、オグって何なの?私、あの場所で初めて聞いたけど、ハオスの説明だけじゃよくわかんないよ」
 ハリトが尋ねました。イアリオは、自分の知識の範囲ですぐ彼女に答えようとしましたが、レーゼが違うことを言いました。
「あんな奴がいるなんて、俺たちの、白い町の中でだけ起きていることではない、てことなのか?」
 レーゼの疑問は、天女の言葉が、かの都と上の町についてだけを言っていたのではないのか、という意味でした。
 イアリオは頭を抱えました。
「どうして、私に連絡がなかったんだろう?あんな奴が来ているなら、あれと同様、下に向かっている私があれと出会う場合は、考えられるはずでしょ…?」

 イアリオは早速議会に問いただしました。しかし、議会は彼女に連絡を付けたはずだと言いました。ハオスについてはその帰還する日もわからないということでした。
 議会からイアリオに言伝をもらった連絡役には、テオルドの息がかかっていました。テオルドは、クロウルダの正体や、ハオスが試みていることも皆知っていました。彼はハオスとイアリオを会わせまいとしましたが、悪の意図が失敗することもまたあることでした。
 彼にとってイアリオは彼の(悪の)領域に収まらないようなところがありました。あの白光の言を彼女も聞いたとはいえ、まさか都のさらに奥の洞窟や地下道までやって来るとは、彼も思いもよらなかったのです。ピロットのことだけにかまけているように見えていた同級生が、それを克服して、さらに今起きつつあることを調べようとしているのは、テオルドに亀裂のような意外さを覚えさせました。
 しかし彼は議会からの言伝を阻んだ以外のことを、彼女には何もしませんでした。もっと別の事柄にも注意する必要があったのです。滅びの都の魍魎たちにも、ハオスやイアリオたちの他に地下に来ている人間たちにも、彼は気を配り、何か自分にとって不都合が起きないか気をつけなければならなかったのです。エンナルやシュベルら子供たちが地下に降りている現場を、テオルドは見ていました。彼らが誰かの指示で動いているのも知っていました。
 彼の壮大な計画を進めるには、慎重に、事を見極めていく必要があったのです。
 それから三日たって、三人はまた一堂に会しました。ハリトがむずむずとした気持ちを抑え切れない顔つきで、レーゼにもたれかかってやって来ました。
「どうしたの?」
「こいつ、オグの話が聞けなくて、悶々していたんだよ。ハリトは気難しいから」
「それはごめんね。今日は話せるわ。あの時は、私も頭がごっちゃごちゃしていたの」
「じゃあさ、探検は、このまま続けるの?」
「そうね…でも、あの悪霊たちに出会って、どれだけあそこが危険なのかって、また確認したね。ハオスに会う必要があることは確かだけれど、それもよく考えなければならない」
「あたしは行くよ。まだ謎は何も解明されていないじゃない!折角の手がかりを、追いかけなくてどうするのさ?」
「ハリト、元気ねえ。おっかなくないの?」
「全然。へっちゃらです」
 ハリトはこうして言うものの、彼女は実はまったく別のことを恐れていました。このまま、もしかしたら三人での探索が終了になってしまうのではないかとわけもなく思い込んだのです。
 彼女は三人でこうして集まったり、話をしたりする時間に望外の嬉しさを感じていたのです。こうなるまでは、ハリトは単独で行動することが多く、自分が何かを人と共同で行っているという感覚がありませんでした。その感覚がないだけで、実際は周りの子供たちを巻き込んで色々な遊びを開発していたのですか、そんな中も彼女は自尊心あるままに、傍若無人だったのです。
 彼女はそれまでとまったく違う人間関係を今持っていました。彼女の言葉と、実際の感情には、食い違いがありました。
「ハリトがいると、心強いわ。ええ、いいわ。その通り!何がハオスだ、悪霊だ、滅亡だ。こうなったらとことんあの街を調べ尽くしてやるわよ!」
 これは正直なイアリオの気持ちでした。ですが、実は何か言明できない焦りが、そう言わせてもいました。その焦りはどこから来るのでしょう。イアリオはまだ、自分に降りかかっている事の性質の、本当のところをよくわかっていませんでした。ただすべきことは理解していたのです。
「どちらにしても…天女たちの宣告を、検討しなきゃならない。なぜ滅びるのだろう。もう一度?そう、この町は一度破滅を味わった。彼女はどうしてあんな宣告をしたんだろうね。『行き過ぎたがゆえに、取り戻す必要がある』なんても言ったわ。
 それよりも、ハリトに答えなくちゃいけないか。オグはね、ハルロスの日記に書いてある内容によれば、古代の人々の悪意の塊だというの…」
 イアリオは手元の日記を参照しながら、ハリトに説明してあげました。しかし、イアリオはこの悪魔の呼び名を何度も口で繰り返して、その名前はハルロスの記帳で初めて知ったとは思えない気がしました。どこか、その音韻が、怪物の本質的な性質をそのまま象っているように感じたからかもしれません。
「そういえば私は、この悪魔について、何も頓着していなかったわ。だって、ハルロスだって伝説のように描いているもの。でも、あの天女も言ったし、あのハオスも呟いた。何かぞわぞわするね。でもどうすればいいのか、よく判らないわ」
「ハオスに任せるべきだろう?彼は専門家らしいから。少なくとも、オグについてはね」
「でも、やっぱり私たちも知らないと、予言が本当はどうなんだかわかりゃしないよ」
「その通りだね。もう一度、彼に会うべきだわ」
 そう言い切った時、イアリオの中で、一つの単語が浮かび上がりました。エアロスという語です。
 彼女は、もう少し二人に説明しておかなければいけないことがあると思いました。
「ところで、まあ俺たちに関係あるかわからないけど、少し奇妙な話を聞いたんだ。しゃべってもいい?」
 レーゼが出し抜けに言いました。
「その話、短い?」
「そんなに長くはないさ。ハリトは、もう洞窟探索の計画を立てたくてしょうがないわけだけど、ちょっとこっちの話にも付き合ってくれないか」
 彼の態度は、どうしてもこの場で話さなければならないという感じではありませんでした。しかし、イアリオは耳に留めました。ハリトは落ち着きなさげにそわそわしました。
「どうぞ」
「…実は、あの後、親父の仕事についていった時にさ、おかしなもの見つけたんだよ。こう、凍っていてさ、鉱物のようなものなんだけど、銀色なんだ。親父に見せたら『これはフュージだ。銀に近い金属で、とても貴重だが、我々の技術では加工の難しい貴金属だ。普通はうんと深層にあるものなんだが、稀に地上に突出する。』親父は山の技術者ではないからそれ以上のことはわからなかった。でも気になって、工夫たちにも訊いたら、『それは縁起の悪い代物で、地面の上で見つかればいいが、山の中で見つけちゃならない。』と言ったんだ。もう一度尋ねたら、『かつてそいつを持って工夫仲間が深い坑道から出てきたことがあるが、そいつは数日のうちに死んじまったからな。奴はずっと行方不明で、見つかった時は、ひどい空腹でやつれちまったんだよ。それでも奴は代物を手放さなかった。まるで魅入られたようで、それを見つけたから、穴から出られなくなったんだとよ。銀色のフュージは蠱惑的な悪魔めいた光をしていて、空腹よりも腹を満たしていたというんだが、それは闇の中で見つけたからさ。それは暗がりで見ると最も輝くというからな。』本当に奇妙な話だった。坑道は洞窟じゃない、俺たちが人工的に空けた穴だけど、もしかして、これから探検に行ってそいつに出会うかもしれないと思って」
「いいこと聞いたわ。ありがとう」
 イアリオは一瞥もしない答え方をしました。レーゼは話をやめましたが、隣にいるハリトの反応を見てみますと、今の話を聞いて、ちょっと興奮しているようでした。
「いいえ、今の話、大事ね…何か引っかかるところがあるわね。ハリト、そんなに洞窟の奥に関心を持っちゃ駄目よ?私たちは、安全に行くんだから。あそこに行こうとしている時点で、もう安全ではないにしろ、フュージに囚われた人のようになってしまうわ」
「俺も同感だ。そうならんように、今ここで注意してやったのに」
「大丈夫、大丈夫!だって二人ともいるんだもの。さあ、探検の計画を立てようよ!」
 イアリオは仕方ないな、といった息のつき方をしましたが、レーゼは心配そうに相手を見つめました。三人はまたハオスと会ったあの地下道へ行くか、それともかねてよりの目的だった使用人宅の洞窟へ行くか、相談しました。結論は、使用人宅の洞窟の方へ向かうことにしました。ハオスにはいつか色々と尋ねるつもりですが、その前に街やそのさらに地下の事を自分たち自身が詳しく知っておくべきと思ったのです。彼よりも自分たちの方が明らかに情報不足だったからです。彼にまた質問しても、前のようにあしらわれるのが関の山でしょうから。
「彼は、ここで起きつつある現象は、我々の知識を超えていると言ったわ。彼にもどうやらわからないことがあるらしい。でも彼は、わからないことは私たちではなく議会に訊くでしょう。私たちも議会に尋ねたら早い問題もあるかもしれない。でも何でもそんな風にはできないわ。自分たちで調べた方が、効率の良い場合だってある。何より、私たちはこのメンバーで独自に調査しようとしているんだからね。味は、人それぞれで違うものだわ。人の味覚は、比べることができない。何を言いたいかというと、こっちの知りたいことを相手から聞き出すには、こっちも相応の情報を持っていなければならないということ」
「味?」
「相手好みの調味料を、色々揃えねばならないってことさ」
 レーゼにフォローされて、イアリオは舌を出しました。今の喩えは、あまり良くないと自分で思っていたのです。
「でもその前に、私からもしゃべりたいことがあるのだけど。いいかしら?」
「行く前に?」
「ええ。時間が来たから今日は解散するけど、探索の前に、私に少し時間を頂戴?」

 後日、彼らはいつもの穴から地下へ潜る前に、東の市場から少し離れた、誰もいない空き地へやって来ました。建物に囲まれたその一角には奇妙なオブジェが座り、万年影をつくっていました。オブジェは北の山地の麓にいる狩人を象ったもので、いつからここにいるのかわからない石像でした。
 イアリオはその像を撫でました。石の狩人は脚や腕が実物よりも短めに彫られ、ずんぐりしていました。槍を持ち、盾を構えています。しかし、顔は無く指も分かれていませんでした。まるでその石が人を真似て、このようなポーズを取っているようでした。
「気味が悪くない、この像?」
「だから、いつも人気がないのよ。ごめんね、この辺りでひそひそ話ができる所って、ここしかなかったものだから」
 イアリオは一旦、頭を下げました。はらりと縮れ毛が首元から顔の横に垂れ下がりました。そのままじっとして、頭を上げた時、彼女の眼は曲がることのない強固な意志を湛えていました。
「ここまで来るのに、長かったわ。私の中だけで行われていることだったけど、やっぱり、どうしても言葉が響くの。いいえ、どんな話も、どんな現象も、頭の中で整理されていく。まだわからないことはたくさんあるけど、わたしの中で一つの方向を示すのよ。ピロットのこと、シュベルのこと、それに地下のこと、あの天女のこと、シャム爺の話、母の話、テオルドの言葉、あなたたちと出会ったことも。方向はわかるの。一体どっちを指しているか、それははっきりとしている。でも私の中で整理したくなかった。わからないままでいたかったわ」
「それは、何?イアリオがピロットや幽霊たちを供養することじゃないの?」
「ええ、そうじゃないわ。そうしようとしたら、あの白霊たちが出てきたでしょ?でなければ現れて来ないわ。私に必要なのは知ることなのよ。いくらでも苦しんでも、そうしなければならないのは解ったわ」
「どういうこと?」
 イアリオは自嘲気味に笑いました。
「奪われたものは取り戻さなければならない。確かなものは手に入れなくてはならない。己の行いが、結果を生み出し、かの者の行く末を決めていく。いかなることになろうとも、異常なる気持ちになったとしても。運命は過酷だが、受け入れるだけの強さが人にはある。かの者の犯した罪は、いかにも償われる。いかに望もうが、拒もうが。
 …今言ったこと、断片的で、何だかよくわからないでしょ?でも、これはある伝説の中で語られたことなの。この世の中には宗教というものがあって、あなたたちも習ったと思うけど、神様や精霊や怪物など、目に見えない者たち、見たことのない者たちを信ずる習慣があるわ。信者らは、その信仰の中で生活を行っているの。彼らにとって、神様たちがいることが、自分たちの生活を守っているように感じられている。私たちにはそんな習慣はないからよく理解できないと思う。目に見えない者を信じるなんて、そうそうできることではないからね。いい?でも信仰は、大きな一つの物語の中で、生きるようなことなんだよ。神様がいるという理解が、人の助けになるの。どんな物事にも事件にも、神様の影響を見られるから。そして、説明ができるから。人は、何だか判らないものを見ると途端に苦しくなったり、不安になったりする。安心させるの、神様の存在は。そして、信者たちにはなくてはならない存在になる。それなくしては生きていけなくなるくらい、恐ろしい、怖い存在にもなる。
 ふるさとは、子供時代を過ごした場所のことだけれど、心のふるさとにそれは成り得るの。母親のようだといえばそう、父親のようだといえばそう、いずれにしても、ふるさとは今の自分を成り立たせているものの源だと言えるね。神や霊や怪物は、皆そんな要素を持っている。だから、人は、それを信じられるんだ。自分のふるさとをそれの中に見出すんだ。大きな山も、滔々と流れる川も、太い幹の樹も、広々とした湖も、人間にとって印象深いものは、彼らにとって信仰の対象だ。その中に、神や怪物も見る。自分の位置づけを、その中に見つけ出す。
 エアロスの伝説というものがあるわ。それは、そういったことを伝えているの。エアロスの伝説、これは、神話がなぜ生まれたか、どうして人は神を信仰するようになったかを、人間の物語にしているお話なの。私はまるで、その伝説を、今生きているような感覚なの。それは、あの天女と出会った瞬間、頭の中に閃いたわ。そして、白い光たちがいなくなって、私は確信をした。どうにも抗えない、拒めない、逃げられない、これはさだめだって」
 イアリオは額に風邪っぽい熱を感じました。鼻の奥がつんと閉じて、軽く痛みを覚えました。感覚…それは、人間が世界を知覚する、大事な要素です。
「エアロスは、風神様の名前なの。破壊と滅亡を司る、恐ろしい存在で、実は、どの宗教の神話にも出てくるの。名前が変わっている場合がほとんどだけれど、宗教の中で、それは崇め奉られた神であったり、巨人であったり、また敵として捉えた悪魔だったりしている。どちらにしても、無視できない相手と言うべきね。エアロスは、古い古い神なの。だって、どの神話にも現れるなら、どの神話よりも、成立は古かったと考えられるでしょ?彼にはイピリスという対になる神様がいた。一応『彼』と言っておくけど、これには諸説ある。エアロスが女性で、イピリスが男性であることもある。どちらにしても、彼らが対になるから男性・女性を当てはめているだけね。で、イピリスは雷神様の名前で、司るのは創造そして再生の力だった。ほら、風と雷の関係を考えてごらん?風は、暴風となるとすべてを粉々に壊してしまうよね。ところが雷の落ちるような激しい雨の後は、実りが豊かになるわ。風が嵐を呼び、稲妻が実を実らせる。二つは一つ、一蓮托生だ。どちらか、片方だけということはない」
 イアリオは言葉を置いて、それぞれの反応を見ました。歴史の教師としての知識を用いた軽い授業でしたので、まるで教室でそれを行っているように、教える癖が表れたのでした。
「ごめんね。かなり、早めに話を進めてしまっているわ。時間もないから、こんなペースだけど、肝心なことはこれから話すの。エアロスは破壊の神様、でも名前を変えて、それぞれの神話の中にもいると言ったね。それと全然関係なく思えるかもしれないけれど、こんな話がある。病で滅びた、都市のお話。聞いたことあるかしら?アバラディア古王国という国が、昔あってね」
 ハリトが手を挙げました。
「先生の授業で出てきたよ!」
「そうだったね。改めて話しましょう。かの国は逃亡者たちの国だった。逃げて逃げて、彼らは森林の奥地に隠れ住んだ。そこでのちに繁栄したけれど、ある日、一人の男によってもたらされた病気で全滅してしまうの。彼らの栄えた年月は、およそ五百年を数えた。でもその間、人口は一旦ピークを迎えて、ゆるやかに減少していったの。最後の日の間近には、ほとんどが老人ばかりになっていて、子供たちは少なかった。病気が入ってこなくてもおそらくは亡んだでしょう。彼らに病気をもたらしたという男は、森林を開拓しようとしていた。新しい土地を切り拓いて、活気を取り戻し、国を再び繁栄させようとしていたのね。それだけ、深刻な情勢だった」
「でもそのために、周りにあった厄災を呼び込んでしまったんだよね」
「そう。男は国の周囲にいる者たちを怒らせてしまった。彼の国の周りを取り囲んでいた者たちは、ずっと彼らのことを監視していたの。なぜなら、彼らは罪びとだったから。森に逃げ込む前の国で、彼らは一人の王者を祭り上げて、それに付き従わない人たちを虐げた。そのやり方が、神様も目を背けるほどだった。後に彼らはその国を追われ、どの国からも追い出されて、ついに毒の沼地を越えていかなければ、新しい土地に行けなくなってしまったの。けれど彼らはそこを越えて、安住できる森林を見つけたわ。
 でも彼らの罪は、それ以後もずっと許されなかったの。その森林から、出てはならないという呪いを掛けられたのよ。森を切り拓こうとした男は、この呪いを打ち破ろうとしたわけだけど、反対に不幸を呼び込んでしまったの。隠された罰が、潜んでいた彼らへの審判が、五百年たって、下されたの。…と、いうお話!実際にアバラディア国という国は、病で亡びている。だけど、物語になっているのは、こうした、目に見えない者たちの力に基づいたお話なのよ」
「イアリオは、何を言いたいの?」レーゼが憮然と言い放ちました。「なんだか回りくどいよ!本当、天女の言葉を確認するために、どんな整理が必要だったかわからないけど、どうせやることは決まっているだろう?心の準備はイアリオの中だけのことで、俺たちに、それを知らせる必要はあるのか?」
「ええ、あるわ」イアリオはきっぱりと言いました。「よく聞きなさい。それで、アバラディアの国は亡びたけれど、たった一人、問題を引き起こした男は生き残ってしまった。だけど、その男の血の中には、彼らの生命を奪った病に効く薬が生まれたの。つまり、血清だね。彼は、その血の薬でもって多くの人たちの命を救っていく。つまり、そうして彼らの罪が裁かれたということなのよ。エアロスは、このお話の中に色濃く潜んでいる。なぜだかわかる?破壊と再生、この構図は、どんな神話の中にもあるけれど、アバラディアの事件を人々は、その構図で観察して理解したのよ。つまり、病という嵐がエアロスで、その後の血の血清が、イピリスというわけ。単純なこの構造、物語の型でもあるけど、人間が人の歴史を消化する時に典型的に使われる技なの。悪いことをしたら裁かれる。繁栄は永遠ではない。しかし、亡びても、生き残り、また再興する。エアロスの伝説…」
 イアリオは、思い詰めたような視線を下に落としました。それで、レーゼがはっとわかりました。
「それは、人間が、歴史を理解するための方法だというなら、どうしてイアリオは、逃れられないとか、さだめだとか言うの?あのわけのわからない亡霊たちの言葉が、本物かどうか確かめに、俺たちは行くんだろ?」
「本物、だよ」彼女は苦しげに言いました。「間違いないよ」
「どうして?」
「そうでなければ私たちの前に現れたりしないからよ。でなければ、幻。私はそうしたかった。はっきり言って私は自分を後悔したわ。あの現象に立ち会ってしまったことを。だから、否定できる材料を今まで探していた。今回も、そのつもりだった。でもハオスと会ってしまった。私たちの空想だけが、空回りをしていて、何かそれに唆されていたんだと結論づけられなくなってしまった。私はあの場所で揺るがされた。あの瞬間、私には自分の運命が感じられた。白い光たち…あの美しい天女…皆私へのメッセージだった。そしてあなたたちへの。そして、もしかしたらテオルドへの。エアロスは、単なる物語の道具ではないの。その言葉が使われる時は、人間が、その事実を最もどうしようもないものと捉えるからなの。それは、本来は神様の名ではないの。言い知れぬ力そのものの名なのよ?その言葉自体が、能力を具えるような、呟けば、真実になるような。詩と同じ力。魔術と同様の性質だ。だから、私はこの名前が自分の中に浮かんできた時、慌てて否定しようとした。でも、そこにあった。否定できなかった。だから私は…気絶したんだよ」
 きっとわけのわからないことを言っている。イアリオはそう思いながら子供たちに訴えていました。何しろ自分の感覚のみにある、真にどうしようもない事柄だったのです。
 いいえ、同じ時、彼女と同じ感覚を振りほどきたかったのは、実は、レーゼも同じでした。ハリトは違いました。彼女は違いました。
「イアリオは、俺たちが近くにいると負担かい?」
 レーゼが尋ねました。
「ごまかしたいなら、そうすりゃいいさ。俺たちがいると、ごまかしが効かなくて、それで、もっと苦しむことにならなきゃいいが」
「いいえ、私の思い込みと理解したかっただけだわ。私は逃げたかった、ただそれだけ。こんなこと、どんなお話にも出てはこないけれど、もし私だけの物語があるとすれば、その中で、織り成されているだけだわ。だから、もう…」
 イアリオはうつむき、先程の表情とはうって変わって、やつれて萎びた雰囲気になりました。
「エアロスは、人間の逃れられない運命を指す時に使われる言葉なの。それが本当。物語の型って、説明のために用いられるけれど、当事者たちの感情や心地を、これだけ正確に伝えられるものはないところに、かの苗字はあるのよ?奪われたものは取り戻さなければならない。確かなものは手に入れなくてはならない。己の行いが、結果を生み出し、かの者の行く末を決めていく。いかなることになろうとも、異常なる気持ちになったとしても。運命は過酷だが、受け入れるだけの強さが人にはある。かの者の犯した罪は、いかにも償われる。いかに望もうが、拒もうが。
 …力が抜けるわ。それって、否定しても、それが本当だと後になって判るんだわ。かの名前は…そしてその伝説では、ね。いいことを教えましょう。エアロスは、イピリスと何度も喧嘩するの。何度も何度も繰り返し。その姿勢は残酷で、無慈悲で、畏れ多いものだった。でも、彼らから子供が産まれようとする。誕生した赤ちゃんは、ビラウドと名前を付けられる。ビラウドはある時、誰かに奪われる。父親と母親は、自分たちの赤子を捜してともに奔走するが、いつしか、どこかで成長したビラウドの産んだ赤ん坊が、そしてさらにその子供たちが、地上にたくさんいるのを見た。そして彼らは、自分たちの罪をそこに産み落としたと理解した。ビラウドの息子娘たちが、彼らの意に沿わないようなことを行っていたから。二人は腹を立ててしまって、ビラウドの子供たちに、強い仕置きをした。子供たちを粉々にしてこね回して、新しい命に生まれ変わらせた。それが私たち…人間だったとされる。
 いいえ私たちは、伝説上ではあるけれども、彼らに何度も砕かれて、その度に新しく作り直されている。エアロスは、私たちを砕く力、そしてイピリスは、私たちを新しいものへ変える力なの。
 ところが、混乱させてしまうけれど、このお話は、神話ではなくて、人間が作り上げたと序章に、そして終わりにはっきり言っているの。人間が、自分たちの側から見た世界を神話化してみたら、このように見えるだろうという伝説なの。その中で、彼らにとって、エアロスは言い知れぬ力自身で、イピリスは破壊の後の再生に思えたわけよ?でもこの伝説の成立は、どんな神話よりも古いものと証明されていて、人間が自然現象に神や精霊を見出す時、自ずとその型が表れるから、人から人へと受け継がれる物語の構成に不可欠な、より深層のストーリーだと思われている。実際、エアロスとイピリスは、私たちの暮らしの間でも使われている言葉だわ。たとえば、種を撒く(彼らの発音ではインピリオー impiriô)、開花(イピリスタル ipiristal)、それに暴風(エアレテズル earetezl)、暴れ回る(エアロストロ earostolo)などだね」
 子供たちは、同じ言葉を発音してみました。すると、イアリオから聞いたせいでしょうか、エアロスやイピリスという奇妙な神々の力の息吹が、その語群に乗り移って感じました。
「判った?私の感覚。その言葉は、自ずと力持つ本当に詩の言葉なのよ。奪われたものは取り戻さなければならない。確かなものは手に入れなくては…という詞は、エアロスとイピリスが、自分の子供たちに絶望した時に、歌った詩。原文はもっとこう、力のある歌なんだけれどね、現代語に翻訳してしまうと、少し味気なくなってしまうわ。残念。でも、その歌は実は人間が自分たちを見て作ったということなのよ。それってどういうことだと思う?昔の人たちが、それほど自分たちにひどいものを見つけてきたということよ。それは、きっと私たちと同じ感覚であると思うの。この町は、私たちの先祖がしてしまった罪を隠そうとした。その事実に、ずっと怯えてきた。エアロスの物語を作り上げた人々も、そんな気分でいただろうと私には思われる。だから…ああ…あの天女の言った言葉が、頭中に響くの。エアロスのお話とそれが重なるの。どうにも仕様がない、のがれられない、逃げられないことだと思ってしまう。
 それはきっと私だけの感じ方だと思う。私はこれに向き合いたくなかった。私だけが、向き合っていると思うから…でもそばにあなたたちがいて、あなたたちも、あの言葉を確認したいと言ったわ。私は嬉しかった。あなたたちから、勇気を貰ったと思ったわ。一緒に来れば、私自身がするべきことも、私自身が知らなければならないことも、きっと、確かめられると信じた。そしてその通りになった。これからもしばらくはそうしていくんでしょう。どうだろう。私の言っていること、よくわかった?」
 イアリオは、情けない視線で彼らを見つめました。二人は、雷に打たれたような面差しをしていました。彼らも、この町の住人だったのです。彼女から町の来し方を聞いたのはおよそ半年前のことで、彼女とともに下の街へ赴いたのも、わずか数回でした。けれども、彼女の人生を聴き、共にピロットの行方を探すうちに、彼らの意識は、相当イアリオと重なることができました。今、エアロスという言葉が自分たちの使用する言語に具わっていることに気づいて、彼らはその言の力強さを感じて、あの時、イアリオが気絶した理由を皆聞いて、納得しました。彼女が否定したかったものは、今の自分でした。この感覚を認めてしまえば、どうしても変わらざるをえない、あの天女たちの言った通りの事が起きるに際して取らねばならない彼女だけに用意された態度と思想を、探らねばならない、きつい暗い道のりを歩まねばならない、その冒険に挑まねばならないという、あらゆる束縛と限定的な選択を、呑まずにはいられない決断を迫られるものでした。イアリオは、これらを夢であればいいと思いました。しかし願いこそ叶うものではありませんでした。彼女の前にそれは現れたのですから、それは願う以前の願いでした。ピロットの無事をお願いした時に、彼女は自分の声が天に届いたと思いました。その応答が来たのです。現実の声でもって、夢幻のような現象でもって、しかし、どうしようもない本質の感覚をもって。
 奇妙な狩人の石像が、彼らを下から眺めていました。
「私の話は、これで終い。さ、行きましょう?」
 イアリオは二人の顔を覗いて、窺いました。二人とも頷きました。イアリオの運命を、自分たちも共にしているのだという、不可思議な感覚の間で、彼らはそれぞれにあることを考えました。ハリトは、どこまでもイアリオについていきたいという願望を、心の中で確かめていました。レーゼは…あの神秘的な入江で、一つの決意を示したその横顔を思い出して、この人を大切にしたいと願いました。地下に下りれば頼りない灯火が、足元を照らします。彼らはそこを怯えながら歩かねばならないはずの小さな人間でした。しかし、今は、明らかに不思議な守りを感じながら歩けました。煙突の入り口から、街の東の工場地区から、三人はかつてテオラとハムザス、そしてカムサロスが幽霊に出会った使用人宅地下の洞窟を目指して進みました。目的は、ハオスと情報交換できるような素材を探すことです。以前悪霊と彼に出会った、崩れた壁の向こうの地下道を横目に、暗闇をずっと行くと、イアリオにとって昔懐かしい、十五人の子供たちが遊んでいた界隈に辿り着きました。イアリオの心に様々な思い出が蘇りましたが、ピロットも彼女の一部となった現在に、迷いはありませんでした。彼の幻影は追いかけませんでした。
 大屋敷の隣側、平たい屋根の住宅に、三人は乗り込み、廊下の突き当たりの床板に、階段が下に続く扉を見つけました。彼らは扉を開けて、中に入りました。十一年前、そこから白い風が起こり、ころころと香水を入れた小瓶が落ちていったその先へと、彼らは進みました。真っ暗闇の終点に、金属の取っ手のついた緩そうなドアが、炎にほのぼのと浮かび上がりました。しかし、前と違い幽霊たちは何一つ物言わず、ただ、じっと炎を避けた所で息を潜めていました。
 無数の目が三人を見ていました。ですが、目は何の力も持たず、なにか待っているかのように、穏やかでした。
 じめじめとした洞窟の空間が、この向こう側に開けています。イアリオたちは、ドアの取っ手に触れました。ゆっくりと、慎重に扉は開かれました。
 ギイ…
 彼らは耳を澄ませました。涼しげな湿気が肌を撫ぜました。そして、空気も背後と頭上の都にいた時とは違う、流れと澱みとを感じました。死滅した都市は、海辺の水の他に動く者はありませんでしたが、ここには生き物の気配がありました。
 イアリオは先頭に立って扉の隙間から火をかざしました。ごつごつした岩壁が左右に開ける、影の多い、古い場が、眼前に広がりました。すると、その瞬間、彼女の視界が果てしないいにしえに下るように、景色がそれとつながるように、すさまじく反転しました。彼女は危うく、卒倒しそうになりました。
(ヴォーゼ)
 果てしない場所のどこかから、彼女は一人の人間の名前を見つけ出しました。そして、(アラル、アラル)天女たちと出会った時に呟かれた、もう一つの名前をも思い出しました。イアリオは強く目を瞑り、首を振りました。
「イアリオ?」
 彼女の背後から一歩前に出たレーゼの爪先が、何かに当たりました。こつんと飛ばしたそれは、ころころと転がりました。そして、軽やかな音の反響の後、存在の気配が三人の素肌を撫でていきました。彼らはぞくりと身を震わせました。しかし、その気配はすぐにいなくなりました。
「すまない。足元にも注意、か」
 レーゼはそれだけ言いました。彼がそれ以上言わず口を塞いだのは、今のまったく小さな声すらも、この黒い闇を震わせてしまいそうに思えたからでした。ですが、彼の声を聞いて、イアリオは自分がかつてこの場所にいたような気持ちになりました。どうしてでしょうか、そんなことは、思い出しても経験上ありませんでした。
「私は、この洞窟を…知っていた?」
 彼女は小さく呟きました。そして、また、否定しました。ですが、先程から、しつこくあの二つの名前が双子星のようにゆうらんゆうらん揺れていました。地球と月の関係のごとく、それは切っても切り離せない物事のようでした。ヴォーゼ、ヴォーゼ。アラル、アラル…。
 イアリオは無意識に胸がいっぱいになりました。この場所だからこそ、それは、こちらに向かって正確に働き掛けてくるかのようでした。彼女は眉をしかめ、うつろになった意識を正そうと、努めて冷静であろうとしました。その時、ハリトが二人を触って、黙ったまま指先で洞窟の一方を指しました。
 炎の灯りの届かない所に、ぼうっと白いものが浮かんでいました。明らかにそれは、生きている者ではありませんでした。ハリトはそれに怯えました。いつもの気丈な彼女であれば、恐るるものは何もないといった態度を取りましたが、今は、レーゼたちの背後に隠れてしまいました。ですが彼女は白いものに怯えたのではありません。自分の臆病さがつと発揮され、それに、唆されてしまったのでした。
 イアリオは注意して白いものを見つめました。扉の取っ手に手が掛かっていました。いつでもそこへ逃げられるように準備して、ゆっくり近づいてくる靄を待ち構えました。
「あいつだ。ハルタ=ヴォーゼだ」
 レーゼが言いました。彼女ははっとして靄の中を見据えました。白い幽霊が、さらに白っぽい光を纏っていました。確かにそれは、あの天女でした。ですが、あの美しい容姿は影を潜めて、がりがりに痩せた頬をしていました。その顔に浮かんでいたのは死相でした。天女と呼ぶより、まさに死霊でした。
 彼女は三人の前を通り過ぎようとして、ふらりと目をこちらに向けました。「アラル」幽霊の呟いた言葉に、イアリオは過敏に反応しました。冷気がたちまち足元に漂い始めました。彼らは身の危険を覚えました。レーゼはイアリオの手の上から扉の取っ手を握り、その中へ隠れてしまおうと他の二人を誘いました。ところが、イアリオは彼の手の平の下から手を抜き取り、まだだという意思を示して、その手の上に重ねました。彼女は松明を背後のハリトに任せました。
「お元気?あなたの託した言葉のお陰で、私たちはこんな所まで調べ回っています。でももう少し詳しく教えてもらえないかしら?あの宣告だけじゃ、これから私たちがどうしたらいいのかよく判りません」
「影に、呑まれた、影の人よ。もだえるがいい。そのために私は宣告をした。今は、まだ呑み込まれる時ではない。しかしいずれ、途方もない過去が姿を現す。すべてが何かを望むのだ」
「何かって何?やはり、上の町は亡びるとでもいうの?」
「町はもう亡びた。そしてこの足元の地面も」
 亡霊は糸のようにか細く切れ易い声音で話しました。
「オグは呼び覚まされてしまった。いいえ、あなたが、かの怪物の呼び掛けに応えてしまったのだから。強烈な悪意に苛まれてしまったあなたは、我々を裏切った。村を陥れる邪悪な種子を残して、あなたは立ち去っていった」
 イアリオは戸惑いました。まるで身に覚えのないことを話されて、返す言葉もありません。
「この町は滅びる。滅びなければならない。なぜなら、行き過ぎたがゆえに、取り戻す必要があるからだ。悪は変わる。変わらなければならない。破壊は再生のしるし。天秤の如く揺れる動きの中に、もはやこの国はいないから…」
 幽霊はごつごつした岩の天井を見透かしてさらに先の、はるか高い空の奥を見上げました。そこには星になった者たちがいました。思い残して去り切ることのできない、昔の霊たちです。彼女の視線は少し下って、北の山脈の頂上を見通しました。そこには白霊たちの吹き溜まりがありました。大いなる循環の渦に、呑まれることのない、いまだこの世をたゆたうばかりの、信じられないほどの時間を過ごした魂たちでした。
 幽霊は消えました。驚いたハリトとレーゼが灯をあちこちに向けて探しましたが、魔法のように女はいなくなりました。
「何が起きてるの?」
 その呟きに答えたのは、ただ物言わず揺れ続ける灯のともし火だけでした。
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