第3話 死者の骸

文字数 30,167文字

 子供たちは一斉に外に飛び出しました。長屋風の教室から、明るい広場に駆けていき、そこで思い思いに絵を描き始めました。炭を柔らかい葉でくるんだ簡素なチョークで、石板の上に模様を書くのです。
 模様は、町の人々の服装に大事なアクセントを加えていました。それは、袖回り、首回りにつけられた折り返しにあしらわれていました。彼らの衣服は簡素なのですが、持ち物や袋にはさまざまな意匠が施され、おしゃれの一環になっていました。今流行なのは半円を組み合わせたもので、藍地に赤い花の色を合わせて柄を楽しみました。彼らがいたって簡潔な衣装を好むのはわけがあり、それは万が一海の外から見られてもなるべく目立たないように工夫するためでした。彼らは町や海辺の近くにこれ以上入ってはならないという印をつけていました。高い壁であり、尖った柵であり、看板でありました。子供たちの中で海を見たことのある者は稀でした。彼らは海にほとんど興味を示さず、見たことがあってもなくてもどうでもいい世界でした。大人たちの言論のコントロールもあったのでしょうが、極端な欲望の統制が子供たちにも影響して、彼らから外の世界を思う心を奪ったのは事実です。粗末な物語をたくさん聞かせるとおなかいっぱいになって、憧れを遠ざけられる…そうした働きがありました。海の物語はこの町に溢れかえり、そのための小説家もいるくらいで、毎晩語られるそれらの話は、子供たちにおもしろくなさを提供しえたのです。
 これは、はたして確かに大人たちの目論見であったのですが、何もかも計算ずくの行為には、必ず抜け穴があるものです。稀に外の世界に憧れを持つ者がおりました。彼らは自分の運命をいかにもよく理解しているのですが、感情や激情の方が嵩じて、夢を見る意志に突かれて出ていった者がいます。無論、彼らは厳しい刑に処せられ、そのほとんどが命を落としました。
 などという暗い掟はさておき、子供たちは楽しんで模様を描いていました。中でも十五人の子供たちの絵が、皆の注意を引きました。別に彼らは互いに申し合わせたわけではないのですが、あの地下の印象を、そのまま絵にしたのです。
 その絵はなんとも神秘的で、個性溢れる図柄でした。イアリオの描いたものは、三角に四角を合わせた洞窟を思わせるもので、かなりの喝采を浴びました。新種の図柄だと先生は言い、将来洋裁の仕事をしてみないかと誘われました。ハリトなどは絵が上手でしたので、図柄というより本格的な風景画を描いていて、それがあまりに出来がよかったので、他の子どもたちはどきどきしました。けれど、それが地下都市を描いたものだとは大人も思いませんでした。彼の描いた絵は、明るく秩序立っていて、無限の街並みが続くかのようだったからです。
 ところが、この十五人の絵に共通点を見出す子供がいました。彼はしつこく授業中でもどこへ行ったのか、何をしたのかと、テラ・ト・ガルのメンバーに訊いてきました。しかし、誰も口を割りませんでした。
 三度目の探検の日がやってきました。イアリオは他のメンバーから遅れて集合場所にやってきました。息も絶え絶えになって、必死に誰かの追跡を振り切ったかのようです。「どうしたの?」テオラが訊きました。彼女は手を振ってなんでもないと答えましたが、実は家を出る時から、彼らの絵に疑いを持った少年に追いかけられていたのでした。
「大丈夫、撒いたわ。少しだけ気をつけた方がいいかも。しばらくはそいつ、私たちのこと見張ろうとするわ」
「さて、皆、それぞれもう一度あの穴の奥に突っ込む勇気は持っているかい?」
 ラベルが全員に訊きました。無論そのつもりだと誰もが言い返しました。
「よし。それでこそ『皆』だ。いいかい、慎重に、だぞ?でも、時に大胆にだ。この前のヨルンドの行動は誉めるに価する。その結果、僕たちは得難い恐怖と驚異とを目の前にした。けれども、今、ここにこうしてまた集まっているんだ。皆の勇気に、祝福がきっとある!」
 彼は一本指を示し、高々と空に向かって掲げました。この大仰な仕草にも子供たちは胸を熱くして見入りました。自分たちの意思が、一つにまとまって、いざ地下に臨もうとするとき、普段より以上の力が身に射しているように感じたのです。
「行こうか!」

 その国はもう名づけられていました。十五人の王国は、人の住まない死に絶えた領土でしたが、遊びの空間としては申し分ありませんでした。ただの遊びにすぎなければいいのですが、そこは否応なく引き込まれ、からだとこころをぶつぶつと刺激する危うい魅力に大変満ちていました。子供たちは、そこでまず地図作りに精を出すことにしました。建物の中に入ることは今のところしません。機会をみて、またいつか入るでしょうが、トクシュリル=ラベルがそう提案したのです。この街で何かの死体に会うなら、建物の中よりもどこかの街路の方がまだ心理的対策は立てられるだろうと彼は思いました。道があれば逃げることができます。壁があると、逃れられなく思うものです。
 石版はこの町で一番ポピュラーなノートでした。そこに、絵を描くときもそうですがチョークで線を書きます。彼らは鞄に真新しい石版を所持し、地下の入り口へつどっていました。この前の調査で見たのはほとんど出口から離れていないわずかな区画でしたが、それでも街路がどのように通じているか雰囲気がわかるところまで来ていました。ラベルたちは各自がどの道を調べていくのか話し合いました。候補に挙がったのは三本の太い道で、まずその周囲から調査することにしましたが、あまり深く入り込まないように、皆で注意し合いました。ラベルの忠告は、皆に浸透し始めていました。慎重に、慎重に…それは、彼らの口癖にもはやなっていたのです。
 太い三本の道は後に合流して一つになり、そこから先はやや小ぶりの住宅が立ち並ぶ区画となっていたので、子供たちはとりあえずその手前までの細い道筋を調べて地図に書き込みました。その日の調査でこの辺りの一角はすべて埋まりました。あとは、建物の形や構図などを囲みの中に書き込むくらいでしたが、これはあまり子供たちの興味をそそりませんでした。探索に一区切りがつき、誰からともなくまたどこかの家に入りたいと言われ出しました。死体に出くわした恐怖は克服したとはいえませんが、それを超えてあまりある情熱が、彼らには宿っていました。子供たちは、これぞ調査に値するという建物をピックアップしました。どれもがこの界隈の大きな邸宅で、中でも関心を持たれていたのは左右に住居の分かれた広い敷地の豪奢な家でした。
 彼らはこの家に決めました。これほどに大きいのですから、大邸宅は勿論統治者の家でしょうし、お宝も、ひょっとしたらと期待できました。子供たちはこの屋敷を仰ぎながら、どんなものが中に見られるだろうと興奮しました。彼らは、この街がかつて海賊たちに建てられたものだと知っていません。ですから、寝る前などに聴いた色々な御国物語を思い描きながら、自由な想像を許されていました。しかし、前日の死骸にまた出会ってしまうかもしれない恐さとも闘っていました。ここで、ラベルがテオルドの言ったこととして「黄金がここにある」と言ったことについて、少しだけ説明する必要があります。テオルドは司書の息子で、よく父親の手伝いを任されていました。当然、古い書物にも目を通す機会があり、そこで黄金に関する記述のある文献にあたったのですが、この町の設立に触れた誰もが見ていいものではない文献は、彼の館になく評議会あずかりの書庫に保管されていました。なぜ、テオルドが「黄金がここにある」などと言ったかというと、クロウルダという神官が遺した本にそう書いてあったからでした。クロウルダは、盗賊二人組が調べたとおり、この町の設立以前、およそ五百年前にこの地へ来て、港を造っていました。彼らはオグという魔物を追ってこの地に来ていました。オグは、その本においてその名称以外にもさまざまに呼び慣わされましたが、なかでもテオルドの目を引いたのは「黄金を食し守る魔物」という言い方でした。彼は地下世界にそんなものがいるかもしれないことを伝えようと思って、失敗しました。小心が嵩じて舌足らずになり、「黄金を…守る都…」と聞こえるように言ってしまったのです。ラベルはこれを皆に伝えたのでした。けれど彼は訂正しませんでした。彼はこの地下都市に強い関心を持っていました。ですから、自分の口が誤ったなど探検が始まればどうでもいいことです。それに、もし記述が正しければ間違いなく黄金はこの街にあるでしょうし、いくら魔物がいたと書かれても、何百年の間にその魔物もきっと死んでしまったはずだ、もしかしたら誰かが退治したにちがいない、と思いました。彼は、海賊たちがクロウルダの街を奪ったことも知っていましたが、なぜ滅びたかは知りません。この都の有様を見て、とんでもないことが起きたのだろうことは想像にかたくありませんでしたが、海賊たちが逃げおおせて黄金を外へ運びすぎたとしても、まだ残っている可能性もあります。
 子供たちは、もし金銀財宝があるならば、どこか蔵の中なり豪華な部屋なりにしこたま溜め込まれているにちがいないと考えました。この地下世界を歩いていると、昔話が眼前に現れて、自分たちは大きな過去を今その足で踏み歩いているのだという心地がしました。彼らは、自分たちに期待をしました。今に大きな発見をするぞ、僕たちは!
 地図を書く作業はそれはそれでおもしろいものでしたが、相性悪くすぐに飽きてしまった人間もいました。サンパリヌ=ヒトロス=オヅカ、ソブレイユ=アツタオロ、セリム=ピオテラの三人です。ラベルは、彼らの様子をよく見ていて、もし建物の中を覗こうとするなら、まず三人にその役を負わせてみようと考えていました。意外にも三人は乗り気でした。飽きっぽい性格は気持ちの切り替えの速さをもっていることがありました。それは、どんなことも楽しむ勇気をもって臨む、前向きな姿勢にもつながっているものです。オヅカは若干の頭の足らなさがありますが、非常に真面目なところがあり、ラベルの忠告に一心に耳を傾けました。ピオテラとアツタオロは不真面目な性格ですが、二人そろえば矢でも鉄砲でも脅せない女のバリアを張ることができます。オヅカは彼女たちと相性がよく、違和感なく三人で調査を始められました。
 四面の外壁が素焼きレンガで固められています。内庭の中ほどに、噴水の跡のような空間がありました。その向こう、正面には立派な建物が両翼を伸ばしていました。彼らはこの邸宅に入っていきました。門は太い柱が倣岸に居座り、まわりに細やかな装飾があります。うねる波をモチーフにした線が、華麗に絡まっていました。扉は半分開けられた恰好で、彼らを見下ろしていました。三人はその隙間から入り、中の様子を覗くと、まっすぐに大廊下が伸び、左右に宴会場か会議室らしき広間が据え付けてあります。正面に大階段があり、左右に伸びた廊下の奥の階段は螺旋状に上の階につながっています。
 またどこかで死骸に会うかもしれないと、三人は固まったまま移動しました。恐怖と興味とが膠着した状態の、なんともいえない興奮にありました。オヅカは背も大きく、二人より頭一つ抜き出たところから、天井のある部分に黄金色の装飾を見つけましたが、大したことはないと思い、二人に黙っていました。三人はまず左側の部屋を見てみることにして、石壁の隙間から内部を覗きました。がらんとして気配はなく、たいしたものもある様子ではありませんでした。木枠の扉をそっと押し開け、入り口を突いてみますと、柱つきのカーテンが壁にかかり、不気味な沈黙を投げ寄越しました。その影に何かいるのか――子供たちはそうした目を壁際に投げかけましたが、何もいませんでした。
 すると、うっかり取っ手を放してしまったアツタオロの手が、びくりと飛び上がりました。ぼそぼそっと音がして、取っ手は腐り落ちてしまったのです。そして、扉ががたんっと軋みました。三人はえもいわれぬ恐怖に身を弾ませました。けれど、それで何も起こることはありませんでした。彼らは恐る恐る、その部屋をあとにしますと、反対側の、宴会場と思しき広間に向かい合いました。そちらに扉はなく、左の壁に四角い穴がぽっかりと三ヶ所空いています。歩み寄り、手を伸ばしますと、冷たい空気が穴から零れてきました。三人は立ち止まり、一斉に左側に視線を向けた途端、肩を強張らせ、身をぎゅっと寄せ合いました。二つの骸骨が、入り口から死角になっている壁にかけられて立っているのが目に入ったのでした。
 しかし、これはもう彼らの予想の範疇です。三人は恐る恐る骸骨に近づき、どんな様子なのか、詳しく見ました。一つの死体は首に鉤をつけられ、なんとも無残な死に様でしたが、もう一方の方は、滅びたあとに誰かが遊んだのでしょうか、罰当たりにもおもしろいポーズをさせて釘を打ち込まれていました。オヅカがそっとそちらに近づき、骸骨の脚を持って、からからと振り回して見せました。
 建物の中から笑い声がしたので、外で待つ他の十二人はほっとして笑い合いました。今度は僕が行く、私が行くと、順番をラベルにねだりました。
「そうだね、そうしようか。正面の大邸宅は…四人で、右側の、使用人宅かな?そっちには三人派遣することにしよう」
 許可されたのは、正面の方がピロット、イアリオ、テオルド、そしてハリト。使用人宅にはテオラ、カムサロス、ヤーガットの弟ハムザスです。正面の建物と比べてこじんまりとした家屋にも入っていこうとしたのは、そちらの様子も見てはじめて屋敷の主の正体がわかるだろうと考えたからです。
 外では雨が降り出していました。突然の大雨が屋根を打ち、遊んでいた子供たちは皆屋内に引っ込みました。地下世界にその雨は届きません。わずかに開いたドームの間から降り込んでもちらちらと散ってしまいます。この街にも水道の整備はあり、三百年前の機構が生きて、水を井戸などに流し入れていましたが、人工的に水を運ばなければそこは満ちませんでした。地下には霧の形をした魔物が棲んでいました。オグです。彼はさまざまなかたちを取りますが、今はぼんやりした白霧に化けておりました。
 盗賊のトアロとアズダルが鐘楼塔の高台に登ってこの様子を見ていました。霧は、ゆったりと彼らの侵入してきた神殿の方から流れ出て、街中にはびこりました。トアロはこの景色を眺めて、背筋が寒くなりました。あの霧が、生命持つ意思の存在だということに気がついたからです。
「あの霧に触れちゃ絶対にいけないぞ?」彼女は小声でアズダルに注意しました。「あれこそ魔物かもしれない。確信はないが、危険なものを感じる」
 アズダルもうなずきました。二人は一度外に帰って、付近の村に逗留しました。トアロは所持している書物を紐解いて何度も目を通し、必要な情報を再度確かめました。彼女がメモに写し取った、クロウルダの町や、オグについての記述も読み返しました。
「なんでも、あの化け物は人間の悪意の総体らしい。近くに人がいれば、そいつを喰らい、とりこにして、自分の代わりに悪を働かせるのだという。水辺を縫って進む習性があり、その姿は鯉、鳥、蛇、実態のないものに変化するのだ。ある町はこいつに喰われて人間が狂いだし、互いに破滅しあったということだ。悪は、人を惑わし、本来の生活をおびやかす。命を狂わせ、衰弱させる。やがて破滅が訪れる」
 トアロはぞくぞくとした悪寒に苛まれました。何度腕を擦っても、その寒気は取り除くことができませんでした。
「もし、あの霧がその魔物ならば…!て、確かめる手段はないのだがな。こっちが破滅しちまう。だが、ぐっと私の推測が現実のものだということができるようになるのだが」
「トアロは、冒険家だと思っていたが、その実は歴史学者じゃないのかい?」
 アズダルが訊きました。
「ハハ、そんな運命も残されてもいいのかもしれないな。生まれ変わったらぜひそうなりたいものだよ。今世じゃ無理だ。私は、根っからの盗賊に生まれついてしまったからな」
 霧は、子供たちのいる区画にも忍び寄りました。その脚は結構速く、流れる川のごときでした。人々の怨念が渦巻いています。それでなくとも、この街には人間の欲望が残滓を残して、ピロットに張りついた霊のように、処々にぼんやりと悪霊も住まっていました。いいえ、それだけではありません。もっと激しい、もっと力ある怨霊も存在しました。ここにはオグ、亡霊、悪霊どもがひしめきあっていたのです。
 子供たちはそうとは知らず、彼ららしい活力でもって暗闇を切り開いていました。ラベルに選ばれた四人は早速大屋敷に向かいました。彼らは一階の広間はアツタオロたちの調査域でしたので、二階の住居の方に行きました。三人と目を交わし、大階段を上っていきます。石段は重厚な古さを温存し、質素なあつらえはこの屋敷の持ち主の鈍重さか、もしくはセンスの良さを思わせました。
 階段を上りきると、ぱっと違った風景があらわれました。欄干に掛けられたのは様々な意匠の掛け軸で、統一感がありませんでした。床石には絨毯が敷かれ、虎の文様が施されています。それこそ豪華絢爛といった刺繍で目がちかちかとしました。これを見たハリトはうんざりした顔でした。彼の最も嫌う、装飾に凝ったけばけばしい物だったからです。しかし、彼は廊下の壁に掛かる額の絵を見て、目を輝かせました。紙に描いた絵は上の町にもあり、ハリトはそれがいくら色あせても飽きずに見るほど鑑賞が好きでした。彼は将来は絵描きになりたいと思っており、紙は貴重品なので絵を描くとすればまだなめした厚手の葉の上や石版や地面に描くくらいでしたが、色のある石や葉などを細かく砕いて水に溶かし、筆も自分で用意して本格的に取り組んでいました。ハリトは、地下にこんな立派な絵画が存在するならば、どうしてもっと早くここに来れなかったのだろうと、唇を歪め悔しがりました。しかし屋敷の壁に掛けられた絵は絵の具がいたるところはげ落ちていて、状態は悪いものばかりでした。ですが、絵描きの彼にはわかります。どれだけの価値がそれらにそなわっているのか。どれだけの技術がその絵たちに施されているのか。筆致、盛りつけた絵の具、構図、色、様々な要素がまとまりを持ち、その価値のほどを小さな絵描きに見せつけていました。それほどの絵画がここには掛けられていました。
 さて、美術品などに興味のないほかの三人はさっさと行ってしまいました。彼らは不思議なものを見つけました。ガラスケースに収められた数々の蒐集品を眺めたのですが、硝子を知らない彼らにとって、物の手前で炎の明かりが反射する様は、奇妙で不安な光景でした。ピロットがケースに触れようとしているのを見て、イアリオは慌てて止めました。これは十五人で取り扱いを考えた方がいい、そう直覚したのです。彼はおとなしく引き下がりましたが、また、しゅうしゅうと湿った蒸気の音が、彼の喉元から漏れ出しました。そのとき何かイアリオの足元を横切りました。彼女ははっとして床を見ましたが、通り過ぎたものの余韻がどことなく続き、彼女は注意深く周囲を観察しました。四角い窓の外から、まろやかな色の霧が遠くから忍び寄ってきているのを彼女は見ました。口笛らしき音も霧の側から聞こえました。ピロットも同じことに気づいたらしく、二人で目を合わせました。
「肝心の黄金は、この屋形のどこかにあると思うか?」
 ピロットが尋ねました。
「ううん。でも…見たことのないものがあったわ」
 彼らは同い年の幼馴染でした。少年は野性的な悪童で、周りの者をいじめ手を焼かすのに長けたおよそ子供らしくない子供でしたが、少女はそんな彼に魅力を感じていました。自分自身に好意などなかなか持たれたことがない少年にとっては、彼女の存在もまた貴重でした。彼は、彼女を無視できませんでした。何をしても、彼は彼女にとって許される自分だったと、どこかで理解していたのかもしれませんでした。
 それは二人の会話でした。そんな会話を、二人は誰ともしたことがなかったのです。二人は十二歳…この時、成長の早さで勝る、少女のほうが、おそらく自分の気持ちに早く気づいたでしょう。
 テオルドは、廊下の隅のドアに寄り、その取っ手に手をかけていました。二人の様子をうかがい、さあ、開けるぞと目配せしました。遅れてハリトがやってきて、四人はいよいよ死体があるかもしれない主賓室の扉を開けました。
 リリリン リリリン
 突然鐘が鳴り、テオルドは怯えてびくっと手を放しました。ピロットがさっと握りを掴み、そろり、と戸を押しました。戸つきの鐘はやがてからからとみすぼらしい音を立てて止まりました。目いっぱい開けた扉の向こうは、絢爛豪華、輝かしい品々が、当時の面影を残したまま、戸棚や豪奢な机の上に並べられていました。金に銀、あかがねに真珠、翡翠にパール、ルビーなど…彫刻の意匠に嵌められたそれらの輝石が、灯を照り返し、瞬きます。イアリオは、まるでこの部屋から声が聞こえてくるように思いました。いにしえの、故郷の、遠い遠い時代の声が…決してそれは、かつてのにぎわいや恋愛の甘い蜜の香りを漂わせたものではなく、この街で起きた悲劇、人々の怨念、心などが、わっと漏れてきたように思いました。彼女はたまらなくなりました。古臭くて黴びた匂いが鼻をつきこう訴えてくるのです。
 僕たちは、私たちは、今どこにいるの?あなたは誰?どうしてここに?…
 三人の少年たちはいよいよ探し物が見つかったぞと、部屋に踊り入りました。ほこりは膨らみ、霧のごとくたちこめて、三人に襲いかかりましたが、そんなこと関係がありません。にぎやかさは現在、子供たちによって取り戻されました。ですが、はたしてそれは、まだここにいる亡霊たちの望みだったでしょうか。いいえ、それはわかりませんが、ここまで何の妨害もしなかった彼らは、まちがいなく子供たちの侵入を感じていました。彼らを遠巻きに見守っていたにちがいありません。それが歓迎すべきことかどうかは別として…。
 死体はその部屋にありませんでした。その代わり、ある怨念が、強くその場所に留まっていました。彼は、一番取り憑きやすい人間に近づいて、その体を呑みました。ピロットはびくりっと体を震わせ、静かに、その怨霊の想いを取り込みました。彼はまっすぐ暖炉に向かうと、中の様子を見て、満足げにうなずきました。そしてソファにどしっと腰を下ろし、何やらぶつぶつとひとりごちました。ほこりが彼の鼻の穴に入り、大きくくしゃみをしました。テオルドとハリトが思わず彼を笑いましたが、ピロットも二人に調子を合わせて乾いた笑い声をあげました。
(何かおかしい?)イアリオは、彼を見てそう思いました。(また、あいつ少しおかしくなったんじゃ?)
 普段なら…笑われたことを逆手に、すぐに二人に難癖をつけたでしょう。彼は舐められることが嫌いでしたから。十五人の仲間内にいるかぎりの彼との距離にいささか慣れた二人も、ピロットが相手だと、いつ修羅場になるかわからないことはよく知っていました。二人は、しまったという顔をしました。しかし彼はご機嫌でした。
 とりあえず部屋にあるものに目を通して、四人はほこりを払い、ソファの上でくつろいだりしました。イアリオは不安げに青いビロードのソファに埋もれて目を瞑るピロットに声をかけました。
「ピロット、あのさ」
「何?」
「あんた、熱があるんじゃないの?それとも病気?」
 ピロットは起き上がり、くぼんだ鋭い目の中の瞳を向けました。
「どうしてさ」
 ピロットは、まともに彼女の視線を受け止め、探るように見ています。その目は彼女の見たことのないものでした。イアリオは質問しただけで次の言葉が出てきませんでした。感じたものをどう表せばいいかわからなかったのです。
 彼は、小さく首を振り、彼女から視線をはずしました。イアリオは黒い風が背後を吹き抜けたかのような違和感に襲われました。いつもの彼ではありません。さっきの質問に対して多少は食ってかかり、納得するまで、執拗な態度を取るのが本来の彼です。
「やあやあ、諸君!」
 彼はいきなり立ち上がりました。
「ワインの出来はどうだね?今年の出来は!さも上出来と聞いているが。早速パーティーを開こう。開こう、開こう!今すぐに!」
 彼は大きな身振りでいない誰かに指示しました。しかし彼の言葉は空しく響き渡り、ただ三人をびっくりさせて終わっただけでした。
 ピロットははっとしました。そのときに、怨霊が彼の体から抜け出たのです。彼は、とにかくただちに場をごまかさなくてはならないと思いました。
「あっはっはっは。まあ、こんな感じにここにいた人間はしてたんじゃないのか?多分贅沢三昧だっただろう」
「ああ、そういうつもり。びっくりしたよ。」
 ハリトが言いました。イアリオはうそ寒い心地がしました。
「あんた…大丈夫?」
「何が?なんでもない」
 ちらっと彼女を見た彼の目は、どことなく泳いでいました。彼女は、もしかしたらここにいる霊が彼の中に入ったのではないかと考えましたが、確認しようがないと首を振りました。
 しかし、それは事実でした。この屋敷の館主がとり憑いたのです。彼は海賊でしたが、海賊たちが王を戴いたときに、一国の王の家臣になったのだから自分は貴族だろうと考えた者でした。貴族であるのだからと、彼は家を絢爛に飾り付けました。そのきらびやかさは悪趣味と揶揄されるほどで、イアリオたちが目にした宝物よりはるかに多くの財宝が、その部屋にも家中にもありました。ところが、彼は部下の裏切りにあって殺されてしまいます。彼は、人を信頼しすぎたのです。元来小心者の彼は、裏切りと下克上が横行する社会でも、誰かを信頼したく思いました。彼は、女を強く信用し、そこに金銭的仲立ちがあっても、男以上に女性を大切にしていました。幼い頃、女性に助けられた記憶があったのです。ところが、その女にだまされてしまいました。
 彼の傷を癒そうと、一人の男が近づいてきました。童顔で、朗らかで、いかにも嘘をつかなそうな柔和な顔をしていました。彼はそれまで一切男性を信用していなかったのですが、その男は、彼の傷を全部癒してくれました。まるで彼のことは全部わかるようで、彼の気持ちを、すべて理解してくれたのです。彼は男と無二の友人になりました。その男に裏切られたのです。…浮遊した怨念は、繰り返し過去を振り返っていました。自分が信頼した人間と言う種族に、いたく恨みを持ちながら。
 …永い年月は、霊魂の想いも和らげることがあるのでしょうか。彼の遺した想いは、本当は、誰かを信頼したかった自分の弱さに根差しています。彼はここにやって来た四人の子供らを見て、ピロットに、自分に近しいものを感じて、その中に入り込みました。怨霊は、久しぶりに肉体に宿り、昔の通りに振舞うと、ピロットとその魂が響き合いました。その感触こそ実は彼にとって得難いものでした。死後も求めた癒しでした。
 彼はピロットに彼がほんの少しの時間でも支配した肉体をそれで明け渡したのでした。

 昔…といっても、イアリオがまだ幼い頃、五、六歳くらいの少女時代、彼女ははじめて男の子に噛まれました。痛い痛いと言っても、その子は放してくれませんでした。なぜかというと、彼女は彼を馬鹿にしたのです。汚らしい服を着て、生まれも、育ちもよくわからなくて、そうした意味の言葉を彼にかけたら、彼は飛びかかりました。彼女の腕を、引きちぎらんばかりに喰いました。肉が見え、血が出、彼はようやく放しました。彼女は目にいっぱい涙を溜めて、どうしてこんなことをするのと彼に言いました。
 彼はひどくびっくりしました。彼は、彼女を痛めつけて二度と彼に刃向かわないようにしたのです。期待した反応は、ただの泣き叫び、彼を恐れることでした。それほどまで顎に力を込めたのです。しかし、目の前の少女は、彼に「どうして」と訊きました。彼は無自覚に震えました。彼は逃げました。彼女から逃げ出しました。
 そのしなやかな腕は大手を振って、体は飛び、脚が空を切りました。その日、彼は雨宿りをしました。小さな穴の中で、小さく体を丸めて小石のようになりながら。そして彼女を呪いました。生まれてこのかた、愛情らしきものを受けていないその身に起きたのは、その芽生えでした。
 ピロットは分家の息子ですが、その父親はとうに亡くなり、母親は彼を折檻しました。彼らは本家の家に屋根を借りていたのです。身の狭い思いをした母親は、息子に厳しさも超えた教育をしました。息子は反発をしました。悪は自然と彼の態度にそなわり、盗みも破壊もやりこなしました。しかし彼は悪態をつきながらも、この町に育てられました。彼の目はぎらぎらしていましたが、その視線は人間の方を見ていました。人並みの感情を、彼はちゃんと育てられたのです。
 一方、イアリオは議員の娘として育ちました。品のいい両親はなかなかわがままな娘を放牧しましたが、基礎教育はしっかりと行って、許されること、許されざることをはっきりと教え込みました。娘の体は頑健に育ち、男勝りの目をしていました。よく遊び、よく人のいうことを聞き、よく冗談を言い、人を笑わせることもできました。彼女は群れることは好きではありませんでしたが、友達は多くいました。
 友人たちは彼女を頼りにしました。イアリオは何事にも動じない芯の強さがあるように思われていて、ことのほか信頼されたのです。彼女はピロットと先のようなことがあった後、彼に近づくようになりました。彼女だけが、彼にものを言うことができました。皆ピロットを恐れて近づこうともしませんが、彼女は違って、おいしいものがあればそれを分けてやろうとしました。狂犬こそ粘り強いしつけが功を奏したわけではありませんが、ぶっきらぼうにも、彼女の手から何か受け取るようになったのは、彼が十になったあたりからでした。二人はあまり一緒にはいませんでしたが、いつも心のどこかにお互いを引っかけ合っているような間でした。
「なぜ、あいつに近づくの?」
 そう訊かれて、彼女はいつも一つのことを繰り返しました。
「おもしろいからよ?」
 彼の歯型は綺麗にまだ腕についています。まるで首飾りのようにくぼんで、そこに自分の歯を噛み合わせてみますと、丁度同じ大きさでした。この歯型に刻印されたものは、彼の希望と、激しい怒り、飢えた思いでした。これを見て彼女は思うのです。彼が、どんな風にこの世に生まれて、今、どんな風に寝ているのかと。

 マルセロ=テオラは、ラベルの一つ下、十四歳の少女です。彼女は母親と暮らしていましたが、母親の仕事(内職や料理がほとんどだった)をよく手伝う殊勝な子供で、いつもひまがありませんでした。最近になってようやく暮らし向きが楽になって、彼女にも時間が取れるようになり、ラベルたちと一緒に活動していました。彼女はおせっかいなところがあり、人のことを必要以上に心配するきらいがありました。不安定な少女時代を過ごしたからでしょうか、だらしない父親を立ち直らせようとして、幾度となく彼女はチャレンジをしましたが、ついに両親が離婚したのは、自分のせいかもしれないと思うような子供でした。彼女はラベルといると安心しました。自分を導いてくれる相手に感じて、とても信頼を寄せていました。
 彼女は今ほかの二人と暗い廊下を歩いていました。カムサロスとハムザスは、彼女よりも年下で、何かと面倒をみる必要のある相手だと思われました。しかし、テオラはハムザスが自分に気のあることを知っていました。彼女は相手にしませんでしたが、彼の煮え切らないもどかしい態度に、いくらか業を煮やしたことはあります。三人は屋敷の東側の、ややせせこましい邸宅にいました。従業員の家屋と思われるこの家はいくつかの部屋に区切られ、それぞれの部屋に何人かが一緒に住んでいた形跡がありました。まずは一階を調べ、次に二階を調べると、カムサロスは飽き飽きしたように大あくびをしました。ここには何もなさそうだったからです。綺麗な調度品はありましたが、彼の目に価値あるものにはとても映りませんでした。テオラとハムザスは真面目に調べ、何人ほどの使用人がいたとか、生活スタイルはどのようなものだったかとか、およそ派手ではなくとも主人からしっかり給金はもらっているような暮らしぶりだとか、さまざまに話しましたが、気分はカムサロスと一緒でした。こうなっては後ほどおそらく十五人全員で向かうことになるだろう、屋敷の立派な品々を見て溜飲を下げるしかないと思いました。
 ところが、一階の廊下の先に、地下室の入り口らしき穴を発見しました。床石にぴったりはまった取っ手が鈍く光る様を、鋭いカムサロスの視線が捉えたのでした。彼らは協力して石扉を引き、棺のような穴に、誰から入ると言い合いました。順番は、まずカムサロス、次いでハムザス、最後はテオラでした。細い階段を下りてみますと、むんとして動かない空気が左右から三人を圧迫しました。彼らは身を寄せ合い、そろそろと進んでみました。地下には部屋があると思いきや、また細い廊下が静かに伸びていました。壁の左右を手で調べながら、部屋の入り口を探しましたがそれらしい取っ手も扉もありません。階段からさほど行かず、彼らはすぐに突き当たりました。行き止まりでしょうか、いいえ、金属の取っ手がカムサロスに触れました。行き止まりに扉があります。
 この向こう側に何がある?地下の廊下、その先に?使用人たちの住まいの下にあるのだから、きっと大したものは入っていないはず。いや、もしかしたら、意外なところに宝物は隠されているのかもしれないぞ。そんな会話を小声で交わし、子供たちは、期待に満ちて戸を開けました。すると、冷やされた空気が、湿っぽく地面を渡り、彼らの足を冷やしました。そこは、巨大な洞窟で、どこまで続くかしれない黒がりが左右に伸びていたのでした。天井は大人の二倍もの高さがあり、幅も腕を広げて三人分はあります。子供たちは、まったく意外な風景を見て圧倒され立ち止まりました。
 カムサロスの素足が、かつんと何かに当たりました。木製の小瓶です。八歳の少年はそれを拾い上げ、松明の火に照らしました。中身は液体で、瓶は汚れていますがしっかりと栓がしてあります。テオラが開けてみよう、と言いました。どう見てもそれは台所の調味料類の瓶にしか思えませんでした。一方、ヤーガットは慎重に、と言いました。この中に明確なリーダーはいない、もし何かあったら、その時に責任を取る人間はいないから、皆のところに戻って開けた方がいいと言うのです。カムサロスは黙っていました。テオラと同じで早く開けてみたい気持ちでしたが、それは手柄を自分のものにしたいがためでした。
 暗闇が蠢きました。松明の灯りの届かない場所の、影たちが、息を潜め、三人の行動を見守っています。
 漁師の息子、ハムザス=ヤーガットは、兄をよくからかいましたがそんな兄に彼も似ていました。二人とも神経質な性格で、周囲を気にしすぎるあまりに失敗もしました。以前、彼らは仲間たちと遊んでいたときに、誤って一人を滝の中に落としたことがありました。誰が落としたのか、責任の追及が始まりましたが、誰一人、手を挙げて自分でしたと告白する人間はいませんでした。彼もそのうちの一人でした。その時、真っ先に水に飛び込み、仲間を救ったのがトクシュリル=ラベルでしたが、ハムザスは、責任を誰かになすりつけようとばかりしていた自分に嫌悪感を抱きました。彼は、そんな自分にはできない英雄的行為を行ったラベルを崇拝するほどに信頼し、その後、ラベルのそばにずっといるようになりました。
 彼は、誰かの近くでは大胆不敵になれました。しかし、一人ではなんの力も持ったことがありませんでした。自分だけがさらされれば、逃げ道をなんとか見つけようとするずるい性格の少年で、それでいて正義感強く、間違ったことが嫌いな、厄介な性格の持ち主でした。彼が兄を嫌うのは、自分の膿がそこに見えるからなのでしょう。
 彼は、カムサロスが見つけた小瓶を巡ってもそんな態度でした。彼に好意を寄せられているテオラは、それなりに彼を観察していますから、ハムザスの心の中は読み取れることがあり、それがために、よく苛立ちました。闇が彼らを見つめています。どんな人間も心に暗黒を持ちますが、暗黒が聚合すれば、それは巨大な目となります。それは真実を見抜く目となります。
 ハムザスが焦って言いました。
「もし何かあったって、困るのは皆じゃないか。俺たちだけじゃない、皆が責任をかぶるんだ。そんなこと当たり前じゃないかよ」
 彼は、こんな洞窟の中で拾った得体の知れぬ瓶の中身は危険なものにちがいないと訴えました。
「どうしてわかってくれないんだ(俺は、あんたのためとも思ってるんだ)」
 彼の不可思議な目の輝きに、テオラはそんなメッセージを読み取りました。けれど、彼女は開ける気でいっぱいでした。彼の言葉はいちいち正しいのですが、裏に隠れた気持ちを汲みとると、とても煩わしいのです。テオラはハムザスにとって明らかな正義は必要ではなく、今ここで小瓶の蓋を取って、その中身を覗くことが彼のためになるような気がしました。
「重要なのは、私たちが探索の先鋒となっていることよ。選ばれてここにいるの。危険がもしあるなら、私たちが先に引っかぶってもいいんじゃない?」
「そうはいかない。皆のため、とは、俺たちが犠牲になることじゃない!なんだよお、広場へ持ってくだけじゃないかよお、なぜそんなにここで開けたがるのさ、テオラ?」
「意気地なし」テオラはびしっと言いました。「それがおもしろいからでしょ」
 ハムザスは注意された飼い犬のように黙りこくりました。彼女は彼の様子が可哀相でした。彼女は自分の父親の像を、彼にみてとっていました。同じように神経質で、臆病で、猜疑心が強かったのです。
 カムサロスが小瓶の蓋をじっと眺めていました。おもむろに彼はコルクの柔らかい栓に指をかけると、そんな力も入れずにひねり、蓋を開けてしまいました。「あっ」とあっけに取られるも、瓶から漏れる不思議な匂いに三人は包まれました。
「カムサロス、お前何勝手に…」
「あれっいい匂いだ…」
 三人はしばらく論議もせずに香りを愉しみました。彼らの住む町の周辺では採ることのできない、亜熱帯の花びらから抽出した香水の香りでした。
「これってさ、花の匂いでしょ?」
「ああ、そう…でも、中身は何?」
「香りつけの花水かな。でもこんなちっちゃい瓶の中に、これだけたくさん香りのするものなんて、私知らないわ」
 三人は香水を知りませんでした。この町でも、草花から抽出したエキスを祭典の時に首や腕まわりにつけたりしますが、これほど濃縮したエキスを使うことはありません。彼らは洞窟を深く探査することはせずに、この香水をおみやげに一度広場に戻ることにしました。しかし、瓶からこぼれた匂いは彼らをまとい、なかなか離れようとしませんでした。ハムザスはこのことが気がかりでしようなくなりました。繰り返し溜息をつき、危険を顧みず勝手に蓋を開けてしまった責任が自分の身に及ばぬよう今から祈っていました。(ああ、どうしよう、どうしよう…)彼が神経質で臆病なのは生まれつきでしたが、どうも思春期に入ってひどくなる傾向にありました。テオラは彼の横で溜息をつきました。なぜこんなにもびくびくとしているのか、彼女にはちょっと異常な光景でした。こんなに良い匂いを真っ先に嗅げたのだから、結果オーライで喜べばいいのに。三人でこの秘密の共有を楽しめばいいのに。
 見知らぬ洞窟から彼らは通路へと戻り、階段を上って、一階の廊下に出ました。その直前に、彼らは足元を吹き抜ける風を感じました。その風は蓋の下へ、地下へと潜っていきました。石扉を閉めると、三人は顔を見合わせ、今の風は少しおかしかったのではないかと言い合いました。それだけで彼らは別に臆しませんでしたが、そう言い合える奇妙な風だったのです。
 そのときです。こんこんと、足元の床を叩く音がしました。彼らは押し黙り、視線を合わせました。カムサロスは、二人のどっちが叩いたのと言いましたが、勿論、彼らにはわかっていて、さっき閉じた石床が下から叩かれたのでした。
 ハムザスは扉を開けてみようと言いました。気になることは放ってはおけなかったのです。しかし、テオラはこれに反対しました。彼女は何か嫌な予感がしました。今回はおもしろさは微塵も感じず、離れた方が良いという直感が働きました。ところが、カムサロスは開けてみたい、と言いました。少年は彼なりにいろいろと考えていましたが、自分の勇気を見せようとする魂胆が勝りました。だから、彼が水槽の上に死体を発見した際も、叫び声をぐっとこらえて戦利品を獲得したのです。二対一でした。テオラは力強く開けてはならないと言えませんでした。
 石の扉を開けて、実際に起こったことは、カムサロスが手に持っていた小瓶を下に落としたということだけでした。瓶はころころと転がり、階段の下の通路も、止まる気配がなくどこまでも進んでいきました。それだけでしたが、三人は扉を閉めた途端、小鹿のように跳ね上がり出口に向かい猛烈な速さで逃げました。彼らが我先にと外へ躍り出ると、全員がもう噴水跡のある広場に集まっていました。
 皆のところへ駆けていって、ぜいぜいと息をつき、三人はほかの十二人を驚かせました。「どうした?何があった?」ラベルが真っ先に駆け寄り尋ねましたが、三人とも息を飲むので精一杯で、思うように言葉が出てきませんでした。やっと落ち着いてきたテオラが、一言一言、声を絞るようにして言いました。
「あの、匂い、が…匂い、するの、わかる?」
 ラベルは怪訝な顔をしましたが、注意深く鼻を効かしてみると、彼女の言うとおりふんわりした芳しい香りを感じました。
「ああ、いい匂いだね。けれど、これが?」テオラがまた息を弾ませましたので、ラベルは続けて、「花水かなにかを発見したのかい?」
「ううん、それより、もっと濃い…これくらいの、小さな瓶に、入ってたんだけど」
「それで?」
 彼女は手で頭を抱え、うんときつく締めました。そうすることで、突然襲われた恐怖心から、理性を切り離そうとしたのです。
「あの、床に扉があったの。隠し扉みたいに、地下につながってて、それで、その先に行ってみたら、洞窟が広がってて…」
 洞窟…?わっと湧く声がありました。皆、彼女の話に釘付けになりました。
「そこで見つけたの。でも、そこから戻って、蓋を閉めたら、床下から音がして、こんこんって、私、やめた方がいいと思ったんだけど、床石の扉をもう一度開けたら…」
 ごくんと唾を飲み、彼女は付け足しました。
「ばあって白い風が起きたの。それで、その白い手の先が、カムサロスの手にある小瓶を触ったの。それで、瓶が床に落ちて、階段から下へと落っこっていったのよ。あれは、洞窟に棲む、魔物か何か…そう、幽霊!幽霊だったんだ!」
 ラベルがテオラの肩を掴みました。
「もう大丈夫だから!ご苦労さん、ゆっくり休むといいよ!」
 彼らは三人を噴水の跡の縁に腰掛けさせ、まだ家の中を探索してなかった者たちは屋敷に入り自由な見学を許可されました。テオラの話は怖いものがありましたが、まだ恐怖何するものぞという気概が、各人には具わっていました。彼らはそれにだんだん慣れてきたのです。しかし、使用人宅に入った三人は地下から帰る際仲間にそれぞれ肩を持たれながら、つらい表情で、滅びの都市を後にしたのでした。

 テオラとハムザス、そしてカムサロスの回復具合は俊迅でした。彼らの気力はほぼ一日で取り戻され、また地下の黄金と恐怖を巡ってみたくて仕方なくなりました。子供たちの抵抗力はそれなりで、なにより十五人の仲間が結束し合っていることが、その回復を早めたのでした。
 ですが、彼らはすぐまた探険を再開しませんでした。彼らを「何か秘密を握っている」と疑っている子供がいましたし、十五人はそれぞれに、普段の生活で他にやるべきことを抱えていました。彼らは焦る必要はないのです。むしろ、慎重に慎重に、秘密を共有しながら探険を継続していくことが何より大事でした。
 医者の息子ヨーア=マットはずっと父親の職業を継ごうと考えていました。そのためには学校の授業だけでは足りませんでした。医者になるのですから、父親の仕事を間近に見てそれを手伝うことが、何よりの勉強になりました。また、彼には恋人もいました。恋人は十五人のメンバーではないので、そちらの時間も都合しなけねばならなかったのです。カムサロスは家では妹の面倒を任される立場で、ヤーガット兄弟の兄ロムンカは家業の川漁の手伝いをしなければなりませんでした。サカルダにいたっては大家族の長女として、彼女がいなければ家庭も牧畜の仕事も機能しないところがありました。サカルダ本人もこれよい機会と弟妹たちに自主的にいろいろと任せていたのですが、まだそれは無理だということに気づきました。家の中に、人間関係の中にそういったのっぴきならない事情のない者たちは、ラベル、テオラ、ハムザス、ピロット、それにイアリオの五人でした。ある時、ラベルの声掛けで、この五人で町から少し離れた所にある森の泉に行ってみようということになりました。「あーあ、つまらないわ」
 イアリオは空に向かってつぶやきました。隣で、ピロットがぶつくさ文句を言いながらついてきます。彼とイアリオは、ラベルに気のあるテオラや彼に心酔するハムザスとは違い、別にラベルについてくる理由はなかったのですが、時間をもてあます彼女が彼を連れてきた恰好でした。ゆるやかな隙間をつくる木立がさわさわと揺れて、心地よい影を地面に落としています。ちろちろと流れる小川が近くにあり、小動物たちの足音が軽やかに耳に届きました。泉の周りを、彼らは回りました。枝垂れた草が岸を覆い、ほのかな匂いを立ち昇らせています。しかし先日降った局所的な雨でぬかるみが方々にありました。草葉の陰に、目立たないところにも小さな沼があって、そこにテオラの足が引っかかってしまいました。慌ててラベルが彼女を抱き起こし、その足を拭いてやりました。彼の態度は自然なようでいてやや大袈裟にも思われます。というのは、ラベルはそれほど彼女に懇意であることはなかったのです。彼は誰にも優しく、正義感の強い少年でしたが、選挙に立った立候補者が、後援者をフォローするような特別な立ち位置にいつもいました。彼はテオラの気持ちも、隣で慌てふためくハムザスの(彼はテオラが好きでした)心も、顧みたりしませんでした。テオラとハムザスも、彼の心理はどこまでもわかりませんでした。知る必要はなかったのです。彼の態度や行動が、今まで彼らの動機に勇気や理解を与えていてそれで十分でしたから。彼は彼らの理想像でした。ラベルが少女の足を拭く時、テオラは怯えながらも微動だにせず、彼に処置を任せ、隣でハムザスは臍を噛んでいたのでした。
 イアリオは背の高い木をぼんやりと眺めていました。彼女はピロットを連れて三人から離れて少し入り組んだ木立に分け入りました。ピロットはその後ろからおとなしくついてきていますが、その目は疑念と猜疑とに満ち溢れていました。彼は、決して人を妬むことはなかったのですが…苛立たしさは、当然彼の側にありました。その相手が彼女でなければいいのです。彼は人心をいかに掌握できるか知っていましたし、彼のペースで相手を怯えさせコントロールする手わざに長けていましたから。けれどこの相手には何も効きません。それどころか、彼は毎度彼女に振り回されるような感じになってしまうのです。もし、彼女を非難せず認めてしまったら、たちまち彼の中に彼女という理想像ができあがりそうでした。自分と見比べることのできる人間を前にして、相当の忍耐と努力を払うまねになるのです。他の人間は、自分とは関係がないからこそ見比べる必要はなかったのに。そうした意味で、彼女の背中は、彼にとってとてつもなく大きく、見過ごすことのできない特別な相手でした。闇の属性の彼にとって、彼女は光にも見られました。
 相手にこれほど相当複雑な思いを抱いているのは、彼女もまた同じでした。ですから、ここで一つ、ものは試しと考えました。この町にはある儀式がありました。それは「名渡しの儀式」といって、互いの帯に手を入れて、本名を交換し合うのです。よっぽと仲のいい間でしか行われません。これを、やってみようかと彼女はピロットに持ちかけていたのです。
 勿論、ピロットが簡単に承諾するはずがありません。むしろ、彼女とそんなことをしたと誰かに知られれば、彼自身の身の上が危うくなります。彼は、人を怖がらせてこその人格でしたから!彼は独りでしたが、自分の身の処し方を、もっともわかっていました。
 ですが、こうして彼女の口に乗ったのは、それもおもしろそうだと思ったからでした。彼は十二歳になり、この町で自分のできるかぎりのことにそろそろ飽き出していました。その身空で彼は早くから自分の将来を見定めていました。この町でできる悪さなど、たかが知れていると思い始めていたのです。
 イアリオは三人から離れていかにも儀式ができそうな場所までピロットと来ましたが、なかなかそれを始めませんでした。彼は焦れ出しました。
「なあ、イアリオ」
「何?」彼女が振り返ります。
「まだ始めないのか?名渡しの儀式。お前がやりたいって言ったんだぜ?」
「それは…」
 彼女は返事に窮しました。そうしたいと思ったのは確かですが、いざ舞台の上に登って、儀式をやるのは今ではないと気づいたのでした。ピロットは口先でぴろぴろと吹いた口笛を止めて、「なあ」と再度尋ねました。イアリオは、その場にうずくまり花などを摘んでいました。彼がそばに寄ると、彼女は目の前に青い草花を掲げました。
「あげる」
「はあ?なぜ?」
「さあ」
 彼女は肩をすくめ、彼の思いを透かせました。彼は言い知れぬ怒りを覚えて、鋭いまなざしを向けました。彼女は、その視線をまともに受け止めました。
「あんたの好きなものって何?」
「あ?」
「ほら…例えば、私はこういった花が好きなんだけど。そっちは?」
 彼の怒りは大人も威圧するほどでしたが、彼女はすっかり慣れていました。
「なんでそんなことお前に話さなきゃならねえの?」
「あれ、私が教えたのに、そっちは話してくれないの?」
「そういうことじゃ…ったく!」
 彼は、両手を振っていまいましげに愚痴ました。釣り上がった、いかにも酷薄げな目つきは、それでも穏やかです。彼は彼女を見据えました。できるだけ、自分を恐れさせるように顔をしかめて鼻息荒く憤ってみせたのです。彼女は涼しげに見ています。
「教えてくれないの?」
「ずうずうしい女だな!そんなこと聞くために、ここへ連れてきたのかよ!やってらんねえ」
 彼は、首を振り顔を背けました。今度は彼女が顔面をしかめました。
「あんたにそう言われたくないな」
「何だと」
「ずうずうしいなんて、言われたくないって言ったんだけど」
 彼が振り返ると、彼女はとても悲しげな表情をしていました。穏やかならぬ気持ちになったのは、彼でした。こいつには嫌われたくない、と無意識に思ったのかもしれません。
「この…わかったよ!ひまわりだ。ひまわりの花が好きなんだ!」
「へえ、あんたも花が好きなんだ。なんだか意外」
「っだから言いたくなかったんだよ!」
 イアリオはけろっとしてにこにこと笑いました。その表情を、彼も見ていました。夕立後の空がのぞいたような、そんな気になりました。
「じゃあさ、女の子はどうなの。好きな子のタイプは誰?」
「いい加減にしろよ。そこまで話すもんか」
「いいじゃない。減るもんじゃないでしょ」
 ピロットは耳をほじくり、眉を寄せましたが、その問いに答えました。
「興味ない」
「え、うそ?本当は相当な女好きでしょ。誰?誰のことが好きなのか、言ってみて」
 ピロットはぼりぼりと頭をかき、まっすぐ彼女を見つめて、矢のように言いました。
「じゃあ本当のことを言うが、嫌いなやつははっきりしている。お前だ!お前みたいなやつが、俺の一番むかつく相手だ!」
 イアリオは驚いてまじまじと彼を見つめました。そして、次第に無表情になり、「ふーん」とだけ言って、覇気をなくしました。くるりと泉の方を向いてしまった彼女を、彼は蹴飛ばしてやりたくなりました。(こいつ、首締めてやろうか)野蛮な思いつきが彼を襲い、その両手をそのとおりに動かそうとしました。
 彼の気配に気づいたイアリオは、自分の首に伸ばされた手を握ると、はっと体を前に倒し、ピロットを前に投げ飛ばしました。男顔負けの運動神経を持つ彼女にとって、それは造作もないことでした。土にまみれて飛び散った小石に歯を当てたピロットは、あっけに取られ宙を眺めました。今まで、そんなことは誰にもされたことがなく、ましてや相手は少女だったのです。「あはは、バーカ!」彼女があざ笑う声が聞こえます。彼は憎々しく上体を起こしましたが、その身に起きた変化は、顕著でした。彼が人を襲うとき、それはほとんど命懸けでした。ですが、今彼女に襲いかかり、自分の恥を拭おうとした時、彼女に向かって懸けたのは、違うものでした。
「この野郎!許せねえ」
 彼は彼女を追いかけましたが、彼女はなかなかつかまりません。ピロットも同年代の少年に比べて力も神経も相当なものですが、体躯的には彼女とほぼ一緒なのです。しかし、悪知恵の働くピロットのことです、この木立の中を、上手に追い詰め、獲物を捕らえるすべは彼が勝りました。イアリオは次第に逃げ場を失いました。必死の追いかけっこは彼に軍配が上がったかに見えました。ですが、少女はぺろりと舌なめずりして、次の反撃の機会をうかがいました。幹を背に、逃げずに立ち向かう意気の彼女にピロットは右手を突き出しました。まずは殴ること、そうすれば獲物はおとなしくなるのです。ところが、イアリオは彼の拳をさっと避けると、その脇の下に滑り込み、一度体を密着させ、そこから真上へ全身を突き上げました。彼の体は吹っ飛び、少なくとも二メートルは宙を舞い、どさりとみじめにくずおれました。
「ちなみに、私の嫌いなタイプは、あんたじゃないよ。どちらかというと、そうね、合わないのはテオルドのような本の虫かもしれないね」
 イアリオはぱんぱんと手を叩き、彼の方も見ないで、泉のある場所から帰っていきました。「…くそっ」歯を食い縛り、仰向けに転がるも彼の敗北は変わりませんでした。少年は、生まれて初めて完敗したのです。それでいて、こんなにも気持ちのいい完敗は彼を驚かせました。頭上でヒバリが囀っています。木立にさわさわと踊る影が、彼をやさしく慰めました。その心地はどこか懐かしく、昔確かに経験したように感じました。彼は不思議にも彼女にやり返そうと復讐心を持ちませんでした。それどころか彼は、この場所を、一種の記念碑みたく思えて、そばに棒切れを一本拾って立てました。

 山は鳴動し、いかに大きな地震がくるかと思いきや、鼠一匹だけが走る、そんな故事があります。その暗き地下から出てくるものが鼠だけならば、どんなにかよかったでしょう。あんぐりと開けた地面の口は、子供たちを呑み込み、吐き出しました。彼らは行って戻ってきたのです。その度に、闇と仲良く、力強くなってきて、どんな困難が待ち構えていようと全員で乗り切れると、本気で信じておりました。彼らは再び地下への探索の機会を得ました。まずはテオラたちが出くわした、白影の幽霊たちを慰める必要があると彼らは考えました。使用人宅の正面に立ち、代表してラベルが、祝詞を上げました。彼らの町に神はいません。墓守はいましたから、墓前の儀式に従って、天に地に感謝し、亡霊の供養と、自分たちの祝福とを行ったのです。
 そうして彼らは、さらにますます地下街の深みへと潜っていきました。ですからいずれそうした運命なのでしょう。死者の骸は大量に、彼らの訪れを暗く陽の射さない中待ち焦がれていました。冷たい死骸たちが望むものは、決して温かい肉体だけではありません。それは、慰められたく、赤子のように暗黒の胎内で動いているのです。子供たちは、それを知りません。彼ららしい、素晴らしい前向きの力で都市の道路を闊歩しました。
「さて、どちらからにしようか。この街の違う地区に移動してみるか、それともテオラたちの発見した洞窟へ行ってみるか」
 彼らは前者を選びました。屋敷で見つけた数々の品物は確かに彼らを喜ばせましたが、それだけで「黄金都市」と名づけられたこの都にふさわしい光景を目の当たりにしたとは、ちょっと言えないと思いました。彼らはテオラたちの遭った亡霊に怯えませんでしたが、洞窟は少し時間を置いて挑戦した方がいいと感じていました。とりあえずは、手製の地図帳をもっと豊かにし、この街をより調べ尽くしてみようと思ったのです。
 彼らの調査した地区は都市の西寄りの北端でした。この辺りは新興住宅地といってよく、そのために急造の建物が乱立していました。大工の息子が看破した、脆い壁としっかりした壁が交互に造られている理由はこのためでした。その辺りは地上にも近いために、高度があり、見晴らしの良い場所からは街が一望できました。街の中心部はそこよりもっと大きな家並みが続き、子供たちが探している彼らが納得しそうな黄金も、そちらにあると思われました。彼らは慎重に、慎重に事を進めています。大事に、大事に闇の中を歩いているのです。
 司書の息子、カルロス=テオルドは、ずっと黙っていることがありました。彼は、図書館の書物から相当の知識を得ていたにもかかわらず、この街に関することを、ほとんど彼らに打ち明けていませんでした。子供たちも彼に何も訊きませんでした。知りたいことは、歴史や文化の成り立ちよりも、手にすることのできる宝物だったのです。勿論、空想好きのピオテラや絵好きのハリトなどは滅びた市街の様子にロマンを感じて勝手な想像をいたしましたが、それならば余計に事実は今しばらくははっきりしなくていいのです。テオルドにとって、現実は少しうつろなところがありました。本好きの彼ですから、相当の量の小説や歴史書も読んでいるに違いなく、それで現実が遠のけられたのではなく、彼の性格と環境が一致していたのです。彼は、母親を早くに亡くしていました。
 彼は時々恐ろしい空想をしました。すべての人間が滅びてしまえば、そのあとの世界はどうなってしまうのだろうとか、自分一人だけが生き残れば、はたして何をしようとするのかとか。彼は、この十年後イアリオに発見された黒表紙の日記帳の筆者の子孫でした。彼の中に脈々と受け継がれた遺伝子は、変化に乏しく、三百年前とあまり変わらずにきたのです。彼は、日の当たる地上より暗がりに居心地の良さを覚えていました。日差す場所で行われることよりも、無限の空想許される暗黒の方が、好みでした。彼は十五人で入った地下都市に安らぎを感じました。そして、尽きない関心はこの幻とも思われても仕方ない巨大な異次元に、それがどうしてできたのかということに注がれていました。
 オヅカはイアリオやピロットと同じ歳ですが、幼心を持っていました。熱中すると周りを気にせず猪突猛進になってしまう欠点がありましたが、これが幸いすることも逆にありました。彼はルビー色に光る小さな欠片を発見しました。それは確かにルビーの切れ端で、地面に埋もれていました。まるで誰かに踏んづけられて打ち捨てられたかのようです。注意して見ると、そのような欠片はそこかしこにあって、拾い進んでみますと、道路に沿って蛇の様に長々と続いていました。
「いいぞオヅカ、大した発見だ。誰かが屋敷から持ち出して逃げる途中だったのかもしれないな。ということは、この宝石の跡を辿れば、大した豪邸に到着できるかもしれないということだ」
 ラベルがそのように言い、一同は宝石探しに夢中になりました。
「だけど、皆、よく聞いて。あくまでこれはこの辺りにどんな邸宅があるか探るための手がかりだ。皆、これを自分のものにしようと思っちゃいけないよ。富の独占は、どんな悪よりも悪なのだから。もしこれが欲しいと思うのなら、まずは僕たち十五人のものだということにするんだ。僕たちの王国のものだということに」
 彼は教師の息子でしたが、彼の言うことは町の思想でした。資本主義はこの小さな町にはありません。なにしろ巨大な欲望の行き着く果てを、彼らは経験しているのですから。もし利潤があれば町に公に還元すべしというのが人々のルールでした。そのルールを、ラベルは小さな共同体にも適用したのでした。
「でもさあ、王様のいない国なんてあったか?」
 マットが声高に訴えました。
「そういえば疑問だった。テラ・ト・ガルは王国だよ?誰がいったい王様なの?」
 アツタオロが縛り髪を肩に掛けながら言いました。
「いいじゃない、別に。王様のいない王国だってあったでしょ」
「ええ~、それはおかしいよ」
 イアリオの答えにカムサロスが食いつきました。
「絶対に王様は必要だ。そうじゃなけりゃ、恰好がつかない!ねえねえ、誰が王様になるか決めない?今すぐにさ!」
「テラ・ト・ガルは十五人の国だ!この中から選ばなければいけない」
「でも王様ってなにする人なの?あたし、それがよくわからないわ」
 にぎやかな討論が街中で始まってしまいました。小一時間ほど彼らは話し合い、それでも結論は出ませんでした。
「まあまあ、そもそもこの問題は、僕たちがテラ・ト・ガルなんて名前を付けたせいだろう?なかなかお気に入りの名前だけどさ、無理矢理に王国にしなくてもいいんだよ。大体、それが目的じゃなくて、この場所に呼び名が欲しかったんだからさ」
「そうだった。そして結局、探検の方が大事だって、そんな感じになったんだ」
 ラベルの説明をマットが引き継ぎ、場を執り成しました。そうか、そうだったと、一同は納得しました。
「じゃあオヅカの見つけた宝石の追跡に入らなくちゃ!」
「そうだそうだ!」
 アツタオロとハムザスが調子よく皆に言いました。
「宝石は、僕たちのものだが、つまりは『僕たちの王国』のものだよ。とりあえずはね。そのルールにちゃんと従って、慎重に、慎重に捜査を進めよう!」
 と、ラベルが釘を刺して言いました。しかし、この世界は彼らの王国でしょうか。宝石は、誰のものでしょうか。それに欲を抱いた者のものです。つまり、依然この街に棲む悪霊共のものです。
 宝石の屑は、子供たちをある屋敷の前に導きました。そこは周りと比べて非常に目立ち、見てくれも立派な赤いレンガ壁がぐるりと三重に渡って邸宅を守っていました。この付近はいかにも高級住宅地で、他にも目を見張るような屋敷がその威容を見せつけているのですが、この城はその中でも特別な雰囲気を出しています。周囲より古めかしいのですがセンスが良く、尖塔からは鐘が響いてきそうでした。重厚な石造りはしっかりと漆喰で固められ、どんなに鋭い刃物もここには刺さりません。少年少女たちは息を呑みました。まるでその建物は生きているように思え、その溜息は、寂しい、しっとりとした、悲しみの思いを漏らしてくるようだったのです。
 そのお城から少々離れて、広々した庭の片隅に、何の飾りもないまっさらな土蔵がぽつねんと立っていました。まるで石の置きものみたく、この城砦のそばに似つかわしくない風情がありました。四方の幅は大人二人分あり、高さは四メートルほどでした。取っ手があり、それを引くも、少年たちの力では扉はびくともしません。よく見ると扉と壁の間に細かい砂利が詰められています。しかもそれは粘着剤で固められていました。彼らは気づきませんでした。実は、その土蔵の天井は抜けており、上に上れば何が入っているのか見ることができたのです。
 彼らは土蔵を無視し、屋敷に入っていきました。その倉の前で、三百年前、たいそうな争いがありました。人々が壮絶に殺し合っていたのです。あの滅びの時、人々は混乱しきって手に手に欲望を持つばかりでした。かの街にはセバレル=トオシェイダという大男がいました。彼は、両手に武器を持ちました。そして、人々の欲求に応えて彼らを打ち負かしました。鈍器は頭を砕き、刃は命を切断しました。死しか彼らの心は光を臨めないと、大男は感じたのです。涙が零されました。しかし、その涙滴は誰のものだったか。
 子供たちのいるところには、たくさんの遺骸が存在するはずでした。しかし、大邸宅の庭先に、一個も人間の死骸はありません。土蔵に興味を持つ子がいました。明らかにふさわしくない位置取りの倉庫にこそ、もしかしたら黄金はあるのかもしれないぞ、見たことのない金銀財宝が守られているかもしれないぞと、大工の息子ヨルンドは考えました。他の仲間たちはラベルの指導のもとで、数人のグループになって屋敷を調べ出していました。彼も、そのうち一つのグループに入って大部屋小部屋を巡り、そこで素晴らしい発見をしましたが、なお彼の心は簡素な壁の倉の中身が気になりました。
 彼らは地下室も調べましたが、数々の装飾された豪華な調度品や家具類の他は、目ぼしき宝物はありませんでした。そして、ここには盗賊が押し入ったのでしょう、取れる宝玉は皆取り攫われていました。彼らはがっかりこそしませんでしたが、満足いく調査とはならず、考え込みました。ヨルンドは一人グループから離れて、あの四角い倉庫の前に来て、こんこんと、彼ののみを使って壁面を調べ始めました。彼が何をしているのか気になる面々が、その様子を見守りました。
「ヨルンド、どこか脆いところでもあったかよ?」
 ピロットが半面笑いながら訊きました。ヨルンドは、前に地下の入り口辺りで見せたように、にやりと笑いました。「あるんだな」ピロットが焦って尋ねました。
「ああ、これは」ヨルンドは独り言のように言いました。
「すごいや。珍しい。でもどうしようかな…」
「どうした?」と近寄ったのはヤーガット兄のロムンカとサカルダでした。
「大槌でさ、ぶっ叩けば、ここは壊れるぜ」
「え?大体、ハンマーで叩けばどこだって壊れるんじゃないか?」
「ち、違う。こ、これは」
 ヨルンドは興奮したり感情を露わにしたりするとき舌足らずになり、どもってしまう癖がありました。
「か、壁は、見たほど薄くなくて、ずっと強いんだ。でも、で、でも、ひびが入っていて、それを見つけたんだ。そ、それで、でかい一発をここにぶち当てれば…」
「おい、トーマ、もっと落ち着いて話せよ」
 神経質なロムンカが苦々しい顔をして言いました。彼は、人のどもる声を聞くと自分まで気がそわそわしてしまって仕方がなくなるのです。ヨルンドは深呼吸して、言葉を継ぎ足しました。
「それでも、家にあるハンマーでもって叩けば、僕の力でも壊せるかもしれない…」
 ロムンカは彼の言葉をそのまま庭の隅で休憩しているラベルに聞かせました。ラベルは喜んで手を打ち、ヨルンドの言うとおり壁を壊そうと言いました。
「だけど、ロムンカはいいのか?この前だって、家の壁を壊すことには反対だったじゃないか」
 彼は、首を小さく振りました。
「テラ・ト・ガルは裏切れないよ」
「…どういうことだい?」
 ラベルが、庭石に腰掛けて彼を見上げました。
「言葉どうりさ。俺は、結局意気地なしだけど、皆の希望がそれなら、ついていくってことさ」
「それだと僕が満足しないけれど」ラベルがちょっと視線を変えて言います。「君の希望がそれに沿えば一番いいのだけど、やっぱり難しいんだね?」
「違う、そうじゃない」
 ロムンカは慌てて否定しました。
「ちょっと長くなるけど、いいか?」と、ラベルのそばに腰掛け、「本当は何事もしっかりとやりたいんだ。誰にも迷惑かけず、誰からも好かれるようにね」
 ラベルは黙って彼の言葉に耳を傾けました。
「最近、ずっと触ってもいなかった川漁の網に、触ったんだ。手ごたえがあってさ、いいな、て思ってさ。これが、そう、漁師になることがかな。俺、しばらくずっと親父の手伝いができなかったんだ。なんていうか、急に何もかも投げ出したくなったことがあってさ、それから、俺何もしてないんだよ。なんだかプレッシャーに弱いところがあってなあ、自分でもわかってるんだけど」
「少し思ったんだが、それは、前に溺れたやつを助けられなかったことが、関係しているのかい?あれ以来、ロムンカはすっかり落ち込んでたな」
「はは、まさか…あれは大分前だぜ。そうじゃない。急に…本当に急に、逃げたくなったんだよ。プレッシャーに弱いんだよ。それだけさ。でも、久しぶりに漁をしてさ、ほら、魚捕るためには、決断と勇気が必要なんだよ。それを思い出してさ。俺に足りないもの…それは、もしかしたら、この仕事をしていて補っていけるんじゃないかって、思ったんだ。俺は、漁師になる、そう決めたんだ」
 彼は両手を広げました。幼い頃から網を引っ張ってきたその手には、細かい傷がいっぱい付いていました。彼の目は輝いていました。彼の話は、しばらく地下の探索を休止していた時間に起きました。教師を目指しているラベルは、驚きました。人間の成長をみる顕著な変化が、このときロムンカに訪れていたからです。
「俺は神経質だけど、臆病者じゃない。俺は、ここ(地下街)にあるものが全部怖かったけれど、今は違う。裏切れないのさ、皆の決定には。俺もそれについていくことに決めたんだ。だから、さ」
「…ロムンカのその性質は、いろいろなものを気にするところからきているんだね。いいさ、わかった!皆に集合をかけて、ヨルンドの言うとおりにしよう。ところでロムンカ、君の性格を僕は嫌いじゃない。いろいろと責任ある立場にいるからこその、神経質さだろうから。それでいいと思うよ?それでなけりゃあ君じゃない!これからも気にしてくれよ、ロムンカの意見はもっともなんだから」
 ロムンカはほっとしてラベルに道を譲りました。
「石を打て!呼び出しの合図だ!」

 無機質の面は、彼らに未知のものが隠されていることを訴えていました。たいそうな構えの家の中には、彼らにとって本当に未知のものはなかったのです。ところが、この土蔵はどうでしょう。何か守られていることは、はっきりとしています。きっと盗人もこの中には入れなかっただろうことは、明らかです。
 ヨルンドが、数人の仲間とハンマーを持ってきたとき、場は色めき立ちました。すぐにでも壁を打ち壊してみたいと誰かが音頭を取り始めました。普段慎重にと皆に訴えるラベルも、このときは沈黙しました。彼もまた言い知れぬ期待感に胸を膨らませていたのです。
 壁の間近に立って、ヨルンドと一緒にハンマーを握った連中は、彼の方を振り返り、叩きつけてもいいものかどうかタイミングを尋ねました。ラベルは、ゆっくりとうなずきました。ごん、ごつんと震動が響きます。一撃ごとに、倉庫は震え、中から呻くような音が漏れました。しかし、十五人の子供たちはそれを不気味と思いませんでした。彼らはもはや闇に慣れていました。
 彼らの頭上で、いにしえの幽霊たちがその様子を見守ろうと、子孫へのメッセージを何かに託そうと試みているのだとしても、そんな気配に振り向く人間はおりませんでした。
 みしり、と壁が悲鳴を上げました。ヨルンドは周囲の仲間と目を返し合いました。いよいよ、次の一撃で、ここは壊れるのです。彼が、小さく槌を振りかぶりました。
 どすん がらがらがらがらがら…

 それは予想外の出来事でした。壁のひびは思っていた以上に上下左右に走っていたらしく、ヨルンドの一撃は、その打槌の底面積のはるかに広い幅の穴を空けました。そして、崩れた音は壁だけのものではありませんでした。中から黒々としたものがずるずると空いた穴から出てきたのです。それは勢いを増し、ヨルンドを、マットを、イアリオもピロットも包み込み、子供たち全員が、その波に呑まれました。皆仰向けに倒れて、倉の中に詰まっていたものの下敷きになりました。冷たく、それは細長く、硬く、ぬらぬらとした手触りがありました。人の骨でした。無数の死骸でした。むき出しの骨は最初何だかわかりませんでしたが、丸いものが、暗い目を二つ開けた、人間の頭の部分だとわかればそれは…
 出てきたものが、人間の死者たちであると、だれもがわかりました。
 期待した宝石は、人の石でした。三百年前、激しい殺し合いの果てに打ち倒された、都の人々の山でした。
 ある者は絶叫し、ある者は我を失くし、ある者は気絶し、ある者は逃げようとして足を取られました。子供たちは、この恐怖の現場から、仲間たちを求め、手に手を取って助け合うのではなく、一人の力で、それぞれが、この暗闇の真の恐ろしさから抜け出すよう努力しなければなりませんでした。たくさんの物言わぬ遺骸が、こう訴えています。子供たちにのしかかりながら、冷たい手を首や肩に巻きつかせながら、こう言います。ああ、ああ…

 我々をここから出してくれ。
 地面の下ではない、光ある地上へ。

 死と、生の狭間には薄い壁しかありません。両者は機会さえあれば、互いの領域を侵犯します。子供たちは、こうした経験をしたのです。天国は地獄へ、秘密は表へ、死は命あるものへ、変じました。彼らは、三百年間人々がひた隠しにしようとしてきたものを、まざまざと現実に目の当たりにし、誰の心にも深々とした亀裂が穿たれました。
 十年後、イアリオは再びこの経験をした暗黒へ入っていったのです。そして、運命に導かれるままに黒い表紙の日記を手にしたわけですが…
 その著者、ハルロス=テオルドの子孫、カルロス=テオルドは、その晩地上の町に戻ってくることはありませんでした。
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