第8話 ハルロスの日記

文字数 18,583文字

 イアリオは黒表紙の日記帳を持って、カルロス=テオルドの勤めている、小さな図書館へ向かいました。この町にはいくつか図書館があって、人々は自由に本を借りることができます。しかし、紙は貴重な資源ですから、貸し出しには厳重な注意が必要でした。書物がある家はほとんどなく、町人の大体が紙面上の知恵を得るためには図書室に向かわなくてはなりません。
 イアリオが見知らぬ本を持っていることで、一騒動起こる可能性もあるということです。彼女はそうしたわけもあって、まずテオルドに事態を報告する必要があったのです。彼女は、道中かつての仲間である、二歳年上のマルセロ=テオラと出会いました。彼女は小さな女の子を連れて、買い物の帰りでした。二人は目を合わせましたが、会釈するのみで、言葉を交わしませんでした。
 テオラの夫は、彼女が憧れていたあの少年ではありませんでした。あの少年は、事件のあった三年後に死んでいました。自殺でした。マルセロ=テオラは後ろを振り返って、イアリオの背中をじっと見ました。子供が、母親の様子を窺いましたが、そのかたくなな表情は厳しく、何を語るものか女の子にはわかりませんでした。
 北地区の中ごろにある一階建ての四角い建物は、地下に書庫を持つ手狭な図書館でした。それでも六つある部屋の椅子には人々が座って、それぞれ思い思いに本を読みふけっていました。館には物語もあれば、地質学や農学を伝える本、言語の辞典、歴史書などバラエティー豊富な書物が取り揃えられていました。子供は、ここに入ることは許されません。また書架から自由に本を取り出すことも禁じられています。イアリオは三段ばかりの石段を上り、厚くしつらえた木製の扉を開いて中に入りました。からんからんと鐘が鳴り、側の受付の人間が顔を上げました。テオルドが、厚い額をこちらに向けて、ぼんやりとした目を上げましたが、その視線は決して人懐っこくはありません。彼女は彼が苦手でした。十五人の仲間であれば、一緒に行動することもできましたが、常に懐中に一案を持っていそうなこうした人間を心の底で信頼できなかったのです。
 しかし、今は懐かしさが勝りました。彼もそうした表情に変わりました。目の光は一向に青白くて何を考えているかわかりませんが。
「やあ、久しぶり。何の本を探しているの?」
 ここでは客人の代わりに司書がいつも本を探すようになっています。先にも述べたように、紙の製品は取り扱いが厳重なのです。イアリオはどもりながら、黒表紙の日記帳を彼の前に差し出しました。
「私がまだあの地下を探索していることは、多分知っている?そこで、ちょっと見つけたの。あそこから何か持ち出すのはもちろんいけないとはわかっているのだけど、ほら、表紙の銘を見て!テオルド、て書いてあるでしょ。ひょっとしたら、あなたに関係もある本じゃないかって思ったの」
「へえ!」
 テオルドは非常に感心した声を挙げましたが、イアリオはそれが彼と同じ姓が銘打たれていたからだと思いました。
「よく見つけたね。たしかに本は貴重だからなあ、こっちで管理した方がいいとも言えるかもしれないね」
「そのつもりで、持ってきたんじゃないけれどね」
 テオルドは目を上げて、「ん?」と訊いてきました。
「私に、貸し出しを許してほしいの」
「なぜ?」
「もし、その本が三百年前に書かれていたならば、詳しいことがわかると思うの。私たちの町の地下に、どんな恐ろしいことが起きたのか。勿論、それは成人の儀の時に聞かされたわ。でもね、それだけじゃ足りない気がするの。自分が、知っておかなければならない量ほど多分、成人の儀で聞かされてはいないんだわ。今ね、私の勘で、まだ下に侵入者がいるんじゃないかということで捜索を許してもらっているわ。でも、実はその勘もだんだん薄まってきちゃってね。その代わり、新しい目的が芽生え始めているんだ」
「目的?まだ地下に潜り続ける理由かい?」
 テオルドは妖しげな目をこちらへ向けました。
「あの事件、きっとまだ覚えているよね?そう簡単に忘れられないわ。また、思い出したくもないことだもの…。ねえ、私たち、とんでもないことをしたと思う?あの土蔵を壊して、中のものを外に出して、一体それが、何を起こしたと思う?」
 イアリオは相手の顔色を窺いました。テオルドはまったく変わらず、その心も読めない表情をしています。
「何も起こしてはないかもしれない…だから、これは完全に私の主観ね。きっと。私、あの人たちを、供養しなきゃならないと思うの。私、あの人たちに抱きつかれて、こんな声を聞いた気がするの。『我々をここから出してくれ。地面の下ではない、光ある地上へ』、て。私たち、三百年間、彼らに何をしてあげたかしら。私たち、いたずらにずっと、彼らを恐れていたんじゃないかしら。彼らのしでかしたこと、ずっと隠し通そうとしてきて、今まで来たんじゃないのかな?そんな風に考えると、いてもたってもいられなくなっちゃってね。はは、恥ずかしいや、こんなこと、私だけが思うことだものね…」
 彼女は寂しそうに、ちょっと首をかしげました。けれどテオルドは真剣に聞いている様子です。
「だから私、もっと詳しく彼らのことを、知りたいと思ったのよ。その本ならわかると思う。だから、言ったのよ」
 イアリオは言い切って、濡れたような眼差しを彼に向けました。彼の目の奥底は濁っていましたが、閃く光がありました。
「いいことだ。そりゃいいことだ。でもねイアリオ、やっても無駄なことがこの世にはあるよ。君のしようとしていることは、ひょっとしたらそうかもしれない」
「無駄かな?」
 彼は頷きました。
「そうは言ってもやるんだろうが、君なら…」
 彼女はにっと笑いました。
「もう一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい?」
「それは、ここでは言えないかな。そっちの仕事が終わったら、ちょっと私に付き合ってくれない?」
 テオルドは時間を空けてくれました。図書館には彼の他に父親が働いていました。ハルロスの日記を記帳に登録するにはおそらく議会の承認が必要でしたが、あとですべてその作業は自分がやるとテオルドは言い、貸し出しの手続きをさっさと済ませました。父親に半刻ほどで戻ると言って、彼は彼女についていきました。太陽は高く天を昇ってきらきらしい日差しを送っていました。気持ちのいい日です。鳥の声も近くに聞こえます。町の建物が白く光を反射して、波立つように輝いています。この美しい町並みを、町人なら誰もが好きでしたが、イアリオもまた愛していました。「そうね、高台がいいわ」町は南側が海ですからそちらが地下の都市を飲み込んで、まるく盛り上がっていましたが、北地区のこの辺りで北方の平野を望める高さの広場に二人は行きました。そこは鐘突き塔の傍らで、北に向かった景色は野菜畑が延々と広がり、左方には小さな森林が生い茂り、右方には湿原を足元にした丘陵がなだらかに続きました。
「ここからの眺めはいいね。僕も気に入っているよ」
「ねえ…私があの盗賊たちのことを通報したのは、間違いだったのかな?」
 テオルドは彼女を見てその心理を見て取ろうとしましたが、失敗しました。
「あれでピロットがいなくなったと思っているの。だって私は、あいつと約束したんだ。必ずテオルドを連れてくるから、そして盗賊たちともかたをつけるからって…。私…。待ちきれなくなったわ。とてもじゃなかった、だって、あんな目に遭った場所で、違った問題が二つも持ち上がっていたんだもの。またあいつが同じ目に出会うんじゃないかって…!でも私、あいつを信用しきれなかったんだと思う。同じ子供だったから。私は最初から自分には何もできないって諦めていたから」
「ふうん」
 テオルドは気があるのかないのかわからない相槌をしました。
「あいつは結局いなくなっちゃった…その原因もよくわからないわ。私、まだ、迷ってるの。混乱してるの。もしかしたら、私の行動次第で、違った運命が訪れたのかもと思ってね…考えてもしょうがないわね!もう過ぎたことだもの。絶対にあいつ、生きていないし、私がいくら後悔しても、何も変化しないんだから」
「イアリオは…」テオルドがぬっと額を突き出して言いました。「あいつのことが、好きだったの?」
 彼女は少女のような目を彼に向けました。「ええ、きっと」そして、とても寂しそうに笑いました。
「そうなんだわ」
「僕は、イアリオの選択が間違っているとは思わないよ。まあ、あの時僕も地下にいたんだ、偉そうなことは言えないな。ピロットが君のせいでいなくなったとしても、君にはどうしようもなかったことでしょ?イアリオは自分に必要なことを必死でしたんだ。だったらそれでいいじゃないか」
 彼の言葉は慰みにはなりませんでした。その言葉には毒が多分に含まれていました。イアリオはひやりとした空気を吸いました。
「きっと湿原の墓丘に行ったのも無駄だったろう。そうそう願い事など叶うもんじゃないからね。でも、願わずにはいられなかった。ハハ、精一杯やったんだ。何も後悔する必要はない…」
 彼は眠たげな目を開けました。どんよりと沈んだ色の鉛の眼球は、人の後悔と破滅の未来を予言していました。
「そうか。それでよかったんだね。ああ…」イアリオは嘆息しました。テオルドはじっと変わらない視線を彼女に注ぎ続けました。探るように、ということは、彼の毒のある言葉が、いかなる効果をこの女性にもたらしたのか、測れなかったのです。
「ありがとう。そうにちがいない。私にはできるだけのことをした!それでいいんだ。なんだかすっきりしたよ」
 イアリオは一歩前に進んで、思い切り心地よい風を吸い込みました。豊かな胸が膨らみ、しぼみ、大量の息を吐き出しました。今までの悔しさと愛情と、恐怖と痛みをその一息で一気に回転させようとしたのです。彼女はそれが必要でした。
「誰かに話すことが大事だったんだね。私、あんたと話せてよかったよ。ありがとう。もう一度、言わせてよ」
 それは悪の好みではありませんでした。彼女の不思議なほど前向きな姿勢にその毒の息吹はかえってワクチンとなったのでした。

 家に帰るまで、イアリオは唇をきゅっと結んでいました。それは、テオルドと話して、どれほどピロットが、自分の中に息づいているかわかったためでした。彼の問題が長年の懸念だったのです。それが整理されて、今、次の目標を持つことができて、わくわくとした気持ちがありましたが、そのための責任の重さも感じていたのです。それは誰かがやらなければいけないことでした。彼女たちが呼び覚ました古代の人間たちの亡霊と、そこに巻き込まれてしまった彼の魂も、一緒に慰めてあげたいとイアリオは思っていました。目の前の視界が拓け、足取りは重く、それでいてしっかりと大地を踏み締めていました。
 しかしそれも歩みを進めている間でした。彼女は自分のベッドに腰を下ろして、今日起きたことをずっと思い出しているうちに、穏やかな心地になっていきました。次にしなければならないことは、今休んでから、行動に移すのです。彼女はどれだけ彼のことが好きだったのか思い出したのです。それが、今回の行為の動機になっていることを、新しい目標の導入にもなっていることを、よく理解していました。彼女の唇はゆるみました。微笑が顔面に広がっていき、もしそこに少年が立ち入れば、きっと彼は彼女に恋をしていたかもしれません。イアリオはひざの上におもむろにハルロスの遺した日記を広げ、本を傷めないように大切にしながら、彼の書き残した、亡国への愛の物語を紐解いていきました。
 ふと、彼女ははす向かいの家の小窓をちらと見ました。張り出したベランダに赤い色の観葉植物が鉢に植わっていました。イアリオはこの植物に思い出がありました。まだ歩きたての、ほんの二、三歳の頃に、この植物の葉をちぎっては齧りして楽しんでいたのでした。葉の味はほろ苦く、その味わいが楽しいのでした。彼女の好きだった人間は死んでしまいました。…ようやくやっと、その苦味を噛み締めたいと思ったかもしれません。これから彼女は、彼の墓にも、三百年前の、死者たちの墓丘にも臨むのですから。
 その植物は、まさに墓地の付近に生えていたのです。
 しばらくして、にぎやかな声が戸外で騒ぎました。子供たちが連れ立って走り回っているようです。彼女は本から目を上げて、涼やかな眼差しを再び窓の外へ向けました。
「先生ーーー!」
 聞き覚えのある声が、彼女を呼びました。イアリオは立って、小窓から伸び上がって外を覗きました。
「あら、ユート、私に何か用事があるの?」
 顔が真っ黒く日に焼けた少年が背伸びしながら言いました。
「あのさ、ハリト知らない?あいつがよく行くところとか、知ってたら教えてほしいんだけど」
 彼の後ろから続々と子供たちが集まってきました。この辺りの少年少女たちで、彼らがひとかたまりになって遊んでいるところを、イアリオもよく目にしました。
「ハリトは僕らのリーダーなんだよ。それがどこかへ行っちゃってさ。次に何をしたらいいのか、全然わかんないんだよ」
「あなたたち、どういう遊びをしているの?」
「リーダーごっこ?」
「わかんない」
「でもハリトが言い出した遊びでしょ?こっちがどうすればいいかなんてわかんないよ」
 子供たちの言うことは要領が得られませんでした。どうやらシダ=ハリトの妹のシオン=ハリトが彼らの団長になって、率先して子供たちを指揮していたようですが、突然いなくなったらしいのです。シダ=ハリトはかつてのテラ・ト・ガルの仲間で、その妹のシオンは、イアリオが受け持ちのクラスに来たことがありました。ですから、彼女はシオン=ハリトをよく知っていて、いろいろなところで少女を見かけていました。
「そうね…最近では東の市場なんかに顔を出していたけれど…」
「ええ~、そんなとこまで行っているの?やだなあ、ずっと遠いぜ」
「あんまり同じ場所にいるような性格じゃないね。よくハリトがあなたたちのリーダーなんかやってるわね?」
「僕たちのボスなんだよ」
「この人数を見てよ!みんなあいつに連れてこられたんだぜ」
「気分が乗ってる時はね、すごくおもしろいことを思いつくの。みんなそれに飛びつくの。だから人が集まってくるんだけど」
「あいつの噂だけどさ、前のところでも、おんなじようなことが起きたらしいよ。途中でゲームをほっぽりだして、どっか行っちゃったってさ。ゲームのルールとか、みんなあいつが考え出したから、それ以上遊ぶことができなくなっちゃったんだって」
 イアリオは子供たちの話を感心しながら、半ば呆れながら聞きました。どうやらシオン=ハリトは彼女が思っていたより大分問題のある生徒だったようです。少女のくっきりとした眼差しは彼女の担任でない今でも鮮明に思い出すことができます…。いつも挑むような恰好の目線、かわいらしいのだけれど、激情と思い込みの激しさを窺わせる挙動、そして豊富な膂力というべきでしょうか、持て余す力を、イアリオは少女に感じていました。なるほど、と彼女は思いました。少女のイメージと子供たちの話が頭の中で一致をし始めたのです。
「もし西地区に今もいるなら、ひょっとしたら、シャム爺という人に聞けばハリトの行方はわかるかもしれないけれどね…」
「なんで?」
「あ、知ってる!なんでも知ってる物知りシャム爺だ。今もいるのかな?ずっと昔からいるんでしょ?」
「そうよ。シャム爺はいなくならないの。彼はゴミ街にいるわ。とても入り組んだ道の、ごみごみした感じの一帯に住んでいるの。行ったことのある人はいるかしら?」
 何人かが手を挙げました。イアリオは頷きました。
「では、シャム爺を探してごらん?彼はいつも、どこにいるかわからないけれど、確実に街のどこかにいるわ。きっとハリトよりも捜し易いと思う。けれど、彼女が西地区にいるのかわからないから、どっちを捜すか、みんなで相談して決めましょう」
 イアリオは子供たちの相談に付き合いました。皆、真剣に討議した結果、ゴミ街のシャム爺を捜索することにしました。イアリオとしては、この探索が彼らの新しい遊びになって、良い感じでハリトを待つことにも切ることにもなるだろうと思いました。
「リーダー、ね…」
 子供たちが行ってしまってから、イアリオは苦い記憶を思い出しました。彼女たちのかつてのリーダーであったラベルは、死んでしまったのです。何が彼にあったかとても推し量れるものではありませんでしたが、確実に、地下での出来事がそこに関わっていたのは確かだと思われました。
 それから何日かが音もなくすぎていきました。彼女は時間さえあればハルロスの日記を読み進めていきました。イアリオは夢中になって読みました。ハルロスは、口下手な人間でしたが、教養があり、物語はしっかりした骨格を持って読み応えのある内容でした。彼の物語りに没頭した理由はほかにもありました。滅びる前の古代都市の美しさが、詩的に弦楽重奏をうたうように余すところなく語られていたのです。そこには筆者の主観や猛烈な思慕の念が混じっていたとしても、問題ではありません。雑多で野卑な住人たちが住んでいた、元々海賊たちの打ち立てた都市だとしても、戦士の代になり素晴らしい未来を望もうとしていた都市国家は、輝きに彩られていたのです。そのことは、亡くなった人々をいまだ供養しない、上の町の人間に少なからず疑念を抱いてしまったイアリオの腑に落ちる事柄でした。あの街を愛した人間がいたということが、どれだけ彼女の心を慰めたか…!自分たちが、亡者たちを目覚めさせたように思い、大好きだった彼が、その波にさらわれたように彼女は感じていたのですから、かの都の暗黒がその手だけでは慰め難いものならば、どうしようもなかったのです。彼女はその方法を知りませんでした。ハルロスはその方法を示してくれました。
 彼女は日記帳を持っていって、お墓の前で読んでみることを思いつきました。彼女は人間の愛が最上の薬になることを知りませんでした。しかし、ハルロスが海の外で行おうとしていた死者たちを慰める方法と、彼女の思いついたやり方は、同じものでした。もし…恨みで膨れたイラの霊魂が、テオルドやピロットに宿ったのだとしたら、ハルロスの思いは彼女にこそ具わったのでしょうか?
 どちらが今後、この町にとって、ふさわしい威力となるのでしょう?…
 止められない力は、もう、町の下から突き上がろうとしていました。黄金のように変わらない力が、すべての生命の間で流れていました。その威力の最前線にいた一人が、彼女だといえるでしょう。自分のやるべきことが見つかったときに、その行いの全貌をその時点で知るなどということは不可能です。亡霊たちはたゆたっていました。何をかじっと待っていました。彼らに力はありませんでした…。ですが、さだめが彼らを待ち受けていました。
 彼女が地下から持ってきた本の、末尾の何ページかが破かれていました。イアリオは別段そのことを不思議に思いませんでした。そこにはイラの、溢れるばかりの怨嗟の思いが書き綴られていたのですが、
 そのページはテオルドのところにあり、彼女の前には、ハルロスの愛ばかりがありました。
 イアリオは、夜中身を起こし、小窓から夜空を見上げました。涼しい風が、入り込み、その若々しい顔を、丸くなぜていきました。彼女はまっすぐ空を見上げました。星たちがきらきらと瞬いていました。
 同時刻――その日の夜は、満月でした。月の真下に、下着姿の少女が立っています。この町の下着といえば、体にぴったりとした長襦袢です。無論、年頃の女の子がそんな格好でいれば非難の嵐です。
 少女は四角い石屋根の上にいました。名前をシオン=ハリトといいました。目は丸く、くっきりとしていて、あの月のように輝いていました。可愛らしい頬は白く月光を浴びて、束ねた髪は、野ざらしにされた藁のようでした。野性的な力の奔放さを体に漲らせている、獣のごとき人でした。なぜそこにいるのかといえば、気持ちがいいからでした。恥ずかしさを彼女は気にも留めていません。少女の生命力は奔放で、受け止める相手がいなければ、どこからか漏れてしまうのです。
 彼女には想い人がいました。いえ、そう彼女は思ってみることもしませんでしたが、最も信頼できる異性がいたのです。彼女はおもしろいことがあるといつも彼に話しました。…その相手しか、まともに少女の話は聞けなかったのだともいえました。少年の名はレーゼといいました。悲劇が歴史に仕組まれていたとしたら、この二人にもそうでした。
 その晩、ハリトは家々の屋根を伝わりながら、おもしろそうな事件に出会いました。黄金を見たのです。手に抱えるほどの大きな塊を、男の子が持っていました。彼女は目を瞠りました。塊の毒々しい色合いは、決して美しいとは思いませんが、それでも神々しさと気高さを感じたのです。男の子はそれを仲間と思しき別の少年に見せていました。彼らは何事か言葉を交わしていましたが、声が小さくて、やっと聞き取れたのは次の単語でした。
「町の下…黄金の洞窟…言葉…仲間…」
 二人はいさかいになったらしく、黄金を持つ方の少年が、相手をぶちました。相手は血を流しました。殴られた方は恐怖の気色が浮かんで、ぶった方の少年は笑いました。彼は黄金を相手に渡しました。相手は驚いたように塊の感触と色を確かめて、じっと彼を見据えました。何かの約束が交わされたのでしょう。二人は頷いて、毒々しい金の固体は元の持ち主に渡り、一緒に連れ立ってどこかへと行ってしまいました。
「で?」
 翌日、ハリトからその報告を受けたレーゼは、柳の葉のように鋭く開いた眼を少女に向けて、水のような口調で訊きました。
「あれ?ここで食いつくものだと思っていたけれど」ハリトが意外そうな顔をしました。「そんなにつまらない話だった?」
「そうではないけど…中途半端だな。お前、奴らの後追っかけて、その洞窟とやらを見つけたんじゃないの?」
「なんだか寒くなって、ん…クシュン!」
 レーゼは呆れて手を挙げました。
「商人としてさ、興味ないの?黄金って価値のあるものなんでしょ?」
「お前、よく知らないな。商人ってのは蓄えて何事かなす人間なんだよ。なんでもかんでも価値のある物を持っておくような神経じゃない」
 ハリトはよくわからない感じの顔をしました。
「まあ商人なんて、俺が勝手に自分を言ってるだけだ。そんな職種の人間は、この町にはいないからな。憧れがあるよ、彼らの生き方には」
「あの広場に、噴水をつくるため?」
「そう。そのために蓄えを作る。俺の力でやりたいんだ。例えば意見書を出して票を集めて、町中でその事業に取り掛かるとか、議員になって率先して活動するとかいうのはなしでな。ロマン、てやつだよ。女のお前にはわかんないだろ」
 ハリトはつっけんどんな性格のこの少年が好きでした。彼女は人々を巻き込んで遊ぶのが楽しく、それでいて非常に飽きっぽいものですから、子供らには福の神にも厄病神にもなりうる厄介な存在でした。彼女の話し相手になれる人間は、このレーゼをおいて他にはいません。しかし、彼こそ真剣に真っ向から意見を言える、本当の気持ちを言うことができる、貴重な相手なのでした。
「なーんだ」
 ハリトはつまらなそうにそっぽを向きましたが、本心は違います。時間をかけて、彼の気を引こうとしました。
「…悪かったよ。お前、わざわざ風邪引いてまでその話俺に持ってきてくれたんだっけな。確かに気になるよ」
 ハリトはぱっと振り向いて、意地悪く少年を睨みました。
「もっと早くそれを言えばいい」
 レーゼは肩をすくめ、すまなそうに目を瞑りました。
「でもいいや、許す。もっと真剣にこっちの話を聞いてくれよ」
「俺はいつだって自分なりに真剣なつもりだけど…」
「だったらちゃんと伝えてよ?そんなんじゃ、立派な大人にはなれないよ」
 今度はレーゼが彼女を何者かわからない顔をして見上げました。むずむずとするものを少女は感じました。自分でも何かわからない気持ちが、かたちにも言葉にもならないような、なんともいえない青春の衝動を彼女は持て余したのでした。

 テオルドは、図書館の隅で鞄を広げて中の半紙を取り出しました。そこには彼の母方の先祖が遺した文筆がありました。「大切なものだ。とても大切なものだ」彼はそう言い、玄関に目を向けました。そろそろ来る頃だろう人物が、折りよく扉を開けて、館に入ってきました。
「やあ」
 テオルドは手を挙げて相手を迎えました。それは、ヤーガット兄弟の弟ハムザスで、神経質そうな顔つきは相変わらずでした。しかし肉体はすっかり見違えて、今ではちゃんとした漁師になっていました。ハムザスは懐からメモのような小さな紙を出して、彼に渡しました。
「ありがとう。どうだった?彼女の様子は」
「お前が言うから、泥棒のような真似をしてしまって、俺は大いに反省してる」
 ハムザスは暗い表情でした。
「あいつの様子なんか見れるものか」
「それは残念だ」
 彼は怒りに燃えた眼差しをテオルドに送りましたが、自分のしたことの省察の色が大きく、一方的に相手をなじれませんでした。彼は、テオルドに言われて、イアリオの持っていった日記帳の間に挟まれた紙を取りに行ったのでした。
「それは何だ」
 ぶっきらぼうに彼は言いました。
「元々、僕の物だよ。あれに挟んでおいたことを忘れてしまっていたって、話したろ。僕のご先祖様が書いた物なのさ。今になって思い出したわけだが」
「だったら彼女に言って返してもらえばいいだろう?」
「大事なことだったんだよ。彼女にもちょっと知られたくなくてね。ほら、君も彼女が単独で地下都市を闊歩していることは知っているだろう?ピロットの消息をもう一度訪ねたいかどうかわからないが、あんな危険なところに、これ以上行かせたままじゃいけないと思うはずだ」
「そうだよ。そう言われたから、俺はお前を信じて、こんな盗みみたいなことをやってしまったのさ」
 テオルドはハムザスにこう説明していました。この前イアリオが館に本を借りに来たのだが、古い文字を読むための辞書を要望した。まさか、とは思うが、滅びた都市から何か持ち出したんじゃないかと疑われた。可能性のある本がある。自分も昔持ち出したことがあって、その中に、小さな紙が挟まれている。もしそれが彼女の元にあれば、やはりイアリオは滅びの都市から本を持ってきていることになる…。
「これで証明されたな」
 テオルドは不気味な目を開けてメモ用紙を鞄に入れました。
「だが、これくらいなら彼女はまだ危険には遭遇していないとも言える。本を持ち出しただけだ。これからも彼女の行動には注意し続けることにしよう。ご苦労だったね」
 彼は、ハムザスを労って外へ送りました。ヤーガットの弟は依然不満げな表情を浮かべて、自分が行為を反省するも、その手がかりがないといった困惑にも苛まれました。神経質なハムザスは、人の言葉に惑わされやすい性格をしていました。もはや大量の悪と、肉体が融合したテオルドをして、彼の心は自由にできる機械と同じでした。
「さあ、はたしてこれをすでにイアリオが読んだかどうか…」カルロスは、思いに耽るようにうつむき、目を細めました。彼の先祖の遺品といえば、勿論、彼の心を表したような、激しい憎しみと怒りに沈むイラの霊魂の叫び声でした。
 イアリオは、帰ってきて本が元あった場所から移動していたのに気づきましたが、さして疑問に思いませんでした。大方母親が掃除などをしていてどかしたのだろうとぐらいにしか考えなかったのです。彼女はその紙の文言を読んでいました。何か恐ろしい詩が書かれているのだとはわかりましたが、もしかしたら、ハルロスとは別の、当時の人間が書いたのかもしれないなと思いました。ハルロスのように、亡国を愛した人物はほとんどいないだろうと思われたからです。むしろ、彼女の時代までずっとあやまたず伝えられてきたように、かの王国を、間違いのあった国としてなじり嫌悪する人々の方が多いはずでした。しかし、彼女はそんな人々の気持ちも理解しなければならないと思いました。
 なぜならハルロスは、それも判って、この日記を書いたものだと感じるからでした。
「でも、どうしてだろうな」
 黒い表紙を見下ろして、イアリオは呟きました。
「あいつ、死んだとしか思えないのに。どこかで生きているって、信じてる」
 女々しい奴だ、と彼女は自分を笑いました。自分の恋心がまだ彼を求めていて、それを失ってしまったつらさを、多分認めたくないのだと思いました。彼女は涙を流しました。自分のわだかまる心を抑えるために、鼻の脇を一筋だけ。

 さて、彼女は墓参りをめぐる日取りを決めました。この町で、墓参は家族の命日以外で行われる慣習はありませんでした。墓守もいません。彼女は夜出掛けることにしました。なぜなら、墓地は町に密着するかたちで西側の小高い丘にありましたが、そこへ続く道は一本道で、目立つからです。これは、彼女の母親のアドバイスもありました。母親には彼女の考えのすべてを伝えています。何にしても、できるだけ、彼女は自分のしていることをあまり人に知られないようにする必要がありました。彼女の行いは、決して人々から好まれることではなく、そう望むのならばゆっくり時間をかけていって、まずは周囲から、三百年前の出来事に対する考え方を変えていかなければならなかったのです。トクシュリル=ラベルの臨んだ態度、慎重に、慎重にが、彼女にも効果をもたらしたかどうかは…わかりませんが。
 夜中に家を発ったイアリオは、小脇にあの日記帳を抱えて、蝋燭と蝋燭立てを持っていきました。慎重に慎重に、出掛けた時からイアリオは、周りに目を配りながら行きました。別に悪いことをしに行くわけではないのですが、ハルロスが殺された事実を彼女はまだ知らなくても、彼の身に降りかかった運命を感じていたのかもしれません。道は建物に沿ってうねうねと曲がりくねっていました。もっこりと突起した地面に張り付くようにして建てられた街並みは、美しいのですが不揃いの歯のように落ち着きがなく、整然とした並びではなかったのです。長い道を彼女は歩きました。丁度、行程の中間あたりに差し掛かって、彼女は一息つこうと休み場所を探しました。そこへ、向こうから灯りが近づいてくるのが見えました。彼女は身を隠そうとして、建物の影に潜もうと動きました。すると、その物陰から、ひょいと誰かが不意に姿を現しました。その人物は、多分反対側の建物の影に移動しようとしたのでしょうが、突然目の前にイアリオが現われて、驚き慌てて、引っ返しました。
(私の方が、その気分だわよ!)
 こちらもまったく驚いてしまって、隠れることを彼女は忘れてしまいました。灯火は近づき、彼女を照らしてしまいました。
「あれ、イアリオじゃないか」
 相手は知り合いの、そうです、忘れることのできない事件の当事者だった、かつての仲間、ヨーア=マットでした。彼は今や父親の後を継ぎ医師になっていました。
「なんだ、マットだったの」
「珍しい。こんな夜中、明かりも持たずに、どちらへ?」
「マット…久しぶりね。元気だった?今、診察回りなのかしら?」
「まあ、ね。ちょっと大変な患者がこの先にいてね…けれど、こんな所で会うなんて。成人の儀以来かな」
「十年前以来、ともいえるわ」
 マットはびくっと身を震わせて、声色の変わったイアリオを怪訝な目で見ました。彼女は彼の前にハルロスの本を掲げて示しました。
「この本はね、あの地下で見つけたのよ。私、これからこの本を持っていって、ある人たちに読んであげようとしていたの」
 彼は、疑い深げな視線を寄越しました。その理由は十分彼女にはわかっていたので、何も隠し立てはしまいと思いました。
「見て?これにはずっと昔死んだ人間の、供養とまじないが書かれているわ。私たちのご先祖様が、やってしまった行いを、慰めようとしていたの。この本には亡国の希望と美と悲劇が、作者の愛情をふんだんに浴びて描かれている。あの国を愛した人物がいたんだわ。その愛が…あの街に、まだ囚われている人たちを、慰めることにならないかと思って、これからお墓に向かうところなの」
 彼は、あっけにとられた顔をして、しばらく佇んでいました。「君が、まだ地下を捜索していることは知っていたが…」マットはぼそぼそと話し始めました。
「たった一人でそれをやる気かい?」
「私しかいないもの。今は、多分ね…」
「それは、いなくなったピロットのためでもあるのかい?」
「そうね。きっとあいつのためでもあるかもしれない」
 しばらく考えて、マットはふうと長い溜息をつきました。
「これは、もっと詳しく聞かなくちゃならないな。でもどうしてだろう、君の感情が理解できるよ。俺も、随分考えたものだよ。どうしてあの街に、まだ、あの骸骨たちがいるのかってね。成人式にそれがわかったわけだが…僕たちがあの街を恐れ続けている理由がわかったわけだが…どうにも、腑に落ちない気分だったよ。君の行動は理解できる。その考え方も、正しいところはあるような気がする。けれど、もっと慎重に、考えなければならないようだと思う。この場では今なんとも言えないけれどもね。もし、また会う時間があったら、お互いによく相談してみないかな?君にだけ任せておくことができないようなことだと思うから」
「ええ、いいわ」
 それが彼女の望みでした。周囲から変える…特に、あの事件と自分とに深い関わりのある人間から、徐々に、人々のものの考え方を変えていくこと。それこそ、自分自身の最終の目標かもしれないなと、彼女は考え着きました。慎重に、慎重に…マットの口からも、その言葉が漏れました。死んでしまったラベルの霊は、もしかしたらまだ、彼女たちの上に留まっているのでしょうか?
 でも、かつての仲間の一人が悪霊に食われてしまったことを、彼らは知りません。
 道中、にぎやかな酒場の前を通りかかりました。あの明かりの中で楽しみ笑う人々にとって、果たして彼女のやろうとしていることは、善でしょうか悪でしょうか。もしかしたら、この町の伝統を一挙に覆しかねない思いを抱いている自分を、彼らはなじるでしょう。怒るでしょう。怖がるでしょう。弾くでしょう…。そんな可能性の想像を、今はしてもしょうがないとイアリオは思って、酒場の前を通り過ぎました。
 その先は、いよいよと道が狭まり、空中廊下が橋渡される、ごみごみしたゴミ街の始まりでした。ここに、シャム爺と呼ばれる老人が住んでいました。彼女は彼から、北の墓丘でお祈りをすれば願いが叶うということを教えてもらいました。シャム爺は町の西地区のことをなんでもよく知っていて、彼の知らないその地区の人間はいません。その他にもたくさんの知恵と知識を備えていて、人々から頼られる立派なおじいさんでした。彼は地域の守護者でした。一つの場所にずっといるということがなく、あちこちにいて、捕まえることはとても難儀でした。しかし、その地区に何か問題が起きたり事件が起こると、彼はあっというまに現場に向かい、人の手配や被害者の介助など何でもしてしまうのでした。
 ですが、最近、西地区にシャム爺にもよくわからないことが起きていました。何者か知りませんが、夜中、狭い小路をこそこそと出歩く者が何人も現れたのです。彼らは素早く、身を隠すのがとても上手で、シャム爺でも捕まえられませんでした。正体不明の相手は、町の人間であることは確かでしたが、誰かということまではわかりません。それだけなら何も問題もないのですが、自分が何でも知っているという街に、よく知らない物事が起きているのはあまり気分のいいものではありませんでした。シャム爺は落ち着きのない寝床に就きました。そして度々、今度こそは正体をつかんでやると言い、夜の街に繰り出して、すばしっこい影を追いかけていました。
 西地区の管理者である彼は人影を見つけました。相手は彼の追っている人間ではないようですが、どこか見覚えのある風貌に惹かれました。彼は相手に気づかれることなく、後ろからついていき、いつのまにか併走しました。イアリオはぎっくりしました。小さな影が懐に貼りつきついてくるのです。その影が以前世話になったおじいさんだとわかって、飛び上がるほど驚いた彼女は、足を止めて胸に手を当てました。
「シャム爺じゃないですか」
「先日、お前さんのつてで子供たちがやってきたよ。たった三日でわしを見つけるとは、なかなかやるじゃないか」
 老人はにっと笑って言いました。
「さすが、ルイーズ=イアリオの教え子かな?イアリオは、ただの一日でわしを見つけたもんなあ」
「おじいさん、こんな夜中にお散歩しているの?体に障るわ」
「ハハハ、よく言うわ!お前さん、わしのことを尊敬してないとみえる。十年ぶりの挨拶がそれか!でも、そっくりそのまま、同じ言葉をそちらに返そう」
 老人はふさふさした白い眉をぴくぴく動かしながら、人懐っこい笑みを浮かべました。以前も彼らは、こうした調子の会話を交わしていたのです。どんなに年齢差がある人間でも初対面でただちに仲が良くなることが稀にありますが、彼らの相性はぴったりでした。当時、彼女は十二歳なのでしたが。
「変わらないわね、シャム爺。少し眉毛が伸びたぐらいかしら?」
「お前さんも相変わらずだ。つかみどころがないなあ。十年前の女の子は、わしのところに、お祈りの仕方を教えてもらいにきたわけだが、しっかりした考え方を持ち、一人で立てる強さを身につけていた。誰もがそうじゃない。わしは尊敬しているよ」
「ちょっぴり皮肉な言い回しも変わらないのね。いいわ、私、こんなにも片時もあなたに感謝を忘れていなかったことを、どうしたらわかってもらえるか…!」
 イアリオはぎゅっと彼を抱き締め、シャム爺がぽんぽんと背中を叩くのを待って、離れました。
「伝わった?」
「よく育ったものだ。いろんな意味でな」
 シャム爺はいたずらっ気を含んだ眼差しで、彼女にウインクをしました。
 二人は連れ立って歩きながら、いろいろと話をしました。最初にイアリオは、こんな晩に一人で歩いているのは、人目を憚ること、そして大事な任務のためだと話しておきました。シャム爺はそれを尊重して、人目につきにくい道を案内して、かつ小声で、誰にも聞かれない方法を彼女に教えながら道すがら話していったのでした。
「自分の中で気持ちが盛り上がらないように…一言一言、区切りながら話すんじゃ。人の言葉と感じられない間の取り方というものがある。しゃべるとは、タイミングで、すなわち調子だからな。ぼそぼそとしゃべれば、それが会話かどうかは人にはわからない。声の調子が会話のそれでなければ、ただの環境音として、人は聞くものだ」
 イアリオはそのとおりにしました。二人は誰にも会うことなく、また誰にも話を聞かれることなく、イアリオの目的地へと行くことができました。
「墓地か」
 シャム爺は驚いたように眉を上げ、考え深い眼差しを彼女に送りました。
「ええ。ここで…」
 イアリオは墓地の敷地に足を掛け、入り口の赤色の植物を見て、その葉を取って齧りました。苦味が口元にいっぱいに広がり、なんともいえない、すっきりした気分になりました。
「私は死者を供養するわ」
 彼女は小高い丘の頂上に立ち、回りを眺めました。石の墓が立ち並び、白き町とは別の、整然とした美しさを彼女は見ました。月が高くから蒼白い光を投げて寄越しています。青々と草がさわめき、蜥蜴が窪地から、にょろっと出てきて墓石の頂に立ちました。イアリオは胸いっぱいに空気を吸いました。果たして死んだ人々は、彼女の想いを、理解してくれるのでしょうか。彼女はここに来た理由を皆までシャム爺に言いませんでした。ただ、これからの行いを見てもらって、どう思ってくれるか、話してくれるよう彼に頼んでいました。
(どのみち町中の人たちに私の考えていることを理解してもらうなら…とてもいい機会だわ。忌憚のない意見を彼に求めましょう)
 彼女の覚悟は、歩いているうちに、増してきたのだともいえます。それとも母親や偶然出会ったマットに、自分のすることを支持されていい気になったのかもしれません。
(まずは私の先祖に報告する。そして、私の中でどんな反応があるのか気づく。いいわ、それで。さあ、始めましょう!)
 彼女は、黒い表紙の書物を開けて、隣に蝋燭を立てて、読み上げ始めました。
「私はこの街を、この国を愛している。それは、国がこのように滅びた今も変わらない。私は、手探りでこの国を癒すための方法を探している。それは、一つがこの場所に各死者たちを弔う墓を立てることと、もう一つがこの亡びの話を他の国の人々に語り聞かせることだと思っている。
 私には妻がいる。といっても、これから妻になることを約束した女性なのだが。私は幸せである。彼らに、感謝しなければならない。彼らとは、死んだ人間、生きている人間、すべての我が国に生きた人間である。彼らがいて、私たちがいるのだ。どんなに恐れるべき恐慌が我々に降りかかったとて、私は生きており、彼女も生きていて、二人はその恐慌のあとで出会った。すべての物事に感謝しなければいけない。それは、私がいまだこの国を愛しているから。亡くなった今も、国家は私の中に、そして彼女の中に、確かに生きているのだから。…」
 イアリオは前もって選んでおいた箇所をなぞりながら、揚々とした口調で謡いました。節はなく、音程もなく、ただ声を張り上げただけの、とても歌とはいえる調子ではありませんでしたが、この墓地に響き渡る、聡明な声は、彼女の想いを乗せて、朗々と広がってゆきました。シャム爺は草場に座り込んで、あちこちに灯火の灯る町を見ていましたが、彼女の謡曲が始まると、不意に苦痛に襲われました。彼の民族が長年、隠し通してきたものを、彼女によって、暴かれたからです。それが、どれだけ歪みきらった事実なのか、彼はよく知っていました。ですがそれは彼らがなんとしてもこの地で生きていくための方策でした。三百年もの間続いたのです。伝統はしっかと根を下ろし、変えることなく、変わることなく息づいているのです。それは今更の言葉でした。彼らはよく知っていました。(やめろ、やめないか!)そう彼は言いかけて、何度も口を閉ざしました。彼はこれ以上この場にはいられないと思い、出口をさして、行きかけようとしました。
 すると、今は亡くなった友人たちが、彼の失った妻もまた、墓地の入り口に集まってこちらを向いていました。おいでおいでと言っているようで、まだここには来るなとも言っているようです。彼はびくりとして、真っ青になりました。シャム爺はイアリオを振り向きました。この若い女が、彼らを連れてきたのかと疑いました。彼は空を見上げました。降りかかるような星空が、天井を覆って、まるでこちらに襲い掛かるように見えました。彼はくらくらして地面に尻餅をつきました。
「もうやめてくれないか…」
 彼の訴えはイアリオの耳に届きませんでした。シャム爺は目をしばたたき、諦めました。この歳では、行くも戻るも、膂力が足りなく、いつも受け入れるばかりなのです。
 歌声ばかりの静かな晩は、粛々と過ぎていきました。彼女は遥かな星空を見上げて、手応えを覚えました。確かに死者たちは、彼女の想いを受け止めて、こちらに応えてくれたように感じられました。生きている人間が変わらずして、死んだ人々が変わるだろうかと彼女は思いました。もしかしたら、亡くなった人間も、私たちに残した思いに縛られていたんじゃないか…?ふとそんなことを思い、彼女はじっと空を見つめました。墓の中に、魂はあるのでしょうか。もし人間が生まれ変わるなら、空にいて然るべきでしょうか。霊魂の解放は、生きている人間の供養によってもたらされるなら、今まで彼女たちのしてきたことは、正しかったのでしょうか。また、もし先祖に今も守られているのだとしたら、その守りは、果たして全部必要でしょうか…?そんなことが頭をよぎっても、今の彼女には何もわかりません。若々しい頭脳が、そう思いついたにすぎません。
 ですが、若い女性の気持ちは、死者たちの中に届いたと思われました。そうであれ、人は、死者たちを、自分たちの先祖を想い続けるのかもしれません。
「行きましょうか」
 彼女は片づけを終えて、シャム爺に声を掛けました。彼はぼんやりとした表情でした。
「どうしたの?疲れちゃった?ごめんね、どれだけ時間がかかるかわからなかったものだから…」
 イアリオの言葉を何も彼は聞けませんでした。彼はやっと立ち上がり、彼女に支えられて、墓地を出て行きました。
「お前さんについてこなければよかったかもしれないよ」
 そう言うと、彼は一人で歩き出しました。彼女には、それがあまりに疲弊してしまった老人の文句にばかり聞こえましたが、そうではありませんでした。もう一度、「ごめんなさいね」と言って、ふらふらとした足取りの老人を、側でいつでも手を貸してやれる用意をして、彼女は墓地の景色を後にしました。
 …シャム爺は、イアリオの用事が終わってから、自分の関心事を彼女に相談してみるつもりでした。夜な夜な、街を行く人間が誰なのか、一緒に見当をつけてもらおうと思ったのです。月も沈んでしまった夜更け、家路についた二人の人間を、遠いところから見つめる二つの目の光がありました。それは、ぎらぎらとして、獣のようでした。
 恐ろしいことが、この町に起こりつつありました。
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