第24話 三年の刻 前

文字数 33,586文字

 明けの空が広がりました。豊かに、誠実に。すべての世界に、人間に、いつも訪れている景色でした。様々な思いで、この空を眺めるでしょう。その数だけ、永遠は続くのでしょう。ともし火が揺れました。きらりと光る、星が二つ、落ちました。
 ある一つの町の光景、イアリオは、再び地下に潜ろうと、一人準備していました。どうにも子供たちを中から追い払っただけでは気持ちが落ち着かなかったのです。彼女は言い知れぬ感覚に侵されていました。誰かが、あの街にいる。
 それが自分だと彼女は気がつきませんでした。なぜなら、オグは、どこにでも隠れているからです。そこにだけいるのではなく、いつでも人間の感情を自由にして、思い通りにしてしまいます。それでも、自分の一部なら、完全に思い通りというわけにはいきませんが。
 イアリオはある亡霊に出会いました。その霊は、彼女を最も愛した人間の手元に導きました。彼が書いた書物の元へ。イアリオはその本を手にして街から出て行きました。
 愛しなければならない。これが、彼女の心に宿った正確な心理でした。それまで、人々はその暗黒を恐れて、過去を恐れて、未来を恐れて自らを呪縛していたのです。彼女の冒険はここから始まりました。事の発端は、十五人の子供たちが秘密の地下の入り口を見つけたことでしたが、彼女の真の物語はそれから十年後に始まったのです。
 太陽が昇ります。月が沈みます。太陽はその顔を変えません。変えたように見えるなら、それは太陽を見る人間の心が変わったのでしょう。月はその形を変えます。人は月を眺めて、どこか、懐かしい気持ちになりました。

 オットー=シュベルは、よく自分が千切れそうになる夢を見ました。彼は、エンナルとは別の人物に連れられてピロットに遭いましたが、ただちに彼に取り込まれました。彼の息吹が顔に掛かり、それで、やられたのでした。認めまいとしても認めざるをえない、或る他者に心の底までやられてしまう感覚を、人は一生のうちに何度味わうでしょうか。幸いにもシュベルは若くしてその相手に出会ったのです。ピロットは彼の隅々までわかるようでした。シュベルは声変わりする少し前に彼と出会いました。彼と向き合う恐怖のために、シュベルは声を潰し、ひどくだみ声になってしまいました。
 シュベルは、二十二歳になったイアリオが責任を持って子供たちを追い払った一件の後、シャム爺の治める西地区に夜な夜な徘徊した少年たちの代表として捕まった人物でした。彼は、その後成人の儀にて町に叛旗を翻して失敗し、地下へ逃げたところを、ピロットに殺されてしまいます。蒼白い顔をしたその文型の青年は、本が好きでした。テオルドほどではないにしろ、図書館に収められた本は読み尽くして、想像の翼を天高く羽ばたかせた青年でした。空想の世界は無限でした。何でも自在にできる場所は、彼の頭の中にこそありました。
 ところが、想像の世界は海の外にこそありました。彼はピロットにどんなことが海の外でできるか、教え論されました。実際に連れて行かれ、その言葉通り、何でもすることができました。王笏を掲げることもできました。女王に挨拶することもできました。召使たちに命令もすることができました。シュベルはこの世が何でできているかわからなくなりました。空想が現実を生み出しているようにも、現実が空想を生み出しているようにも、どちらにも思えたからです。町へ戻れば外で経験したことは一切口外できず、その素晴らしい自由な体験は彼の体の内側へと押し込まれ、誰とも共有できず、それが本当にあったのかどうかも確かめられませんでした。彼は次第に町の内と外との区別がつかなくなったのです。
 シュベルのような気分になった若者は他にもいました。彼らにピロットはこう教えていました。
「いいか?まともなのはただこの町だけだ。この町ではすべきこと、してはならないことがある。約束事だ。これを守ればみんなで平和に暮らしていける。どんな喧嘩があったって、薄汚い言葉を投げ掛けられたって、約束事はみんな平等に包んでいるから、その中に全部収まるのさ。それが大事だ。だが実際はどうだ。歴史でも習っただろう。滅びる国、自滅した国がある。戦争で蹂躙された国もあれば、天災でやつれた国もある。
 この町が、そうはならないなんて誰が言えるだろうか?そう、そうはならないために、町を維持しているんだ。約束事をつくって。その中で平和に暮らしていけるように。ただ自由はない。あらゆるものを破壊してもいいなんて自由はない。いいか?まともであるということは、こういうことなんだ」
 彼はまともなことをしゃべりました。しかしそれは大きな大きな嘘でした。約束事のない社会などないのです。幼い頃から、人は人と生きるために、自分の中にルールをつくるのです。これ以上は言ってはいけない。続けてはならない。抑える必要があると。彼を育てたビトゥーシャにしてもそれはあり、悪を犯しつつも彼女は社会を楽しみました。
 しかし彼は町の外ではそのような制限は存在しないことを連れて行った子供たちに教え込みました。子供たちのやりたいことは、彼が後押しして、何でも実現させてあげました。と言っても、そのやりたいこととは、他人の主権を侵害するような、専ら悪とつながる行為でした。彼は自分が実現してあげやすい願望を持った少年たちだけを選抜して連れて行っていました。つまり、自分と同じような破壊的願望のある者たちだけを、仲間にしたのです。自分と似ていればこそ、支配しやすく操りやすいのです。
 彼にとって町の内と外との区別がつかないのは、この町に生きる全町人でした。それは町の内外に境目をつくることで生み出されてしまった混乱でした。恐怖の感情が要請して築いた三百年前の岩壁は、己の中にもその壁をつくり出し、その壁の外に黄金を求める根源的な欲望を追い出してしまったのです。
 自分も世界も、悪を内包するほどずっと広いのに。シュベルと同じく本好きだったテオルドは、この認識に到達しましたが、シュベルやエンナル、その他ピロットに連れられて行った子供たちは、そこまでを彼から教えられませんでした。彼もまた、そこまでをビトゥーシャから教えてもらいませんでした。
 子供たちは、どうして身の千切れる思いになったのでしょうか。悪とは何でしょう。社会正義に反するものでしょうか。いいえ、それは言わば影なる分かたれた自分の偶像です。どうしてそのようなことをするのか分からない、自分に影響を与える、自分から遠ざかった緒力です。それは、純粋な暴力であることもありました。裏切りであったり、忘却であったり、死であったりしました。ピロットは、子供たちから主権をこそ奪いました。それが正しい悪の道でした。自分の力では咲けない花にしたのです。子供たちは、彼に脚を折られたのです。彼の用意する荷車に、乗せられなければ動けなくしたのです。その荷車こそ自分であると彼は気づきました。テオルドも気づきました。イアリオものちに気づきました。人から揮われる行為、それに対する自分の反応は、すべて、自分をかたちづくるものとして、彼らは感じ取ることができました。どのようにしてそれを捉えるのかは自分次第であると、悪は、どうしても自分の一部なることを。ピロットはこのような認識に至る道筋を、彼らのために、自分が用意したとは認識しませんでした。彼の教育は激烈で、まったく子供たちには早過ぎた授業でした。
(どうしてこうなっちまったんだろう)
 シュベルは、自分の体調が著しくおかしくなったことに憂鬱を感じました。義務教育を終えて職業訓練に勤しむようになって、彼の中の感覚の齟齬は、増していくように感じられました。
(自分がばらばらになりそうだ。まるで、ずるずると沼地に引きずりこまれていくようだ)

 子供たちが地下で遊んでいたことが明るみになり、大人たちが頻繁に地下に出入りするようになってから、ピロットは彼の子分たちを町の外へ連れて行くことは止めませんでしたが、以前よりその頻度を落としました。彼は、テオルドもそうでしたが、彼らの領分とした者たちではない他の人々は放っておきました。テオルドやピロットが用意した穴から子供たちは地面の下にやって来たのではなかったのです。しかしイラは、子供たちの様子も見ていましたし、何より彼女が連れてきた一人の男性を相手にしていました。彼女は一人ずつを相手にしました。その男性は、結局は自力で這い出して、そのことを遂に口にはしませんでしたが、亡霊の力によって空けられた穴を、彼は誤って普通の穴と判断し、それを埋めようとしたのです。穴は、底があるように見えました。しかし地面が崩れたのであれば、下の土台が歪んだり壊れたりしたのでしょう。間違って子供が入ってはいけませんでしたから、彼はそこを埋めた後で議会に報告しようとしました。ところが土砂を運び、その穴の口に木製のスコップで土を入れようとしたら、彼の体が大きくかしぎ、体ごとその中にいざなわれたのです。慌てて突き出した足は穴の底面を抜けて、彼は地下に落ちてしまいました。このようにイラは町の人間を地面の下に落とすほどの力を持つようになったのですが、それは地下の暗がりの天井を覆う木材の梁や三百年前に人の手で構築した岩壁の老朽化によるところもありました。暗闇に落ちた人間は、この地下街で警備をした経験のある者なら出口まで造作なく帰り着くことができましたが、そうでない場合は必死で出口を探し回りました。彼の場合は後者でしたが運良く地上に出れました。ですが、地下で得体の知れないものに出会ったからこそ、そのことを口外しなかったのです。
 イラの霊は興奮していました。彼女が()んだピロットが海外から帰ってきて、まるで彼女が長年望み続けたことの下準備を彼がしてくれているのだと分かったからでした。それは上の町を壊すことでした。この地下に棲み続ける者たちを地上へ引き上げることでした。彼女は亡霊になってから周囲の囚われし思いたちの感情も聴いてきたのです。どうして彼らが今も暗がりに閉じ込められているのか、その理由を聞いてきたのです。彼らは肉体を欲していました。思い出せない、思い出せないと嘆いていました。彼らは自分が誰かの一部であることを失念しながら、それ自身の思いそのものになっていることを苦しんでいるようでした。戻れない、戻りたい、でも戻れない。彼らは主に殺された誰かでした。稀に殺害されたのではない純粋な思念そのものが囚われていることもありましたが、三百年前の集団自殺の際に生まれた者たちや、それ以前の海賊王朝自体に浮かばれぬ思いとなった者たちが、そこに漂っていました。彼らは自縛霊としても力を持たぬ者たちでした。それは誰かを呪わんとしてそこに留まったのではなく、ただその世に訪れたあまりの驚異に固まってしまった、思いの凝固体なのでした。
 彼らは自らの思いを繰り返すことをこの世に要請された者たちでした。その性質たるや、地上にいる同様の思いたちと同じでしたが、彼らは自分たちが暗闇にいることを自覚していました。彼らは自分たちが取り残された、見捨てられてしまったと感じる者たちでした。彼らはただちに人に悪を働くような、恐ろしい思念ではありませんでした。自分たちの思いを知ってほしくて、生者の誰かに吸収されて、それで満足しうるような、言ってみれば可愛げのある亡霊たちでした。ただ、彼らの感じた脅威は恐怖であるがゆえに、彼らに取り憑かれた者は、その感情に振り回されて大変な怖い目に遭うこともあるのですが。彼らが救われるには二択の方法がありました。他人の生者にその思いを理解されるのか、それとも…。イラの望みも彼らと大差ないものでした。彼女は自分が浮かばれたいから人を呪い、人を攻撃するようになったのです。そして彼女の呪いは彼女が愛した人間をすべての人間が理解してほしいといった思いからきていたものでした。まさに、彼女の驚異は誰も彼のことを理解しなかったということだからでした。イラの亡霊はそれが死後誕生した時、オグの片目を開けさせるような強烈な叫び声を上げましたが、誰も(私のことを)理解しなかったという悲鳴は、人の悪の底辺にもある繰り返すべき御霊の無念でした。それは誰もが持ちうるもので、人間が孤独を解する一つの思いでした。
 彼女は亡霊となりながらそうした孤独を解する怨霊だったのです。いいえ、その思い自身となった思いの塊が、ゆらゆらと揺れながら、その他の思いたちに触れた時、自分の志が解るようになったのです。ここは、光の当たらないところだが、我々は、地上を望む。人のいる場所へ、生きている者たちのところへ、どうか、我々を引き上げてくれないか。
 そこは、三百年閉ざされた暗闇でした。それ以前も、陽の当たらない暗がりの住処でした。彼らは死にました。死んで、なお、その暗闇に閉ざされました。天井ははずされませんでした。巨大な空間が彼らを包み、その中を漂うことを、彼らは強制されました。その上にいる人間たちは、この暗闇をどこからも暴かれるまいと、岩壁をつくって、監視しました。なぜならここに棲む者たちを、上にいる人間が、十分に恐ろしく思っていたからです。ここにいる思いたちは、黄金に取り憑かれ、自分を失った者たちだったからです。
 だからここから離れることもできなかったのです。上にいる人間たちの一部が、この場所に囚われていたからです。つまり、この場所にある思いたちは、地上の者たちのものでもあったのです。イラはこの思いに耳を傾けました。生者が死者を閉じ込めているように彼女には思われました。しかし思いはずっと理解を求めていました。理解されるべきは、生きている者たちにでした。
 そこにいる思いたちは、だんだんその希望を明確に持ち出しました。彼らは曖昧な存在だったはずが、曖昧でなくなってきたのです。はっきりした思いに、理解されるべき思いに、それ自身がなってきたのです。暗闇は彼らを醸造しました。柔らかくして、おそらくは食してもいいような食べ物にまで発酵させました。
 彼らは十五人の子供たちに、それを伝えました。子供たちは、恐ろしい思いをしましたが、彼らの思念を真っ向から受け止めて、その後の人生の指針とした者もまたいました。ですが、この闇に落ちたある男性にとっては、明確なかたちとなった思念体が目の前をよぎった時、猛烈な人の思いそのものがそこで様々な表情を取って、彼に自らの叫びを聞いてほしいと訴えたものですから、自分の見たものが、はたしてこの世のものなのかどうか疑ってしまったのです。彼は、誰にもこのことを打ち明けることはできませんでした。

 ピロットに誘惑された子供たちは、望みどおりのことを行えるはずの海外に出て行く頻度を落とされて、禁欲を感じました。むらむらとしたその思いの解消法は、町の中にはありませんでした。たとえそこで恋人をつくっても、町のルールの範疇で何か悪いことをしても、到底海の外での経験には及ばないのです。しかし彼らは遊びを発明しました。後に捕まったシュベルが告白したように、宝探しを始めたのです。穴を掘って、使われなくなった倉庫の奥まで利用して、命懸けの、黄金の争奪合戦をし始めたのです。ピロットから与えられた、仲間を募集するための黄金で、彼らは夜な夜な仲間たち以外には決してばれてはいけない争いを演じました。ルールは簡単です。誰かが隠した黄金を、いくつかのチームに分かれた者たちが、早い者勝ちで探し出すのです。チーム同士が鉢合った時は、殴り合いの喧嘩をして構いません。それは、いずれかのチームが黄金を見つけて、ゴールまで辿り着く間でも同様です。
 ここでの戦績は次の海外へ渡航する者の優先順位に影響を与えるものとしました。入れ替わりもあったということです。さて、しかし子供同士の勧誘に使う、黄金は決して仲間以外には見せてはなりません。彼らはピロットの許しを得ずにこのような遊戯を始めたのです。彼ら同士の喧嘩は誰かに見られていいものの、それが何の事由によるものかは明らかにしてはならず、まして、黄金を運ぶ姿を見つけられるのは、ピロットに、外海での経験を口外してはならないという約束そのものを破ることにもなります。このお遊びは、ピロットから与えられるだろうと期待される(想像される)罰に匹敵するものだったのです。しかしこの罰と隣り合わせのことでしか、彼らは海外に渡航して味わえる圧倒的な刺激と釣り合うような戯れを思いつきませんでした。
 イアリオが、ハルロスの日記を手に入れて、その文章を読み進めているうちに、このようなことが、起きていました。そして、当の子供たちのかしらは、イアリオに目撃された小さな子供と出会ったときのように、時折気を逸していました。その姿を、彼は決して子分たちには見せませんでしたが、子分たちが彼の前からいなくなると、彼の心が周りの暗黒のように塗り潰されるのを否応なしに感じさせられました。いいえ、彼は、この暗黒にも耐えうる力を持っていたはずで、この闇こそ懐中のものにしたく、上の町を壊したいなどと思っていたはずでした。ですが、彼はまた人の悪が自分から離れ、より強大になる様もよく観察していました。暗闇は、人から生まれ、人を唆し、人を取り入れ、人を壊す。彼はその手にできたはずの黒い力を、その手が支配できたものではなく、その手が逆に操られるようになることを知っていく過程にあったのです。彼はビトゥーシャと共にそれを生み出していた側の人間であるはずが、町に戻ればその力に取り込まれた者たちが、今も生きている人間のすぐそばに存在していて、生者も、その力をどうすることもできなく隠し遠ざけつつも手放すことができない暮らしをしている、その生者のうちの一人となったのです。彼は強烈な狭間にいました。悪の執行者が同時に悪の囚人でもあったことを、この町にいる人間たちと共有する自分に目覚めたのです。彼は、その町人の感覚にも自分が汚染されたような状態だったのです。それは、子供の頃からの彼にある感受性に触れられた町の一側面でしたが、大人になって、まして町の外に出て、いっそう成熟した感受性が彼にもたらした猛烈な拒絶し難い心の景色だったのです。
 しかし彼は光を見せられていました。どんな暗がりにもそれは目に痛いものを届けます。闇は闇の中に安らぐ性質がありました。悪は悪の中に揉まれて望みを得るのです。彼の感受性はここまで受け取りませんでした。なぜなら彼にとっての悪は生まれたばかりだったからです。その中途、滅びるまでの足跡は、その暗い安息こそ長く物語りました。悪は悪それ自身に囚われるのです。誰もがそうであるように。誰もがその人自身に囚われるように。
 囚われる時間が誰にも必要です。わけのわからない時間は望まれるのです。何も知りたくない時間が人には求められるのです。その時に認識の明かりなどいらないのです。気づきなど起こってはほしくないのです。彼にとって、ルイーズ=イアリオは、まさにその光でした。目に痛すぎた、彼に愛情を向けた、彼にとっておそらく早過ぎた刺激をくれた、終末期の悪でした。(アイして、アイして、俺をアイして。どうして誰もいないの?皆俺から離れていくの?どうして?どうして?アイ、アイ…ああ、ルイーズ、苦しい、助けて!)など、彼は大いに分裂した自我を持ってしまいました。彼は彼の悪に向き合ってから、その後のそれの歩みを見通さざるをえませんでした。それは苦しみ、いずれは、消滅するのです。しかし、彼はまだ誰にも愛を求めませんでした。それはいらなかったのです。彼は彼の自己愛でただ満足でしたから。それはビトゥーシャと同じく、愛も、いつのまにか誰かに手渡していたと感じるだけで十分でした。それはいつまでも今でも生き生きとしている、常に自分自身に働きかけるものとして感じることは必要ないのです。その囚われの時間を奪われてはなりません。
 そうでなければ逆流するのです。その思いの記憶が。思いが逆流して彼に侵入するのです。しかしイアリオは彼が孤独だと考えてしまいました。実際に彼は孤独な環境にあったからです。ですが彼にとっては毎日が非常に満ち足りた日常でした。腕力を揮って、粋がって、反発して。いつか周りの普通の町人たちと混じるように、彼はそのような悪がりを許された人間でした。
 彼が悪に苦しむにはまだ早過ぎたのです。そして誰も、彼の苦しみを感じる者はいませんでした。その苦しみは、優しく甘く、こちらを包み込むものだったのです。まるで悪のように。悪よりも、たち悪く、その身から離れないものだったのです。どうして親を嫌うのか分からない子供のように。なぜ故郷を忌み嫌うのか判らない田舎者のように。彼は
 その彼の想い人である人間を暗い真夜中に見つけました。ルイーズ=イアリオはハルロスの日記帳を手に、シャム爺の監督するゴミ街を通り抜けて、彼女の先祖の墓に赴こうとしました。道中、彼女は当のシャム爺と久しぶりに出会い、連れ立って行きました。彼は、その彼女の背中を見つけたのです。成長した彼女は、くるくるとした髪は変わらず、彼の鼻につく表情はもっとより冴えて、彼の心を捩じらせました。彼は、彼女に恋し、彼女から好かれ、自分の想いにも、相手の想いにも呪縛されていました。ですが、彼女が墓から帰る途、その背後からぎらぎらと光る獣のような目を開かせて、彼女を見つめることしか彼にはできませんでした。
 彼は闇の中へ消えました。その時彼は泣いていました。たまらない思いが沸々と心に湧き出て、人間らしい、正と負の感情が両方とも胸をせり上がりました。彼が背負った運命は何でしょう。彼はこの町が長年共にし続けた悪を解放し、そのそばにいる人間自体を解き放つべきだと判りました。ですが彼自身の解放とはそれはなりませんでした。彼はもう解放されていたからです。少なくとも悪に囚われた心からは。そうではありませんでした。彼自身の囚われは、彼自身が引き受けた呪縛は、あのルイーズ=イアリオによってもたらされました。愛はいらなかったのです。彼が為すべきことを彼が為すためには!彼は悪の遣いになるべきでした。彼の生涯はそれに注がれるべきでした。彼は一人のアーティストなのです。彼が、そこから独立するには
 彼が、自由であるべきならば
 本当に悪を自由にさせたいならば────きらきら、きらきらと、星が快晴の空の上で瞬いていました。ただそこに。

 町を挙げての捜索活動は、ほぼ半年して落ち着き、その後イアリオがただ一人で続けることになります。勿論、定期的に町人たちは地下に分け入り、ともし火を掲げて警備に当たりますが、ピロットもテオルドも彼らが元通りの頻度でお決まりのルートを辿るようになったことを確かめると、地下での活動を以前のように戻しました。彼らは、イアリオに注意しました。彼女こそ彼らにとって何をするのか分からない相手でした。テオルドは、彼女に見張りを立てましたが、ピロットは特別に彼女に手立てを打つことはありませんでした。勿論、彼の活動が彼女にばれるのはまずいことでしたが、それに恐々とするほどではなかったのです。彼が誘った子供たちは、それにしてもうまいこと立ち回っていました。彼はすでにそれなりにこの暗黒空間の成り立ちを、子供たちに教えていました。なぜ、大人らがここに見回りにやって来るのか。その視線をどうしてかい潜る必要があるのか。彼は子供たちを海の外に馴染ませながら、ゆっくりとそれを教えてきました。
 そうすることで、彼はいよいよ子供たちへの支配力を増していこうとしたのですが、彼のようになろうという子供たちが、彼のように不羈たる独立心を持とうとすることなど考えもしませんでした。子供たちは、ピロットに連れられて海の外へ出て行く機会を減じたために、彼には勝手に町の中でのあの特別な遊びをし始めました。それが、以前のように順番待ちとはいえそれほど待たされることなく、外の世界へ出られるようになっても、町中での黄金を巡る鬼ごっこは継続されました。そして彼らは、ピロットに固く禁じられていた外の国での出来事を口外することを、ここでし始めたのです。仲間うちだけで、秘密の会合の場を設けて、その感動を共有し出したのです。彼にも秘密の行いを彼らが繰り返し共有することで、彼らの自意識が高まったのでした。
 いずれピロットはこのことに気がつき、エンナルに子供たちの監督を強めるよう指示を出し、シュベルをスケープ・ゴートに仕立てて彼らの特別な遊戯の禁止を図るのですが、彼は子供たちを連れて海外に送り出しながら、戻ってきては何度も単独で地下街に入り出してきた想い人に気が気ではありませんでした。子供たちは賢く、彼女も警備隊の一人だと考えて、その灯火の照らすところにはまったく近づきませんでしたが、彼の体はそうはいきませんでした。彼は自分が彼女に縛られていることを徐々に思い知っていきました。彼女の前に姿を現したい衝動が心の中にあることに、そのような自分自身に、ピロットは恐々とせねばなりませんでした。彼は、仮に子供たちが海の外へ連れ立って出ていることを彼女にも上の町の連中にも暴かれてもよいと思っていました。そのためにこの町へ唯一開いている海の入り口が閉ざされても、大したことではなく、いくらでも町を破壊する手段はありました。彼はそうする過程を重く見てはいないのでした。
 彼はどうしてもここで気を失いがちでした。体が勝手に動いてしまって、闇の中を彷徨いました。彼の体から何かがはみ出ていました。腸なり胃なり、内臓がはみ出ているようでした。彼はゴルデスクの塊をじっと目を凝らして見つめました。そこにある無数の凸凹は、人の顔をしているようでした。必死に訴えてくる人の叫びのようでした。彼の体はいつのまにか暗闇の外へ出ていました。と言っても、空は真夜中、外へ出ても、暗いままでしたが。イアリオが、北の墓丘に先祖たちの霊を供養しに行った時に、彼は、その墓丘を望める町の高台に登っていました。そこから彼女と白霊たちとが共演したまばゆい白い光の揺らめきを見たのです。
 彼は彼にしか聞き届けられなかったうたごえをそこで聞きました。強い光が、彼の中で大きく膨れ上がって、蠢きました。
(破壊しろ。破壊しろ。破壊しろ)
 そう白い光は彼に呼び掛けました。破壊しろ?何を?
(壊せ。壊せ。あの町を壊せ。我らがふるさとを)
 そうだ。その通りだ。俺はそのためにここに帰ってきたんだ。
(罪深きは自分なり。もう光は何もかも照らさない。暗黒はここだから。あの町を壊したものをもう一度壊せ。悪を犯した者をもう一度殺せ)
 そうだ、自分は…それを分からせるために…
 彼は、何のために破壊を志したのでしょうか。彼がいつのまにか吸収してしまったものは何だったのでしょうか。優し過ぎる彼にそれは分かりませんでした。
「あの町を手にするために、この町を壊すんだ」
 彼はよく分からないことを言いました。彼の言うその町は、どちらも同じものでした。彼は、自分を育てたものを壊して、自分の口の中に入れたかっただけでした。よく咀嚼して…消化して、吸収して。壊すとは、生まれ変わることです。何もかもが、歴史のごとく、そのままそこに佇んでいます。怖いのは、それらが実は変わらないことです。でも、自分もそれらに応じて変わっていくならば。すべては、肯定されるのではないでしょうか。降り積もるのは、ただ塵や埃ばかりだというわけではありません。そのように考えて、絶望しても。
 それはすごく後ろ向きな、考え方かもしれませんが。イアリオが彼に、名前を渡した時から始まっていることは、一つ一つの思いは、願いは、永遠に生き続けて、誰もが知らない場所へ遠ざかっていき、
 底知れぬ過去から、それは追いかけて来て、追いかけられた者は、どこまでもその人自身であり続けるということです。轍を越えて、人間が、時間をくぐり、結ばれるからです。未来がそこに見えるのです。
(壊せ、壊せ)   (あの町を壊してしまうんだ)
 そうすることによって、咀嚼して。我慢して、受け容れることによって。吸収して。その後で、赤ん坊の頃の新鮮な空気を吸いたいと思ったのでしょうか。何もかも平坦にした後の。いいえ、ただ、人間を認めたかったのです。
 彼は、自分の子供たちに「自由を!」というスローガンを吹き込んでいました。町の外側では、自分の欲望を解放していいのです。抑圧は彼らの町にこそ認められるものでした。そうして、そのスローガンが、今度はその町に向くように仕向けたのです。その町を自由にするために。その町の者である自分たちをこそ自由にするために。だから、子供らが互いに内緒話でも外側の世界の話を町でしてはいけなかったのです。あらゆることが、彼の足元で、抑圧されなければならなかったのです。彼は彼らに自由を与えているようで、彼らの自由を含めて、抑圧していました。彼がいなければ決して体験できないものとして、海外に出ることは意識されるように誘導したのです。子供たちはまるで、海の外においては夢の中のように、働く悪事を、悉く賞賛されました。そう、彼が、ビトゥーシャにされたように。町の外で、彼が、ビトゥーシャにされたように。でも、彼は町の人間の囚われを知っていました。虜囚であるのは町の人間全部でした。もし彼があの町を愛していたなら、破壊することも辞さなかった、ただそれだけでした。
 彼こそ「町の人間」でした。正真正銘、それ以外に彼を明かすものはありませんでした。「自由を!」その反対が、町人の大事にしているものでした。束縛は、心地いいものです。だから、望みが薄れて、未来を窺えなくなったとしても。次第に衰退していく明日を保証されていたとしても。それは、生命の躍動とは真逆のことだったとしても。天秤は、揺れているうちがその役割を全うしています。ですが、天秤のごとく揺れる動きの中にその時この町はいたのでしょうか。

 同じ頃、テオルドはイアリオが臨んだ白光たちとの出会いを原っぱから眺めていました。彼の精神は震えました。思わず、友人に絵を描くよう頼むほどに。彼は目眩がしました。なぜなら、彼の望みが、あの白光たちに聞き届けられたからです。「未来がもう間もなく破局を迎える。我々は、一連托生だ。悪は変わる。変わらなければならない。破壊は再生のしるし。天秤の如く揺れる動きの中に、もはやこの国はいないから。」そう、彼は絵の裏側に書きました。
 オグと同化した彼は…何もかもが、自分の選択のようでした。自分が孤独であることも、自分が計り知れぬ罪を背負っていることも、皆。自分の存在証明が、そこにいるだけで、されていました。彼は彼こそが変わらなければならない存在でした。彼は自分が変わらないと思い込んでいましたから!彼は、まるで黄金なのです。変わらない、歴史と同じく。しかし彼は歴史を視ることができませんでした。彼は私たちの感情なのですから。
 彼の体は三百年鍛えられ続けてきた怨恨の器でした。つまり、それ以前に彼は生まれていず、その恨みが晴れれば、消え去る運命でした。イラでさえ出身地があり、ハルロスとその父ムジクンドも遠い故郷を持っていましたが、彼がつくられた過程においては、街の滅び以来とされなければいけないのです。
 そしてオグは、人が悪を犯した時からその存在が始まります。彼はその集合ですが、それが集合してからが彼の物語のはじまりではないのです。しかしそれ以前はありませんでした。すべての存在ははじまりとおわりがありますが、そのはじまりは、なおも続く生命の螺旋と循環の中途でした。おわっても、世界は続き、言わばおわった存在は世界へと吸収されるのです。しかし変わらぬものは、あたかもその前後を否定するように、世界に君臨し、世界から消え去ろうとしませんでした。それは生命を超越して、生命を否定しました。どうすれば自らが消えるのかそれはわからないのです。しかし
 オグは、自らが死ぬことを望みました。
 テオルドはどうして自分がめくるめく存在をすべて羽交い絞めにして愛そう、などと思ったのか、不思議でなりませんでした。地下の湖で、オグに会った時、彼は猛然とその意識になりました。オグが人を愛したいと思ったのではありません。オグこそ自分の一部だと判った者が、すべてのものを愛さなければならないと気付いたのです。その出来事があった後に、彼は、山脈の頂につどう彼らが先祖たちの未だこの世に居残る霊に気が付きました。思いを居残してあの世に還られない未熟でみっともない白霊たちを彼は空に見上げました。その霊たちは時折町まで降りてきて、強烈な光を放って、町人たちを呆然とさせることがありました。そのようにして霊たちは子孫に浮かばれぬ気持ちを伝えたのではなく、子孫こそ浮かばれぬ呪縛を自らに課していたために、彼らに共感して、降りてきていたのです。霊たちはトラエルの町の人間たちの執着を痛いほどよくわかりました。繰り返さざるをえない一つの思いは自らの過ちとその過ちに対する恐怖から生じています。霊たちは繰り返し子孫の中に降りていくことで
 自らの繰り返し自身を振り返ることができました。そうです。霊は、生者に取り憑くことによって生前を思い出し、その執着を肉体をもって感じることができます。霊の執着は生きている者なくして解消はされません。なぜならそれは彼らが生きていた間に囚われてしまったものだからです。
 霊たちがイアリオの目の前に現れるのは意外ではありませんでした。彼女は三百年前の思いも、現在の町の思いも、自分自身のピロットに向けた思いも、すべてに目を向けていたからです。その後に、彼女こそオグと向き合い、そのオグを調べに、自分自身の悪と対峙するために、地下に潜り、町を出て行くのです。生きている人間でなければそれは可能ではありませんでした。時間を感じ取る肉体がなければあらゆるものの変化はその中で肯定されないのです。変わりゆく魂から、離れてしまった種々の想いたちは、生者がいなければ自らは変わらぬことを思い知らされます。死は恨みこそ強く念じ変えられぬものとしますがそれはそれが生きていた世界を志向しているがためにこの世に遺されるのです。
 テオルドは、そこには自分はいないことがわかりました。彼は三百年前につくられたのです。そして、そのような存在が、自分であり、あれらであることがわかりました。死なない存在、死ねない存在。変化しない存在。この世に取り残された存在。呪いとはこれを製作しました。自分に掛けてしまった呪い、他人に掛けてしまった呪いは。それらは自己完結していました。他のものから生まれえず、他のものを生み出さない。いいえ彼らは人から生まれ、他者を巻き込み、新しくその眷属を増やす者たちです。いいえ、彼らは
 人に戻りたくても戻れない者たちです。彼らは人間の一部でありながら、その一部そのものになってしまった者たちです。深い孤独。生きている世界から切り離されてしまった者たち。動かぬもの。なのにずっとこの世に居続ける。生者を求め続けている。
 その暗い縁に、生者との間に深く横たわる死の崖に、彼らは、気づきます。生きている人間がこれを求め、彼らを切り離してしまったことを。彼らが望んでその暗闇に堕ちて、他者に取り憑き、自らの懐を肥やしながら、飽きることのない空腹を持ち続けることを。その思いに至福を感じ、手放すことはできないことを。恨み続けることも心は満ち足ることを。
 羽交い絞めにして愛そう。そう彼が思った時
 彼だけではない、他の者が、同様に彼と同じことを思いました。元々は山脈の頂の上に集まる白霊たちに混ざったヴォーゼもそのような思い方に親和性がありました。彼女は周りの人の孤独を聴く力に長けていたのです。彼女から分かれた、彼女の執着は、恋人への想いに囚われた存在でしたが、

またもその周囲に輪となり現れたのです。そうです。彼女は、生前も

周りにしていたのです。彼女が聴いていたのは人々の孤独の感情でしたが、それを吸い取った彼女もまた崖から突き落とされたようなその感情に苛まれたことがあったならば、彼女の中から聞こえたのは、他者のそうした気持ちではない、自分自身の気持ちでした。彼女は自分が孤独だったと思ったことはありません。彼女のそばには恋人がいましたから。それに、周りにはいつも人々が集まっていましたから。アラルは彼女の強い孤独を聴いていました。孤独とは何か?それは自分だけが抱えねばならない思いであり感情でした。ヴォーゼの中にはいつも他人と一緒の感情や感覚しかなかったのです。誰かと共にある自分しかいなかったのです。それこそ孤独だと、彼女は気づかずにいました。そして
 ヴォーゼはレーゼに生まれ変わります。強い自己を持つ者に生まれ変わります。魂はこのように変遷しました。彼は自分の思いを大事にしました。あの町にやるべきことを、自分に見つけ出し、それを願掛けするために、北の墓丘に向かったのです。星になった先祖らに、宣言するために。何よりも、自分自身に、宣誓するために。そして
 彼に、ルイーズ=イアリオは触発されました。イアリオは自分が誰かを産むために、町を出て行きました。
 テオルドはあの丘に彼女が行ったことを確認していました。彼女の行方を追わせていた彼は、彼女が墓参りをし始め、墓丘にも行こうとしていたことを知っていたのです。彼女が今後どのように動くのか、どのような意志を持つのか、オグなる彼は案じていました。草原に夜中彼が出て、ぼんやりと墓丘を望んだのも、まるでぼんやりとした彼女の意志を眺めてみるためでした。彼はこの町が滅びねばならないことを知っています。ピロット以上にこの町の歴史に精通し、この町が繰り返した感情に身を浸していたからです。彼こそ町自身、町人を取り囲む大きな存在でした。
 イアリオは、暗い街に閉じ込められた、いにしえの亡霊たちを慰めるためにお墓にお祈りをしに行ったつもりでしたが、それが本当はいかなる意志につながるのか、その時は何も分かっていませんでした。町と、個人と、世界とが、一つにつながるものだと彼女は分かりに町から出て行きました。そして町の中で繰り返されてきた思いは、もっと過去から、前世からも、繰り返されてきたことを知ります。テオルドはそのオグ自身でした。テオルドは悪こそ変わろうとする意志が兆したことを知ります。元に戻らなければいけない。生まれた場所に還らねばならないと。彼は白霊たちのイアリオに向けて放った声を遠くからその耳に聞き届けます。彼女がエアロスとイピリスという二人の神の伝説にその時の現象をなぞらえたように、彼は生きている人間も死んだ後にこの世に留まってしまった霊も、同じことを望んでいるのだということに、滅びなど彼が望むものではなく、この町が、死霊が、生者が向かう行き先だということに、オグなる彼も三百年来の彼も強烈な眩暈がしたのです。そして彼の中でもそのことがイアリオ同様ぼんやりとしていたことが分かったのです。滅亡はまだ思い描く先にあったのです。具体的に自分がどう動くべきかはまだ分からなかったのですが、この日を境に、彼はその準備を始めます。町の警備隊に彼は志願したのです。

 白霊たちは、その時ヴォーゼという女性に束ねられていたのですが、ヴォーゼはアラルという人物が魂を変えてこの世に降りてきたことを感じていました。彼女は彼女の魂を追いかけていました。それがその想いだったからです。彼女は産まれたばかりのその存在に頬を近づけました。そしてまたしてもこの存在は女に生まれてしまったのだと思いました。赤子の生まれ変わりを見て、彼女は自分が囚われた思いを新たにしました。この者を恨んでいるのだと。この者こそ自分を壊した者だったと。しかし相手は赤ん坊でした。そして、また相手は彼女が愛した人間でした。
 彼女はいつまでも彼女がつくり出した幻影を相手にする執拗な思いでした。誰かと共にあるべき自分をつくり出している存在でした。彼女は独りを感じられない孤独に陥っていました。いつも誰かと、共にある自分こそ、誰とも違う自分ばかりの経験であると知らなかった人間でした。それだから恋人が彼女に孤独をプレゼントしたとは考えてもみない人間でした。
 そして彼女の周りに集合している霊たちは、同様の思いを持ち続けた古い者たちでした。彼女はまたしても彼らの孤独を聴いたわけですが、それこそ彼女が繰り返した思いの歪みでした。なぜ孤独を感じるか。人が人と人の間にいたからです。他者がいなければそれは感じないのです。そこにはすでに肯定のメカニズムが隠されていましたが、生きている間さえ、そのような機構は還元されません。
 ヴォーゼは孤独の代表者のようになっていました。彼女自身が、まるでオグのように、あらゆる思いを束ねる器を模っていたのです。彼女はその器そのものになり、その器たる自分に囚われ続けていたのです。
 ヴォーゼも、テオルドも、イアリオも、器になる自分を経たのです。ヴォーゼはテオルドのようにこの町の意志をつぶさに見ることになりました。多くの霊たちと子孫らの意識の行方を訪ねれば、この町が、いずれ解放をこそ望むのがよくわかりました。そして自分たちが、生者に戻らねばならないこともよくわかりました。変わらないものたちが、変わりゆくことを望まねばならなくなることを、思いたちはよく知りました。
 それは、まさにオグの過程を経るものでした。彼女らは自らが消滅しなければならないことを強く感じるに至ったのです。彼女たちでは消滅ができないから。しかしそれは、あの町が、そのような呪縛に捕らわれなければ、その町の人間の元に彼らが降らねば、知ることはないことでした。
 オグは、街が滅びるよりも前に、そのことを自ら知りました。彼は、イアリオの誕生と共にその目を開けました。ヴォーゼは、赤子のイアリオに挨拶をした後に、オグという、彼女の恋人に働き掛けた悪の存在もまた目を覚ましたことを知りました。悪は、アラルが生まれ変わったと同時に、眠りから醒めたのです。まるで、その器だった者の新しい誕生と時を合わせるかのように。
 その後も、ヴォーゼは生まれ変わりのアラルを注視しました。彼女が、ピロットという少年に惹かれ、彼に関わっていく様子も、十二歳の時に、はじめて暗い地下街に入り、そこで恐怖に耐えながらも仲間のことを案じたことも。町の北の、盛り上がった丘で、その少年の無事を願ったことも。ヴォーゼは心が温かくなることがわかりました。彼女が愛した人間がこのように変遷したことをどのように受け止めたらいいか、惑いためらうほどに。そして
 ヴォーゼは自分が変わらなければならないことを自覚していきました。自縄霊は、いよいよ生きている者と死んだ者との差異をわかり始めたのです。彼女たちは変わらぬ者でした。霊である以上は、その存在が、その原因と結びつき、永劫の苦しみをもたらされたのです。しかし彼女たちはまた生きている者たちと共通の時間に生きていました。その存在はこの世に縛りつけられていました。変わらぬ者たちが、変わりゆくことも約束されていました。ヴォーゼたちはあのアラルがオグを通じて己を自覚したように、ヴォーゼなどの経験を通して(彼女たちの場合はヴォーゼのこのような変遷のみが「自らが変わらねばならない」という意識に辿り着いた、唯一決定的なことではなかった。いにしえからそのように子孫たちの中に見出した想い人の魂の成長に触れてきた者たちがいた)、皆全体がその自覚を押し進めてきたのでした。しかしそうした自覚が進んでも、まだ、その魂がそこに縛られていることに、もどかしさもまた、覚えられてきたのです。
 彼女たちは自ら消えることはできない存在でした。つまり、そこに居続けなければならない者たちでした。自らを固定した彼女たちは、自らを嘆くようになりました。彼らは次第に目覚めたオグと呼応するようになりました。そして、生きている人間であるイアリオが慰めの書物を持って、彼女たちのそばにやって来た時、あの墓丘で、彼女たちのために祈ろうとした時、彼女たちは、自然と彼女の元へ降りてきました。ふらふらと、吸い寄せられるように。
 彼女たちは、その時何のメッセージも託そうとはしていませんでした。彼女の、祈りの言葉をただ聴きにきたのです。しかし彼女を驚かせてしまいました。ヴォーゼほど彼女に釣られてやって来てしまったことに、動揺した霊はいませんでした。あの時彼女らは彼女の声を聴きにやって来たのです。それが
 自分たちを、自分たちの行く末を、祈ることになるとは思いませんでした。そのすぐ近くに彼女自身の生まれ変わりもまたいたとはヴォーゼは知りませんでした。白霊たちは何も伝えには来なかったのです。ただ、自分たちが、このような苦しみを持っていたと、祈ろうとする者を相手に、そう告白しただけでした。それを聴いてくれたのです。向こうが。ただ、生きている者が。そして告白をしていく間に
 彼女らは
 この町が、あるいは地下の者たちが、自分たちが、町の人間たちが、オグそのものが、すべてが、同じ事を望み出したと分かったのです。それは宣言となりました。未来の宣託となりました。白霊たちは震えました。それは希望になりました。あるいは絶望になりました。自らが消える。その時を彼女たちは求め出したはずなのに、その思いに、執着自身に、執着をした自分自身に
 消滅をしたくないと拘泥した霊もまたその中にいたのです。しかし望みは未来を約束しました。そこへと向かうすべてに彼女らは巻き込まれました。
 ヴォーゼは自分の生まれ変わりをはじめてそこで見出しました。レーゼに、ヴォーゼは呼び掛けました。あなたも覚悟しておくのです。一蓮托生は私とあなた。あなたと私、と言って。人の霊は
 誰かに呼びかけて、その肉体に取り憑いて、思いが慰められることがありました。しかし、その思いはなぜこの世に居続けられたかといえば、再び、それ自身に還るためでした。実はあの世に行くことも同じ意味でした。彼女たちは、彼女たち自身に還ることを、目的としているのです。彼女たちは、可哀想な霊だというだけではなく、そのように、自らを成長させるために、この世に居残った者たちなのでした。
 ところで、彼女たちは専らイアリオに働き掛けに来たのですが、その声は、そのすぐ周りをも漏れさせず聞こえさせず、ハリトやレーゼには届かなかった言葉のはずでした。その白い天蓋を取り払って、ただヴォーゼの発した言葉だけが、レーゼの耳に届いたばかりでした。なぜ、この白光の現象を遠目に見たピロットとテオルドにもその声が聞こえたかといえば、二人は、ただただ聞こうとしたのです。動かない、動けない者たちの言葉を。そうして、動こうとする者たちの気持ちを。自分たちが、動けないものとして自覚あるそのみじめな思いを。白霊たちが、トラエルの町に降りてまるで自分たちのような一つの思いに取り憑かれている子孫の感情に寄り添ったように。彼らこそ、その束縛された思いを解放できる鍵を自らが持っている自覚を有していたがために。彼らはあの白光たちに共感したのです。そして、白霊たちがイアリオに向かって話しかけている間にこの町と自分たちと地下の亡霊どもと、あのオグとも、共有している運命があると分かってきたように
 彼らにも、そのことが、直接生きている肉体に響き、どうやら、それは本当のことだと理解したのです。テオルドは眩暈がし、ピロットは気を失いがちだった自我がはっきりとした自我を持ち出しました。ピロットは今まで他人の声を聞き過ぎるきらいがありました。彼は、彼が独立するために、悪を目指しましたが、悪は手段であって、その目的ではありませんでした。彼は、自分の思いを発露しているようであって、実は他人の思いに反応してずっと自分を動かしていました。彼のその盲目は好き勝手できた海外から戻って、彼を育てたものの懐に帰ってきて、強烈に強まったのです。その意味では自殺したラベルとほとんど同じで、彼らしい健全さがずっと何かに侵され続けてきたのです。ラベルは正しい生き方を自覚していたがゆえに無性に苦しみましたが、ピロットは人から人へと移る思いに敏感だったから、安定しない自己が無理に独立を求めたのです。そのために、できあがった自我は人から育てられた自分と個として自立したい自分とがせめぎ合いました。彼の孤独、彼の動かぬものが、こうして揺さぶられ、おのずから成長の芽を剥いたのです。外海から戻ってきて、はじめて。生まれ立ての悪は、そのために、悪を生み出しました。しかし白霊もオグもイアリオも、それに目を向けていたとはいえません。なぜなら彼らは行く末を目指していて
 その土台が、発現が、最初の誕生が何だったのかは大事ではなかったからでした。可愛らしい、頗る未熟な、これから成長が著しい芽立ちが、どうやら足元でも顕現していたらしいことに。そしてピロットはその役割を担いました。生まれ変わるとはこういうことでした。世界が。歴史が。

 クロウルダのハオスはおよそ十年前からこの地のオグの神殿に入っていました。百年ほど前に、トラエルの町とオルドピス国との交流が正式に始まるのですが、ほぼその時と同じ頃、クロウルダたちはこの地に自分たちがかつて奉っていたオグがいることを発見します。それまでは、彼らはその時より二百年以上も前に町ごと破滅させた悪魔がここにいたことを彼らの歴史から失念していました。彼らはとにかく世界中に足を運び、オグが潜む場所、オグが手を出して滅ぼした人里の跡を辿っていましたから、民族としてその情報を共有し合うためにはどうしても長い年月がかかってしまうのです。それにしても、トラエルの町は港として栄え、人々の行き交いも旺盛でしたから、何らかの噂は聞いているはずでした。そこがどうやら海賊の手に落ちてしまったこと、そして、兵士たちが叛乱を起こしたことを。叛乱は、後に、オグの手によるのではない人間の破滅につながるのですが、そのためにこの地からの情報がまったく遮断されてしまったために、彼らが民族全体として悪魔を手放してしまったことに、彼らは恥じるべきでしたが、今から百年前に改めてここのオグを見つけた時は、彼らはただ自分たちの宿命の感覚に溺れるばかりでした。再び封じなければならない、見つけたからには監視しなければならないと。
 彼らは余裕のない監視をばかり続けてきたのです。それは、彼らの使命をまっとうすべしという自覚から来るのではなく、クロウルダ民としての(彼らの人間としての)縋りつくべきものがそこには保存されてきたからでした。彼らは弱い民族でした。いえ、その弱さを剥き出しにした歴史を抱えた民族でした。およそ古代から続く血の歴史を持つ長い民族は、誇り高さと同時に脆弱さも併せ持っていました。揺らぐことのない根拠がありながら、その根拠を改めることができないのでした。しかし世界は改まり、自らも新しい命をはぐくみ続けるのです。時間が存在するかぎりこの世は人間にとって挑戦することの連続でした。クロウルダたちはどんなことが自分たちの挑戦たりえるのか、まるで分からないところがありました。
 オルドピスの半保護国となったトラエルの町に、彼らは大国の力を借りて出入りできるようになります。彼らの身分は、この町においてはこの町に掴まれることとなり、三日ごとの報告を義務付けられ、逐一地下で何を行ったか議会に申し開きをします。つまり、議会としては地下のさらに地下に眠る古代の怪物を何十年も前から把握していたのです。ただし、その怪物が眠り続けていること、クロウルダという神官がその眠りを妨げず、むしろその眠りが侵されないかどうかを見続けていることだけが、報告から上がってくる情報でした。その怪物について、議会は何もクロウルダに質問をぶつけませんでした。ある程度の説明はされましたが、それは神官にばかり任せられる事柄だったのです。クロウルダたちは静かに町に入り、地下に潜り続けました。それは一人の時もあれば、二人、三人の時もありました。ハオスは師匠に連れられてここにやって来ましたが、いずれ彼が人柱としてオグに喰われる役目となり、彼は一人で来るようになりました。魔物が眠っているあいだ、クロウルダは幾人かをその人柱として供物を捧げました。と言っても、魔物がそれを食べるわけではありません。クロウルダは自らがそれに喰われるために命を落とすのではないのです。霊となって、より悪魔に近づいて、その源に触れんとするためばかりに命のかたちを変えるのです。ハオスも、その身代となったのですが、イアリオの生誕とともに目覚めたオグは、その活動を開始していました。霧となり、自由に地下の街を歩き回るようになったのです。クロウルダはそのことを議会に報告していました。
 クロウルダはこの時にオグの異常さに気づきました。彼らの秘儀による再びの眠りへのいざないはまったくそのオグには効果なく、しかし魔物の方でもかつてのように人を悪の道に唆す仕草はまったく見せなかったのです。このようなオグの変異を、しかしクロウルダは民族としてそれについて十分な知識を持っていました。まるで、かつてそれに滅ぼされてしまった、三つの町の前後に及んだと考えられるそれ自身の変異に、よく似ていたのです。オグは、自ら滅びるために人間を巻き込もうとする時、その悪を注入するというよりは、その悪が抱えている苦悩に周りの人間を同化させるという恐ろしい呪いを掛けていたのです。そのために彼は彼が手を広げて悪意を散布するというより、人間自身が自己の苦しみを見出し、自己に問い掛ける憂鬱な影を守ろうとする仕草を見せたのです。彼はその時に守り人となりました。
 ハオスは町の人間の心理に注目しました。すると、町の人々はどうも自分たちの生業に疑問を持ち始める者が現れてきたことに、違和感を抱かないことに気づきました。シャム爺など相当の年代の者たちではそれは珍しいことでしたが、その下の世代では、オルドピスにすら興味を素直に持つ者がいました。彼が直接、議会の人間からかの国について尋ねられたことがあるくらいなのです。彼はこの町の歴史も詳しく知っていました。だから、おそらくこれは大きな変化になっていくだろうと感じたのです。
 まして、大国との交流が百年も続けば少なからず外国にも関心が及ばないはずがありません。それはもっと早くてもいいのです。ただ、この町が呑んだ義務と歴史は、ただならないものでした。
 オグは、霧となりこの町に侵入を繰り返していました。しかし彼は悪さをしませんでした。まるで、あの白霊たちのようにここにいる者たちの心をつぶさに見て、それらに共感しているようでした。彼は、人から誕生した者です。彼のからだは、人の一部からできています。彼は、彼自身を誰の中にも見つけることができたのです。彼は、今までそんな人の中にある自分と同じものを、刺激してきたのですが、たらふくそれを喰ってしまったということがあったために、もう別のものに生まれ変わりたいという希望を持ち始めました。彼は自分と同じものしか食べられないためです。
 クロウルダのハオスはその魔物の心境も観察しながら想像しました。彼らはオグと同化しませんでしたが、彼の傍にいることで、彼に近づくことはできました。

 イアリオが、ピロットの消息を求めて二人の子供らと地下へ潜り、ついにあの海への出入り口に辿り着いた時に、ヴォーゼはオグと出会いました。霧の魔物は白い衣を着た女性(にょしょう)を認めました。その魔物の中に彼女はいませんでした。まったく二人は初対面でした。いいえ、アラルを通じて、二人は面会したことがあったはずです。それはアラルの体験であって、オグに取り込まれた者たちの全体の経験ということではなかったというだけでした。オグと身を一つにしたアラルと彼女は出会っていますが、そこでオグなるものの全体と面会してはいなかったのです。
 ヴォーゼは地下へと赴き、霧の姿をした魔物とじかに顔を合わせました。それまで、互いは互いの存在を認識し合いながら、出会うことはありませんでした。用がなかったのです。お互いに生きている者には関わり合う宿命がありましたが、死んだ者同士、変わらぬ者同士が鉢合わせても何も生むものはないのですから。それが
 両者とも会う必要がありました。なぜなら互いに同じことを思っていると感じ始めたからです。身の破滅。生まれ変わる。生きている人間を通して新しく誕生する。そのために両者は感じ合う必要があったのです。そこにテオルドは居合わせました。それは何もおかしくはない光景でした。彼もまた、オグなのですから。
 オグは、黒い腕を伸ばし、冷たく光る白い衣を包みました。煌々と明るく光が弾けました。やがて、その周囲がまったく明るく地上の昼のように明滅し、その光は洞窟だけではなく街をも照らし出しました。人間が、人々が、こぞってうたい出しました。こうあるべきだと。我々はこうしてあるべきだと。
 光は地上に出た時に現れるような本来のその姿を照らしたのです。街にかぎらない、あらゆる種の霊たちも。そこに、閉じ込められてしまった怨霊たちも。オグの中にいる者たちも、そして、ヴォーゼによってその孤独を聴かれた者たちも、皆。それは優しい希望の光でした。そして、それぞれが互いに、同じことを目指していると、ようやく確認したのです。
 テオルドはこの現象を目の当たりにして涙を流しました。自分の来し方と、向かうべき道のりとを、彼は確認しました。そして、この町の破滅へのカウントダウンが始まったのを、彼は感じました。死と、生とが、天秤のごとく揺れる動きの中にあったのが、ここにきて、大きく崩れたことを認識したのです。

 この頃、町では就職したばかりの青年たちが、憂鬱になったり、不安になったりして、精神を病んで暴れ回るということがありました。それは、一概にピロットに欲望を抑圧され刺激された者の病状というだけではありませんでした。ピロットの息の掛からない若者たちにも、シュベルなどのように、表に表さざるをえないほどの不安を抱えた者たちが現れたのです。当時、町では訴訟が流行っていました。どんな小さな悩み事や不安も、裁判所に掛けられるようになったのです。この町では安定した生活が脅かされることはないにもかかわらず、小さな不安が、積み重ねられているように人々は思い始めたようでした。訴訟の件数は増大して、議員であるイアリオの父親などは仕事に忙殺されました。そして町は、次第に全体がその気分に覆われるようになってきました。
 ハオスは興味深くその成り行きを見ていました。そして彼らの不安が、彼をも巻き込んでいることを感じました。彼はもしやオグが自らの破滅を企図しているのではないかと疑っていたのですが、その段階が進んだと感じたのです。彼は、クロウルダの長に、そのことを伝えました。彼は霊たちの活動が活発になった様子を見ていました。比較的穏やかな霊も怨霊も、互いに刺激し合っている様を見つめました。ハオスはできるだけ町の議会の言うことを聞き、オグの神殿に向かう際も、決められたルートを辿り道をはずさぬようにしていました。彼の道筋は町から直接洞窟へとつながる道だけを許されており、破滅した街を覗くことがあれば命が保証されぬことを強く伝えられていました。しかし、事態は大きく動こうとしていて、ハオスはよりいっそう調べ物をしなければならなくなりました。その道筋だけを行き来していれば、彼はイアリオたちに出会わないはずでした。しかし彼は彼女に出会ってしまいます。
 彼の目には彼女はただの女性に見えました。なぜここにいるのか、多少は驚きがあったものの、町の人間が警備隊の者以外にもこの暗闇に下りてきても、おかしくはなかったのです。いえ、そこにはおかしさがありました。彼は気づかずともその違和感に刺激されました。彼はどこまでこの人間に対応していいかよく分かりませんでした。だから、月並みの態度しか取らなかったのです。危険が、この先にあるのを、彼は告げて、姿を消しました。
 イアリオは、大変驚いてしまいました。彼女はオルドピスはともかくこのような神官ぶった人間が地下に来ていることに強烈な違和感を覚えました。その時彼女はまだオグの存在を知らなかったのです。白霊たちにそれとなく示唆されていても。しかし、ここで、否応にもその存在がいることを知らされてしまいました。ハオスは、後に彼女がオグの中に取り込まれていたことを知ります。彼自身が人柱となり、自ら命を失って魔物の傍に侍った時に、多くの情報が彼の魂に流れてきました。彼が霊として見る魔物の姿は、ごつごつとした岩山のように硬い皮膚を持ち、そこに無数の怨念たちを眠らせている異形の生物でした。しかしその全体が大きな顔面のように広々としていて、何か表情が浮かんで見えました。彼はそこにその女性の面影を見つけたのです。それは変化したアラルの苦痛に塗れた顔面でした。彼らが、その全体が、共有した悪なるものの末路でした。
 一方、地下でハオスと最初の邂逅をした後、イアリオはハリトとレーゼ二人の子供たちを伴って再び地下に臨み、あの白霊と出会います。ハルタ=ヴォーゼの霊魂は、その時にひどく疲れていました。その顔には死相が浮かび、いかにも死霊らしき姿でした。
 彼女はハオスに追われていました。彼女を含め山脈の頂にいた者たちは、子孫の町に嫌なものが来ていることに気を留めていました。それはハオスの身を包む光芒のあるマントでした。そのマントには死者の肉の腱を刺繍してありました。まじないをそこに籠め、どんな危険な霊も弾くよう魔法のバリアを仕込んでいたのです。クロウルダはこのような呪物のおかげでオグにも近づけ、オグが食い荒らした忌まわしい場所にも、調査のために訪れることができたのです。しかし彼らが来たことで、白霊たちはオグにも注目するようになったのです。そして魔物も、自分たちも、同一の身の上であることを次第に分かっていったのです。
 ヴォーゼは最初、そのハオスに関わろうとしました。なぜなら彼はアラルの生まれ変わりであるイアリオに接触したからです。イアリオはそのおかげで地下によりいっそう関心を向け、身の危険も顧みないようになっていったのです。町は、決して彼女が地面の下に行くことを勧めていませんでした。むしろ、噂を立てて彼女を貶めようという者までがいましたから。町は、自らの変化の兆しを感じながらも、それに対して強烈に拒絶反応を示すような者たちもまたいたのです。イアリオが気づかない瞬間でも彼女を見守っていたヴォーゼの魂はハオスという輩が彼女をどこかへと導こうとしているように感じました。別段彼はそういう気がなくても、この地におけるクロウルダという民族が滅びても血を残し、その血を受け継いだ彼女という肉体が、彼らのように古い悪に関心を持つようになったのは、明らかに彼との出会いがあってからだったのです。ヴォーゼはよく彼について知識を得たく思いました。それで彼に近づいたのですが、彼には近づけませんでした。
 彼の方でも、にわかに地下にいる亡霊たちが騒ぎ出して、どうも地上からもこの世界を覗き見る者たちがいるのを気にしました。それで、彼からも白い光を放つヴォーゼに近づきました。ところが彼のマントが二人を交流させませんでした。クロウルダはそのマントに籠めたまじないをよく知らずに使っているところがありました。死者の腱を用いたそのまじないは他人に強烈に干渉しようとする力がありました。人の思い、欲望、意志、感情すべてを捻じ曲げて、人全体を変化しようとする魔法が掛かっていました。それは現実には到底為しえないことのために、人間の意識はかえってその魔法に自ら障壁を掲げるのです。過剰な毒を食らわせ、無意識たる拒絶の反応を呼び起こすのが、その外套に籠められた呪いだったのです。これを身につけるとオグはまるで自分のような存在にそれが見え、関心がなくなるのです。彼は自分のような存在が

とそれを襲って、仲間を欲しがり悪を働くのですが、クロウルダに対してはその存在が近すぎて見えて、無関心になってしまうのです。
 しかし死霊たちには、このまじないは烈しく効きました。イアリオがはじめてハオスに会った時も霊たちがまるで彼に追われたように過ぎ去っていきましたが、ヴォーゼも、憎しみを直接ぶつけられた者のように彼から弾かれてしまいました。彼女は体の節々に激痛が襲ったような生の痛みを感じました。外套に籠められた干渉の魔法は、かつて実在していました。人の方が体を精神を変わり、この魔法においそれと屈服しなくなりましたが、魔法が効く相手もまたいました。ヴォーゼは自分が拒絶した思いそのものを思い出しました。それは、彼女が死霊となったきっかけそのものでした。彼女は思い出したのです。過去を、それまでの囚われを。
 強烈に相手を変えてしまおうとする呪いが、変わらぬものを浮かび上がらせたのです。彼女は衰弱しました。ハオスから逃げて、その先で、イアリオと、また出会いました。その時彼女の意識は混濁していました。過去のまま現れたようになりました。イアリオには到底分からないような呟きを、彼女は漏らしましたが、それはかえって、アラルの生まれ変わりを町の外へいざなう効果をもたらしました。
 そして、彼女の前から消えて、ヴォーゼは再びオグに会いに行きました。ヴォーゼは消え入りそうな自我を感じました。彼女は自分に魔法を掛けていました。いいえ、この世に取り残された霊たちすべてが、自分に魔法を掛けていました。変わらないものとなるように。それは
 その存在をまるごと変えてしまおうとするものでした。先ほどの、クロウルダのマントに籠められた呪いのように。変わらないものなどないのです。しかし、人は、それを決して変わらないものとしようとします。不変の変化を望むのは、人間の巨大な悪でした。それにまだ人は気づいていません。人間を変えてしまおうとするその呪物に触れて、彼女は自分自身を変えようとした元の自分に気づいたのです。アラルのように。そして、オグのように。オグの方がこの経験の先達でした。彼女は何も残されていない貧しい者のようにその魔物を訪ねました。
 再会した両者は、共に、疲れ果てて見えました。オグは、ないはずの瞳をうつろに開き、ヴォーゼを見つめました。
「生者には未来がなければならない。だが、あの町にはあるか?」
 オグは、静かに蠢きました。
「すべてが試されるのではないか?あの町から出ようとする者は少ないだろう。閉ざされてきて、我々を守った。我々を変えないために、彼らはそこにいた。我々の未来は死の中だ。動かない未来、何も望めない明日だ。悪は変わる。変わらなければいけない。悪にも許された大なる河が、確かある。レトラスという大河。虚無と生命の坩堝とされる。破壊は再生のしるし。きっと、そこには明日がある。だがそこへの門は…」
 オグは静かに唸りました。それは、どろどろとした太鼓の音になりました。
「全員が開けることを望まねばならないのだ。そのためには希望が必要だ。希望は絶望から届けられた。望みを失ってはじめて、本当の望みに気づく。それは私自身の消滅。消滅と、帰参。元の場所へと帰ろう。命の望んだ最初の状態に。はじまりのおわりに」

 ピロットはよく子供たちを教育しました。それは、彼の望みのためでした。彼は、子供たちに「いずれ、地下の街の黄金は、お前たちのものになる。」と言っていました。彼は、自分はそのために戦い続けているのだと、教えました。
「いいかい?上の町の人間は、皆これを恐れている。自分たちの先祖が、犯してしまった自滅の業をもう一度踏んではなるまいと自制しているんだ。しかし、それではこの黄金を自分のものにはできない。このきらきらしたものは、元々、俺たちの先祖のものだったならば、今は、俺たちのもののはずだな。だが本当にそうするためには、どうする?どうすればいい?ただ、黄金を求めて争えば、三百年前の再現だ。無事では済まないはずだな。じゃあ、争わなければいい。始めから、誰のものか分かっていればいい」
 ピロットはそばに転がった頭骨を拾い上げて見せました。
「この街の黄金は、彼らのものだった。今は、誰のものでもないかといえば、そうではない。彼らは、戦ったんだ。黄金を求めてじゃない、その心と、だ。その結果が、これだ。空しいかい?怖いことかい?違うだろ。立派だろ。彼らは欲望の戦士だったんだ。単純に強欲に溺れたんじゃなかったんだよ。それと戦った。だから、今も身を野ざらしにしている。なぜなら、彼らは、平民であるはずなのに、戦士として互いを討ち滅ぼしたんだから。子供も大人も関係ない。彼らは自由だった。兵士であろうが、女であろうが、皆戦ったんだ!そのために。自分の欲求のために。立派だろう?」
 繰り返し、繰り返し、彼は言いました。でも、それが、彼を支えている生の実感でした。彼は、彼を通して出会った子供たちの中にある恐怖を、無視できない凄まじさを、このようにして、方向付けようとしました。そのやり方は、彼が、ビトゥーシャと相対して培ったものでした。
「そう。この俺が、アステマ=ピロット。聞いたことがあるかい?もし、聞いたことがあるなら、分かるだろ?十年前の事件の当事者さ。お前たちに、教訓として教えられている、『洞窟へ入ってはならない』『暗い場所で遊んではならない』お話に登場する人間さ。そう、俺はこの町から一旦は消えた。でも、外国へ行っていただけなんだ。別に、地下の暗がりに呑まれて死んだんじゃない。行方不明だっても、こうしてここに生きているんだからな」
 彼は、もしかしたらと彼の正体に見当を付けた子分から、彼についての様々な話を聞かされていました。それで、折角だからと自分の身を明かし、もっと子供たちを惹き付けようとしました。
「俺は戦ったんだ。この街にいる亡者のように!その戦いは、今も、続いている。お前たちも、戦うんだ。始めからここにある黄金は、俺たちのものだったって!だから、争っていいんだよ。俺たちのものだと分かっていれば、三百年前の再現にはならない。人のものだと感じたから、互いに討って殺し合ったんだ。黄金は俺たちのものだ。俺たちが所有する。恐れるな。殺し合う戦闘は当の昔にもう終わった。これからは、黄金を使って、ほら、お前たちが外国でしているように、いい思いをするんだよ」
 恐ろしい呼び掛けは子供たち全員に風のように吹き荒れ、洞穴のような彼らの心に浸透しました。欲望は、抑えられるだけその威力を発揮します。抑圧された(と感じるようにされた)それは、出口を求めます。その時、過去はどうでもよくなります。今だけがあるのです。
 ピロットのこの呼び掛けによって、彼らのスローガンは時を待ちました。「自由を!」過去への反逆を。町が、黄金を守ってきた歴史は軽んじられて、すべて新しく誕生した若者たちものであると、その「自由」は主張しました。ですが黄金は誰のものでもありませんでした。ただ、そこにあるもの、それを、こちらがどう感じるかというものでした。テオルドは、この穏やかならない動きに気付きました。彼にも仲間がいたのです。耳ざといテオルドとその仲間に、ピロットの子分たちの話し声が聞かれました。彼らはもう存分に外海での出来事を町で話し合っていました。テオルドは、心理の専門家でした。そして、ピロットは、テオルドの最も得意とする分野に身を置いていました。生まれ立ての悪は、終末の悪に心を見透かされていました。先のオットー=シュベル補導の事件も、詳細に彼は知りました。シュベルが地下にピロットを頼りに繰り返し潜入していることは分かっていましたから、この一件は、ピロットによって引き起こされた部分と、そうでない部分とを分けて考えることが大事だと彼は判断しました。彼は子供たちが独立した心を持って秘密の遊びを始めたことを突き止めました。恐らく海外に渡航しづらくなった反応だろうと、彼は認識しました。彼は、一人で仲間も伴わず、もやい綱に縛られたピロットの小舟を見つけていました。子供たちもピロットも注意して足跡をまったく残さないようにしていて、大したものだと思いました。テオルドは、こうしたことが自分以外の人物によって引き起こされていることを、感慨深く思いました。どうしても、今までもこの町から外に出ようとした者がいましたが、ここが、未だに黄金を守り抜いていることは奇跡だと彼は感じていました。それまでの歴史を見ても、幾度かの危機はあったはずで、どうやってそれを乗り越えたかというと、土着した民としての抵抗意識と非常によくまとめられた体制とを持ちながら、オルドピスという近隣の大国にずっと気にされていたからでした。
 オグというシンプルな悪の存在にはこの歴史は複雑な、怪奇なものに感じられました。この町で働く人間の意識や怨念や想いなどには精通するものの、どうして生に対峙するようなそのような人の思念が、この町で守られ続けてきたのか、彼にはちっとも分かりませんでした。それそのものを大事にする、訳の分からない人という営みを大事にする、生活そのものを肯定していく概念を彼も理解しないではありませんが、それにしても前提が逸脱しているように思えてならなかったのです。彼はこの町を壊すべきだと思いました。それは、ピロットとは異なる、より進んだ理由から来るものでした。ピロットは町の人間が自立するためにこの町は壊すべきだと感じていたのに対し、彼は町の人間も、霊たちも、オグも、皆が揃って同じ事を望む延長にそれがあると感じていたのです。
 しかしそれは機が熟してから成ることでした。彼として何か用意するも、彼の為したことがそれをただちに現前していくことにはならないのです。そう、破壊については。彼はいまだに人の心理にはたちどころに接触して思いのままにすることができましたが、町を壊し、すべてを光の下にさらけ出すのは、彼の力だけでは及ばないことでした。彼は警備隊に志願しましたが、それはいかにもこの町の防衛力を把握し、自在にそれを滅ぼすこともできる位置に身を置いたからです。隊に入って活動し始めた彼の頭脳は素晴らしく、皆が舌を巻くほどに次々と警備の作戦を立てました。山における行軍の仕方も、陥穽への潜み方も、見張りの要領も、彼は新しい手法を発案しました。彼はあっというまに人々の信頼を得ることができました。子供の頃の彼の読書量、そして豊満な想像力が発案においては物を言ったところもあったのですが、オグという容赦ない記憶の怪物がそれを助けていました。過去の、蓄積が新しい物の見方を発するのです。しかし生きている人間として用意できることは限られていました。彼は、この町をどうにかしたいとは思いませんでした。こうするべきとは思いましたが、生者としては、結局のところ歴史の流れに漣を立てる以外に如くはないのです。それは、オグにしろ、ヴォーゼたち死霊にしろ同じでした。生きている人間がある方向に向かわないかぎり、いかに彼らが望んでも、彼らは思いを遂げないのです。彼らは変わらぬ者でしたから。
 彼は妻を娶りました。生きている肉体として、彼は家族を望みました。彼を好いてくれる女性がいたからです。その相手といると、彼は、命ある者として熱をもらいました。冷たいはずの(運命的にも、歴史的にも)土殻の体は、圧倒的に楔を現在に打っていました。生きている肉体は鳥籠と変わらないのです。そこは魂が束縛される場所で、人間の間にいることによってまたさらに束縛される場所でした。束縛の末が悪を犯した消え去ることのできない思いの霊で、人はつらい業をこそ繰り返し更新していくもののように思えました。ですが、それは人間の一部に他なりません。人間の一部だとわからないオグは、その全体たる生き様を理解できない存在でした。彼は人間を笑えぬ者でした。失敗を共感した時人は笑います。彼は不利益や失敗を共感できない者でした。すべては悪とつながり、彼を苛めました。
 彼は失敗せざるをえない人間だったのです。悪も犯さざるをえない人間だったのです。ようやく終末期になって彼はそのことを受け入れられたのかもしれません。不可思議な生という現象を、彼はそのまま認めざるをえなくなったからです。彼の肉体が何でできているか、無数の変わらぬ意識でできているとわかっても、彼は生者であり、すでにそれが矛盾していたのです。彼は自分と同じような仲間を求めても、求め続けたからこそ、それ以上の何かにはならなかったことをよく知っていました。人の悪意が快感を呼んでも、それが強烈なものであってもそれ以上ではなかったのです。悪が、様々に伝播しても、世界中を支配しても、それ以上ではなかったのです。自分の限界を悪は感じていました。なぜなら
 彼は新しく生まれ変わるからです。人の中に、体を持って。それが分からない期間を経て。これが人と同化したオグの経験でした。オグは身を持って人が自分を生み出したことをわかり、人間がどのような存在かを体を持って把握するのです。それに、人はオグでなくても人間の一部でした。自分の周りには自分と同じような体に心を持つ者が、いっぱいいたのです。
 オグは人間の記憶を取り戻しつつありました。それはまるでピロットが、思い出していったように。しかし、アラルのような、犠牲を無数に経た先に。

 シオン=ハリトの成人式の日、若者たちは、多数式典の行われる水辺に潜みました。そこには町の実力者たちが、評議会の議員たちが頭を揃えていました。そこに、ピロットは攻め込むように子供たちに言いました。彼らの「自由」をもぎ取るために。
 子供たちは、これにもう抵抗できませんでした。彼には「町こそまとも」、「町こそ何かを侵してはならないルールがある」と教えられていましたが、今や現実は外側と内側とで逆転していました。彼らは町の外こそ本当の自由があって、ここにはそれがないとはっきり意識したのです。いいえ、いくらでも、その時と同じように隠れて海外に出て行くことはできたはずです。気をつければ。秘密を表に表さなければ。しかし、もう子供たちは外での経験談をこの町で話し合っていました。ピロットにそのことがばれて、彼らは強くたしなめられるどころか、非常に褒め称えられました。一応エンナルの監督などはきつくなりましたが、彼らが海外に出て行くことが大人たちに暴露されても構わないと思っているピロットには彼らの命運など

でした。もはや、彼らにとって町は縛るものではなくなりましたから、彼には大分それでよかったのです。
 しかし今後も町へ居続ける彼らにとっては、町が非常な欲望を禁止し、過去に束縛され続けるのは我慢できませんでした。かつてピロットがそうだったその憤りは、彼らに受け継がれたのです。ビトゥーシャに出会ったピロットは、彼女との旅でその束縛とその融解とを経験します。彼がビトゥーシャの連れだったのが、その立場を逆転したことで。子供たちにも同じようなことが起こることが期待されました。彼らが町の主導権を握ることで、ピロットの辿ったこのような融解を味わうことができるはずでした。
 彼らはそのための訓練をしていました。町は、その訓練の様子を見ていました。しかし放っていました。なぜならここで戦闘の鍛錬をするということは、外敵から身を守るためだと思われたからです。しかしテオルドは彼らの心をつぶさに見ていました。少なくない人数が反逆の狼煙を構えていることを彼は把握していました。彼も警備隊を訓練させることにしました。彼はもうその隊長になっていたのです。
 果たして叛乱は失敗し、子供たちは悉く捕まります。そして、その舌を噛み千切りました。彼らの犯した罪は、到底町では看過できなかったからです。海の外へ出て行くこと。黄金を使うこと。非常な欲望に身を浴すること。ピロットに唆され、決して町では体験できないことを味わわされた子供たちは、その行い自体が罠だったとはじめて知るのです。ピロットにいざなわれ、自由を求めた少年たちは、自分たちがここでそれを掴み取れるものだと信じてしまいました。海の外だからこそできたこと、町の外に行けたからこそ考えられたことを、彼らはよくわきまえませんでした。彼らの感じえた「自由」はピロットの庇護下に置かれたからこそなのです。
 大人たちが、彼らを捕縛したことで、彼らは豊潤な悪の誘惑から我に返りました。ピロットによって掛けられた魔法が解けました。彼らはずっと夢うつつにされていました。自分たちが苦しんでいたことも知りませんでした。それは町を裏切っていたからでした。町の辿った歴史をよく知りもせず、そこに三百年間生き続けた人々の守り通してきたもの、彼ら自身が誕生してきた環境を、ただ壊そうとしていたことに、子供たちは悉く気づきました。彼らはピロットにこう言われていました。この計画は命が懸かる。捕まれば死ぬんだ、お前たちは。分かるだろう?この町は、外へ出て行った者を決して許さない。出て行こうとしただけの者も、永遠の檻の中に入れられる。だから、絶対に失敗してはならないと。計画は失敗しました。
 彼らは思い描いたこともない絶望に打ちひしがれました。自分たちに未来がないことを判りました。あの世界に、自由な外側の世界にももう行けないことを悟りました。どこにも自分たちは生きていけなくなったことに彼らは
 三百年前の人々のように
 驚き、怯え、そして壊されました。彼らは地下でたくさんの頭骨を見ていました。冷たい死骸が今もそこに放置されている様を見ました。黄金に取り憑かれた人々の有り様を、町が気をつけていたあってはならぬ行く末を、ピロットに見せられていました。それは途轍もない過去にあったことではありませんでした。今自分たちを襲っている醜態でした。彼らは笑いました。自分を。その瞬間、舌は噛み千切られました。
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