第30話 終章

文字数 31,749文字

 無なるは生なり。明らかに、それは輝く星のごとく。
 感謝のしるしが、空にかかる。地上には日が昇る。
 落ち着いて。落ち着いて。
 にぎやかに、命は宿る。

 それは、私。



 間断なく、光は地上に射しました。もはや天井は意味をなさず、暗い暗闇は、ほどけてその身を晒しました。来光は決してあたたかなものではなく、青く、白々とした己を突き放つ色をしていました。悪は光にもなるのでしょうか。それが、オグのいた場所にいた者をさらい、運びました。
 テオラは光に包まれる中で必死に馬に跨ろうとしました。そうしながら、彼女は足下に窺う地上の光景も見ていました。
(ああ、生まれ変わる。何が?)
 彼女は憂鬱になりながら思いました。
(私たちが?生きていることが?この町が?ああ、もう、分からない。
 いいや、分かる。分かるのは──)
 サカルダはさっと素早く動き、ピロットの体を抱きとめました。彼女は無理矢理彼の体を引っ張っていき、テオラの乗る馬の後ろ側に貼りつきました。レーゼはイアリオの傍に行こうとしましたが、何かの力が、彼をもう一頭の馬の傍に引き寄せました。ロムンカの体もその馬に引き寄せられました。強烈になった光が、何か溶かしていきます。その骨でしょうか。肉でしょうか。それとも魂でしょうか。イアリオはそれを浴びながら、ああと思いました。
(私がここにいる)

 祭壇の上からそれは見えました。地上からは、空を焦がすような青々しい潔光が町の方から夥しく流れ出しているのでした。それは、山脈を越えたオルドピスからも見えました。マズグズたちのいる、北の森からも分かりました。
「何が起きているの?」
 小さな子供たちが、尋ねます。
「ねえ、僕たちの町で、何が、起きているの?」
 空高く、鳥が一声啼くのを誰もが聞きました。見上げますと、虹色の鳥が真っ直ぐ北に向かって飛んでいました。白き町から、北の山脈まで、彼にとっては間近な距離でしたが、ゆったりとした羽ばたきで、大空を優雅に渡り、その姿を人々の目に美しくとまらせました。
 もう一度鳥は啼きました。そして、山脈の手前で、神々しい光の泡となり崩れました。
 そこに、二頭の馬と、テオラ、サカルダ、イアリオ、レーゼ、ロムンカ、ピロットはいました。彼らは皆狩人たちの祭壇の、てっぺんにいました。豊かな、とても豊かな匂いがそこに広がり、人々は実りある彼らの大地と、そこに巡るすべての四季を、目に浮かべました。
 それこそがあまねくいのちのふるさと、私たちを育てたものに、ほかなりませんでした。
 イアリオははっとして、自分が今、石段の上にいるのだと分かりました。彼女は空を見上げると、声を漏らしました。
「ああ。生まれるのね」
 ぎぎ、ぎぎと、腹に響く重い音を立て、レトラスの肉の扉が開きました。イアリオは、その門の向こう側へ吸い込まれる気がしました。蠕動する膣が、男のものを欲しがり蠢くようにも見えましたが、それは彼らのいる大地から、いずこかに向かって赤子を産み落とそうともしていました。
(その経験を、私はもうして、これからもするのか)
 彼女は自分の腹をさすって、
(それは…ああ、もう一度分かる、とても幸せなことだと)
 そのように思いましたが、脳裏に浮上したその言葉に、はたと奇妙なものを感じました。彼女はその腹を見てあるべき高揚が、上の肉扉を見て、ないことに気づきました。
(生まれようと、していない?)
 イアリオの目の前に、狭い谷にて二度出会った、あの老いた猿がいました。その時、彼女の懐から自然に青い円盤が二つこぼれました。
「もうそれはお前のものだ。とっておくがよかろう」
 老猿がそう言いました。彼女は急に、哀しみに包まれて、途方に暮れました。老猿の正体は、またここで明らかにはできないものでしたが、彼女から飛び出して戻ってきたオグの一部だったとは言えます。その青い円盤に映る、鏡の中の、自分のような存在でした。
 彼女は石段の下方を見ました。すると、ロンドがそこにやって来ていました。彼は、彼女の服からこぼれた青い円盤を、いつのまにか自分の手に取り戻していました。老猿が、彼女の知らぬ間に彼に返したのでしょうか。彼女はこれを嫌いました。ロンドは、彼女に向かって胸に手を当てて、敬礼をしました。
「ロンド」
 まだ生きているのです。まだまだ生きているのです。老猿はしなびた彼女自身だったと言えるでしょう。それは幻想の大賢者でした。生者の世界に残り変わらずにいる者は、オグという魔物に吸収されたような、想いや悪だけではありません。それよりまだ恐ろしい者も、それとは働きが違う者も、この世に居残り、依然力を持っていたのです。それらは後の世に神かあるいは悪魔かと見られ、大人しい精霊になることも、先祖の霊と等しく見られることもありました。
 今でこそ、ずっと魔法は威力を失くしましたが、人間は、それが使われる時代に限りなくそれを使ったのです。この世にいる限り、どこかにその時代の執念はあるものでした。
「見よ」
 レトラスの門番がそう言い、指を指しました。
「涙が零れる」
 肉の扉から、あちら側へ、ぬるりとしたものが落ちていきました。すると、虹色の鳥の後に続いてトラエルの町からつどってきた魂の光たちが、一斉にそちらへ、あの世の入り口へ向かい始めました。
「産まれるわ」
 狩人の女が言いました。彼女は石段の頂の、窪みの中に立っていました。それを見て、イアリオは自分ももう一つの窪みの中へ入るべきか、と思いました。女のつがいは反対側の一段高い石の上に立っています。窪みと台座のペアは、祭壇の頂上にもう一組あります。彼女はレーゼと目を合わせました。レーゼは頷きました。
「産まれるんだ」
 そう言うと、イアリオは狩人の女にならい、もう一つの窪みへ入りました。そこで、彼女はまたもや先程の空虚を感じました。生まれようと、していない。
 レーゼは狩人の男と同じ、高い石の上に立って、自分と結ばれた相手を見下ろして、同じように、得体の知れない空虚感に襲われました。
 二人にとって、もう意味のない儀式が、行われているといった感じだったのです。
 しかしその時、彼女は腹の中に子供のような熱を感じ、彼は、愛しき二つ目の命をそこに認めました。
「クリシュタ」   「ルイーズ」
 二人が同時に互いの名前を呼び合うと、白い光が、彼らの足元から浮かび上がりました。(私の、悪だ)そう彼女は思いました。
(私のすべてが、私自身がひとと関わった全部が、まるでここから出てくるよう)
 白い光は、あの植物と化したオグが、口の中からたくさんのものを吐き出した様子に似ていました。
「すべてが循環する時の流れ、それを望んだのは、人間自身だった」
 門番が猛々しく言いました。
「運命は源なり!悪は人と関わり、人間と一致した。だから、ここにこうある。レトラスの門は自ら開く。繰り返しの輪廻は自らを開く。共に行こう。共に。我々は一蓮托生だ」
 それが門番にとっての浄化でした。旧時代の浄化はこのようにして行われました。いいえ、彼らが「浄化」と意識することは。津波に肉体が滅ぼされたのはかつての魔法のせいならば、心こそあらゆる意識と共に、大波に呑まれ

ことを望んだ旧時代の人間の望みが、そこにあったのです。浄化こそ望むべきものでした。そして、彼らはそれを人工的に起こしました。ですが
 見れば、すぐに分かるでしょう。あの肉の門こそ人間が造ったのだと。どんな技で?きっと忌まわしい、呪いの技術で。しかしもう、儀式は発動されて、歪む鏡面のようにその場所は奇跡を引き起こす場となったのです。
「生まれし、産まれし、倦(膿)まれしものよ!」
 猿が、手を叩いて喜びました。
運命(さだめ)なぞなんのその!いのちはすべてを乗り越える!」
 老人顔の猿はぎゃあぎゃあと喚き、天から降ろされた蔓を登る仕草をしました。
「さらば、さらば!」
 そう言うと、猿は人間の世界から消えてゆきました。自分の分身がそのように消えて、イアリオは涙を流していました。
「オグの旅、こうして終わるのか。ああ、」
 彼女は、何が起こっているのか、分かりません。ただ実感を伴って理解することは、言葉には出ました。猿は、旧時代に彼女の前世のそのまた前世よりも、過去に生きた、アラルなどよりはるかに恐ろしいことをした人間でした。ですが、まさに彼女の言った通り、彼女の過去世が行った強大な魔法により分離した彼女の分身が、他の悪と共に彼女の中へ戻ったのです。
 色々なことが、或る悪の終わりに、起きていました。彼女は窪みから出て、レーゼに走り寄りました。そして、その胸に飛び込みました。
「どうか私を温めてください。クリシュタ!」
 彼女は自分が何を言っているか分かりませんでした。ですが、自分が何を言っているか、本当に分かっている人間など、この世にいるでしょうか。
「生まれるのは、俺たちかもしれないな」
 レーゼも同様でした。彼はぼそりと呟いて、イアリオを、固く抱き締めました。人間は、確かに自分の言っていることが分からないかもしれません。けれど、その言葉が、どれほど真実を伝えているかも、知らないのです。
 オグは、神聖なる巨大な植物の姿から、ただ圧倒的な光に変じていました。それは周りにいるあらゆる霊たちと共に、天へ昇ろうとしていました。彼が吸収したものも、そうでないものも、まだ、一律に同じことを望んでいました。還ること。還ろうとすることを。それは、まだ、自らを呪縛から解き放つことができません。自らが、その呪縛を解き放つことを、思ったことがありません。他に依らなければ。他と混じらなければ。それはできないと考えていたのです。にもかかわらずそれは
 生きている人間の前に、すっかりその身を現して、行く末を、注目されていました。特に、子供たちの前に、彼らの子供たちの前に、彼らは身を晒しています。
 大人たちは、とんちんかんなことを考えていました。この現象を、まるで吉の兆しと捉えていたのです。この世に稀に見る異次元の現象の興奮は、いかにも不吉なものを届けるようには感じられませんでしたから。むしろ、何かを期待したのです。一様に!
 クロウルダのニングも、
「まるで、空のように青いなあ」
 無数の霊魂から飛び出ているその光を、はたして彼は見えているのか、その向こう側にも広がっている悠久の自然になぞらえました。彼は北の山脈向こうのオルドピス軍の駐屯地でそれを見ていました。
「鳥(ルリコウチョウ)のような青色だ」

「産まれるのだ」
 老賢者トルムオは、首都デラスの宮殿からこれを見ていました。地平線の下から、溢れ出る光は覗き見えたのです。オルドピスという国には一つの秘密がありました。それはかの国の王族と選ばれた大賢者には、大地の言葉を聞く魔法の力が付与されることです。世界の大地にはあらゆる波動が保存されていて、どんな音も、響きも、その力によって聞き取ることができたのです。響きは、過去に鳴らされた鈍重な波でしたが、それが重ね合わされると或る過去の像を、現在の像を、そして未来の像を結び投影するのです。
 トルムオは、この力を有し、大地に保たれた限りの音色を通じて過去と未来を見つめ予見することができました。しかし、彼はそのような予見者でありながらも、オグのもたらす未来についてはまったく判断ができませんでした。大地に響かれた人の足音だけが、この化け物が真にほどかれるいきさつを映じることにならなかったのです。ですから彼もまた、他の人々のように、勘違いをせざるをえませんでした。
「命は、一つだ。なぜ我々が同じ女の腹の中というところから、誕生していたか。その意味が、よく分かる」
 彼はそれでも大地の音からよく現実を把握していました。あの青い光が、生命を求めた人間の魂の叫声だと判ったのです。確かに、光も波動として残される部分がありました。土に埋もれながら、再び地上を見ようとする波は、音であるなしにかかわらず地面の下にありました。
 トルムオは見えない未来の予感に大変恐縮していました。しかし今や彼の中にあった恐れの予感は払拭されていました。彼はあの光がオグのものだから、この世に居残った命そのものの明かりなのだと受け取りました。そうであること、そうでないことがあったにしろ、彼は非常にイアリオに近しい感動を胸に、その光を見遣りました。
「我々は知ったふりをしていただけなのだ。生れ落ちる子供にとって、すべてが未知なのに、我々は不安を知り、畏れを知り、それにかえって誘惑されたかもしれぬ。命は悪を求めるが、
 命は誕生も求める。…ああ、何かしら涙が出てくるぞ。まるで、この身が女であるかのような、母らしき涙が」

 山脈の、北の森では、ヨグが、斃れました。蟻たちに喰われ、骨だけになり、その骨は、死んで少し膨らみました。
「大きな変化が、今起こる」
 長老が言いました。
「それは人間と森が希望したものだ。新たな世界がやって来る」
 震えるような歓喜が森人たちにはありました。伝説においてはそれはまったく見えない未来が到来するという予言でしたのに。彼らの崇める神獣の息子が、その死を人々の前に晒す時、彼らの神にも、想像がつかない、とてつもないことが起きるとされていましたのに。にもかかわらず、彼らが山向こうに見た光は、感じるべき巨大な畏れなど掻き消すように、潔く、穢れなく、生命を、称えているように思えました。
「すべてはやって来る。信じろ。我々は皆受け止める。我々がかつての大災害を引き起こしたとて、運命はどこまでも我々の味方だ。いいや、敵にもなりうる。そうか。
 時の流れと共に我々は歩いているということか。どこまでも。これ以上のこと何をか語らんや」
 彼らもまた、分かることと分からないこととがありました。ですが、言葉は、よく分からないことも、よく分からない真実も、同時に語っていました。

 すべての涙が、一つになるようでした。過去から未来まで、流され、流されるべき感動の涙が。にもかかわらず、それは彫像になろうとしていました。まるで全身が黄金でできた、英雄のような雄々しい人の像に!人間はこれを記憶に留めたがるのです。苦しみの時が、訪れれば、再びこの機会を引き起こそうとまでするのです。ああ、でも、
 ピロットが、それを拒みます。彼は全裸で、儀式の祭壇の中央に陣取りました。彼は大きく両手を広げ、世界中に、宣言しました。自分は
 もう

ことを!!!!
「オグなるものの結末を、俺はいらない」
 彼は、凛とした声で、大地を震わせて、
「俺が愛しているものは」
 ばたんと身を投じて、砂を舐めました。
「…この場所だ」

 …その時、集められた光は拡散し、互いにひとつの想いとなるべく集合した眩い意識たちは、
 それぞれの光をわずかに強め、明滅し、門の向こうへ突き抜けていくことなく、
 ばらばらにほどけ、
 霧散しました。

 トラエルの町が、音を立てて、崩れ始めました。



 愛ほど個人的なものはなく、もし、それから苦しみが生じてしまったとすれば。ついに光は拡散してしかるべきでした。この現象を、多くの人間は何か得体の知れない途方もない落胆をもって感じました。何かが叶った現象ではないからです。ピロットは全体としての愛を受け入れぬことを宣言しました。オグは、全体としての愛を受けねば、自分は解放されないと思い込んだ人間たちの集合でしたが、彼はそれを、イアリオからもらって苦しんだのです。現象は、
 何が自然なるかといえば、それは命は一人ずつ胎内から(あるいは卵から)、生まれてくるということです。始めから、それは起こり、
 ひとりびとりの、いつまでもこの世に響くうたが、始まるのです。
 悪とは後天的なものかもしれません。それとは違い、愛とは自然でした。それは善も悪も混ぜ合わせ生み出すものとはいえ。…何が変わった?いや、何も変わらなかった。それだけが、それだけがあらゆる人間に、この現象を前にして分かることでした。
 人々の前で、肉の扉は閉まりませんでした。彼らの前で、遂に生命となった悪は生まれ変わりませんでした。レトラスの門はかすみ、このとてつもない終末を後にして、結局は何事も変わらなかったのだという空しさを渡して、空へ消えていきました。そして
 霧散した青い光は、それぞれの人の中へ、消えていきました。
 彼の体が、石の祭壇の最上段に、大の字になってうつ伏せています。人の世に、本当に流れているものは、何か。それを、彼は身をもって人間に示していたのでした。
 過去より、未来に至って、変わらないものを…。
 森人たちにとって神聖とされる、ヒマバクのヨグは、新しいその認識を森の人々にもたらしました。変化は向こうからやって来るものではありません。そのように見えるだけなのです。本当の変化は、思わずして起こる。本当の変化は、我々の、世界を見る認識なのです。ヨグは死に、彼らはやっと解放されました。彼らの住む森は、彼らを縛るものではなく
 彼らこそ、自分たちが、自分たちを縛るものだったという認識を。だからといって、彼らが森と共に生きた長い年月が水泡に帰すのではありません。これまでのその生き方と、共にこれからの人生が、待っているということでした。
「イアリオはきっとあの山の向こうにいる」
 少し成長したマズグズが、長老に頼むように言いました。
「彼女に、会いに行ってもいいかな?」
「変わるものと、変わらぬもの」
 長老は長い溜め息をつきました。
(何というか、伝承というものは…急に、意味のないものに思えてきた。他の者もこうした感じを受けただろうか?あの青い光と、ヨグの死は何も関連がなかったかのようなのだ。
 いいや、そんなことはない。すべては一つだから。あの光も、このヨグの死も、皆つながっているはずだ…)
 イアリオの住む世界とは対照的に、森人の世界には死の認識があまりありませんでした。輪廻というものが、自ずと隠されていたのです。トラエルの町には死が充満し、森には生が満ちていました。森の人々はこれからなのです。イアリオたちは死の中に、生を見出しましたが、彼らは生の中に、死を見つけなければなりません。
 悪が果たす役割は果てしがありません。



                 * * *



 これで終わりではないのです。時間は悠久にうたいます。では、その時を紡ぐのは、どのような存在なのでしょうか?私たちの意識が生まれる現在こそ、常に、死と生とを孕む、揺り籠でした。
 それは植物のように雄々しく、水を呑み込む怪物ともなります。それが食べたものは、吐き出されます。無限の、食したものと同じになって。…何事もなく、自然に。
 悪とは何かと、定義することは永遠にできないかもしれません。しかしその性質の一部は、ものをつくり出し、そのつくり出したものを、受け入れられないということかもしれません。その悪のひとつの性質によって、もしかしたら、人は時間に気がついたかもしれません。輪廻に気づいたかもしれません。
 人は繰り返し生まれるという出来事は、一種の信仰であって、あまねく人間の信じられる事実とは言えないかもしれませんが、もしそのようなことを信じれば、私たちは、この世から消えたように思われる、時間の地平に埋もれた歴史さえ、信じられます。その時に、ふと、私は自分が何者であるか判るような気がします。
 その時に、私は、自分がここにいると、了解します。了解して、これでよかったのだと、生まれてきてよかったのだと、思います。地面にばたんと身を伏せたピロット!彼だけが、その時にそれを正しく、理解していました。彼らを縛っていた町は、崩れて、そして、その三百年以上に及ぶ、彼らの歴史は正しく彼らに戻ったのです。
 後は、それぞれが、それぞれにまた、生きるのでした。

 私はその後、ロンドを連れて、町まで行きました。トラエルの町の跡地は、ドルチエストの町跡のように、すっかり潰れて海に沈んでしまいました。海賊たちの造った街は、クロウルダたちがオグの監視のために掘り出した地下道は、その上に建てられた白き町の重みによって崩れたのですが、それは地下に棲んでいたオグの脱出によって、収縮し埋まったのだとも言えました。
 それではオグはどこへ行ったかというと、彼は、もはや、そこら中にいました。元来、彼はそのような、人から分かれし怪物でした。ようやく、ほどけてまとまりをなくし、自ずと元の魂に戻るように、各々が、寂しい帰途についたのです。そのそれぞれの物語は、どんなに美しい輝線を放っても、あるいは途方もなく悲しみに暮れた色を持っても、ここに書き連ねることはできません。ひとりひとりに、戻っていくそれらの物語は、現在も続いているのですから。そして、それらのひとつひとつは、むなしいものなどなく、各々が命を懸けた跡なのですから、書き手も、また命を懸けて書かなければならないからです。さて、
 滅びた後の町跡は、誰かが埋葬しなければなりませんでした。なぜなら生き延びた人が多数、存在したからです。その埋葬の仕方を、死んだ人間をどのようにして送り出す、べきかを、確かめに私は海辺に行ったのです。しかしロンドは、私に誘われた始め、なかなかその現場に、どうしても足が向かいませんでした。そこで私は、途中まででいいから、一緒に行こうと言いました。
 彼は見晴らしのいい草原まで来て、馬を降り町の方を向いて、そこから一切建物の見えない光景に、ひたすらに強い、強すぎる寂寥を覚えました。彼は石のように重たくなった彼の足を、私へ向けました。しかし彼には、馬に乗る私の姿は、あまりに軽やかに見えたようです。
「あなたには、私たちの町跡を見る資格があるわ。見ておくことをおすすめする。けれど、どうする?私と一緒に行く?」
 彼は私と一緒にあのドルチエストの町の残骸も見ていました。彼はひらひらと舞う二つの葉を、遠くに見ました。
「…ああ」
 彼は逡巡しながらも諾と言いました。彼は、彼が乗ってきた馬ではなく、私の馬のあぶみに足を掛けました。そして、その後ろ側に回り込みました。私は、ふふっと笑いました。
「私の後ろに乗るなんて、まあいいけど」
 私は私の乗る駿馬にこのまま行ってもいいかと尋ねて、いいよという答えをもらいました。二人乗りのまま、私は馬に駆けてもらいました。私の後ろで、ロンドは渋り顔でいました。明らかに、彼よりずっと私の方が先を行っていて、大国から町に戻る、ここまでの道中は彼が守っていたのに、今は、私に
 守られるようだったのです。私は、馬と彼と共にまっしぐらに海へ向かいました。そして、足元に瓦礫と化した、美しき町を眼下に見下ろしたのです。
「凄まじいな」
 滅びの跡地を見て、ロンドはぼそりと呟きました。私は、繰り返し、彼にこれは町自体が望んだ結末だということを、伝えていましたが、おそらく彼は、そんなことは信じたくなかったでしょう。目に見えるものを、傷つけられているものを、どうしても守ろうとする本能の正義を具えた、彼という大人物においては、私に留まるように命令されたことも、苦痛でしたでしょうから。
 それでも、こうして私の背中についていると、私の町が辿った、あるいは人間の悪の生命が、旧時代も経て至った道のりが、このように結果として見えた意味が、彼にも明確に判っていくようでした。ですが、凄まじいのは、この光景がまるで、世界という巨大な母親がその腹の中で起こしたことのようだったからです。彼は、私の背に、子供のように顔をうずめました。
「どうしたの?」
「何か、怖い。俺は女じゃないんでな」
「女じゃない?だから、怖い?」
 彼は震えていました。これから彼は、さる王国の主になろうというのに、この跡地はその国の行く末も暗示していたのです。いえ、そこまで予感したものではなく、彼はただ、この町のこのような結末を、丸ごと呑み込んだ女の顔の見えない背中にいて、自分はその女のようにも、その女のつがいにもなれないことを、寂しくよく感じていたのです。
「とても信じられん…」
 彼はそのようにして私の背中でうな垂れていました。私の呼吸をよく聞いて、私の背中が、膨らみしぼむのもよく見ながら。そうして、ひとの、生きているものの、あるいは世界というものの、その腹から出たもの、その腹から出たにもかかわらずどこかに迷い、出てこれなくなったもの、出て行こうとして喘いできたもの、そして
 ついに出て行けたものたちの、行く末とその来し方を、彼は肌身に感じています。勿論、それは、やはり彼がこれから興すことになる国の人々の様子だったのです。
 彼は大事な作業をしていました。その邪魔をしまいと、私はしばらく黙っていました。ですが、どうしても我慢ができなくなり、突然、馬上で後ろを向き、私は彼の口にキスをしました。
 彼は茫然としました。
「今まで、付き合ってくれて、どうもありがとう」
 私は彼に宣言をしなければなりませんでした。共に、私が彼とする冒険は、ここで終了だったから。彼は唐突に別れの時が来たのだと分かり、胸を焦がすような鋭い寂寥が、目の前の崩れた町跡に覚えたものとは激しく違う淋しさが、その胸を襲い、引き裂いたようでした。
 私は(ルイーズ=イアリオは)この男に負うものを感じていました。大国で彼に自分の守護を頼んだものの、いつからか自分が精神的に、彼を主導することになったいきさつがありました。そして、私の町の崩壊まで、ついに最後まで、私の町の行く末を、見守ってくれたのです。
「私はね、ロンド、とても寂しいのよ…」
 彼女は馬から降りて、手綱を引いて、崩壊した町を向き、しみじみと呟きました。

「えらく、寂しいわ。私の中には、いつも、誰かいたのに。今も、あなたが、こうして居るのに。なんだか頭が空っぽなの。心も、空っぽ。体も、どうやら空っぽ。
 何もかも、自分の中は、空っぽ。だけどね、だからといって、空しくないの」
 それってどういうことだろう、と彼女は少女のように微笑みました。
「私ね、命は、繰り返し巡ることは、よく分かるの。でもね、この旅の、この、終わり。この崩れた町を前にしてね、この町の下に潰れた私の父や母のことを想って、ここに立っているの。私は、それが、何だかとても当たり前のよな気がしてね?私が受け入れるべきなのは、ここで起きたことの全部なのだけれど。ああ、昨日はたくさん、一緒に泣いたわ。レーゼと一緒、に、それと、テオラやサカルダも、ああ、ヨルンドもたしか混ざってたっけ。私たちはね、
 十五人の仲間たちとして、あの町の暗闇を開いてしまったの。そしてね、誰もが、その暗闇を、開けなきゃよかったって思った。なぜなら私たちの仲間が、一人死んで、一人、行方不明になったから。でもね、でも、なるべくしてなったとも、その場にいた、みんなが思ったの。みんな、一人、一人が、それぞれに自分が、受け入れざるをえないことだったってよく分かるの。なぜかしらね。それで、いいのかしらね…?」
 彼女は、まるで、十代の少女のようにも、成熟した年配の女性にも、年齢相応の一人立ちした人間にも見えました。
「どれだけ私たちは、自分たちのことを、振り返ってきただろう。そして、自分たちのご先祖様たちの、ことも。ロンド、私たちはね、皆救われたいって思っていたの。自分たちの過去が、自分たちを強烈に、縛っていたわ。それでいてなお生きていたいって、生き続けなければならないって、ずっと思っていたの。でもそれは
 私たちの想いというわけじゃなかった。繰り返し、続けられた、私たちのご先祖様の願いだった。それが失敗。
 私たちはただそれを大事にしただけだった。勿論、年上の人たちの言っていることや、町が守り通してきた伝統は大事だわ。その意味も、成人の儀の時に教えられるんだけれど、儀式を通して、みんな、この町を守っていかなきゃならないと思い込むはずだわ。それも含めて、それも含めてね、受け入れることが、どうやら私たちにはできなかった。
 ロンド、私たちを縛っていたのはね、私たちの、孤独だったの。私たちは皆が運命共同体だと言って、実はそれから目を逸らしていた。なぜなら、孤独な霊は、私たちのご先祖様たちで、私たちは、自分たちを通じてそれを解っていただけだから。難しいこと言ってる?そうね、でも、魔物を通じて、私たちは結ばれていたじゃない?あの魔物に、私たち人間は、私たちから出て行ったものを、預からせていた。
 この町でもそれは同じことだった。町は、この町で生まれた人間の、孤独を食べながら続いてきたんだよ。この町を育てたのは私たちに他、ならない。でも、それは

ではなかったの」

「手放し、続けてきたの。ずっと、それは人間の一部としてオグのように浮遊していた。それは、孤独だった。私たちから離れて、力を持って、私たちを、襲ったのは。襲い続けてきたのは!だから、やっぱり自分たちが起こしたんだ。この光景を!」
 彼女は力強く崩壊した町を指し示して、大きく息を吸いました。その時、風がざわっと揺れて、少し寒い空気を彼らに送りました。
「…厳しいな…」
 彼が言いました。
「つまり、こういうことなのか。救われたかった。この町の誰もが自分が救われたかった。でも、救いがやって来ることじゃなかった…誰もの孤独が、救われたいという望みが、イアリオの故郷を支えてきた。そういうことか」
「そう」
 彼女は鶴のように答えました。
「それこそが…この町を支配していた、そう、幻想だった…?」
 そして、にこにこと、彼に、言葉を返しました。
「違うわ。やっぱり、そうして生きてきて正解だったのよ。幻想を持たない人なんている?いいえ、いないわ。でも、それが引き起こすことすら、私たち自身をつくっていたの。

 だから、これでいいの。これでいいんだ。そう思うしかないの」

 イアリオは歌い出しました。
「この世の静か、破る者たちよ。手に手に剣を取り給ひて、何をか得んや。誰をか討ち果たしや!我そを止めん。苦しみの必定を」
 それは、彼女の前世のアラルが、彼女の、夢の中で歌ったものでした。
「全部が全部、まるで運命の中にある。巡り巡る、運ばれる命の輪の中にね。その運命を間違って解釈することは、人にはよくある。あらかじめ決められたことだと、それはきっと自分を縛るものだとね?そうして人は孤独を味わうんだ。
 でも、今はそれでも、良かったかな、なんて思っているわ。運命は
 決められていない。ただちに現在から始まるものだわ。それは過去にも未来にも伸びている。そして、自分が、その解釈を定めるものだから。希望も、絶望も、本当は今から始まっている。私たちはそれを知らなかった。私たちは、それを、ようやく、はじめて知った!」
 ロンドは息を呑みました。一つの真理が彼の中に下りたように、彼は感じられました。彼は、直立して、これを、迎え入れました。

 人の孤独を受け入れざるをえないという、激烈な結末を迎えたオグの霧散から一夜明けて、ピロットはまだ仰向けに祭壇の頂に寝転がっていました。かつて、イアリオに倒されて、森の泉のそばで少年の頃そうして横たわったように。
 彼の精悍な顔つきは、その頃と変わりませんでした。しかし、着実に年輪を重ね確かにイアリオと同じ二十八歳のものを、それはしています。彼の瞳には悪が宿っていました。まだ彼は、悪を望むエネルギーを持っていました。
 しかし、今、その意味はだいぶ変わったようだと彼は感じました。オグが霧散し、それが分かれた、元の各人にやっと還っていったからです。彼が最も気に入らずにいたのは、悪が、集合をしていたことでした。オグしかり、彼の生まれ故郷しかり。その力が彼を呼び続けていたのです。悪は、変わろうとしていたのです。
 彼は孤独がつなぐ、それぞれの悪の集まろうとする意思に抗い、悪を自分のものにする旅を、ずっとしてきました。そして、彼は自分が決して悪そのものでもないことに、随分理解を寄せ始めていました。今思えばあのビトゥーシャも、またそれこそ大なる悪に唆されていたように、彼には思われました。
(俺がするべきことは)
 彼はその裸身の上に狩人らから青い衣を着せられていましたが、おもむろに、それを脱ぎ捨てました。そして、もう二度と、イアリオの前に姿を見せませんでした。
(もしかすると、あいつと変わらないかもしれない。あの悪の塊と)
 彼が名指した存在は、オグという魔物以外にも溢れていました。白霊たちも、三百年もの間閉じ込められていた彼の先祖たちも、また、イアリオという女性も、孤独を集めた醜くみっともない姿をした存在でした。それでいて
 彼は彼らをずっと解放しようとしていました。自分の中に、取り込んで。自分の中で、それを変えて。そうです。これから彼は、彼がそのようにしてきたことを、今度はちゃんと、誰かに教えるために行くのです。オグのように無自覚ではなく、ビトゥーシャのように訳知らずにではなく、イアリオのように、彼を食べようとするのではなく、それこそ本当に、
 人の間に生きるものとして。

「なぜ、この町が壊れたかといえば」
 町は、白い残骸を残すだけになって、言い知れぬ無言の息吹を海上にそよがせていました。
「おそらくもう、私たちのものになったから。私たちのものに、ならなければならなかったから。動かぬ歴史の内側にこの町は埋没することを欲さなかった。世界に知られずに沈没していくことを望まなかった。私を外に出したから。でも、町人の望みはそれとは反対のことだった。
 でもね、そうして亡んでしまった国は、別に私の町のもう一つの未来だったかもしれないと言う前に、今まで本当に数知れずあると思うの。世界中に。そうね、あなたと巡った、ドルチエストとか、あれほど大きな町跡でなくても、オグによって滅ぼされた村々のようにね。そして、その一方で、私たちのように生き残ってしまう人間が出てきた滅びの国も、結構あると思うのよ。人間はずっとこの歴史を繰り返してきたよう。だから、何も、悲しくはない。
 悲しくはないけれど、納得はしていない。だって、こんなことで私の両親が死ぬかしら?いくらそれが起きたって、私の感情は納得がいかないものだったわ。だから、空っぽなの。空っぽで、空しくないの」
 イアリオの痛烈な思いが、切々と彼に伝わってきました。エアロスの暴風は起きました。ですが、神なる彼らによるつくりかえの人間の再生は、オグがあの門を抜けて混沌へと還ることは、起きませんでした。人が、まだ書き起こしたことのない、新しい神話が、ここに誕生したかのようでした。
「こんな凄まじいものを見てしまって、イアリオ、俺はこう思うよ。命なんてはかないものだ。でも、誰もが
 平等の命を貰っているさ。俺は俺のできることを行うだけだ。守りたい相手を守り、救いを欲しい奴を全力で救う。たとえそれがかなわなくてもだ」
「そう。それでいいわ」
 ロンドと彼女は同じ方向を見ていました。滅びた町の向こう、遥か、彼方。海ではなく、世界中を。
「死んだ奴は供養する。あと、ルイーズ=イアリオは俺の大切なひとだ」
 彼の声は上ずっていました。
「あら、結婚の申し込み?」
 彼女はからかうように言いました。
「いいやあ」
 彼は胸を掻きながら、空を見ました。
「世界中にどこまでもあんたがいるようでさ!」
 …イアリオは馬上の彼に体を寄せました。ロンドといれば、おそらく誰もが、元気になるでしょう。彼女は、彼と共に、目の前の石岩に下敷きになった、彼女の故郷の人々を、こうして宥めることができて、ゆっくりと、暖かい陽の光に顔を緩めました。

 さて、お話はここまでとなりますが、この本はテラ・ト・ガルの仲間たちのうちの一人、ルイーズ=イアリオによって、書かれました。彼女はちょうど五十歳(いそじ)の時、夫であるクリシュタ=レーゼと共に、湖の畔で慎ましく生きていました。彼女は、オグと共に町も滅びたあの時からも、生き残った町の人々と一緒には生活できませんでした。自分はあくまで町を抜け出した者だから、もう彼らとは考え方を異にしてしまったと思ったのです。彼女は未だに考えていました。どうして我が町は滅びてしまったのか…
 というのも、あの後、町の人々はばらばらにならず、オルドピスからあてがわれた新しい土地に移住し、開拓者として働いたのです。町は、その周囲の土地を切り拓いて農場や牧場に変えていった三百年来の遍歴とその知識とがありました。その歴史の途上でオルドピスから提供された科学も用いていました。彼らは、そして彼らの子供たちも、大国から新しい知識を習得して活用する頭脳と体力を、今も昔も持っていたのです。新しい開拓者として彼らは力を惜しまず大国から任された仕事に励みました。
 彼らは、その故郷のそばに居続けることはできませんでした。建物はすっかり崩壊し、一方で広々とした農地はそのままであっても、そこに新しく住む家を建てることは考えられませんでした。なぜなら、それまで彼らをそこにつなぎ止めていたのは、地下の黄金を守ることだったからです。彼らは新しい「黄金」を求める必要がありました。自分たちをまとめる、新しい価値観を知らなければなりませんでした。そして新天地へと赴き、彼らは、特に子供たちは、あの地下のあらましを成人の儀の時によく知り、我々がなぜその黄金を守り続けたか、どうして真珠のごとき白き町並みは崩壊したかを、まったく伝統を失ってしまった彼らの頭で、新しいものの考えで、突き詰めていかねばなりませんでした。
 しかし彼らを先導していったのは、守備隊長をしていた、他ならぬテオルドでした。彼は猛省をしていました。いくら地下の街や、人間の集合的悪であるオグによって、唆され彼が行ったことであれ、人間を殺し、彼は町を不安に陥れました。…確かに地下で、オグに呑まれ、かたちを変えて生まれ変わった彼でしたが、それは決して文字通りのことではありませんでした。彼の骨は今なお海の底です。彼の直系の先祖ハルロスがその妻に供養された、石の墓と共に、沈んでいます。でも彼は新たな骨を獲得していました。オグは、
 彼を一呑みに呑んだとはいえ、彼自身の一部でもありましたから、それが彼に戻った時、彼はそれを、自分の強い骨にさせたのです。骨は風化しない、変わらぬものです。それは新しい黄金と言ってもいいかもしれません。骨があって人は歩けます。彼は人々に歩くことを要求しました。このままここにいることはできない、ならば、一緒に歩いていこうと。そうして彼らは開拓者の道を選び、新天地に向かったのですが、その歩き方こそ、人々の胸に、新しく宿るであろう新規の価値観に、変じていければよいと彼は思ったのです。いいえ、歩くことは、人にその骨を知らせます。その骨がなければ、支えがなければ、歩くことはできないからです。そして
 誰もが止まらず実は歩いているのです。定住していても、豪華な椅子にふんぞりかえっていても、牢屋に囚われていても。時間は人間に宿っているから。滅んだ彼の町もまた、その下に沈んだ亡びの街と共に、実は、歩いていました。だから、破滅という「変化」が訪れたのです。「歩く」という感覚が、それまでの自分自身を支えたものは何だったのか、理解するのには必要でした。しかし、別に彼が先導してなくても、子供たちは、「歩いて」いったでしょう。まさに、オグである彼が、町の破滅に彼らを巻き込まず、町の未来を直接彼らに恃んだのは、それを、判っていたからでした。
 待っていれば、やって来るのは、その次の歩みなのです。しかし、それは「今」でした。
 ルイーズ=レーゼは彼らと共に歩くことを選びませんでした。なぜなら彼女は、もう大分歩き疲れたからでした。そして分かり過ぎることがあったために、彼女の身元請負人となったフィマに、資料の整理など図書館の仕事を任せられながら、湖畔の家に引っ越すまではオルドピスの賑やかな町の中に住み続けました。大国では外国人が職業に就くのは難しく、後見人がいなければ、どこにも働くことはできない制度を敷いていました。彼女は、夫ともどもフィマ=トルムオの世話になり、彼の元で働きました。
 そして、彼女の子供たちが成人をし、働きに出て、その収入で彼女たちも暮らせるようになった時に、二人は、静かな湖のそばで暮らすことを決めたのです。それは五十歳になる前で、彼女が五十歳になった時に、その右手はペンを握ったのでした。書き出しは、こうでした。

「海の向こうから、大きな獣がやってきました。その獣は、海を飲み込み、川を飲み込み、全世界のありとあらゆる所の水を飲み込むと、違ったものを吐き出したといいます。再びの海の他に、川の他に、山、大陸、岩、石ころ、植物、動物、人間、さまざまなものを、その口から外に出しました。世界は昔とは違う形になりました。
 ところが、それでその獣は死んだわけではありませんでした。世界と同じように、形を変えていたのです。身体はばらばらにされましたが、その一つ一つの断片がなお生きています。例えば、星になったもの、歌になったもの、神様になったもの、そして人間を食べる悪霊になったものなどが…。」

 その神話はまるでその時に新しくできたもののようでした。彼女は、相当古い時代に語られたこのような物語の出だしを、改めて、自分の町の辿った破滅への物語の冒頭に載せることにしました。ですが、その神話には続きがありました。
「それらは愛で出来ていたことを彼は知りません。星も、歌も、神様もこの大地に恋していたのです。獣は再びからだを戻し、やがて、大地に愛をうずめました。星は、星になりました。歌は歌になりました。神様は神様になり、悪霊は悪霊になりました。獣は自らを語ることができるようになりました。意味ある言葉の誕生です。」
 彼女は、この続きの部分の意味がよくわかりました。それは、この世を祝福していました。誤ったことをしてしまっても、獣は、自分が生まれ落ちた世界を祝福していました。もし、私がここに語る物語が、このようなものであれば…と、彼女は何度も思いました。それを確かめに、ルイーズ=イアリオは筆を取ったのです。
 オグはここに来て救われるのでしょう。確実な彼自身の歩みが、自らをそこまで、連れて行くことによって!私たちは彼と共に生き、彼もまた、私たちと共に生きているということを分かれば。彼女は、自分の町の物語を書いているうちに、どうして我が町は滅びてしまったか、それをよく知るに至りました。どんな歩みを、私たちは、してきたのか…。彼女には人間の無限の足音が聞こえました。人間がそれぞれ、悪という生き方を、自分のものにする旅をしているのだろうと思いました。
 彼女は、人間が、大地の上で、くるくると舞っているように思えました。そして、
 それこそが、自由だと思いました。
 また、彼女の国の時代の言語で、このような言葉が、閃きました。イエオウバ、オルクスタ。(どこかへと、出掛けて行きます。)
 ザスニ、ヒタラスタ。(そして、戻ってきます。)カズテ、トミナテ。(間違いなく、ここへ。)

(日本には「天の岩戸」の伝説がある。弟のスサノオノミコトの粗暴さに呆れてしまった姉の天照大神が岩の門の向こうに隠れてしまい、彼女の司る太陽の光が、地上に届かなくなってしまうのである。これを解決したのは、その門の外側で行った神々による酒席の宴であった。天照は何やら外で騒がしい雰囲気に釣られて、覗いてみようと自ら閉めた岩戸を開けたところ、引っ張り出されたのである。
 門は、自分の光を制限するためにそこに設けられた。それは、一度閉ざしたら自分から開けることは難しい。自分の力だけでは、開けられないものかもしれない。)


「なるほど。これは、本当に書いてもらって良かった」
 支配者はどこにもいません。やがてそれは朽ちるでしょうから。太陽でさえ、あの笑顔は永遠でしょうか?
 永遠などあるのでしょうか?
「でもこれは神話ですね。ある意味での。そうでなければ、それが本当に起きたことだと認識できないな」
 出来上がった草稿を、彼女の後見人であるフィマは机に置き、その上に手を乗せてとんとんと指で叩きました。優しく、そして力強く。
「オグについて書かれた、貴重な資料にはなるけれど…彼は、だんだん私たちの記憶から薄らいでいくと思う。彼と命運を共にするはずのクロウルダが、もはや勢力をほとんど持っていないようにね。あの日を、境にして本当にオグは散り散りになってしまったようだ。だから、折角のこの資料は、神話にしかならない」
 彼はある魔法を使えるようになっていました。それは、大国の賢者や王族が使えた、大地の声を聞き、その声を合一し過去の出来事を知る技です。彼は、その力で彼女が向き合った人間の魔物を、追跡し、その行く末を占っていました。
「そう」
 彼にそう言われても、イアリオは別に残念には思わず、彼女なりの真実を書いたという実感に支配されていました。「でも」と、フィマは納得したようにぱちんと手を打ちました。
「そうは言っても、何か、重たい物を受け取ったような、すごい風を感じます。あなたの言葉が、ずっと、遠くから響いてくるようです。どうしてですかね?僕は、史実的にしっかりした事実しかこんな感覚は決して味わわないと思っていたのに」
「歴史書に書いてあるような事実しかってこと?」
 彼は、彼の魔法で見ることができた、彼なりの

を言っていました。
「学問の対象になりにくいんですよ。あなたの書いたものは!扱いに苦慮します。勿論、史実はきちんと承りますが」
 彼はその魔法を使えることを彼女には告白しませんでした。勿論、門外不出の技だということもあるのですが、どうしても彼は彼女の息子のようになってしまって、自分の知ったことを、すべて彼女には報告することはまずいと思っていたのです。自分なりの理解は自分のものにしていたい、そう子供は、何歳になっても思うようです。それは、誰に対してもというのではなく、敬愛していればこそ、不恰好に、必要なこと以上のことを言わないよう注意したのです。
 彼女は別に、史実を書いた気はしていませんでした。自ずと、自分の主観が混じって、言葉が止め処なくなって、破綻するような文章になるようなこともあったからです。彼女は、立派な物語を書いたとは自分で思っていませんでした。ですが、後から読み返してみて、すべてが、やはり自分にとっては事実だったと思うに至りました。
「その分析はよろしくね。でも、全部が全部、本当に私にとって史実ですよ」
 彼女は思い直し、言葉を直しました。
「ああ、オルドピス的には、そこがちょっと残念なのかしら」
 彼女はフィマから任された資料の数々を思い出して、学術的に書かれた書物の内容を思い起こしました。
「ええ、まあ、それは、多分」
 フィマは歯切れの悪い返事をしました。彼は分析したつもりでした。自分の数学的関数的な見方で、彼女の描いた

をつなぎ、明瞭な図絵を思い描こうとしたのです。まるで歴史のように。しかし、それはうまくいきませんでした。彼は、彼女の提出した物語において、引っかかるところが実に無数にあったのです。彼女に質問したくなるところもたくさんありましたが、どう尋ねればよいのか分かりませんでした。しかし、その、いずれかは、それからの彼の人生にて、腑に落ちたのですが。
 彼はいまだに、ぐるぐると彼女の書いた物語の端々を思い起こしていました。そんな彼の様子を見て、イアリオは急に思いました。
「何だか、久し振りに、あの町へ戻らなければならない気がするわ。私の故郷に」
「トラエルの町に?」
 彼女は頷きました。

 さても二十余年前から時代は様変わりしました。オルドピスはますます裕福になり、彼らの支配はこの大陸全てに及びました。大陸中の知はそこに集まり、習合して、そこから出て行ったのです。その知に対抗する勢力はいませんでした。まるでオグのように…。皆が彼らの真似をし、皆がその恩恵に与り、皆が等しく裕福になる幻想を抱く様になりました。人々は疑問を抱かなくなったのです。自分とは異なるものに対して、自分とは明らかに離れているものに対して。それまで抱いていた幻想はまさにそうした「幻想」とされて、今のそれはそう感ぜずにいました。自らつくり上げたものに対して人間は弱いのです。それはそうそう崩れることはないと自負しますから!でも、いつか崩れる。その恐れを抱かない時間が過ぎているだけです。悪は今にも出現しているのですから。
 でも、それが当たり前でした。どうしても人間は何かを忘れてしまうでしょう。いつの時代も、生きながらにして色々忘れているのです。生まれながらにして、悪は自分たちのそばにいます。だから、忘れまいとすることなんてできません。
 そうしたことを、彼女は、レーゼと共に、あの町へと戻り、確かめたかったのかもしれません。或る物語を書き終えて、思い出した出来事がこれから忘れられていってしまうのに対して。
 ふるさとへと向かう道中は楽しいものでした。なぜなら、二人に同行したのが二十余年前、イアリオがトラエルの町に戻る際に、彼女とロンドたちに帯同してきたオルドピスの兵士だったからです。その兵士の乗り馬は疾風(はやて)で、レーゼは彼の馬を借りてイアリオを追いかけたのでした。兵士は勿論あの神秘に立ち会っていました。そして、彼は光に運ばれ戻ってきた自分の馬をおいおいと泣きながら抱き締めたのでした。彼は兵士長になり、それまでの経緯を二人に話しました。二人からも、今までの彼らの生き方、大国の待遇など、いきさつを彼に語りました。彼らのやり取りは、二十年余りの彼らの過ごした歳月を遡る、決して重い荷の載らない時代の散策となりました。彼らは険しい山を馬と共に乗り越え、森を突っ切り、裾野に出て、トラエルの肥沃な土地を前にしました。ああ、と溜め息をついたのはイアリオで、その後すぐに、レーゼが長い嘆息を漏らしました。その時の彼の表情は、彼女から見て美しく、初老となった顔の年輪はそこに魅力的な陰影を刻んでいました。では、彼から見て、彼女はどうだったか。お互いに、お互いの顔を見合って、きっと今自分は、彼女と同じような顔になっているに違いないと、彼は思いました。
 イアリオは、背後の聳える山々を見上げました。その上にはかつて、あのいびつな肉の門が見えました。彼女は今も、以前と同じようにあれはそこにあるのかと想像しました。想像の中で、あの門を思い描いてみると、なるほど本当に、そこにあるかのように描けました。そして、実際に、見えました。固く閉じて、てこでも動きそうにない、乾いた門扉が。
 イアリオはその門の名前が、「時」だと思いました。永遠なる流れレトラスへと、迷える想いたちが回帰するための扉が、本当は彼らの願いによって開かれるのではなく、まさに時間が開くものだと感じたからです。彼女はその門は常に開かれているような気がしました。閉じているように見えるだけで、本当は。人間はいくつもの門を閉じながら生きる、怪物のような存在でした。自分を守るために、想いを厳重に守るために。しかし門はそこにありました。それは壁ではありませんでした。他者から引き離された所にそれはなかったのです。誰もが耳を傾けられない所まで、それは(孤独は)、寂しく世界を拒絶してはいませんでした。
 その門は、本当は、開きながら生きていました。いいえ、開いていたと、気がつくのです。そして、門など自ら造ったのだと分かるのです。人はその内と外に自分をつくります。いいえ、はじめから、内にも外にもいるのです。人間だからこそ造り上げる門、それは言葉であり、悪でした。人は、内と外に、自分をつくる。その間に挟まれるものは、人工の、門だというのではありません。自分と、他人に分かれる、言わばその肌、輪郭だけでした。そして、その肌の内側にも外側にも、私はいる。他者に認識される、私。自分に認識される、私が。その間に、どうしても彼らは門を造るのならば、その門は、どうして開いてないことなどあるのでしょうか。
 門が、閉ざすのは、一体何か。何か特別なことだけをそれは通行不能にしているのです。特別なことだけを、行ったり来たりさせたくなくて。それは、大切なことであり、またどうでもよいようなことでした。きっと笑い話になるようなこと。多分誰もが、共感してしまうようなことを、人間は、大切にし、拘り、打ち捨て、失くそうとする。化け物を通じて、もう、人間は一体となってしまっていたから。そこから分かれ、それを共有していた彼らは、一体どこで、強烈な孤独をまた感じるというのでしょうか。それはきっと新しい、旧時代にもなかったような、今まで起きたことのない想いなのでしょう。そうでなければ
 そうでなくなっていく
 想いは哀愁を誘い笑いになるしかないでしょう。きっとむせぶほどの、圧倒的な。人はもう生まれた。だから、共感する渦を、螺旋を描いて、登っていく。その最中であると、言っていいと、霊魂の輪廻を肯定すれば、そう叫びたくなります。悪いことも善いことも、人間は、繰り返し行うならば。
 そのような世になぜ人は繰り返し生まれようとするのでしょうか?
「クリシュタ…」
 イアリオは彼に何か言おうとして、目に飛び込んできた見慣れない動物を驚いて指差しました。
「あれ、いのしし!」
 その動物は山脈のこちら側にはいないはずでした。いつのまに入ってきたのでしょう。彼女はハハ、と笑いました。
「まったく、どこから入ってきたのかしらね。あの子も、オグも」
「え?」

「納得が、いったわ」

 そう言うと、振り向きざま、彼女は彼にキスをしました。
「私の全てを」


 世界中に、礼をします。


「私はね、クリシュタ、あなたを愛しているって言いたいわ!ずっと、遠くまで、届くように。それが、すべてだって、
 どうして思うの?」



 彼女が空っぽの町跡に帰郷してから、すぐのことでした。トラエルの町の住民たちは、彼らの開拓した土地から、その故郷へと移住することが決まりました。オルドピス領内において、全ての住民は厳しい規範に制御され、全体が身分統制下に置かれていました。町人たちはその領内で開拓民であることを余儀なくされ、その土地以外に出ることを制限されていたのですが、その目的は、大国の全体主義的な政治に基づかれた意図もありながら、魔物の棲みし土地に誕生した人々の経緯を観察することも含まれていました。そして、その観察期間は終了したと見做されたのです。彼らは他のオルドピス民のように、その国民として、ある程度自由な経済活動と職業の選択を、決められることになりました。しかしそれは、彼らが完全に大国市民となること、もはやトラエルという町の人間だったことを、すっかり過去にしてしまうことでもありました。彼らはずっと新しい黄金を求めてきました。それは、彼らという民族に芽生えた揺るぎもしない生き様、あるいは、渇望だったかもしれません。彼らはその黄金を発見したのではありません。
 オルドピスは、彼らに滅びた町跡に戻ることを許しました。そして、これまでのように、町が滅びるまでのように、お互い結託した国同士の関係であることを約束しました。荒れ果てた農地は、ふるさとへ戻ってきた彼らの手で再び息を吹き返そうと、手を入れられ、三十年に及ぶ勤勉な労働によって培われた技術で、新しく、美しく収められていきました。蝶々や小鳥たちをその畑の隅に追いやってしまったことはどうもすまなく思われましたが、人々は、代わりに歌を飛ばしました。そして、ここでしか見つからない黄金を、みんなで探しました。かつての子供たちは、もう立派な成人となり、新しい命がいくつも誕生する中で。
 彼らは気づいていませんでした。彼らの肉体こそ黄金でした。そのルーツこそ、その身体となり、骨となり、今ここに生きているだけで、輝いているその姿になっていたのですから。
 町人たちがこぞって故郷に還る一方、イアリオとレーゼは彼らのように、あの海辺沿いに住家を移すことは考えられませんでした。三十年も彼らとは幾分違う道を自分たちが辿ってしまったこともあるのですが、心情的なその理由は複雑でした。トラエルの町の人々の代表は今もってテオルドでしたが、人々が移住し、野菜も採れて自給自足ができるようになり、その暮らしが軌道に乗り始めた頃を見計らって、彼は、湖畔の家に住む彼女たちを、一月半ほどの道のりを経て(その間に首都デラスへ行き所要を済ませながら)訪ねて、こんなことを訊きました。
「君たちはなぜ、僕たちと一緒に戻らないの?僕たちが初めてこのオルドピスに来た時もそうだったが、開拓地にも来なかったね」
「ああ、あれはほら、私とかがいると皆怖がるんじゃないかって思ったの。私は町から出た人間だもの。一緒にいると、きっと黄金がまだ彼らを縛る気がしたの」
 レーゼが眉を上げて、彼女の言ったことに足りない部分を、頭の中で補おうとしました。ですがテオルドはすぐに彼女の言ったことが判り、落ち着いて、息を吸った胸をしぼませました。
「そうだったのか」
 テオルドはすっかり、憑きものの落ちた顔をしていました。のっぺりとした、人を睨みつけるような眼光は昔と今も変わりませんが、それでも、深い知恵を湛えた物腰と雰囲気は、そこに少しずつ人間味を足して、彼を取っつくことのできる

にしていました。ですが、彼はまだ猛省の途中でした。彼は、町とは何か、人間とは何かを、人間の中で暮らしながら、少しずつ認識していこうと努力していました。彼は、一度神になったのです。いいえ、あるいは悪魔に、悪神に。彼の意識は多様に散らばりながら不思議に個人を形づくり、人間となって、そこにいました。彼はひとに戻ろうとするオグであって、元人間であっても、自分が「人間である」ことを完全に解るには、戻ったオグとその元々の器が確かに重なり合ったことを、解るには、時間の掛かることをしなければなりませんでした。それは、もしかしたら遠い未来に、ひとの誰もが行わなければならなくなる、つらい作業だったかもしれません。ならば
 彼がそうして先行していただけでした。
「そんなことにはならなかったと思うが」
 と、彼は応えました。自分が、人間と共にあの後も暮らしていけたことを踏まえて、もしかしたら、彼女も皆と新しい土地を開拓していっても、皆に受け入れられながら、暮らしていけただろうと返したのです。
 そんなテオルドに、彼女は彼の中に初めて見る、人らしい光を見つけて、ちょっと意外な顔をしました。彼女は慎重に話そうとしました。相手がかつてのオグそのものだったことを、よく知っているからというのではなく、二人の間で、今話されていることが、どうも今の自分の理解も超えているような気がしたからです。人は、自分の話すことが正しくは分からず、どれだけ自分が真実もしゃべっているのかも、(しゃべることならず、書くことも、あるいは、動くことも、どれほどそれが正確なのか、または世界の真理に触れているのか)よく知りません。今の自分を超えているようなことをばかり、本当は人は行っていました。
 そして、そこからほんの一部だけを、たった今、自分の中に取り入れて。(ただし、宗教によっては人は将来、その行為の起こす事柄のすべてを受容すると説く。)
「そうかしらね。でも、私自身が彼らと一緒にはいられなかった理由があるわ。私、もう町の人間じゃなかったから」
 彼女はまるで、人間の器に戻ってきたばかりの彼(オグ)のように言いました。ですが、人から離れてしまったものは、その器に、戻るのです。器は、器を、重ね合わせられるのです。
「君ほど、町の人間たる者はいないんじゃないか」
 彼女は彼にそう突っ込まれました。しかしそれは、自分のことも言っていました。
「けれど、そうだから、一緒にいられないというのは実によく、分かる」
 テオルドの中に戻ったオグは、もはや、誰よりも自分が人間だと判っていました。人間よりも、自分が、人と人との間にいることを。彼は優しくなっていました。優しくならざるをえませんでした。彼はこの世にいかにもはびこり、至る所で悪さをし、そして人に還らんと欲し、還る
 ことができたから。
 二人はひとしきり黙り、その沈黙を共有しました。二人の間には同じ波動が流れていました。レーゼはそれが見えるようでした。彼にはまるで、テオルドが直接の彼女の子供のように見え、また、その逆にも見えました。彼女が、彼の子供だというようにも。
 遠い遠い、古の昔、そのような時代はありました。ですが、そのような時代まで、自分たちが神のごとき、人間の大元から分かれ始めた古代のことまでを、思い出すには二人とも至りませんでした。彼女は現世で子供の頃、彼を嫌っていて、彼もまた現世で彼女を馬鹿にし、お互い牽制し合う(が、気には留める)町中の子供同士の関係であった頃までは遡れるのですが。人は生まれ変わり、大抵、その過去を忘れていました。過去など思い出さなくても、過去を引き摺り、今に至っているからです。そしてたとえ思い出さなくても、人間は皆、それを解決しようと知らぬ間に頑張ってもいる。だから
「オグは、どこにでもいるわ。そして、ずっと私たちを狙ってる」
 そう彼女は言いました。彼女は彼女がものにした彼女の一部は、魔物から離れて、自分に還ってきたと感じ取ることができましたが、いいえ、今も自分は、あのような魔物の主体となった、分離した悪を、知らぬ間に撒き散らしているかもしれないと考えていました。ですが、何も悪だけを、人間は常々吐き出しているわけではなく、温かみも、親切も、色々なものを、彼らは世界に伝えているのですが。その言葉もまた、そう言いながら、言い手の理解を超えていました。我々を
 つくっているものは、我々の理解を超えている。しかし我々こそ、我々を、つくっている。誰かにとっての私は。そして、私にとっての誰かは。いつも
 自分は誰かそばに人間をあらせていることを、人間はよく知りません。私が
 いつも誰かのそばにいることもまた。たやすく、人は、人間の孤独に陥ります。どれほどそれが、誤った認識であっても。
「もしかしたら、本当に町の人間と言えるのは、ピロットかもしれないと
 ずっと思ってきた」
 彼女は彼女にはまだよく分からないことを、また言いました。彼女はピロット少年の孤独を愛していました。まるで自分の孤独のように。彼女は孤独ではなかったのですが。
 彼女はいまだに彼に歪んだ愛情を持っていました。だからもう、彼とは会えなくなったことを、まだ、気づいていませんでした。
 彼女は彼の一部を愛していました。彼も孤独ではなかったのですが。その孤独をこそ大きく、捉えて、だから彼女は、自分の町を出て行ったというのに。彼は
「彼は町を叩き潰そうとして、ずっと自分と闘ってきたようだったから」
 彼女の代わりに闘っていました。いいえ、彼は、自分を解放しようとして、実は、彼女を(町を)解放しようとして。苦しんだ。それなのに
 彼女は、彼を、また

などと言った。あの満開に花咲く植物となろうとしていたオグを前に。
「あの時オグは、彼の前に屈服したようだったわ。あの扉が開こうとした時、彼は地面に突っ伏した。自分がここにいることを宣言した」
 彼女は、まるで彼女から生まれてきたような彼の自我を、彼の一部分である孤独を、愛でる力はありませんでした。自分から離れた自分を、その時はまだ、ものにしていなかったから。そしてものにした今も、まだ、それは還ってきたばかりだったから。
「そうかもしれない。僕の中に、すっかりオグはいるよ。こいつが暴力を働いて、僕たちの仲間を散々ひどい目に合わせたがね。でも、それも僕たちのものだったものだ。それこそ、あの町だと言えるものだ。
 それは、きっと個別に分かれて初めて救われる存在なんだろう。ピロットは、あいつ自身が生み出したものを、すっかり自分のものにしたんだ」
「そう思うわ」
 テオルドは正しいことを言い、彼女も頷きました。ですが、まだ二人には、二人とはいえ、限りなく分かっていないことがありました。
「でもね」
 しかしテオルドの、人を見る時どうしても上目遣いになってしまう目は、芯を入れたように真っ直ぐになっていました。まるで、巨大な槌で門を打つかのように。
「悪なんていつも世に出ているものさ。いつの間にか、本当に僕たちから出て来てしまっている。でも、それでいいのだと思う。こんなことを言っても、やはりあの町に悪を為したのは僕だから、こんなことを言うのは、論理にもとるかもしれないが」
 彼女もまた、ピロットを想ういびつな目から、彼と同じような目に変わっていました。
「私もそう思うよ。それに、よ。悪だけがこの世にあるわけじゃないんだし。
 オグが子供を産むかしら?」
 彼女は、傍に座るレーゼを振り向いて、言いました。人間は、自分によく分かっていることと、まだよく分かっていないこととを言います。レーゼは、その時神秘的な影が彼女の肌を包み、どこか遠くに行かせるような雰囲気を感じましたが、そのような雰囲気を纏う彼女をこれまで何度も見ていたので、別に驚くことはありませんでした。
「そうだな。でも、オグは、結局そういうことに気づかない存在だったんじゃないか?」
 と、彼女の夫が言いました。彼もまた、自分がオグであったことに気づいた人間でしたが、それは明らかに彼女を通して、彼の愛する人間を通して判ったことでした。彼女の苦しみを、彼は、よく聴いていたのです。
 彼女はすっかり元の目に戻りました。笑ってはいないものの、笑っている様子でした。
「そう思えば、彼女も孤独じゃなくなるのに。次々に明日は生まれるわ。その一部に、彼女は、なっていたんだわ。だから、明日にならなきゃ気づけなかった。私たちは、結局過去だけを背負っているんじゃない」
 このように彼女が語ったのは理由がありました。彼女の町が破滅してから三十年、世界は様変わりしましたが、大国の支配する大陸の外で、新しい国が興っていました。あのロンド=フィオルドが、ある地方を平定してその国の王に収まっていました。彼は、幾度となく彼女に手紙を送っていました。戦争中も、平定後も、詳しく彼の為したことを送る手紙に書き綴っていました。彼は他大陸の揉め事の多い国に入っていって、そこの問題を(住民同士のいざこざを)彼の力で解決していくうちに、仲間が集まり、住民も彼を慕うようになり、彼が王となることを望まれるようになっていきました。そして、その国の民族の首長たちと対峙することになったのです。彼は、首長たちの連合軍と、オルドピスからも支援を受けた彼の軍隊とで、天下分け目の戦争を起こし、それに勝利しました。
 しかし彼は自分が正しい戦争を起こしたのか、自信がありませんでした。見えないものに、わけのわからない力によって、彼は人々から王に推戴され、あまり望んではいなかったいくさに出撃することになったと考えていたのです。いくら彼の前に、彼から分かれたオグだったものが、現れてそれを予言していても。彼は彼の想いと人々の想いを、区切っていたのです。そうすることができたのは、イアリオと、オグを巡る旅に出ていたからでした。そうでなければ、彼は傀儡(くぐつ)となったでしょう。他の、数々の王のように、力に呑まれ、自分が、何のために権力の玉座に就いているかなど、分からない愚か者になっていたかもしれないのです。
 人は、一国の玉座に座っていなくても、手に入れた権力によって変えられてしまうものです。それは、宝石でも、賞賛でも、知恵でも技術でもあることでした。つまりはオグとなる道を、誰もが歩くのです。その悲しみを人間は輪廻の果てに経験することを選択しました。ついに、その経験を我が物とした者は、人から離れた力に左右されることがなくなるのです。そのために、魔物は、人から生まれ、人に還ろうとする。
 ロンドはそのために自信がありませんでした。自分の中にある正しさに拠って彼は動いていたというのに、彼と共に動くものは、彼を動かし、自らも動かされてしまうものは、まだそこにあったのです。たっぷりと、今後、十分に悪霊として育っていくような想いは。
 しかし彼は
 自分を笑うことができました。
 彼は、彼女に送った手紙において、こんなことを書いていました。
「自分を超える現象というものは、いくらでもあるものだと、今実感している。それを御することはできないが、それと、堂々付き合うことはできているようだ。多分、イアリオのお陰だろうと思う。あなたの町の運命は、これから俺が司っていく国の行く末かも知れぬから。いずれは何もかもが滅びたる。残るのは現在、今だけだろうな。あなたの町の人々が、今も奮闘しているように。開拓民となることを選んだ彼らを、俺は、非常に尊敬している。
 イアリオ、俺は自分の国の領民たちに、明るい未来なんぞ約束はしていない。ただ何もかもが、明日に残ると言っている。それだけで今は
 十分なようだ。
 まずは荒れ果てた農地をなんとか蘇らせ、少なくとも食物が豊かな暮らしをするべきだと、みんな誰もが分かっているようだ。無論、盗賊も多いし、他人の飯を横取りしようとする奴もいっぱいいるがな。そいつらにも同じことを言っている。そして、
 そいつらに限っては、明日を保障している。食いものを用意して、とりあえず生きられる保障をしているんだ。そいつらにとっての明日が、本当にそいつらのものになるまでな。…」
 彼女は笑いました。そのとおりだと思いました。次々と明日は生まれる…善も、悪も、色々なものを含めた明日が、それぞれの人ごとに、それぞれの時代ごとに、それぞれの民族ごとに、それぞれのいる場所ごとに。なんとこの世は彩りに満ちているのだろう!そして
 その彩りを一定の色に染めて、世界を見做してしまうことも、誤った見方を世界にしてしまうことも、人間には起きる。
 彼女の言葉を受けて、テオルドはしばらく沈黙しました。なるほどと思いながら、その言葉に、やはり、分かることと分からないこととが混ざっていたからです。
「……」
「いつも巨大な母親なんだわ。立派な幹を伸ばして、空じゅうに枝を張っているの。私たちは、みんなね。だから、むつかしいことなんてない」
 彼女はむつかしいことを言いました。でも、それはとても感覚的なことでした。
「私たちはその枝葉の一部でもあるもの。
 みんなでここにいる。
 轍は、必ずどこかにつながっている。そして、どこかで必ず、
 交差している」
「みんなが、母親?」
 テオルドが彼女に尋ねました。イアリオは、ロンドの手紙から学んだことを、そのまま言いました。
「みんなが、明日に臨んでいるでしょう?みんなが、今を、築いているから。そして、オグこそ、そうでしょ?」
 彼女は、テオルドに自分の書いた物語を読んでくれたかどうか訊きました。それは、オルドピスにて製本されて、トラエルの町にも送られたからです。彼は、読んだと言いました。しかしトラエルの町にてではなく、このたび首都を訪ねた時に、読む機会があったと伝えました。そして、もし僕に許されるならば、そこに少しだけ手を加えたいが、いいだろうかと、彼は彼女に申し出ました。
 彼女は、およそ本は自分に分かるだけの事実しか書いてなくて、多数の人に修正してもらえるならば、直してもらいたいとも思っていました。彼女は彼に、そして町の人々に、好きなだけ手を入れてもらって構わない、と言いました。そして、まだあれにはあとがきを書いてないんだけれど、と呟いて、物語の最後に入れていない、締めくくりの文章を書いた紙を、彼女は彼に見せました。



 物語は終わりません。どこまでも続きます。
 終わりは、いつも新しい始まりを用意するから。繰り返し、生まれ変わる人間の魂のように。ですが、それ以上に、
 この世にいつも分からないことがあるから、それは終わらないのだと、私は思います。
 だからこの世界は幾度も人間が生まれ変わる価値があるのでしょう。その時に、誰もが生まれる前の昔の記憶を持っているのかなんて定かではありませんが。つまり、この世に生まれてくる価値を、誰もが、見つけ出すことができるとはかぎらないのですが。
 どうせなら、私の書いたこの物語は、誰にも繰り返し読まれることを願っています。なぜなら私自身、何度読み返しても、新しく分かってくることと、未だ、分からないことがたくさんあるから。
 …ですが、それほどの魅力を、この本に感じてもらえるかどうかは、私も、神頼みなところがありますが。



「あはは」
 テオルドは笑いました。
「どうしてそんなことを?やめとけよ、そんなに皆に読んでもらいたいの?」
「ええ」
 彼女が答えました。
「だって私だけじゃ、あの時何が起きたのか、どんなことが、あの時に流れ込んできていたのか、
 全部なんて到底、分かり切れないもの!」





 …この作品は、今も、オルドピスの図書館に所蔵されています。そしてその著者の子供たちが、あるいはトラエルの町の人々の子孫が、あるいは人間の心に潜む魔物に関心のある人たちが、この本をよく借りていくようです。
 著者の作品は以後その子孫およびテオルドに、手を加えられています。それは口承伝説のように短く端折り、分かり易く語り易くすることはされませんでした。かえって今でも分かりづらいことは、そのままにされたのです。作品は永く読み継がれることになりました。何より特にあの町出身の人々は、自分たちの中に潜む「黄金」を調べる必要が出てくると、この本を参考にすることが多くありました。そして大国がついに黄昏の時代を迎え、人々の取り巻く環境が否応にも変わってゆくと、この物語は頻繁に人から人へ手渡されるようになっていきました。
 追記として、かの町の代表者カルロス=テオルドについて触れておかなければならないことがあります。彼は、一つの宗教を開いていました。それは破滅後の彼の町の礎となりましたが、彼の死後、その教えはオルドピス内にも広がりました。その宗教にとって一際大事なこととされるのは、過去を肯定し覆すのをしないことでした。分かり切れないことはそのままに、引き受けることでした。それによって、現在は重みを持ち、実在(現実をどのように捉えていくか挑戦する人間と言う存在)は、物事の意味を新しく拓けるということです。元オグであるテオルドにとっての宇宙は、何もかもが自分自身の反映でした。悉く、世界は自分とつながっている、ということがその信仰の骨でした。その信仰は彼らの北の山向こうに住む森人のものとよく似ていましたが、繰り返す死の果てに生まれたテオルドの宗教は、生をばかり見る森人たちの考えとは違って、生に必ず訪れる圧倒的な死(悪)の在るこの世に対して、ずっと誠実であると思われたのです。
 ところで人間は、都合よく自分の記憶を解釈するもので、歴史は、時の政権に簡単に書き換えられてしまうものです。それによって、人間の中に黄金が生まれることを、イアリオの本も、テオルドの宗教も、語っていました。それは守るべき黄金、守らずにはいられない黄金として君臨し、人はこれを巡って争い、奪い合い、殺し合いまでしています。そしてそのような黄金から、新しく肉体が出来上がります。もう一つの肉体、つまり、人から分かれることを運命付けられたその分身です。かつて人の世にあった魔法の時代、この仕組みを利用して、オグという魔物がつくられました。あるいはこの成り立ちを遡行して、つくられた肉体から黄金ほどの価値を持つ特別な魔法も発明されていました。その時にはオグの誕生よりも凄惨なことが起き、もっと、正視できぬ悲劇が襲いましたが。その特別な魔法はいまだに現世を襲い、オグが各人に還っていった一方でまだ、人によく知られない悪さをしていました。しかし後の世にその悪夢の連鎖を断ち切るのはテオルドの遺した宗教だとも言われました。
 人から生み出された黄金は、人へと、還るものでした。それこそ、本当に変わらぬことでした。
 私たちの中に、無数の人間が存在することは、そうそう、分からぬことであっても。
 きっと神はそこにいるのでしょう。オグは、そこで神になるのかもしれません。
 かえって、私たちを、慈しんで。
 ……。
 魂の変遷は、何もここに描かれている通りだけではありません。それを追いかけた発見は、いつも真新しいもので、
 水のように、音もなく、
 突然に、用意されます。
 ……。
 枝葉のように差し伸ばされた、存在と時間の綾なす活動が、それを、登場させます。
 悉く、遂に出会いが生まれるように。
 当然、何某かの邪魔が入ろうとも、
 器は広がり、大きくなります。
 願いは単純になり、
 それでいいのだと、言うのです。

 ゆっくりゆっくり溶けていくのは、春の訪れ、雪の道。
 氷が溶けて、道ができる。
 音がして、鐘が鳴り、
 魚が跳ねて、鳥が飛ぶ。
 月光が回って、西へ沈む。
 空が走っていく。

 水のように、音もなく、突然に、用意されます。
 変わらぬということは。何も世界中がそれを拒否したことにはならず、
 それがないという場所が、かえってそれを包み込みます。
 変わらぬということは。何も自分があらゆる変化を拒み続けたに他ならず、
 その愉しみを、克服したということではありません。
 人という時間。人という場所を包み込むものは
 それ以外のものだから。
 他者。すなわち、自分。自分も、他者にとっての他者だから。
 私たちは私たちに生かされています。私たちは私たちに殺されていました。
 だから。

「今でもここに生きているんだわ。だって、ここにすべてが判らなくあるのだから!」

 それはこの物語が書き直され、また書き終えられて、しばらく経って、この本を持った彼女が言った言葉でした。悪は、人間を生かします。



 悪は、人を殺します。



 そして、人に肯定されます。

                  了

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