第29話 四つの悪

文字数 49,937文字

 二人は地上へと伸びた煙突の途中で松明を消しました。もし、地下に出た時にそこで誰かと鉢合わせをしたら、不都合極まりないからですが、彼らは足元がどうやら明るく灯に照らされていることに気づいたのです。二人は息を潜め、よくよく下を窺いながら、ゆっくりと下がっていきました。灯が揺れています。誰が付けたか、古ぼけた工場の灯置きにオレンジの炎が輝いていました。皿やスプーンがあちこちに散乱していて、さっきまでそこで食事をしたばかりの跡が残されています。イアリオとレーゼは縄を伝って静かに床石に足をつけました。辺りは、しんとしており、しんとしていながら、何者かの気配が充満していました。それは人だけではなく。工場の玄関から外を覗くと、その周囲にもぽつらぽつらと灯が見えました。二人は互いに目配せしました。地下の空気は息詰まり、どんな声が漏れても、たちまちに聞き耳を立てている何者かたちには聞こえそうでした。
 ここはもう、目覚めた者たちの興奮と衝動の坩堝になっていました。オグはすっかり一塊の体を維持せず奇妙なものになって這い回り、人間の後を追い掛け回していました。そして三百年前に死んだ人間たちは、当て所ない死人の想いに憑かれ、ただ地上を指して出て行こうとしていました。そのいくらかはすでに表に出ていました。生きている町の人間を呑み込み、生者に未だ囚われている黄金への執着を教え、自分のように、地面の下に暮らすべくして暮らした者のごとくなれと誘惑しました。また、テオルドの先祖である悪霊のイラは、この様子にただならぬ渇望と癒しを感じ味わいました。イラの霊はこのさまに救われることはありませんでした。ただここを目指してきたであろう地上の人間を呪う淑女は、あらゆる人間の欲望が混沌とし充満し、再びの悲劇を起こそうとして働くのを見て、ただ過去が再現されるのを平たく冷たく見つめたのです。それはまごうことなき自身が体験したことの繰り返しにすぎず、その意味での感慨を味わうに限られたのです。そして白霊たちもこの場にいました。彼らは山脈の頂から降り、永の年見守ってきた子供たちが今また繰り返しの自滅を望もうとしているのを見て、今度は自分たちが、その凄惨な儀式に加わろうとしたのです。そこには彼らの待ち望んだ特殊な力が生じ、すべての意思が、意識が、ある方向へ向かおうとはじめから決められていたからです。自分を失くし、生まれ変わる。はじめに戻って、また還る。我々は還れなかったから。今が還る時だと。
 誕生は、破滅と一緒なのかもしれません。人は、始めから死を約束された災いの種子と考えるならば。オグは絶望のさなかにいました。しかし、彼は私たちの一部でした。私たちすべてというわけではない。三年前とはまるで様相が違うこの地下世界の雰囲気にイアリオはくらくらとしました。彼女の腹を新しい生命が温めているものの、用心しなければ、身の破滅は遠い過去から現在を襲っている最中だったのです。
(人間はこんなものを抱えて生まれてくるんだ)
 ついに性交を果たしたイアリオはそう思いました。
(私の中にいるかもしれない、小さな生命にもそれは宿る)
 だからこそ…今、オグは新しい誕生を欲しているのかもしれない。イアリオは自分が知らぬ間に涙を流していることに気づきませんでした。人から分かたれた人間の一部より、自分は大きな存在なのです。この空間のように。空間そのもののように。いいえ、地面の上も含めた、空も含めた、空の上も含めた世界のように。人間の一部がもがくことを彼女はよしとしました。よしとしなければなりませんでした。よしとしてはじめて、彼女は人とつながり、生命の儀式を果たしたのです。もしここを大きく人の胎内と喩えるならば、彼女は再びそこに宿りし愛娘となりました。母親になる体を有しながら、胎盤に着床する子種ともなりました。それが、分かることの慶びは、決して彼女の意識に浮上することはありませんでした。それはまだ早すぎることだったのです。せいぜい、知らぬ間に涙を漏らすだけが、精一杯のことでした。しかし、この世界の神話におけるエアロスとイピリスというつがいの神は、彼らの子供たちを砕くことを選びました。そうしたこともあったのでしょう。現実に、親が、我が子を砕くことも。
 もし、歴史がそういった出来事のつづら折になっているとすれば、現実に、彼女が気づいたことは一体何だったのでしょうか。それは相克することがあるのでしょうか。互いを打ち消しあい、どちらかが残るまで。もしそうなら、また、人間の一部が世界を支配することにもなるでしょう。いいえ、螺旋を描きながら成長する或る過程も、否定されます。いいえ、それこそ、オグの中で繰り返されてきた、悲劇です。還ることのできない想いとなった。
 いずれ、自らを否定することになる思いとなった。それでもそれは、存在した。何かを生み出すことが、何かの強烈な否定にもなる経験を、人はよくしてきました。だから人間は魔法を掛け続けたかもしれません。あらゆるものに、思い通りにしようと。その魔法をはずすことこそ大変なことでした。彼女は魔法をはずそうとしていました。
 そして魔法をはずすことを拒む者もいました。二人は、同時に毛むくじゃらの魔物が、狼か狐に似た猛獣ともじゃくれている景色を見ました。立ち上がったり、伏せたりしながら、威嚇し合い、絡み合っています。それらは倒れ、冷たい石の上で互いに歯を立て、むずむずと蠢きました。レーゼとイアリオはそれを見てひどくびっくりしましたが、イアリオがもつれた怪物どもの上を見ると、そこに多数のレギオン(集合体)がうぞうぞと固まり、獣どもから出てきた色の無い蒸気をもくもくと食べて、少しずつ膨らみました。レーゼは無意識にイアリオの傍に寄りました。彼が肩に手を掛けたので、イアリオはそのぬくもりを自分の手と重ねました。
 獣どもが動かなくなったので、レーゼはイアリオから離れ、地面に転がっている松明を拾い、組み合って倒れたそれを調べました。すると、ぎょっとしたことに、猛獣も魔物も人間の顔をしていました。いいえ、その全身が、人間の身体でできていました。一人、一人が、脚になり腕になり、胴になりして…獰猛な獣と見えたのは、町人たちの集合でした。毛むくじゃらに見えたもう一方は、外から来た人間の折り重なる羽織物でした。まるで、両者は今しがた激しく戦い合っていたのに、ぬくもりを求め合うかのように互いに絡みつき、重なり合って死んでいました。
 イアリオは、ぶるっと身を震わせましたが、ひどく混乱することはありませんでした。(私が見なきゃならないもの。私が見つけなきゃならなかったことは、ああ、こういうことだったんだわ)と、彼女は思いました。どこからこうした納得が生まれるのか、理屈にならないたくさんの事柄が、あまりにもここに関わっているのが分かり、その曼荼羅なる背景を、その現実と照合しているのでした。
(天秤の如きバランスは崩れたわけだ。でも、これは長い時を経てやって来た破局点だ。いつか来ることが約束されていた。そして…どこでも、いつでもこういうことが起きると、私は感じている。たまたま今、起きただけで。でも…なんだろう。何かを私は認めたくない。認められない。認めてはならないものがあるわ。
 これは、点にしかすぎないのではないの?時の、破局点。接合点。何かと何かが交差する、線の交わりにすぎないわ。だけど、点から人は、できていない。いわば、それは立体でしょう?)
 彼女は両方の拳を握り締めました。二人は灯りをそこへ放り置き、魔物と獣を象る人間の死骸を置き去って、先に進みました。ハリトが、二人を待っていました。

 もし、その人間が男だったら、わりと早くに、自分を嫌いになっていたかもしれません。できれば、どうしようもなくうららかに世を生きたいと思ったでしょう。なぜなら、彼女は大抵常識を信じなくて、自分に拘るようなことも、ただちに嫌いになったでしょうから。
 彼女は憂鬱になりました。自分のことが、嫌いになりました。こうしていると、自分が溶けそうでした。溶けて、しまって、どこへいくか判らずじっと空を漂うような、苦しみのさなかにいたでしょう。彼女はそうはなりませんでした。彼女はいました。ここに、苦しみも忘れて。
 熱い、肉欲。その渦の中に、手が、足が、揺らめきました。彼女はいました。ここに、あらゆることを忘れて。彼女は言いました。人生なんて、つまらないわ。彼女はまたさらに、言いました。私なんて生まれてこなければよかった。
 彼女は言いました。ずっと、この中にいればよかったわ。ハリトは、女の渦を使って、あらゆることを、そこに呑み込みました。すると、その場所を通して感ずることは、皆、快になりました。熱い、肉欲。ともし火の中の、舌。蠢く己自身。それは、儀式を模しています。遠く離れた誰かと交信する、厚い信仰の儀式です。彼女に信仰はありませんでした。彼女は、ずっと独りだったのです。
 次へ、次へ。彼女の欲望はすぐに満たされます。誰かがその中に入っていればいいのです。彼女は、まるで自分のために、そうしているような気がしませんでした。彼女はその想う人間に対して、代用として、自分の体を使っている気がします。私が否定する。私が否定するの。今欲しいわ。今欲しいものは、そう、あの人へくれる私の想い。私はなくした。なくしたわ。
 彼女はずっと、イアリオと魂のつながりを感じていました。初めて、出会った頃からそれをもらい、信じて温め続けていました。彼女は奔放です。誠実なほど奔放です。そのために、その気がなくても誰かを切り捨て、愛情の行方を、持て余していました。同じ方向を見る、その女性に彼女はすっかり打ち解けてしまいます。そして、それまで感じてこなかった個人に対する様々な情念を、持て余すほどに、強く抱きました。
 だから、ここにいます。次々と入れ替わる男性の肉体を、彼女は受け入れています。そうしなければ、あっというまに心は溶けてしまいそうでした。人間が、強く何かを信じるなら、その代わりに、失うものがあります。圧倒的な事実。その身の回りにあることの、すべて。ハリトは、言いました。私はこれによってしか、満たされない。肉親からの承認がなければ、女性は確実に自分の体をものにできないのか。そんなことはありませんが、彼女が生まれた神秘は、その肉体の奥に自然にありました。どんなことがあっても、その体は子供を産む。
 そして彼女のからだを借りて、男たちは産まれ変わってもいる。
 彼女は欠けていました。その欠けているものを埋めるのはレーゼではありませんでした。イアリオとレーゼと、共に埋めていくものでした。基本的な自尊心をハリトは持っていなかったのです。奔放な彼女は、なるべくして奔放になったのです。レーゼも、イアリオも、それと同じく欠けているものがありました。自分は、どこに生きるべきか。彼女たちは安住の地を自ら見つけ出さねばなりませんでした。彼女たちの周りを囲うものは、自然とその血肉とはならなかったのです。ハリトもまた、イアリオのように焦燥を感じるべきだったのです。変わり続ける運命は己にあると。体の奥を穿つ衝撃。力強い抽送は、何もかも忘れて一体になります。埋まったと感じられます。でも、相手はただの他人です。ハリトが欲しいのは、自分の、想いを受け取る誰かでした。真の自己でした。彼女の意識は飛びました。もう真っ白で、わけが分からなくなりました。……
 目を覚ますと、そこには二人の殺し屋が立っていました。彼らはハリトに連れられた男と女どもを、行為の最中に皆殺しにしていましたが、ハリトだけ生かしていました。彼女の枕元にはあのゴルデスクの塊があります。ハリトはぼんやりしたまま彼らを眺め、「誰ですか」と訊きました。布団は血に染まっていました。赤く、鮮烈に、まるで処女の散らした後のように。
「ここにある、塊、どこだ?どこにあるんだ?」
 殺し屋はトラエルの町の言葉を片言でしゃべりました。
「何?」
「ここにある、オウゴン。チカの、どこにある?」
「ああ、それが欲しいの?だったら」
 彼女はいきなり相手に口付けして、その股間を撫でまくりました。
「交換しましょ」
 オグがいました。オグがいました。彼は、彼女は、欠けたものでした。それでいて、ずっと人間の傍にいた。彼女は殺し屋も食べました。先の男女たちと同じように。彼女は行為の中どうして自分には子供ができないのだろうと考えました。自分は病気なのだと思いました。もう子供は産まれないのだと思いました。ハリトは欲望を貪りました。彼女の寂しさはそれで癒されず、否応にも巨大になっていきました。彼女の求めた誰かは誰でもよかったのです。たまたまそこにレーゼやイアリオがいただけです。彼女たちへ募る想いはどうでもよかったのです。
 どうでもいいものではないから。ハリトは気付いていませんでした。どんなにかレーゼを尊敬し、どれほどかイアリオを敬い、憧れていたかを。二人といると、彼女は安心していたのです。ほっとしていたのです。それは、二人を愛していたからです。
 しかし、彼女の隠された愛は、彼女には届いていません。彼女がオグに触れたのも当然なのです。なぜなら、彼女は──自分の中の欲望に、自分を否定する悪の声に従って、レーゼを連れて、たった二人で地下の街に侵入したからです…。
 もし、子供が実の親を否定するなら、それは自立のためでしょう。親を否定するというよりも、彼らの中の親を否定します。外側にあるもの、内側にあるものの統合を目指して。もし、親が自分と同じ方向を見ていたらどうでしょう。敬愛と反発を、同時にこなさなければならないとしたら。その人が、これから歩むべき道が、先に踏み荒らされていると考えたら。ハリトは今まで自分の足跡でその場所を踏み回したことがありませんでした。ずっと先に、そこをならしてくれている人間がいました。ハリトは、だから否定の道に進んだのです。

「イアリオ」
 暗い街角から、ふいにレーゼとイアリオの前に、シオン=ハリトは現れました。二人は仰天して彼女を見ました。血だらけの服、口元、そして髪。彼女は一体誰と組み合ったのでしょうか。まるで、臓物から生まれ出たかの様子です。足元にいくつか転がる灯に、下から照らされています。
「奪われたわ」
 ハリトは猛り狂ったように、笑い出しました。可笑しくて可笑しくて、自分でもその気持ちを止められず。「ハハハ、ハハハ」その懐には短刀が隠されていました。
「あたしの記憶、思い出。自分らしさ!人間らしさ!皆、奪われてしまったわ。あの魔物に、大きな魔物に」
 ハリトは舌を舐め、すらりと短刀を閃かせました。
「殺して。奪って。でなければ、二人が犠牲になって」
「何のこと?ねえ、ハリト、どうしちゃったのあなた!」
「いいえ、あたしは自由。あたしは自由。あたしは普通。あたしは正常だ!こんなの、ウソだ。きっとウソだ。あたしは信じない。こんなのウソに決まっている…」
 ハリトは少しずつ息を荒くしていきました。その時、真上の天井が、からからと崩れてきました。老朽化した屋根が、いよいよ支え切れなくなった白き町が、下に落ちようとしていたのです。ハリトはわめきました。その瞬間、レーゼが一足飛びに彼女に近づき、ハリトを抱きすくめました。ハリトはびくりと身を引きつらせ、彼の腕の中で、呼吸を求めました。
「どうして…」
 彼女は喘ぎました。
「どうしてこの世はこんなに暗いの…」
 彼女の体から黒いものが吹き出ました。おそらく、ハリトのオグだろうものが、彼女を取り囲み、ますますその周囲を暗くしました。
「どうして…」
 瑞々しい首は血に取られ、顔は美を醜に変え、彼女が吸い込んだ、様々な人間の精を、その衣服の赤色に変えています。もの暗くじっと見る先は、虚無でした。ハリトはいました。そこにいました。ただハリトだけが、自分を見ていませんでした。自分は自然に生まれたのだとわからずに。
 自分は自由だと言う前に。自分は普通だと言う前に。何かが世界中に礼をしました。彼女の代わりに。いえ、本当の彼女が。レーゼの腕の中で、ハリトは頷き、震えました。
「レーゼ、この子を連れて、一度、外に出ましょうか。生きているのをもうけものと考えるべきだわ」
「そうだな。表へ出ようか」
 ハリトはぎっと歯を軋らせました。このまま誕生するわけにはいかなかったのです。生命の、そして悪の坩堝の中で、まだ、その最初の生誕の喜びは、彼女に訪れる時間ではありませんでした。死の苦しみが、前もって用意されていました。彼女は誰の後を追ったのか。優しくされる、その手の中で、ハリトは、もう一度わめきました。そこに、道が開けています。彼女だけの道が。
「もういい加減にしてよ」
 レーゼは思わずハリトから離れました。血が飛び散る、赤い飛沫を目に、浴びたからでした。ハリトの首に、短刀がぐっさりと刺さりました。ああ、この未来を見ていたのです。イアリオとレーゼは、共に。
「こうしたかったの。ずっとこうしたかったの」
 ハリトは言いました。
「ごめんね。ごめんね。わがままで。自分が悪いわ。自分がいけなかった。ああ、ごめんね。ごめんなさい…」

 それはまるで、彼女の命を預けられたようでした。光がぱっと開き、きらきらと舞い踊っているようでした。どんな音楽がそこに鳴っているかといえば、彩り豊かな、彩々(さいさい)たる音楽が、現在も過去も未来も時を超え、喜ばしく光り輝いているようでした。それはこれからもずっと鳴り響くであろう美しい音楽に聞こえました。
 門が開こうとしていました。門が開こうとしていました。門が開こうとしていました。
「もうちょっと早く会っていればよかった。レーゼと、イアリオに…」
 彼女は、最期の声を告げました。
「生まれてこなければよかった。こんなあたし、嫌いだもの…」
 彼女は真っ白い顔をして果てました。力無く倒れた手首が、ころんと地面に転がって。胸を貫く痛みが、彼と彼女に、走りました。でも、この死の悲劇の意味を、二人はその痛みほどよく分かっていたのです。二人はハリトの遺体を、空き家の敷地に運び、その上に、清めの水を掛けました。この、地下の巨大な空間が、墓でした。
 そうでした。三百年も前から、そうでした!いいえ、無数の墓が、世界中で毎日並ばれているのです。いかなる死も、この世界で。
「つらいわ」
 でも、イアリオはそう漏らしました。
「何も認めたくないと思う」
 彼女が先導するばかりだった今までの冒険は、確かに彼女の導きによって、人の死まで至りましたが、今、レーゼが彼女を連れて先へ進みました。イアリオは力無くとぼとぼと彼の後をついていきました。先程の自分の母親の死ではまだ元気よく立ち去っていた彼女でしたが、親しい人間が立て続けに亡くなることによるダメージは、いくら過去と現在と未来を巡る輪廻の姿をよく知ることになっても、いたって大きなものでした。彼女は今自分が悲しむべきであることを、泣きじゃくっても止まらない姿であるべきことを、分かりながら、それでも両脚を進めていました。勿論、その先を行くレーゼもつらいのですが、いいえ、そのつらさはイアリオ以上のもので、彼はハリトを救えなかったことを全部自分の問題として引き受けていました。ですが、事実の受け止めは悲哀へと心を向かせるものの、世界には音楽が鳴っていました。その音楽は彼を、そのように、その足を止めることなく進ませたのです。
 彼は、オグがなぜあのような咆哮を轟かせたのか、確かめたいと思っていました。
(あれを聞いて、弾かれるように飛び出したルイーズの気持ち、俺にもよく分かる。ハリトが呑み込まれてしまったそいつの中に、俺は自分を見出せなかったんだ。彼女を、恋人を、俺はその中から救い出せなかった!もしシオンともう一度一つになれたら!そう、思っていたのに。
 …俺には欠けているものが多過ぎる。シオン、お前は悪くない。俺はお前を責められない。お前から逃げ出した俺が悪いことはわかるんだ…)
 イアリオの前を行く、四角い顔の男は、後ろの彼女に見られないように、顔を涙でぐちゃぐちゃにしました。しかしすぐに、それは彼女に分かりました。
「クリシュ…泣いてるの?」
「いいや」
 彼は首を振りました。その瞬間、二人は位置を変えました。彼の顔を見ずに、イアリオは彼の先に立って、彼の手を握って、そして先導していったのです。

 レトラスの門は、遠い昔に建てられたものでした。それは、魂の大いなる流れの入り口と謳われました。霊魂は回帰して、その流れから新たな命としてこの世に再生すると謂われたのです。
 その門の創造者を、そしてその門番を、人は、何者であるか失念しました。様々な伝説はありますが、その中で比較的正しい伝承があるならば、それは門は人間が造ったものとする話でした。決して神が拵えた厳かな代物ではなく、流れを止めて、自由にそれを変えるために、魔法を操る人間が造り上げた邪まな門であることを、人は忘れましたが、かろうじてそれは人が建てたものだという認識は続いたのです。
 しかしこのような建築は珍しいものではありません。各地にあるものです。お墓でさえ、黄泉送りの儀式でさえ、そうなのですから。確かに人は、或る門を開いて、死後の世界に飛び込むのかもしれません。いえ、目の前に立ち塞がる門を感じて、その向こうに行くか行くまいか、死んでから悩むものかもしれません。ただレトラスの門は魔法で造られていました。それで、普段は目で見られないものになっていたのです。魔法で造られたということは、人間の願いで造られたということです。この世にあの魔物をもたらした目的とそれは同じだったということです。人は、幾度も自ら失敗を犯しました。彼らは大津波を引き起こしました。すべてを呑み込んだその津波は、魔法を使い過ぎたために現れました。人間の想いの塊から生じる魔法の力、それを、人々は工夫をして使い続けてきましたが、想いにある二重の面を、均衡を保ちながら取り扱うことに、魔法使いたちは腐心しました。人を支配したい欲望と、あるがままに受け入れる受動。その欲と受動とが、天秤のごとく揺れる動きの中にある範囲で、魔法は掛けられなければならないとされたのです。
 魔法以前の魔法、魔法の発現源となる状態はいかなるものかといえば、それは想いが現実になる前に、その想いに囚われ、その想いばかりを繰り返す、思念の囚人となることでした。魔法の使い手は自分の中に想いの滞留を施すのです。そして、それは歪んだ力となり、現実に及ぶほど強い魔力を帯び、自分以外の他の似通った想いと一つになると、それは現実を変えてしまうのです。しかし、その魔法を解く手段がありました。それが、引き受けることでした。事実を、否定したく思うものを、魔法によって変わってしまった現実を、一切をそのまま受動することでした。そうすることによって、繰り返された想いの滞留が解け、思念の膜が剥がされるからでした。
 からり、からりと、糸車が回ります。からりからり、からからから。静かに、それは人の運命を紡いで。その糸には、さらに細い糸たちが、一本一本、縒られています。魔法を解くことは、紡いでしまった太い糸を、ほどくことに似ています。
「久し振りね」
 イアリオは、ついにオグの棲家だった、地下の湖の前まで来ました。ここで、彼女は無限に絡みつく縦糸と横糸の織物を見ました。
「私、私、私…」
 オグはいました。霧の魔物は、形を持って、蛇のように長い鎌首をもたげていました。しかし、それはいわゆる人間の意識の集合した姿かといえば、そうではなく、もっとばらばらになった姿でした。彼らは一人一人がもう気づいています。私が、自分が、この魔物の一部になっていたと。それは途方もない苦しみを各人に持たせ、今、その咆哮が改めて四方に轟き、その懐にせしめた人々は、過去の(いにしえの)自分の想いに引き摺られ、解決できない、その縒られた糸の一本一本に姿を変えていました。すなわち、自分の一部のそのまた一部に、彼らは変身していたのです。その恐ろしい運命の歯車に、つまりはオグという存在の身体になり、彼らは彼ら自身の声を聞きました。それはたゆたっていました。もはやたゆたっていました。わけのわからない、共鳴と反響を繰り返す騒音にもそれはなっていず、ばらばらに、ほどけた一つ一つの音色に、彼らは自分を見つけたのです。
 彼らは叫びました。同時に叫んだのです。そしてあの咆哮が轟いたのです。叫んだのちに、彼らは、皆地面の下へと引き上げました。地面の上にいる者たちに、破滅を改めて思い知らせたのちに。彼女と会うために。かつて、彼らがその中に入り込んだ、彼らが、皆ばらばらの存在であって、本当は解かれることのない苦痛に永遠に塗れてい続けたことを、知った魂を持つ者と出会うために。彼らは
 皆救いを求めました。そして彼女はその醜い体にかつて自身が同化した記憶を思い出していました。彼らは、彼女でした。彼らは、自分と一つになり、そして、自分と別れていった者たちでした。
 シオン=ハリトは、これを真似ていたことを彼女は知りません。町が、これを真似ていたことも、彼女は知りません。世界中で、これを真似ることが起きていたことも、彼女は知りません。彼女は急にその場から逃げ出したく思いました。あらゆる情報が体の中に入り込んでくるように思い、それまで受け入れ続けてきたはずのことが、猛烈に膨らみ、強烈に弾け出そうとするのを感じたからでした。しかし、それは、人が生まれてくるということでした。
「違う」
 イアリオはふいに独りごちました。
「こんな魔物…こんな魔物は!」
 それは自分だったはずがないと、彼女は強く思いました。そして、そんな悪の怪物を生み出すために、自分は交接をしたのではないなどと、考えました。彼女はレーゼの手を握る力を強くしました。
(私はただ…私はただ…人を、愛しただけなんだ)
 それこそ目の前のオグの思考でした。繰り返す、己をばかり愛でる、人間の、愚かしい悪魔の考えでした。彼女はその目に映る一人の人間の姿を否定しました。こんなのは、私ではない!などと思ったのは、悪魔が、また彼女の顔を(かたど)ったからです。イアリオはいつのまにか息を荒くしていました。その目も、敵を攻撃するかのように、恐ろしく赤く燃え滾らせていました。
「ルイーズ」
 レーゼが顔をしかめました。彼女は慌てて彼の手を離しました。
「あなたの怒りが…こっちに届いたよ。何か信じられないとでもいったような、怒りだな。でもそいつはただあなただけじゃない。俺だってそこにいる」
 彼女は瞬時に冷静になりましたが、うろたえる心は、今までの冒険を遡ってまで、あの白霊たちとの出会いまで、そして蔵の中から出てきたあの骨たちでさえ、ずっと信じ難かったことを、彼女に思い出させていました。それらは、受け入れなければ、否定されるものでした。心の安寧を優先すれば。
「そうね。そうだわ。でも…ああ!」
 彼女は手で顔を覆いました。オグも、いにしえの自分も、いないことにすればいいものでした。
「昔からいたなんて、ウソよ!ウソに決まってる。私を信じさせないで!怖いの。怖かったの。嫌だ。嫌だわ。こんなこと…ずっと昔から私が追いかけてくるなんて…幻だ!そうに決まっている!」
 彼女は彼女のようにわめきました。
「どうしたんだい?」
 レーゼはつとめて冷静でした。
「ああ、もう、やめたい!何もかもヤメタイ!背負いたくない!ピロットのことも、地下のことも、私の町に関係することも、全部、やめてしまいたい!寒いわ。寒くてしょうがないわ。諦めさせて。お願いだから…」
「ルイーズ!」
「触らないで、触れないで!どうか、お願い…」
 イアリオは小さく、うずくまりました。そして、ぐずぐずと、泣き出しました。そこは土壇場でした。崖の縁で、純粋な自我自身と対峙する場所でした。今まで張り詰めていたものがあって、それががらがらと崩れたのです。その時、彼女の顔をしたオグが、かしらをもたげて彼らの上に覆い被さろうとしました。しかしレーゼが、イアリオの前に立ち塞がり、オグをじっと見据えました。
「あなたを、愛しているさ。初めて見たよ。今の、弱いあなたを。どうしてか、俺は嬉しい。
 初めてあなたを守りたいと思った。もういいさ。こいつとはもう付き合わなくても。あなたがずっと向き合ってきたもの、どうしても焦燥を感じてきたもの、それは、幻だったでもいいさ。逃げろよ、ルイーズ!生きて逃げろ。あなたの中にはもう、新しい命が、宿っているんだ!」
 レーゼは堂々と手を広げています。もう彼は確信していました。目の前の魔物は、自分であると。イアリオの傍にいて知ったのです。
 共に生きる。
「嫌だ!」
 イアリオは首を振り叫びました。そして、後ろからレーゼに抱きつきました。
「あなたも、一緒に…!」
 その時でした。湖の向こう側、ゴルデスクの鍾乳洞のある穴の奥から、松明を持った、上半身裸の、痩せさらばえた男がやって来ました。
「ルイーズ」
 男はイアリオに呼び掛けました。
「会いたかったよ。ようやく、俺は俺を取り戻した。今ここで、お前を殺さなければ」
 ピロットはぎらりときらめく刃を握っていました。彼の顔は、まったくもって正常でした。確信に満ちた表情で、こちらに迫ってきます。
「お前を殺して、自由になる。俺は、お前に、たぶらかされていたから」
 オグは、形をにわかに変えました。蛇から、羊へと。

「ああ、遠かりしいにしえの故郷へ。道標は光あれ。ここに、今、来たり。我々は欲する」
 狩人たちの儀式はまだ続けられていました。空からは雨が降り続いていました。その中、イアリオとレーゼが走り去り残された、二人の男女が石段を登っていきました。左右たがいの目のおぞましい頭の天女の所まで、二人は上がっていき、天女と同じ段から、左右二手に分かれました。さらに登り、頂上の、柱の立つべき広間に出ました。そこで、青い衣を着た彼らは、左の高い石と右の低い窪みに、それぞれ立ちました。
「今、現れようとしている。光は影と共にあると思え。闇は光より生まれしものと思え。両者は一つなり。闇の底から這い出てくるもの」
 天女は甲高い声で、自分の足元を見つめます。そして、
「白光と共にあらんもの」
 空の上を見上げます。
「今ここへ」

 轟々と羊になったオグが吼えました。腹を打ち、その場にいる三人の足首を捕らえるほど大きな太古の古い音でした。彼女らはバランスを崩し、尻餅を付きました。からんからんと、ピロットの持つ刃が地面に転がりました。
「ああ」
 ピロットは溜息にも似た声を出しました。
「手が、痺れる」
 彼はうずくまりました。刃が彼から離れた所にあります。
「怖い」
 そう、小さく呟いて、
「いけないなあ、これじゃ。これじゃあいけない」
 立ち上がり、ふらふらした足取りで刃を掴みました。彼は、巨大なオグを見上げました。魔物は、その身体の色を霧の白から黒へと変化させていました。あらゆる光を吸収する漆黒の体が転がった松明の火にゆらゆらと浮かびました。彼は、イアリオを向いていました。彼は、彼女こそ彼を愛する者と認識しました。
「いけない!」
 その時レーゼはまだ倒れ込み、彼女の傍からつと離れていました。ピロットは、急いで、イアリオの前に立ち塞がりました。
「あああ!」
 叫び、一閃、刃を振り下ろすと、彼女に伸ばされたオグの手がすぱっと切れて、毛むくじゃらの相当な恐怖をもたらす何かが現出しました。
「あああ!」
 ピロットはもう一度叫び、次々と繰り出されるオグの手を闇雲に切り散らせました。
 彼は、泣いています。
「殺すな。殺すな。殺すなあ!こいつは、オレが…こいつは、オレが!」
(お前は何が望みだ)
 彼の心の中に、オグが呼び掛けます。
(ついておいで。私は、お前に必要なものを分け与えられる。ついておいで。私はお前に大事なものを渡そう。お前が欲する力を、わざを、すべて、私の中に入れたのはお前たちなのだから。ほら、ここに。
 お前の力があるぞ)
 彼の切ったもの、それは以前にも切り落としたものです。イアリオを守るために!彼自身の手が伸びたのです。あの時、ピロットは自分の左腕を差し出して、彼女を守ったのです。
 何のために?それは、彼が彼女を壊すために。
 勿論オグはその腕をまだ持っていました。彼は、自分のオグと対峙していました。自我を唆すのは自分なのです。
 オグはどどんとその体をまるごと彼にぶつけてきました。霧の身体は鋼鉄になり、ピロットを吹き飛ばしました。あまりの衝撃に、倒れた直後、彼は息をしていませんでした。
(私が入ろう。お前の代わりに)
 オグはまだ立ち上がれずにいるイアリオの体目指して移動しました。彼は再び長い長いとぐろを巻いた蛇の形をとりました。その長い鎌首を、ちろちろと舌なめずりして地面を這い進む人間の男そのものの形状を、彼は、彼女のまたぐらにするりと滑り込ませました。
 いいえ、彼はそれを失敗しました。その首に跨って、怒りに憤る仁王が、彼の喉元に剣を突き刺したのです。
「ぎゃあああ」
 巨大な蛇は、その巨体をのたうたせ倒れました。どどんと地面も天井も叩き、彼の体は、湖に飛び込みばしゃりと沈み、そのまま下に潜りました。
 イアリオは息をしていませんでした。オグの伸びたかしらが、彼女の体に触れた時、その体は凍りついたのです。その時、呼吸は失われました。あらゆる寒さが、凍りつく吹雪が、彼女自身を固く締めくくったのです。しかし、無意識に彼女はその体に宿る熱を守るために、全身を張りました。それ以上、冷気が身体の芯に迫らないようにしたのです。
「俺だ。俺が入る!こいつの中に」
 ピロットは虚しいことを言いました。もう誰も、彼女の中には入れません。その手が、剣を握っても。怒りを露わにしていても!
「俺はこいつを否定するのだ。俺はこいつが憎かった!そうだ、憎かった!」
 彼はオグに負けない大音声でのたまいました。
「こいつの命を奪え」
 彼は剣を振り下ろしました。赤く閃いた切っ先が、しかし、寝そべるイアリオの足元でがつんと地面に当たりました。彼は反動で吹き飛びました。また、剣が彼の手元から離れました。
「あああ」
 ピロットは地面に向かって吼えるように。
「あああ」
 何度も何度も呻き、その分厚い唇から唾を垂らしました。別のものも垂らしました。黄色い彼の胃液です。
「ああああああ」

 人は、半分です。オグは、人でした。
 でも、人から離れた悪魔でした。彼は、いくら人間を喰らってもその半分しか、こやしにできません。彼だって愛情はあるのですから、彼のもう半分を、探し当てることはできたでしょう。彼は、半分以上のものにはなれません。
 そこに希望は渦巻きます。そこに絶望はおののきます。
 生きている意味があります。
 もう半分はどこにあるのでしょう。彼はそれをずっと探し続けていました。
 彼は人から離れられない生き物でした。

 ちっちゃな希望は、どこから来るでしょうか。そこから。
 レーゼはいました。彼は、したたかに全身を打ち、身を返すのもやっとでした。頭ががんがん鳴ります。やっと上体を起こして、様子を窺うと、毛むくじゃらの何かが転がり、イアリオは仰向けに倒れ、そしてピロットが呻いてうずくまっていました。
 彼はなんとか立ち上がりました。彼はオグの咆哮でバランスを崩して倒れましたが、その後、何かが上方から被さり、耳元に、強烈な風を送り込んだのでした。オグだったものが。それが彼の身にのしかかった衝撃は、あの夜イアリオとつながった幸せな時間と対になる、それが裏返された感覚でした。彼がその上に乗せたのは、彼女ではなく、彼女から離れたもの。彼から、離れたものでした。
 それは迫り来るオグの性器が彼女の陰に触れた時、彼女と共有した感覚でした。ばりばりと音を立てて真ん中から肉体を突き破る、愛情のない貪欲な杭打ちを、男身の体で受けたらば、受身なるその身体はこの世ならざる悲鳴を上げました。全身が覚えのない痛みに歪み、穢された衝撃が頭痛を引き起こしたのです。
 しかしそれは、間違いなく魔物の中に潜んでいたもの、かつてアラルが、共有した悪の魂に封じられた、世界を呪う想いの塊でした。レーゼは手をひざの上に杖にして、上体を支え、顔を上げました。イアリオは、眠っているようでした。彼女の名前を、彼は呼びました。しかし、彼の両足は動きませんでした。
「イアリオ、レーゼ」
 誰かが彼らを呼びました。その声には、聞き覚えがありました。
「なぜ再びこの穴蔵にやって来た…?私は言ったはずだ。この先は、オグの棲家。行ってはならないと」
 レーゼは後ろを振り返りました。そこに、真っ白い、それこそ神々しい光を放つ衣服を纏った、クロウルダのハオスが立っていました。レーゼはハオスに、何か言おうとしました。ですが、立っているだけでやっとで、彼はイアリオに目を移しました。
「そうか。お前たちもオグと運命を共にし、共に滅びるか。この魔物はいかにも苦しんでいる。あらゆる生命の回帰するレトラスに、やっと帰ろうとしているのだ」
 ハオスはまるで救世主然として落ち着き払っていました。死んだはずの彼は、いいえ、いにしえの魔物を慰めるべく人柱となったクロウルダたちは、この時を待っていました。オグと同様、あの白霊たちと同様に、死者の門の手前に居続け、世界に魔法を掛けようとしていたのです。
 しかし、レーゼは口の中で「違う、違う」と叫びました。レーゼの後ろで、ハオスはゆっくりと彼らに、そして湖に、近づいていきました。湖は、水中に突き出した両側から迫る岩壁のその先にもっと広大な空間が、イアリオとレーゼが一晩過ごしたあの滝壺に連なる大広間がありましたが、そこはがらがらと崩れて塞がっていました。塒が壊れたオグはもう目覚めるしかありませんでした。巨体が湖に沈んだとてまた浮上するしかありませんでした。
 ハオスの姿は、だんだん、揺らいでいきました。そしてありえぬ形をとりました。上半身が曲がり、腰骨の真横にくっついて、手足は後ろ向きになってしまいました。救い主のような光を纏った者は、人でないものになりました。
「そうだ。私も、このように…」
 そして、その姿は鳥になりました。恐るべき大きさの、真っ白い鳥に!ですが、どう見ても餌を突き破るように鋭いいびつなくちばしと、薄く切った皮膚をめくったような、愛のない酷薄な目をした鳥でした。
「オグは、何にでもなる!」
 鳥が、飛び立ち、湖の中へばしゃんと潜りました。顔を上げていたレーゼは腕から力が抜けて、つんのめってばたりと倒れ、地面に這いつくばりました。しかし、その拳は握り締められていました。少しでも休めば、きっとまた立ち上がるべくして。



 道可道非常道。名可名非常名。無名天地之始。有名萬物之母。故常無欲以觀其妙。常有欲以觀其徼。此兩者。同出而異名。同謂之玄。玄之又玄。衆妙之門。(老子 第一章より)
 谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存。用之不勤。(同 第六章より)
 カルロス=テオルドは言うまでもなく、ピロットより、イアリオより、そしてハリトや、彼の先祖イラより、ずっとオグに近い人間でした。彼はその魔物に喰われ、その肉を失い、土くれの体となって再起したはずでしたが、今は、
 ただそこに浮かんでいました。浮かんでいたのです。あらゆるものに溶け合って。彼からしてみれば、悠久の暗黒に融けていた気持ちでしょう。それは、黒い女の渦の中。女は大地でしょうか。いいえ違います。雲にも空にもそれはあり、すべてを慈しみ育みます。本当の母親は誰でしょう。私たちは、魔物でなくとも、人から離れた存在でした。
 町の下の暗闇は、その昔無数の死者を出しました。その遺骸が蔵から飛び出て、十五人の子供たちを襲いました。彼は暗黒と同化することで、その恐怖を克服しました。いわば彼は母親になったのです。魔物に食べられてしまう前、彼はオグ同様の存在になったのです。彼こそ人が産み出したものを、上顎と下顎で、咀嚼したのです。
 そうしたら、彼は、のちにオグそのものに食べられました。彼は生まれ変わりました。いいえ彼は何度生まれ変わったでしょうか。想いがオグの中に囚われていても、輪廻は巡る。変わらずにいる自分自身を、結局人は持ちながら。それゆえに、いつかまた人は苦しみ。
 

は変わらないのです。実はずっと私のままなのです。善にしろ悪にしろ、女にしろ男にしろ。
 オグは、それ自身では何にもできない生き物です。それには、パートナーが必要でした。人間は半分です。私は欠けた人間です。誰もがそうでしょう。釈迦力になって、頑張っても。人間は人に取り憑く代物です。それが真実です。
 それは、自分が人だと感じ始めていました。その通りでした。それは、人間から生まれたのですから!それの旅路はまもなく終わりになろうとしています。オグがオグである理由などどこにあるでしょうか。自分の中にしか、存在しません。
 彼は町で結婚をし、子供をもうけました。彼はその間にも、自分はこの町ごと滅びるべきだ、と考えました。彼は言いました。
「もし、この世に善と悪の二つがあるなら、善は悪を食らおうとし、悪は善を呑もうとするだろう。だが、自分は悪だ。善からも悪からも悪は生まれる。すると、悪は命か?
 そうだろう。だからこそ悪は、自分は命を否定したい。自分をまるごと否定したい。自分自身を否定しうるものはただ自分のみだ。誰にも僕は消されない。
 まいったな。それは、事柄を逆転する。自分を否定しうる自分は、自分に肯定されていた」
 彼は自分を認めました。それで納得しました。彼の認識は、確かに人を飛び越えていたかもしれません。イラの不屈の魂を、その猛烈な想いを受け継いできた、この世を呪うために生まれてきた一粒種が、その呪いの大元まで身体を預け、至った認識なのです。彼は、オグなり何なり人の悪の意志の志向する滅びの願望は、なんと強い自己肯定から始まるものであったことを、突き止めていました。ただ我だけがあること、他者を認めない不寛容さは、強烈な自己肯定から生まれるものだったのです。
 彼はだからこそ、今暗闇と同化していました。滅びることは、生まれ変わること。滅しても、自分はいるのだから。
 揺れる揺れる、旗。見上げて、空。雲。慈しむ光。
 彼には自信がありました。彼は人々の前に動物の死体などもたらして、町人たちの心を混乱させましたが、そうして自分は、人間は、生きてきた自負が強く強くあったのです。遠い空。雲。道可道非常道。名可名非常名。
 心は暗闇に広げながら、彼の肉体は、隣に眠る自分の幼い娘を、撫でました。その時、ピロットが彼の、大蛇と化した、悪の化け物の喉元に、剣を突き刺していました。ハオスが現れ、巨鳥になり、魔物の体が沈んだ湖にばしゃんと飛び込んだ時、彼は、自分の妻に口付けをしました。湖から、ハオスはその鉤爪で大きすぎる鯉を捕まえ水上に引っ張り上げました。再び姿を変えたオグが化けた鯉は、口元に別の魚を吊り下げていました。顔のない、銀色に輝く鱗の美しい魚でした。
(あ、あれは!)
 テオルドが心の中で呟きました。
(僕の妻だ)
 ああ、いけない!もっと愛さなければ、この身の空虚は深い、深過ぎるから。真善美は誰のものか。人だ。人だ。生なるもの。聖なるもの。性なるもの。分かつもの。
 地面が揺れ動きました。まるで揺り籠のように。
(のたうて!まだ、足りない。クロウルダよ!お前たちは僕らを癒そうと、慰めようとずっとしてきたが、父親の如き、母親の如きぬくもりでは僕らはほぐれんぞ。そうだ、ほぐすためには何かが必要なんだ。僕らはばらばらになるべきなんだから!)
 彼は、口元から自分の妻を離しました。顔面の無い魚は地面に落とされ、じたばたと、飛沫を上げてのたうちました。それを見て彼は非常に満足しました。
(そうでなければならない。あなたは、君は、僕によって傷つけられなければ!ごめん、すまない、謝るよ。でもこれでいい。これではいけない。
 ひとつになるとはこういうことだ)
 …テオルドの妻は、傷ついていました。なぜなら、彼の考えていることは一つも分からなかったからです。彼女は彼の不可思議さが魅力として感じてきましたが、彼の中には無限の空虚がありました。彼女はそこから何か得ようとして、もだえ苦しみました。彼女は顔を食べられたようでした。まるで、テオルドの系譜の中にいる母親らが、その顔面に冷気を貼り付けていたかのように。
 しかし、実際はその顔面はテオルドの内部に納まっていました。テオルドはずっとその顔面と生を懸けて対峙していたのです。だから、彼の魚は、顔の無い銀色鱗の美魚にのしかかり、大量の白いものを、その尾の穴から噴き出しました。猛烈な匂いが、辺りに立ち込めて、それに応じた美魚が、びくんびくりと身をよじりたくさんの卵を同じ尾の穴から出しました。
(ああ、生まれるぞ。何が?新しい僕だ。こうして、生き物の愛の最高の儀式から!)
 テオルドは夢中になって思いました。白い巨鳥が、一声高らかに啼きました。その啼鳴はびりびりと空間を揺るがし、天井を突き抜けて、狩人たちの儀式する山腹の石段の上にまで届きました。
「生まれる」
 左右違う目をした天女が、甲高い声で言いました。彼女は上空を振り仰ぎ、左右に門を開ける仕草をしました。巨大な扉が空中にあるのを、今や人々は見ることができました。それは、朱の色の流れる、毒々しい、生きている命そのもので出来た肉の門扉でした。その真下にいる狩人たち、逃げてきた町の人間たち、ロンドらオルドピスから派遣されてきた者たちが、それを見て、誰もがぞっとして思いました。こんなものが、我々の頭上にはあったものかと。
「どれほどか忌まわしくても命はつながる。私はここにいてよかった。レトラスの門は開く」
 その時、生命の迸りが起きました。巨体を横たえた二つの魚が、霧となり薄くなりました。彼らが産み落とした受精卵たちが、光の泡となってもこもこと天井に伸びていきます。鳥がまた一声啼きました。そうして生命の宴を歓喜しました。いよいよクロウルダたちの本願は実り、オグは回復の路を渡り、大いなる循環の大河に回帰しようとしたのです。生命の力でもって、オグはその大河に自ら飛び込もうとしたのです。ですが、
(何だ?重い。飛ばない)
 カルロスは自分の産み落とした卵たちと同化し、一緒に天に昇ろうとしていました。けれど、誰かがその脚を引っ張りました。それは彼に、彼らに呪いを掛けた、イラの霊魂でした。彼女の眼窩は黒く落ち窪み、まるでその場所に目がないかのようです。彼女は怯えていました。自分が消えてしまうことを怖がっていたのです。
 ああ、連なるのは、彼だけの意思ではありません。彼にのしかかる、無限の思いも、また、数珠繋ぎの連鎖になっているのです。
(行けない)
 両脚に食らいつくイラの重さに、浮上したオグとその子供たちの魂は、皆、地に落ちてしまいました。泡は、霧散し、光の粒たちが、ばらばらにほどけ、その纏いし光を失いました。
 …このぞくりとする光景に、立ち会った者が、もう二人いました。マルセロ=テオラと、サカルダです。

 ミロ=サカルダは、唖になったことのある牧童の娘です。彼女は子供たちと共に北の森に避難していましたが、オグの猛烈な咆哮があって、女子供ともども一目散に北へ北へと逃げ出した頃、最後の子供がまだ残っていないかと、守備隊の人間と町に戻って来ていました。それは守備隊長のテオルドの命令でした。守備隊は、昼夜を問わず活動していたため、その家族も睡眠を取らず懸命に彼らを支えていました。そのために北の森に近い町外れの一角にですが、彼らの駐屯地を定め、そこで炊き出しを行い仮の寝所ともしていたのですが、隊長をはじめ数世帯が今もそこで睡眠を取っていました。悪魔の強烈な雄叫びは、彼らを慌てて目覚めさせ、もう町は破滅するのだという諦めを引き起こすのに十分でしたが、まだここにいるように、ここから逃げ出せる人間がいるならば自分たちがその最後の一人を導けるようにと、テオルドは強く彼らを引き止めました。
 守備隊は外国人を排除し治安を維持しながら町人を守り続け、あるいは避難させ続けていましたが、あまりに多くの盗賊が町に入ってきてしまったために、子供たちの保護に努めるばかりになっていました。彼らは戦闘になるのを避けつつまだ居残っている子供の家を訪ねました。そこでサカルダも彼らについていって、この町で、自分にできることがまだ残されているのならばと向かったのです。彼女は皆と北へ逃げ出すことを選ばず、踏み止まって、まだしばらく悪魔の棲家の上に広がる故郷に付き合うことにしたのです。
 彼女は、テオラを見つけました。テオラは家の机の下でがたがたと震えていました。明らかに先の魔物の猛る声で心神を耗弱させた者の反応でした。こんなにも弱々しくなっている彼女をサカルダははじめて見ましたが、自分も、こうなってもおかしくはないと思いました。
 無口な彼女はそんなテオラにそっと手を差し出しました。それで、未亡人は相手がサカルダだと判り、やっと怯えを解くことができました。
 その家には彼女の旦那を殺したオヅカがいました。しかし彼はずっとそわそわしていて、守備隊がこの辺りを訪れた時、玄関は開け放されていて、中の様子が丸見えでした。それで、遠くから石机の下に屈んでいるテオラをサカルダは見つけられたのですが、彼女に続き、無遠慮に家の中に入ってきた連中を、オヅカは罵りわめき散らしました。彼は家の入り口で守備隊の人間を相手取り暴れ出しました。
「やめなさい!」
 テオラが、彼に一喝しました。彼女は彼に犯された強烈な一幕ののち、守備隊に子供たちを引き取ってもらい、その後、緊張の連続した事態にたまらず気を失っていました。そんな彼女が、彼に対して大声を張り上げられたのは、その心に慈愛があったからでした。町に対する、あの憧れていたラベルの死に対するどうしようもない怒りの根源が。
 オヅカは我を失い身も心もくたくたになっている状態でした。わけのわからないものが全身にのしかかっているように彼は感じていました。いいえ、彼だけではなく、正気を失った人間は、皆が。そして幾ばくか正気の残る人間は、町を、守り続けてきたという自負のあり続けた人間は、こぞって地下の黄金を守りに(求めて)下へ向かったのです。
 テオルドは慎重にそのオグの(町の)呪縛を解いた人間を、守備隊に残していました。彼は、守備隊にいる人々に強烈な(言葉の)魔法を掛けながら、同時にある程度の人数に魔法の解除も試みていました。成人してから後も魔法の掛かりにくい人間、解け易い人間がいたのです。
「やめなさい!」
 テオラが再びオヅカに命令しました。彼女の手には恐ろしい(頼りない)(飽き足らない)慈愛がありました。自分の夫をこの男に殺されていながら、なおも悔しさはこの男に振り向かず、町自身に向けられていた。彼はびくりと身を仰け反らせました。彼女の怒りは届いて、彼をしくしくとさせ、思わず、許しを請わせました。
「ごめんよ!ごめんよ!争うなんてつもりは、なかったんだけれど…」
 オヅカはいつかテオラの家に、彼女を自分のものにする目的で堂々と(白痴の顔で)やって来た時の威勢ははや無くなり、その目的は達成されたことを返す返す認識していました。その達成に満足感はなく、誤ったことをしてしまった感覚が、足元から身体を昇り上がってくるのを払いのけようとばかりしていました。それでそわそわする一方でしたが、彼女にはっきりと怒られ、怒られた自分を取り戻して、ようやく元の、劣等感を抱く普通の青年に還れたのでした。テオラは彼を憎めませんでした。彼は自分のことが好きなだけだということをよく知っていたからです。しかし、もう彼の顔は二度と見たくありませんでした。そして、彼は幼子同然に泣きじゃくり、同情を買いたがるばかりになっていました。
「この人も、どうか連れて行ってくれない?」
 彼女は頼みました。
「もう無害だから。恐ろしい力に、操られていただけだから。元々、頭の足りない子供のような人だったの。だから、この人も、子供たちのように見てちょうだい?」
 サカルダは、慎重にこの女性の状態を見極めようとしました。さっきまで怯えていただけの、こちらの方こそ幼児のようになっていたのに、いきなり、急に大人らしくなったのです。
「あなたは?」
 彼女はテオラに尋ねました。
「そうね。私は…」
 そのようにサカルダに訊かれたことが、きっかけになったかもしれません。テオラは急に、自分の使命に目覚めたかのようになりました。彼女はずっと、十五人の仲間たちと共に出くわした闇を、あのラベルを引きずり込んだかに思われる町の下のものを、それを庇護し続けてきた、町を、憎んできました。怒りと共に。今、怒らずにいつ怒るというのだろう。
 今、怒らなければ、私は、その怒りを閉じ込め続けねばならない。さっきのあれ。魔物のような咆哮は、きっと、それを知らせるためのものだったのだわ。
「あの大きな獣の叫びが、私は気になるの。まるで地下そのものが声を上げたようで!私たちの、大勢が向かった地面の下に、私も行こう。と、そう思うわ。ね、サカルダ?」
 テオラはサカルダを上目遣いに見て言いました。彼女はもはや、使命に燃えていました。どこからか届けられたのかまったく知らない、知る由のない、しかし従わずには、いられない。
 彼女は、まだ、魔法に掛かっていました。自らが掛けた、自らが、掛けることになった町の呪いが、まだ。
「十五人の仲間の契約はまだ生きているかしら?私たちは、あの地下を調べ上げて、私たちの国を興そうって話をしたよね。覚えている?今じゃ、それは馬鹿げた子供の約束かしら。
 でも、あの時の冒険は、実はまだ、私の心を焦がしていたわ…」
 テオラの内側に見える、不可思議な光は、なぜか、サカルダにとってもとても身近な、謂れなき希望に見えました。彼女も、あの地下世界に焦がれ続けた一人だったのです。死者たちに、暗闇に決定的に傷つけられても、それは身近なものでした。まるで同一化でもしそうなほどに。オグは、
 それが人から離れる前に、人間と同化していました。それが離れた後に、人間と同化したのではありませんでした。
 サカルダはにっこりと微笑みました。にっこりと微笑みましたが、血の涙を流す彼女がどこかにいました。しかし、それは、マルセロ=テオラと共有した悪を内包する人の魂の姿でした。二人は手を取り合いました。

「子供たちは、希望」
 テオラが、地下に向かう道筋を辿りながら言いました。
「私たちは、ね、きっと、知る必要があるのだと思うわ。子供の時分じゃ知らずともいいことを、私たちは、大人の責任で認める必要があると思うの」
 サカルダは頷きました。彼女たちはたくさんの足跡の続く地下への入り口をくぐりました。その時、テオラはなぜ自分が他の人たちの、自分よりも先にここから潜っていた人々の後に続かなかったんだろうと思いました。女性たちの中でも、地下に呑み込まれていった者は多数いました。たとえ子供がいても、子供にたくさんの愛情を注ぎ込んでいた人間も、カルロスが選んでつまみ上げなければ、黄金の価値はその体を誘惑し、子供のために(自分のために)、それを地下から持ち出さなければと思ったのです。しかしテオラはそうは思いませんでした。彼女の家にオヅカがやって来たために、自分の旦那が殺されてしまったために、こがねは身を守る象徴にもならないことを知ったためでした。自分を好く人間は必ずしも自分を守ってはくれない。人を好くということは、ただ自分だけのためでもあることを、彼女は実は知っていたのです。いえ、知り過ぎていたのです。彼女は一度たりとあのラベルを守ろうだとか思いませんでした。彼が、死んでからも、守れなかったとは、一度も。旦那へも。彼女は
 震えるほど自分に悪があることを、感じたことがありませんでした。ですからそれが導きとなりました。自分のことが怖くないから、彼女は地下へ向かうことができたのです。周りのように、黄金を手に入れるためではなく、人から離れた悪を感じるために、己の中に芽生えた強烈な悪を、体に宿し、慈しむために。イアリオとは違うベクトルで、彼女は己の悪をものにしようとしていました。しかし、それは彼女だけが試みたことではありませんでした。隣を歩く、サカルダもまた、その螺旋を歩く選択をしていました。
「町の、運命って何?」
 彼女は独り言のように言いましたが、隣にいるサカルダに、聞こえるように言いました。
「恐らく、私には分かることだけれど、この町は、行き過ぎたんだ。私たちは確かに守ったわ。守ってきた。遵守した。その貞操は単に破られるのを拒んでて、もしかしたら、本当は破られてしまうのを期待していたのではないかしらね。サカルダは、どう?」
 彼女は恐ろしいことを言いました。ちらちらと燃える松明に照らして、仏顔のサカルダは、にっこりとして何も言いませんでした。
「私たちは、昔、とんでもない目に遭った。ここで、この地下で。その時、私たちは逃げ出したわ。一斉に。テオルドを残したまま!
 そして、ラベルは死んだ。私ね、彼が、ずっとあの事を引きずってきたのではないかって思うの。ラベル、なまじ立派だから、あの性格だからね。…だから死んだと思うんだ。違う?」
 彼女は恐ろしいことを言いました。サカルダは相変わらず静かに頷いてみせるばかりでした。そんな彼女に、どこかほっとして、それまで険しかったテオラの表情が柔和になりました。
「私、許せないの。何だか、どこまでも私たちの見逃してきた、色々なものがこっちを見ているような気がして。でも、それに目を向けられなかった私たちって、どれだけ愚かだったんだろうって!」
 彼女は正しいことを言いました。しかし、
「私たちには愛が足りなかったんじゃないだろうか。それが、許せないの。私…ああ、イアリオが、なぜあんなに何度も地下に入っていったのか、気になっていたわ。彼女は何を確かめたかったんだろうって」
 それは違いました。彼女は何も気にしまいとしていたのです。色々なことを、勿論、イアリオのことなどは、些細にもほどがあることだと。
「多分、それはいなくなってしまったピロットが、本当に、そこで消息を絶ったのかどうかということだと思うんだけれど、それ以上に…」
 彼女は、分かっていることと分かっていないこととの区別がつきませんでした。
「もっとあの街を知りたかったんじゃないかな。私たちの先祖が封印したあの街を…たった一人で。
 彼女は多分、あの街に惹かれていたんだと思う。私その気持ちよく分かる。何か、この上の町にはないすべてがここにはあるようで!」
 彼女は、分かっていることと分かっていないこととの区別がつきませんでした。テオラはとりとめなくまくしたてました。サカルダはそんな彼女をじっと見詰めて、微笑みもなく聞き入っていました。
「私は…この場所にまた入っていく勇気がなかった。私ね、ラベルのこと好いていたの。あの自殺した。けど、本当に、何もしなかった」
 その言葉とその後の言葉との間には不思議な間がありました。自然なほどつないでいるのに、ぶっつりと、断ち切った間が挟まれていました。
「だからかもしれない。いまだにそれを後悔しているのは。今が侵入する時だなんて、遅すぎるかしら。地下に。
 遅すぎるわね、多分。だって事はもう起こってしまったんだもの」
 その時に起きていたことを書き記すには、あまりにインクが足りません。土壇場で、人がそれまで気づけなかったことが一挙に気づく時の機会を得られるように、その人間には劇的なことが生じていたのです。テオラはじんわりと涙を浮かべました。その涙は流すべき時がこれまで無数にありました。ようやく、披露できる、感情というものを人間はたくさん持っています。
 それを見て、サカルダはなんとも言えない微笑みを見せました。彼女は深くかつての仲間に共感していました。
「子供たちが好きだわ。大好き!」そう言ったテオラは今まで本心からそんなことを言ったことがありませんでした。「私、あの子たちに何も苦労させたくない。だから、この町はもう滅びてしまってもいいと思っている。でも私は、付き合うわ。この町に!付き合うことにしたんだ。ああ、どうだろう、下らないことに、もしかしたらサカルダを付き合わせてしまっているかしら?」
 オグが滅びようとしている間近、人間に恐るべき事態が迫るとしたら、イアリオや彼女たちのように、自らを振り返り新しい認識へ至る扉を開く瞬間が訪れることでしょうか。それとも、魔物と共に滅びてその魔物が至る、乖離の過程に参与するしかないのかもしれません。ですが、二人とも訳知らずオグに食われて同化することは望まれませんでした。
 もう一人、彼女たちのように、オグの棲家に向かっている者がいました。処刑されたハムザス=ヤーガットの兄、ロムンカでした。彼は、六年前に腰をしたたかに打って漁の仕事ができなくなりました。最近具合が良くなり、杖突で歩けるようにはなりましたが、勿論、誰かに飛び掛かられたりすれば反撃する力はありませんでした。
 彼は評議会の議員を探している最中でした。彼は西地区の貧民街に暮らしていましたが、最近の混乱で、食糧の配給が途切れ途切れになっており、それこそ蓄えのない人々は困窮しました。議会は適切な指示を出していると聞かされていたものの、それでも混乱も配給も一向に元には戻らなくて、一体どうした処置を施しているのか、彼が貧民街の代表として訊きに行ったのです。また、もう一つ、訊いておかねばならないことが彼にはありました。彼らの区域から少年が一人いなくなり、焼け爛れた姿で発見されていたことでした。少年はそうなる前から様子がおかしくなり、みるみる気力を失っていったのを、彼らは見ていました。
 まるで町の混乱はその事件から始まったようでした。ロムンカは凸型の外壁に囲まれた、町の中央に立つ二階建ての議事堂に向かいましたが、すでに町は人々が気配を消してしまった後でした。いずこにも血の跡が付き、荒くれた暴力は散々散らかされた後で、逃げ出せる人々は先の巨大な咆哮で皆白き町を背にしていました。まだ地上に居残っている者たちも机の下に屈んでいたテオラのように怯えきり、息を潜め、自分などいないように振舞っていました。その数はわずかでしたが、地下にも町外れにも向かっていない人々はいたのです。
 愛するという言葉はこの時に使えませんでした。自分の感情がただ昂ぶり、それがすべてを支配していました。しかし貧民街はこの時間から取り残された雰囲気がありました。人間をやっかむことを、彼らはやめていたのです。少し小高い所にある彼らの住む家並みはオグの侵入を受けていませんでした。ですが、人々はただ独力では動けないから、皆そこにいました。動けない、とは魅力です。精神が上昇し、自ずから生活とは何かを考える時に満ちます。特に、この町では一生が正直に保障されていましたから、どのように生きるかが、問いとなりえたのです。ロムンカのように、自分の生と対峙する上で柔軟さと力強さを持った人間がそこにはたくさんいました。
 議事堂は権威を振りかざすような大仰な威容は具えておらず、人々が集まりやすい小さな円卓もここかしこに据えられていました。建物の一階には左右の上段に具えつきのテーブルと椅子がしつらわれ、奥の中央には三つの席が並んでいました。ここは法律を定める議決が行われるのと共に裁判所の代わりもし、評議会のメンバー以外は円卓に座るも車座になって中ごろにあぐらをかくこともできました。二階には議員が常駐している大小の部屋があるのですが、ロムンカはそこに入ってみて誰も見つかりませんでした。
(でも、どうして?)
 町の様子がこんなにも変わってしまっては、と彼は思いましたが、貧民街は農民たちの起こした叛乱も侵入してきた盗賊どもの暴力も、脅威として届かない所にありましたから、遅きに失した感想を彼は抱くだけでした。ですが、彼の脳裏には少年の頃味わった、地下世界の脅威がよぎりました。その恐怖の理由こそもう知っていましたが、今朝の咆哮たるはまさに地面の下から轟きましたから、町の下で何かが起きていることは窺えました。彼は、地下に行ってみることにしました。
 ぼんやりとした太陽が彼らの頭上にありました。それは太陽でありながら太陽でないようでした。白くくすんで、まるで雪を降らす太陽でした。ロムンカは急に曇り出し降り出した雨の中を歩かなければならなくなりました。彼は杖を突いていたので、休みながらでしか歩けませんでした。ぼたぼたと落ちる雨はにわかだと知りながら、ロムンカの心を深く抉りました。彼は
 自分の人生をこそどうしようもなかったことと認め、その上で生き生きと生きようとしていましたが、そうはいかない、なかなか自分の運命を認められない人間の様子をつぶさに観察していました。貧民街にこそあまりいない人々でしたが、巷には、そのような意識のない人間はいないと思えるくらい、溢れていました。彼の弟も、ずっとそれに苦しんでいるようであることを、彼は知っていました。
 彼はこの町の人間として生きねばならない人々とは違い、自分は不治の怪我をし埒外にいるからこそ大人しく穏やかでいられるのだと思いました。そうでなければ、長男として今や次男が抱えねばならなくなった困難を両手に、喘いでいたでしょうから。彼は自分が普通の人々とはまったく別の世界に住んでいるように強く感じていました。だからといって自分の怪我を振り返り、後悔するのではなく、生まれた時から、最初から、他の人間から離れたところにいるかのように感じていたのです。彼は十六年前の事件を忘れられませんでした。自分たちが大量の骨に出くわしたこともそうですが、ピロットがいなくなってしまったことも、二人組の盗賊が捕まったことも、彼はただ怯えるままに受け止めていました。彼は、あの暗闇が、自分のものであったような気がしてなりませんでした。少なくとも、自分の外側にはないと感じるものでした。
 彼は生きている人間は皆困難を抱えなくてはならないのだろうと考えていました。その一方で、彼ほど自由な心で生きていた人間も稀でした。考えることとは裏腹に、ロムンカは困難と別段向き合っていなかったのです。急に降り出した雨は抉るようにその心に落ちていきました。雨は、忠実に、空から落ちているだけでした。彼は松明を懐に用意していました。出掛ける時に、そんなもの必要あるだろうかと思いながら、どうしてかそれに手が伸びたのです。彼は松明に火を付け、開けっ放しの地下の入り口をくぐりました。懐かしい、忌まわしい、ただ恐怖だけがあったはずの暗闇に、彼の両足は向きました。すると、彼の行く手に、先に地下に潜った人々が持ち込んでいた松明が明かりの付いたまま転々と転がっていました。まるで彼の進むべき道のりをそうして指しているかのように。灯が転がっているということは、逃げ出した後か、何か戦闘があったのでしょうが、人の気配はしませんでした。
 ロムンカは、何かに取り憑かれたように走り始めました。彼にできるだけの精一杯の走りで。彼は灯に導かれながらも、まるで迷宮の中を彷徨うように走りました。自分の心の暗闇を探るように。灯は不思議にも絶えることなくつながり、彼に、迷いなくこちらに行けと催促します。彼は休みませんでした。ぜいぜいと呼吸するほどに長く走った後、ようやく立ち止まりました。痛めた腰はぴしぴしと軋み、久しく激しく動かさなかった体が湯気立つのを見て彼は懐かしい自分の肉体の感覚を思い出しました。息を整え、歩き出せるようになり、彼はまた走り出すために徐々に両脚の速度を速めました。その道すがら、彼は一人の老女を発見しました。老女はひどく醜い身なりをしていました。町の人間の服装であるセジルとパンセ、そして下着の長襦袢は、切られたか破られて、地面に引き摺られ、皺枯れた肌を隠しませんでした。その手にはナイフを握り、その刃の輝きのごとく両目を光らせ、ぎらぎらと、飛び抜けた執念を燃え滾らせていました。
 老女はロムンカを敵として認めました。そしていきなり彼に向かって鋭い切っ先を閃かせ血だらけの刃を、その脳天目掛けて、振り下ろしました。ロムンカはびっくりしました。杖を突いた前のめりの彼よりもまだ頭一つ背の低い老婆の体が、伸びて、猛烈な勢いで上から凶器を振ってきたからです。しかし、ロムンカは元々網元となる将来を嘱望されていたように、人よりも良い勘と運動神経を併せ持っていました。彼ははっしと老婆の手首に杖を当て、なぎ払うと、片足でその軸脚を払い飛ばしました。老婆は転びこそしませんでしたが、よろよろとして、その後にばたりと倒れ、ひゅうひゅうとおかしな息を吐き、そのまま動かなくなりました。
(何なんだ、これは)
 よく見ればその老女は顔見知りの優しいお婆さんでした。彼は老婆を抱き起こそうとしました。しかし、その体から黒いものがぶわりと浮き上がり、ロムンカの目の前でぼつぼつと飛び出た複数の頭を水平に巡らした宙に佇む塊になりました。そのいくつもの頭部が合体した中に、彼は弟のハムザスの顔面を見て、驚きました。そして一瞬、その弟と目が合った気がして、彼は気が遠くなりました。
 彼は自分の所在が分からなくなりました。どこにいるのやらと思いました。でも、灯は前方に伸びて、彼を誘っています。彼は憂鬱になりながらも、先へ進みました。
「弟は、死んだ」
 彼は口の中で呟きました。
「あいつは優秀な漁師になるはずだった。俺とは違って。なぜ死ななければならなかったんだろう。でも俺は…そのことについて、考えたことがあったか?」
 テオルドは貧民街にいる者たちの取り扱いをどうしたらいいか迷いました。彼は、オグと共に亡ぶべく町の人間を誘導し、互いに互いを憎む仕掛けをつくり出しましたが、助けられなければ生きてゆくことができない、そのために遠慮なく助けを呼ぶことができる、人として本質的な生き方をしている障碍を持つ者たちを、人間悪に引きずり込むことは少し難しいことでした。しかし、彼はそこに暮らしていた少年に無残な死に様を晒させ、彼らに疑心暗鬼を生じさせて、議会や町にこの事件を問い質させようとするシナリオを描いていました。また根本の社会が壊れてしまえば、彼らは根こそぎ衰退することも分かっていました。彼が用意した台本は遅くロムンカによって読まれようとしたものの、はっきり言って、彼の試みは失敗しました。なぜならそこにいる者たちは、自分の運命を、受け入れるのに優れた力があったからです。町に住む人間は、こぞって巻き込まれなければならず、ロムンカのように自分が埒外に住んでいるなどという感覚は、壊されなければならなかったのですが。
 しかし、ロムンカはこの時、自身に深い疑いの目を向け出しました。彼は弟の死の一報があった時に、なぜと思っても、彼の人生にそれはまったく影響がないことを必要以上に感じていたのです。ひどくは悲しまず、弟が、その死の間際にもどれほど兄のことを考えていたか、いまだに自分と兄とを比較していたかを、思い至ることはなかったのです。それも、仕方のないことではあったでしょう。彼の弟より先に不幸が及んだのは彼なのですから!
 彼は庇護下に入ることで、自由を手にし、他の一切を断ち切ったのですから。それにもかかわらず、それにもかかわらず彼の弟は、ずっと彼のことを羨んでいました。羨みながら死にました。ロムンカは弟を愛していました。弟ならば自分の跡を継いで立派な漁師になるだろうと思いました。弟からも、自分が兄を継ぐという言葉を貰いました。彼の思いは、感覚は、そこで停止しました。継続してその愛を彼は弟に向け難くなってしまったのです。弟の不安を、彼は聴くことができず、当然、弟を支えるようなことも、彼はできなくなったのです。
 埒の外に自らを連れ出し、家族とも縁を切ったようになってしまったのです。その意味での自由さはありました。その意味での自由さは、彼の人生から愛ゆえの苦しみを取り除きました。
 彼は、愛を貰った、愛を手渡した、その後の苦しみを感じることができなくなったことに気づきませんでした。彼の、弟は、なぜあんなにも苦しんだのか。兄の代わりにほど、弟のハムザスは手渡す愛も手一杯に抱えていたのです。それゆえの苦悩を、誰も聴くことがなく。彼は英雄にならなければなりませんでした。

 どろどろとした太鼓が鳴り響きます。魔物がその無数の人間の魂を抱えた腹から声を叫ばなくても、一人一人が、過去から今へと受け継ぐみっともない業をたくさん、持っているのです。しかし、イアリオとピロットには、そしてレーゼには、その音色はもはや自分の中にある音でした。テオラや、サカルダ、そしてロムンカなどはまだその音は外側から聞こえていました。一旦、それは外側から聞こえることを求められたのです。そうでなければそれは終わりを迎えることが分からないのです。
 自分の中に、融合して、また再び外に出て行く、繰り返しの輪の中にいることが分からないのです。
 テオラとサカルダは、道中人間の様々な死に様にも出会いましたが、襲ってくる者はなく、すでに彼らは狂うことに力を使い果たしていました。それぞれが、黄金を手にしていました。繰り返された、磨耗することのない、異常な想いに各人が囚われ、三百年前の人々のように、幻の黄金を自分の中に生み出したのです。それを奪われることを恐れ、それを奪うことに執着し。それをものにすることを誓い、それに操られていることを知らず。悪魔と変わらぬ願いを彼らは立て、悪魔と共に滅びることをその道程としました。二人は彼らのようになりませんでした。両者は知るべきことが自分にはあると考えていました。テオラの中には怒りがあり、サカルダの中には嘆きがありました。
 ミロ=サカルダは牧場主の娘でしたが、実は、兄弟とは腹違いでした。彼女だけがそれを知り、それゆえに長女として責任を負い、人のために働こうとしたのです。彼女は結婚をしていませんでした。兄弟が皆し終わってから、自分は結婚しようと思っていました。彼女は自分が周りのために粉骨砕身で働かなければいけない身だと理解していました。人の幸福を願い、そのためなら、自分は命も落とせると考えました。
 折りしも町では叛乱が起こり、人々は暴れ出しました。彼女の家族とてその心理の嵐から逃れられず、農夫たちに心情的に附く者、身を守らなくてはならないと嘆く者、今こそ守備隊に志願しなければならないと考える者、心の乱れをまず正しくしなければならないと訴える者と、様々でしたが、一家としてまとまることはありませんでした。しかし彼女はそうした、一人一人の意見を聴きました。じっくりと聴いているうちに、彼らは、興奮が冷めてくることを感じました。皆が一過性の想いに取り憑かれたのだと判りました。サカルダの周囲は彼女のためもあって興奮に突かれるまま行動したりしませんでしたが、各々の人間関係から、仕方なくばらばらに活動し、巻き込まれ、命を失うこともありました。
 サカルダは少女の頃の事件の後に、唖になりながら、イアリオ以上に町を考え、見回して、納得していました。彼女は、受け入れることを選択しました。この町に住んでいる以上、この町のしてきた生き方をしなければならないという、しっかりした判断を彼女は成長させました。悪は、私たちと共に傍にいるなら、その悪も、受け入れなければならないと。そうした心構えがなければ、彼女は、兄弟を含め、たくさんの人間の意見を聴くことができませんでした。彼女は町に何も期待しませんでした。こう変わるべきだとは、思いませんでした。ですから次第にその身の中に嘆きが肥大していくのを今まで感じられませんでした。テオラのように、怒らず、イアリオのように、確かめたいと思わなかったのです。
 彼女は何でも受け入れたために、あるいはヴォーゼのように、次第に自分の醜さを育ててしまいました。彼女はそれがオグとなり、黄金と化した執着を自分から離れたものとして見る機会を得ました。彼女は自分が誤ったことをしていたと、幾度か目の前に現れたカムサロスの幻影を見て感じたのです。彼の、幻は、彼女が十五人の仲間と共に地下に下った子供の頃に初めて出会っていました。その時は、とてもびっくりして、呼び出しの鐘を本来鳴らすべき時ではない正午前に鳴らしてしまったのです。彼女は、自分が彼と異母姉弟だと父親に言われていました。これはカムサロスにも明かされていないことで、父親の不倫は町中にも隠されていました。彼女の父親は、彼女にだけ、そうしたことを明かしていたのです。
 彼女に猛烈な負荷が掛かったのは事実ですが(不倫は別段悪いことではないと町では思われていましたが、彼女の父親は、それに後ろめたいものを覚え続けました)、周りは、彼女を頼りました。彼女は頼られている自分を感じました。周りに支えられている自分を正確に感じていました。それでも、はみ出す、はみ出していく感情が、自分の中にあることも分かりつつ。サカルダはそれをカムサロスの幻影として、映し鏡として見ていたのです。つまり、それは町と共にある、自分の近くにそれはあるものと。彼女は直接本物の彼と、子供の時分の他では関わることはありませんでした。本物の彼を気にすることもありませんでした。明確に彼と自分は分かれ、他者同士であってそれ以上ではなく。しかしほとんど自分と同じ運命である彼を(彼もまた、一家の長子として生まれ、そのように振舞うことを要請されていた)、彼女の知らないところでいつも従兄のピロットを想い慕い、独立できなかった幼心の彼を、自分の代わりとして、何度も傍に立たせたのです。彼女が、幼い頃から成熟した素振りを見せて、その父からも、打ち明けられることがあったから。イアリオ以上に、彼女は、オグの性質を理解していました。人から分かれ、人を支配する、繰り返しの想いの塊を彼女はずっと認め、ずっとそのままでいいと思っていたのです。
 彼女の中に育った嘆きは、そんな彼女こそ何とかしようと思ったものです。嘆きは、性愛に似ていました。イアリオとレーゼが向かい合い共有したものでした。変わろうとするそれを、サカルダは感じました。自分から分かれた嘆きが(つまりはオグの中に溜め込まれた無数の人間の悪の想いが)、自ら、変わりたいと願うのを。自分の中に誕生した、中途半端に醜い思いが、幼心のまま留まり成長の機会を拒み続けたどうしようもない思念が、ようやく。その思いたちは
 人間の中でしか、変わりませんでした。ただ自分ひとりが、それを持って成長させることはできませんでした。性愛と同じく、人に預けられて、それはようやく育つのです。人間の醜さは誰かと結びつくことがなければ昇華されることはない。

 人は、理由なく、世界に魔法を掛けることはない。

 サカルダとテオラの二人はオグの棲家のある湖まで導かれました。テオラは、地下街の古い建物の並ぶところはともかく、もっと下の、子供の頃一瞬だけ見た湿った洞窟の先が気になっていました。その向こうは、成人の儀の時に大人たちから教えてもらったこの町の真実には語られていなかったのです。もっと下に行ってみよう。そう、テオラは言い、サカルダに同意を求めました。彼女は、頷きました。
 洞窟にも、地下に潜った人々が振り落とした松明が転がっていました。道は、その先にあり、二人はそれを辿っていきました。ばしゃん、ばしゃりと水を跳ねる途方もなく大きいものの音がしても、金属が弾き飛ばされる戦いのような音を聞いても、呻き声が向こうからしても、怯えず二人は、暗闇の向こうで繰り広げられている何かを見ようとしました。あの事件の後の子供の頃なら、足がすくんで、動けなくなるようなところで、彼女たちは力強く前に進むことができました。町の変化は、二人それぞれが対峙した悪を、目に見えるものとしてそこに提示していました。人間の狂いは、明らかに人が抱えているものだと。三百年前も今も変わらないと。
 懐かしく思うこともできると。今や、二人は町に共感することができました。三百年、一途に地下の黄金を守ってきた、融通の利かない気丈と恐怖は、変わらずして変わることはなかったのです。それは長い間、変わることがなかったから。やっと今変わる。その
 肯定の道筋を、二人の町だけが、あるいは二人の心だけが、今辿っているのではありません。世界中が、この道筋を進んでいる。その概念を、二人は知りません。ですが、もはや、強烈なる恐怖をこの出来事に感じることはなく、何が起きているのか、イアリオのように、イアリオの傍に立って、二人も見ることができたのです。
 果たしてもこもこと伸びた光は、崩れ、水上に砕け散るところに、二人は居合わせました。さすがの二人もこの光景には震え上がりました。この世のものとは思えない、異常な現象が、起きていると思ったらそれが崩壊したのですから。しかし二人は湖の畔のその場所に転がった三人の人間を認めました。あっと小さく叫んだのは、行方不明であったイアリオを見つけたテオラでしたが、サカルダも、死んだと思われていたピロットを見出して驚きを隠しませんでした。二人とも互いに顔を見合わせましたが、現実はまだ、異常であることを続けました。湖の表面がぼこぼこと音を出し始めたのに二人は目を奪われました。テオラとサカルダは少しずつ転がっている三人に、冷たい水の溜まる場所に、足を踏み入れ近づきました。すると、鋭い震動が地面から突き上げ、思わずテオラとサカルダは互いの体にしがみついて倒れるのをやっと免れました。二人は湖を見つめました。しかし、ふいにその上を見上げました。
 大きな大きな人の顔が、真っ暗い天井から、こちらに向かって、真っ逆さまに落ちてこようとしました。
 二人は絶叫しました。その大きな顔面はテオルドのものでした。二人は同時に地面に伏せました。何も音はせず、しくしくと泣く二つの声が、静寂に包まれよく響き、それ以外は、何者も身動きしませんでした。
 二人は恐る恐る顔を上げました。点在する弱々しい松明の灯りが三つの人影を黒々と照らしています。そして、また湖がぼこぼこと波立ちました。
 そして巨大な鳥が現れました。二人は危うく気を逸するところでした。その巨鳥は、真っ赤に燃え盛る嘴を、水中から力強く突き出し周囲に蒸気を上げたのです。たちまちに底冷えのする空間は灼熱の暑さとなり、鳥は人の耳には捉えることのできない怪音も含んだ物凄い雄叫びを上げて、何かを水中から持ち上げました。その四つに割れた毛むくじゃらの鉤爪には、巨大な赤ん坊が、抱えられていました。
「何度も何度も私たちは失敗してきた」
 鳥が人間に判る言葉でも叫びました。
「しかし今度は成功する」
 鳥は薄皮を剥いたような恐ろしい目でテオラとサカルダを見下ろしました。テオラは今まで出したことのない奇声を発しました。そして強く目を閉じました。赤子は泣き喚き、普通の五十倍もの大きさで、百倍もの大声を発しました。その大声がますます彼女の瞑る目の瞼の力を増させました。再び目を開いたら、それがなくなっていることを、彼女は望みました。しかしいつまでも巨大な泣き声はやみません。テオラはすっかり肝を潰して、首を曲げ、あたふたと後ろへ退きこの空間から逃げ出そうとしました。
 するとそこへ、かつての十五人の仲間のもう一人、ロムンカが杖を突いてやって来ました。彼もまた、転がった小さな灯の導きで、ここまで辿り着きました。灯は
 灯は一人ずつ握った明かりでした。地下にいざなわれた人々もまたこの場所に導かれていました。オグは生きている人間を欲しました。導かれるために。魔法を掛けるために。
「テオラ?どうしてここに?」
 巨大な赤子の泣き声がしくしくとしたものに変わり、テオラにはロムンカの声がはっきりと聞こえました。しかし、
「ああ、あんたはヤーガット…ああ、ほら、あそこを見て!」
 彼女はロムンカにしがみつきました。そこにある信じ難いものから目を逸らしたはずが、彼女は視線を戻しました。彼女はその口で、
「あそこに巨大な赤ん坊がいるの!」
 と、言ったのです。赤ん坊は再びわんわんと泣き出しました。しかし泣いているのは誰でしょう。その涙はぼたぼたと激しい雨に思われるほど、湖面を叩きつけています。
「私はこれから赤子を連れて外へ飛び立たねばならない」
 大鳥が言いました。灼熱の炎が渦を巻いて羽ばたかずも浮いたその体躯を取り巻いています。
「さあ門を開けよ。この時を待っていた。我らは、一蓮托生だ」

 残酷な魔法は、太古に仕掛けられ、今に及び人々の肉体までその犠牲としました。いいえ、何も媒体が、ただ人の乖離した思念をだけ集めたのではありません。心を集めるには具体的なからだが必要になったのです。一本の骨でも、あるいは目でも、性器でも、見た目の禍々しさが含有されるほどそれは強い力を封じ込めるのに適していることを、いつの時代も、人は知っていました。そして
 儀式は重ねられるほど強力になっていくことも知っている。オグの元になったものはたくさんの人間の意識をそこに籠めるために強力な呪物であることが求められました。それは人のからだに基づかなくてはならないものでしたが、いつか、その詳細はこの物語ではないどこかで著すことになるでしょう。いいえ、巨鳥に掴まれ泣きじゃくる赤子の姿に、その元となったものは丸ごと変わっていました。赤子の前の姿とは。未詳の人間たる、柔らかい姿。まだ水のようなこども。
 人が人となる前のような姿。それは過去にユスフル(水子)と呼ばれていました。その名前は、もう、誰の頭にもどの文献にも残っていませんでした。ですが
 ユスフルは、巨大とはいえ人間の赤ん坊の姿となりました。ユスフルは、少しだけ、成長していたのです。
 一方で、それまでオグと同化しつつも、自我をはっきり持っていたテオルドの思いは、子作りをし誕生した淡い生命とともに崩れ、壊れ、すっかり暗闇の澱みの中に意識は散じ、ふわふわと漂いました。彼は、自らを引きちぎらせた大きな力を感じていました。我が子、子孫とともに昇ろうとした天への階段を知らぬものに壊されました。これが、まだ古代であるならばその儀式は成立しました。想いが子を産み、孫を産み、その連綿たる血縁の力が魔を働きあの霊魂の大河に身を乗せることができたのです。オグはそれを模倣し、また魔物の傍に寄り添ったクロウルダたちもその手助けをし、永の時生きた(死を拒んだ)想いの回帰を目指したのですが。それはうまくいきませんでした。彼のものではない、彼らのものでもない、そしてまた彼らを育てたものでもない、より大きな暗黒の力がこの世にあることを、彼も、彼らも、そしてまたいにしえの魔法使いたちも、知る由がありませんでした。光を産む暗闇の力。後世にはそれは玄牝とも呼ばれうるもの。
 生まれ変わらんとする光の束を掴んだのは消え去ることを恐れたイラの魂でした。しかし彼女はだんだんとそのからだを真の輪廻に戻していました。彼女の一部は成人したイアリオと出会った時、あの黒い表紙の本を預けた時に、天へ消滅し召されました。霊も変わり、少しずつ、成長しているのです。にもかかわらず、居残り地上を呪わんとする想いは、オグをはじめこの場にいたあらゆる霊魂が望んだことを、生命のはじまりの儀式を模してゆかんとした転生への意志を、挫き、離散させました。もし古代であれば…おそらくは彼女も強い儀式の威力によって、消え去ることへの恐れも委ね、天へと昇ったかもしれません。しかし、もうその頃の時代ではなくなった。一人一人の存在が、目覚め、自分に悪があることを思い始めた。
 その悪は、願いによって解放されてきました。繰り返し、願いはそれを解き放ってきました。だから儀式は今も残り伝わっていました。禊、形代、犠牲、三位一体のかたちを取って。人間は勘違いをしました。それで世界は報われる、自分は救われるなどと思ってしまったのです。魔法はそれを手伝いました。彼らは何も分かっていません。彼らの悪は、再びこの世に降り注いだのです。なくなっても、なくしても、人は生まれ変わり、また、悪を働くためにそこに登場する。
 もしかしたら、その過程をこそ否定するために、輪廻を思わない、一度切りの生を生きようとする考えが浮かんだかもしれません。そして、人の悪はいかにこの世に居残っているか、見えない人々が誕生したかもしれません。
 そこまで、イアリオの時代の人々は感じたのではありませんが、偉大なる魔物の一部となり、その中で一つとなった人間は、徐々に、それを分かりゆく過程にありました。それで大元に還ったというわけではないのに、まるで彼らは、そこで輪廻を追体験していたのです。生まれ変わった自分と出会うごとに。消滅は(彼らはオグの中に

)、消滅ではない。転生は(彼らは悪の魔物となった)、転生ではない。変わり続けることのないもの(自分というもの)を、変わりゆくこの時間のある世界に、持ち続けることになるのが人であることを。
 それこそ後の世に玄牝と謳われる繰り返しの誕生の意志でした。人は子孫によっても救われることはありません。それは、彼らの祖先とて同じことで。
 何のために人の魂は輪廻を重ねるのか。イアリオが、墓丘にていくら先祖の安らぎを天に願っていても、その祈りは叶わないものでした。人にできること。それは、ただ人を愛し、子供をもうけることだけでした。それだけで十分なのです。
 救おうとし救われる魂などありません。救いたい思いは手から零れる水なのです。それでいて、巡るのは。川床を流れ、海となり、上昇して、天から(くだ)る雨となるのは。水です。水です。
 その巡りにようやく彼は気づきました。三百年変わることのない想いに憑かれた先祖の霊に脚を抱かれ、引き摺り下ろされて。彼はイアリオの後にそれを気づきました。すべてのものが同じことを望むはずなどないのです。いくらそのような時が訪れたとしても、そのような魔法が発されようとしても、それぞれの生は違うのです。それぞれが違った名を持つように!生まれた場所も誕生した時間も違うように!オグと同化した彼は、またイラ以来彼女の慎ましい激怒を保存し続けた肉体の連なりとなった彼は、すべて、同じ思いを抱くことにはならなくなった個別の魂に、水子からわずかに成長し赤子となった人間の意識に、己がばらばらに砕けることを感じたのです。それは確かに解放でした。思わぬ解放でした。しかし著しく変わったこの世のことわりでした。世界がまさに今変わったのです。彼は全身が汗に濡れました。今ここに、集う魂の運命の結果のすべてを見渡していました。
 彼は、泣きました。はじめて、彼は、人間としての温かみに溢れた涙を流しました。それは水でした。いかにも、どこからか、巡り巡った。

 その赤子を、まだ、クロウルダは全ての勢力で、持ち上げようとしています。彼らは魔物のために自殺をしながら、その夥しい執念を持った想いをこの世に取り残していました。それはひどく昔から続く純血魔法ともいわれるもので、親子を結ぶ血の流れから、同一の想いを繰り返しこの世に現そうとするオグと同じような構造を持った魔術でした。ですがそのような構造は、彼らでなくても一般にあるものでした。民族として下された強烈な誹謗、屈辱は、その子孫に受け継がれ、晴らすべき時代を求め耐え忍ぶ。決してそんなに大人数でなくとも、親の、祖父母代の、謗りを回復しようと努める者もいる。人の想いは否応にも子供たちに継がれます。なぜなら人は人間だから。
 しかしそれは厳密には可能であることではないのでした。クロウルダたちはその民族的な使命から、オグの中に封じ込められた人間の執着をこそ輪廻に返そうとしていました。この世に囚われた、慈しむべき、慰めるべき想いを、不死の呪いから解き放とうとして。ですが、それでは彼らの執念はいかなるか。いまだにべたべたとその身に、彼らが解き放とうとするものを彼ら自身が貼りつかせているのです。
 レトラスの門番もまた、同様でした。
「あなた方の肉が、ここにあるのだ」
 左右違いの目を持つ者が、石積みの祭壇の最上で言いました。
「なかなかに開かぬな。そうだ。これは女の膣にも似たものだからな。受け入れるとは、本来、血と毒とを伴うものだ。儀式以上、神話以上の、この世の成り立ちからそれはあった、変化の痛みである。お前たち、時の流れは永遠と感じているだろうか?否、お前たちは有限だ。有限の存在だ。
 神を見限ったのはお前たちだ。そうして自分をも見限ってしまったのだ。この世の神秘の最たるものはお前たちの中にあるのに。具わっているのに」
 門番は手を振り肉の門を開けようとしました。今ひとつになっている想いを集めて、手に乗せて。しかし人間がしつらえた天空の門はそれでも開きません。
「私は欲する。循環から離れしお前たちの一部が、再びこの向こうへと還らんことを!その時は来た。その時は来たのだ」
 白光が集まってきます。堂々と、地下に、人々の頭上にあった執着の怨念は、人々の目にその姿を見せ始めました。還ろう。ふるさとへ還ろう。そのように想いを一つにして、その光をますます強めて。
 その願いが叶うことは、それはそれはすごいことでした。かつては叶えられていたかもしれませんが、その意思が挫くこと。それが大事でした。何もない場所に、無に、気付きが始まります。
 二頭の馬が、テオラとロムンカの背後からこつこつと足音を立ててやって来ました。それはイアリオとレーゼを運んできた、俊足の馬たちです。彼らはテオラたちのそばを通り過ぎ、倒れている二人のところに近づきました。その長い鼻面で、温かく彼らの頭と頬を撫でると、イアリオはぬくもりを取り戻し目を覚まし、レーゼは再び立ち上がる力を得ました。
「門を開けよ。」鳥が再び言います。「なんとなればそれがお前たちのするべきことだから。そうすれば、この赤子は行ける。ようやく、大いなる生命の循環の中へと」
「私たちは、」イアリオが答えます。彼女は、気絶している間生命の循環を感じていました。彼女の身体が、強張っていかなる存在も外側から入り込めなくなったその時、彼女は、まるで自分から自分のその身体の中に生まれてきたような気になりました。自分が大きな巨大な母親となって、その胎内で、暗闇で、自分が誕生するという捩じれた生誕を感じました。しかしその感覚は正確ではありませんでした。自分が大元であるのではなく、大元なる存在と自分がつながっている事実が、そのような瞑想を可能にしたのです。この世は
 大元が生み出した生命の在る場でした。生命とは大元から分かれた者たちの集まりであり、言わば、皆兄弟でした。
「行かないわ。ああ、あなた、私のオグ!あなたの宿命がそこにはない。もう行かなくていいのよ。行かなくていいの。いい加減許そうよ?」
 彼女は、オグが、自分から分かれたものであること、繰り返し、自分に宿ってきた悪そのものであることを認めてきました。そのオグは、いかなる人間の命も取り込み、まさに、小さな世界をつくっていました。この世とそれとはあまり違いがないのです。
 そしてこの世とそれとのつくりもあまり違いはないのでした。自分がいることは他との区別ではない。他がいれば自分がいることの、否定の肯定。それは
 存在が皆つながった兄弟であることの証明でした。彼女は、どの人間の中にも自分のオグを見つけ出せました。自分にあるものは、他者も抱え、それは、どうしようもない宿業と映ったのです。それは
 行こうとしていた。ずっと行こうとしていた。自らを否定し、嘆き、変化を求めて。しかしそれはどこか。循環?魂の大河?何のために?消えるために。やり直すために。復活するために。今を、過去を、否定するために。未来を、行く末を、新しいものにするために。
 そうしてまたやり直すのに。結局、同じことを、繰り返すために。オグは
 新しい生物ではないのです。そのようなことは、ずっと昔から、繰り返されてきたのです。
「彼女は、私たちそのものなのよ?あなたもハオスも、皆ここにいるの」
 彼女は明確にそのようなことを言えませんでした。断片的に、分かったことを、反論として、述べるだけでしたが、震える声で
 力を込めて
 言いました。
「皆この悪と一緒にいるの」
 多分な混乱はあったかもしれません。分かり過ぎることが多くて、どうしても、人間の頭脳では把握はできないことかもしれません。魔法はなぜ起きたか。その力は、どのようにして行使され、あるいは、行使できることを人間が気づき、何度も、幾度も行使して、世界を捻じ曲げ続けたか。つまり、それがオグという化け物を生み出す前に、それを行使すべく、発揮することを念じて、人の肉を触媒に集めてぐちゃぐちゃにして、それでも集合的に生きる肉塊にし、そこに人々の連綿たる想いを籠める(閉じ込める)ことで、その時代にまで生きる(死ぬことはない)想いの霊に具現化をした。(霊を肉体へと落とし込んだ。)オグという化け物が、今ほぐれる時に、そのような大昔の時代の記憶が蘇ってこようとは、人間の、悪の意識を縦横に十二分に感じるには、過ぎるほどの経緯でした。それは
 自己を肯定していました。なぜなら幾度も死んだはずの人間の経緯が、これを見なければならなかったから。つまり、過去を、そのまま否定せず、認めざるをえなかったから。
 そこに深い悲しみなど感じる暇はなく、混乱をしながら、彼女は主張しなければなりませんでした。もう、いい。もう、たくさんだと感じているのは、一人一人の分かれた霊だと。いい加減戻りたいのは、繰り返しの輪廻の中へではなく、もっと別の場所だということを。彼女は、混乱しながら、主張しました。
「私たち、クロウルダは、彼を守る鳥となって、いつか、あの流れへと回帰することを誓った。それこそが救いなのだ。オグは赤子だ。保護者がいる。しかし我々は、それを解きほぐすことが、できなかった。長の年月を慰めてきたとて、その意識は固く、結び付けられている。オグは人間だ。巨大な人間と言えよう。今、それが巨大な赤子になったのだ。それは、舞い戻る準備ができたということだ。レトラスに還そう、彼はそれを望んでいる」
 彼らは勘違いをしていました。ずっと、魔物は大なる大河に戻ろうとは考えていなかったのです。それは、ただ、それとは別の場所に、戻ろうとしていました。
「私はそれを望まないわ」
 イアリオは言いました。
「その子を還して、私たちに。まだ分からないの?私たちが、一番認めたくない存在、それがオグなのよ。私たちは未熟だわ。生きている限りどこまでも。それは私たちの弱さなのよ。悪とは、弱さ。私たちに還しなさい」
 彼女の声は、一体誰に向けられたものでしょうか。クロウルダのハオスにでしょうか。自分の中に流れる彼らの血にでしょうか。純粋に自分の中にいたオグにでしょうか。それとも…。
 玄牝。カオス。あるいは、闇が、この世をつくり出しているという神話は、どこからやって来るものか。
「行かぬ、行かぬ!これは回帰を求めている。大いなる流れの中に!」
「死なすの、殺すの?どちらでもいいわ。自殺なのね。その意味は」
「それがこの赤ん坊の意思なのだ!」
「違う!赤ん坊なら、私たちが育てなければ!私たちの未熟な性を」
 彼女の傍で、馬がぶるりと震えました。完璧な命などどこにもありません。どこにでもいるのは、赤ん坊と青年と老人です。命です。
 その時レーゼがかぶりを振って、二人の会話に割って入りました。
「もうたくさんね。もうたくさんだ」
 彼の中で、まだ燻っている彼の前世が、そう言いました。彼は立ち上がり、真っ直ぐにイアリオとオグを見ていました。
 白い光が彼から溢れ、その体を包み、ヴォーゼの姿が現れました。
「アラル、いいえアラルの次の人。あなたがオグに触れて知ったのはそんなこと?」
 彼女はつかつかとイアリオに歩み寄り、その頬を、平手でばちんとぶちました。
「精算などとてもできないから、共に、生きるしかないの。いい加減にしなさい」
 彼女は厳しくイアリオに迫りました。そして、イアリオの中に、アラルの記憶を蘇らせ、愛しき目で自分を見させました。
「よかった。あなたにはまだ、愛が宿っていたわ」
 ヴォーゼは曇った目で言いました。
「それだけだわ。それだけ。共に生きるということは、愛を宿すということ。愛と共に生きるということ。オグが、私たちが一番否定したかったのは、それなの。ずっと険しい選択。しかし、本当につなぐのはそれ、他にはない」
 しかし私は変わらないのです。ずっと私のままなのです。ヴォーゼの中には「変わりたい」という欲望が渦巻いていました。彼女は実際、死後に白霊たちと出会って、彼らの思いを吸ったのです。
 彼女は人間に足りないものは、大勢の意思を統一することだと考えていました。そうすれば、何事も迷いがなくなり、一斉に同じほうを向いて、力を発揮できるからです。しかしそれは魔術でした。一人一人が異なるという前提はない、理想の威容でした。彼女だけでなく大勢の人間がそれを求めていました。しかし、それではなぜ自分が滅びたのか、どうして死の門をくぐりあちらの世界へ行けないのかの理由は分かりません。それぞれの理由などどうでもよく、想いが一致すれば、破壊的な力も生まれ、人間は還ることができると彼女たちは思ったからです。
 確かに彼女は、そして白霊は、オグに近づき、自分たちと魔物とで共通の願いを持っていることを確かめました。死ねなくなったこの体を天に上げなければ、我々は救われることがないといい加減分かったいきさつを、両者とも持つようになったからです。彼らは
 迷ったからこそ、戻れなくなったからこそ、戻らなければ、還らなければと思ったのです。そして、そのためには想いをひとつにして、魔法を掛けて、天へと昇る門をこじ開けねばと感じたのです。そのように願を掛けた彼女の目は曇っていました。なぜなら
 目の前にいる愛する者を、忘れようとする自分がいたからです。ピロットのように。あるいは、かつての、恋人のように。
 ヴォーゼはその身から光を弾け飛ばしました。光の粒は、唖然としているロムンカやテオラにサカルダ、それに馬たち、あちらで苦しんでいるピロットにも、降り注ぎました。
「門を開きましょう。やはりここに来るべきではなかった。儀式の続きをしましょう。みんなで、もう一度再び生まれ直すの」
 彼女は絶望していました。まだ、絶望していました。その絶望のためにその想いを封じ込め、変えられなくしたのです。想いだけ、そこに変わらずにありました。
 彼女は生まれ変わったのに。もう

霊魂はあったのに。つまり、このような想いが、思念が過去も漂い、それが魔法を掛けることを可能にしていたのです。つまり、このようにどこかに封じられた想いが、人間を唆し、想いを同じくする者に、その願いを実現してあげたのです。アラルのように。アラルは
 恋人を裏切り、自分のために、死にました。想いを他に融合させて、その他の想い共と、その他の想いを実現させてあげました。
 イアリオは自分の腹が疼くのを感じました。…(私たちはもう、生まれなおしている)…。彼女は白い光を纏ったヴォーゼの目に、密かにレーゼが戻って来たことに気づきました。今生まれている彼が、彼女の来世として生まれてきた彼が。彼は怯えているようでした。彼はヴォーゼの言うことが、ただ自分のみを見て言っているのが判りました。それはイアリオも、誰も相手にしていない言葉でした。彼女は平手でイアリオの頬をばちんとぶちました。まるで滅びる町に戻ってきた、アラルの霊にナイフを突き刺した時のように。「あなたを愛したくなかった」と言った時のように。それだけ
 それだけ強力に恋人のことを愛していたことに、彼は怯えたのです。絶望して、自暴自棄になって、その心の責任をずっとアラルに負わせていたのは。その心理の構造はテオルドの先祖イラにも当て嵌まるものでした。イラは、彼女が愛した人間が、愛した町に、責任を取らせたかったのです。物語はここに端を発していました。まだ彼女たちは自分の腹が疼くのを感じられなかったのです。それが
 繰り返すことを。それが、螺旋を回ることを。少しずつ、上へ向かっていくことを。彼はもう、イアリオと、契りを交わしていました。
「そうだ。俺は…俺たちは…」
 ヴォーゼから変わった彼は、ヴォーゼの記憶が蘇った彼は、前世の想いが未だ残っている彼は、イアリオの傍に行き、そっと肩を寄せました。皆が依り代でした。皆が、ただ自分の想いを実現させようとして動いているのではなく、その想いも受け止めていました。依り代となるために、苦悩しました。その循環を誰もが行っていました。想いこそぐるぐると巡ることをなかなか人は判りませんでした。なかなか人は謝れません。
 彼は、あの狩人たちが為そうとしていた祭壇の儀式を、(彼の前世のそのまた、前世である)左右違いの顔の天女が主導する儀式を、続けたほうがいいように思いました。彼は、イアリオの脇に腕を入れました。馬が、彼らの傍でこうべを垂れました。いつでもこの背中に乗せてあげると、馬が、言っています。
「ありがとう。もう、行かなければ。あの続きをするんだ」
 彼は彼女を馬の鞍に乗せました。彼女はまた全身を冷たく凍えさせていました。オグにその下半身を触られた時のように、まだこの世に未練を残し続けているヴォーゼの言葉に、彼女の前世と今とが犯され、その恋人と同じような絶望に突き落とそうとされたからです。しかしヴォーゼを追い詰めたのは、彼女の前世の仕業でした。
 彼女はその恋人の想いを受け止めねばなりませんでした。それは前世のアラルではまだできなかったことでした。アラルはせいぜい自分がオグだったことを振り返っただけでした。自分の想いに、願いに囚われていたことに、気づくまででした。自己を反省する次は、人の思いを受け止めねばなりません。罪ははじめてそれから感じられるのです。まだ、自分の悪に気づかなくば、人の心など入り込む余地がないのです。
 人間の一部はいつまでも未熟なのですから。人間の一部がその人間のすべてをかたどり満ちるならば。その罪は
 いえその罪こそ
 悪魔を通して人間が共感しうることを、いつの時代からか、人間は気づき出します。人間の一部はオグという器の中で、共存したことがあったから。
 ようやく、イアリオはヴォーゼの想いがそのまま彼女に宿っても、いいと思いました。そして、レーゼこそイアリオは何を思ってもいいと思いました。その時、彼女の目に、確かなレーゼの瞳が飛び込んできました。二人は愛し合っていると自覚しました。いつまでも互いの顔を目に入れていてもいい、それが、喜びであることを知ったのです。
 同時刻、儀式の祭壇の上のレトラスの門が、ぶよぶよと、肉の蠕動を繰り返し始めました。いよいよ開こうとするその仕草は、女のそこを見るような、奇妙で奇怪な光景でした。男どもは悶え、女どもは吐き気がしました。産婆のみがその動きをつぶさに観察したことがあったでしょう。巨大になった蠕動は、いやでも人々に詳しくその動きを見せつけています。
 母親は、誰でしょう。母親は、誰でしょう。
(嫌だ。気味が悪い。あれを見るの)
 その場所を突き破った男は誰でしょう。どこにいるでしょう。
 地下の湖の、巨大な赤子を抱える火の鳥の、燃え盛る翼が折れました。鳥の体は落ち、赤子も、その下敷きになって湖に沈みました。誰かが絶叫しました。蒸発した水が湖面にもうもうと立ち昇り、或る悲しい結末をすこやかに隠しました。「なぜ。どうして。」と、鳥は呻きました。不死鳥が、上を見上げると、そこに、天井いっぱいに広がった男の顔面がありました。カルロス=テオルドの、憂鬱な顔面でした。
 本当の彼の悪でした。
 イアリオは馬の背に乗りながら、このテオルドの面を見ました。この顔に、その満面に何が浮かんでいるか探ろうとしました。しかし、憂鬱であること以外に何も見つけられませんでした。胸が、詰まるほどの苦しみ。どうしようもない哀しみ。言語化できない、言い表せない、途方もない、繰り返しの悪をずっと見詰めてきた神のような、思いの乏しい顔面でした。
(まるで闇の中に、自分はここにいると、言いたげのような)
(そして、オグの悪など、そうでもない、絆や呪いの強さの方が、もっと上だと言いたそうな)
 彼女はそこに浮かんでいるのは彼個人だと思いました。オグからも分かれし彼。いいえ、本物のオグが、そこに浮かんでいるとも感じました。ひとは
 集合でもありました。その身体には様々な先代の活動が糸を引き、同時代の人間の折り重なる(つむぎ)も肌に着ていました。自身の、連なる霊魂の数珠も、世界が、今まで続いてきた歴史の靴も。気づけば重た過ぎるほどに、誰もが、時間を身につけていました。ひとは器でした。ひとは人の手によって人工の器をつくり続けていました。人工の器は悲しみを生み出しました。しかし
 器は受け入れられたのです。その器に。
 そうだ、とイアリオは気づきました。皆自分の愛ゆえに苦しんだだけではないか?こうあるべきだ、なぜそうならないと、思い込んできて。アラルだって、ヴォーゼだって、アラルの前の生の人間だって、その弟だって。私は……私はどうだろう。ああ、私もそうだった。そうだった!
 彼女の口から、白い霧が吐き出されました。それは彼女の中でオグだったものです。白い霧は、ふわふわと移動し、湖の中に消えていきました。
 すると、太鼓のようなどろどろとした音が、予感のように、予兆のように、次第に大きくなっていきました。天井に吊るされたテオルドの顔面が、ふいに苦痛に歪みました。イアリオは大きく息を吸い込みました。
「見て、あそこ!」
 彼女はテオルドの顔の真ん中を指差しました。そこから光が覗いたのです。鼻の中心が縦に割れて、彼の顔は、真っ二つに分かれました。そして、その中から、大量の黄金がどかどかと落ちてきました。その量はまるで止め処なく、滝のように流れ続け金色の粒を撒き散らし湖をきらきらと輝かせました。そして、遂にその黄金を出し尽くした顔は、ぺしゃんこに潰れ、くしゃくしゃになり、小さく一粒になり、ぽちゃんと水に沈みました。
(何か、救われた?)
 イアリオはそう感じました。
(やっと、テオルドは呪縛から解き放れたのではないか?)

 テオルドは目を覚ましました。彼はまだ、寝床にいて、彼の妻とその娘とを、大事に大事に抱いていました。
(ここはどこだ…?)
 空ろな頭の彼は、非常にすっきりとした体と、曖昧なままの意識の狭間にいました。
(ああ、何だろう。この町から出なければ、今すぐに!
 そうだ、僕は守備隊長だった。こんな所で何をやっているのだろう。すぐに、住民を避難せねば。この町は、もう終わる)

 自分が自分を解き放つ。

 それを見届けてイアリオは呟きました。
「あの人が大好き。あの人が、大好きだ。こんな所で、何を思うんだろう。なぜか爆発しそう!」
 彼女はレーゼを見つめました。彼もまた、彼女を見つめ返しました。二人は今同じことを判り合っていました。
(体が溶けるようだわ。私が命に溶かされていそう…いいや、それは、確かに愛だ)
 彼女は目を瞑りました。そうしながらも、瞑った目の中に、瞼の裏に、見事愛する相手の顔が浮かびます。イアリオは目を開きました。
 空に浮かぶ肉の門が、自ら、開き始めました。半月が白々しくその下に、掛かっています。雨はもう上がっていました。浮雲が、遠く鳥の声を渡し、青々とした空を怯えるように横切っています。人々はその唸りを聞くようでした。目を背ける者も多くいましたが、大抵は、注目しています。
 イアリオの目は、彼女が乗った馬の横に立つレーゼから移り、その真っ直ぐ先にいる、ぎらぎらとした目の男を把捉しました。その男もまた、彼女の愛した相手でした。ピロットが、その目の色の剣を、大上段に構えていました。彼女の目はその佇まいに吸い込まれました。器がそこに立っています。彼女を受け止めた、彼女の思い通りになった、彼女によって狂わされた、
 彼女に残酷なものを感じた、
 彼女に我が身が消え行くことを感じた、
 彼女に何も許されない自分を覚えた、
 彼女に何もかも認められることを恐れた、
 巨大な母なる悪を彼女に見出した男がそこに立っています。
「お前は、余計な事をした」
 彼は迷いない顔で、真っ直ぐ、彼女に向かって突進しました。馬がいななき、前脚を上げて、彼の剣をかわしました。しかしそこでバランスを崩し、馬は横転し、イアリオを地面に投げ出しました。その体はごろごろと大分距離を転がりました。
 ピロットが後を追いかけます。今度は仁王の表情になって、あらゆる憤怒をその身に集めていました。
「そんな目で俺を見るな」
 彼は言いました。
「何て目で俺を見てやがる」
「私にはもう、慈愛も何もない」
 彼女が言います。
「ただ、あなたが心配なだけ」
「よせ」
「あなたの怒りを、受け取りたいわ」
「やめろ」
「だって、あなたの事が今でも好きなんだもの」
 彼は腹の底から声を出しました。その怯声は嬌声でもありました。彼はこの分裂に息を荒げました。
「どうして、お前は…」
 彼は仁王の相好を崩し、破壊的な白痴の面をしました。
「俺に、ぬくもりを与えたんだ?」
 もう空は晴れて、この暗闇とは異なる清々した光を大地に与えていました。もう何もかも終わっていたのです。人々はそれに気づかずに、

「ヒマワリの種をあげたの。あなたの帯の中にね。知ってる?それが、入り江に落ちてたわ。私は、あなたが確かに舟に乗って外海へ出て行ったことを知った」

 まだ、やり取りを繰り返しています。

「私、悔しかったわ。だって、あなたがもういなくなってしまったから。あなたをずっと想っていた!あなた以外に、好きな人はできなかった」

「ヤメロ。ヤメテクレ」

「…一緒に、暮らさない?まだ間に合うと思う。これからでも、いいでしょ?運命はきっと、私たちの味方になってくれるわ。あなたに、あなたにないもの、私が、たくさん与えてあげられる」

 彼女の悪を、吸い込んだ彼は、腹が引きちぎれるほど悶えました。
「…いらないんだ…そんな、ものは…」
 彼は、力なく剣を落としました。ピロットは、脳裏にあの悪魔のような彼の「母親」をよぎらせました。海辺の、小屋で出会った、名渡しをしてしまった、彼に彼女とは別の「悪」を教えた。
「運命など決まっていた」
 彼ははっきりとした目でそう言い、
「俺たちが生まれる前から」
 涙を流し、
「なぜ俺はここにいる?」
 切々と胸のうちを吐露し、
「ああ、何かが、溶ける」
 諦めました。
 ざわざわ。ざわざわ。湖が震動します。その中で、赤子がまた変異しました。怯える目でテオラは湖面を見つめました。ロムンカがごくりと唾を飲みました。静かになり、そして、それは現れました。
 赤ん坊ではなく、霧ではなく、鯉でもなく蛇でもない、火の鳥にまとわりつく猛烈に花咲く満開の植物でした。その昔、人は人から人を生み出すことをしました。大元なる存在の真似をして。魔法の器たるオグを誕生させる前に。魔法を生み出す自分を正しく扱えるようになる前に。願いが叶えられる前に。自分の、子供が、誕生するようになる前に。その時
 人は分かれえず、父と母に分かれる前に、その肉体から、別の人間を生み出しました。神話として今に聞く物語は、己の一部から随神を生み出すお話は、彼ら自身のものでした。自分から離れたものを、自分から
 離れたものを、自分から、離れたものだと認められない人間たちがいました。まるで、オグが、その模倣をしたように。エアロスが、イピリスと共に自分の子供たちを否定し、つくり変えたように。玄牝は、カオスは、そのように生み出されたものを認められないことがあります。
 それは、どうしようもないのかもしれません。いつまでもその子であるものは、子として見られ、すべてを属して見られるからです。一人一人、違うとは認められない。それが悪だと
 まだ人は
 思ったことがありません。
 しかしイアリオは分かりました。彼女は、町を出てすぐ、北の山脈の向こう側で出会った者たちを、脳裏に浮かべました。あの森の民だけではない、あらゆる存在が、生き生きとして、その生命力を発揮して、こちらを食べようとした者たちを。
 彼女は涙を浮かべました。
「俺は、ここにいる」
 ピロットはふらふらと植物に変化したオグへと歩いていきました。
「どうして」
「アステマ」
 彼女は彼の名を呼びました。鳥が、苦しげに息を吐いています。クロウルダが合体してその姿を変えた、オグの真似事をした、その鳥の執着は、本当の命の慟哭に対して何の作用ももたらしませんでした。残酷に、彼らの歴史は否定されます。彼らはまだ

にはなっていなかったのです。植物はその弦で持ち上げた巨鳥の体の下に、すべてを噛み砕くような鋭い歯刃をもったエロティックな口を開きました。その真っ赤で淫靡な唇から、色々なものたちが漏れ出されました。水、人、獣、岩、宝石、人形といったものが。テオラとロムンカは、無意識に馬の側に、レーゼのいる所に近寄りました。サカルダは一センチも動かず茫然と巨大な植物を見上げ、何か分かることがありました。(産まれる!何が産まれるか知らないけど。)彼女は思いました。
(私の子宮が熱いもの)
 植物は蔦の付け根から噴き出した霧をまといました。その霧は、彼が絡みつく不死鳥を壊し、溶かし、舐め尽くしてしまいました。口が、大きく開き、猛烈な風がそこから吹き送られました。その濛々たる曇った風を浴びて、ピロットの下穿きはするすると剥ぎ取られていきました。もはや全裸の彼が、緑色のオグの前に身を晒しています。
「…怖い」
 彼は震えながら呟きました。
「ああ、俺は、ここに生きながら、死……本当の、俺は、ここにはいないようだ」
 彼の姿が霞みます。ゆっくりと、ゆらゆらと揺れている水草のように。
「もし、許されたら…」
 そのまま蜃気楼の彼方に溶けていきそうに。彼は
 強く歯を食いしばりました。
「俺は、何を、求めた?」
 彼は、イアリオを向き直りました。その目は充血し、恐ろしい赤色になっていました。
「お前が、いなければ、よかった。俺は、惑わされた。俺は、最初から、悪の、僕でよかった。何も、迷うことは、なかった」
 彼はたどたどしく言葉をつなぎました。ピロットは目を瞑りました。目の端から水が溢れました。
 その時、黒い影が、彼の背中に取り憑きました。イラの呪わしい魂が、まだ、繰り返しの呪縛を訴えていました。
「俺は、俺の、消滅をノゾム」
 そうか細い声で訴える彼の陰に隠れて、
「ワタシハ、決シテ、消滅サレナイ」
 などと彼女は言いました。
 彼らはオグと対峙していました。しかし彼らの行く末ははっきりとその対峙者に示されていました。その突き抜けた向こうに、変わらない、自分自身がいるのです。彼は、イラは、思いました。私の悪は、私のものだと!ですが、
 それは間違っていました。その傍に、無数の霊たちが集まっていました。イラによって唆され、悪霊となったもの、あるいは、ヴォーゼが率いた白霊たちの一部が、あるいは、地下の都に三百年以上眠っていた亡霊たちが、ゆらゆらと、水草のように…彼らは消滅しそうになりながら、その現姿を明滅させ、かろうじて留まっていました。本当は一つの想いとなり、天への回帰を願う力になり、混沌となり、一人一人など消滅して天国へ昇りたい者たちのはずなのに、彼らはもう、各々が、ばらばらであることに気づき始めていました。一人一人が、器になり始めたのです。
「許されるのは、人の命だわ」
 イアリオが、呟くように言いました。
「そのために人は生きるの」
 しかしなおも彼女の言葉に反発する者がいました。
「私ガ消エルコト、消エテシマウコトガ怖イ」
 イラが、ピロットの口を借りて言いました。消えてしまうことが怖いのは、現在の執着でした。しかし悪は、それまでは群れて力を持っていたのに、その執念は、まったく個人のものでした。
 ピロットが言いました。
「俺は、もう、生まれた」
 彼は、暮れても明けても、彼でした。
「大丈夫。お前は、自分を、書き記す」
 イアリオは彼と一緒にはなれませんでした。まるで母子のような構造が、二人の間にはありました。人間が、親から自立し脱皮する時、やっともう自分は、

ことを認めるでしょう。そこに美しい音楽が流れることを、ひとは、なかなかに気づきません。
 青く、神聖な光がその場所に満ちました。イアリオの懐の、ロンドから渡されたあの青い円盤が、強烈な光を発しています。人も霊も、あらゆるここに集合した存在が、その内側から、同じ色の光を出しています。彼らは、同一のものを見出しました。一人一人が、分かれていること。それぞれが、同一の想いを持っていたこと。それは
 空の扉を開く力にはなりませんでした。青い光は虹になりました。青から色が分かれたのです。今、そこから出て行こうとして。

 世界中で、この瞬間に、何が起きていたでしょう。普通のことが、起きていました。

「何者モ私ノ邪魔ハサセヌ」
 イラが再び叫びました。ピロットの唇を借りて。しかし、イアリオはもう、彼女も、彼も、何を思ってもいいと思いました。どんな悪も、犯してもいい。それは、
 私も。
 黒い渦が、イアリオの背後で回り、彼女の腹を、満たしました。彼女は植物となったオグを面と見ました。すると、腹に収まった黒渦は、にぎやかになり、まるで、ピロットの姿になりました。大丈夫。彼女は、心の中で呟きました。



「上に、下に、魂は宿る」
 門の番人が言いました。
「両者は、一つ。一蓮托生だ」



 すべてが光に包まれて、彼女の悪と、ピロットの悪が、その中に消えていきました。こうして、彼女の町は、滅びていったのです。
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