第26話 帰還

文字数 40,708文字

 ルイーズ=イアリオは裸で寝ていました。豊かな胸が、双丘を描き、呼吸するたび上下に動いています。彼女は自分のふるさとを思い描いていました。帰るべき町を。
 時間は迫っていました。オグを巡る旅から戻って、まだそう経っていませんでした。ゆったりと伸ばした手足が痺れていました。まるで温かい湯に浸かっているかのように。それは彼女がやるべき事を、ここまで成し遂げた証でした。その体がじっくりと休憩していたのです。
 つうと扉が開き、中にニクトが入ってきました。ニクトは十五歳になり、元々可愛らしかった容姿は見事に花咲き、大人の美貌が覆っていました。金髪の少女を見て、イアリオは、純粋に美しいな、と思いました。
(菊の花が咲いているよう。でも、巣立とうとする鳥のよう。雄々しさも、どこか感じるわ)
 少女は慌てて扉を閉めて、イアリオに近づきました。
「駄目よ!そんな、また、無防備な恰好をして!」
「いいじゃない。減るものじゃないでしょ」
「減るよ!もう、兵士が扉を開けたらどうするの?それこそ厄介事になるのに…」
「大丈夫よ」
 彼女は力強い口調で言いました。
「もう、安らぐ暇もないもの」
 彼女は服を着て、ニクトと一緒に、賢者トルムオのいる部屋へ行きました。水の流れる涼しげな音が、この亜熱帯の暑気に心地よく二人を迎えました。トルムオは執務の長机にひじをつき、彼女たちを待っていました。
「あら、こちらには座らないのですか?」
 イアリオは石机の手前にある来客用の椅子とテーブルを見て言いました。老人は無言のまま、二人をじっと見比べていました。
「ここに、来たか。招かれし災害は。いや、人なら皆そうしたものを持つ。誰もが誰かの厄災になりうる。どれほどの善人であっても悪人とそれは変わらぬ」
 彼は執務の椅子に座ったまま、言葉を続けました。
「ならば、我々はどう対処するべきか?法や武、思想などは壁の役割を人間の頭の中で果たす。それに基づいて人は行動する。私には分かる。そのような動きが、未来にどのような効果をもたらすのか。しかし、それすら、全体のほんの一部だ」
 彼はゆっくりと立ち上がり、深い溜め息をつきました。藍色の衣の裾が揺れて、老人を、何かとても禍々しい存在のように見せました。
「クロウルダの霊学がなくとも、私には見えるのだ。この女に起きている現象、あの町のつぶさな様子、その地下の恐ろしい怪物の動きなども…だが、私には判断が下せない。見守ることにはした。だがそれが何をもたらすか、まったく知らない。何もできない。それが、私の判断だというのだろうか…?」
 トルムオは上段から下りて、イアリオとニクトと同じフロアに立ちました。彼は大地から彼に知る限りの言葉を聞いていました。この国ではその能力を有する者は限られていました。彼らはクロウルダ以上に心霊に精通し、未来を予見することができたのです。
「そうか。ゆっくりと…物事は、変わるのか。私が思っていたよりも、ずっとゆっくりと…イアリオ殿。いや、ルイーズ=イアリオ、エスピリオ=アラル、キャロセル=トアリボロ。あなたの下りていったあなた自身の過去は、どこまで伸びたものか。無限の数珠つなぎの霊が、私の前に見えている」
 彼は青い目を広げて彼女をよく見ました。
「現在のあなたが、そのどこにあるのか私には分からない」
 彼はしげしげと相手をよく見つめて、その中に彼がいる場所を見出そうとしていました。人の中にいる自分が分かれば、その相手を知ることができるのです。でも、彼は彼女に背を向けると、こつこつと歩いて離れました。
「もはや私には分からない…」
「トルムオ、あなたの言葉、よく分からないですが、これだけは言えます。私は、あの町に戻り、すべてを見て来ます。そうしたら、またここへ、戻ってきます」
「戻ることかなわないかもしれぬ。猛烈な願いがあなたの故郷にはたゆたっている。それは人間の本性だ」
「だから戻るんですよ。きっと、イピリスがいます。再生はあるのでしょう?」
 イアリオはにこりと笑いました。
「ここで、この場所にも、それはある…」
 静かに、二人の間を水の音が流れていきました。トルムオは鉢の上の植物をじっと見て、何やら頷きました。
「すまない。ニクト、お前には何のことやら、分からぬ会話だったろう」
 ふいに投げられた老人の視線を、はっとしてニクトは掴まえました。
「それはこういうことなのだ。まもなく、もうすぐ変わろうとしているのは、何もイアリオの故郷だけではないのだ。きっとその周囲にも伝わる、恐ろしい風が吹くのだよ…我々はその可能性をずっと調べてきた。あの町の周りを、調査した。エアロスが起きる。オグが滅亡するということは、そういうことであるからだ…ドルチエスト、マガト、クエボラという三つの町では、確かに、オグだけではない、生きている人間も、同じことを望んだから、滅びたのだ。それはその街にいた人間だけが望んだことだったろうか。いや違う。世界中が望んだように、私には思える。なぜなら、大きな一つの町がなくなるということは、そういうことだからだ。町はその経済圏を彼だけの中に展開するものではない。人間の交流も、他と共にある。オグが必要な生者だけ自分と同じ思いを集めたとしても、町は、水流のように手足を方々へ伸ばしていた。今回、あなたのトラエルの町は、幸いか知らん、私の国としか手を結んでいない。その意味は、と考えると、勿論、これから起こるべきあなたの町の破滅は、こちらにも波及するはずなのだ。そうならないよう、我々も考えたことがあった。だが、この私に見える未来のヴィジョンは、そうではない。明らかに、こちら側にも影響を及ぼす。その正体が分からない。あなたの中に、それを見つけ出そうとしたが、それもできなかった。これがエアロスだと私には判った。世界の造り替えが行われるようだ」
 彼は自慢の娘をしっかりと捉えて、放さぬよう、力強く見つめました。
「ニクト、ヒスベルよ。人は、いったい何の望みをもって生まれるか、知っているか?誰もがこの世に必然に誕生する意味は?」
 ニクトが、神妙になって、自分の養父を見返すと、その脳裏に、愛するフィマの横顔が見えました。
「…教えて、お父様」
「すべてが待っているからだよ」
 …ニクトは、顔を隠し、そばにいたイアリオの胸にそれをうずめました。体中が、特に下腹部が、熱く濡れている様で、その意味も、少女は静かにわかりました。
「未来のヴィジョンとはこういうことなのだ。誕生する。生まれる。生まれ変わる、というべきか。我々は未知を待っているのだ。コントロールするべき明日ではない」
 その時、中庭からの扉を開けて、クロウルダのニングが、ロンド=フィオルドを連れて入ってきました。
「どうも、こんにちは」彼は明るく賓客に声を掛けました。そして、トルムオの元に近づくと、賢人の肩を叩き、彼を慰めました。「あなたは人や動物や大地の声を聴き過ぎるのだ。人がすべきことに迷いなどないだろう。少なくとも生者たちをあのトラエルの町から避難させよう」
 クロウルダにとってみれば、自分たちがあの魔物を癒す役目で、その継続性を主張したのでしょう。むざむざと彼らが過去に犯したように、魔物を自滅させることはないのですから。
「早くここへサインを。あなたからの命令が下されれば、私たちは今すぐにあの町へ行く。そして人々を助け出す」
 彼は、ロンドから白い紙を手渡してもらい、それを、トルムオの前に突き出しました。
「それは、果たして本当に彼らを、助けることになるのだろうか?なあ、ニング殿。私に見えているのは、あなたたちクロウルダが、何を迷い、求めてきたかということだ。どれくらい日が、月が過ぎたろうか、あなた方が自分の国をなくしてから。どうしてオグを追おうなどと思ったか。
 それが、あなたの国だからだ。あなたたちはずっと生まれ変わることを拒否してきた。他の民族に染まることを、昔を忘却してしまうことを、何よりも恐れた。あなたのふるさとを滅ぼした者に、その願いを掛けたのだ。オグは、変わらない。不変の者だ。あなたたちもそうありたいと願ったのだ。あなたがオグを慰めるとは、あなた自身を慰めるということだ。かの魔物は、あなた自身でもあるのだから」
「その通りだ。だが…」
「それは、かの町の人々にも当てはまることか?いや違う。事は起こる。クロウルダは、その滅亡を認めていない。滅亡はしていないのだ。それは誕生ではない。祝福はされぬ。世界民ではない。ただ、いまだ還れぬ死者たちのように、この世界に執着しているのだ。いかにも慰められよう。魔物はあなたたちによって癒されよう。それがどうして、回帰につながる?私たちは、世界民だ。ある民族である前にただ一人の人間だ。執着は誰にもあるだろう。永遠を願うのはあらゆる国と民族の精神の柱かもしれない。だがそれは誕生を示唆しない。その国こそ新しく生まれた生命だというのに!私に見えるのは強くそのヴィジョンだ。途方もない何かが生まれようとしている」
 ニングは厳しい顔つきをして、トルムオに求めた書面をそこに残して、中庭へと出て行きました。オルドピスから兵士を相当分トラエルの町に送るようにと、再三彼はオルドピスの指導者に迫っていました。ですが、こうして彼の交渉は決裂しました。
「トルムオ殿。俺はどうすればいいかな?」
 一人残されたロンドは、トルムオに大きく手を広げてみせました。彼はニングにトラエルの町救済の先陣を切ってもらいたいと依願されていましたが、彼はそれはイアリオの意志にも掛かることだと、ニングからの直接の依頼を断っていました。そこで、ニングは彼を連れて、トルムオに彼にも預けた契約の紙を、突き出したのです。
 それだけ、クロウルダにも焦りがあったかもしれません。イアリオが感じていたのとは違う、彼らの変化の予感を知っていたのだとしたら、それは、ドルチエストや彼らのふるさとが亡びた反省に、守ろうとする意思に同調した彼らのオグが、それを見て、彼らにも訪れるエアロスの暴風を止めたくて!彼らはまだ認識していないのです。すべては流転し、新しい生命が常に誕生していることを。イアリオの故郷は、長年、新しい生命を否定していました。生命が犯した彼らの罪を、認めていませんでした。あまりにショックで、変わることを恐れたのです。だから、生命は、あの場所にずっと潜み続けて、そう、オグすらも、死人すらも、ずっとその生命の力を潜在させて、今この時を待っていたのです。彼らのオグは破滅を望みました。一方、クロウルダのオグ(その願いを実現させようとする存在)はまだそれを望んでいませんでした。
 生きている人間こそ彼と同じものを望まなければ、彼は、流転していかないのです。子供を産んでいかないのです。
「あなたがイアリオ殿を連れて行ってくれないかな。ニングではなく、私でもなく、オルドピスでもない、あなたに」
 老人が疲れた声で言いました。しかし、その目には確かな光が宿っていました。
「トラエルって町へか?それはいいですが、俺だけの力で町人全員避難させることなんて…」
「避難はさせぬ。もしそれが町人の何人かの意思ならば、そうしてもいいのだが。知っている。ロンド殿はそうしたいのだろう?だがあなたを導くのは彼女だ。彼女についていって欲しいのだ。念のため、我々は町の領地の外に兵を配備する。いかなる事態にも対応できるよう。どんな事態になり、我々がいかなる支援を与えられるかは、あなたと、イアリオ殿の判断に任せよう。恐らく、我々が送り込んだかの町への使者は悉く殺されている。町は、イアリオ殿が来られてから、その体から伸びる手も足も封じている。孤独になろうとしている。私に見える少し先の未来は、あなたが、イアリオを連れてその町へ入っている夢だ。しかし、あまりに現象が大きい。
 我々はこの変化を受け入れよう。トラエルの町から逃げ出す民がいれば、私たちはそれを保護しよう。町には近づけぬ。とてもじゃないが、町は、それ自身の運命を願っておるから。それが、オルドピスにできる精一杯の援助となる」
 トルムオは、イアリオに向かって深々と頭を下げました。
「すまないことだ。どうしても、私はあなたの国を見捨ててしまうことになる」
「どうか頭を上げてください」
 イアリオは彼に言いました。
「あなたには感謝しています。いいえ、ずっと、町はオルドピスに。悲しいことではないんです。だって、私の町が、変わろうとしているんですよ。三百年前の再現です。でも、やっとそこから前へ進めるのだろうと思います。実は、私の後見をフィマとニクトに頼んでいます。そうする必要がある、と思われたからですが、今の話、町からどれだけの人間が外側へ出てくるか、分かりませんが、彼らの保護をお願いします。町を救う必要はありません。私たちが、立ち向かうのですから」
 彼女はゆっくり目を細めました。穏やかな笑みに見えて、それはいくつもの人間の困難な運命を見つめているかのようです。彼女は、三百年前が再現されると言いました。それだけの出来事が起こるのだろうという予感です。いいえ、それと同じでなければ、彼らにオグの破滅が訪れることもないのです。もういいのです。他人の願望を叶えるのは!それが、自分のものではないから。彼らが守ろうとしたものは…そして、三百年前に、人々が守ろうとしたものは…多分、他の人の思いなのです。それは、たとえ自分から出発したものでも、そうならなくなってしまった思いです。がしゃんと崩れた石積みのように、積み重ねて積み重ねて、ほころんだ機構なのです。オグは、ここにいます…そして、その運命を、誰よりもよく知っています。彼は自分ではない者です。彼は求められたのです。そう、人間に。

 イアリオは部屋に戻り、また考えました。自分は一体、レーゼかピロットか、どちらを選ぶのだろう、と。
 裸になって考えると、都合がいいような気がします。ピロットを想うと、体が熱くなります。しかし、芯がどこか冷える気がします。レーゼの場合は、彼が年下のせいもありますが、慈しむ心が勝ります。ですが、全身はとろけるよう火照り、熱くなり、木陰がそれだけで濡れるのを覚えました。
(私はどちらを選ぶのだろう)
 彼女は、ピロットを選択し、彼と共に生きたいと思いました。それが最も合理的で好ましい未来のように感じました。果たして、今あの町で何が起きているか、それ次第でもありますが(それ次第では彼女はどちらも選べないかもしれないということは、よく理解できた)、彼を地下から連れ出して、オルドピスのどこの土地でも静かに暮らせればというのは一つの理想の生き方です。ですが、そうして二人は決して幸せになれないような気がしました。勿論、これは空想の範疇を超えないことだとしても、です。彼女はピロットと一緒になってはいけないのでしょうか?それはなぜかと考えると、彼女は、自分が何者か分からなくなっていく気分がしました。そこで、レーゼへと視線を移すと、彼女はどきりと心臓が跳ねました。顔も熱く、全身が真っ赤に火傷してしまうかと思われるくらいになって、彼女はどうも彼を自分は愛しているのだとわかりました。
(ああ、レーゼ…でも、そんなこと、実現しないわ。私はハリトに彼を任せたもの。それが一番、自然だと思ったから。いいえ、その時、私はいかに自分がずれていたのだとはっきり判ったわ。だって苦しかったもの。心の中で応援を頼んだのはレーゼだった。ピロットではなかった)
 彼女はくすりと笑いました。そして、急に怖くなり、全身を固まらせ、裸のまま自慰に励みました。そうしなければ、どちらが本当に愛しい相手か、うやむやになってしまうようでした。自分のその身体の上に乗せたいのは誰でしょう。乗っているのは、どちらでしょうか。受け入れたいのは?抱き締めたいのは?彼女はくすくすと笑いながら、涙を目にいっぱい溜めました。
(本当にそうなの?私、もうおばさんよ?二十八にもなって、いまだ処女の、行き遅れてしまった女よ?)
 でも、ああ…これが自分の本心なんだと、彼女は繰り返し分かりました。本当の溜め息をつき、天井を見上げると、ぱたぱたと、小鳥が小窓を横切りました。それを見て、イアリオは、憂鬱な気持ちになりました。

 ニクトは恋人の部屋に行きました。フィマは地方の図書館から戻り、彼女とイアリオに会いに来ていました。彼がイアリオの後見人になるという話は、トルムオはもう彼から聞いていました。彼女のふるさとへの出立に際して彼を呼び戻したのはトルムオでしたが、同時に、彼とニクトの結婚の準備も進めるつもりでした。この国では、十五歳が成人で、その成人の儀を越えたらすぐに結婚しようと二人は決めていたのです。ニクトは恋人に扉を開けざま抱き止められました。
「わっどうしたの、フィマ?」
 彼女は少し面食らいました。それくらいフィマの腕の力が強かったのです。
「ああ、もうすぐ…イアリオは行くんだろ?」
 ニクトは「ええ」と小さく返事しました。しばらくフィマは彼女と固く腕を結び付けると、申し訳なさそうに言いました。
「何だか、ざわざわとするよ。あの人を想えばこそだけれど、あの人の町に、とんでもないことが起こりそうで」
「そう、言ってたじゃないの。初めてイアリオに会ったときから、彼女は」
「でも、他人事だったんだよ、その時は。今は違う。多少なりともあの人の背負うものが見えているから」
「だったら行かないように言えば?あたしを抱き締めて、その不安が何とでもするの?」
「いいや…」
 フィマはすまなそうにニクトのくりくりとした目を見つめました。
「あの人を愛しているから?」
「そうだよ…」
「いいんだよ。フィマは、それで。きっとね。あたしだって好きなのよ?そして、あの人の後見人になるって約束した。これは、あたしたち二人で担うことだよね。しっかりと、あたしたちが待っていれば、必ずイアリオが帰ってくるって、どこか分かっているでしょ?」
「僕は不安だ…」
 フィマは頭を振りながら部屋を歩き回りました。まるで母親を心配する子供のようです。ニクトは優しい眼差しをして、後ろから、彼を抱き締めました。
「一緒に待とうよ」
 彼は頷きました。
「そうしなければ、イアリオのこと世話できないわよ?あたしたちは、まず、二人でやっていくんでしょ?」
「それは、そうだ」
「じゃあ、答えは出ているよ」
 フィマは振り返り、ニクトを見つめました。この世界でたった一人、真に愛しい人が、そこにいます。
「愛している」彼は言いました。「そうか…だから、僕はあの人を世話しようと決めたんだ」

 色づく日差しが、彼方から届きました。別れの日、イアリオはフィマとニクトを抱き締めました。まずは、それぞれ、そして、二人とも。その所作は、まるでトラエルの町を後にした時、レーゼとハリトにしたものでした。彼女は二人のことが大好きでした。フィマはもう、立派な青年ですし、ニクトは、彼を支えるべく淑女の雰囲気が漂っていました。
「じゃあ、行くわ」
 ニクトは泣いていました。フィマは、泣いていませんでした。勿論、今生の別れになどするつもりはありませんでしたが、なぜか、この別れの意味をよく分かり、二人はそれぞれに力強い確信に胸を打たれていました。彼らの婚姻の儀は、イアリオが戻ってからになるでしょう。また会えるのです。にもかかわらず、待たれる再会は、遠い時の向こう側にあるようでした。
 イアリオは、彼らを抱擁し、見知らぬ力を手に入れた気がしました。多分、それはレーゼたちを抱き締めた時も、手渡されたものですが、同じ方向を向いているようで、違った形をしていました。多分、フィマたちからもらったものは、もっと、複雑な形状をしていたのでしょう。彼らの家族や、彼らの国や、彼らの思いなども、そこには混じっていたのでしょう。単純に、彼女は自分が何に支えられているか、自分自身を分かってきたから、受け取る力も違ったものになっていたのです。それは、大きな出来事でした。いいえ、それを言うなら、フィマとニクトにも、同じことが起きたから、でした。
 自分を支えるものとは何か。それはすべてでした。そうは思わなくとも、すべてが、現在の自分の礎になっています。私の体は出会ったものを悉く肥やしにしているのです。認めたくないものでも、認めたくないという感情から、それ自体を吸収して。現在の自分を形づくっています。イアリオは、もしかしたらどこまでも、世界は優しいものなのかもしれないと思い始めていました。なぜ人は生まれるのか、その意味を知っていったから。それは厳しさよりも、世界中のこちらを向く表情が、黙として語っていないように見えても、こちらから(あちらから)自ずと差し伸ばされた手の、行く手にあるのは結局は何かの輝きでしたから。それは、自分が、どうしてこの世界に生まれたかったかということと一緒だと感じました。
 だから、彼女はあの町に、帰ることができました。彼女は、ロンドと、彼の仲間数人と、数名のオルドピスの兵士たちと共に、馬に乗り、都を出て行きました。行く手の西空には厚い雲が、たなびいていました。
(おあつらえむきだわ)
 彼女は思いました。
(もう、何があろうと、恐れるものか。怖がるものか。私は、オグなんだ)

 彼女たちはまず森人たちの住む原生林のはずれの砦を目指しました。イアリオが初めてそこを訪れた時は、二十棟ほどの平小屋が野ざらし石の壁に囲われているぐらいでしたが、三年の間、そこはもっと補強されていました。大勢の兵隊が駐留できるようになり、砦は要塞のように膨らんでいました。いよいよでした。何があの町から出てくるものなのか分からないのです。まるで戦争が始まるような緊張が、辺りに漂っていました。
 オルドピスは、恐らく、町人が狂って外に溢れ出すようなことになれば彼らを徹底的に殺したでしょう。オグによる破滅は自滅的なもので、それが周辺に影響を及ぼしたとしても限定的な小規模なものだと確認されていましたが、その破壊の跡は想像を絶するものでした。彼らは町を助けたいと言いながら、その破壊の影響を少なくすることを選んだのです。イアリオたちはオルドピスの使者が普段通る、トラエルへの道を取って、進みました。彼女が危険を負って下ってきたルートとは勿論違う、そこよりもっと東寄りの山肌を、這うように縫う道でした。そこはオルドピスがよく整備しており、馬もしっかりと通ることができました。彼らはトラエルと交流するためにこの山道を切り開いたのですが、いざという時、麓の砦と連携して、見張り台をこの先に建て、この山の向こうの森に隠れるような駐屯地の設置を考えていました。もっと近くでかの町を監視できるように。しかし麓の砦には食糧庫にどっさりと食物が山積みにされていました。どれだけ逃亡者が溢れてきても(かつその逃亡者たちを匿うべしという達しが届いても)いいように。
 オルドピスの兵士一人が、斥候として彼女たちのずっと前を歩きました。斥候といっても、隠れながら目立たぬよう歩いてはいません。トラエルの町の者が彼に気付けば、すぐに情報を取り交わすことができるよう、森を歩きながら音も立てていました。付近には見張りの者がいるはずでした。警備隊の隊員が、オルドピスの使者の通る道も常に警戒を怠らず見ているからです。
 ところが、町の者はオルドピスの兵士の前に現れませんでした。しかし、このことは想定内でした。ここ一年余り、彼らに送った使者は悉く帰ってこなかったからです。森には人の気配がありませんでした。見張られている、という緊張も感じませんでした。
「だが、変な感じがする。物々しい感覚はあるようだ。ただならぬ雰囲気…」
 様々な地方でいくさも警備も経験してきたロンドも、そう言うに留まりました。彼らは山脈の森はずれをずっと進んできていたので、山の狩人たちにも会いませんでした。森の鳥や獣たちは彼らの侵入に気がついて、敏感によそよそしく背を向けていましたが。
「おかしいな」
 ロンドが小さくイアリオに呟きました。
「怯える人間が、こんなに鈍感なはずない。あんたの町は、ずっと警戒していたんだろ?外から来る者を。三百年もの長い間。ここに俺たちが陣でも張ったら、奴らどうして追っ払うんだ?オルドピスはそれほど信頼されているのか?それとも、舐められているか、地の利に向こうがよっぽど自信のあるか」
「そんなはずがないわ」
 イアリオは言い切り、不気味な予感がしました。
「やっぱり…もう何かが始まっているの?」
 彼女は空を望みました。もうすぐ、レーゼたちと再会の約束をした、三年後の月のない夜が訪れます。その時には、約束通り、あの町の北の墓丘へと彼女は行くつもりでした。

 いよいよ始まるのです。

 彼らは森はずれのごつごつした岩場にキャンプを張りました。どこまで町に踏み込めるか分かりませんが、ここから、慎重に様子を窺っていくつもりで。遠くから見る限り、町は平静でした。人も歩いています。彼らの望遠鏡でもぼんやりと見える限り、ですが。農園には人影がありません。それはおかしいことです。彼らはほぼ全員がトラエルの町の事情を知っています。オグという古い魔物についても、必要なことが頭に入っています。彼らは手だれの斥候を二人、町の領地の深いところまで送り込みました。そして、彼らの後ろ側に控える山向こうの軍隊とも、密な連絡を取りました。山脈を隔てたこの細長い道が、彼らの命綱です。
 …やがて、町から返事が来ました。手だれの二人は、無残にも町外れに殺されて横たわっていました。一同はこの返答をぞくりとして味わいました。彼らにはなすすべがないようでした。
「相当の武力があっちにもあるってことだ。こちらの気配にも気付いている」
 ロンドが言いました。
「引き返そうか?これでは、町がどんな状況にあるのか、全く分からない。我々にも危険が訪れる」
「ええ、まだよ。兵隊の性分は、どんなことがあっても、戦場から成果を得てくるものだと思ってたけれど?残念なことが起きたわ。非常に残念なこと。でも彼らの勇敢さには敬意を表さなければ。町が、とてもじゃない緊張感に包まれていることは分かった。ロンドだけは帰って、私たちはもうちょっと様子を見て情報を集めるから」
「そりゃいかん、俺一人だけが臆病者じゃないか」
「そう言ったんでしょ。ロンド、あなた、今、二人の死の尊厳を否定したのよ。皆決死の覚悟よ。そう言ったでしょ?何が起こるか分からない。私は命を賭けてこの町から脱出して、この町へ戻ろうとしている。私一人でも行くわ」
 イアリオがそう言うと、くすくすと周りから笑いが漏れました。本当はロンドも散々知っているはずですが、この女傑はてこでも動かない胆力があります。オグを巡る旅の最中でも、彼らは盗賊などに襲われた際に、彼女は二人ほど敵を倒しているのです。しかし、今はオルドピスからの貴重な人員を二人も失い、イアリオはどちらかと言ったらロンドやオルドピスの人間は自分たちの町に巻き込みたくない思いがありました。
 それは、皆が知っています。ロンドはイアリオはこういう女性だということを、皆によく語りました。彼女と共に旅をした者やそうでない者も、この人のためにならと思うところが、彼女にはありました。
「まだ町から人は逃げていない」
 イアリオは涼しげな眼差しで白い町並みを見遣りました。
「もし、何かに耐えられなくなってしまって、逃げ出してきた人間がいたら、救うのがあなたたちの本来の役目です。斥候に行かせたことは失敗でした。だから、もっと慎重に、事の成り行きを見ていきましょう」
 ロンドはじっと彼女を見つめました。彼は自分がわざとおどけて、一同の士気を下げないようにしたのです。彼は彼女にそんな自分の思惑の付き合いをしてもらいました。いいえ、頭の回る彼女が素早く彼の意思を察したのです。しかし、ロンドはそんな彼女を大したものだと思うのと、そうは言っても彼女がどれだけ今回の犠牲をつらく感じているかということも、感じました。
「あとひとつ…私は人と会う約束があります。その人は私の最も信頼できる町の人です。月のない晩に、町の北の丘の墓所で、落ち合う約束です。その人と会うことができたら、詳しく町の事情を知れるでしょう。だから、それまで、丘の墓所へ行く道の安全を確かめておきたく思います。どうかこのことを優先してもらえるかしら?」
 反対する者はいませんでした。全員がこの女性の言う通りにしようと思いました。

 こうして彼女は気丈にも兵士たちに命令して(それ以前から彼女が墓丘に赴く計画は立てられていたものの)、全員の意思を団結させました。ところが、彼女はその後泣きました。不安でしょうがなく、恐ろしくて、たまらなくなったのです。彼女は誰よりもあの町で起こりつつあることを理解して感じていたのです。オルドピスの斥候が殺されたことも、農園が不気味な沈黙に包まれていることも、彼女には皆必然に思われていました。
 誰もが寝静まった頃、イアリオは一人だけ別のテントを用意され、そこに泊まっていましたが、そこでめそめそと泣きました。町にはオグの力がもう溢れ出しているのでしょうか。もしそうなら、それは彼女の過去が、罪が、業が流れ出しているのと同じことでした。いいえ、彼女だけのものではない。それだから、また新しく人が殺されたのでしょうか。あらゆる人間の、この世で果たし切れなかった思いと、悪の、その成り行きを彼女はよく知っています。知ってから、いえ知る前から、彼女は一つの町が滅びる夢を見ました。いえ、夢は夢にしかあらず、今までのそれと同じように事が運ぶなどはないでしょうが。
「おい」
 テントの外から、声が掛かりました。開けてみると、そこに、細い月の光を背中に浴びた、ロンドが立っていました。
「何?」
「あんた、泣いてたろ?」
「ええ」
 彼女が座り、彼が立っているからでしょうか、彼は大きく、巨大な石像のように塞ぐものに見えました。
「あんたは、俺が必ず、守る。墓の丘とやらに、何としても連れて行く」
 彼は不器用な男でした。人の感情に敏感になることができるも、人の判断には疎い側面がありました。他人の決断に、巻き込まれることが彼はよくあったのです。だから、彼は他人の感情に従って行動するようになりました。それによる失敗は、部下に取らせるようにしたのです。彼の部下は、喜んでその後始末を引き受けました。
 その代わり彼は人間の感情を大事にしました。彼は自分なりに人と適切な距離の取り方を学んでいました。彼はどれほどの計算を足元の女性が立てているか分かりません。オルドピスも、その判断の基準に余りある怜悧さが研ぎ澄まされてあるのは感じていますが、すべてまで理解はしていません。ただ、彼は、イアリオもトルムオもニングも、どのような想いを持っているのかをよく感じました。そして彼は、誰かが泣いているなら、その傍にいられる人間でした。
「あんたは一人じゃないぜ。俺を頼ってくれ」
 彼女はそれを可愛らしく感じました。彼の不器用さ、身軽さ、情の厚さには、初めて会った時からときめくような愛らしさが具わっていたのです。ですが、あまりそれを可愛いと感じることは、失礼にも思いました。なぜなら彼はそのようにして多くの人間と信頼を築き上げ、神殿の巨柱にも匹敵するほどに他者の支えになっていたからです。
「ありがとう」
 彼女は短く感謝の気持ちを伝えました。いいえ、決して短くはありませんでした。彼の支えは太く、芯となり自分を下から持ち上げてくれる力を感じていましたから。

 彼らは、丘に通じる道のりの状況を調べ上げました。途中点々とある作物の保存庫や休憩所などはまったく人がいませんでした。ですが、彼らは町の方からこちら側を見ている人の視線を感じました。もし向こう側がこちらに対して何か準備をしているというなら、どんな準備をしているのでしょうか。いいえ、準備など、いよいよ地下の魔物が顕在化し始めた場所などで為されるものでしょうか。遠目、白壁の建物の並ぶ町には人影はたくさん見えていました。しかし、オルドピス人の目には、その望遠鏡には、町の人影は霧がかったようにもやもやとしていました。こんな話があったな、とロンドが言いました。
「陸における蜃気楼のような町…追っても追っても追いつかない、幻のような町があったということだ。偶然その町に辿り着いた者は、幻を見せる巨大な魔物に食われてしまったというお話なんだが」
 誰かがそっと唾を飲み込みました。いかにもあの町は、大国も隠すことに協力したとしても、長い間幻のように閉じられ、巨大な怪物を地下に潜めていました。
「幻の町は、金銀お宝どっさりなんだと。魔物は、それを守っているわけだ。いや、それを餌にして、獲物を待っているか。もしかして、あんたの町が、その話のモデルになってるんじゃないか?」
 そんなはずはありません。たかだか三百年の歴史を持つ町は、それ以上の年月を経て残る昔話など先駆していません。しかしイアリオはその話に乗っかりました。
「じゃあ私は?その町から出てきた私は、蜃気楼かしら?それともあなたたちをおびき寄せる、魔物の釣り針?」
 イアリオはオグが霧の魔物だということを思い出しました。あの靄は、彼の体でしょうか。だとしたら、もう町は、彼の支配下にあるということです。彼の内部の、激烈な感情に、悪意に、町全体が包まれてしまっているということです。
「いよいよやばいぜ、こりゃあ。不自然過ぎる!まして、気味が悪過ぎる。俺も覚悟していたもんだが、背筋がぞくぞくするぜ。こうなったら、一生のお願いというヤツを叶えてもらえばよかったな」
「今からでも遅くないんじゃない?私を抱く?」
 素早く、相槌のように、ロンドに彼女が応えました。ロンドの気色が変わりました。彼もそうしたいと思ったことがあったのです。
「やめてくれよ、イアリオ!どうしてあんたはそんな挑発を!悪くないと思わせるあんただから、そんなこと言うな!」
 ロンドの慌てた様子に、皆が笑いました。ぞくぞくとしたものが、全員の肌をしつこく取り巻くようだったのですが、オグという魔物があの町の下にいるということが、こんなにも分からない焦燥と不安を掻き立てるものなのかと彼らは思わせられたのですが、皆が落ち着きを取り戻しました。
「さあ、いよいよ明日、私の約束の日よ。付き添いに、誰が選ばれる?」
「俺が行く。これは間違いない。そして他に数名、キャンプとの連絡に、間に人を立てることも考えよう」
「私とロンドと、あと一人にして。早馬は飛ばせる?」
「おい、馬を使うのか?こちらの動きがあっちにばれてしまうぜ」
「多分、そうしても影響ない。あっちは、こちらがどう動くかよく分かっているわ。邪魔されたくないだけだから」
 そうでなければ、二人の斥候をわざわざ遺骸にして自分たちに見せつけないだろうと、イアリオは考えました。もしかして、こちらに自分がいることも、向こうには分かっているかもしれない、と彼女は思いました。しかし向こうは何かを待っているのであり、その外側に向かって、仕掛けようとはしていないはずでした。もし、先ほどのロンドの昔話があの町に当てはまるならば、町の人間こそ、餌につられる獲物でした。でも、その餌は、彼ら自身が撒いたもので。
 日付が変わり、夜になりました。真っ暗闇の夜空に星が点々と光っております。何も動く者はないようでした。虫たちもどこへ行ったのか、見かけません。
 星が、物言わず光っています。あれに願いを懸けて、供物を差し出したのはいつでしょう。イアリオは、この夜を懐かしむとともに、いざ赴かなければならない運命に足がすくむ思いがしました。そして、あの街は、これほどまでに怖いものだったろうかと思いました。彼女がこれから行くのは北の墓丘でしたが、そこはほとんど地下都市と同じでした。彼らの、町人の焦燥と恐怖が、地面の下に埋もれてしまった人々を形だけその場所に閉じ込めたのです。いつか、天井の星々になった御先祖が、見返してくれますようにと。しかし見返さなければならなかったのは、現役の彼らでした。子供たちが、遊びに沈んだ地下の街。彼らの祖先が、置き去りにした都。無数の霊たちが、今もいる墓。その呻きが閉じられた所。開かねばなりません。それはよく分かっていました。
 だから、足がすくむのです。墓を開くのは自分を開くのと一緒なのです。それが、オグなる魔物を自らに潜ませるようになった、人間の感覚でした。
 イアリオたちは馬を飛ばしました。もし、あの丘に何者かが待ち伏せしているなら、馬の方が逃げ足が速いでしょう。覚悟はあるもののまだ命は惜しいものだと彼女は思いました。それに、仮にレーゼたちが待っていて、そこで町の情報が得られたとしたら、できるだけ早く検討したいと思っていました。オルドピスに何らかの援助を求めるならば。
 イアリオは、丘の麓に馬を置き、約束の場所へロンドたちを後方に控えさせて近寄りました。右に、左に、小山の間を縫って、どきどきとする心臓の音に喉を突かれながら、人影を探しました。すると、墓丘の影に、隠れるようにして、一人の姿が、闇にぼんやりと浮かび上がりました。向こうはこちらに気付いてないようです。彼女は小さな松明を用意していました。町からは気づかれないほどの明かりを灯す、大国最新式の灯です。
 彼女は、その影がレーゼかハリトだと信じて、火を付けて、前進しました。ちり、ちり。闇を小さく焦がし、蝋燭ほどもない炎がイアリオの前方に差し出されました。彼女は、ごくりと唾を飲みました。うつむいていたのは、レーゼでした。
(ああ、なんて…!)
 彼女にはこれがまるで神にでも用意されたかのような場に感じました。必然的に、ここでの再会を、誰かに仕組まれたかのようでした。愛しい人…!愛しいと分かってから初めて、彼女は彼に会ったのです。こんなにも暗い、憂鬱な場所で!
「レーゼ…?」
 彼女は呼び掛けました。すると、レーゼは、つらそうに顔を上げて、彼女と目を合わせました。暗がりにも彼の瞳孔が開くのが見えました。その表情は、紛れもなく、好いた女性を認めるおぼつかなげな破顔でした。
「どうしたの、何が、あったの?」
 イアリオは彼の顔を覗き込みました。彼の焦燥と不安は一目で分かりました。でも、やつれて見えるその頬は、感情でふっくらと広がった気がします。
「分からない。でも、怖い…ハリトが…」
「ハリトが?」
「ハリトが…」
 彼はひざを崩し、突っ伏しました。彼女はロンドたちと、彼を馬の鞍に揚げて、急いでキャンプに引き返しました。

 レーゼが目覚めると、彼の愛しいと認めた人がいました。彼女は心配そうに彼を覗き込んでいます。
「ああ」
 彼は上体を起こそうとしてぐらりと傾きました。そして、また草の上に頭を埋もれさせました。イアリオは優しく彼の頭部を持ち上げて、自分のひざに乗せました。町の誰もが知っている、子守唄を歌って、彼を安らがせました。レーゼは再び目を閉じました。それから一時間ほどが経って、また目を覚ますと、空が信じられないほどに澄んでいました。彼は蒼穹とイアリオの顔とを見比べました。どちらも同じようでした。今、自分を覗き込んでいる者は。
 一方で、イアリオは、膝に抱くこの若者を、躊躇せずに、撫でました。彼が安らぐように、癒されるように、手の指でそこをなぞる度に、彼女の頬は薄く朱色に膨らみました。それが願いだったように。彼女の意図していない、認識したことのない、願望だったように。傍で草木が踊っています。爽やかな風が通り過ぎています。
 レーゼは彼女と目を合わせました。すると、自分をまっすぐに見る眼の中に自分の顔が映し出されました。彼は、体の芯から、自ずと叫ぶ声を聴きました。彼にはとても出せないような大声でした。
「レーゼ、どうしたの?」
 その時の彼は、真っ赤に上気していました。全身がぐっしょりと濡れてしまったかのようでした。彼の体は汗ばみ、震えました。それを、イアリオはひどく怯えているような、心の痛みを覚える表情に見えました。
「ルイーズ=イアリオ」
 彼は彼女の名前を口にしました。今度は今の体が熱くなりました。その前はまるで彼の過去世が汗をかいたようだったのです。
「帰って…来たんだね」
 彼はようやくほっとした顔になりました。目の前の女性はあやまたず今世の彼の憧れた人間です。
「ええ、私たちの約束だもの、少々大変だったけれどね」
 彼女はにこりとして、ウインクしました。
「あなたが死ぬとは思えなかった。町にも、あなたの消息は来なかったけれど、オルドピスには無事着いたのか?」
「ええ、勿論。何?この私を、信じてなかったの?」
「そういうわけじゃないんだが…ああ、とても安心した。こうしてあなたに再会できて、とりあえず、俺も約束を破らずに済んだから…」
 そう言うと、彼はまた目を瞑りました。
「…よく眠りなさい。気持ちいい?私の膝の上」
 彼は眠りに落ちながら、こくりと頷きました。彼は、夢の中で真っ白い光の束の間を滑るようにして進んでいました。あちらの方角には、未来があると感じました。その向こうで、白円(びゃくえん)が暗黒の中を渦巻き、銀河のように流れていました。彼はそこへ飛び込みました。ある一つの星を目指して。彼は星でした。空に瞬く夜の星でした。けれど、彼は彼方から見下ろすこの地球へ、飛び降りたいと思ったのです。青く輝くその大地へ。
 赤ん坊の姿で。…その大地に、始めから独裁者になろうだとか、良き妻になりたいとかいう理由で、降りて来る者などいるでしょうか。始めは、皆、赤ん坊なのです。誰でもが…。
 彼は、乳を呑みました。こくり、こくりと呑みました。彼は笑いました。彼はつかまり立ちをしました。彼の体はぐんぐん成長しました。自分の町に、噴水を造りたいと思いました。彼は、生涯を賭して愛したい女性を発見しました。一体誰?母親、ハリト、それとも…?
 彼の力強い腕が、誰かを掴まえました。誰かは、優しく、彼の額を撫でました。そうして彼は再び目を覚ましました。
「レーゼ?」
 この時の心の衝動を、レーゼは認めたくありませんでした。いいえ、何かが力尽くで、彼に認めさせようとしたのです。だから、彼はそれを否定しました。
「ああ、イアリオ」
 彼は冷静を装い、彼女に感謝して、体を起こしました。
「大丈夫?」





 彼は叫びました。思った以上の自分の声に、彼自身ぎょっとしました。慌てて、彼は笑顔を繕いましたが、きょとんとしたイアリオの顔に、涙が浮かびました。
「ごめん、突然、何だか…変なことを言って」
「大丈夫よ」
 彼女はそう言って微笑みました。
「とっても怖い夢でも見ていたの?」

「エアロスって、何なのかしらね。こう、その名前を唱えただけで、何か起こる、力が宿りそうだけど」
 イアリオは、木の根に腰掛け、隣に座るレーゼにそう言い掛けました。二人は、ベース・キャンプ近くの木立でゆったりとしました。兵士たちもイアリオも、彼らの情報源と目されるレーゼから話を聴くのは、彼が回復して落ち着いてからと思いました。
「クロウルダの人たちが言ってたわ。オグには、二種類の移動方法があるって。一つは単なる棲家の移動。そしてもう一つが、エアロスによる消滅なんだ。彼らは移動と言った。生まれ変わることを望んで、レトラスという、霊たちの流れに乗ること…すべての霊魂と、同様の循環の輪廻に戻ることを希望すること。ふふっ、消滅とは何だろうかと思うわ。彼らは移動と言っていたけれど、もしかしたら、移動したものと思い込みたかったのかも」
 イアリオはとりあえず彼と共有している知識の周りから、自分が大国に行って何を学んできたか、少しずつ話しました。オグのこと、クロウルダのこと、その二つがどんな歴史を辿ってきたかを、優しく、明確に、かつざっくばらんに、彼に説明しました。勿論、疲れ切った様子だった彼の具合をよく見ながら。レーゼはまるで彼女の授業を受けているようでした。二人は先生と生徒として学校では出会っていませんでしたが、さながら冒険の途上では、そうした関係性を持ってもいました。
 ですが今はそれだけではありません。ここに、惚れた女性がいることを彼は認識しています。彼女の町から出た後の冒険は、彼が知りたいことであり、彼女の授業でも時々覗いた彼女の人間性は、申し分なく彼の心を打つものでしたが、今も、彼女の語る説明そのものが、大好きな人間のありのままの姿として、彼を、捕らえて離さないものでした。
「私はこう思うの。多分、だけれど、オグはきっと人間に戻るんだわ。消えて、消滅して、人に戻るの。多分。でも、それは、人にはどうしようもないことで…彼にもどうしようもないことで。動くんじゃない。なぜなら、その周りの生きている人間も彼と同じものを望まなければならなかったんだもの。彼ではなかった人間も移動するんだろうか。移動して、霊の流れに乗るんだろうか。クロウルダの言うように。
 還るんじゃないだろうか、と私は思う。彼らは、ただ、還るだけ…ああ、何言ってるのかよく分からないわ。自分でも。でも、それがとても、恐ろしいわ。きっと、それが、これから起きようとしているから」
 イアリオは哀しげな顔をしました。そして言葉を切り、沈黙しました。
「分からない…」
 彼女は呻きました。その言葉通り、「分からなかった」のではありません。
「どうしてそれが分かるのか分からない。もうどうすることもできない。人間の無数の悪意が、あの魔物には宿っている。それが、消える?その現象が起きた現場を、私は見たわ。ただ崩壊していた。街が、まるごと、崩れていた。私は、世界中をオグを巡る旅をしてきたの。彼女が、いかに恐ろしい怪物か、目の当たりにしてきた。だから、私は戻ってきた。この場所に、自分のふるさとがある所へ。それは自分だから。自分から出たものが引き起こしたものだと、思ったから」
 レーゼはただうつむいて聞いているように、イアリオには見えました。力なく、うな垂れているように。しかし何かが動いて見えました。彼女は言葉を続けました。
「見届けるために、私は帰ってきた。自分のオグが、どうなってしまうか!あそこには私から分かたれたもう一人の私がいるわ。いいえ、私だけじゃなく、皆のものが。歴史が繰り返されようとしている…でも、多分、それは前進でもあるの。言ってること、分かる?ううん、先を急ぎ過ぎた説明になっているね。オグについて、もっと詳しく話すべきことが多くある。なぜこんなことを言っているんだろう。先を、急ぎ過ぎているわ。
 ううん。残念ながら、はっきりと、分かっているから言っているんだわ。分からないけど、分かる。私はこの町が自分で決断を下そうとしているように思えた。私自身は、オルドピスへ援助を求めることができた。できるだけ、町人を逃がそうとすれば」
 彼女は淋しげに言葉を打ち切りました。そして、判りたくはなかったなどと、荒唐無稽なことを思いました。
 レーゼは無言のまま彼女の話を聞いていました。そして、風が薫るのを鼻腔を通して感じました。
(俺はイアリオと離れてはいけなかったんじゃないか)
 レーゼはうつむいて、自分の中からの言葉を聴きました。
(あいつは、それを知っていたんじゃないか。シオンは。あいつがなぜ俺を誘惑したか…そして、どうして俺を裏切ろうとしたのか)
 彼はにわかに分かりました。シオン=ハリトはまるで鏡でした。彼の。そしてそれまで聴いたイアリオの話は、全て、そこにつながっているようでした。確かにそうでした。彼から分かたれたもう一人の彼は、白霊となって、未だにこの世を彷徨っているのです。彼女から、離れてしまったから。
 その強烈な想いは他者を動かすほどだったのです。誘惑されたのは実はハリトであって、彼ではありませんでした。裏切りを働いたのは彼であって、前世たる彼であって、そして現在の彼でした。ということを、彼ははっきりとは認識せず、おぼろげに、印象として今は浮かんでいるのでした。それが、彼女の話を通して、彼にハリトを思わせ、ハリトが自分の鏡のようになって映っていたのではないかと気づかせたのです。
 オグは、人から離れた、人自身です。また、前世の遺恨も。
「私、旅先で何度もあなたたちの顔が浮かんだわ。私、それで…それが、苦しかったの。でも、ありがとう。おかげでここまで来れたわ。ここまで来れてしまった」
 彼女はまた先を急ぎました。皆まで説明していませんでした。感謝を先に言ってしまったのです。感謝の前に、彼女は感じたものがありました。たっぷりと、町を出て、その衝動に、自分が揺さぶられていたことを、明白に、目の前の彼に向かって提示したなど彼女は考えませんでした。
 その感謝の前の余白はあまりに大きな空白でした。どれだけ彼女がレーゼたちのことを思いながら、旅先で苦しんだかを伝えました。そして、レーゼは彼女への憧れは自分だけのものだと今も考え続けていました。彼は彼女から彼女の気持ちを聞いたことがなかったのでした。
 ところがその空白はどういった意味があったでしょう。余白はただ彼らと彼女の冒険の日々だけをあまねく引き連れたものだったでしょうか。それならそこに、あの少女もいるはずでしたが。ここには彼だけが
 いたのです。彼は顔中が熱くなりました。イアリオはちょっと口を閉ざし、何が面白かったか、くすくすと笑い出しました。
「何言ったの、私?今?…やだ、何だか、体が熱いわ」
 彼女は襟元をばたばたと仰ぎました。体中がかっと一挙に熱を持ってしまい、制御不能になったかのようでした。レーゼは涙を浮かべました。しかし、それは決して、彼女には見せないようにしました。
「レーゼ。ちょっと、膝、貸してくれない?」
「えっ俺の?」
「私も眠っちゃいたいの」
 お返しにいいでしょ、と彼女は言いかけて、やめました。何て馬鹿なことを、と反省したのです。
「はは、冗談よ」
 その言葉は偽りでした。だから、彼女は言葉を継ぎ足しました。
「今じゃなくて…もうちょっと、後でもいいなら…」
 レーゼは、彼の心臓が高鳴りました。高鳴って、止まらなくなりました。
 近くに川がありました。森の中を縫っていく細長い川です。イアリオはレーゼをそこに連れて行きました。ロンドたちはレーゼが眠っている間に現況を山向こうの砦に伝え、キャンプに物資と、守護隊の応援を募りました。
 冷たくて気持ちのいい川の水は、そして何より大好きな人間がそばにいることが、レーゼに圧し掛かっていたものを洗い落としていきました。彼は川の真ん中で立ち尽くし、自分の両手をじっと見つめました。この手でハリトを抱いたはずなのにと思い、イアリオを、不思議な眼で見ました。彼は戸惑っていました。どちらが本当の自分だろうと思いました。大切にしたいと思ったのは前者でした。しかし後者の存在は圧倒的に大きかったのです。両者の違いは際立っていました。もし、ハリトがもう一人の自分とするなら、恋人はまるで彼自身を抱くように抱いていたことになります。それがどれほど彼自身に裏切りを重ねたか、彼は分かりませんでした。彼はまだ相手が彼を裏切ったと思うほかなかったのです。
 彼は、ハリトを好いていたでしょうか。ハリトのどこを、好いていたのでしょうか。まだイアリオと会う前は。そして、イアリオと出会った後に、重ねた冒険の最中は。レーゼは、いつのまにか熱っぽく傍で水を跳ね散らかす女性を見つめていました。彼の憧れの人、彼が本当に抱き締めたいと思った女性を。彼は、自分を愛するように、彼女を愛しているのでしょうか。彼は、自分の映し鏡として、彼女を見つめているのでしょうか。
 ロンドは遠くから二人の様子を見守っていました。彼は、もう決してイアリオに欲情したりしません。他の女なら別ですが、彼は自ら、彼女の守護者となる宣言をしたのです。当然現在は彼女とは期間限定の主従関係のような契約を結んでいました。
(あの人はまるで自分の婚姻相手を探しているようだったな。もしかしてその中に、俺も入ってたかもしれないが)
 ロンドは不思議な気分になりました。
(いや、オルドピスの誰もが、彼女にそう見られていたんじゃないか?独り身で、こんな旅をすることもないだろう。いくら町一つ背負い込むようなつもりだったとしても。いつだってやめられたはずだ。女なんだからなあ。でも、イアリオは戻ってきたわけだ。彼女に課せられた使命をやり遂げて。大したもんだよホント、でも、あいつに旦那ができたら俺は喜ばしいなあ。ああ、複雑だが、何とも)
 ロンドは川岸から離れ、少し歩いた所の木陰へ隠れました。丁度その時、イアリオが手ずから魚を捕まえ、レーゼに見せに行きました。
「ほうら、大きいでしょ?」
「うわ、凄いな!」
「レーゼもほら、持ってみなよ!」
「どうして!イアリオが持っときなって。暴れて無理だ!」
「きゃっ」 「うわっ」
 バランスを崩したイアリオが、魚を放り投げて、レーゼの上に乗りかかる形で、水に倒れ込みました。ばしゃん、と音を立てて、魚は水影に消えてしまいました。川の流れだけがちろちろと心地よく響くだけになって、二人は、ずっと近くで互いを見つめ合いました。
「私、二十八歳になったの…こんなオバサン、もらってくれる人って、いるのかしら?」
 先ほどから高鳴っていた鼓動は、これ以上ないくらい、喜ばしく騒ぎました。
「ハリトがね」 「ん?」
 彼は思わず本心とは違う言葉を漏らしました。しかし彼はまだイアリオに十分に積年の想いを伝えられませんでした。
「ああ、違う!」
 レーゼはざばりと起き上がると、川床に座り込んで、空を仰ぎました。
「…ハリトがね、色んな男連れて、遊んでいたんだ。俺は、あいつのことが好きだけど、いつからか、あんたがいなくなってからさ、あいつ変わっちまって、どうしたらいいか分からなかったんだよ。天女の言葉もある。俺の夢のこともある。でもあいつ、何もかも耳に入んなくなって、ただ愛してくれ、もっともっとって、そればかり。
 それでも俺はあいつが好きだった!今でも!だけど、俺の心がもたなかった。俺は一時的に療養することにした。町から離れた農作業の休憩所を借りてね。そうしているうちに、町では、暴動が起きた。暴動って、何?なぜあんなことが起こるんだ?起きたんだ?」
 彼は、いつしか泣きながら話していました。
「いつか、あの町に噴水を造ることが夢だった。平和なあの町に、人を喜ばす、シンボルが欲しかった!それが俺の夢だった。あいつを大事にすることも、同じくらい、夢だ。けれど、俺は逃げたんだ。もう全部が、怖くて、怖くなって、疲れて、耐えられなくなって。俺は逃げたんだ。強くなかったよ、俺は。あんたほど強くなかった。イアリオが浮かぶとほっとした。すごく頼りになる存在だったんだ、あんたは。俺たちの要にあなたはなっていた。でも今は…」
 レーゼはイアリオの方を振り向けませんでした。そうして、三年前に気づき、その自分の本当の気持ちを、強く、大きくすることが怖かったからです。
「今は…」 「今は…?」
 イアリオが訊きました。でも、彼女はレーゼが言葉を続けなくてもいいと思いました。
「レーゼ、名前の交換をしようか?」
 ふいに彼女がそう言いました。びくりと彼の肩が跳ねました。彼は大人しく従いました。イアリオもどうしてこんなことを提案したか、分かりませんでしたが、ピロットにねだった時とは違う、自然の物言いだと思いました。彼は彼女を向かず、向き合うと、互いの手を、互いの帯に差し込みました。そして、二つの名前を呼び合いました。
「もう大丈夫?」
 彼女が訊いてきました。あまりに正面にあるものの存在が大きくて、彼は、むせ返りました。頭から爪先までが、一挙に引っくり返ってしまったようになりました。いいえ、引っくり返っても彼は彼のままで、本当の思いを言うことは未だに怖いことでした。ずっと、正直になれない気持ちを引き摺りながら、人はどんな人間でも自ずと心の壁を作り出してしまうようです。がんじがらめの言葉の城壁を堅固に築き、その中に、本当の自分ではない偽者の自分を、安住させてしまう。でも、本当に守られているのは真実の自分の心です。人は、それに気づきたくて、気づけない、どうしようもない存在でしょうか。だから、人間と会うのだとしても。人と人との間にいる人間として。
「ああ…心配かけて、しまったね。イアリオ、いや、その…ルイーズ…彼らはオルドピスからの救援隊なんだね。俺が、今の町の現状を説明するよ。大分もう進行しているけれど…オグは、霧になって、夜中町を徘徊しているんだ」

 レーゼはオルドピスの兵士たち、そしてロンドとその剛健な仲間たちに、町の実情を説明しました。彼はかかりつけの医師から農園に離れながらも色々な話を聞いていました。夢は、もしそれが心地よいものなら、醒めて欲しくないものです。しかし、現実を夢に喩えるなら、それは幾重にも変わります。それが悪夢なら、誰もが醒めて欲しいと思うでしょう。
 彼の、話はそのようなものでした。天女の言葉の、一つが実現されたのです。
「夢ならば覚めてほしいと思うだろう。きっと、人間の記憶も損なわれてしまうのだから。これからあの町に起くるべきことを知れば、その時には」
 …………。
「町中が縄張りを主張し合って、戦争しているだって?そんな馬鹿な!」
 ロンドが叫びました。イアリオがそれを制止しました。
「待って。レーゼ、それがなぜ起きたか、分かるの?」
「…多分。ああ、でも、イアリオ以外には皆さんには難しい話かもしれない」
「それでいいんじゃないか?俺たちは、イアリオの命令に従うんだ。勿論、トラエルの町から逃げ出してきた人々を匿う役目もあるが」
「…そうだね。オグのことはもう、皆知っているんだったね。彼が、暴れ出しているんだ。結局、誰がどんな風に何を仕掛けたかなんて分からない。具体的に人が何かをしなければこうしたことにはならなかったと思う。その人に、彼が囁き掛けたんだ。俺はよく知らない。そうしたことが起きたはずだということ以外は、はっきりしない。だけど分かる。俺は、イアリオも、あいつに会っているから」
 彼は木の幹に体を預け、上空を見上げました。
「だから、どうしようもなかった。あいつ…とても孤独だったんだろう。とてもとても孤独で、周りをすべて滅ぼそうとするんだ。それでいてあいつだけ生き残ってきた。あいつの孤独は、あいつが生み出した地獄だったように思う。人の傍から離れられやしないで、暗がりで、生きている。
 でもあいつ、それももういいんだと思っている気がする。だから俺たちに牙を剥いた。俺たちの中にある絶望に呼び掛けて、今まで町が、ずっと守ってきたことを反故にして、俺たちの悪を刺激している。それは多分、あいつの中にあるものと一緒だろう。あいつがよく知っているものを、俺たちに見つけて、急かしているんだ」
 レーゼは、先ほどイアリオからも聞いた話から、自分の印象を伝えました。町の印象は、彼にはもう、すっかり霧の魔物に包み込まれた魔の世界に思われました。それは彼が、かつてハルタ=ヴォーゼという女性を前世に持っていたからかもしれません。彼はそれを思い出していませんが、今際の際、彼女はかの怪物に襲われた町の姿を見ているのです。
 彼は悲しくなりました。まるで自分の恋人についても、言っているようだったからです。
「オグは普通、人を一人か二人しか喰わないものだと、クロウルダは言っている。それが、あの霧がかった町を見て!今、すべての町人が彼の支配化だわ」
 イアリオが叫びました。
「オグは人を食べると移動する。彼が動く時町や村はなくなってきた。今度は私たちの町がターゲットだということだけど、普通じゃない食べ方を今しているってことだわ。皆、よく聞いて!オグは、自ら滅びようとしているわ。彼はよく知ったの。自分がどんな存在か、自分が何をしてきたか。そのために、大勢の犠牲を共にしようとしている。彼は一人きりじゃ救われないの!生まれ変われないの。生者も彼と同じことを願わなければいけない。今、彼に唆されてだけど、町の人間たちもそのために動いているようだわ。一緒の町に住んでいた人間が互いに憎しみ合うなんてないことだもの。今までずっと私たちはどうして暮らしてきたかしら?それを忘れて、忘れてしまって、オグのようになっているんだわ」
 それが「人間の記憶も損なわれてしまう」こと?イアリオは、天女の文言を思い出しながらしゃべりました。
「皆は彼に唆されないで!彼と共に何かになっていくのは私たちだから。トルムオの判断は正しかった。私たちは不干渉をこそ願った。これは私たちの問題、漸進する課題なんだと思う。でもね、きっといいことが明日には起きるわ。だって、このことが私たちを必ずしも滅亡させることにはならないもの。私たちは、三百年前に同じような目に遭った。そして生き残った。
 歴史は繰り返される、多分、恐らくまた生き残る者がいるんだわ。それが大切だわ。私は彼と、町に行く。あなたたちはついていかないでちょうだい。勿論死ぬつもりなんてないわ。けれど、あなたたちが町に入ることは、今許されていないから。これが私自身の選んだ道として、あの町の経過を見ていかなきゃならないの。どうしても」
 皆、真剣に彼女の話を聞いていましたが、一人ロンドだけ、大きく肩を震わせていました。
「死にに行くようなものだ!それが望みか!」
「そんなことないわ。だけど、私の守りは必要じゃない。ロンド、あの魔物に守りはないわ。ずっと、私たちがそれを剥いできたの。彼には守り神がいない。私たちも、同じだ」
 イアリオの表情は決して晴れていませんでした。まるで死を望みに行くようにしか、ロンドには見えませんでした。
「ふざけるな。あんたは俺たちが守るっ」
 彼は彼女の肩を掴みました。
「この場にいるどれだけの人間があんたを慕っているか。皆あんたを好きになっちまっている。あんたのふるさとはあそこかもしれないが、今ここにもあるだろう?」
 しかし、当然のごとく、彼の言葉は裏腹でした。
「俺たちは待っているぞ。必ずイアリオが、ルイーズが、あんたにしかできないことをやり遂げて、俺たちの前に帰って来ることを。俺たちはあんたを尊敬している。ただ待つようなことを、俺たちはしないっ」
 彼は全員が思っていたことを代弁して力強く言いました。未来、彼はこれから、一国の主になって、偉大な王になっていくのです。彼こそ、民衆の気持ちを理解して民と共に生きていこうとする立派な為政者たらんと努めました。ルイーズは彼に任せました。彼を信用し、事後を、彼の判断に託すことを心に決めました。

 トーマ=ヨルンドは、大工の息子でした。彼は、十五人の仲間だった時、あの土蔵を打ち壊したハンマーを持った人間でした。
 真っ先に彼があの大量の人の骨を浴びたのです。彼は気を逸して、倒れましたが、ちらちらと燃える灯に映し出された頭骨の暗い眼窩に、悲鳴を上げると、その勢いで町に帰ることができました。
 彼は、トイレなどで時折動けなくなりました。狭い場所で、一人ですすり泣くこともありました。ヨルンドは、すっかり弱虫になって、周りから苛められることがありました。元々彼には興奮すると言葉がつっかえてしまうハンディもあって、彼はからかわれやすいキャラクターでしたが、元は純朴清廉な人間で、人から嫌われることなどはありませんでした。
 ですが、彼には人には言えない悩みの種がありました。夜中に失禁してしまうことがたまにあり、その臭いを、起きても体にたっぷりと付けてしまうのです。いいえ、彼は自分の臭いに敏感になって、朝、自分の体を洗わなければ気が済まないようになっていました。彼は家の職業を継ぎ大工の仕事に精を出して、誰もが感心する働きぶりを見せました。彼は何より仕事が大好きでした。余計な事を一切考えなくていいからです。でも、彼には友人がいませんでした。かつての十五人の仲間以外に、彼が気安く話せる人間はいないのでした。…彼には、恋人がいました。しかし、まだ、結婚はしていません。恋人には夫がいました。子供も産まれていました。彼はよく恋人と北の森の泉へ散歩に出掛けました。恋人の家族と一緒に。ヨルンドは彼女が好きです。彼女の伴侶も好きです。彼らの間に産まれた、二人の子供たちも好きです。彼はまるで彼らの、従者でした。それでもヨルンドは幸せでした。
 このような関係にある人々は、トラエルの町でも珍しくありません。彼らは必ずしも一夫一婦の家族形態は取りませんし、夫婦間にない子供をつくることもままあります。彼らの恋愛様式は自由でした。嫉妬や支配欲がトラブルを起こすことがあっても、それは「町のルール」に従っていれば大目に見られることでした。彼らはすべて役割を持つ人間です。
 ですが、今やこの「ルール」は意味をなさなくなり、町の中で許されていた自由は、混沌に取って代わられました。ある日、ヨルンドが、恋人の家に向かった時、彼女は裸足で自殺していました。何があったのか、慌てふためいたヨルンドは後ろから誰かに殴りつけられました。彼は、失禁をしました。目が覚めて、自分の大工仕事をやらねばならないと思い、彼は体を動かしました。しかし、手足は縛られ、口にはさるぐつわを噛ませられ、身動きが取れませんでした。身の上に起きたことを理解しようと首だけ回してみますと、一人の青年が、家の中でうろうろとしながら口を開け、異常な顔つきになっていました。
「ああ、起きたか。とんだ泥棒猫めが!」
 ヨルンドは彼に足で蹴られました。彼は恋人の旦那でした。見違えるほど表情は険しく、はあはあと荒い息を自分の拳に振り掛け、彼に殴りかかろうとしていました。
「俺の息子が、こんな馬鹿なはずがないだろう。お前が、あいつと通じてしまったからこんなのが産まれたんだ!俺の息子なのに。こんな頭の回らない奴がな!」
 確かに、彼の子供は生まれつき頭が悪く、物覚えがままなりませんでした。それを、彼はヨルンドのせいにしたのですが、昔から彼がその可能性を考えていたとしても、ヨルンドにはいきなりのことでした。ヨルンドはすでに自分の体があちこち蹴られたり殴られたりしていることに気がつきました。鈍い痛みが体中を覆っていたのです。起きたヨルンドは、彼に思いっ切り殴りつけられ、思わず自分の親に助けを求めました。
「呼んだかい?」
 すると、閉じられていた入り口の扉を開けて、救いの手が現れました。
「あらら、ひどいものだねえ。お前、最近見なくなったと思ったら、こんな所にいたの」
 カルロス=テオルドが戸口に立っていました。
「警備隊も散々さ。皆がこぞって争い出すんだもの。まるで、今まで隠れていたものが噴出したような騒ぎさ。いくら対応したってきりがない。まあ、ヨルンドをこうして見つけられたんだ。よしとしよう」
 テオルドはヨルンドのさるぐつわを取り、手足の縄を解きました。
「行こうよ。もうこの町は駄目になった。終わりさ。僕がそうした。僕がそう決めた。いいや、皆がそう決めた。
 トーマ、お前に力を借りたいんだけど、いいかい?」
 ヨルンドは手の痺れを感じました。それは固く結ばれた縄のために滞っていた血が、また流れ出したために感じたものではありませんでした。待望した救助の手が、期待通りのものではなく、まるで正反対のもののような、切羽詰まった危険を身に感じたのでした。
「さあ、行こう」
 そうに違いありません。テオルドは周到な準備をして、彼を迎えに来たのです。ヨルンドはテオルドに肩を貸してもらい、引き摺るようにずるずると足を運びました。彼はちらりと恋人の旦那の方を見遣りました。彼は椅子に座り、じっとうつむいていました。こっちを見ようともしませんでした。この時、すでに彼の体には毒が回り、彼は死んでいました。テオルドが飲ませたのです。椅子の傍にあるテーブルに、半分飲み干された水入りのコップが置かれていました。ヨルンドは子供たちはどこだろうと思いました。普段彼らが遊ぶ納戸の奥を見遣っても、姿も声もありませんでした。
 彼はテオルドに北の泉のある薄暗い森まで連れて行かれました。ヨルンドはそこまで来てようやく自分の足で歩けるようになりました。行き先をうかがうと、密集した木々の枝を伐採した跡が道になっており、彼らはそこをくぐっていきました。この辺りは町人もあまり手入れしていない自然の樹が群生していて、森の周りからは見通すことができない場所になっていました。しかし人の手で切り開かれ、小さな空き地が群れ集まる所まで来ると、そこに子供たちがいました。数人の大人が付き添い、伐った材木をかまどでいかに木炭に作り変えるか、その方法を彼らに教えていました。
「何を、やっているんだい?彼らは」
 ヨルンドは北の森では見られない光景に、目を丸くしました。
「ヨルンドに手伝って欲しいんだ。ここに掘っ立て小屋を造る」
「どうして?」
「町は今危険だからさ。皆、すっかり浮かれてしまってね。人が死ぬことにそれほど注意しないくらいに」
 彼は地面に落ちた小枝を拾い上げ、ヨルンドの目の前で振ってみせました。
「音がするだろう?繰り返される音は、人間を惑わすことを、お前はよく知っているか?一定のリズムを刻むことで、人は陶酔した気分をもたらされる。…何事も、それとおんなじさ。何もかも、一定のリズムでそれを寄越せば、人は慣れてしまう」
 テオルドの目は冷たく凍えているようでした。色の無い瞬きをして、まるで人外の者のように、彼には見えないものを見ていました。
「俺は、お前が怖い」
 ふとヨルンドは正直な声を漏らしました。いえ、口に出してしまえば、それは、ずっと前から受けていた印象だったような気がします。テオルドはにこりとしましたが、目はずっと冷たく、さらに彼の心を強張らせるものでした。
「ふふ、僕はお前にひどいことはしないさ。トーマは選ばれたんだよ。この町からお前は出てゆくことができる。トーマは、この町と滅びるのにふさわしくない」
 テオルドの言葉は、一定の調子を刻んで、得体の知れない心地よさをもたらしました。ヨルンドはその心地に危険なものを感じましたが、彼の言うことは、嘘がないようにも思いました。ヨルンドは人の言葉に嘘があるとそれを敏感に分かりました。感情の移ろいによく気がつく人間だったのです。この時のテオルドにどんな感情があったか彼にはとても判りませんでしたが、まったく、対面して相手は話を逸らす振りもなく気を逸らすこともなく、真っ当に自分に言ってきたので、彼はテオルドの言葉を疑うことはしませんでした。
「俺の、恋人が死んだ。なぜだろう…お前、分かるかい?」
 しかしヨルンドは淋しそうに尋ねました。すると、木陰から二人の子供がひょこっと出てきて、見つけたヨルンドに駆け寄りました。彼と彼の恋人の、その旦那との、間に育った子供たちです。
「淋しくないさ。決して淋しくない。トーマ、お前の力を借してくれ。ここに子供たちが集まっているが、家を建てるための木を用意しているんだ。彼らのための、家を造ってくれ」

 ヨルンドがテオルドに危険を感じたのはこれが初めてでした。ですが、彼は混乱した町にあっても、きっと大丈夫だという根拠なき丸太のような信念がありました。彼には朴訥とした雄大さがあり、妙に神経質になるところとバランスが取れなくはありましたが、子供たちに慕われる、優しさとそれはなりました。その性質はこれから滅びようとするオグとは大変に相性が悪いものでした。だから、テオルドは彼を選んだのです。
 テオルドは子供たちを警備隊の人手を使って北の森へ連れて来ていました。子供たちもオグが想定する計画にはそぐわない者たちでした。未来を見据える目にはまだ過去は映されにくかったのです。テオルドは彼らが町の未来だと感じました。滅びた町を背負って立つのは彼らでした。今はその意味が分からなくても、余計なことはしないと、彼は感じました。三百年前以来の町人たちのように、もう一度自分たちの破滅を起こさせないために、何かを画策するなんてことは。
 彼は子供たちに作物の世話を頼みました。北の森と町との間にある農園を、切り盛りさせました。その様子は、イアリオたちがキャンプを張っていた所からは丁度見えませんでした。彼は何千人もの子供をここに移動させていて、その世話役に子供たちよりはるかに少ない大人たちを付き添わせていましたが、その多くは片輪であったり働けなかったりする人たちでした。
 世話役を言い付かった彼らはすでに傷つき、保護されていた人々でした。それでも某かの技術を持ち合わせている人々でした。女性もいました。子供たちは女性がいないと不安でした。彼女たちは教師の経験はなく母親でない者もいましたが、今となっては懸命に彼らの面倒を見ました。
 子供たちはテオルドの言うことに大人しく従い農地の世話に励みました。誰かを世話すること、何かを育てることは、人間に生まれてきて何より大事な仕事でした。テオルドは未成年たちにこう教えていました。
「君たちの、お父さんとお母さんは、今皆で一所懸命に働かなくてはいけないんだ。大事件があっただろう?色んなことがあった。奇妙なこと、不安なことが。それで色々と壊されるものがあったから、今忙しいんだ。
 君たちは、しばらくここにいなくてはならない。君たちは君たちで、ここで生活をしなくてはならない。しばらくの間だ」
 ここに来ている女性たちの中に、十五人の仲間だったサカルダの姿がありました。彼女は畜産家の長女でしたが、牧童や農夫の家族だった者は大抵ここに集められていました。彼女は十六年前の事件があって以来、言葉が少なくなりました。それでも彼女は周りに慕われ、頼りにされました。その言葉は一つ一つが重く、意味のあるものだったからです。
 ですが彼女は今怯えていました。十五人のメンバーとして潜った地下で、あの豪邸の倉から無数に飛び出してきた人骨に出会い、彼女は言葉を少なくしたのですが、そのようなことが、現在町中で起きているような気がしたのです。農夫の家族は、男たちがなぜあのように怒りを噴出して憎悪に煽られて、町に立ち向かっていったかまるで分かりませんでした。豊かさがあっちにあり、自分たちは搾取されているのだと言っても、彼らが隣人をどうしてそのように憎むようになったか理解できないのでした。農家の娘たちは皆子供らを守りつつ、囚われたと聞いた男たちの帰りを待つほかにありませんでした。サカルダは、今は警備隊の長であるテオルドに頼る以外にないと思いました。
 テオルドは、彼の部下を使ってオルドピスからの使者をずっと殺害していました。オルドピスのことをよく知らない若者を登用して、町外れの警備に当たらせていたのです。別段彼は外国に町の事情を知られてもいいと思っていましたが、この町がより孤立し頑なになっていけば、ますます三百年前が再現されやすくなると考えていました。外国に介入されるよりは、この町で解決したく思う問題だったのです。
 しかし彼は農夫たちの反乱鎮圧と合わせて、町外れや森の警備を解きました。…今はそんな場合ではないと言ったのです。
「全力をもって内紛を抑えよう。ほら、皆がいきり立ってしまっている。何が原因かはっきりしないが、僕らがここで活躍をしないといけないぞ。子供たちを町の外へ。そこで、少しばかり避難していてもらおう。世話役に二百人か、三百人ほどつかせよう。ああ、それはいきり立っていない人間がいい。そうだな、西区の貧民街に住んでいる連中や、虜囚になった農夫の妻たちがいいな」
 まさに同じ頃、イアリオがオルドピスの兵を連れて帰ってくるなどとは彼は考えていませんでした。しかし、彼らの領土の深いところまでオルドピスの斥候が現れて、大国も何か勘付いていると感じました。彼は外側に目を向けませんでした。ハムザス=ヤーガット、シダ=ハリトの二人を用いて、その反乱に火を注ぐようなことをしていました。誰かが地下の黄金を手に入れようとしているなどといった噂を広めたのは彼らでした。二人はテオルドに命じられるままに、隣人同士にいさかいがあれば互いに家の物を失わせたり破損させるなどして、争いをエスカレートさせました。テオルドに「これは町のためだし、お前たちのためだぞ」と彼らは言われていました。なぜならハムザスも、シダ=ハリトも、この町で滅びる必要があったからです。二人はトーマ=ヨルンドとは違いました。不安と現実を受け止めるだけの器と力がありました。彼らは苦しむことができたのです。それこそ魔物の望むもので、それがあの魔法の扉を開けて混沌の流れへと回帰できる集合的な力になれるのです。つまり、魔法を望むことができるようになるのです。魔法とは、現実にはありえないことを実現する力です。現実を否定したくなければ、それは生み出されません。二人とも、この町にはどこか生き辛さを感じ続け(テオルドによって不安を刺激され続けた結果だとしても)、人骨に襲われた思い出が、自身に破損部分を感じさせました。その体験は地下の街が亡んだ時に人々が感じたものと同期していました。彼らはこれから働くべき魔法の核となる軸に、テオルドによって選ばれたのです。しかし彼らは暴動に巻き込まれていきました。…彼らが「火を熾す」必要がなくなって、かえって人々から火をくべられたのです。
 彼らは、夜な夜な町に霧がかかり、ぼこぼこと瘤のついた影が浮遊するのを見ていました。瘤の内側におぞましい人間の顔を見たり、蛇や、鯉のようなものがそこから体を出していたりしているものを見ていました。彼らはそれに語りかけられていました。
「英雄になりたくないか?」
 二人が渡されたものはいかにもぼろぼろの槍でした。彼らは力に取り込まれました。誰もが認める芸術家になりたい!兄を超えた素晴らしい漁師になりたい!そういった夢に向かって、彼らは個々に努力していたはずでしたが、それになることを彼らは放棄しました。オグの中にあった彼らの前世もそこに影響していたでしょうが、夢を、諦め破滅的な行動に臨むのは古今別段滅多にないことではありませんでした。彼らは
 自らに選ばれたという意識はありませんでした。しかしオグが希望するのは、それを手放した、人間が希望することと同一でした。

 汚い顔の、大男が唇を真一文字に締めていました。その前で、彼よりははるかに背が低いピロットが契約書にサインをしました。
「何百年も前に滅びた海賊が遺した財宝なァ、喰えるもンでもなし、そこらじゅうに吐くほどある小石みたいなものだが、今更そんな冗談で俺たちを吊り上げようとするところが気に入った。だがな、解せないのはそこがお前さんの故郷で、仕事の依頼が「町を壊すこと」だということだ。俺たちは任されたことはやる。前金もしっかり貰ったもンだ。どうせならゴルデスクの鍾乳洞ってやつもご紹介願いたいところだが」
「その気になったら、そうするさ。これで、お前たちを雇う分のカネが足りればな。何もあの街にある黄金を寄越さんとは言わないさ。俺は、ただお前たちに付き合って欲しいだけだよ」
「カハハッ」
 歪んだ顔の盗賊は唾を撒き散らして笑いました。
「いつの間に俺の子分たちを懐柔した?お前さんは悪に魅入られ、悪に祝福されている。小僧どもがやる気満々だからな。こんな契約書など人が詐欺にしか使わん。だが意味があるように感じる」
「人間の結びつきが、俺は嫌いなだけだよ」
 ピロットはいびつに笑いました。
「これは、自分との契約みたいなものだ」
 彼は恐ろしい盗賊たちを仲間にしました。その目的は盗賊の語ったことでした。しかし彼はその契約の前に契約した相手方の盗賊たちの幾人かを自分の町へ引き入れていました。彼の計画は着々と進みました。もはやそれは単純になったからでした。
 地下都市を囲う偽りの岸壁を海の上から遠く眺めて、ゆっくりと彼は笑いました。いよいよ、始まるのは彼の最後のチャレンジでした。彼自身が、幼い頃からずっと繰り返していた、誰しもの中にある悪を背負った、自分自身との戦いが。

「じゃあ、行くわ」
 イアリオはキャンプで待つ人々に向かって羽のように言いました。男たちが心配そうに彼女を見つめています。
「何でそんな顔をしているの?ロンドなんかは知ってるはずよ。私が、武道家だって」
「だがなあ、やっぱりレーゼさんと二人だけで行かせるのは…」
「いいこと?オルドピスは始めからそのつもりなのよ。いかなる影響も町の外へ出すことを拒んでいる。何かが流れ出すことは知っているけど。私はこの町へ戻ることが目的だった。あなたたちの国を巡って、オグを巡る旅をしてから。ここまでなのよ、本当は、あなたたちの役目はね。でも、私のこと心配してくれて嬉しいわ。必ず戻ってくると約束するから、事後はよろしくね」
 彼女はロンドの手を握り、そして周りを見渡して、笑顔をつくりました。彼女と目を合わせる人間はあまりいませんでしたが、この女のことを、無鉄砲であるとかわがままであるとか考える者はおらず、その強い意志に彼らは上から槌で打たれたような心地になっていました。
 ロンドはもう何も言いません。彼がもうおどける必要はなくなりました。彼もまた大きな意志の流れを感じていました。やるべきことは自ずと判ったのです。その日は雨が降っていました。煙るような雨で、霧のようでもありました。陰鬱な空の下を、イアリオはレーゼと共に町へ向かっていきました。最も人に見つかりにくいルートと、最も目立たないような動き方を、二人はオルドピスの兵士に指導されました。とにかく町からみて勾配の上に当たるこちらから、坂の下方にいる者たちに見つからないようにするには、伏せて歩かねばならないと言われました。そして、立ち止まったり蛇行したり、一定の速度で向かうべきではないとも教わりました。できるだけ物陰に隠れながら、慎重に、時間をかけて行くように。彼らがキャンプを張った辺りから町まではおよそ歩いて三日から四日かかりました。二人は途中まで深夜馬を飛ばし、ほとんど北の墓丘に先日至ったのと同じ道のりを辿りました。墓丘から町に向かうにはどうしても目立つため、丘陵地の東を回り、湿原も迂回し、穀倉など建物の多い区域から白き町へ入ろうとしました。そこから先は、彼女らの町人としての経験も生かし気をつけねばなりません。オルドピスの兵士の言う通り、二人は緩やかな勾配となっている穀倉からの行程を慎重に進みました。道中彼女たちは誰にも出会いませんでした。煙る雨の中、しんとして静かに、彼女の懐かしき高床の建物たちは軒を二人に差し向けました。ここで休みながら気をつけて動きなさい、と。人工の構造物たちは優しく二人に手を差し出しているようでした。それらはもう、人間を見守ろうとしていたのです。
 二人はそれらの陰に守られながら、町の端に辿り着きました。レーゼは町の東側へ石切り場に向かうのによく通っていましたから、この付近に精通していましたが、不気味なほど、周りは沈黙を続けていました。人っ子一人いないはずがないのに、息を潜めた気配もなく、空っぽの住居が物寂しく雨に濡れていました。二人は息が詰まりました。この雨がオグの体のようにあらゆる人間の悪意だというのでもないのに、湿気はまるで口を覆い、喉すらも塞ごうとしているようでした。それは、確かにかの悪意ある魔物の様子かもしれません。彼女は叫び、その声は誰もが省みようとせず、いくら話し掛けても、聞く者はいない愚かな弁舌に終始するものだったからです。反省を始めた罪人の気持ちなど。
 その喉元に貼り付くように、出てこない、空しい絶叫に違いない。そして、それは魔物の声だというのでなくても、この町に住む、住人はすべからく声を失う可能性を抱いていました。自分を省みれば。その息苦しさは、ですが、どの町にも住居にも、国にも集落にも潜在する闇でした。どこでもそれは押さえつけられ、表に出すことを禁じられるのです。しかし
 それは生き生きとする闇でした。いつでも人間を把握しようとする、頗る生命力溢れる存在でした。生き生きとしてそれは二人の口を塞ぎました。生き生きとしてそれは二人の背中を押し続けました。そこに行けよと。そこに行って反省しろと。町は枯れているようでふつつかな生命力に満ち溢れていました。混沌こそずっとその町を維持してきた力なのに、人間は、秩序こそ大事にします。それも省みないというのでしょうか。
 だからそのような舞台が用意されたとでもいうのでしょうか。レーゼはイアリオと共に、静けさの支配する町の中をそろりそろりと進んでいく中、彼の恋人の顔をよく思い出そうとしました。しかし、まるで今煙る雨のように、その顔は白い帳に閉ざされました。彼は、彼女はとても寂しかったのだということを感じました。もう一人の自分のように彼女を見た時、彼の影はまるごと彼女として現れているように思えましたが、いま自分がその影にすっかり呑まれてしまっていることを考えれば、彼女のことがよくわかりました。
(俺は俺を愛している)
 ふと彼はそう感じました。なぜか、それが当たり前のようにです。
 彼は、それを今まで当たり前だと思っていました。しかし、それは違いました。彼は
 それを再び当たり前だと思い、嫌な脂汗を流しました。彼は
 為すべきことが、自分にあると思いました。
(あいつを助けに行こう。あいつを救うんだ。それが俺のやるべきことだ。あいつも俺なら、俺が傍にいなきゃならない)
 彼らは運良く町人の誰にも会いませんでした。彼らはイアリオの家まで町を突っ切ってやって来れました。彼女はここにこそ来なければなりませんでした。
 ここで生まれ、育ったからです。
 その扉の前までやって来て、彼女が取っ手に手をかけた時、レーゼはふと辺りを見回しました。人の気配がしたようだったからです。扉が開けられ、彼はイアリオと共に内側へ身を滑り込ませました。警戒を強めた彼の後ろ側で、イアリオは嗅ぎ慣れた部屋の匂いを追いました。よくよく見知った間取りの、幼い頃から手を置いていた机…全てが懐かしくて、色々と思い出しました。
 家の奥から、誰かが出てきました。のっそり、影のように、彼女の母親が歩み寄ってきました。イアリオは衝撃に身を震わせました。その家族にしか分からない著しい変化が…母親を襲っていたからです。
 しかし、それは相手とて同じでした。母親もまた彼女を見て瞳孔を広げました。まるで同じような旅を二人は経てきたかのようでした。
「お母さ…ん」
「ああ…」
 母親は暗い目を開きました。どちらにも経てきた焦燥と不安が眼球に色を出していました。
「お帰り」
 しかし母親は母親の表情をしました。イアリオは娘の顔をしました。
「そちらの方は、もしかして、あなたの旦那さん?」
「えっ」
 イアリオは不意を突かれたようになりました。後ろのレーゼをちらっと見て、あまり、彼の方を見まい、として、また、母に目を戻しました。母は目の見えない盲人のようでした。盲目の人は、いえ、身に障碍のある人ほど、その勘は鋭くなります。まして、相手は自分の
 母親でした。被告のような気持ちに彼女はなりました。次第に、彼女の表情が強張っていきました。それはまだ「ここでは」まだ、知られたくないことだったのです。彼女の脳裏にはいまだピロットの影がいました。
 でも、
「そうよ。私の未来の、旦那さんかも」
 そう、彼女は言ってしまいました。背後で「えっ」とびっくりした声を聞きました。
「あはは、冗談よ冗談!」
 彼女の母親はそう言って、娘の言葉を受けて、受け入れて、明るく笑いましたが、盲目の眼を娘に注いだままでした。イアリオは、どきまぎしたまま、そこに突っ立ちました。心臓が、速くなり高鳴って、静まって、また、速まるのを感じました。それでいて心は落ち着いていました。母親の言葉は揺さぶるものではなく
 彼女を理解した言葉だったから。こうして二人は再会を果たしたのに、まるで、ずっと同じ軒の下にいたように、そこに並んで立っていたように。
「でも、驚かないのね」
 理解し合って、話し合っていました。
「こうして無事、何事もなく私が戻ってきたってのに」
「いいえ、驚いたわ。でも、どうかしらね。一番驚いたのは、あなたの変わりよう」
 母親はゆっくりと話しました。区切り毎に、一息入れながら。
「ここまで大人になってるとは、私も思いがけなかったわ」
「大人って!」
 イアリオは昔の調子で反応しました。その調子は大人になってからは見せませんでした。
「私、昔から十分大人よ?」
 明らかに、母親の目は子供の頃の彼女を見るように薄く輝きました。目を、しっかりと彼女に合わせて。
「ううん。何となく、あなたと私は今対等に話せる気がするの。お互い一個人として」
 その時彼女は、この目の前の相手が自分より遥かに大きくて遠くにいる存在に見えました。イアリオはあまりこの母親に頼った記憶がありません。大事な時には、その膝に縋って泣きついたこともありますが、彼女の意識は幼時から自立し、何事も自分の力で解決してきたからです。
 ですが、彼女はこの母親の懐から目覚めて誕生したのです。その大きさたるや、目覚めても、新しい生を辿ってきても、分かるものではなかったのです。いにしえの自分の過去を辿っても。それは万人に当然のことですから。
「一人で来たの?」  「え?」
「あの国へ行ってきたんでしょ?」

「ああ…皆来てるわ。私、守られて来ているの」

 母はにっこりと微笑みました。

「良かったわ。どこだってやってける娘だとは思っていたから、多分大丈夫だって信じていたけれど。でも、とても心配したのよ?」

「…そうは見えないけど。すごく私のことを、信頼しているようだったけれど?」

 母親はまた笑顔になりました。二人はたっぷりと間を空けながら会話しました。
 しかし彼女の母親はしばらく黙りました。どこからか、言える言葉を引き出そうとしている様子でした。イアリオも黙っていました。大分たって、

「生きなさいね」

 と、母親からぽつりと漏れる言葉を聴きました。本当に小さくてよく聞こえないくらいの。

「何?」


「ルイーズ、あなたとまた会えて良かった。もしかしたらとも思ったけれど、うん、信じていたわ。
 今分かったわ。私にとって、あなたが生き甲斐だった。私は…この町と結婚したようなものだからね。だから大丈夫」

 町人は選別されました。生き残る人間と、そうでない者と。ただし、二つは同じ運命を辿りました。あのオグと、地下の亡霊どもと、山脈の頂上にいる白霊たちと、同一の物語の中に彼らの命は運ばれたのです。
 母親と話して、イアリオはずっと近くにレーゼを感じました。その距離は、今まではピロットやハリトを挟んで感じていたものでしたが。彼女は背後で、とてつもなく大きな鐘の音が鳴った気がしました。

「ねえ、何で、こんなことになったんだと思う?」
 イアリオは自分の母に訊きました。

「それは誰もが、分かることじゃない」
 母親は落ち着き払って言いました。そして間を空けて、続けました。

「誰だって翻弄されているからね。翻弄されているのも分からず。それに、しばらく経ってから、分かってくることだって多い」
 母親の傾けた横顔は、初めて見るくらいに美しく見えました。
「だから、まだ、分からない。私はね。…でもね、少なくとも、自分のできる領分というものは心得ているわ。何となく、何をやるべきか、どうしているべきかも知っているの」
 それはまるで、その娘が、心に置いた真実の信念のようでした。
「だから、安心はしている。不安はあるけど、安心もしている」

 その言葉も、真実の信念のようでした。

 イアリオは、母親の言葉を噛み砕くようにじっくりと反芻しました。それで、自分もその人のように美しくなりたいと思いました。
「そうね。私も、まったく同意見だわ」
 それは美しい強さでした。娘もまたこの世から貰っていた性質でした。しかし娘は自分のことをそのように見えていません。他者が、彼女を見てそう思うことでした。
 人間の強さが親から子に受け継がれるとき、知らず知らず、両者は似たものとなります。いいえ、また、弱さもそうしたものかもしれませんが。ですが強さも弱さも、未熟な人間に、受け継がれます。いくら人が、輪廻し生まれ変わろうとも。
 イアリオは戸口で外に耳を潜めていたレーゼを、腕掴み引っ張りました。彼は親子の会話に自分がしゃしゃり出てはならないと思い、ずっと、家の外に注意していました。人の気配はまだしていました。彼女は、いきなり引っ掴んだ彼の姿を、よく母に見せました。
「わっ何?イアリオ、突然…あ、あの、初めまして。クリシュタ=レーゼといいます」
 彼は驚き、若干しどろもどろになりながらも、丁寧にお辞儀して、挨拶しました。
 母親はくすくすと笑いました。
「あなたを守ってきた外国の方じゃないわよね?この町の人だよね」
 母親はピンときました。なぜここに彼女が彼を連れてきたか。その深い意味は、おそらくここ三年の間に生まれてきたものではなく、もっと前から、彼女が町にいる時分から醸し込んだのでしょう。さっきの冗談も、必然的に突かされたのだと、母親は感じました。
「お似合いよ?二人共」
 そう言うと、母親はほっとしました。


 快楽に様々な肉が蠢きました。嬌声は、その中から聞こえてきます。艶美な女の声が。
 でも、その女は快い感覚に飽き飽きしていました。どんなに男と寝そべっても、それはそれ以上ではなかったのです。女は愛が欲しいと思いました。彼女は確かに前の男から自分が欲しい愛を貰っていたようですが、それは彼女もまた手渡せるものでなければなりませんでした。
 ハリトは、レーゼに愛を手渡していなかったのです。彼女はずっと彼の庇護下にいました。求めるだけの愛は、本当は彼女には合いませんでした。自分の、心が蠢くものでなければならなかったのです。彼女はベッドから起きて、裸のまま、家の戸を開けました。彼女の心は凍りついていました。飢えた思いは空虚をばかり彷徨い、いくら(ほと)に異性のものを入れても、熱いものが放たれても、その飢えはますます(かつ)えるだけでした。
 外は鬱陶しい空が雫をぽたぽたと振り落としていました。涼しい風が素肌を撫ぜ、ハリトは泣きたくなりました。彼女は服を着て、外に飛び出しました。彼女はレーゼを探そうとしました。いつもなら、すぐ傍に彼がいたはずなのに!と思い、彼女はますますわが身が寂しくなりました。そこへ、偶然にも、彼が目の前を通り過ぎるところを見つけたのです。彼女はあっと叫びました。彼だけでなく、その傍に、イアリオがいました。
 感謝の思いがただ一人か二人くらいにしか抱けない人がいます。それは、自分か、自分の最も大切な相手にです。しかし自分は、その相手は、誰によって生かされたか。育てられたか。彼らはそれが判りません。彼女はずっと誰かの庇護下にいました。彼女もまた、イアリオのように自立し人に頼らないところがありました。だから、独立していない面は非常に弱く脆い鈍さを持ちました。彼女はずっと庇護下にいました。今も。誰の?
 いいえ、やっと、彼女は自立を果たしたのです。自分の、影にこそ雇われて、忠実になって、動かされていました。彼女は渺々とした断崖に自分が佇むように感じました。絶壁は二人と自分とを阻み、もう独立した自分に二人はいらないことを突きつけました。
 彼女は二人がとある家の中に入るのを遠くから見届けました。ハリトは、その家の扉に張り付きました。ハリトもまたその時非常に美しい眼差しをしていました。雨の中、輝く、絹の七色のように。そこへ、人気のない街路の向こうから、煙雨の中を、こちらへ歩いて来る人間がいました。
「やあ、こんにちは。この家に用事かい?」
 ハリトは頷きました。その人物が誰だか知っていました。彼は笑顔でした。彼が、ここに来ることは不自然ではありませんでした。ただ警備隊の隊長が、見回りに来ただけのことで。
「ちょっと寒くなってきたね」
 彼はハリトに呼び掛けました。美しくなったハリトは彼の方に向き直り、素直に頷きました。
「はい」
「だったら」
 彼は、ハリトの手を握って、彼の両手でそれを温めました。彼女はびくりとして、自分の手をすぐに引っ込めました。彼は眠たげな目を彼女に注ぎ、「冗談さ」と言って微笑みました。ハリトは彼から目を逸らし、
 戸口の内側に注意しました。耳を澄ませ、何か、中から聞こえないかと静まりました。彼は、喉の奥で笑いました。
 その笑いは、明らかに彼女に対して向けられました。彼はオグでした。彼女が触れられたオグでした。彼女は今もまだそれに齧られていました。味わわれ、味わい尽くされんとしていました。彼女は急に自分が矮小な存在に思えてきました。彼女は比較できませんでした。何と比べて自分が矮小なのか。その時
「こちらへ」
 と、彼は雨避けのマントを開き、中にハリトを誘いました。しかし、ハリトは彼に背を向けて、イアリオの家から離れ、どこかへ行ってしまいました。
「これだから、人の悪は!何に操られているとも知らないで」
 悪の存在は呟きました。
「それこそ、彼の領域を犯す獣だ。悪は悪自身を恐れるのだ。だからその身が喰らわれる」


 ハリトは自分の家に戻り、棚の上からあのゴルデスクの塊を取り出しました。ごつごつとした男の肌のような手触りに、彼女はうっとりとしました。
(あたしが欲しいものは、これだ。どうしてもこれなんだ)
 白い長襦袢のみの姿になって、ハリトの身体の膨らみは誇らしくそれを持ち上げていました。もう、彼女はイアリオに対して憧れを抱いていません。欲しかったものはもう貰ったのです。
(何人抱いただろう。もう、数え切れないわ。数えても、いない。…ああ、すっかり汚れてしまったわ。この塊が。ちょっと埃に塗れて、濡れて、黒ずんでしまったね)
 そんなことを思いながら、彼女は手に持ったゴルデスクを口から飲み込む仕草をしました。飲み込む前に、頬張りました。頬張って、噛み砕いて、喉に流し込むくらいに、唾と交えて、柔らかくして。彼女はそれを胃に流し込みました。不思議な力を感じました。(ほと)が、熱く、柔らかく、爛れるように、表側を剥いて広がったのです。ハリトは下着姿で外に出て行きました。
 それを見た男たちが、情欲に苛まれて、彼女の周りに集まってきました。彼らはどこかで一戦を交えてきた輩でした。自分を守るために、相手を攻撃した者たちでした。彼らは自分を守りました。しかし、自分は、何によって育てられてきたか。自分を育ててきたものを、彼らは攻撃し、倒し、そこへ戻ってきていました。
「何、あたしが欲しいの?」
 ハリトは一人一人を見比べました。どの顔も、同じ顔つきでした。情けない、汚らしい、訳の分からない、唐変木どもでした。どの姿も魅力のないものでした。なのに
 彼女は、彼らを自分の中に入れれば、彼らは復活することを知っていました。ただし
 悪はそれを知るのです。
「多分、違う。女が欲しいだけでしょう?皆、あたしと同じだから!」
 ハリトは、自分も周りも皆軽蔑したように言い放ちました。彼女から不思議な青い光が放たれました。彼女は選ばれました。これから、滅びる、人間の意識の核となることを。
「合体し合おうよ。すべてがすぐに、終わるなら、快楽は、全部、味わっておきたいものでしょ?」
 煙る雨の中、彼女は透明な身体を獲得したようでした。翼が生え、堕とされた天へ向かって、男たちを担ぎ、飛び立とうとでもするかのようでした。
「おいで…ここに君たちの欲しいものがあるから…」
 ハリトはうっとりとして語りました。もういいのです。他人の願望を叶えるのは!
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