第9話 北の墓丘

文字数 19,191文字

 ルイーズ=イアリオの同級生のほとんどは、もうすでに結婚していて、その多くは子供をもうけています。彼女は今までそのことを気に留めたりしませんでしたが、ひとりで墓地を訪ね歩くようになってから、そうしたことが気になりだしました。まるで自分を覆っていた幻が解かれるような体験をしたからでしょうか。彼女は世間を騒がせた過去の事件の当事者の一人として、その罪滅ぼしのために侵入者退治に借り出されていました。子供であった時分こそ地下都市にて遊んでいたことは責められませんでしたが、成人になって、

を聞かされて、彼女たちは改めて責任を問われたのです。勿論、それは彼らがまた暗黒に希望や憧れを持つことのないようにという、マインド・コントロールが目的でした。彼女たちが追い払った、彼女たちのように滅びの街で遊んでいた子供たちも、成人の儀を迎えれば同じように厳密に注意されるでしょう。ところで彼女は、子供たちを無事追い返し、罪滅ぼしは完遂されたと判断されて、今も地下の探索の自由を承認されています。そこに、評議会の議員であった彼女の父親の威力が関係していたかどうかはわかりませんが、町人たちが、皆その件を知っているのだから、子供たちの教師もしている彼女がこれからよっぽど誤ったことはすまいと信用されたのです。信用…信認…人々は互いに監視し合っている間柄でもありますから、本当にその言葉が文字通りの意味かどうか。彼らが、地下に先祖の過ちを封印して、そこから遠く遠ざかろうとしているのでなく黄金を管理していたのですから、まさに畏れて立ち退くことのできない墓守か神官のごとき振舞いです。ですが、それを民族単位でやることは、果たして能率的でしょうか。彼らがこぞって黄金を守り続けるのは、良いことでしょうか。
 人は様々です。たまに、道理からはずれる者も出てきます。それは、町からはねつけてしまえばいいのでしょうか。社会とは、残酷にも社会そのものを守ればよいのでしょうか。
 満天の星が、彼女を出迎えました。その日は新月の晩でした。町の北側には農地が広がり、小麦の採れる穀物畑と、トマトや瓜、茄子、豆などを植えている町預かりの荘園がどこまでも続いていました。平野はずっと先の山脈の麓まで伸びていて、彼らは農園をそこまで広げていました。しかし原野は途中平らな岩場あり、森あり、丘陵ありで、田園は曲がりくねり、所々は切れ切れに細まる箇所もありました。彼女は丘陵の周りを取り囲む草深い湿地の中を進んでいました。大人になった今こそ背丈は草よりも伸びて、正面の丘地がはっきりと望めますが、十年前は、そうではありませんでした。彼女は立ち止まって、しばらく空と星とを眺めました。湿地の地面は濡れていてわずかにへこみましたが、遠くに見える白色の星々が、まっすぐにそこまでかすかな光を届けていました。
 先日のマットとのやり取りを彼女は思い出していました。シャム爺とともに西区の墓地に行ってから、彼女は何度か彼と会い、話し合っていました。彼は、概ねイアリオのやろうとしていることに理解を示しましたが、これは時間をかけてやらなければいけないことだと釘を刺しました。町中の人間に判ってもらうことは、もしかしたら十年たってもむつかしいかもしれない。我々はこの町で生きているのであり、この町は、あの大勢の犠牲を払って、打ち立てられたものだから。イアリオの望むことは、もしかしたら自分たちの克己心や、誇りを砕くものと受け取られかねない。なぜなら、我々は大いなる自省が必要だし、当然、ずっと当たり前と思われたことまでも反省の盆の上に乗せなくてはならなくなるのだ。たくさんの人間が、それを望むとは思われないぞ。それでも…と、イアリオは反論しました。私は別に、自分の考えへの賛同者を求めているのではない。それで自分がグループをつくろうとは考えていない。私は、ただピロットの霊を慰めたいだけ。でも彼は、あの事件に遭遇してしまって、死人たちに魂を持ってかれてしまったような気がするから。
 マットは言いました。それは君の思い込みだ。いくら地面の下で幽霊を見たからって、自分の身を危険にさらすような真似を、死んだ彼も望んでいるわけじゃないと思う。しかし彼女はこう言い返しました。これは私の覚悟なの。決して私のせいで、彼がいなくなったのではなかったとしても。ずっと私は、彼と、地下の亡霊たちを供養し続けたいわ。マットはため息をつき、もう諦めました…。
「それなら賛同者を募らずに、隠れたままやっていくほかはないな。例えば僕や、他のテラ・ト・ガルのメンバーが、君についていって一緒に供養するなんてことはできない相談だ。ほかに方法があればいいけど。僕たちの考えを、徐々に徐々に、変えていく何か方策がね。やっぱり僕だって納得はいかないからなあ。あの骸骨たちにのしかかられて、その時の恐怖は今も拭い去ることはできないから。危険はずっと地下にあり続けるんだ。前だって子供たちがまたそこで遊んでいたじゃないか。だから…そうだな…君が、地下の亡霊たちを慰めることには意味があるんだ。でもおおっぴらにはできないんだな。残念だ。残念だ…」
 イアリオは彼にそれ以上何も言いませんでした。それで十分でした。少なくともマットは、彼女の味方でしたし、地下供養をやり始めてまだ間もない時期に、随分強力な支持者を獲得できたと満足したのです。
 白い光が無数に空に昇っています。地上から見上げればあの小さな一つ一つの明かりは、まるで小数点の照明です。全部を併せても、私たちの体にもならないような。あの星々に先祖たちの威霊を臨むのは果たして正しいことでしょうか。そのように言われたからとて…そうあってほしいと望んだからとて…。しかしイアリオは、あの星々に自分の望みを託していました。
 彼女と同じ時、同じ場所に、行こうとしている人間が二人いました。二人はそこで、落ち合うことに決めていました。二人とも、あの願い事の話を聞いたのです。新月の晩、星が明るい晴れの夜に、星たちにお祈りをすれば、きっと聞いてくれるはずだということを。ハリトとレーゼ、二人の若者です。その時ハリトは十五歳、レーゼは十六歳でした。
 もう一人、遠くから丘の墓地を眺めている人間がいました。しかしかの丘は、そうそう眺めて気分の良くなる景色ではありませんでした。
 人は、同じ過ちを繰り返すまいとして、言葉に記憶を留めます。それは、繰り返される悔しさから、絶望から、逃れるためです。かの丘は、そのために死者どもの魂を封印する目的で巨大な墓地にさせられていました。彼らがこの墓丘を造ったのは…体と魂が離れてしまう死という現象を、まるごと包み込むためのものでした。彼らは死への冒涜を働いていました。彼らの恐怖は、死んだ人々へも向けられたのでした。自分たちでは供養しきれないと最初から諦めていたのでした。いいえ、違います。彼らは、最初は無限の時間をかけても、死んだ人々を守り、癒し、自分たちこそ墓守に勤めていこうと思っておりました。町の下にも、大きな墓を打ち立てた彼らは、そのことを決して無視はしてきませんでした。墓標こそないものの、神官こそいないものの、彼ら自身が犯した罪を、民族全体で抱えていこうという宣言でした。一人一人の死人たちを、お祈りによって天国へと帰すことは不可能(その罪によっても)でしたから、墓丘の入り口に立てられている看板の言葉のように「長い時をかけて、彼らは望みのすがたになろう。あとはすべて時が解く。」としたのです。
 ところが、看板は意地になって地面に噛み付くも、丘は荒れて、今や訪れる者はいませんでした。彼らも侵入者には敏感になるものの、黄金をいまだ内包する広大な洞窟都市は、彼らの心と伝統に楔を打ち込む、荒ぶる霊魂を彷徨わせる不変の驚異なのでした。その意味において、地下都市は生き続けており、彼らは伝統を損なうことなく、粛々と生活を続けていたのです。
 各所の人間の生活は、とくに信仰の厚い人々のいるところでは、こうした形式は珍しいものではありません。
 しかし彼らには仏もなく、神もいませんでした。
 神様という概念はあるのですが、そこへの祈り方や、信仰の仕方を知りませんでした。
 しかしあの二人組の盗賊を、捕らえて闇につなげたのはかの街の暗闇だけではありませんでした。そこにはもう一つの驚異がありました。オグという、魔物。いつから彼は、存在していたのか。一説に拠ればこの世界が誕生した時からとも、また海が陸地を呑み込んだ大海嘯以後とも、言われます。しかし町の先祖たち、兵士たちと平民たちと奴隷たちが、広大な自殺行為を行ったのはその魔物のせいではありませんでした。
 イアリオは墓丘の向こう側のゆるやかな斜面を登りました。古の人々の魂を閉じ込めた(と、過去の人々は信じた)半円球の土の山を正面に据えて、町の西区の墓地でしたように、蝋燭を立て、本を開き、あのハルロスの文言をここで謡おうとしました。彼女の声という、調べに乗せて、うたが始まると、それは響きよく、小山の面を彼女の目の色の風が吹きました。いただきを撫でて、沈み、湿原を乗り越え、はるかあちらの白き町へ、びわびわとおとなしい波が広がっていきました。まるで一所懸命によしよしと撫でる、赤子へ伸ばしたかいなのように。もしくは、膨らんだ自分の腹を、さするように。
 あっと彼女は叫びました。ミルクのような白い光が、頭上を飛び過ぎていったのです。それは、星屑のごとき光でした。残光が線として残り、明かりは、目の前に飛び降りてきました。それは蠢いて、やがて人のかたちをとりました。イアリオは立ち上がりました。手には本を持っていました。また、明るい光が、頭の上を流れました。次々とそれは降り注ぎ、彼女の前で、光る人々の連なりになりました。彼女は息を呑みました。
「あなたは、そう、あなたは…」
 光たちの中央にいる人型のミルクが、声を出しました。
「ア、ラ、ル…」
(そう、私は、アラルだった…)
 なぜか、イアリオの中に、そのような言葉が浮かび上がりました。人型のミルクが、はっきりとした形を取りました。美しい女性で、なまめかしいのどもとを露わにした、白い衣装を着ています。以前、テオルドは、盗賊たちとこんな会話を交わしました。「上の町の北には難攻不落の山脈が横たわっているんだけど、その山脈の北と南では伝説が違うというんだ。ハルロスの日記帳に書かれているんだけどね。北側にはその山脈は畏れ多い神の山々として伝わっている。月に一度、空から白い光が山頂に集って、北方に広がる森を照らすなんて言われているらしい。けれど、南側ではその光は神様の慶兆ではなくて、死んだ先祖の霊たちだとされている。まるでシルクのような光沢で地面まで落ちてきて、生きた人間に警告をするっていうんだよ」…。恐ろしいことは、この時、彼女の身に起こりました。霊魂の結び付きといえるすさまじい過去の忘却された記憶から、忘れられし歴史の国の影から、現れてきました。
 彼女の悪が、形を持って現れたのです。
 星屑の光は、祖先たちの存在でした。彼らは雑多に、我もなく集っていました。真ん中にいる女の姿をした幽霊が、彼らの束ね役でありましょう。光は、ゆらゆらと揺れて、その中に黒い影を携えていました。一人一人の人間の頭は見えるものの、体は結合したアメーバのようでした。たくさんの人間の霊魂がここにいます。イアリオはそのうちの一人と、目を合わせました。
 その瞬間、びりびりとした電撃に打たれました。彼女は、初めて地下へと入った時に、サカルダの思い違いの鐘に戻らされ、そこでカムサロスそっくりの幻を見たことがありました。彼女はもう一度、集まる光の中に、彼の面影を発見したのです。
 彼女はじっと中央の綺麗な女性に目を注ぎました。相手もまた、彼女を見ています。ぱっちりと開いた目は初々しい若さを保っていました。見目は三十代ですが、ふくよかな首筋には年輪を感じさせない張りがありました。この女性から彼女は亡霊なるまじき雰囲気と存在感を覚えました。ぼんやり黒々とした瞳は憂いに富み、泣いていないのに濡れています。ふっくらとした魅力ある唇が動きました。
「ここにいるのは誰?そこにも、あそこにもいるようだ」
 亡霊は一瞬、彼女など見えないように首を振りました。イアリオはびくりとして、何か恐れて慌てました。(私の名前を言わなければ)そう思いましたが、彼女は、なぜか自分の名前を忘れてしまいました。アラル…?そう、アラルと、相手は彼女を呼びました。けれど、その呼び名は違います。今の彼女は、イアリオなのです。
「怖がらなくていい。自分はただ忠告をしに来た」
 存在が高い声でそう言います。高い声であるのに、しゃがれています。イアリオはどうしてか泣き出しそうな感覚に襲われて、ぎゅっと唇を噛みました。彼女は、この女性に、複雑な念を抱きました。自分の親に対するものと違う、彼女が恋したピロットとも違う、もっと根源的な、畏れ多い、あの地下の暗黒へ臨んだ心地に、その想いは近いのでした。果てしなく黒い闇なのに、懐かしく、圧倒的で、しかもずっとそばにいる気がする、分かたれても何度も何度も繰り返し近づく、近づいて、
 愛し合う。
 現実にそんな想いを誰かに抱いたことのないイアリオは、この気持ちが何であるのかわかりませんでした。まして、相手が自分よりはるか昔に生きていた誰かなのです。
 ですが、それは、自分の悪でした。
 人間が、有史以来、立ち向かってきた相手でした。
「イア、リオ」
 彼女は言いました。
「ルイーズ=イアリオ…」
 自分の名前を思い出したのです。
「そう」
 星の光を飛ばしながら、神々しい後光に彩られた女性は目を伏せました。
「そこにいるのは誰?」
 女は藪の向こうを指して言いました。そこには、白い光に釣られて、小山の坂を急いで駆け上ってきた若い少年少女が潜んでいました。ハリトとレーゼが、そこにいました。
「いえ」
 女の幽霊はイアリオに目を移し、その声音高い喉からの発声で、懐かしむように、危険なように、語り掛けました。
「ずっと元気そうだったね」
 その時、イアリオは女の目に吸い込まれる心地がしました。ああ、愛する人間がいたとしたら、一緒の眼差しで互いを見詰め合う時、そんな心地がするものです。しかしそれは彼女の悪でした。彼女は、この女性に身を委ねてもいいとどこかで思う自分を感じつつ、何かが、果てしない何かがそれを妨げていました。
「この町は滅びようとしている」
 女性は落ち着いた口調のままそう言いました。女性のからだが膨らみました。横に伸び、縦に伸び、歪んだ鏡に映るかのように、大きく、恐ろしく変化していきます。それはまるでイアリオを包み込み風船のように膨れ上がりました。少年と少女からは一挙に光が放出されて見えましたが、そこに呑まれたイアリオは、まったく違う風景を眺めていました。
「荒れている」   「荒れている」
「愛は失われた?いや、現前している」
「どこに?ここに?」
「あの場所は?あの暗闇は?」
 方々から意思たちの言葉が聞こえてきました。イアリオは、光のドームの中で、反響するすさまじい大きさの音に耳を塞ぎました。しかし、声は頭に直接届き、どのようにしても聞こえてきました。
「ああ、ああ」   「言葉には力がない」
「失われた力がない。言葉は今以上の威力を具えていたのに」
「なぜなくなった?どうしてなくなった?」
「希望は絶望、我々は学んだ」   「学ぶために」   「そうして学ぶために」
「生きる力は死を内包する。それに気づかない人間たちが」
「一斉に放棄した」   「放棄した」
「命と希望が一緒くたのものだということを。そして、未来は、現在から出発するということを」
「過去は置き去りにされたのだ」   「過去は置き去りにされたのだ」
「過去は置き去りにされたのだ」
 白い稲妻が閃き、うずが、ぐるぐると果てしなく広がっていきます。頭上はぱらぱらと星が降り、彼女の持っていた希望は、壮大な過去へと遡っていくようでした。
「こうなりたくないと思う方へ」
「こうありたいと願う方へ」
「人は行けるものではなく」
「切り拓くのはただ人の意志だけだ」
 彼女はそばに、あの女性が近寄ってくるのを感じました。
「絶望はふるさとへ」
「希望もふるさとへ」
「生まれたばかりの赤子は一体何を見るのか?」
「すべて。世界のすべてを」
「灯火に手をあててご覧。熱かろう。熱かろう」
「その熱こそ生きている証だのに、ふるさとは遠ざかり、」
「遠ざけられて、」
「今、死に向かう場所のみが目の前にあるようだ」
「生死は希望ではなく、あるがままのことだのに」
「絶望はいまや生き生きとしている」
「ふるさとはどこへ?ここに、この場所に」
「あるというのに、人は見ない」   「人は見ない」
 歌声は、蝋燭の炎のように、揺らめき、立ち昇り、見えない人の影のかたちを取っています。往々と、行き交いながら。彼女は涙を流しました。あまりの言葉の大きさに。
「誰一人として救いを望まぬ人はいない」
「彼を助ける手はどこから?」
「人の弱さ。人間の弱さ。それが幻の手を見る」
「幻の手を見せる」
「一方的に人は傷つく」
「傷がついたと思い込む」
「優しさが人を救うだろうか?」
「自分はどこからここにいるのか?」
「誰もそばにいない」
「そう信じて。そうした気分になって。…」
 彼女は一人きり、まばゆいばかりの白い光を持て余しました。星屑の明かりを彼女は吸い込みました。閉じていた両目を開けると、その間近に、あの女性がいました。
「あなたは何かを背負えるのか?あなたの犯した罪を償いながら」
 ぐるぐると、意識が回転し出します。気絶しかねない強烈な光が、喉元に突き刺さりました。彼女は息が苦しくなりました。吐く息が白く、凍りつくようです。
「行かなければならない」
「行かなければならない」
 白い光が合唱します。
「願い事、か。もしそれが実現すれば、それは本当にすごいことだ」
 十年前、北の墓丘に行く際に、テオルドが言った言葉を、光の天女が、言いました。
「自分のことであれ、他人のことであれ、それは本当にすごいことだ」
 白い衣装の天女の瞳が濡れています。イアリオは、この女性が自分のずっとそばにいたような気がしました。しかし、手を差し出してみるも、あっというまに幽霊は遠くへ離れてしまいました。
 けれど、光が振り解かれました。イアリオは、星空の真下の墓丘の正面の、小高い地面の上にいました。
「この町は滅びようとしている」
 もう一度、美しい女は言いました。
「夢ならば覚めてほしいと思うだろう。きっと、人間の記憶も損なわれてしまうのだから。これからあの町に起くるべきことを知れば、その時には」
 それは厳かな宣言でした。
「あそこにはまだ天へと行けない霊たちがいる」
「死霊たちが!死人たちが!報われずにもそこにいる!」
「かつ、いまだ存在するいにしえの怪物がいる」
「オグ!オグだ!人間の悪の集合体、遥か昔からいた存在!」
「人間らしさを失うだろう。かの町には溢れ出ようとしているから。古い魔物、オグと、古い死人、あの街に封じられた人々が」
「人間は、死んでも生きる。死後の世界は、果てしない」
「我々は、それを伝えに来た。伝えに来ざるをえなかった。未来がもう間もなく破局を迎える。我々は、一連托生だ」
「死んだ人間も、生きた人々も!」
 天女と霊たちが交互に叫びました。イアリオはびりびりと肌を震わせるその声が、まるで、自分の中から出てきたもののように感じました。なぜでしょうか。わけのわからない現象に立ち会っているというのに、この風景が、至極当然自分の前に現れたような気がします。
「この国は滅びる。滅びなければいけない。なぜなら、行き過ぎたがゆえに、取り戻す必要があるからだ。悪は変わる。変わらなければならない。破壊は再生のしるし。天秤の如く揺れる動きの中に、もはやこの国はいないから、自らの定めを、そのように決めたのです」
 天女の姿は粒子に変わり、そこらに霧散しました。お告げが終了したのです。しかし、また女性は姿を現しました。イアリオの正面から位置は変えていませんでしたが、藪の茂みを向いていたのです。
「出ていらっしゃいな」
 言葉が神経に届きました。ハリトとレーゼはこの不可思議な情景を恐れを持ちながら眺めていましたが、今、レーゼだけがひょいと頭を上げました。
「いいえ、あなた。あなたも覚悟しておくのです。もう気づいているのかもしれませんが、一連托生は私とあなた。あなたと私。あなたと私。ハルタ=ヴォーゼ」
 周りの人間には、その時天女が何を言っているのかわかりませんでしたが、レーゼにだけは聞こえていました。不思議な光は消えました。あれだけの猛烈だった光線は、跡形もなく、残像もなく。ちかちかと星が空に瞬いています。突然、頼りなく、か細く、不健康にその灯りは見えました。
 まさに、その墓丘に埋葬された、幻の人間たちのように。
 イアリオは、いきなりその場にうずくまりました。わけがわかりません。なぜなのでしょうか。どうしてなのでしょうか。なぜこの現象が――自分の前に立ち現れ、どうしてそれを――自分は、逃れられない自分の選択だと、思うのか。唐突に出会ったその現象は、夢のようであり、現実感のないものでした。ですが、まるで本当の運命を感じるかのように、彼女には受け止められたのです。
 そして、もう一人を襲った感覚も、またそのようなものでした。茂みから、レーゼとハリトが出てきました。恐る恐る、光の現出した場所に近づき、うずくまる女性を不安げに見つめます。
「先生、大丈夫?」
 イアリオと面識のあるハリトが声をかけました。火を灯したレーゼが灯りをそばに近づけました。イアリオの顔面は蒼白でした。
「ああ」彼女は小さく呻いて、がっくりと倒れました。
「先生!先生!」
「エアロスの…伝説…だ…」
 彼女の口から漏れた言葉は、ハリトの、心配する声にかき消されました。


 
 およそ十年前…白い砂浜に、少年が打ち上げられました。彼の名は、アステマ=ピロットといいました。彼の舟は奇跡的に暗礁地帯を乗り越え、他の大陸に属する島に流れ着いたのです。
 彼は島の人々に看護され、息を吹き返しました。彼の服の中に小さな袋が入っていました。島民たちは彼の持ち物には触れませんでした。彼の着ているものは替えましたが、乾いた服と一緒にその袋も傍らに置かれました。
 丁度、一人の冒険家が、その島を訪れていました。その女性は自分をそのように紹介していました。その女性の美貌は圧倒的でした。文化的なものに晒されていない島民たちですら、彼女の美しさに感動し、そして畏れました。彼女は、ビトゥーシャと自分を名乗っていました。
 ビトゥーシャは浜から救われた少年を見に、彼の小屋を訪ねました。そして、少年のエキゾチックな顔立ちの頬に、キスをしそうなくらい、目を近づけました。
(ふうん。あら、この子…)
 ビトゥーシャは、小袋の方も見遣り、艶かしい唇を開けて、妖艶な舌を出しました。
(私と同じ、立派な悪の匂いがするわ)



 目を開けると、年下の二つの顔がありました。彼女はそんなに長い間、眠っていませんでした。
「どうしてだろう」
 イアリオは呟きました。
「昔の自分に、ずっと会ってた気がしたわ」
 そう言って、彼女は焦点を二人に移しました。見覚えのある顔の方は、最近、生徒たちがその行方を聞きに来た少女でした。
「あら、ハリト。どうしたの?友達に、リーダーは失格だなんて言われてたよ。随分勝手に振舞っていたんだね。まあ、いいけど」
 ハリトは、目を大きく見広げて、呼吸を止めました。
「なんで、そのことを?」
「子供たちが私のところへ聞きに来たのよ。あなたのいる場所、どこだか知らないか、てね」
 ハリトは頬を紅潮させました。少女は、元々他人の意見など気にしなかったタイプのはずでしたが。イアリオはじっくりと少女を眺めて言いました。
「どうしたの、ハリト?」
「あの、先生は…」
 ハリトは言葉を切りました。十五歳の少女はうつむきました。どうやら、まともにイアリオの顔を見られないようです。ハリトは、同級生や友達からリーダー失格だと言われたところで決して動じません。彼女は自分の思うがままに動くのが信条ですから、人の噂や自分の失敗などを顧慮しません。ですが、イアリオの生徒になってからは、彼女の前では、思ってもみない感情が溢れることがありました。それは、測り知れない母性に包まれて、うそがつけなくなる様子によく似ていました。
「あーあ、こいつ、またやっちまったんですか。前にも自分でグループ作っておいて、自分でそれを壊すようなことをしているんですよ」
 レーゼが横から口を出しました。その時、イアリオは初めてその少年を知りました。
「ふうん」
「自業自得だよ。気にもかけないで反省もしない」
 ハリトがきっと彼を睨みました。えっと少年は驚き、真っ赤に恥ずかしくなってしまっている少女を見知らぬ相手を見るように見ました。少女はイアリオに言われて、急に自分のしたことの意味を理解したのです。それまでは、何も間違ったことはしていないと思い込んでいたのですが。
 二人とそうした話をしてから、イアリオは長い夢から覚めた心地がしました。戻ってきた自己は、いまだに、空中をふらふらとしている感じがしました。さっき見たものを、思い出すものの、それが実際に見たものかどうかわからなくなっています。あの不思議な現象を前にして抱いた、これは確かなものだという感覚も、てんで霧散し、もういない光のごとくなっていました。
「先生、さっきの光は、何だったの?」
 そのレーゼの言葉は聞きたくないものでした。イアリオは眉をしかめ、唇を閉じました。
「最後にあの女は、俺に、『あなたも一蓮托生だ』と言ったけれど、あの…『ハルタ=ヴォーゼ』っていうのは、たぶん名前だと思うけれど…あいつは、幽霊か?それとも怪物か?」
 ハルタ=ヴォーゼ…?アラル、ア、ラル…。二つの名前が交錯します。彼女の頭の中で、番い合う二匹のオシドリがふいに誕生しました。そのイメージは伸びて、彼女を包み、えも言えない、粟粒の歌を届けました。黄色い歌でした。歌が旗を振っています。おおい、おおいと呼んでいます。
 その瞬間、イアリオはまた息苦しくなりました。ぜいぜいと息継ぎ、下を向いて、何か吐き出す仕草をしました。二人の子供たちは、心配して彼女を介抱しようとしました。ですが、イアリオはその手を振り切って言いました。
「あれだけ不思議なものを、堂々と見せられたんじゃ、こちらも認めるしかないわね。あなたたちも見たんだもの。私は、あれが夢だったらいいなと思うけれど」
 彼女はまた顔色を青くして、わなわなと震えました。
「先生、無理しないで」
「ええ、一緒に戻りましょう。あ、でも、あなたたちがなぜこの場所にいるのか、聞いてからでもいい?」
 そうする必要がありました。イアリオは、二人の子供から話を聞いて、心を落ち着けてみたいと考えたのです。
「いいけれど、本当に大丈夫?」
「夜風に少し当たってからの方がいいのよ」
「なら、話すけれど…俺は、願い事しに来たんです。先生は聞いたことがある?新月の晩に、丁度そこの丘で、星空に向かって祈れば御先祖たちが聞いてくれるって…」
 イアリオは目を真っ赤にして頷きました。丁度、十年前彼女も同じことをこの場所で試みていたのです。
「何をお願いするつもりだったの?」
「あの町に、噴水を造ることです。俺の力で造りたいんです。評議会に案件を出したり、議員に立候補したりしないで」
「へえ、そんなことができるの!」
「俺の計画ではね…」
 彼は口を噤み、ハリトの方を向きました。ハリトは、ゆっくり頷いて、ここで言ってもいいのだろうという合図を送りました。
「俺は、商人になりたいと思ってるんですよ。親父のやってることがそうさ。ただ石を石切り場から運搬するだけじゃなく、石の切り方も、発注の仕方も、建物の組み立ても、全部一手に引き受けた総合商をしているんです。そうすると、利益が生まれるんです。差額が出て、蓄えができます。親父はそれで、何か芸術的なことをしたいと思っているようですが、俺は、そいつで噴水を造ろうかと思って」
「なかなか、立派な夢だね」
 イアリオはにっこりと彼に笑いかけました。彼は今までそうした表情を向けられたことがなくて、この女性に、どきりとしました。
「俺は夢とは思わない」
 彼は言い切りました。
「夢なんて、追っかけるものでしょ?俺は違う。はっきりした目的なんだ!俺は、自分に叶えられない願い事なんかしない。願った時は、約束した時だ。俺は、ここに宣言しに来たんです。どうせなら大勢の前の方がいいでしょ?その相手が、星になったかどうか知らない御先祖だとしても、知り合いには言えないもの」
 彼はハリトの他はこの野望を秘匿していました。商人になるとは、彼の父親の跡を受け継ぐか、さもなければ自分で需要を掘り起こすことになるからです。同じようなことを考える連中が出てしまっては大変ですから、彼は密かに、自分の夢を形に定めていこうと慎重に動いていたのです。…宣誓して、自分の目標を、心の中で動かぬものにするために。
「素敵ね」
 イアリオは呟きました。彼女はしっかりとレーゼを見ました。この少年にどことなくピロットに近い面影を見つけたような気分になりました。切れ長の目をしていて、顔の形は四角くて、少し額が出っ張っていて、およそ彼とは似ていませんでしたが、その瞳には、彼以上に熱い生への情熱が輝いていました。
「大好きだよ、そういう気持ち」
 彼女としては、ピロットに対する想いの延長上に、そう言ったのかもしれません。レーゼが目を丸くして彼女を見ました。そんなにも素直に相手から心情を吐露されたのは、これが初めてでした。
「ハリトは?あなたも、願い事?」
 ハリトは頷きました。えっとした表情をまたレーゼは見せました。
「でも、いろいろうやむやになっちゃったね。あの光のせいで」
「あれは何だい?亡霊?俺たちの御先祖なのか?そういえば、先生はここで何をしていたの?」
 イアリオは、燃えさしの蝋燭と黒表紙の本を見ました。私の希望が叶ったのかしら?あの時も、そう感じたのだけれど…彼女はそう思いましたが、それにしてもあの圧迫される光景は、彼女の望んだものではありません。それに、彼らからのメッセージは、まだ心に残っている感触を確かめれば、大変な事実を突きつけられている気がしました。「この国は滅びる。滅びなければいけない。なぜなら、行き過ぎたがゆえに、取り戻す必要があるからだ。悪は変わる。変わらなければならない。」…何をもってその言葉をあの天女は残していったのでしょうか。これが夢であれば、彼女はそんな文言を信じる必要はありませんでした。いいえ、今だって、気にすることはありませんでした。ただの幻を見たにすぎないと思えば、万事、今までのままでいいのです。
 けれど、彼女は、ハルロスの本を持って先祖たちの霊を慰めようとしていました。それに応じて彼らはやって来たのでしょうか。だったら…彼女の願いを聞き届ける代わりに、あちらからのメッセージを寄越したのだと、考えられないでしょうか。
「そうなのかな」
 彼女は呟いて、ハリトとレーゼを見比べました。二人はじっとイアリオが言い出すのを待っています。「我々は、一蓮托生だ。」亡霊の女の言葉が蘇ります。
「まあ、いいか」
 目の前の少年少女を信じるには、手掛かりがまだありません。それでも彼女は、十年前あの経験をしていました。この十五歳と十六歳の子供らに、どこまで伝えられるものでしょうか。でも彼女は、二人に話してもいいと思いました。(教師としては、どうだろう)とも思いましたが、その教師である当人が、教える立場の人間が、その教えに背くようなことをしているのですから。
「きっと私だけでは判断することが難しいわ。しかるべき人に打ち明けるべきかもしれないけど、私がしようとしたことは、安直には明かせないから。あなたたちには教えてあげる。でも、それは、私の意志を知ることになるよ。難しいことなの、これは。だって、あの現象は、その延長にあるのかもしれないわ」
 イアリオの真面目な話し振りに、二人の子供は、神妙になりました。彼らは、ここで彼女の話を聞いてもいいかどうか、疑いました。互いに目を合わせ、そうして話し合うものの、レーゼは、自分を打ち明けていましたし、ハリトは、自分が生徒になったことがある先生の物語に興味津々でした。話を聞く条件は彼らの中に整っていたのでした。
「じゃあ言うわ。でも、覚悟が必要よ?どこかで私は語るのを止めるかもしれない。大変なことなの。すごい昔から続く話で、私の経験も、そこに関わってくるから。ハリト、大丈夫?女の子が、こんなところで、夜を過ごしているなんてよくないことよ?」
「それは、でも、先生も同じでしょ?」
 ハリトは、持ち前の突っぱねた調子で唇を尖らせて言いました。ぱっちり開いた眼がきらきらとしていました。イアリオは、ふと、テラ・ト・ガルの十五人の人々のことを思い出しました。それぞれが、今は別の道を歩いているのですが、互いに共通の経験をしたという点は、マットや、テオルドといったかつての仲間と話していて全く変わらないことを、彼女は知りました。
 彼女は、二人の子供にこのことを話しても後悔はしないだろうと思いました。なぜなら、すでに多くの願いが叶えられている気がしたからです。
「十年前にね、一人の男の子がいなくなる事件が起こったの。私の友達でね。名渡しの儀式をやるほど、仲が良かったわ。と、私は思っているのだけど、相手はどうだったかな。すごくぶっきらぼうな男の子でね。誰かをいじめるのがすごく好きなの。そして誰からも好かれようとしなかった。彼を慕う人間はいたけれど、それは、彼の仕組んだ上下関係に基づいていた。彼はね、とある場所で、行方不明になったの。大人たち全員で彼を探したけれど、結局見つからなかった。死んだのかどうなのかもよくわからなかった。私お祈りしたわ。この丘で、あなたたちと、同じように」
 彼女は遠くを見つめました。子供たちは黙って話を聞いています。
「運命ね。私は今、彼がいなくなった場所を調べている。そこは、秘密の場所なの。大人たちは全員知っている。けれど、子供たちだけに隠されたところなのよ。町の下にね、大きな大きな穴があるわ。そこで、たくさんの人間が死んだことがあったの。昔の人たちは、その場所を忌み嫌って、地下に封じ込めてしまった。だから、その話は子供たちは聞いてはならない。成人式の時に、ちゃんと、知らされるけどね。正面の丘は、昔たくさん死んだ人たちを慰めるお墓だった。見てごらん、新月の夜は、星空が明るいわ。星になったと思われる御先祖たちが、この丘に呼びかけて、時間をかけて、彼らが成仏されるように、昔の人はここを造った。自分たちじゃ慰め難いから、祖先にお願いしたわけだ。そうしても仕方のないほどの、激烈な体験をしたから…。彼も、そうなるのだろうかと私は思った。彼はあの場所でいなくなったから。彼のお墓はちゃんとあるわ。でもね、私は、もう一度あの暗い広大な都に入って、こう感じたわ。彼は私の傍にいる。死んでしまっただろうけど、生きていると、思ってもいいような気がする。…私の祈りは届けられたと思った。だったら私は、生きている人間の代表として、死んでもまだあの場所に囚われている亡霊たちを、慰めなくてはいけないのではないか。彼との思い出はその場所で絶たれて、今もなお、そこには浮かばれない人々の魂が彷徨っているから…」
 彼女は言葉を切り、子供たちを見ました。彼らはじっと、イアリオの目を見ていました。ハリトが今にも泣き出しそうな瞳で見つめています。
「この本は、そこで見つけたの。当時の人間が書いた日記よ。ここにはね、私たちの町に伝えられている物語の、別の側面が書いてあるの。三百年前に本当に起こった、恐ろしい話。だけど本の著者は、そのことを、愛情をもって書いている。それが恐ろしいばかりに、まるで自分たちを嫌うように、人間の本性の側面を地下に封じ込めたのが、生き残った、私たちのご先祖なんだけれど、彼らとは違う立場に著者はいた。彼は言っているわ、滅びた国が、どれだけ魅力的で光に満ちていたか。活気に溢れ、近隣諸国の盟主となるべく、兵士たちは血気盛んだったか。私は今この本を死んだ人々に読んであげている。手応えはあったと思ったわ。生きている人間の意識が変わらなければ、死んだ人間も浮かばれることなんてあるだろうかと私は思う。私たちは、三百年もずっとあの街を忌み嫌い、封じ込めて、黄金が外に漏れることを恐れてばかりいたけれど、それは、間違いなんじゃないかって私は思っている。でもこれは、私だけが一人で考えていること」
 ここまで話し終えて、彼女はちょっとだけ後悔しました。やはり話すべきではなかった、と今更思ったのです。しかしそれはもう遅いことでした。少年と少女は、彼女の話を正面から受け止めていました。その目には、今までにない、特別な光が瞬き出しました。
 いくつかの質問を、二人は彼女にしました。それぞれは地下にある恐ろしい暗闇についてでした。彼女は丁寧に答えていきました。彼女から大体、大筋のすべてを語られて、二人とも黙り込んでしまいました。
「あのさあ」ハリトが口を開きました。「平気なの?その、先生は、そんなことが町の下であったことについて…」
「ええ、今はね」
 ハリトが首を傾げました。鳩のように愛くるしくイアリオには見えました。
「私は何度もあの街へ入っているからね。でも、私は、十五人の仲間たちとあの経験をした。大勢の骸骨に抱きつかれてしまって、我をなくした。あの街の恐怖を多分私たちは誰よりも知っていると思う。そこでね、みんなで、一度集まって、あの頃の記憶を整理したいと考えているの。数人にはもう会って、私の考えていることを伝えたわ。彼らは、私を支持してくれた。でも町中の人間によく理解してもらうことは、おそらく無理だろうとも言われた。…実をいえば、平気ではないわ。なんていったって私たちの住む家のすぐそばにそんな所があるんだから!でも、三百年間、私たちはここに住み続けた。いろいろなことを考えたわ。そして、いろいろなことをしてみようとも思ったわ。そうしているうちにね、十年前の記憶が私の中で整理されてきたの。怖くなくなったわ。そして、今の、今晩私がしようとしたことにつながっているのよ」
 彼女はまっすぐハリトを見つめました。彼女が何を言いたいのか、ハリトにはわからないようでしたが、少女もまっすぐに、イアリオの視線を受け止めました。二人はよく似ていました。あまり他人に頼らず、一人きりで生きているようなところが。レーゼは見つめ合う二人を見て、どこか羨ましく感じました。
「さて、と。私の話は大方終わったわ。君たちが、どうしようとこれからの勝手。私の話を聞いて、二年後か三年後、同じ話を聞くことになるけれど、やっぱり話していて多少の後悔が私にはあるわ。少し早かった。だってもう、逃れられない気分じゃない?」
 イアリオの言うとおりでした。二人の子供は、今しがた聞いた物語を、ずっと頭の中で反芻し、衝撃に胸を打たれていました。いいえそれ以上に、ここにいるイアリオという女性が、何を抱えているのか、どういった生き方をしていたかということを、直接聞いたことへの感慨がずっと深く広がっていました。
 イアリオは、深く考える様子の二人を残して、ここから立ち去ろうとしました。自分がしてしまったことは、もうどうにも取り返しがつきません。自分の思想を、まだものの考えも定まっていない彼らに言ってしまったことは、大きな代償を未来に用意するかもしれませんが、その責任を、いずれ自分が負うのだとしたら、その覚悟は持っておこうと思ったのでした。…こうしたことを考えるのは、彼女が歴史の教師だからでした。かの町にとって歴史は、無限の欲望の成れの果てを教えるための教材でした。それはどきどきする授業ではなく、人間がいかに愚かで、つつましく生活することこそがどれだけ正しいかを、倫理として教え込む恰好の機会でした。彼女は人気のある教師でしたが、授業がこの路線からはずれることはありませんでした。ですが、イアリオは日常の一つ一つの出来事を、人間の歴史にうまく組み込んで話すことが得意でした。彼女の授業に出ると、子供たちは得した気分になるのでした。
 子供たちは同時に顔を上げました。立ち去ろうとして背を向けたイアリオを、彼らは呼び止めました。
「先生は、まだ俺たちの質問に全部答えていないよ。だって、あの白い光の正体は何なの?知ってるの?」
 イアリオは振り返って、肩をすくめました。
「私にもわからないわ。今から帰って、そのことを考えてみるつもり。でも、もし星々についての話がその通りなら、あれは、私たちの御先祖でしょうね」
「でも変なことを言っていたよね。あの幽霊たちは。この町が、滅びるとか何とかってさ」
 ハリトが撥ね付けるように言いました。
「言ったね。私は本気にしていない。いくら先祖が忠告しに来たからって、いきなりそれは、信じられないわよ」
「でも先生は気絶したね。あの光に遭ったから?それとも、言葉が、何かあるって思ったから?」
 イアリオは首を振りました。わかりません、何も。ですが、妙な感触が残っていました。あの言葉は真実だと思われる言い知れない事実が、どこかに潜んでいるような。彼女はハルロスの日記の中身を思い出しました。そこには確か、「オグ」という魔物について書いた部分がありました。「人間の悪の集合体、遥か昔からいた存在!」そう、彼らは言っていました。もし、光たちの言葉に意味があるなら…手掛かりになるものは、その「オグ」という何某かなのかもしれません。
(オグ…オグ?日記のほかにもどこかで聞いたことがあるわ。どこでだろう)
 彼女は今は帰ることにしました。圧倒的な物事が、目の前に現われて、体中が疼痛のように痛んでいました。疲れもありました。彼女は、なぜこうした話を二人にしてしまったのだろうと、後悔もしていました。
「今、先生は、全部自分で抱え込もうとしていない?」
 ハリトが突き刺すような口調で言いました。えっとイアリオは振り向きました。
「私たちも、出会ったんだよ?あの光に」
「そうだよ。何だか知らないけれど、もう乗りかかった船なんだ。先生に地下都市のことを説明されて、俺はびびったけれど、でも嬉しいんだ。大人は子供に隠し事をするもんだぜ。でも先生は、それをしなかったから。わからないけど、なんだか嬉しい」
 レーゼが頬を紅潮させて言いました。イアリオは、何と言っていいか分からず、その場に立ち尽くしました。
「先生の話が手掛かりになる。だって先生、亡霊を慰めようとして、ここに来たんでしょ?それに応えに来たことは明白じゃないか!先生のやっていることが奴らに届いたからでしょ?だったらそのメッセージ、すごく重要なことなんじゃないの?先生は逃げるの?うやむやにして、あれは夢だったって思うの?だったらさ、俺に言わせてよ。先生はなぜここで祈ろうとしたんだって!いなくなったピロットって奴が、生きていると信じるためでしょ?そうじゃないか。先生はそいつが死んでいるなんて思っていない。願い事は夢のためにするもんじゃない。ありえないことを信じるためにしない。自分への宣言だ!」
 どうしてでしょう。彼女と、レーゼの間では、生きている時間が六年違います。無論、イアリオは自分の願い事は実現不可能だと知っています。大変自分勝手な希望を言ったものだと知っています。テオルドに言われるまでもないのです。「願い事、か。もしそれが実現すれば、それは本当にすごいことだ」そのとおりなのです。
 彼女はレーゼを抱き締めたくなりました。ですがそれはしませんでした。彼の言葉だけで十分でした。どうして彼の言葉が、それほど強く胸に残ったか、彼女は考えませんでした。でもその通り、その言葉通り、あのきらびやかな光たちを前に、逃げる気もなく、その時の彼女が不可思議な現象を受け入れたのは、それゆえに気絶したのは…自分に誠実だったからでした。果たしてあれが、皆で見た幻覚なのか、本当に先祖たちが降りてきたのか、それはどちらでもいいことでした。人間は、驚異を前にして怖気づきます。イアリオは自分の頬をぱんぱんと叩きました。
「もう眠いわ。帰らなくちゃ」
 そう言いながら、彼女は美しい微笑みを浮かべました。
「ありがとう」
「まだだよ!先生、どうするつもり?今までみたいに、ずっとお墓参りし続けるの?」
 イアリオは頷きました。
「あの光のことは…どうするの?」
 彼女は首をすくめました。
「俺は、黙っていられないぜ。だって、あいつらの言う通り、町がめちゃくちゃになってしまったら俺の目標はどうなるんだよ。あの町に、噴水を造ることが俺の生きがいなんだぜ。あいつらの言ったことを、俺は確かめたい」
「それは、どういうこと?」
 イアリオが訊きました。
「俺も、先生のやっていることをする」
 彼は、宣言しました。
「自分の目標はどうなるの?」
「関係あるから、そう言ってるんだろ?」
「それでいいの?」
「何を言いたいかわかるつもりだけど、俺は、自分の目的を、ここで言うぜ。星空はもう明るい。先生の声が天井に届いたんなら、俺の声だって届くはずでしょ?」
 彼女は頷きました。六歳も年下の少年に、彼女はときめくものを感じました。
「その通りね」
「だったらあたしも、宣言するわ。レーゼと同じことと、違うことを」
 ハリトが横からひょいと顔をのぞかせて、きらきらとした声で言いました。
「お前の願望ってなんだよ。俺は、聞いてないぞ」
「教えてあげない。いずれわかるわ」
 ハリトはそう言い、突き返すように彼を見つめて、悔しそうに鼻を曲げてみせました。レーゼは不思議な表情をしました。ハリトが彼が思っていたような人間ではなかったことを、初めて知ったような顔でした。
 イアリオは笑いました。どうしてどうして、同志をここで、二人も発見するとは思いもしませんでした。彼女は彼らの言うことを信じることにしました。なぜといえば、そうしなければ、たった今得られた信頼を、彼女らしく返してあげられないことになるからでした。彼女は二人を頼もしく思いました。どんなことにも立ち向かえる力を、二人から貰ったようでした。
 このようにして、イアリオは、突如現前した光たちの合唱を事実として迎えたのでした。彼らが本当に自分たちの先祖で、その啓示が指すことがまこと現実であることを、三人は、いいえかの町の人々すべては知っていくのです。時間が流転しとてつもない過去が現れる、いにしえの人たちの想いの結果を、彼ら自身が知るのです。
 それは、とてつもない冒険でした。しかし、それに対する膂力を、彼女は彼らから預けられたのでした。
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