第7話 星空への祈り

文字数 12,376文字

 ピロットは表情を失いました。いいえ、今このような快感にもう一度浸るのでなければ、彼はもう、二度と相好を崩すことはないと思えました。うっかり人前で感情を露わにするなどしないことでしょう。彼は悪を懐中のものとする人間でしたが、その延長上に、この態度があります。彼は弱みを握られまいとして相手を怯えさせる激情以外は隠し通していました。その弱みが、昨今著しく増えて、彼はすっかり同級生とも対等な立場になってしまい、今まで維持してきた矜持は変わらざるをえなくなっていました。ですが、再び元の彼になるべく、地下は彼に大事な食事をとらせました。
 彼は壁を下りて、金色の地面を踏みました。ところが、ごつごつとした骨の山にすぐ足を取られました。誰かの腕が、何かを掴もうとして、空を向いています。金の小山にうずもれた頭が、むなしげにこがねを眺めています。彼はどくどくと心臓が張り裂けんばかりに動いているのを感じました。ここには秘密がありました。皆誰も彼もこの金色の光を求めて戦い果てたのを、一つの物語として彼に訴えていました。彼はそのお話に耳を傾けました。…いにしえの人々もまたあらぬ欲望に唆されて、結果、求めた黄金に埋もれ死ぬという、昔話にも聞いたことがあるお話です。彼は、誰かの手にかかった、丁度手の平におさまるほどの大きさの皮袋を見つけて、それを拾い上げました。彼はじっと物言わぬ死人の顔を眺めました。彼はテラ・ト・ガルの国のまだ未決定であった重要な項目を思い出しました。まだ、王様は誰か、決めていません。
 彼の手には小さな袋が一つありました。
 しかし彼は、ここの黄金を全部自分のものにしたいと思いました。そして、ここにあるだけでなく、盗賊たちが奪ったのも含めて、この地下にあるすべての黄金が欲しいと思いました。
 それだけでなくて、彼は、この都市をまるごと手にしたいと思いました。
 彼は、ここだけでなく、彼の望むすべてのものを、ありとあらゆる宝石を、この手に入れたいと望みました。
 導火線のように、彼の体はしゅうしゅうと音を立てていました。焼きごての先か、あるいは熱された石のように、その皮膚は熱を帯びていました。彼は何に目覚めたのでしょう。彼は
 誰よりも優しい人間だったとは他の誰も理解しません。彼の中に
 彼自身が出会ったあらゆる人々の思いが棲まったなど誰にも理解できません。
 彼は何か刻印をここに打ちたいと考えました。しかし、打つよりもここからある程度の黄金を運んで、今目覚めた欲望の記念に取っておいてもいいかもしれないと結論しました。寝床でもどこでもこがねの粒を見つめれば、彼がやろうとしたことを、にわかに思い出すことができると考えたのでした。彼は、小袋に金の粒を詰めました。口紐を縛って、懐にしまい、灯火を再び右手に掲げると、彼は生命の壁を蜘蛛のように伝って登りきりました。後ろを振り向き、こがねの渦を見下ろして、彼は野生の狼のごとく叫びたくなりましたが、それはやめました。壁を下りて、もう町へ戻ろうとして、彼は松明の火を消しました。付近はとっぷりとした闇に包まれました。一寸先もこれで見えません。彼は誰かの灯をつかみ、それについていってしまおうと思ったのです。今や、黄金を胸に隠し持っているのですから、当然再度自分が街に侵入したことを知られてはなりません。袋の中身に唆されたのだと知ったら、町の人々は、こぞって彼を打つでしょうから。彼は自分を隠さなければなりませんでした。うまく新たな望みに目覚めた己を隠し通して、機会を窺い、力を蓄えて、望みのものを手に入れられる準備をこれから慎重に行うのです。…それはラベルが地下の探索に際して皆に強く要請してきた態度でした。
 さて、あの三人はどうしたでしょうか。彼らはとっぷりと沈んだまったくの闇の中で、会話を交わしていました。
「あなたたちに、訊きたいことがあるんだけれど」
 手錠とくつわを解かれて、テオルドはそう言い二人を呼び止めました。彼の目に、二人は見えませんでしたが、トアロが喜びの表情をしてこちらを振り返ったのはわかりました。反対にアズダルはしかめっ面を返しましたが。
「今から言うことは、この日記帳に載っていたんだ。とても気になる部分で、もしかしたらと思っているんだけど、そちらの知恵も借りてみたいんだ」
 アズダルはいちいちテオルドの口調に突っ掛かるものを感じました。テオルドに感謝する気持ちは彼もトアロと同じでしたが、奇妙な少年は何を考えているかわからずこちらも見下しているようにすら、思えました。彼はトアロより一歩下がった位置から様子を見ました。すると、少年が彼を見たのを見ました。その時、この少年と、まるでどこか深い洞窟の中で互いに二人きりになり、この世の終わりを迎えているような気がしました。
 その瞬間、アズダルは自身に劇的な変化が訪れたのですが、それを変に思いませんでした。彼は少年に魅入られました。彼はテオルドをどこかで恐れていたのですが、今やその警戒は、崇拝したい気分に取って代わられました。まるで、それは初めて盗賊トアロと邂逅したあの時のように、彼自身の歪んだ自信の無さを、ここで、オグの真下で、いびつに刺激されたのです。
「クロウルダ、て呼ばれる民族がずっと退治を続けた魔物がいるでしょ?オグという。その魔物について、こうあったんだ。『ラエルの地に封じし魔物は出てくることを拒んだが、これを仕留めにやって来る若者がいた。しかし魔物は巨大で、若者はこれに喰われてしまった。魔物は眠りに就いたようだった。しかし、寝息立てる魔物が巣立つ言葉の合間に空飛ぶ布の幕が上がる。魔物は消えてすべてを吐き出す。再びの海の他に、川の他に、山、大陸、岩、石ころ、植物、動物、人間、さまざまなものを…。』これに似たようなお話を、どこかで聞いたことがない?」
 この文言は、ハルロスの日記のほかに、評議会預かりの禁書の中にも出てきました。彼はこの言葉がずっと気になっていました。
「いや」トアロは首を振りました。「だがラエルという場所は知っている。私もクロウルダの消息を調べたことがあって、その先に見つけた」
「へえ」
「確か南の地だったか。川べりの町だが、大変盛んだったようだ。そうだ、クロウルダの町にしては珍しく、他国の侵略を受けてその町は滅びたのではなかった。私も見てきたが、まるでこの黄金都市のように、廃墟になっていたよ。その原因はわからなかった。人だけが消えていた」
「それは、とても興味深い」
 彼は舌なめずりしました。
「私が訪れた数日後、町はがらがらと崩壊してしまったという話だが、にわかには信じ難いな。あれだけ立派に建物が残っていたんだから」
「そういうこともあるんだろうね…」
「ところで、どういうわけか、私はこの滅びの都市も同じ運命を辿るように思われてならないのだがね。果たして、古の怪物が今もこんな所に留まっているものかわからないが、私とアズダルは蠢く妖しい霧の化け物を見ているのだよ。話によると、古代の魔物は悪意の塊とも言える奴で、触れた者を、その虜囚にしてしまうらしいのだが。あの霧の怪物を見て、私は話が真実ではなかろうかと感じたよ。だから、お互いに注意しなければな」
「そうだね」
 テオルドは上を見上げました。何もそこには見えませんでした。頭上にいる怪物が両腕を広げてそのかいなで彼を撫でていました。彼は言いました…。
「古の怪物が、どんな奴であれ、許すことはできないな。もう一度僕らの手で封じてしまわなければならないのかもしれない。退治することができればその方法を探さないと」
 彼は、それがまるで自分のことのように言っていたことに、気づきませんでした。
「その怪物に魅入られてしまった人も…」
 しかし、ここから両者の会話は支離滅裂になっていきます。
「大変だ。私のことを言ってる。ここから一刻も早く逃げ出さなければ」
「いいの?そんなことをして。本当の祭りはこれからだよ?大事な大事な儀式がある。町人が皆こぞって望む素敵な祝祭だ」
「やめておこう。これでも十分だから。さて早速町の人間たちの隙を突く計算をしなければならない。アズダル、行こう。お前ももう眠いだろう?」
「いいや。ところが、すごく体が熱いんだ。トアロもだろう?あの状態にはなっていないんだがな。なんとかしたくなるほど火照ってしょうがない」
「ではやはり行くしかない。我々で防衛網を突破するんだ。やれるさ、今までどんな困難もやりすごしてきたんだからな。向こうに地の利があるからといって、こちらにチャンスがないわけじゃない」
「そんなに焦らなくてもいいのに。それどころか、この街には、僕たちよりもっと怖いオグって化け物がいるのに?」
「逃げるのではない。立ち向かうんだよ。運命にな。そして、運命をこの手に掴むために!」
「そうだな、行こう。ここへ居てもしょうがないから」
「待ってよ、まだ用事がある。あと一つだけ。上の町の北には難攻不落の山脈が横たわっているんだけど、その山脈の北と南では伝説が違うというんだ。ハルロスの日記帳に書かれているんだけどね。北側にはその山脈は畏れ多い神の山々として伝わっている。月に一度、空から白い光が山頂に集って、北方に広がる森を照らすなんて言われているらしい。けれど、南側ではその光は神様の慶兆ではなくて、死んだ先祖の霊たちだとされている。まるでシルクのような光沢で地面まで落ちてきて、生きた人間に警告をするっていうんだよ。これって、どう思う?」
「どう思うか?さて、わからないな。私はその地を踏んでいないからな」
「いいかい?ふるさとは、皆いとおしいものだよね。トアロにも、アズダルにもそれはあるよね?希望はみんなの胸の中にあるよね。それを奪われてしまったらどうだろうか?元居た場所に戻りたくならない?本当の源まで帰りたくならない?いいかい?ふるさとは、みんなの源だ。言ってみれば、それは自分を育ててくれたものだ。自分の準備をしてくれた場所だ。赤ん坊まで戻れとは言わない。けれど、どうにもしようがないくらい、戻りたくなる場所ってないかな?」
「私にはないな。しかし、そんな話をなぜここで?」
「強い希望が必要なのさ。僕には、それにあなたたちにも。別に心配しているわけじゃないよ?ただこれから起きてくることは、どうにもしょうがない働きがあるんだっていうことさ」
「生まれてきた場所に戻る、か。そこが穏やかで安心できる所ならいいけどな。我々はこれからそれを望まねばならんのだ。私たちは生まれ変わるんだ」
「へえ!びっくりした!まだ望むものがあるの?黄金はもう、十二分に奪ったんでしょ?」
「盗賊にとって盗みが目的なんだよ、テオルド、他はもういらないのさ。我々はもう休む。奪った宝石は、余生のための資源なのさ」
「情けない!そんなことで、僕にまた出会えるのかい?」
「それは約束さ。きっと出会う。その時にお前の研究の成果を見せてもらうことになっているんだろう?私たちはきっと戻る。ああ、さっき言った、この場所が我々の生まれ変わるふるさとの土地だと言っていいのだろうね」
「その通りさ」
 テオルドは納得して会話を切りました。その時、強い風が吹き、彼らから何かが取り除かれました。すっと我に戻ったテオルドとトアロとアズダルは、目には映らない虚空を同時に見上げました。
「オグか…?」
 途端にアズダルは激しい欲情を覚えました。もうその場でトアロを押し倒したいような気分になりました。トアロはさっきから背筋を伝っていた寒気がなくなり、肌寒い悪寒に包まれました。かっかと燃え上がっていた体は、アズダルと同様の欲望を抱きました。我を忘れて彼女は男と一体になることを望みました。
 テオルドは今魔物に触れた実感を繰り返し味わっていました。彼はオグのものの考えや意図を理解したような気になりました。相手は無数の人間の意識を束ねた巨大な「雲」でしたが、それは彼とて同じ肉体を所持していました。テオルドはふうと息をつき、二人の方を向いて、彼らに言葉を掛けました。
「すべての黒よ、ここに集まれ」
「なんだ?」
 もはや気もそぞろなトアロは一瞥のような返事をしました。
「なんでもないよ。お互いに気が遠くなったね。化け物にすっかり見出されちゃった。これじゃ、本当にどうすることもできない」
 テオルドもまた彼女らと似たようなリビドーを感じていました。その矛先は、決定的な覚悟を自分自身に収めようとして、彼の優れた感性を、皆同一の方向へと向かわせました。彼は今やオグもこの暗闇もなくとも個人として選ぶべき道標がありました。イラの血潮も関係ない、昔の犠牲も縁遠い、現実の歪んだ守護観こそ憂うべき事柄である、彼の深い深い愛情が行く、破滅の道程を指す看板でした。彼は自分の身を壊してもこれを破壊しなければならないと思いました。
 それから二言、三言言葉を交わし、テオルドは二人と別れました。盗賊の二人はそれから闇の中でしばらく激しく情交に勤しみました。
 「すべての黒よ、ここに集まれ」それは、彼が母親から聞いた物語に出てくる蛇の吐いた捨て台詞でした。蛇は、色々なものを飲み込んで、しまいに彼の住んでいる大地まで呑んでしまい、途方に暮れて、そのように言うのです。蛇は、自分の体内に有るものに意味をもたらそうと思いました。その中で選んだのは、すべてに黒い悪の意味を付与するということでした。悪がわだかまれば言い知れぬ力が作用して、ともかくも強い生命力が期待されるからということです。蛇は…自分の破滅を望んだと、母親は皆まで言いませんでしたが、その物語の本質は、そうでした。
 テオルドは灯りがなくとも目的の場所まで行くことができました。そこは彼が日記を手にした大邸宅の広場でした。朴訥とした雰囲気の岩が墓代わりにそこに立っています。ハルロスの墓です。イラがそこに立てました。彼の死体は川の底に捨てられてしまいましたが、日記を岩の足元に供えて、彼の魂をここで慰めたのです。彼女は言いました。
「すべての黒よ、ここに集まれ…」
 彼女は復讐を望みました。ああ、その感情の連鎖が、ここに集合し結実します。彼女と子孫は、同じことを願いました。同一の場所で、同一の思いで、同一の悲しみが、同じ台詞を漏らせました。
「すべての黒よ、ここに…」
 テオルドは眠りました。少年の心と体は疲れきっていました。ハルロスの墓の前で、彼は身を横たえ、すうすうと寝息を立てて深い眠りに落ちました。彼の願望に誘われて、巨大な巨大な悪の姿が、少年の上空に再び現れました。霧は、あっというまに彼の体を包み込みました。少年の筋肉を溶かし、皮膚を食らい、骨だけを残してすべてをむさぼりました。彼の骨は、不思議にも元の大きさより少し膨れて持ち上がりました。それから十年後、イアリオがやって来て見た人骨は、彼のものでした。
 神話の中には神様が、泥や粘土をこねて人間を作ったという説話がありますが、魔界の霧が通過していった道の上に、地面の土でこねた一人の少年が立っていました。少年はテオルドの姿をしていて、その目は聡明な光を湛え、頭脳は明晰で狂いない判断ができました。彼は生まれ変わりの悪でした。オグの体を透過してできた、カルロス=テオルドの移し身でした。人間とは魂の移しによる現人(うつせみ)でしょうか。どちらにしても、それは人からはテオルドとされる、まごうことなき一人の人間でした。
 イアリオが、寝床で寝返りを打ちました。テオルドに、そしてピロットに、大変なことが起きたにもかかわらず、彼女は幸福な睡眠をむさぼっていました。その日はいいことがあったのです。
 三百年前、かの黄金都市に破滅が訪れた時も、遥かな大地の静かな村では、恋人が寄り添い肩を並べていたかもしれません。赤ん坊が誕生の喜びを全身で叫んだかもしれません。またある幸せが人々の間でたゆたっていたとしても、その隣近所で、憎しみ合う者同士が互いに剣を握っていたかもしれません。世界は同時に進行していました。時間は限りなく同じ速度で進んでいました。
 闇の中、交わり合った二人の男女は、案の定、軽率な行動から町人たちに見つかりました。彼らは逃げましたが、その判断の朦朧とする中で逃げおおせることはできませんでした。彼らは捕まり、追い詰められましたが、まだピンチをチャンスに変えようとする意気込みは顕在でした。
「これはこれは、(かみ)の町の皆さん、ごきげんよう」
 トアロは慇懃にお辞儀しました。
「我々に一体何の用でしょう?こちらはしがない盗賊、盗んだものはお返ししますので」
「お前たちは二人だけか?他に仲間がいるとすれば、ただではおかない」
 人々が槍を突き出し脅しをかけています。しかし、二人は屈することなくまったくの平静で受け答えをしました。
「いません。いませんよ。誓って申し上げますが、私たち二人だけですから」
「なぜこの街へ来た」
「黄金を求めにですよ。かつて滅びた古の黄金都市の噂は、今や世界中に散らばっています。勿論大体の人間が半信半疑ですが、我々は盗賊でありながら冒険家でもあります。挑戦しないわけにはいかない、魅力的な噂ではないですか。噂に導かれここに来たのですよ」
 トアロとアズダルは両手を上げ、人々を宥めるようにアピールしました。
「しかし今こうなってはどうしようもありません。盗んだものはすべてお返ししますから、どうか見逃してはくれませんか?」
「盗んだものはどこにある」
「あなた方がずっと警戒された神殿の奥の、洞窟の内部ですよ。案内して差し上げましょうか?」
「よし、行け」
 トアロは人々を連れて、歩き出しました。彼女は洞窟の中へ入ってしまえば脱出のチャンスはあると目論みました。狭い岩壁に挟まれた場所ならいくらでも目くらましが効くのです。たとえ手錠が渡されても、くつわや目隠しを嵌められても…ところが、人々は何も彼らにせずに彼らのあとをついていきました。いいえ、いつのまにか、彼らの前と横側に回って、二人を誘導していきました。その方向は神殿に向かわず、どこへ連れて行かれるのか、さすがに二人組の盗賊は不安になりました。
 大分歩いたでしょうか。街のほぼ半分の距離を進んで、彼らは人々が人工的にこしらえた港湾の岩壁の前まで来ました。その努力の影は、無数の足跡と脚組みの跡とに見出されますが、壁は完璧に組み上げられ、隙間のない岸壁は外から見ればまったく自然の外壁でした。ただ近くでちゃぷちゃぷと波打つ音がします。海の底までは岩を組み上げてはおらず、その気になれば、侵入者は海の中から泳いで入ることができました。二人は絶壁に圧倒されました。ずっと頭上の天井までそれは高く伸びて、天井もしっかりした梁と柱が渡されて、岩壁と一体になり、柔らかな土がその上を覆う見事な土手になっているのです。これが人間業とはとても彼らには思えませんでした。昔の人間をこれほどの大事業に駆り立てたものとは一体何だったのか、今はもはや、二人組の盗賊には考える時間もわずかでした。
 人々はここで彼らを殺しました。無言で次々と槍を突き、彼らを串刺しにして、果てさせたのでした。死骸をすぐにでも海の中へ転がそうとしたその時、鋭い警笛の音が、真っ暗闇をつんざきました。
「いるぞ!いるぞ!盗人だ!まだここにいやがった!」
 見つけられたのはピロットでした。逃げるその身のこなしが盗賊に似ていたので、見間違われたのでした。しかし、彼はもはや盗賊でした。胸の中にはあの金色の絨毯から盗んだ、こがねの粒があるのです。彼はそれに魅入られました。町の人間が、こぞって恐れる欲望に、彼らの先祖たちの命をなくした忌避するべき魔法の力に、唆されました。
 彼はもはや越えてはならない柵を越えたのです。町の人間の棲まう、欲望に対するいびつな恐れを、彼は飛び越えて、その先にいました。彼はもし捕まれば何をされるかわかりました。しかし、もしこの時素直に捕らわれて、自分のしたことを正直に明かせば、これから彼に臨む、ひどい運命に出会わなくてすんだかもしれません。ですが、それでも多分、彼は永久の檻の中に閉じ込められて、自分の犯した罪を、死ぬまで追及されたでしょう。一度、その魅惑と快楽を手に入れた者は、人々から恐れられるからです。かつて、この町ではこうした人間が少なからず現れてきました。その都度、人々は彼にひどい仕打ちを施してきました。
 やむをえなかったのでしょう。彼らを滅ぼした、純粋な悪の力は、打ち消さなければならないのです。誰がそれに異を唱えられるでしょうか。下の街には事実がまざまざと残されているのです。
 ピロットも町の人間の一人でした。彼は、町を裏切ったとは思っていなかったでしょうが、その時は、人々が避けていた欲望が熱く体中を駆け巡り、その目で追っ手を見ると、追っ手は取り憑かれたような恐怖に顔面を歪めていました。黄金は、まるで彼らのものだと思いました。彼らほど黄金に執着している人間はいないのではないかと思われました。ピロットはそれを醜いと感じました。彼らはただ人々の欲の根源であるこがねから身を離して、神官ぶった顔つきをしながら、一途にそれに焦がれていたのです。ピロットはにやりと笑いました。また、とても悲しくなりました。彼はもう逃げるのをやめて彼らの言うとおりにしようかと考えました。手に入れた黄金も、どうでもよくなってしまったのです。
 すると、彼は地面に転がる二人の死体に足を取られました。柔らかい嫌な感触に立ち止まって振り向くと、そこには見覚えのある二人組の盗賊の、穴の開いた死骸がありました。彼の目は見開かれ、巨大な恐慌が少年を襲いました。自分もこうなるのでは?自分もこうなるのでは?彼は盗人だったのです。もはや言い逃れはできません。
 その時は人々はもうすでに目の前を逃げているのが町の少年だとわかり、彼を知る者が名前を皆に教えていましたから、ピロットはその名前を呼ばれて追いかけられていたのですが、もはや、彼にとって自分の氏名は盗賊と同義でした。少年は、生か死か二つの道のみを選ばされました。手を出して、どちらか握ろうとすれば、明確に、伸びた手の行方はこちらを指すでしょう。
 決まっています。
 彼は、平常心を崩してすっかり慌てて逃げに逃げました。恐ろしい恐怖が少年の心臓を突き破り、今にも、体中を破壊してしまいそうでした。町の人間に殺されるという…もしかしたら、三百年前にこの都で人々が経験したことが再現されると。土蔵から現れたのも含め、彼は無数の遺骸を見ていました。彼らはまだ無言でこの街に居続けていました。彼らは少年にのしかかり、ここから出してくれと言いました。
 悪童の名をほしいままにした少年は、とある入江を見つけて、そこに滑り込みました。入江には一艘の舟がありました。小型の帆船で、オールもマストもありました。彼は川遊びで舟の扱い方には多少の心得がありました。彼は勢いよく舟に乗り、オールを突き出し、明け方の、うっすらとした明るさの光の中へ漕ぎ出していきました。追っ手たちが来てみると、少年の舟はもう、彼らの手の届かない、水の上を滑っていました。天井の低いアーチをくぐって、彼は鬱蒼と揺らぐ海の波間に出て行きました。それきり、彼の舟は帰って来ず、おそらく暗礁に行く手を遮られて、沈没したものと思われて、外に出てその残骸や彼の姿を探すも、何も見つかりませんでした。
 木っ端に砕けたであろう彼の舟は、その昔、ハルロスが使っていたものでした。果たしてそこにピロットを導いたのは、ハルロスの霊でしょうか、それとも、人々にとこしえの恨みを抱くイラの霊でしょうか。どちらにしても、少年の命を運び去ったのは、以前町の人間に殺された者が使った遺品だったのでした。

 二人の少年の運命は、このようにいちどきに大変な変革をもたらされます。可哀そうなのは残された少女でした。やっと懇意になれたと思った少年が、今朝、事件に巻き込まれて死んでしまったかもしれないと聞かされたのです。少女には意味がわかりませんでした。しかし、彼の性格と、まだ盗賊たちが捕まっていなかったことを思い出せば、何が起きたのか、彼女には推測ができました。彼らしいプライドと動機が覗いたのかもしれません。少女は頷きました。そして、人々の言葉が真実なのかどうか、必死で尋ね歩きました。その時はまだ誰も事件の詳細をよくは知りませんでした。彼女は泣きながら彼らに訊きました。誰でもいいからピロットは無事だと話してほしくて縋りました。人々は首を振るばかりでした。彼女は、この事件が自分に責任があるのではないかと疑いました。なぜなら、彼女が町に盗賊たちを通報したことから、生じたことのように思われたからです。イアリオは我を失って、どうしてどうしてと自分を虐めました。がんがんと割れんばかりに痛む頭を、彼女は抱えました。そして、これまでの出来事のすべてを、彼女は母親に打ち明けました。
 母親は何も言わず、ただ彼女を抱き締めました。少女はそれだけで、止めどなく溢れる涙を流すままにできました。彼女は自分がどうするべきか、ちゃんと判断するために違う場所へ行こうとしました。家にいるままでは、ずっと泣き続けるでしょうから。玄関を押して出て行こうとした時、彼女はテオルドに外で待ち構えられていました。あの、生まれ変わりの悪となった、オグと融合したテオルドです。
「イアリオ、ちょっといい?」
 十五人の仲間である彼の姿を認めて、彼女はまた泣き出しそうになりました。後悔は先に立たずも、涙のように後を絶たないのです。しかし、それこそが悪の好物でした。
「イアリオは、どうしたいの?願いたいんだろう、ピロットの無事を。じゃあ聞きなよ。町の西地区に、ゴミ街という区画があって、そこにシャム爺という人がいるんだ。彼ならどうすればいいかわかるんだって」
 イアリオは半信半疑にそれを聞きました。ですが、何かに縋りつかなければならない気持ちの彼女は、彼の言葉通り、ゴミ街のシャム爺という人物を当たりに町の西へ赴きました。ゴミ街とはその名のとおり道が狭くて入り組んだ街並みの、空中に橋が架かるほどのごみごみした一帯でした。彼女はそこで、たった一人の人物を見出すために街中を駆けずり回り、夜になってやっとのことで相手を捜し当てました。
 シャム爺は親切に彼女にアドバイスをしてあげました。今は願うことしかない。そうだろう、お前さん。自分にはどうしようもないことだ。だったら、その子が無事であるように、強力なまじないを一つ教えてやろうじゃないか。彼女はそのまじないを聴きました。
 新月の日に、夜、北の山脈を望める墓丘のてっぺんに立ち、空のお星様に向けて、願い事を言うのだ。その墓丘というのは湿地のど真ん中にあって、行くのも難儀だが、帰るのも難儀だ。さらに、その墓に納められているのは昔たくさんの人間が死んだ際に慰めようとして閉じ込められた霊魂なのだ。今でも彼らのところに遥か昔に生きた人たちの死霊が呼び掛けに来るそうだ。おいでおいでと、空からな。
 月の出ない夜は、星となった太古の亡霊が、墓の下の幽霊どもに呼び掛けやすい時間なのだ。その時に願い事をすれば、御先祖がこちらの願いを聞いてくれるかもしれない。そうしてみないか?さて、それがまじないかどうかは…イアリオは問いただしませんでしたが、少なくとも心は軽くなりそうでした。彼女は次の新月の晩、早速墓地に行って、彼の無事を祈ろうと思いました。そこへまた、テオルドがやって来て、自分もついていくよと言いました。彼女は一人では心許ないからと、彼を連れて行きました。
「願い事、か。もしそれが実現すれば、それは本当にすごいことだ」
 彼はにやにやしながら、皮肉とも嘲りともとれる口調で冷ややかに言いましたが、彼女の耳に届きませんでした。湿地は道無き道で、月のない夜ですから星明りを頼りにぼんやりとした草原を分けていかなければならず、少女のイアリオは必死で草の海を泳いで渡りました。そして、荒れ果てたこんもりした丘に到着すると、歯のように突き出た岩を避けて、無造作に立てられた看板を目にしました。
「からだは闇に、たましいはここに。長い時をかけて、彼らは望みのすがたになろう。あとはすべて時が解く。彼らの罪も、その運命も」
 風雨に三百年も晒されたその立て札は、しがみつくように地面に噛みつき、折れ曲がった矢印は真下を指差しぶら下がっていました。文字の部分だけが何度も重ねて塗られたようで、そのように読むことができたのです。イアリオは静かに目を閉じて、この墓の丘を登る次第を、胸の中で看板に言いました。丘の下ではテオルドが不気味な笑みを浮かべながら彼女の一挙手一投足を見ています。彼女は丘のてっぺんまで来て、遠い空に星を臨み、願い事をかけました。今にも、眠りに就こうとしていた辺りの茂みやイバラたちが目を覚まし、おもむろに首をかしげました。空から星明かりが降り注ぎ、神秘的な光が蒼白く少女の頬を撫でました。その時、少女は自分の願いが星空に聞き届けられた、と思いました。しかし、坂の下で少年があくびをしたのも耳にしました。彼女は構わず、母親に頼んでおいた弁当箱を広げて、星になったといわれる御先祖に奉納しました。

 それで終わりでした。彼女は今も彼の消息を聞いていません。もはや死んだものと思われますが、彼女の中ではそれもまだ未整理のままでした。彼に預けた彼女の恋心は、今もその胸に残っています。二十二歳。イアリオは、地下から持ち出した黒表紙のハルロスの日記を大事に抱えて、青々とした空を見上げました。この天の下に、まだピロットが生きていると思っても、よいような気がしました。なぜなら彼は、彼女を導いて、十年後の現在、この貴重な書物にめぐり合わせてくれたからです。彼女は空に感謝しました。今は見えない、向こう側にある星々に、自分たちの、御先祖に。
 皮肉なものです。彼女の先祖は星になった者たちの他に、地面の下にも埋まっていたのですから。いずれ復讐の時がやってきて、あらゆるものが灰燼に化しても、彼女はその事実に気づきませんでした。事件に巻き込まれてしまえば見えることはただ己の周囲だけなのです。あらゆる事柄がそこに関わり込み、人間は、その一部しか気づかないのです。人間である以上は。人と、人との間に棲まうのですから。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み