第13話 接吻(くちづけ)

文字数 38,447文字

 若者は苦しみに悶えていました。彼らは触れてはならないものに触れていました。オグという怪物でした。彼らは禁じられている地下に臨み、そこで、かの魔物と出会ったのです。しかし、地下世界は子供たちの目には隠されていました。
 ハリトがオグに触れ自分の中に知られざる情動の存在を感じたからといって、一体それが悪であっても、否定されるものでしょうか。いかなる応えをそこで受けても、人生はなおも続いて、生活は依然としてあり続けます。大抵の人間はそれはそれとして、生きているものでした。悪は人間の一部なのですから、それを呑み込んで、互いに認め合ってもやっていけるのです。認められないことこそ、最も悪なのかもしれません。
 そして悪は破滅を望みます。認められない、悪は自ら。それこそ、最上の至福であるとする概念がもしあるとしたら、尋常の生活では分からないところで、それは生き生きとするのでしょう。人間はその誘惑に負けてしまいます。悪と断罪したからといって、なくなるものなどありません。
 あるいはピオテラのような人間にはそれは無縁かもしれません。彼女は物静かな人生を望みました。誰もが悪に近いというわけでもありません。ただ、近しい人間は、いつもその力を側に感じて、いらいらとし続けることもありました。悪に囚われているというのに、気がつかない人間もいました。例えば、訳知らず人の噂を振り撒く者、子供に人生訓を垂れようとして自分の中に押さえつけた感情を暴発してしまう者、誰かから受けた恨みつらみを大事な孫に話してしまう者…。相手に或る危機を用意しているにもかかわらず、彼らはそんなことに躊躇しません。ですが、それもまた人間の一面に他なりません。断罪はたやすく、それでいて人同士はいつも常に共に生きていなくてはなりません。
 深い哲学などなしても有効であることは稀です。生活や人間はいつも側にあるのです。それならば、前に進む他ないのでしょうか。生きながら考え、考えて生きて。時に思考を停止しても、人生と向き合っているのであれば。光は、先に臨めるのでしょうか。

 クロウルダは、下の街に、縦横無尽に洞窟の通路を掘っていました。それは彼らがかの悪魔を監視しやすくするためでした。あの神殿から、必要な儀式は始められましたが、そうでない時は、逐一漏らさずにオグの様子を書き留めて、彼に適う一番有効な方策をいつも練っていたのです。彼らの後、この地を支配した海賊どもは、そうした洞穴を改良して都合よく利用していました。ですが、大きな破壊後の怪物は動きも鈍くなり棲家から出不精になっていましたが、鼓が轟く時、洞穴を這いずっていました。この三百年の間、魔物は徐々に力を取り戻し、滅びの都にも行くようになりました。そこで、怪物は死霊たちと出会いました。遭遇してはいけない組み合わせでした。オグは、巨大な悪は、その古さたるや新しい人間の歴史以上でしたから、一万年は優に生きておりました。不滅の魔物は、己の中にいる凶悪な意思どもに、ある一つの方向性をかざしました。魔物は、それまで無数の人々の心を取り込み、自分の中で慰み続けました。おのずから悪魔を育てなければならなかったのです。彼らは仲間を欲しがりました。誰よりも彼らは寂しがり屋でした。独りよがりの快楽は、その宿命を自ら設定していますが、相手を壊さずにいられない快感は、次々に、さらなる刺激を欲し、その仲間を増やしていきました。こがね色の黄金に触れた者は自分の内部にこれほどの魅惑的な感情があっただろうかと思うように、悪に触れた者は、先行する恐怖を差し置いて自分の正義を全うすべきだと考えました。悪とは強い生命力だからです。その真髄は、まさにエアロスでした。
 悪からかけ離れた者は、保守しか考えなかったでしょう。まして、それを隠すだけの者なら、焦がれながら、身を引き離すこともできません。オグは、悪の意思たちにこう働きかけていました。己を解放するのだ。すべてを委ねよ。そうすれば、ほら、無限の可能性が拓けるだろう…?彼がそう持ち掛けるのは人間の悪意にだけです。生命力は、悪にだけあるものではありません。
 ですが、一万年も生きて、オグは彼自身の働きに疑問を抱くようになりました。彼に意識はありません。しかしその全体が、そのように動き始めたのです。結果、まったく新しい一つの方向性が示されました。それは、テオルドと同じ感覚でした。いいえ、テオルドはかの悪魔に喰われてしまったのです。その意思は、まさにオグです。僕は…この町を、破壊しなければならないだろう。そう彼は思いました。なぜなら、彼の身体はイラの怨念によって練り上げられた苦痛の悪神であって、彼のふるさとの欺瞞と囚われを暴き出すも、五弁花の蔦の絡まるあの壁のように、この町は生命を果てしなくがんじがらめにしていたからです。悪もそれと同様でした。それは純粋な命の力のように思えて、実はありとあらゆる存在を不純な意思で統率していたのです。悪とは破壊であり、その破壊は、快楽であると同時にある反抗でした。幼い抵抗でした。受け入れざるものを、純粋な動機で、打ち壊そうとするものでした。保守も命の力なのです。そちらは受け入れる力、と言ったらいいでしょうか。または、いかなるものからも影響を受けない不変を貫く、意固地な力と。
 どちらが本当の善であり本当の悪であるかは言えません。受け入れぬことこそ実は惨いことでした。しかし、それも人間の業でした。
 いずれにしても、自分という存在を作り出した我が町に、テオルドは限界を感じました。そして、破壊を望みました。オグは、それ自身を作り上げた人という業そのものに、いい加減うんざりするようになりました。彼も己の身の破滅を望むようになったのです。彼はふるさとに帰りたくなりました。悪にとってのふるさととは、つまり、生まれ変わることです。彼の中の力強い生命は、一万年の時を過ぎて、老いて、磨耗しました。それでも己の役割を変えられませんでした。彼はいまだに人間を唆していたのです。シュベルや、エンナルや、ハリトたちを…。
 老いたる魔物は、その生を終わりに近づけたく思いました。そんな折、彼は死霊たちと出会いました。死霊たちも同じことを考えていました。彼らは、光を望んでいたのです。死霊という役目は彼らの子孫によって延長されました。彼らは恐れられ、閉じ込められて、無明の絶望を彷徨わせられたのです。何が一体本当に正しいことなのでしょうか。しかし、実際に起きたことは。こうしたことに、目を背けるか、必死になって受け入れようとするか、イアリオはどちらの立場にもなりました。彼女は受け入れがたいものを、どうしようか悩みました。天女の宣告を、感受性の鋭い彼女は、町の代表として痛切に実感していたのです。
 思えば結論は早くてもいいものでした。それは、クロウルダの弁にもあるように、オグは、かつての人々の悪だからです。その中に、もし前世があるならば、イアリオのものもありました。そして、前世はどこまでも追ってくるものでした。振り切れるはずもないのです。新しい魂は、自分だけでなく、他の人たちにも変わっているのですから。無明の只中を歩く意思たちと、オグとの出会い、それは、自分たちの破滅こそ望みました。すなわち、広大で(びょう)々たる新しい誕生です。
 死霊たちは、星空の彼方の先祖たちに慰められてはいなかったのでしょうか。北の丘の小山なる墓は、そのために建てられていました。イアリオは幾度もそこに足を運び、死者たちを慰めました。その声は聞き届けられていないのでしょうか。いいえ、彼らはイアリオに危害を加えていませんでした。彼女の純粋な思惑はよく理解をしていました。彼女を奪えば、誰が彼らのことを思ってくれたでしょうか。怨霊は、恨み晴らさねば消えてしまうものの、最も欲しい存在は、自分の理解者でした。(しかしイラは違いました。彼女はハルロスの思いを彼女に託すも、それによってまだ上の町の破滅を望んでいました。)星の彼方におわし、地上にやって来る彼らの祖先は、彼らを見守る存在でした。あの白き霊たちでした。しかし、その守護霊たちは山の上で溜まっていました。思い遺して去り難く、ゆえに地上に留まっていたのです。それは、決して循環に従順な作法ではありませんでした。循環するべき魂が、この世に噛み付いていたのです。
 本当に循環する霊ならば、人々の中に宿り、安らぐでしょう。生まれ変わりは自然に行われ、敢えて地上に思いは遺さないでしょう。それが天国に還るということだからです。いまだに死ぬ前の世界に執着をしているから、還るに還り方を忘れてしまったのです。彼らは確かに生きている者たちを、そして死んだ者たちを、守っていたかもしれません。ですが、自らみたいに、後塵の者たちの変わりゆく力を信じていなかったのです。彼らは憐れな守護者でした。実は、生者たちもこぞって、彼らの力を頼みにしていたから守ろうともしていたのです。黄金都市の死霊どもと同じく、彼らもまた、生者たちのこの世を彷徨している、囚われ人なのでした。
 滑らかな肌が、初めて女を知りました。こうなることだとは、本人も納得した上ですが、それよりも、快楽の方がいや勝りました。ハリトは複雑な悦楽を感じていました。レーゼに抱かれたとはいえ、それが愛しい相手だとはいえ、相手にしていたのは、実は、イアリオでした。彼女は奪ったのでした。それは女の勘が伝える、レーゼの思い人だったからです。彼女は興奮していました。でも、目的を果たして、しばらくは、本当に大人しくなりました。レーゼはそんな彼女を鬱陶しいと言ったのですが、今はそんなことはどうでもよくなりました。溢れるばかりの野性的な慕情は、遂に、歪んだ居場所を見つけたのです。彼女がそれを手に入れたのです。
 愛情が、彼から、注がれているにもかかわらず。

 イアリオたちは、ハリトが襲われた、浸水した洞穴の近辺を探りました。勿論危険はありましたから、できるだけ、逃走経路をきちんと確保しながらの探索でした。無謀だとはわかっていましたが、矢も盾もたまらず調べるつもりだったのはイアリオでした。彼女は、レーゼ以上に責任を感じていたのです。そして、ハリトが襲われたことで、否応なく顕れるあの感覚が、エアロスと言う言葉に刺激されるどうしようもない焦燥が、不安が、いや増しに増すのを止められなかったのです。彼女は、どうしてもオグと会わざるをえないと思い始めていました。どれほどの危険があるか十分分かっているつもりですが、そうでなくば、あの予言は確かめられないと断言しました。
 オグの棲家とされる湖はその近辺には見つけることはできませんでした。彼女たちはクロウルダのハオスがかの魔物を監督していると言ったにもかかわらず、オグがハリトたちにのしかかってきたのは合点がいきませんでした。是非魔物に襲われた現場と、その棲家に向かわなければならない理由ができたのです。しかし、現場の暗闇の穴蔵に水で濡れるのを我慢して、頭上に空洞があるところだけを進んでみるも、よくよく注意しながら周囲を当たっても、オグでしか通り抜けられない水路が続いて、人間の足で向かうのはとても難しくなりました。
 ですから、以前ハオスに会った所から周りを探った方がいいということになりました。勿論、地下道を隅から隅まで洗っていく作業中にハオスが通ったであろう道のりも調べたのですが、三角に細く割れた通路など、あまりに細かい通り道などはなおざりにされていました。それより太い洞窟が広範に広がり、そちらの全体像を知っておかなければ、迷うばかりになると思われたからです。しかし、そうした窮屈な穴にも足を踏み入れる時が来たのです。松明が、石版を赤く照らしました。木炭を葉で包んだチョークで描かれた地図帳に、黒い点が記されました。彼らは赤と黒のチョークしか持っていませんでした。それ以外の色の付いた物は生産されていないからです。赤色が、張り巡らされた通路と洞窟を示し、黒は、仮の通路を表します。灰がかった石版に赤色はともかく、黒はあまり目立ちませんが、灯の明かりだけが頼りのここで、彼らはそうした作業はお手のものになっていました。
 イアリオはここに来る途中の壁に記された赤い文字を思い出しました。「鼓の音に気をつけろ」その言葉を心に記銘することにしました。レーゼもハリトもオグが動き出す時に鳴らすその音はあまりに遠くて聞いていませんでしたが、彼が湖の住処からのっそりと出て来る時に、震動が、そう聞こえるのです。全身の五感を澄ませて、彼らは縦に細長い穴をゆるゆると下っていきました。すると、行き止まりに差し掛かりました。イアリオは、この穴が人工的に掘られたものではないかと疑いました。狭くとも移動しやすく気配りされた幅に思えて、まるで人間が入るための必要な措置が取られたようだったからです。ですから、単純な穴だとは思えず、彼らはあたりを探ってみました。すると、行き止まりの壁が、扉のように思われました。イアリオは試しにカツンカツンと壁を叩いてみました。
 鈍い音ではなく、反響のある音が返りました。向こう側が空洞になっている証拠でした。イアリオは唾を呑みました。もしかしたらこの先に、目標がいるのかもしれません。オグという、怪物が。ところが扉は開け方がわかりませんでした。取っ手もないし、探るに溝らしきものはあれど、いくら押しても、びくともしません。しかし、へこんだところを撫でていくと、奇妙な引っ掛かりが縦に走る溝の中ごろにありました。そこを持って、彼女は岩を引いてみました。
 くるりと岩が回転して、新たな道が臨めました。その先も後ろと同じほど幅のない道でした。三人は慎重にこの狭くじんめりとした空間を、左右から圧迫される感じを受けながら、そろそろと、前に進みました。ですが、ここに扉があるということは、つまり先には危険が待ち構えているということだと、三人は思いました。その防波堤のための仕掛けでしょうから、レーゼがその場に残ることにして、他の二人が先に行くことにしました。通路は二人がやっと通れるほどの幅でしたが、もしイアリオとハリトがこの先から逃げ出してきたら、彼女たちを先に行かせて、彼が素早く扉を閉められるように態勢を立てたのです。
 イアリオとハリトはレーゼを後ろに置いて、前へ行くほど湿気が増すように思われる古い道を進みました。オグに触られたことのあるハリトのうなじが、ざわざわと震えました。
「ハリト?少しつらそうよ。レーゼと待ってたら?」
 ハリトは勿論彼女たちにまだ同行していました。イアリオから彼を奪い取ったとて、それは、本当の満足ではなかったからです。彼女は首を横に振って答えました。
「私、納得がいかないんだ。勝手に私の知らなかった自分があの化け物に呼び出されてしまって、いいようにされたからさ。すごくむかむかしているんだ」
 イアリオは聞くまでもなかったと思いました。以前のように彼女は方々にエネルギーを撒き散らしてはいませんでしたが、こうでなければ、ハリトではないことを十分にわかっていました。彼女はレーゼにこそ、ここ最近従順な態度を取るようになりましたが、一方で、イアリオには普段通りの姿勢を見せていました。ここにも彼女の複雑な心理が見えました。彼女は、おそらく憧れの女性の一部を自分のものとしたのでしょう。それはレーゼではなく、相手にも自分にも触れる本質を。ですから以前のようにハリトはイアリオに怯えなくなっていました。彼女はずっとイアリオに恐れを感じていました。何かがあばかれてしまう恐怖がいつもその相手といると刺激されるのです。それでいて、離れずに、ずっと傍にいたいと思ったのは、彼女が間近にしたイアリオ自身が、絶えず変わっていく姿を見ていたからでした。いつまでも今のままでいないはずだという確信が、ハリトの心を慰めていました。彼女は自分が決して無視できない女性と共に、変わっていく自分をものにしたのでした。目の前の太陽は明るくても翳を見せ、その悩みは包み隠さず目の前に表してくれました。いいえ、イアリオは、二人の前でそうしなければ圧倒的な孤独で潰れてしまいました。
 ハリトとイアリオは松明を前に向け進み、狭い穴から抜け出しました。冷たい空気がそわそわと漂い、ぴちゃっぴちゃっと水の滴る音がしました。灯にかざされた空洞は、つららのように垂れ下がる岩の天井と、黒い水溜りを照らし出されました。二人はハリトがその場に居残って、イアリオが先に進むことにしました。水溜りは彼女の思った以上に広がっていてあちら側にずっと遠く続いていました。イアリオはここがハオスの言っていた湖かしらと考えました。生き物の棲む気配がします。今そこにいるかどうかわかりませんが、とにかく、生き物の這いずった匂いがします。彼女は手を差し出して湖面に触れてみました。骨の髄まで滲み透る冷たさに、ぶるりと震えました。
 イアリオは白い光芒が左手の奥からぼんやりと移動してくるのを見て驚きました。その光は白い天女のものではなく、あのハオスのものでした。彼は前に出会った時もほのかな光を放つ外套を着ていましたが、その光は前よりも強烈で、彼の全身を覆っていました。彼は寂しげにうつむいていました。物静かに歩きながら、それこそ脚などないかのように無音のまま、湖のほとりに回ってくると、足元にある何かをじっと眺めました。そして、
「なくなった。なくなってしまった」
 と言いました。
「ハオス?」
 イアリオが呼び掛けました。ハオスはうつろな眼差しを彼女に向けました。
「ああ、あなたは」
「大丈夫ですか?」
 イアリオは奇妙な感触に揉まれました。彼女は評議会に、ハオスがまた町に来た際には、必ず自分に知らせるようにと言っていたのです。にもかかわらず、知らせは来ていませんでした。
「こうして同胞は悪を慰めてきたのだな」
 ハオスはイアリオから目を逸らさずに、まるでイアリオに話しかけるように言いました。
「かの者の中にある存在が、私に一様に言うのだよ。こうして私は人間を奪い、閉じ込めて、破滅させてきた、と。私はかの者の一部となって、大勢の人間の苦しみを垣間見た。悪も苦しむのだ。長年の行為は慰められうることを知らない。いつまでも、その存在のままなのだと。悪は、変わらないのだ。変わらないことこそが悪なのだ。命は巡る一方だが、悪は、悪たちは、己の役割がゆえに、閉じられている。分かるか?それが本当の絶望なのだよ」
 しかしイアリオは、彼が自分に言ったというより、自分の内側の誰かに、声を掛けているように思いました。
「あなたの中にかの魔物はいる」
 そう彼は断言しました。
「逆か。この体の中に、あなたがいる」
 イアリオは恐ろしくぞわりとした衝動が背筋を上るのを感じました。彼の言っていることは正しくて、自分は、それから逃れられないのだという感覚でした。彼女は急に体中から力が抜けたような気がしました。ですが、それでへなへなと地面に倒れるよりも、もっと相手から話を聞いておかねばならないという意志を、持ちました。
「それは悪を超えた現象か、それともまだ囚われ続ける実態か?私はなくなり、今ここにかの悪魔と共に融け合っている。私たちは、皆、一つのことを切望している。
 オルドピスに行かれるといい。あなたにできることは何もないから。ただ知ることはできよう。我らの仲間に会いに行くといい。この町は、破滅を望んでいる。どうしようもない事実だから」
「あなたに何がわかるというのですか?」
 イアリオは毅然にも言いました。
「この町は不変の意志に貫かれている。三百年ものあいだ、伝統を守ったのです。しかし、それが壊されるということは、ありえないことです」
「さればやはりあなたは悪を超えし者だな。超えようとしているのか。呑みこもうとしているのか。いにしえの伝説を思い出す。それは、大きな獣がやって来たという伝説だ。
 もう話しすぎた。私はここで待とう。粛々と待とう。すべての意思が、集い、同じ一つのものを望む瞬間を。神はいない。だがレトラスはある。我らはそれを望むことができるのだから…」
 彼は光芒を後に残して、洞窟の奥に消えていきました。彼女は、今彼がいた場所に黒いものが落ちているのを目にしました。それは人間の骨でした。彼は食われたのでしょうか。骨は、成人した男性のものより、少し大きく膨らんでいました。
「オルド…ピス…」
 イアリオは茫然とかの国の名前を言いました。湖の奥で、ざわざわと、蠢く者がいましたが、かの魔物は、じっと息を潜め、こちらの存在を見つつも動かずにいました。ですが、無数の目は光り、かの魔物も、ある一瞬の訪れを待ち受けていました。

 レーゼはちらと大人しく寝息を立ててそばにいるハリトの様子を窺いました。あれから、あちらの家族にはいたく信頼されて、彼は彼女の寝室にいてもいいようになりましたから、もう男としては、このまま相手を娶るしかないような気がしていました。実際そうなのでしょう。彼だってそれに近いことを、ハリトが倒れてしまってから、自分に誓いました。
 ですが、それでいいのでしょうか?彼には引っかかるものがありました。本当に彼の意思でそう決めたかどうか、判らない気がしたのです。こうして良い、俺は選んだんだ、そう彼は思い込もうとして、何度も幾度も枕元の彼女の頬を見つめるも、自分の出した決断は色を定めず、何か、別の方向を示唆していました。
 彼は非常にいけないことをしている気分がしました。どうして、でしょう。これは彼の意思で、彼女の望んだことでもありました。両者は一致しており、ほのぼのと、この安らいだ空間を提供しているのではないでしょうか?彼は、この時間に安らいでいないとでもいうのでしょうか?それは、あの天女たちの文言が、いまだ消化されていないから…?本当にこの町は壊れてしまうのでしょうか。その兆しや、現れなど、彼には感じませんでした。いいえ、意識に上っては来なかったのです。感じてはいました。そうでなければ、不思議な焦燥はイアリオに続き彼も覚えてはいません。そして、この感覚は彼らだけのものではありません。イアリオと一緒に地下の冒険を繰り広げた、テオラやアツタオロ、他の面々も、同じ気持ちを共有していました。不気味な沈黙が町を支配しているのだと彼らは判りました。沈黙しているのは、地下に閉じ込めた、あの意思たちでした。彼らが、今にも暴れ出そうとしている予感を、イアリオたちは敏感に捉えていたのです。
 だとすれば、自ずと、自らがなさねばならないことに従順に従うようになるものです。そうでなければ、慌てふためくだけでした。彼らは、地下のあらましを知り、その暗い闇をも目撃していました。自分の心の中に、そういったものがあるのだということを、身を持って知ることができました。そうであれば、慌ててしまうということはなくて、ただ自分が、一体何をしなければならないかだけを見つめられたのでした。
 ならば、彼の感じ方は、何を示しているのでしょうか?彼は一体何を気にしているのでしょうか。ざわざわとしています。何かを見逃していたのです。彼は自分に正直ではありませんでした。彼の情熱が、誤った道筋を選んでいたとしても、それは若さゆえ、許されることでした。しかし、時間は一刻一刻減少し続けていて、とりもなおさず、疑いは晴れることを望んでいました。これは罪人の心情でした。無辜の罪状を作られて喘ぐ人々の意識でした。ですが、罪は無辜ではなかったのです。
 彼もまた、オグに犯されてしまったハリトの意識に触れていたのです。それを通して出くわしていたのは、自分の、ざわめく悪の意思でした。
 同じ晩、イアリオは頬杖をついて、ほうと空を眺めていました。彼女はハオスに直接「オルドピスに行かれるといい」などと言われました。なぜそんなことを言われたのかと、今思えば不信なことでしたが、あの時すでにオグに喰われていたであろう彼との会話は生きていた彼とのやり取りとは違って、どこか、異常なるが正常なる交感をしていました。
 彼女は固く自分を抱き締めました。「オルドピスに行かれるといい」その言葉を言われ、どう自分が受け取るべきか。それは、明らかな自殺行為でした。しかし、彼女はこのままでは天女の宣告もこれから起きるべきことも、皆知ることはできないと判っていました。これから、何かが起きることは確かでした。イアリオは否応ないその感覚に襲われながら、今自分がすべきことを必死で考えていました。それは、もうあの街を調べることではありませんでした。これ以上の探索は無意味でした。自分の生まれた故郷の中にも、何か意味や手段を見出すことはもう望まれない。彼女は自分が絞られ、破壊されて、跡残さずに消え入ってしまう玩具か古雑巾の心地でした。ただ震撼する心地に頭が締められていく一方でした。彼女は、自分はここで生活していくにはほとんど体が絶望的になってしまっているかもしれないと思いました。
 教室の中の子供たちの笑顔も、自分を慕ってくれるハリトやレーゼの存在も、ついに、薄らいできていました。ですが、彼女は自分がなすべきことをまさに知っていく最中でした。衝動は体内深くにあり、まだ隠されていました。何かから出なければ気づかないことが世界にはあります。ですが、知らなければならないことがあるなら、それは、深層からその体を動かしている、意識や意思とは違う、無意識の意志なのです。
 死ぬまでに一体人は何を得にこの世界へ生まれてきたのか。その挑戦が、彼女を恐ろしく支えていました。
 彼女はまだ気づいていないことが、湖のほとりで、待っていました。今はその姿を隠しているものの、それは、いずれ彼女の前に現れようとして、じっと、密かに沈んでいました。待つということは、苦痛でしたが、それは、甘んじて苦しみを受ける必要がありました。オグは、待っていたのです。本当に、彼女が、彼女自身をさらけ出すのを。
 イアリオは大事なものを隠していました。それは、ピロットの喪失で、あたかも逃げ出したかに思えましたが、実は、そうではなかったのです。何より大切にしなければならないものが、今、その体の中にあったのです。いいえ、取り戻さなければなりませんでした。彼女は誰かを好きになれたのです。
 出て行かねば還れません。変わることはできません。人生が螺旋というなら、ゆっくりと回って、
 いつしか、少しだけ登っているのです。環状の螺旋を描いて、それが、本当の循環でした。
 レーゼはその日夢を見ました。巨大な巨大な渦の中に、自分が呑み込まれてしまう情景でした。彼は夜中目が覚めて、嫌な汗が全身を濡らしていることに気がつきました。彼の太い腕は、石運びの手伝いで鍛えたものでしたが、その腕は、ハリトではなく、何もない眼前に運ばれて、彼を茫然とさせました。イアリオもその日夢を見ました。その夢は、どこか見知らぬ場所にいて、周りをぐるりと見渡している景色した。彼女は集合する道路の中心にいました。そこは大きな都市の中のようでしたが、誰もいず、さんさんと太陽が降り注ぎ、赤レンガの建物の壁を洗いました。彼女は目の前に巨大な図書館を見ました。巨人のように居座る厖大な数の本を揃えた館が、彼女に、本を貸してあげようかと囁きました。彼女は頷きました。ハオスが図書館から出てきて、彼女に、黒表紙の日記帳を渡しました。彼女は叫び声を上げました。
 あの街はオルドピスかもしれない、と目覚めた彼女は思いました。ふと彼女は、見知らぬ土地に憧れを抱きました。しかし、その感情は、持ってはいけないものでした。

 イアリオは、一人で真夜中に北の墓丘にやってきました。誰も連れて来てはいませんでした。その夜は新月ではなく、細い弦月が銀色に空にかかっていました。彼女は、自分の思いを確かめに来たのです。この場所で、空に祈って、先祖が彼の無事を聞き届けてくれた十二歳の晩をイアリオは思い出しました。今、もし、仮に町の外に出ることを、ここで願って、夜空にいる星になった先祖たちが聞いてくれるだろうか?イアリオは空を見上げて、そのような気持ちにふけりました。すると、流れ星が光って、こちら側に落ちてきたように見えました。
 私は出て行く?この町から?何のために?そうしなければいけない理由は何だろう。
 そうしなければならない。なぜなら、どうしてそうしなければいけないのか、わからないから。
 何を考えているのかしら、私は。ああ。
 私は──自分のことも、きっと、何もわかっていない。
 どうしたらいい?彼女は繰り返し考えました。彼女は胸を膨らませました。一体、あの星々が先祖の魂だと誰が考えたのか、と思いました。それはまやかしに見えました。一向に、天から自分の抱いた疑問への答えは返って来ないように感じたからです。彼女は大きく息を吐き出しました。また、正面に流れ星が光りました。自分はそれを決めなければならないのではないか?イアリオは、そう感じました。何かからの反応を、待つのではなく、どこからか答えが、湧いてくるのも待つのでなく。今、ここで。
 レーゼも言っていた。ここで願うのは、夢ではないって。はっきりした目標を、宣言するためだって。
 彼女はその時、私はまだ、この町でやるべきことがあるのではないか、と思いました。おそらく今決めることができないのは、今、決める時ではないから。もしただちに町外へ出て行くことになるのなら、そのための準備の何もかもを、今すぐにやろうとするはずだから。私はまだそうすることはできない。もう少し、子供たちの面倒を見て、それから行くのかもしれない。
 彼女は墓丘から下りました。その後、彼女はハオスの件を議会に尋ねました。またしても、彼女には連絡が行ったはずだという返事を聞きました。イアリオは一瞬戦慄が走りました。何者かがこちらを監視している目を感じたからでした。それは、彼女が夜の墓参りをしたり地下に潜ったりすることを嫌悪した輩の仕業でしょうか?もうあの噂は耳にすることはなくなりましたが。彼女は急にテオルドの目を思い出しました。その普段のもの暗い感じとは違う、強烈な、真っ赤に燃え滾る火の色をして、まるで恐ろしい魔獣のごとき相貌になっている彼の目を。
 そんな目は見たことがありません。イアリオはおかしな気分を振り払いました。そして、どくどくと鳴る心臓を上から押さえつけました。

「俺はね、イアリオの感覚は、正しいと思う」
 イアリオの家にまた三人が集まりました。彼らは、次の探索の打ち合わせをしようと申し合わせていました。しかし、そこでイアリオは自分の正直な気持ちを明かしました。自分が、一人でもオルドピスへ行って調べるべきことを調べてみる必要があるかもしれないことを。そうでなければ、この言い知れぬ焦燥に包まれて、どうしようもないことを。
 レーゼは頷きながらそれを聞いていました。
「なぜだかわからないけど、それは正しいという気がするんだ」
「まともじゃないよ」
 背丈が伸び、顔立ちも鋭くなったハリトが突き刺すように言いました。「私は反対」相手を睨みつけるような印象深い彼女の目は、以前は朝日のようにきらめいていたのがだんだんと夕暮れの赤々と揺れる太陽を思わせるようになりました。
「まともでない、か。確かにそうだな。でも、オグについて知る機会は奴と直接会う以外、もうないんだぜ」
 彼らは、ハオスがあの時すでにオグに食われてしまったのではないかと結論していました。これはハリトが言い忘れていたことでしたが、彼女がオグに襲われて何日か目覚めなかった時に、彼がその魔物に食べられる夢を見た、というのです。イアリオはありうべきことだと思いました。クロウルダの儀式のやり方は詳しく本には載っていませんが、最後の彼の様子を見て、そうに違いなかったと思ったのです。
 オグに食べられてしまうこと。それが彼ら流の悪魔の慰め方だとしたら、一体どんな意味があるのでしょう。そこまでは、彼女の町にある本には書いてありません。
「イアリオはさ、命を懸けてまで行くつもり?」
 ハリトは厳しい表情でイアリオに尋ねました。
「そうね。行くとしたら、そうなるわ。もう、なんだか限界なの。もう少しこの町にいることにはなるけれど、その時は、来るのだと思う。ハオスに行かれるといい、なんて言われたのが決定的かな」
「ということは、その前からずっと、行こうとは思っていたの?」
「そうかもしれない。けれどいつからかわからない。もしかしたら、あの天女たちに出会ってから、そうしたことを考え始めていたかもしれないね」
 イアリオの口の響きはまるでうたうようでした。レーゼもハリトも、気をつけないとその揺々とした調子の声に身を委ねそうでした。
「俺はよくわかるんだ。その、限界って感覚は。俺はまだでも、イアリオはもうなんだ、と思う。ああ、でも…」
 レーゼは急に言いよどみました。何かが彼に待ったをかけたのです。そのままなら彼は、彼女がいかにして町を出て行くかの算段に乗ろうかというところでした。
 なぜなら彼は、彼女を、ずっと尊敬していたからです。
「俺は反対だな。だって、やっぱり、命を懸けるほどのことかい?」
 彼にそう言われ、イアリオは急速に悲しげな顔に変わっていきました。
「そうなんだよ。だから、あなたたちには話したの。本当は馬鹿々々しいことかもしれない。だけれど、私の本当の気持ちだから。あなたたちが止めようとしてもこれは変わらないわ。でなければ…きっと、私が異常なだけ」
 彼女は二人を交互に見つめました。悲壮な決意をしているものの、まだ、理解者を欲していた目でした。こうした気持ちを抱いたのは白霊と天女たちに出会ってからでした。いいえ、もしかしたら、黒表紙の日記帳を見つけてから。いいえ、あるいは、十年ぶりにあの暗がりへ行くことになってから。それから、彼女にもわからない衝動が地面の下から立ち昇って、すっかり彼女の全身を虜にしていたのです。私はこうしなければならない。命が懸かっても、たとえ誰かを巻き添えにしたとしても、見えてしまった、突き進むべき未来が!彼女はまだ年端のいかない二人を、その協力者に選んでしまっていました。そこに彼らがいたから、そして彼らならばもしかしたら自分の思いの巻き添えには決してならないでいられるかもしれないと、感じたから。そうであれば、彼女の下した密やかな決断は、皆二人に教えなければなりませんでした。
 イアリオはハリトやレーゼに頼る気持ちがありました。彼らがこの町にいるのであれば…自分は、おとなしくオルドピスを目指して、命がけの冒険にも行けるのだとも思いました。
 レーゼもハリトも、そこまでの信頼を、イアリオが自分たちに持っているとは知りませんでした。彼も、彼女もイアリオを離したくありませんでした。
 イアリオの目から、涙が零れました。「つらいわ」その仕草は、まったくみじめでした。
「あんな現象に会わなければ良かった!と、今でも思うわ。でも、せっつくの。誰かが背中を押している。もう待てないわ。もう待ってはいけないんだわ。その時はまもなく訪れてしまう。私はその準備をしなければいけないわ。あなたたちにこうして話すのが、その最初の一歩なの。だから判って?そして、私を助けて?お願い…」
 彼女の目論んだ旅は、知るための旅でした。それは、何かを変えるためではなく、ただ、これから起きる出来事を克明に観察するためでした。彼女は傍観者としての自分を成立させるために、町から出ようとしているのです。それは正しいことでしょうか?何か言い知れない現象に突き動かされてしまったとしても、そのとおりに行こうとするのは、果たしてまともでしょうか?そうではないはずでした。冷静に考えればそうではないのは至極当然でした。しかし彼女は気を迷ったのではなく、まして唆されたのでもなく、自分が、こうしなければならないと判断したのです。彼女自身の真っ当な感覚で、受け入れなければならない運命として。
 しかしその感覚はみじめでした。彼女は幸福になるために危険を冒そうとはしていなかったのです。彼らのこれから降りかかる不幸を、恐慌を、一手に抱き締めるために修行に出ようというのです。
 レーゼは大きく息を吸いました。彼は、イアリオのように、自分の中で呼吸をぐるっと回転させて、今自分に感じるだけのことを整えようとしたのです。ハリトはそんな彼を横に眺めました。彼が、どうしようと言うのかと待ちました。彼は、自分のひざに両手を乗せて、はっきりとした眼差しをしました。
 その瞬間、ハリトは、突然泣き叫ぶように言いました。
「レーゼ、私は反対だよ!ずっとだよ。ずっと、この三人は一緒にいるの!」
 ですが、
「わかった。できるかぎりのことを俺はするよ」
 レーゼも濡れた目をしていました。
「何でも言ってくれ。いつ行くんだ?きちんと出発の日だけはちゃんと教えてくれよ」
 ハリトはがらがらと壁が崩れてしまった顔をしました。どうにもならないのだと彼女はわかりましたが、自分の理解に入れたくありませんでした。その後、ハリトは急に能面のような顔つきに変化しました。これは、まったく彼女の願う通りではなかったからです。
「少なくとも、ハリト、あなたの成人式までは行かないと思うわ。ありがとう、レーゼ。お陰でちょっと、気分が楽になったわ」
 イアリオはほっとした顔を彼らに見せました。レーゼは再びどきりとしました。なぜ、自分が、この場所にいるのか、どうしてイアリオとこんな風に相対しているか、一挙に、その意味が彼を襲いました。彼は非常に難渋な顔をしました。あまりにその表情が渋いので、イアリオは尋ねました。
「どうしたの?そんなに、私が出て行くことを認めたのが、嫌だった?」
 違う、違うと彼は首を振りました。そうではありませんでした。レーゼは前頭部に鈍い痛みを感じました。その痛さも表情の渋さに拍車をかけました。彼の心に起きた、この痛みは、これから半年ほど、彼を地獄のような苦しさに突き落とすのでした。

 心にそう決めれば、いくらか、気持ちは落ち着きました。イアリオは常にせっつく何かの働きを感じながら、自分の生活にも集中できました。あと何ヶ月かのこの町での、生活を。イアリオは非常に大事にこの期間を過ごしました。そうしていると、面倒を見ている子供たちの様子が今まで以上にはっきりとわかりました。誰が、誰を気にしているかわかりました。そして、皆が、それぞれに一日一日、成長しているのだなと感じました。彼女はこれまでにないほど教師として自分が教壇に立っている意義を感じました。自分の教えが、また子供たちの日々の事柄が、一様に、響き合い高め合っていく様を如実に実感したのでした。自分がいて、彼らがいました。両者はまともに組んでいました。子供たちの彼女の授業への集中はおそらくどんな教室もかなわないほどに高かったでしょう。彼女の教室を出て行く少年少女は皆、満足した顔をしていたのです。
 一方、レーゼは反対に仕事に手がつきませんでした。彼はイアリオのことばかり考えました。ハリトと同様、なんとかして彼女をこの町でつなぎとめることはできないだろうかと考えていました。彼はイアリオの意志を尊重した途端、自分の心に気づいたのです。彼が求めたのは、彼女でした。ハリトではありませんでした。しかし契約は続行中でした。彼はハリトの両親からも慕われていました。彼は、ストイックでありながら、お人好しでもありました。一度自ら決めたことを、覆してしまうのは、彼の倫理にもとることでした。彼はハリトを生涯大事にすると宣言したのです。ですが、それを彼はどんな理由で口にしたか。彼には正直さが足りませんでした。彼は彼の言葉に囚われたのです。彼は自分を知りませんでした。彼は空虚を認識しました。彼は…偽物の黄金を、本物だと言ってしまったのです。彼はハリトを以前と変わらずに大事に思っていました。けれど、本当は、現在のような関係を望んではいませんでした。彼は彼女を好いていましたが、それは、イアリオ以上の感情ではなかったのです。
 自分に嘘をついた正直者は、それに気づいた若者は、自分を、責めました。彼は、どうにもならないことを自分で用意しました。彼自身の手でそれを、引き寄せました。その罰は激しいものでした。しかし、
 彼は、待たなければなりませんでした。イアリオの出立を。そして、帰還を。
「私は何も町やあなたたちと、今生の別れをするわけではないわ。数年ちょうだい。もしあなたたちがまだ私を待てるなら。オグについて、ハオスや、この町で起きうることをちゃんと調べられたら、その時にはいつでも帰ってくるから。ああ、でも決めときましょう。出掛ける日と同じように、帰ってくる日も。ひょっとしたらその日までに帰れるかもしれないから。私はオルドピスへ行くのだから、そこから何か連絡を寄越すことだってできるわ。もし、約束の日に無理であっても、きちんと連絡はつけるから」
 その時は、出掛けてから三年後の、新月の晩ということになりました。彼は苦しさの中でその時を待ち侘びることになりました。それが、唯一彼の中で光となったのです。彼は泣きました。泣くということは彼はこれが初めてでした。彼は本当の相手を見つけることができたのです。生涯を賭して連れ添う覚悟のある人を。でも、その人が行ってしまうのはまもなくでした。彼は悲しみの只中にいました。ハリトの前ではそんな自分を見せることは絶対にしてはいけませんから、彼は夢中に、今ある快楽に打ち込みました。そして、彼女こそが自分の相手であると自分に思い聞かせました。レーゼは非常に真面目でした。真面目さは時に頑なさとなり、思ってもいない傷害を周囲に散らすことがあります。ハリトがそれに気づかないわけなどありません。しかし、彼女は、イアリオから彼を奪い取ったのだという歪んだ認識に頬を染めていましたから、それで十分でした。彼女は付けられた傷を愛することができました。その上で、ハリトには包容力があり、彼女は年上のレーゼを愛撫することができました。二人ともイアリオを尊敬していたのです。ですから、二人の馴れ初めは、必然でした。
 ですが、そこには、オグがいました。イアリオはどうだったのでしょう。彼女はレーゼの気持ちに気づいていませんでした。ただ、町から出て行くための力をどうにかして得たいという思いばかりでした。彼女にとって十余年前のピロットの喪失は無論大きいものでした。彼と共に生きる選択をなくし、そうであれば、彼女は墓参りを志向し、あの亡者たちを何とかして供養したいと願ったのでした。ですが彼女の中でピロットの喪失が収まった途端、いにしえの幽霊たちが残していったメッセージが旗に翻りました。望みたくはないエアロスの紋章が、高々とその旗に取り付いたのです。幻であれば、よかったのですが。しかし、彼女は行かなければなりませんでした。そこに用意する力たるや、常識を超えたものでなければなりません。一つの悲劇が用意されました。彼女が彼に気づくのはその寸前だったのです。彼女が出ていくための力は、彼がいればこそ発揮されるものでした。ところがイアリオは、自分の使命に沈殿して、ただ、いたずらに魔物を相手にするだけの膂力を自分の中にだけに訪ねたのでした。彼らが相手にしなければならないものは、自分の中に棲む魔物でした。クロウルダは、オグには前世たる自分がいると考えて、かの魔獣を御することにその命運をかけました。オグと共に生きることを彼らは望みました。
 町の人々は地下都市で起きたことをずっと恐れました。彼らは、あの暗黒と共に生きてはいませんでした。それを封じて、連帯を維持して、自らの暗黒を抑えることで、生き続けてきました。彼らによってつくられた物語は、地下の滅びを人間が陥ってはならない教訓として、教えるためのものでした。しかしその思いの呪縛は、それぞれの人間の中にいるはずの、確かな悪を、見逃させていました。彼らの町が三百年間維持されてきたのは、たまたまなのです。悪を封じ込めることなどできるのでしょうか。それは、いつも私たちのそばに息づいているのですから。

 テオルドは、彼はオグなのですから、人々のそうした欺瞞を看破していました。彼は、町を世界につなげなければならないと思っていました。オグは、悉く町村を破壊していく水辺の毒虫でしたが、町人である彼は、人間の中にいるオグをどうしても外に出してやらなければなりませんでした。なぜならそれがオグの役割だからでしたが、それは、とりもなおさずに町中を悪と共に生活するはずの元の世界に戻すことをも意味しました。テオルドにはそれが判ったのです。ですから、彼の計画は慎重を期して行われたのです。町を、壊そうと動いている者は、彼だけではなかったのです。もう一人の悪の遣いが、今や、彼の旗を掲げてその町を蹂躙しようとしていました。
 その兆候はいつあったのでしょうか。例えば、若者たちが一斉に精神を病み始めたことも関わりがありますし、シュベルとエンナルの一件もそうですし、また、イアリオが十年ぶりに滅びの都に行くことになった、子供たちの事件もこれにつながっていました。それを目論んだ人物は、地下で、密かにこのための準備をし、いよいよ打って出る頃合を、心待ちにしていました。彼は猛獣のような目をしていました。彼の体は痩せさらばえていました。彼の上半身は裸で、下半身は二股に分かれたパンツを穿いていました。彼は分厚い唇を上下にぐにぐに動かしました。酷薄な視線が闇の中で蠢いて、地下にいる、もう一つの存在を確かめました。彼はオグと出会っていました。彼はオグと対決していました。彼とオグは互角でした。一方は完全な悪の巣窟で、もう一方は、生まれたばかりのそれだったのでした。

 ハリトの成人式の日がやってきました。五百人ほどが二列になって、火の輪をくぐり、総長から勾玉の首飾りを渡されました。その後、川の水で禊をするのですが、川原に、違った人々がいました。式典の補助係の者たちではない、若者たちが、沈黙してそこに立っていました。川原はかがり火から遠く、何人いるのかわかりませんが、相当数いるようでした。
 新成人たちはどうしたらいいかわからず立ち往生していました。その折、彼らの中から、幾人かが、指を一本天に突き上げて、「自由を!」と言いました。
「何事だ」
 総長その他議員たちが彼らを問いただしました。すると、彼らは水際の新成人たちの間に飛び込み、大人たちを向いて、ハハハと笑いました。
「一斉にかかれ!」
 連中は口々にそう叫び、懐から刃物なりハンマーなりを取り出し、上手に振りかざしました。危険を覚えたハリトはすぐさま人々の後ろに隠れました。ですから彼女はこの後何が起きたのか詳しくは知りませんでした。事件はすぐに収束しました。大人たちに襲い掛かってくる若者たちを、周りから、盾を持った守備隊の人間が取り囲み、彼らに投網を放ちました。すると彼らは腕や足や首をとられて引っくり返りました。彼らの中には心の病にかかって身動きが取れなかった若者たちがいました。そして、網の包囲をかわして猛然と飛び出してきた者たちの間には、エンナルとシュベルの姿がありました。
 ですが、盾を持った人々はよく訓練されていました。凶器を持たない者たちの周りをがっちり守り、襲い掛かってくる者どもを、固い守備で跳ね返したのです。それでエンナルやシュベルたちは、作戦失敗を判断したのでしょうか、散り散りになってその場から逃げ出しました。しかし、まだ何人かは暴れ回って、その凶器が人を打ち、血が流されました。ハリトが目にしたものはその血でした。人々の頭上に振り上げられた鈍器に、生々しく付けられた、その赤い色をかがり火の明かりに見たのです。こうなっては成人式どころではなく、新成人たちは声を上げて逃げてしまいました。
 事件を起こした人間の中で、生きている者はいませんでした。彼らは捕まると次々に舌を噛み切り絶命したのです。このとても悲しい狂乱の首謀者ははっきりとしませんでした。理由を聞く前に皆命を落としたからです。散り散りに逃げた連中の中には成人の儀のために開けられた地下への穴へと飛び込み、街中を逃げ惑った者もいましたが、やはり舌を噛んで死にました。エンナルとシュベルも、地下で遺体を発見されました。
 この一件を予期していたかのように夜闇の中に守備隊を配備していたのは隊長のテオルドでした。彼は、地下に潜った連中も他の者と同様に自殺を図ったと言いましたが、幾人かはそうではありませんでした。何者かに殺された跡がありましたが、彼は、それを守備隊には黙っているように言い渡しました。
「事件を大きく広げても、誰が一体得をするか?首謀者がいたことは間違いがないが、こうして無残な死体をこちらに残したということは、何か計算が働いているものだと見えるから、黙っていよう」
 特に、エンナルとシュベルは首を折られて死んでいました。テオルドはこの二人が事件の中枢にいると判っていましたから、死体を詳しく調べて、真犯人は口封じのために彼らを殺して、もうすでに遠くテオルドたちも手の届かない場所に、逃げてしまっているだろうと考えました。「やれやれ」彼はひとりごちました。「僕以外にもこの町をかき乱そうとするのは結構だが、野蛮に尽きるよ。彼は、きっと、黄金に唆されているんだね。でも僕は、オグだから、そんなのはもういらないんだよ。もういい。もういい。もう、たくさんだから。この町を破滅させて、何もかも新しくしようということなんだ。荒い仕事は好まれないんだ。この場合、切実な理由が大事なんだよ?」
 多く…自分の家族をも殺して、すべてを破壊し尽くそうとするような若者の意思は、テオルドの中に、非常に集約されていました。彼は、勿論オグだから、人間の破滅への意図を過去も今も未来をも含めて感じ取っています。彼は悪なのです。彼はその先に行かなければなりません。
 彼は終末期の悪でした。
 式典から逃げ出したハリトは、自宅のベッドにうずくまり、誰をも、レーゼをも求めませんでした。あの真っ赤に燃え上がるような血液が、彼女の胸を焦がしました。どきどきと、心臓が力強く鳴っています。血など、珍しいものではありません。殴り合いの喧嘩に出くわせば、血は飛び出します。ですが、彼女は元々こうした野蛮なものを好む傾向があったのです。レーゼの手前でおとなしくなっていたシオン=ハリトは、こうしてかつての自分を思い出したのです。いいえ、彼女は彼女らしく成長したはずでした。針子の仕事を目指すようになったのも、レーゼと、イアリオに会ったからでした。ですが彼女は何が自分そのものを形作っているか分かりませんでした。
 ハリトはオグと出会ったことで、その心がふわふわと所在を定めなくなっていました。オグは、いつまでも変わらないものです。彼の意思は、悪にあり、いつまでも囚われて、そこから出ることはできないのです。悪意など珍しいものではありません。ですが、変化する日常の間にあって初めて人間の前にそれは現れます。どこか遠くにあるのではありません。彼女は、自分の中の悪を、どこか遠くへ遠ざけました。大事なものとしたのです。その輝きは黄金に勝るとも劣りません。彼女は今の自分から、いつでも戻れるように、自分の大事な一部をそこへ匿ったのです。彼女は鋭く怯えました。変わってしまうことを恐れました。彼女はいつまでもレーゼとイアリオと一緒にいたいと願い、それはかなわなくなってしまったのです。彼女は大好きなイアリオを留めておくために、レーゼを誘惑したのです。しかし、大事なものは、三人で共有されるものではありませんでした。悪意はどうしても彼女自身のものでした。彼女が、自分のものとしなければならないものでした。
 オグが隈なく広がります。

 式典は、その後再び開催されましたが、その前に痛切な悲しみを伴う葬儀が何日か開かれました。人々はなぜ、若者たちがこんなことを起こしたか、想像するに無理でした。突然の、まったくの悲劇に、誰もが口を閉ざし、お通夜は普段以上に重々しく悲哀に染められました。鉱山の落盤事故とも、川の氾濫による子供たちの溺死とも、全然異なる悲壮がありました。その一件には、悲しみに暮れる理由が見つからないのです。彼らは自殺したのです。悲嘆は絶望ともなりました。未来を志向することのできない、悲哀だったのです。ある人々は幾年か以前のラベルの自殺を思い出しました。あれも、理由の見つからない悲劇でしたが、これほどまでに重々しくはありませんでした。彼らが鈍感だったということはできません。ただラベルが、そしてこの件に巻き込まれてしまった若者たちが、まみえた事実が、どうしようもなかったことだったのです。日常の水面下での出来事は、後であますことなくこの紙面に書き記しましょう。今は、イアリオの心理を追って、彼女が町から出て行くまでをつづりましょう。
 彼女は仕事に追われていました。彼女は、この儀式が終了次第、町から出て行くつもりでしたが、ハリトやレーゼが彼女の出立を遅らせる気にさせるまでもなく、町に残らなければなりませんでした。若者や子供たちの心のケアに奔走しなければならなかったのです。それに、議会の議事も大量にあって、二つの仕事に忙殺されました。ようやく落ち着いたのは春も過ぎて夏に差し掛かる季節でした。うららかな陽気が過ぎて、一層草葉がその緑を雄々しく濃くしていく銀色の日差しが訪れて、人々は初春の哀惜も消えてはいませんでしたが、前を向いて少しずつ進むことができるようになりました。こうしてやっとイアリオは自分がすべきことに向き合えるようになりました。彼女をしても、生きてきた年月を推してこの年の最初にあった悲しむべき一件は心にひび割れるような思いでした。彼女は、行くべきかどうか、迷いました。子供たちの恐怖と苛立ちに付き合う日々を過ぎて、どれほど自分が役に立つか改めてわかったのです。彼らのそばにいなければならない役目を感じたのです。彼女は負い目を気にしました。彼女は、別に生まれたこの故郷を捨てていくのではありません。ですが、このまま行けば、やはり町人であることを放棄するのです。教師である自分を投げ捨てるのです。戻ったとしても、彼女は必ず咎められます。その時、訪れるのは処刑でした。それでも行かなければならない理由は、果たして、納得するほどに心にあるのでしょうか?イアリオは日々苦悩しました。どうしてこんな決断をしてしまったのだろうと後悔しました。けれど、心にはあの焦燥が戻り、どうしても出て行かなくてはならない理由も、徐々に心の中に収まっていきました。
(今年初めの一件も、必ず天女たちの言につながっているのだわ)
 こう考える度に、彼女はぞくりとしました。
(当事者たちの物の考えはわからなかった。けれど、何かに突き動かされて、彼らは事件を起こしたんだ)
 彼女の教え子もその中にはいました。彼女は眉間に皺を寄せ、その日はそのままずっと、一晩を明かしました。明くる朝、イアリオは、自分の心と体が一致するのを覚えました。完全な気分となった時、彼女は、かつてした決意に目覚めました。
「きっと私の何かが麻痺している。尋常じゃないわ。私、生きたくないのかな?いいや、ピロットの喪失から、もう、これは決まっていたことなんだ。私はこの町を憎み、そして愛している。そして私は、いてもたってもいられない。必ず帰るわ。でも、その時に私は憎まれる。きっと蔑まれるでしょう。それでも行かなきゃ」
 その理由は彼女の感覚にしか存在しません。共感は望まれません。
 白い光たちが彼女に語り掛けます。この町は、滅びる。滅びなくてはならない。行き過ぎたがゆえに、取り戻す必要があるからだ。オグ、オグ、オグがいる。かの町には溢れ出ようとしているから。古い魔物、オグと、古い死人、あの街に封じられた人々が。
 イアリオは稲妻が目の中で閃いたような気がしました。その中に見えたものは、この町の未来でした。ああ、行かなきゃ。行かなきゃ。行かなきゃ。こうしてはいられない。止めるために?そうではない。そうではない。
 私は…知らなければならないのだから。
 彼女は地下にいる亡者たち、天女たち、そしてオグの意志を感じていました。この町の意志をも。
 彼女は行かなければなりませんでした。
 太鼓の音色が、遠くで鳴っていました。彼女は、行く前に、もう一度、地面の下に潜る必要があると思いました。ハリトたちとは、事件のあった成人式の前にも、また何度か潜っていました。ですがオグにも何にも会いませんでした。彼女たちは地下に目的を失いました。ハオスは恐らくは湖の傍らになった骨でした。彼はイアリオに「オルドピスに行け」と言っていました。「ただ知ることはできよう。我らの仲間に会いに行くといい。この町は、破滅を望んでいる。どうしようもない事実だから。」彼は、イアリオに何もできることはないと言いました。あれから繰り返し地下に臨んでも、彼女が確認できたことといえば、その、彼の指示のみでした。彼女は物言わぬ骨を眺めました。灯火の下で、彼の頭骨は、真っ暗な目の穴を空けて、彼女を見つめ返しました。なぜクロウルダはこのような生き方を選んでいたのでしょうか。その疑問ももはや、彼女が町から出て行かなくては知りえませんでした。

 それらすべてを捨てて、この町に生きる選択も、もう、彼女にはできませんでした。

 それは確認のためでした。三人は再び都に下りて、そこからつながる地下道と洞窟とに入りました。そして、その先の、湖の岸辺に行きました。これが最後の探索であると、ハリトもレーゼも知っていました。イアリオがそのように申し渡していましたし、彼らも、その覚悟を付けるようにこの半年以上の期間を彼女から猶予されていたのです。いくら二人の希望は彼女がこのまま町にいることだとしても、決意を固めた大人の女性の、背中は大きく、力強いものでした。そこに悲壮感はもうありませんでした。渦巻く風を身に秘めたような毅然とした立ち姿でした。レーゼとハリトは顔を見合わせました。彼らは恋人同士の関係でした。ですが、そうでなくても、一人一人が、この女性の手足でした。胸でした。顔でした。頭でした。その女性と共になって、行動して、彼女の生き方の息吹を感じ取って、彼らは、その分強くなったのは事実でした。その背中は彼らのものでなくとも、向こう側にある、彼女の正面はすでに彼らのものでした。レーゼはついとハリトから視線をはずしました。ハリトはまだ彼を見続けました。彼といれば、まだイアリオと共にいることになるのです。なぜなら、彼の心は本当はイアリオにあり、彼女は、それを奪ったのですから。しかし、ハリトの感じているその感覚は空虚でした。
 今は、まだ、その相手と一緒にいられて空虚はごまかすことができました。いいえ、必然的に、覆い隠されてしまったのです。レーゼは、彼女の決意は変えられないと判っていますので、ただ、本当の悲しみに切々と胸を痛めていました。この背中は、彼が一番抱き締めたいものでした。行くなとは言いません。彼女を送り出すために、彼は、それを望みましたが、心はそうでも腕は前に泳ぎませんでした。彼は…言いました。
「イアリオ。やっぱり俺は、あなたに行ってほしくない。ごめん、これは俺のわがままだけど」
 湖の岸辺に立ち、彼女は振り返り、相手を遠いところに立つ者のように眺めました。
「私もそうしたい。でも、いけないわ。謝るべきは私だね。巻き込んでしまってごめん」
 レーゼはずっと一歩足を進めました。
「そうした言葉は、一度も言ってはならないよ。俺たちはこっちの意思であんたについてきたんだ。それは満足しているんだ」
 ハリトが頷きました。
「だから言っているんだ。行ってほしくないと」
「あなたたちを愛しているわ」
 イアリオの言葉が、湖に響きました。
「上の町も。下の、街も。そしてここも。みんなを私は大好きだわ。だから行くの。行くの。だから、もう言わせないで。馬鹿らしいとももう思えないから。私の結論は、愚かだと、繰り返し繰り返し思っても、また同じ所に来てしまう。どうしようもないからさ」
 イアリオは顔を背けて、水辺の周りを回りました。裸足がすっすっと軽やかに岩の地面を過ぎていきました。レーゼは泣きそうになりました。いいえ、それはイアリオの側でした。ハリトは黙って、イアリオの背中を追いました。そして、痛烈な痛みをその胸に覚えました。オグに唆された彼女の魂が、疼いたのでした。泣くことができたのはハリトだけでした。
 レーゼはまるでイアリオの背中から白い光が現れているように見えました。それは、天女のものともハオスのものとも違いました。本当に彼女が出している光なのかどうか判らず、彼は何度も目を凝らしました。すると、こっちを向いていないのですが、イアリオが、振り向いた気がしました。彼はわかりました。ああ、俺は、俺こそ…この人のことが大好きだった。
 イアリオは歩きながら静かな湖面を見つめました。ここにひょっとしたらハオスが喰らわれたかの魔物がいるのかもしれませんが、仮にオグがいても、どうでもいいと思いました。彼女は知るためにこそここにいましたが、かの魔物を見ても、それと対峙しても、自分にできることは何もないのです。いにしえがそこに現れていても、自分は、もう後戻りのできない旅に行こうとしているのです。命を懸けて。そして、彼女そのものと対峙せんとしていたのです。今、ここでオグが現れても、彼女が知るべきことは何も見えないのです。それをどうしてかよくわかっていた彼女はぞっとするほど冷たい湖の水を、懐かしむように見ました。イアリオは遠く湖水に張り出した岩壁の向こうも見透かしました。そこには彼らからは見えない湖面が想像できないほどずっと広がっていましたが、ぬっと突き出した壁が視界も行く手も遮っていました。すると、その反対側に、ふいに白い光が現れました。彼女は右手にあるその岩壁から、左手の岸辺に目を移しました。彼女は目を瞠りました。光の中にいるのは、彼女たちのような衣服に身を包めた、憂いに満ちた顔の女性だったのです。女性の着ている上着のセジルは今のものよりもずっと簡素で腰から下が縫い止められていません。女性の下穿きはこの地方で「パンセ」と呼ぶスカートを、もっと長くしてあり踝まで裾が垂れていました。イアリオはぎくりとしました。あの顔は、もしかしたら、北の墓丘に天女たちが集った光の中に見出していたかもしれなかったのです。女は、やつれ疲れた頬をしていて、生命力がありませんでした。幽霊ならそのはずでしょうか。でも、何か、死後の憂慮とでもいうべきものがあるのなら、それに取り憑かれた者の顔つきでした。白い光はその女性の霊魂そのものでした。その光は女性の体にいいように収まらず、誰かを求めて、ついぞ外に溢れていたのです。女はイアリオたちを見ました。そして何か言いたげでした。しかし、女の目的は三人にはなく、湖の上の、あるものにありました。彼女は手を広げて、空間にその腕を伸ばしました。すると、湖面が急にざわざわと波立ち始め、巨大な塊が上からその中にぼちゃんと落ちたかと思うと、鎌首をもたげた霧の魔物がぞわりぞわりと立ち上がりました。
 イアリオたちは戦慄し、声が出せませんでした。ずっとそこにオグはいたのです。女の合図で出てきた魔物は、じっと女を見つめ、動きません。その体である霧の、一粒一粒は人間の悪意です。魔物の中にはたくさんの宇宙が漂っていました。人の悪が醸し出す記憶と激情の渦でできた宇宙です。生きている人間は、皆、その中に自分の一部を探ろうと思えばできました。それは、彼らのものだったのですから。ですが、彼らの悪は、この魔物の中に、所在を定めていました。彼らのものでありながら、彼らからそれは離れていました。なぜでしょうか。その中にあるものは、全部が、同じ種類のものだからでした。悪は塊となり、人を襲うのです。
 光の幽霊はオグに手を差し伸ばしました。オグは、それに応えて、自分の巨体をゆっくり彼女に倒しました。両者が重なる時、新しい悪が誕生しました。オグは、女を取り込み、もだえました。それまで明確な形を持っていた霧の粒子が、湖面にどさりと崩れ落ちました。そして、速やかな溶解が始まりました。霊がうたって溶けたのです。自分自身の一部の中に。
 イアリオはひんやりした妖気を感じました。何か、危険が、こちらを向いて流れてくるようでした。彼女は急いで岸辺から離れて、レーゼとハリトを呼び、この場所から出て行こうとしました。ぞくぞくと意思ある手が彼らに伸ばされました。何本も、白く、地面を這い進んできました。ほどけた悪魔が、彼らの足を掴もうとして、素早く移動し始めました。徐々に、徐々にそれは走る彼らに追いついていきました。まるでそちらに下り坂があるように、霧の粒子は、水のごとく流れていったのです。
 霧が、その足に触れるか触れないかのところで、二人を先に送り、最後尾を走っていたレーゼの肩を、誰かが掴みました。彼は絶叫して、振り向く間もなく転びました。イアリオは彼の声に反転して、さっと懐からナイフを取り出しました。それは探索用のナイフですので、大した武力もないのですが、彼女は、レーゼが捕らわれてしまったのであれば、このままハリトを連れて自分たちだけでも逃げようと考えました。そのように考えたはずでしたが、彼女は、武器を取り霧に対峙しました。
 ぼんやりとした人影が彼女たちの前に立ちはだかっていました。人影はイアリオに背を向け、霧の魔物と相対して、じっと睨み合いました。魔物の手足は幾本もざわざわと揺れて、彼と、無言の会話を交わしました。
「大丈夫だ。霧はもう襲ってはこない」
 彼はそう言い、面をこちらに向けました。
「私がいるから、危険は去ったのだ」
 その顔に、彼女は見覚えがありました。いいえ、これほどに、驚愕し驚嘆したことなどありませんでした。まさか、まさか…!
 男は痩せた上半身をさらけ出していました。下穿きは見知らぬものでした。彼は、銀色の目をして獣のような酷薄な顔面でした。成長した彼は、まさに、野生で育った狼でした。
「ピ、ピロッ…」
「でも、ここは危ないから、もう、行った方がいい」
 彼は立ち去ろうとしました。彼の目はイアリオを見ませんでした。彼は、ちらりとその素足に目を細めただけでした。どろどろと不気味な鼓の音が、湖の方へ引いていきました。レーゼとハリトはやっと息を吐いて、安全がこの場所にあることを確かめました。
 しかし、二人とも、異常なほど驚いて固まったイアリオの顔と、男の異様な風体に、目を奪われました。イアリオが握り締めたナイフは、その刃を男に向けていました。彼女の手は、震えていました。
 イアリオはその心臓を飛び出しそうなくらいばくばくとさせて、彼にかけるべき言葉を、あてどなく探しました。その時、彼の目が彼女が握ったままのナイフに止まりました。彼女ははっとして、切っ先を懐に隠しました。ですが、どうしたらいいのかわかりません。
「ルイーズ」
 彼は、彼女の下の名前を呼びました。
「二度とこの場所に来るな。忠告はたった一度だ」
 行ってしまう!行ってしまう!イアリオは、彼の名を呼ぼうとして、震える喉を、幾度か開きかけましたが、この十年を越える歳月が、彼を想い続けた心の呪縛が、そうさせてくれませんでした。しかし、相手は目を上げました。そして、彼女と目を合わせました。それで、彼女には懐かしい気持ちが、愛情が、彼がいなくなる前の泉の記憶が、暴風のごとく溢れ返りました。彼女の全身が一斉にとてつもない地震に襲われて、全身が、愛しかった心に満ちました。
 彼は、ぷいと視線を逸らしました。イアリオはようやく自由になりました。「教えて?」彼女の懇願は確かに空気を震わせて彼の耳に届きました。
「どうして、オグを、退却させたの?」
 彼はもう一度振り返って、口を開きかけて、目で合図しました。無言でついてこいと言ったのでした。三人はおとなしく彼についていきました。湖を回り、左手の奥の洞窟の中に、彼らは入りました。そこには、つららのように垂れ下がった鍾乳石と、地面からにょきにょきと生えた奇妙な岩石があり、湖の周りとは異なり黒くなくむしろ白みがかっていました。そこは圧倒的な年月の古さを蓄えた、まったく古代の次元の景色を用意していました。彼はある一つの石に座りました。そして、片手にあごを乗せました。
「もう少し奥には金銀に光る石があって、それはゴルデスク、フュージと呼ばれる金属だ。オグが棲んでいる所によくできるらしい。オグと同じく、人間を惑わす」
 彼は、傍から一つ石を取り上げ、彼らに見せました。
「これがゴルデスクだ。気を付けて、持った者を虜にしようとするから」
 最初に渡されたハリトが松明にかざすと、その塊は毒々しい色の黄金を輝かせて、蠱惑的な表情を浮かべました。きらきらしい毒素が表面から顕れて、こちらの心理の影を、深く深く潜っていくようでした。金属は意外に重たくて、ハリトは持っているだけで腕が痺れてきました。ですが、その塊を放したくなくて、目が吸い込まれるままに、じっと見つめ続けました。イアリオがぽんと彼女の肩を叩き、それでハリトははっと我に返りました。
 イアリオは何度もこの石と男とを見比べました。どうして彼が生きてこの洞窟にいるのか、一体どうしてこの十三年間生き延びてきたのか、彼について、知りたいことや、知らなければならないことが山のようにありました。ですが、質問は何一つ口をついて出ていきませんでした。詰まっていたわけではなくて、この場にいるだけで、もう本当に満ち足りていたのでした。
「外でその石を眺めてみるといい。オグはまさにその石だから」
「あなたは何者です?イアリオの名前も知っていた。でも、その出立ちは上の町の者じゃない」
 レーゼは警戒するように言いました。
「私か?私は誰だ?何も知らない」
 戦慄する空気がその場に走りました。男は、ぼんやりした視線を各人に送りました。
「でも、彼女の本当の名前をあなたは言った。名渡しの儀式をしたんでしょう?なら、町の人間のはずなのに、ああ、もしかしたら…!」
 彼はついに判りました。この男が、長年イアリオが無事を祈り、あの墓丘で願を掛けたその人だと。彼は不可思議な心地になりました。イアリオは、上の町から出て行って、途方もない冒険に出掛けて行かなければならないというのに、よりによって、彼女の懸念していた最大の事跡が、今ここで、解決をみたのです。それは全員が期待したものでした。こうであればいいのにという願いが届けられたのです。しかし、ここは洞窟の中でした。暗い闇の内部で想いは実現したのでした。
 どろどろと太鼓の音が、果てしない過去に鳴り響きました。奇跡を望んだのは誰でしょう。
「ああ、しかし、その人の名前は知っている。確か、ルイーズ。そうか、君は、ルイーズ=イアリオという名前か」
 イアリオは彼に名前を呼ばれ、弾け飛びそうな気分を必死で抑えました。嬉しくて、悲しくて、つらくて、激しい喜びと困惑に貫かれて、今までとは別の悶えが溌剌と燃え立ちました。
「ピ、いや、あの、…、ピ・ロ・ッ・ト」
 彼女は区切り区切り呼びました。ここで、彼の下の名前を言うことはできませんでした。言ってしまえば、もう、心は押し込めておけないからでした。
「あなたは、入江から海に出て行ったんじゃなくて?ずっとこの洞窟の中にいたの?」
「わからない。何もわからないんだ。しかし、私の名前は、ルイーズ、ピロットなのか」
 イアリオは思わず首を振りました。もう泣き出しそうでした。ここで下の名を言ってはならないのです。彼にも、自分の名前を言ってもらいたくはありませんでした。その度に、ずしん、ずしんと、胸が軋むのですから。十三年の想いが…それ以上の感情が…。

 しかし、彼は、本当の彼女の同伴者でしょうか。でもその時、確かに、イアリオは誰よりも美しい目をしていたことに、心を奪われてしまったのは、傍らの青年でした。

 ピロットはどこか哀しげな目をして首振る相手を見つめて、溜息をつきました。
「どうやら、私は記憶をなくしたらしい。何を今までやっていたのか、何も思い出せないんだ。だから、放っておいてくれないか。そう、あのオグについても、私はもう何も記憶にない。なくなってしまったから」
 力なく痩せ細った肩を落としたピロットを見て、イアリオは、母のような気持ちになりました。よく無事で、生きていてくれたと、自分の願望が叶ったかどうかではなくて。彼女は、落ち込む様子のピロットの、両肩に、手を置きました。そして、彼の体を、ゆっくりと、時間をかけて、柔らかく、刷り込むように、抱き締めました。彼も美しい目をしました。そして、彼女の名前を、もう一度、小さく呟きました。
 イアリオは、ぎゅっと力を込めて彼を抱き締め、体を離しました。
「まだ、感謝していなかったね。オグから、私たちを助けてくれてありがとう」
 彼女は笑いました。
「ねえ、ピロット。また会えるかな?」
 ピロットは、顔を上げて、彼女と視線を交わし、その頬に、朱の兆しを見せて言いました。
「ああ、ああ」
「ずっとここにいる?」
「わからない。それはわからない」
「町は、あなたを歓迎するから。いつでも上に上っていらっしゃいな。あなたを忘れたとは言わせない。でも、できるならこの二人を頼ってね。私は、町から出て行くからさ」
 レーゼもハリトも、イアリオに目を瞠りました。彼女が、ここでその宣言をしたことにびっくりしたのです。
「お願いね?」
 イアリオは、また、彼女のぬくもりと柔らかさを彼に染み込ませようとして、ピロットを腕の中に引き寄せました。彼は、目を瞑り、その感触に身を委ねました。そうして、三人は湖のほとりの穴から出て行きました。

「じゃあ、私は行くよ」
 外に出て、開口一番、イアリオは二人に告げました。
「オルドピスへ」
「ええっもうこのまま行っちゃうの?」
「まさか!でもすぐに準備して行くわ。彼と、会えたんだしね」
 彼女は颯爽と背中を見せて、前を歩いていきました。初夏の、匂い立つ空気がその衣服を膨らませていました。髪の毛に、光線が混じり、揺れる度に、周りに輝きが振り散るようでした。レーゼはじっとその背中を見つめて、この女性の中で起きた想像し難い変化を臨みました。すると、何か、腑に落ちました。彼女の人生を賭けていたものが、憑き物が落ちたようにその身から剥がれ落ちたのです。彼女はこのまま行くでしょう。何も、この町にもう残してはいないのですから。彼は、自分の指先が震えるのを感じました。さっきの冷気にあてられたのでしょうか。いいえ、何か、途轍もない事柄に目を向けた、自分の感覚を、それは正しく表現したのです。
「ピロットは、煮ても焼いても食えなかった。あいつはきっと、地下を無事に生き延びたんだ。そうでなければ、海の外へ出て、またこちらに戻ってくる間に、ひどい目に遭って、ああなってしまったんだと思うわ。けれどとにかく無事だった。ああよかった!私はほっとしてしまったよ。あいつが、一人でも生きていけるって、目の当たりにしたんだから。だから、私がここにいなくても、あいつは大丈夫だと思った。あいつと一緒にいたいし、あいつの傍にもいてあげたいけれど、もうそんなことは言ってられない。私には、眼前に、やるべきことが見えているから。それに…」
 彼女は二人の方を向き、目を伏せました。その視線はどこともなく流されていました。
「あなたたちに、彼は任せることにしたの。私の勝手でも、頼むわ。それで、いいかな?」
「行っちゃうの?」
 ハリトがまた同じことを尋ねました。イアリオは頷いて答えました。そして、目を上げて、彼らを一人一人見つめました。いいえ、レーゼは、見つめられませんでした。彼女は無意識に彼と目を逸らしました。ハリトには頼めても、彼には頼めませんでした。
「ピロットが記憶を取り戻すのを待ってから、行くことはできないのか?」
 レーゼが訊きました。
「そうした方がいいだろう?彼は、オグを退けたんだぜ?」
「その理由は、あなたたちが聞いてくれるといいわ。私は私で、あの化け物を調べるから。それに、あの怪物を調査することが、私たちの本意じゃない。天女たちの文言を理解するのが、本当の目的だったよね?」
「そうだけど…」
 レーゼとイアリオに再びあの焦燥が蘇りました。こうしてはいられないという実感が、ひたすらに大きくなっていく、巨大な不安が、津波のように持ち上がりました。
「そう、だな」
「ね?これしかないのよ」
 それでレーゼが納得しても、ハリトは不満を言いました。そこで、イアリオは決定的な言葉を口にしました。
「私は三年後に戻ってくる。そしたら、あなたたちの子供が見られるかもしれないね。ハリト、あなたレーゼと結婚するんでしょう?おめでとう!もう言っとくわ。私たちで、三年後に知り得た情報を持ち寄りましょう!あなたたちには、ピロットが記憶を取り戻したら、どうして今まで生きてこれたか、それに怪物の撃退方法も、聞いておいてほしいわ。あなたたちに任せるから、私は、堂々と町から出て行くの」

 彼女の無謀とも言える挑戦は、こうして着実に実践の時を迎えました。レーゼは、自分が代わることはできないかと色々その可能性を調べてみましたが、幾度も、完全な壁にぶつかりました。彼は、この町で生まれて、この町を好きでした。彼女のように、憎んだりすることがあまりありませんでした。彼以上にイアリオは町を愛しているから、出て行くのです。そうでなければ出てゆく力は体に宿りませんから。彼と彼女は違いました。代わりになど到底なれるものではありませんでした。
 彼の役割はもう決まっていました。生まれた時から決まっているようでした。西の陽光が長々と彼の顔に降りかかりました。澄明な朝が来て、神秘的な透けた水面を手の平で探って、彼は、言葉を発しました。
「イアリオを、待つ」
 彼女は、昨日の別れ際、こう言っていました。
「月の無い夜に、また集まろうね」
「三年間、そして新月まで、俺は待つんだ」
 その翌朝、レーゼは、自分に言い聞かせました。
「彼女が戻ってくるのを。そうしたら、俺たちは、天女の言った言葉を何もかも知ることができるように思うから」
 それは、その通りになりました。レーゼは息を吸って、水をざぶんと被りました。

 彼、クリシュタ=レーゼは、それから数日間、仕事に手がつきませんでした。寝床でハリトを抱くも、手に力が込められませんでした。彼はじっとして、彼女に掛けられなかった本当の声を、ただただ、確かめていました。彼は後悔はしていませんでした。ですが、彼女をその近くから離してしまう寂寥感は、耐えられるものではありませんでした。彼の運命は決していました。彼はハリトと共に生きるのです。そして、粛々とこの町の未来を迎えるのです。彼は知ります。彼はハリトと共にこれから幾度も、またあの地下に潜ります。それは、あたかもいなくなった人を思い偲ぶためにも。イアリオが、そうしていたように。心に言い知れぬ焦燥があっても、訳知らぬ不安が存在しても、彼はそれ以上変わりません。彼は町から出て行きません。どうしても、この町が天女の言葉通りの道のりを辿っていることが今後わかってきても、足音を立てて背後から破局点が迫ってきても、彼は、一途にイアリオが帰ってくるのを待つことになります。
 現在の彼は、イアリオと同じく、その破滅の足音を聞いていても、ハリトを抱いて、そして己の夢の実現へ向けて行かなければなりませんでした。一方イアリオは、粛々と自分の担っていた仕事が別の人間に引継げるよう用意を秘密に進めていました。彼女がいなくなっても、しかも、突然行方不明になっても、また捕まって処刑されても、授業や、議会の議事録作りなどを手伝える人間をこの半年で十分に育てていました。立つ鳥跡を濁さぬように、周到な準備はほぼ完璧に終えていたのでした。ただし、彼女は両親にちゃんと告げねばならないと思っていました。当然父親は反対するでしょう。しかし、彼女の母親は、一体どう思うか彼女には判らないところがありました。無論彼女を引き止めるでしょう。その時、私は、もしかしたら自分の意志を翻してしまうかもしれない。彼女にはそのような予感があるくらい、母親のことはわかりませんでした。
 それでも告白しなければなりませんでした。自分が育ったこの町を、愛しているからです。
 立つ鳥跡を濁さず。彼女にとって、これは大事なことでしたが、彼女が愛していると理解した町が…彼女の故郷が、出て行けと自分に言っているようにも感じていました。それも、厳然とした、深く包み込むような声で。故郷に別れを告げるとするならば、その相手は必然的に誰でしょう。彼女は手紙を用意しました(手紙といっても、紐でひとくくりにした何枚も重ねた薄い石版です)。扉を開いていよいよ玄関口から彼女の冒険が始まろうとする時、イアリオはそっと自宅の共用机にその手紙を乗せようとして、向こう側で静かに窓から星空を眺める母親と、視線が会いました。この時間に相手が起きていることは珍しくありませんでした。しかしイアリオは両親が寝静まった様子も見ていました。彼女は無言の挨拶をすることにしたのです。ところが、まるで申し合わせたように、手紙の置かれた台所の机の真っ直ぐ向こうの石椅子の上に、その女性は静かに静かに座っていました。イアリオにとって、この女性はあまりに神秘的でした。つかみどころのない性格で、ちゃんとした物の考えを持っているのは判りましたが、いつも冷静で、慌てたところがありませんでした。彼女によく似た目をしていて、その涼しげな目許は、慈しみの深さと冷然な判断とを兼ね揃えていました。イアリオは母親をずっと恐れてもいました。よほどの事でなければ何かを頼んだりできませんでしたし、幼い頃はともかく、物心ついて甘えたことはありませんでした。
 ですが彼女は、この母親に随分信頼されているとは思っていました。どこにもその目があって、地下へ一人で入っていく時でさえも、自分の背中を押してくれているのを感じていました。しかし彼女は、今回の旅においてはずっと母の視線からも隠れて計画を立ててきました。
 彼女はしんとした部屋の中で、ほのかな青白い光にちりちりの髪の毛を洗われている母親の前に立ち、何も怖さを感じていませんでした。その人を恐れるも、その恐れは、自分という存在をどこまでも想いながら見つめている目に晒されているからでした。イアリオは、母に正直に告げました。今から、この町を出て行きます。理由は、これこれ、こういった具合だから。彼女はできるだけかいつまんで説明しました。それきりの弁解で、相手に納得してもらうのは無理でも。
 母親は、彼女が準備した鞄と水筒との旅支度を見て、うんと頷きました。
「いってらっしゃい」
 イアリオは驚きました。
「どうして?」
「あなたは、自分が何を考えているか、結構私によく話してくれたね。必ず、肝心なことは話すね。だから、あなたを気持ちよく送り出すことにするの」
「どうして…?」
「あなたは、自分が地下にいる死んだ人たちを慰めたい、と言っていたね。そのために、子供たち二人を連れて行くのも、よくないことだと考えていると。あたなはいつも、強い意志で、自分自身の悩みに臨んだわ。私は頷くだけだった。
 あなたがまた別に何か計画して準備していたのはわかっていたよ。それも、命の懸かることをね。そうでなければ、あんな風に、あなたが変わっていくことはないだろうから。もしかしたら、こうしたことになることも前から私は考えていたわ。私の方にも、覚悟が必要なんだって」
 イアリオは気をつけの姿勢を取りました。
「意志が弱ければ止めているはず。大分覚悟の上なんでしょ?そうでなきゃ、母に、計画を教える?自分が、捕まって罰を下されてしまうかもしれないことを」
 イアリオはもうその場所に膝をついてしまいたい気持ちでした。そして、何もかもなくしても、この人を世話したいという思いに満ちました。
「ええ。でも、私に教えてくれたから、それでもう十分。あなたにどんなものが降りかかっても、私はここから見ていますから。行ってきなさい」
 イアリオは、自分の命を懸けて出て行くということが、その覚悟がどこか大したことのないようにも思えました。彼女は信頼されていました。その信用も、半端なものではありませんでした。彼女は、誰かからそういった信頼を得ようとしていたところがありましたが、自分の心の弱さは今ここで、看破されて、もっと底の、本当の強さのところを見てもらっていると分かりました。彼女は、何とも言えない沸々としたものを覚えました。目を閉じ、開き、自分の母をしっかりと見つめました。もうどんなことがあっても、自分は無事であるという確信に、彼女は満ちました。
「行ってきます」
 そう言って、ついに、イアリオは自分の家を出て行きました。
 この町での出来事は…必ず彼女の人格を形作ってきたものでした。イアリオは、この町を出て、まったく未知の世界へ飛び出すのですが、それへの恐れはありませんでした。ただ、町が彼女を捕まえようとしてその両翼を閉じていることが、愛する故郷であるのに、憎まなければならないということが、ありました。イアリオは振り返り、この真珠のような白い町並みをしっかりと目に留め、颯爽と歩き出しました。彼女に背後にされたのは、星空からたよりない光線が送られている、まるで命の焔が小さく燃え、ほのかにあたたかく輝く、世界のどこにも知られない小国でした。そこは、死滅した都の真上に築かれた、砂上の楼閣でした。脆くも崩れて、一気に消滅しても、そんなことは世界中が知り得ませんでした。町の命は、町の人間が握り締めているのではなく、大世界の手の平の上に、それはあるのに。

 町は、自ら亡びを決したのです。始めから、そして、最後まで。

 町から北の湿原を通り抜け、イアリオは墓丘のある丘陵地帯まで足を運びました。丘地の翳に、馬を用意したレーゼとハリトが待っていました。彼女は彼らに笑いかけましたが、二人とも、悲壮な表情を貼り付かせていました。
「ありがとう。待たせてごめんね」
「イアリオ…」
 ハリトが、まっすぐ突っ込んできて、彼女の懐に飛び込みました。
「あらあら」
「どうしても行かなきゃならないの?」
「うん」
 彼女はハリトを引き離し、その首に腕をかけました。
「元気な子どもを産んでちょうだいな。きっと三年後、また同じこの場所で、私に見せに来てね?」
「イアリオ、約束だぜ。必ず生きて帰ってくるって」
「勿論」
 イアリオは羽のあるようにくるりと回り、レーゼに近づき、その首に同じように手を伸ばそうとしました。でも、後ろからハリトが彼女を羽交い絞めにしました。
「もっとイアリオと一緒の時間を過ごしていれば良かった。こんなに好きな人だから」
「私もよ」
 ハリトはもっと強く相手を抱き締めました。泣いていました。本当の涙でした。イアリオは彼女の手の甲を優しく撫でました。そして、いつまでもこうしてもいいんだよ、と、無言のメッセージを与えました。その瞬間、ハリトは体を離してくれました。思いが伝わりました。
「じゃあ、行こうか」
 馬は二頭用意されていました。イアリオは意外な顔をして、レーゼに窺いました。
「俺が途中までついていくよ」
 彼は意を決したかのような鋭い眼差しで相手を見つめました。
「あなたに渡すものを、行きながら説明してあげようと思って。それに、俺からどうしても言わなければいけないことがある」
 イアリオは何も言いませんでした。彼の中に覚悟の火を見つけたのです。レーゼはハリトを慰め、馬に上りました。イアリオもさっと馬体に飛び乗りました。と、彼女は飛び降りて、ハリトに駆け寄り、その丸い頬に口づけをしました。
「ありがとう。大事な人。もう行くわ。元気でね!」
 こうして二人は馬で丘陵を駆けていきました。飛ぶように過ぎていく景色はもうこれで見納めになるのでしょうか。イアリオはそうは思いませんでしたが、ある意味で、そうなりました。町へ戻ってきた時、彼女はもう、元の姿のふるさとを見ることはできませんでした。ですから覚悟があるとはいえ今生の別れのつもりでない彼女の目に、丘陵や、田園や、作物の実る雄々しいつる草、垂れ下がった瑞々しい葉っぱ、遠く聞こえる牛の鳴き声などは、絵のように焼きつきませんでした。二人は駆けていって、風を、にぎやかな町人たちの交わす声のように聞きました。もう後にしたそれは、彼女に懐かしむ間も与えなく、色々と、感謝したい気持ちに変容しました。彼女はこの町を憎しみ、育てられました。齟齬感を持ちながら、生活を用意されました。だんだん遠くに離れていく生まれ場所は、こちらを見つつも、そっぽを向いてしまうように思われました。依然、あの国は地面の下のみを覗いているのです。そこから離れられないのです。イアリオは唇を噛みました。悔しい気持ちが溢れて、故郷を、もう振り返らぬよう立ちはだかる山脈に目を向けました。レーゼは何も言いませんでした。この共乗りの途中で、彼は渡すつもりの道具について、彼女に話をする予定でした。しかし、この別れの時を、そんなにも冷静に迎えられるほど、彼は強くありませんでした。彼の胸は張り裂けそうでした。彼は彼自身の運命をがんじがらめにしてしまった自分を感じていました。俺も、行ってしまおうか。この人と共に、山を越えようか。そんなことまで彼は考えました。彼は今が幸せでした。彼女とともに、二人で、並び走っているこの時が。
 夜の間に山脈の麓に到着して、二人は馬を下り、レーゼは彼女に鞍から小さな袋を取り出して、あげました。イアリオはそれを受け取り、中を確かめました。
「何、これ?」
「望遠鏡だよ。親父が特別に表彰されて貰った、オルドピスからの贈られ物で、透明な鏡が入っている。それを覗くと、遠くにあるものがよおく見えるんだ」
 イアリオは半信半疑にくるくると小さな筒を回しました。
「狩人にも俺たちにも見つかってはならないんだろう?よく利く目よりももっと便利さ。それと…」
 彼は、小袋の下に溜まっているものを指差しました。
「それは金だ。外の世界じゃそれが大事になる。何でもこれと交換してくれるそうだってさ」
 イアリオは彼に目を向けました。そんな物を、どうしてレーゼが持っているのでしょう。
「大したことじゃないさ。俺が、親父から成人した記念に貰ったものさ。あんたに預けるよ。返してくれとは言わないぜ。俺だって、あんたと別れるのは辛いんだからさ」
 レーゼは長く息をついて、辛そうな目を上げました。
「イアリオ、必ず生きて帰ってこい。俺は待ってるぜ。あんたともう一度会いたいから」
 彼は、本心を言えませんでした。今もその唇をぐにぐにと動かすのですが、どうしてもその言葉は現れません。イアリオは、勿論だよと言いかけて、その言葉が、ここではふさわしくないだろうと感じました。彼女はじっと彼を見ました。そして、何かを彼から感じ取りました。惚けたような、香しいような、今まで覚えたことのない、特別な感情が体の底から昇ってくるのを、
 イアリオは、今更、知ったのでした。
「じゃあ、こう言わなければならないんだね。レーゼ、」
 彼女は、まるでピロットのように、彼の体を抱き締めました。そして、熱い唇を、彼の頬に付けました。
「嬉しいわ。あなたと会えて。だから私は行けるんだわ。ここから、外へね?」
 レーゼはもうそれで無言に立ち尽くしました。別れの挨拶が終わってしまったのです。でも、その言葉はどうしても真実で、彼の奥底を、心地よく、快く、くすぐりました。
「イアリオ」
 意識しない声が漏れました。彼は燃えるような眼差しをしていました。五メートルほど先へと行った彼女を呼び止めて、レーゼは、ぎっと奥歯を軋らせました。
「行ってくるよ」
「待って」
 レーゼは、固く目を瞑りました。行かせたくない。行かせたくなかった。でも、もう、距離は開いてしまった。
 待つことはできなくても、待たなければならない。
「待っている」
 彼女は頷き、小鳥のように、向こうへ歩いていきました。しかし、少し歩いて、もしかしたら、私の本当の理解者はレーゼだったかもしれないと思いました。こんなにもいとおしい気持ちは初めてでした。相手は六歳も歳の離れた青年だというのに、どうしてこんなにときめくのでしょうか。それは、確かに、初めて出会った時も感じました。北の墓丘で、あの天女たちに遭ったあと、彼女は彼の真剣な眼差しを見ました。自分に叶えられない願い事はしない、と言った彼。それは、夢のためではない、ありえないことを信じるためにしない、自分への宣言だ、と言った彼を、イアリオは大好きになったのです。その時、彼女が好んだのは彼のその考え方だったかもしれません。ですが、今は、その考え方こそ、彼だからこそ具わるものだったと判りました。彼女は、急につらくて、苦しくなりました。ピロットに向けたものとは異なるその想いは、あの時から成熟した、彼女の今の本当の気持ちでした。
 彼女は何かを後悔しました。いいえ、彼女はもう何もあの町に残してはいませんでした。町とは関係がありませんでした。彼女自身もまた、あの町に取り憑かれていたのです。彼女は彼と接吻をしていなかったと思いました。いいえ、確かにイアリオは彼の頬に、口を付けました。そうではありませんでした。
 彼女はやっと自分の齟齬を発見したのです。彼女はやっと自分の至らなさと誤魔化していた気持ちに気づいたのです。しかし、もう後悔しても遅いのでした。後悔は先に立たずも、後になって、知るのですから。

 そして三年後…定められた轍の道は、すべてが直結し、あるひとつの破局へと皆を導きました。しかし、ようやく、イアリオは自分の道を歩き始めたのでした。
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