第18話 夢とフィマの決断

文字数 20,824文字

 死は嫌だという認識は、どこから生まれたのでしょうか。死は、明らかに生の延長にあるものなのに、それは黄金のような変化であるのに。本来はもしかしたら祝福されるべきものかもしれません。長寿天命を全うしたらということではなくて、それが、いかなる形でも。生は喜び、そして死は悲しみというなら。誕生こそ祝福され、死は哀悼するものといえど。なぜならそれをも含んで生が確立するのです。
 唐突な死も、理不尽な死も、野ざらしの死も、もし、命が転生するならば、繰り返しの誕生は、その以前の死によって行われる現象だとすれば。
 人間として最も難しい行為は、その祝福だとしても。

「この四ヶ月間、私は、よく読みました。主に私のふるさとの周囲の歴史をですが、私の町にある資料よりもっと昔のことが書かれた、興味深い一冊も。クロウルダのことが書かれたものも、読みました。それで、今、自分のいる位置がどのように定められているのか、にわかに判ったような気がします。元々歴史は好きなのですが、それが、自分と同一に重ねられるように認識したのはほとんど初めてです。今まで、それは単に好きな科目で、自分の想像を豊かにする物語でした。でも、それは、実は人間の営みに他なりません」
 イアリオはトルムオを前に自分の調べ物の進捗を報告しました。この国の最高賢者は目を細め、彼女の言葉の中身を確かめるようにイアリオをじっと見つめました。
 細い鐘の音が鳴り響きました。
「それで」
 トルムオは長髭を少し動かして言いました。
「あなたの経験は、私たちに伝えられますか?」
「いいえ」
 イアリオははっきりと答えました。
「私がこれまで理解したのは、私のふるさとがどのような環境の下にあったかで、私が予感するこれからのことは、まだ判りません。ですが、その未来まで含めて言葉にしなければならないでしょう。
 それで、もし、理解が足りないとすればいよいよオグについてだと思うのです。私はその資料を要望します。私が拝見した書物の中で、多少はそれについて触れている記述もありましたが、伝説のような扱いになっていて、今もいる者のようには書かれていませんでしたね」
「そのとおりです。オグは、大量の人間の悪だとはいえ、それを自覚できる力のある人間などほとんどいませんから。
 あの中に前世たるかつての自分の犯した罪が眠っているものだと、誰が想像できるでしょうか。しかし、彼を追ってきたクロウルダという種族は、罪深い歴史を背負っています。彼らは最近自分たちの研究をまとめる本を出しました。それは今も漸進的に書き加えられている最中ですが、模写も含めた三冊あるうちの一冊を、あなたに託しましょう。最新の情報もあなたに届けられるようにしましょう。
 オルドピスは、おそらく遠い祖先にクロウルダの血を持っていると思われるあなたが、この問題を、違った角度から解釈してくれるものだと思っています。そこに果たして解決はないかもしれませんが。しかしあなた方の歴史は変わるのでしょう。カーテンは開かれるのです。
 そこにあるものは、元々が私たち皆のものです。歴史とは、うず高い過去の積算、そして現在から見える、かつての我々の姿です。あの魔物は、単に人々の生活を破壊するためだけに生きているのではない。人々の、根源を遡っている者だから、その足跡を追うことは、我々自身の過去を調べることにもなるのです。そういった意味で、あなたの体験は非常に由々しい。オグに追われるとは、自分の過去に追われること。そう、ハオスは言っていました。
 あなたの体験は、私たちともつながるのです。私たちは、あの魔物を、いにしえの記憶を司る神でもあると考えています。実際、オグは、奉られたことがあります。クロウルダがするようにではなくて、厖大な記憶の所持者、または守護者として、あるいは戦神として。力ある者を、神として味方にすれば、たちまち強者になれますからね。あの悪の力は純粋に「力」なのです。人間の破壊的欲望を増強して、うまくいけば敵を皆殺しにできる。当然、代償はあるものの、当座の力を求めてしまう人間の心は、抑えるべくして抑えられるものでしょうか?人間は、うまくこの力と付き合ってきたといえるでしょう。どんな人間にも具わっているのです。悪は親友、原始的な、技なのです。
 ただし、オグは、人間のそうした行い自体を記憶して、その行いを繰り返しています。悪の、プログラムというものがあるのです。クロウルダは、それに怯える民族です。現在に生きる人間の前に、以前の自分が犯した罪が立ち現れる、そうしたことがあることを、彼らはよく知っています。悪は過去を繰り返し、それ自身の肥やしにします。その痛みはその親玉たるオグに吸収されるのです。そうしてオグはもっと巨大になるのです。
 怪物は嵐を起こします。この世で実際に三度あったオグによる破滅は、大量の人間を消しました。我々が分かっていることは、その消滅は、オグに唆された

望んだということ、過去と現在の人々の欲求が響き合い、大きな共鳴となってかの扉を開き、その向こう側へ渡って行ったのです」
 トルムオの話は、まさに、彼女に手渡されたクロウルダの研究書を綺麗にまとめたものでした。

「さても、人間は疑い深く、昔から、互いを牽制し合って生きてきたところがある。それが唯一の時代を生き延びる性格の支配者だとしてだ。人間は、愛する必要以上に恐れを大事にした。怖がって、取締りをした。これが僕たちのいる町のその姿だった。悪に目覚め、悪に怯え、それを封印することで、保つことのできる知恵と技を磨いた。三百年、この町はもったね」
 テオルドは誰に語るともなくそう呟きました。彼は、町から北にあるあの墓丘に来ていました。
「でもいい加減、壊さなければ。この町は一体何を望んでいるのか?沈黙ではない、保持されることでもない。ずっとこのまま、飼い殺しのように生きてい続けることではない。死ぬことと生きることだ。つまり、変化だ。何が大事か?僕たちが生きていたという実際、しかし自分たちが為したことに恐れを持ったという歴史だ。それは自分たちが目覚めてしまったことに対して、どんな礼儀をもって接するかということと、昔の人々へどのような感謝を抱くかということだ。そういったことはすべて、現在の僕たちを形作っているものだから」
 墓丘に突き立った萎れた看板を見て、彼は笑いました。
「響くのは大地の鼓動だ。この町は破滅を迎えようとしている。オグだけじゃないよ。それを望んでいるのはオグだけじゃない。僕たちの悪は、自らなくなることを願っている、それは自分がそのような存在だと常にいつもつらいからね。僕たちは、悪の器だ。器は広がり、塩水を含み、嵐に遭って、縮こまる。まるで下の街のように。悪は、僕たちの源だ。そこにある。ずっといつも、そこにある。
 世界中に、僕は礼をするよ。だって僕たちは、何に生かされている?自分だけかい?自分だけが自分を生かしているものだろうか?僕たちが悪の器だとしたら、僕たちは、皆兄弟だろう?誰が誰を怯える?誰が誰と共謀する?そんなこと、実際にあるのだとしても、僕たちは、この世に生まれてしっかりと手を握り合って生きている。そのような関係でね。でも別に逃げてもいい。どんなことを捨ててもいい。みんなやめていい。けれど、なくならないのは、悪ではなくて、罪でもなくて、その反対に、逆に、今まで自分の糧となったすべての事実と内容だからね。
 この町は、そうなるために、オグを手放すんだ。自分の悪を、回帰させるんだ。それを自分のものとするために。初めからそうだったように。それは誰のものでもないんだよ。それは自分のために生まれてきたものだから。僕には子どもがいる…残念ながら、奥さんがいて、一つになって、生まれてきた息子がいる。しかし、僕の中に、立派な悪がいる。なら、僕の子供にも、それはいる。僕の奥さんにもそれがいる。それぞれの悪はその人の中で威力を発揮する。その人のためにね。悪は命を超えない。それは命から現れてくるからだ。まるで悪は命を助くる。それは命の現象だから。もしかしたらこれから起きる命の破壊は、そのために、起きるのかもしれない。人が人を殺す時、人は人を助けてもいるんだ。なぜならそれは、生命を、縦に深く掘るということだから」

 重低音が、鳴り響きます。人は、疑う余地があればとことん疑うものでしょうか。自分をも、他人をも。
 そのスパイラルから抜け出すことは、本当にしんどくて困難なことでしょう。ですが人は、生まれながらにしてこのような能力を獲得しています。そこに個人差はあれど、人は、生まれながらにして苦しむ性質を持っているのです。それを、克服するための方法は、行いを皆断罪して何が善で何が悪か断定するような、しっかりした客観性に基づく手段にしか、ないようにも思われてきました。法、ルール、あるいは積み重ねられた常識といった客観性に基づかなければと。オルドピスという国は、どのようにして人間を断定するか、その研究の歩みをずっと続けている国でした。彼らは、苦しみを欺く方向へ歩んでいる国でした。苦痛をその肉体の埒外にあるものとして捉え、半ば操れるものとして限定する試みを繰り返している国でした。
 クロウルダとても、その認識に誤りがあると気づかずに存続してきた民族でした。彼らは、人をともし火のごとく儚いものとしています。それは、彼ら自身がオグに喰われた歴史からきている認識でした。
 オグを追うようになる前に、彼らは青い国をつくっていました。海辺の街と、その海辺のほど近くにある湖畔の街を、彼らは統合してひとつにしました。街と街の間に運河を渡し、その周りを青い壁で統一した建物で覆ったのです。彼らは軍事力を持たず小船で運搬を担う商業の民でした。河にも海にも交易の道をつくり、卓越した操船技術を持つ民族として諸国から信頼されました。
 彼らの国は、かの魔物に襲われました。そしてほとんどが死に絶えました。ほとんどが、そう、三百年前のトラエルの人間のように、狂い、苦しみ、残酷に、地面に転がされていました。当時のトラエルの人々が陥ったのは、自制の効かなくなった(海賊どもに見せつけられ続けていた)欲望に支配され、暗心が暗心を呼び互いに互いを恐怖し合う、負の感情のスパイラルでした。それはオグの働き掛けなく起こり、彼らの都を蹂躙しました。洞窟都市という閉ざされた環境、民は皆海賊に連れてゆかれた奴隷だったなど、いくつもの特殊な事情がそこにはありました。一方クロウルダについて、オグを追うより以前の彼らに特筆すべき事項があるとすれば、彼らは自らの民を幾度か大規模に粛清してきたことでした。
 このようなことは、どの時代にもどの国にも起きうることでした。ですが、彼らにとっては定期的に意図的に実施されてきた、正当な政策でした。民族浄化と言うべきこの恐ろしい施索は、彼らが混血を喜ぶ民であるからこそ施されてきました。他民族との交流を喜んで行う彼らは、一方でその純潔をも保たねばならないという強い強迫観念を持ち続けたのです。ほぼ六十年ごとに、彼らはそれを繰り返しました。
 ここにオグはその悪を働き掛けました。彼らはもっと純潔を保たねばならないと思いました。彼らはより強い粛清を望みました。そして本来なら残すべきであるはずの人数を超えて、互いに殺し合いを始めました。彼らは思ってもみなかった激情に見舞われました。自分たちの種を保存しようと、戦ったのではなく、ただ自分ひとりが生き残りたくて、手に手に武器を取ったのです。
 惨憺たる結末を迎えて、彼らは我に返りました。彼らは元来霊魂にも親和性のある民族でした。それは純潔が保たれてきたからです。古い伝承はあやまたず語り継がれ、神秘学にも通じていました。彼らはオグによる破滅が自分たちに起きたことを知りました。オグに呑まれたクロウルダの霊魂が語る言葉を、彼らは耳にすることができたからでした。
 彼らは、従来のように船人となって生きるという選択をすることがなくなりました。あまりにこの破滅の衝撃が大きく、それと向き合わざるをえなくなったからでした。彼らは流浪の民となりました。それで、およそ千五百年も前から、クロウルダはオグのいる場所に村を建て町を起こし、それを監視しながら研究を続けてきたのです。
 しかしオグとは何でしょう。それは、人間の悪の集合です。それは人間の集落に訪れると一人か二人を誘惑します。その人間の悪を刺激するのです。彼は集落の人間すべてに直接影響を及ぼすことはしません。悪は、毒となり、蔓延るからです。誰かにそれが宿って働くのを見れば、その集落にそれが知れ渡れば、彼らは己の中にそれぞれの悪を見出し、互いに恐れおののくようになるのです。そうなれば互いに互いを監視し合います。それこそをオグは待ち望むのです。彼は人間の恐怖を食べ物にしました。その食べ物は彼の好みに合おうが合うまいが空腹を満たし、さらに腹をすかせるものでした。彼はそれによりさらに一幅膨れ上がるからです。そしてそれは何よりも快感を引き起こすからです。
 オグによる悪が履行された群集は、人間が人間に悪を行うようになり、自ら破滅の一途を辿って、自らかの魔物の腹の中に納まってしまうのです。彼は直接働きかけた者以外の者たちも、その腹穴に吸い込むのです。それはこの世にある快楽のうち最も至上なものでした。しかし中には彼の魔の手から生き延びる者もいました。ですが、その人間の見た景色は深刻で、生き延びたところで、その衝撃を忘れ苦痛に苛まれなくなることはありませんでした。
 クロウルダはこの苦しみを理解して、それを最小限に押しとどめる手段を黙策する神官になることを選びました。彼らはオグを奉ります。それは、その中に見る自分たちの悪を、慰めるためです。荒ぶる霊を鎮めようとして、その霊を奉り神社などを設ける方法は、土俗的な宗教によく見られますが、クロウルダは、彼らの悪を手に負えるものとするために意図的にこの方法を選択したのです。彼らにはそれが実現できることだとして見られたのです。生命の、爆発のようなその現象が、立派に制御できるものだとして。
 彼らの方法論は、オルドピスが彼らの周りの世界中を支配しようとするやり方と似通っていました。ですからのちに両者は手を結ぶことができたのでしょう。しかし、クロウルダはその後も純潔を保ちました。すなわち、彼らの霊と交信する技術は純潔によって保存されて、その種の数も、徐々に減らしていったのです。彼らは他民族と奔放な接触をすることはもうできなくなっていました。千年以上が経ち、もはや少数民族となった彼らは彼らが見つけた全世界のオグの欠片を、その監視下にすべて置くことは難しくなっていました。クロウルダは、その当時すでに世界中に影響力を見せ始めたオルドピスと協力して、自分たちの意志を継続させることにためらいはありませんでした。

 彼らは知りませんでした。オグは、私たちの取りうるあらゆる姿の、たった一つの過去の像です。それ以上でも、それ以下でもないもの。しかし、それを追い続ける歴史を彼らはつくってしまいました。オグによる破壊は、必然のところがあるのです。なぜなら彼に襲われた集落が、それを望んでいるところがあったのです。オグの望みは人間の望みなのです。では、なぜそこから生き延びるような人々もいたのか。彼らはそれを知りません。
 オグは、人間を誘惑してその人間の欲望を刺激するに留まっていました。彼が、人を支配するのではないのです。彼によってその欲望は増幅されるものだとしても、大なれど小なれど、欲望の欠片は当人の中にあるからこそ、突付かれるのです。生き残った人々は、彼による破滅の現象を理解するために、苦悩します。ですが、その多くは自らが巻き込まれうるほど欲望の根を持たなかったために破滅から身を引き離せたのです。クロウルダのオグに対する理解は、その領域に留まっていました。彼らは現象を客観的にしか把握できませんでした。
 オルドピスもまた、事象を埒外から理解するような彼らのものの見方では、オグについてそれ以上のことを見出せませんでした。イアリオは、クロウルダとオルドピスが共同で編纂にあたった書物を読み込み、残念ながら、そのような実感に至りました。彼らは怯えているのだということがよくわかりました。それはまるで、彼女の町の人間が、三百年前を震えながら見続けているように。

 フィマは、女と寝るとき、勿論、自分の子種を外へ流していました。そうするように言われていたし、そうする以外になかったのでした。男と女が関係を結ぶ時、ある覚悟が、両者の間で沈黙のうちに了解されます。互いが好きだという感情が、物語を紐解くのです。ですがフィマの物語は、他人の中にありました。彼自身のストーリーは、彼が紡ぐものではありませんでした。彼は育てられてきたのです。彼の意思で、育ってきたのではなかったのです。
 顔面ほっそりとしていてもてる彼は、苦もなく日常をこなしていたはずが、初めて、イアリオと会って今までの生活を超えた環境に自らを突っ込んだのです。それは地獄のようであり、でも、満足のある非常な充実を彼にもたらしました。彼を見た人は、彼を人が変わったと見ました。いつも気もそぞろに変わったと。ですが、その時人は、彼の中に変わらぬものを見たでしょうか。彼の相手をし、彼と交わる時も、自分の言いなりになるもののそれが彼の充足にならなくなった、彼を見て。それでも彼を相手にする人々には彼が大事でした。彼のことがずっとかわいかったのでした。
 彼の暗い想念が、イアリオを包もうとしていました。しかし、そこには彼だけの想念があったのではありません。彼が求めたのは絶対の支配と従属でした。それはどちらがどちらを背負ってもいいものでした。まるで母親と子供の関係、そうでなければ、主人と隷属者の。彼女は彼を放っておくことをしませんでした。適当にあしらってはいましたが、彼が、ニクトの想い人である以上、自分との関係も深まるものだと感じました。彼女はできれば彼とちゃんとした交流を結ぼうとしました。その意図は、彼にも伝わるものがありましたが、彼はそうはできない自分の感情に振り回される必要がありました。
 彼は繰り返し彼女に自分を求めました。その度に彼はいつも何かに包まれました。大きく広がった柔らかい毛布のようなものに。それは
 彼が皆から見られていたその視線だと。彼を可愛がる人々の想いだと。彼のからだは気づきません。当たり前のようにそれはある。気づく必要などないものだったから。ですがその当たり前のようにあった環境は、彼に気づかれることを望みました。なぜならそれは彼だけにある特別な能力ではなく、生まれた時から彼が所持せざるをえなかった、彼に用意された彼の人生だったからです。彼は彼自身だけでできているのではありません。彼を包んだ、大勢の人間の想いからもできているのです。それなのに彼は今まで彼だけで、世界を生きていたのです。本当の彼はどこまでも彼一人だけで生きていることを、彼は、気づく必要がありませんでした。
 偽りではないその人間関係を、ある女性を通じて、彼はみずからつくろうとしました。まるで小さな子どもが砂や粘土で周りにあるものを模ろうとするかのように。そして彼は、子どものように(わめ)かざるをえなくなりました。どうして自分の思い通りにならないんだ。僕がどれだけあなたを大事に想い、自分のすべてを捧げようとしているか、これだけ伝えているのに!彼の言うことを聞かない相手を彼は、次第にどんよりとした目で見つめるようになりました。いつか犯して自分のものにしなければ、その相手は自分のものにならないんじゃないかと、彼は思い詰めた思考に囚われていきました。彼は、まるで雲のように、自分の実体を持てずにあがきました。
 小さな鈴が、小さな音を出して、彼の懐で振られました。そのくらいなら、幼くてもできるといった風に。音は、必死に出されました。
 その音を、イアリオはしっかりと聞いていました。彼女は根っから教師でした。彼は堪りませんでした。いかなる音も、どんなに気づかないような微音も、自分から出しているものであれば、その女性に聞きとめられてしまうのを感じたからです。懐で鳴る小さな鈴の音は、本人にはあまりにせわしく、汚く、ひび割れて聞こえていました。ぎざぎざしたのこぎりの刃のように鳴り響きました。彼に危機が迫りました。彼はとうとう、ものを壊さねば耐えられないほどになりました。しかし彼に何が壊せるでしょう。
 彼の本当に望んだものは、何だったのでしょう。

 その頃から、彼女は夢を見るようになりました。イアリオは、普段はほとんど夢を見ないたちでした。ですが折々見る夢は、どれも印象深く、彼女自身の変化の起点となる時に見ることがよくありました。十五人の仲間たちと一緒にたくさんの死骸に出会った後でも見ましたし、この国に来て読書を始めて、その徹夜をやめた夜にも、夢は現れました。
 この時に見始めた夢は、帆船の多く行き交う港の風景でした。そう、この期間に彼女はまとめて見るように夢を見ていました。夢は連続して、前後のつながりを覚えながら毎夜見るほどだったのです。しかし、それまでイアリオは一度も海を行く船を見たことがありませんでした。もしかしたら、川に浮かべられた舟を(それは帆も張ることができた)、オルドピスの書物に出てくる海洋の地図と船の記述とを元にして、想像の海に壮大なパノラマを思い描いているうちに、合体させただけなのかもしれません。ですが、帆船も港の風景もまるで見たことのある光景のように真に迫っていて、彼女はそこに、かつて自分が生きていたかもしれないほど生々しい実感をもって夢の世界を歩いていました。彼女は港湾に誰かを迎えにやって来ていました。どうやらそれは彼女の父親のようでした。ひげを生やした、船乗りです。
 彼女は夢の中で少女でした。白い衣服を着て、盛んに手を振りました。すると、マストから大きな声で、彼女の父親が応えました。波が大きく船を揺らし、船体が大きく傾きました。イアリオはこの夢を目が覚めた後もいつまでも覚えていました。そして、その続きを毎夜のように見るようになったのですが、夢を見ることと同じように、彼女は今まで頻繁にすることがなかったようなことも毎夜し始めました。それは、自慰でした。
 自慰の相手は、レーゼでした。
 夢は、しばらくは少女の家庭や、学校の人々、印象深い港の労働者たちを映しましたが、やがて、少女は大人と同じ背丈になり、恋人と船に乗り合いました。彼女は船上で男と婚約を交わしました。幸せな時間が彼女と男を包みました。そして、夕日を背景に、二人は抱き合いました。すると、けたたましい鐘の音が鳴って、甲板が大きくかしぎました。座礁したか、あるいは流氷に追突されて、彼女たちは海に振り落とされました。イアリオは、その夢の中で自分だけが転覆した船から生き残ったことを、浜に打ち上げられて気づきました。
 彼女は、自分のあまりの不幸を呪いました。心を閉ざし、その後自分に寄ってくる男たちを悉く退けました。未婚の処女は、そのまま最期を遂げました。その最期まで、夢は彼女の人生の一節一節を紡ぎ、彼女に幸運は訪れなかったことを教えました。何でしょう。その夢を見終わったその時に感じたものは。イアリオは、なぜか、初めて自分の来し方に確信を持ったような気がしました。不思議な納得を感じました。あの夢のような経験は現実にはしていないのに。それは話に聞いたことのあるようなだけの、誰かの不幸に過ぎないのに!確かに、彼女の町で語られてきた海を嫌悪するよう仕向けられた昔話に、その女性のような物語は出てきたかもしれません。それに彼女は、書物を通して、彼女の町の、そしてクロウルダの歴史を遡っている最中でした。夢と現実と空想が、どこか融合して、感覚の中に溶け合ったのかもしれません。ですが、それからも見続けたたくさんのどの夢も、朝方目覚めればそれと同じような奇妙な実感を届けてきました。
 夢は、はじまりと、おわりを用意しました。まるで何冊もの小説を読み解くかのように、彼女は夢を見ていきました。それが何ヶ月も続いたのです。そして、その都度彼女は自慰行為に励みました。
 ある時、青い空が、彼女の夢の中に現れました。その色はとても濃い青で、まるで海の底を覗いているかのようでした。天と地が逆転しました。彼女は、白いスカートを翻して大地に立っていましたが、真上に落下していきました。すると、頭上の空の中に、ぽっかりと穴が、黒々と開きました。彼女はそこに呑み込まれました。突然、大きな怪物が、目の前に轟然と出現しましたが、よく見ると、その顔は彼女でした。膨れ上がった体つきは、今の身体をもっとよく肥えさせて不健康にすればなれるかもしれない体でした。怪物の彼女は怯えていました。今にも消えそうな予感に、ただただ、震えていました。
 彼女はまるで自分とは別人の夢だけでなく、自分の小さい頃も思い出すようにそこに見ました。彼女はピロットとテオルドの、三人で遊んでいました。三人は小さい頃に戻り、町から北の、山脈の西端にある亡びた町跡に来ていました。彼女の町が、守備隊の拠点にしているあの史跡に、実際に子供らは大人たちに連れて来られていました。成人したら彼女たちもまた、ここで働くかもしれないからです。イアリオは、この不思議な史跡を子供の頃隈なく見ていました。すっかり好奇心が湧いたのです。彼女と同じく、ピロットもテオルドも、目を輝かせてこの辺りを回りました。すっかり磨耗した壁は、焚き火の煤で焦がされていて、絡みつく蔦の色は、茶色と緑色が混合し奇妙でした。壁に赤い目印が塗布されていて、その前に立ち丁度建物の天井と空との境目に目を凝らすと、峠道の頂がそこから見通せました。こうした記憶が、そのまま彼女の夢として現れていました。イアリオはテオルドを嫌いだった感情まで夢の中で思い出しました。それは、彼女が能動的に動き回り、ピロットと一緒に石壁によじ登ったり落ちていた棒切れを振り回したりしている中で、彼だけ研究者ぶった目つきで、史跡をじろじろと見続けていたからでした。彼を自分たちの遊びに誘うも、テオルドは忙しいんだと言って手を振り払いました。彼女は彼に拒絶されたように思い、それ以来自分とは絶対に合わない性格の人間として彼を見るようになったのです。しかし、彼女の目には、テオルドはピロットに憧れているように見えました。彼は時々視線を眩しげにピロットに向けていました。彼は、非常に孤独そうにも感じました。
 いいえ、彼女が幼い頃、イアリオはそこまでテオルドを観察していたのではありません。夢の中で、改めて見た彼の雰囲気が、そのように見て取れたのです。
 そのまた別の夢で、彼女はまったく奇怪な景色に出くわしました。断片的な自分の姿に、自分が取り囲まれている景色でした。辺りは闇の中でした。周りに浮かぶそれぞれの自分の姿は、彼女が抱く自分のイメージのようでした。ただただ彼女がたくさんいて、イアリオは気持ちが悪くなりました。ついには吐き気が止まらなくなって、彼女は口から何かを吐き出しました。すると、それは色を持って、形を持って、立ち上がりました。それは勝手に動き出し、断片的な彼女のいずれかと入れ替わりました。
 あまりに夢が連続したので、イアリオは毎夜見るそれに注目せざるをえなくなりました。同時に、自分は何者かという疑念を強く抱くようになりました。
 その上、毎晩自慰に身を委ねました。その間に思い描くのは彼でした。それは邪まな思いでした。彼女は彼に、その結婚相手を自分から薦めていたのです。彼女も愛したあの娘を。そしてその娘の伴侶となる男を、あろうことか横から恋慕したのです。彼女はあまりの苦しさに喘ぎました。積極的で、前向きで、子供たちの教師であった彼女の面影はここにはありませんでした。

 フィマは、彼女の殺害を計画するほどまでに追い詰められていました。どうせ自分のものにならないなら、そうするまでだと考えたのです。彼は司書の仕事をなんとかこなしながらもイアリオの姿を追い続けました。街中で彼女を偶然見かけた時に、彼はそのあとをついていって、彼女の住まいがどこにあるかまで調査していました。彼女はほとんど部屋から出てきませんでしたが、彼は毎日その部屋の前に通い、彼女が出てきたところをつかまえることもよくできました。オルドピスの兵士たちも彼の邪魔をすることなく、遠くから見張っているだけでした。
 彼は、一度彼女を押し倒したことがあります。イアリオが大事な書物を抱えて部屋から出てきた時、彼が居合わせて、その重たそうな本を持ってあげようとして手を出して、二人とも引っくり返ったのです。彼女の、淡い色の瞳が間近に迫りました。体の匂いが、自分を包みました。そして、幾箇所か彼女と体が触れ合いました。彼の欲情はその時にはじけようとしましたが、彼女はまるで子供を扱うように、彼の髪をくしゃっと触り、微笑みかけました。
 それで、彼はイアリオを殺すしかなくなりました。彼がどんなことを思おうとも相手はそれをいなし、また吸収して、彼に充足を与えてしまうからでした。彼の手は絶対に彼女に届かず、想いは遂げられぬことを、むしろ突きつけてきたのでした。
 彼は自分が社会にしっかりと貢献していることをあまりよく意識しませんでした。彼の優れた能力は頼りにされて、その将来は司書以上のものになるとも期待が掛けられていました。それ以前から、彼は人の役に立っていたのです。ですが、彼の持つ自画像は、ずっと曖昧なままでした。彼がそれまでそれでいいとしていたものは、まるで全部、イアリオの前では無意味なように思えました。彼は彼女に太刀打ちできませんでした。彼は本当は幸福でした。その背景にそれなりの不幸が潜んでいても。彼はそれを知りませんでした。彼は自分を知りませんでした。その時彼はまるで生まれ変わろうとしていたのかもしれません。いいえ、生まれた時からやり直そうとしていたのかもしれません。イアリオを通して。
 彼女に偉大な母性を感じ、まさに求めていたものがそこにあると分かり、彼はやり直しを自分に求めざるをえなかったのかもしれません。しかしその衝動は、あまりに激烈でした。彼は刃物を研ぎました。血を見たくなりました。彼女を生かしておくわけにはいきませんでした。それは彼女が生きている間ずっと
 彼は幻の母親を求め続けねばならなくなるからでした。
 …事件は未然に防がれました。ニクトが、彼のベッドに忍び込み、性交を求めてきたのです。少女は今こそ彼を賭けて己を懸けて勝負しようとしました。勝負の相手に、彼女はイアリオを選びました。
 もし、彼がそれを拒めば、彼女は破滅したでしょうか。彼にニクトを抱く理由はどこにもありませんでしたが、いざイアリオに決戦を挑もうとしていたのは彼も同じで、裸のニクトを前にして、彼もまた昂っていました。ですが彼は、目の前の相手を混乱した面持ちで眺めました。彼はその相手がニクトだとよく分からなくなっていました。イアリオとは別人だともよく分からなくなっていました。彼は誰を相手にしていたのでしょうか。幻の母親は誰に宿るものだったでしょうか。今まで彼を抱いた女たちにもその像がなかったわけではありません。小さな頃から彼を世話してきた人々の中にも、そのような幻像はなかったわけではありません。彼の股間は著しく勃起しました。誰かに慰められねばならぬその欲動は、今まで慰められてきたはずなのに、収められたく発情しました。その欲動こそ彼はイアリオに向けたいものでした。しかし、なぜか、吸い込まれるように、ニクトのまだ硬く柔らかい肌を、そのぬくもりの中を、それは目指しました。彼はニクトを犯しました。彼の見つめる目に少女の顔は映っていなく、熱々と燃え滾る下半身の欲望こそ彼の全てを覆っていました。ですが、少女は笑いました。その笑いは、決してイアリオから彼の心を奪ったとか、賭けに勝ち得たというものではありませんでした。それまで彼をよく見ていた彼女の目に映った、本当の彼を、そのからだに受け入れて受け止めてあげられた、という、満ち足りた愛の笑いでした。
 彼は、呆然と犯した相手を眺めました。そして、今しがた自分は犯罪にも等しいことをしてしまったのを自覚しました。彼は、ベッドから悲鳴を上げて飛びすさりました。彼は、部屋を飛び出しました。誰か!誰か!誰か!自分を罰してくれ。今すぐ自分を懲らしめてくれ!
 彼の体はかっかと熱く、彼の頭脳はすっすと冷めて、どこもかしこもぎんぎんに痛くなりました。心と体が絶望を求めました。彼は自分がどのように自分の妹を見ていたかも気づいていなかったのです。自分の、本当に大事なものとして、いかにニクトをはぐくむ愛の目で見守っていたのか。
 彼のその想いは相手に伝わっていました。それが伝わっていたから、少女は彼を求めたのです。花火が咲いて、散りました。綺麗に上がった花火は、どこまでも美しく光を広げ、夜空に神々しい余韻を残しました。突然、彼は立ち止まり、今までのことを反省して、思い出して、息を整えました。彼は下穿きを穿いていたものの、下半身に付いた血を拭うのを忘れていました。血はできた花束をそこに添えました。誰に対して?それが彼に付いているのですから、彼に対して。上半身裸の彼は、オブジェのようにそこに佇み、いにしえからそこにいたように硬直しました。その立派な石像は、壊されるのを望みました。
 彼は吐き出される息を呑み込みました。どうすればいいのかわかりませんでした。彼は気づきました。部屋から出て、家からも出て、気違いになって走り回った先に、イアリオが住まいを借りている邸宅の前まで自分が来ていたことに。彼は恐ろしくて身が竦みました。彼は自分の部屋で今まで、彼女を殺すために色んな用意をしていました。その
 すべてを置いてきて、今、自分はまるであの人と会うためにここへ来た。彼は罰されたく思いました。妹をこの手にかけた罪は、何よりも深く感じていました。彼の心は彼の手を掴みました。あの人に会いに行くべきではないと引きました。彼の手は
 前に進みました。その手が付いている体が、前に向かって進んだからでした。彼の心は真っ白になりました。もう何も考えられなくなりました。
 青年はその人の部屋に入れました。夜は、もう更けていました。ガラスの容器に入ったランプが、煌々と明るく部屋を照らしていました。その人はまだ起きていました。これからまた見るだろう夢を、見るための準備をして、物思いに耽っていたのです。
 青年はノックもせずその部屋に入りました。相手は、いきなりの訪問に、動揺する素振りもなく、ただ自然に、彼を見てにっこりと微笑みました。
「どうしたの、フィマ?」
 イアリオにとって、フィマはもうすっかり弟のような目で見るようになっていました。あまりに彼を心配するニクトから一々彼について聞いていましたし、彼に自分が惚れられていることは分かっても、その惚れ方は、可愛らしいものに映るようになったからです。彼女は彼と健全な関係を結びたいと思っていましたが、そうするには無理があるとどこかで感じました。主従のような関係性を彼は結びたいと言いましたし、それは、どうも姉と弟のような年の差のある上下関係に感じました。だから、彼に対して彼女は警戒しませんでした。彼はあくまでニクトの兄で、そのニクトが想いを寄せている、本当は頗る善い人間であることを知っていたからでした。
 ですが彼にとってはその解釈も、彼が本当は善い人間であるということも、違いました。彼は幻の母親をこそ求めたのです。しかし彼は本当にそれを望んでいたのでしょうか。いいえ違いました。彼は、跪きました。彼は幻の母親に向かって深い悔やみを口にしました。
「僕は、たった今とんでもないことをしてしまったんです。どうか聞いてください…!」
 彼は一所懸命に話しました。彼は唾を吐きながら一心不乱に打ち明けました。イアリオは、最高の集中力と姿勢とで、彼の話を聴きました。まるで青い稲妻が二人の間を行き来しました。びりびりと互いの皮膚が、痺れるようでした。
 誰か、傍にいれば、こうして自分の犯したことを、告白できるものでしょうか。そうして見えなかった殻を、突き破れるものでしょうか。
「僕は、ニクトを愛していたんです。それは家族として、愛していたんです。可愛い妹として。だから、なんで自分がこんなことをしてしまったか、理解ができない!説明がつかない!いたずらに小さな体を好き勝手に貪って、僕は大変なことをしてしまいました。取り返しのつかないことを…」
「でも、よくよく聴いてると、あなたの話じゃ、ニクトは自分から来たじゃない。あなたが、彼女の部屋に押し入ってしたことじゃない」
「関係ありませんよ。関係ない。そういったことが問題ではない。わけのわからない衝動が僕を襲ったのです。それはあなたに…いいえ…別の方向を向いているものだった。なぜ彼女が、あのタイミングで僕の寝床に入ってきたのか!そして僕は、どうして見境なく彼女を犯してしまったのか!ああ、僕はどのようにして、その償いができるんだろうか。どんな償いもかなわないくらいの罪を僕は犯したのです!そうだ。僕は…」
 本当はあなたを犯そうとしていた!本当はあなたを殺してしまおうと思っていた!ニクトにしてしまったことを、僕はあなたにするのを夢見ていたのに!彼は、自分の花束を彼女に向けました。
 しかし、その花束は彼のものでした。
「あなたには見えなかったかもしれないね。相手の心も、抱いた体も」
 イアリオは、ゆっくり、時間をかけて言いました。
「けれどあなたは、その人を抱いた。それがどれだけの意味を持っているかしら。後にじゃない。今にじゃなくて、その時に。抱いた時に。ニクトはどうだった?
 あなたにまるで、犯されて、悔し涙を流してた?」
 彼は、唾を呑み込みました。
「喜んでました…嬉しそうに…」
 彼は、思い出しました。ニクトが、事後に彼に向かって両手を差し出していたことを。嬉しそうに。幸せそうに。彼はその時彼女の表情を
 見ていませんでした。行為の最中も、彼はずっと、幻の誰かと続けていました。
「じゃあ、受け入れていないのはただあなただけね。そして、本当はあなたこそ幸せなのに、わざわざ罪を作る必要はないってわけだよ。
 よかったね。おめでとう…!」
 彼女は椅子からさっと立ち上がりました。彼女の、長い腕が、彼を上から優しく抱きとめました。年下の弟を慰めるように、愛おしく、彼の頭をかいてやると、青年は落ち着いていきました。弾んでいた呼吸がじっくりと穏やかになっていき、心臓の鼓動も緩やかに静まり、両目もとろとろと溶けました。青年は力を失ったようでした。それまで漲っていたはずのいびつな力は、どこかへと掻き消えていきました。彼は立ち上がって、彼女の部屋から出て行きました。そして、自分の部屋で待っている、彼の大事な妹のところまで帰りました。
 彼は、妹の前で言いました。
「さっき、イアリオのところへ行って、自分を告白してきたよ。大変なことをしてしまったって。そしたら、彼女は、よかったね、て言ってくれたよ。どうしてだろう、あの人は大きいな。僕が立ち上がれないくらい、大きいな」
 彼は大粒の涙を零しました。涙はどんどん溢れていきました。めそめそと泣く彼の傍らにずっとニクトはいました。そして、言いました。
「愛しているの」
 フィマは、少女を向いて、答えました。
「僕もだよ」
 少女はにっこりしました。少女の目が初めて濡れました。
「やっと見てくれたね、私を」
 フィマは黙り、ニクトの髪をかいてやりました。すると、ニクトは目を瞑り、子供のように、恋人のように、成熟した人間のように、その感触に身を委ねました。フィマは神秘的なものを見るように少女を見つめました。そして、今まで彼がしたことのない、笑みを浮かべました。あらゆる骨が緊張を解き、あらゆる言葉が自由自在になったような、そんな水のような彼になりました。人間としての彼が、そこに現れました。

 やがて、青年は地方の図書館の管理官として、赴任することになりました。その挨拶に、フィマはイアリオの下を訪れました。その時、彼女はクロウルダの研究書を読んでいました。ふいに扉が鳴ったので、慌ててそれを閉じました。どうして慌ててしまったのか、自分でも判りませんでしたが、親指は今開いていた箇所に挟まって、そのページはオグがエアロスの力で消滅したという三つの事件について書かれていました。ドルチエスト…マガド…クエボラという地で起きた悲劇です。オグは、自らの消滅を望むようになるのですが、彼の体は各地にいくつもあるために、その各々の身体が別々に終末を迎えねばなりません。トラエルの町にいる者はほんの一部なのです。でもそれが危機を望む時、迎える時は、果てしない強力な力が顕在化して、大勢の人間を巻き込む大惨事となることを、書物は切々と伝えていました。
 扉を開けて、彼女に自分の新しい赴任地を報告しに来た彼は、生き生きとしていました。どこか、身を任せても安心なところがありました。彼の抱えていた悪は、彼のところにすっかり還っていました。もし、人知れず彼が抱えていたものを、彼が創り出した幻の母親を、ずっと彼が抱えていたことを、悪と呼べば。
「イアリオ」
 青年は、下穿きだけでこの部屋に突っ込んできて以来、初めて彼女と会いました。
「ありがとう。あなたには感謝しなくちゃいけない」
 深々とお辞儀して、その上ひざをついて、彼はじっとこらえるようにしました。この報告を彼女にすることは、その言葉どおり彼女に感謝を伝えることで、どうして感謝するかといえば、その意味で、それだけで、胸がいっぱいになることでした。彼は、床にひざをついたまままともに顔を上げられませんでした。
 イアリオはニクトから彼が出世して新しい土地に行くことを聞いていました。多分その挨拶に来てくれたのだろうと思いました。
「おいで」
 彼女は青年を祝福しようとしました。自分が彼よりうんと年上になって、姉のように抱擁してあげようとしました。しかしイアリオと青年の歳は、ほんの少ししか違っていませんでした。彼は、強く、歯を食いしばりながら、彼女に近づきました。彼女は彼を、うたうように抱きとめました。
「本当に、自分の弟みたいだわ。いいえ、もしかしたら、自分の子どものようにも思えるわ。変な形ね。あなたのこと、何でもわかるようで、何にもわからないのに」
「僕は、あなたに約束しなければなりません」
 心地よい感触に喘ぎながらでしたが、彼は、はっきりと言いました。
「え、何を?」
「あなたの後見人になるのを、決意する約束です」
 彼女は彼から体を離しました。
「何、それ?」
「どうして言ったらいいか、わからなかった。もしかしたら、それは老後の自分の親の面倒を見るのと同じような気持ちなのかもしれなくて。でもそれならこんなに早くから決めなくてもいいでしょう。イアリオはまだ若いのに。
 でも、この国は他国からの移住者を厳しく制限しています。職業だって自由に選べるものではない。いずれ、あなたがこの国で暮らす用意を、僕は準備しなければならないと思っているのです。オルドピスは…あなたを、そしてあなた方を、迎え入れなければならなくなるのではないでしょうか?」
 彼は、幻の影ばかりを追っていたのではありません。彼は、ずっとイアリオの背中に乗るものを観察していました。
 イアリオは彼が言ったことを考えてもみませんでした。なぜならオグと、自分の町の歴史にまつわるものにかかりっきりでしたから。ですが、いずれ自分の町が破滅したら、後に残る生存者たちはどうすればいいのかと、彼女は初めて思いました。それを考えることは、とても自分の身の丈には合わない大きな問題だと感じましたが、なるほど彼の言う通りであるとも思いました。
 そして、つと自分が彼やニクトに何かを任せたがっていたことを思い出しました。こんな異国の地で、異国の人間に何を求めるのでしょうか。彼女は一人きりで町を出て、一人きりで調べものをしようとこの国に臨んだのです。たった一人で。それはすっかり覚悟の上で、誰かにものを頼むとしても、その目的はたった一つでした。彼女は命懸けでした。誰かに任せられることなどその一つの目的のため以外に考えられるはずがありませんでした。しかしそうではありませんでした。
 そうではなかったのです。彼女の町は、異国によって守られていました。彼女の町の下に眠るオグという怪物も、異民族によって監視されていました。彼女の町は、外側の世界とずっと関係していました。手を取り合っていました。彼女もまた異国にその身を引き受けられました。協力者が現れました。彼女はいつのまにか目的を果たすために自分の周りに環境を整えられていました。彼女はこの国に自分がいることを許されたのです。
 あの町は、今も変わらずあの町たらしめているのは、自分たちの力だけによるものだと固く信じていました。ですが、そうではありませんでした。そうではなかったことに、あの町は、気づいていたでしょうか。イアリオはあの町の先を見通せました。それは、まるごとあの町を見守り続けてきた、大国にそっくり身を預けることです。今の彼女がそうであるように。
 そして、彼女は、その身の上をまるごといつまでも大国の懐に預けておくこともできませんでした。彼女は今国賓として迎えられていますが、そうしたことは、長く続かないでしょう。もし、彼女の町が滅びたら、その後彼女はその町のただの一員としてこの国からは見られるのです。今の特別な身分は剥奪されるのです。
 しかし彼女はそうならないような気がしました。特別な身分ではなくなるでしょう。また自分が生き残る保証もありません。いずれレーゼとハリトと約束したように、あの町に帰るとすれば。彼女は向き合うためにあの町から出て行ったのです。いいえ、戻っても、向き合うのです。向き合い終わった時のことなど、自分のことなど、彼女は考えられませんでした。どうなるかわからない自分の身の上など、誰かに任せられるものではありませんでした。イアリオはそれほど自分を信じたかったのでしょうか。向き合いおおせた後のことなど、生き延びた後のことなど!いいえ、彼女は、未来を何も考えていませんでした。未来と過去から、現在に働き掛ける諸々の力だけを感じていました。その諸々の力が、未来にも伸びた場合に、どんなことが起こるかは考えられました。その力が及ばないことまでは、まったく分かりませんでした。
 その力が及ばないことを、彼女は誰かに任せようとしていたのです。あの町が破滅すれば、彼女が感じてきた力は、おそらくすっかり収束するでしょう。破滅に向かって、その力は動いているからです。数々の書物にあたって、クロウルダの本も十分読み進めて、イアリオはそこまで見通すことができるようになりました。あらゆる過去を辿って、自分の町の来し方を調べ尽くしたからでした。吸収した知識はその血肉となりました。不安だったことは客観性を持ってその手に乗せられるようになりました。彼女はあの町に強い時間軸を差し込んで眺められるようになったのです。
 そしてあの町と、自分の将来も見通せる目を持ちうるようになったのです。彼女は自分の身請けを誰かに頼むことになると予感しました。彼女はたとえ自分が生き残っても、あの町の人間として依然町人たちと暮らしていけるようにはならないと思いました。自分だけが町を飛び出して、町の歴史をすっかり調べ尽くしたからです。彼女はもう町の人間と自分とは相当に違っていると思いました。ああそうか、と彼女は心の中で膝を叩きました。
「不思議ね。うん、そう、私もそう思っている。だけど、どうなるかわからない。それに、私の国の事情も知らないあなたが、どうして私が移住すると考えているのかしらね?」
「どうしてでしょうね。僕は、あなたの背中をずっと見ていました。あなたが、僕に何かメッセージを伝え続けていたとしたら、こんな感じなのかもしれないとは思いました。ニクトのこともそうでした。あなたはこの国で味方が欲しかったのではないでしょうか?もしそうではないなら、あなたは孤独に遠方に来て調べ物をしてはいない気がするのです。じっと耐えるように、ほら、今も何か背中に背負っています。何でしょう。ニクトには見えない、僕だけに見えるようですが」
 イアリオははっと鋭く青ざめました。そして、自分の背中に乗ったものを彼も見通せるということに、ひどくフィマに対する信頼を呼び起こされました。
 彼女は自分がニクトとフィマに会うべくして会えたと感じました。替え難い出会い、特別な邂逅を、二人にしたのだと思いました。レーゼとハリトもそうでしたが、彼女は、自分が頼り甲斐のある相手をここでも見つけられたのです。安心して、自分の目的に邁進することができるような。自分がそうすることを後ろから、支えてくれるような。彼女は嬉しさに満ちました。
「縁があるとは思ったけれど、味方、か。嬉しいわ。私はあなたの労働力を買おうとしたことがあったね。それは、ニクトと相談した上でだったけれども、あなたの力が私にとって必要になる時が来るとなぜか、どこかで感じていたからだった。今、それがはっきりとわかったね。ありがとう」
 彼女は率直に感謝を伝えました。
「おかしいね。あなたが自分の子どもみたいだって、言ってしまった。おかしいけれど、それくらいのつながりを感じるの」
 フィマは恥ずかしそうに、ゆっくりと唇を開きました。
「僕は、いや僕にとって、本当にあなたは母親のようです。これもおかしなことです。だから…あの…一度だけ、あなたをそう呼んでもいいですか?」
「え、何て?」
「『お母さん』…」
 そう言った後、青年の目に涙が浮かびました。言ってみて彼はすぐに後悔しました。目の前の女性は、まったく母親ではありません。それに、こんなことを言うために、彼は彼女に挨拶に来たのではありません。彼はあの時のように情けなく彼女を頼りました。
「一度だけでいいの?」
 彼女はそこまでの機微を彼の心に読み取ったのではありません。
「もう一度、呼んでみて?」
 ですが、そう言いました。
「え?」
 フィマの前に、凄く魅力に満ち満ちた女がいました。彼はまた相手が誰だかわからなくなりました。しかし彼は、今自分が幸せだと感じました。この人の後見者となる、という彼の自分勝手にもまったく思える決意は、確信に変わりました。
 彼は、自分に決断をしました。
「お母さん…」
 彼の二度目の呼びかけに、イアリオは笑いました。とびきりよい声で、高らかに。空も突き抜ける感じで。
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