第21話 少年ピロット

文字数 19,182文字

 この世界は、何のために、自分の前に現れているか。それは、おそらく自分のためでした。いいえ、もしそうでなければ、世界は冷たく、冷え切ったものでした。
 人によって、その感じ方は違うでしょう。世界などまったく自分のものにはなり切れないのです。しかし、だからこそ、この世に自分が生まれてきたとすれば?
 そこが未知だから。そこはあらゆることが自分に働き掛けてきます。その働きを、どう受け取るか、それは生物の数ほど違います。生まれた時も、場所も、条件も、皆が違います。未知でないことなど本当はないのです。繰り返される当たり前の暮らしでさえ、それに十分に慣れたといっても。新しいものをただ繰り返されているように感じているだけです。その意識に刺激がないだけです。人は物事に何か隠されていることを感じます。それを暴こうとする時、大きな破滅が、訪れることがありました。

 始めから、その少年は地下の念を感じていたのかもしれません。彼は、そうした力に敏感でした。恐れるより、怖がるより、共感を覚えていたのです。地下の、得体の知れない悪意というものに。彼は、その力に焦がれました。絶対的な力にも思えました。
 相手を打ちのめせば服従します。二度と刃向かわなくさせることができます。そうして自分は自分の所在を確認していくのです。誰よりも、強い自分を感じて、満足していれば。ですが、それも一時、誰かを好きになれば、たちまちに自分の弱さが露呈されます。誰かを欲しい自分とは、自分の中に、足りないものを探しているのですから。彼の自我はその時がたがたに崩壊したのです。あの時、イアリオに、自分を見据える目をされてからは。
 向こうに歯形を付けたのに、こちらを憐れむ目をされては。始めて純粋に自分に興味を持った相手を、彼は持て余しました。同時に自分の気持ちも、得体の知れないものが次々と出てきて、彼は不快でした。思うようにいかないのです。己の力で、捻じ伏せられないのです。彼は怒りを自分に向けました。彼は、自分の心を深く見詰めるようになりました。自分の心ほど力で捻じ伏せられないものはありません。彼は、段々優しくなりました。家来を連れて、歩くようになりました。彼の中では家来でした。弟分でした。自分のために、彼は仲間を引き連れていたと思っていました。確かにその通りでした。でも彼を見る目が以前よりずっと違ってくれば…単純な力のぶつかり合いで生まれる感情の移ろいとはまったく違ったものを見ていれば…慕ってくる相手を無下にも引き離すことができるでしょうか。彼は、次第に町を感じ始めました。その温かさ、人間のいるぬくもり、市井の生活を、肯定的に見始めました。彼は最初、町に疎まれていたようで、本当は町に育てられていたのだと、知るようになりました。いくら家の中で疎外されたとて、本当は、そんな家も彼のいる場所の一部で、彼の世界はもっと広かったのです。家の事情を膨らませれば、彼の安堵する空間は皆無でしたが、もっと広い世界の一部に過ぎないとすれば、彼の怒りや激しい興奮の矛先はただそこにだけ向けられていたのです。
 彼は、変わり始めました。そんな折でした。彼が一番先に見つけたのです。地下へ通ずる、秘密の穴を。
 あの場所は、長年人々が隠し続けてきた所です。誰から?勿論、自分たちから遠ざけて、管理し続けていたのです。隠し物は、懐の中に、大事にしまっておいたのです。それは、本来自分たちのものでした。ですが、隠してしまいました。あの場所は、まるで人に見せてはいけない性器のようなものでした。人々はそれを恥ずかしがり、徹底的に約束を定めようとしました。欲望にあまり忠実になってはならない。欲しがる心を膨らませてはならない。強欲はこの都を破滅させるほどの力を持つものだから…。彼らが約束したのは、黄金を守ることではありませんでした。黄金を欲しがる心を持たないことでした。しかし、子供たちはその穴の中に入っていってしまいました。見出したのは、骸骨たち、無数の死骸たちでした。死者らが訴えかけるのを、子供たちは聞きました。「光のある所に、我らを出せ」と。
 多くの子供たちが恐怖と怯えに苛まれる間、彼は彼のままだったようです。勿論、彼を動かしていたものは依然十五人の子供たちで交わした契約でした。彼は、行方不明のテオルドを探しに地下へ一人で入っていきました。彼はひときわ暗闇に対して耐性がありました。その闇は、かつて彼がどっぷりと浸かっていたものだからです。しかし、自ら進んでこの中に入ると、その昔彼が同化していたものが、再びその周囲を纏い付くようになりました。彼は、黄金か、行方不明のテオルドか、どちらが大事かを忘れました。
 そして、その時まさに暗闇と同化したテオルドに、彼の中にある、その暗黒を刺激されました。彼は、自ら黄金を発見して、情欲迸る、欲望の渦に呑み込まれました。それが、彼に町の人間に対して恐怖を抱かせました。彼は、走る足の向くままに海の外へ出て行ってしまいました。そして、辿り着いた島の上で、豊かな胸に一杯の悪意を持つ女に出会いました。彼女はビトゥーシャと名乗り、彼を、その弟子に迎えました。
 例えれば、木琴が、雪崩落ちるような滑落の音を響かせて、その真下で待ち構えていた金管と太鼓の重低音が、彼の魂をバウンドさせて、激しく揺動し、彼の中に、過去のこだまを無限に響かせたのでした。彼は、イアリオという人物を忘れ、母親にも等しき悪魔を、いいえ、悪魔にも等しい母親を、見つけました。
 彼は、その時に彼と自分とを分離しました。彼は、一度、帯から零れたひまわりの種を見て見知らぬ人間に感情を露わにしますが、後は、その人間についていくことにしました。寄る辺ある自分と寄る辺ない自分とが、一つのものを志向したのです。ですが、そのせいで彼の中で灯のようだったイアリオの記憶が、本当の意味でともし火となるべく、躍動を始めたのです。
 彼の物語は、ここから続きます。
「アステマ…アステマ…」
 その名前を呼ぶのは、誰でしょうか。彼の親ではありません。彼の親はいつも彼を罵るような声で呼んでいたからです。その口調で囁くのは、彼にとって美しいと思われる相手でした。彼が、自ら自分の下の名を明かした相手だからです。それは、二人いました。彼は、夢の中で砂金の山に一人ダイブしていました。遊んでいると、声が掛かって、目を覚ましました。彼には声が二重に聞こえましたが、実際はただ一人でした。
「いい加減に起きないものかな?可愛い坊や」
 艶かしい唇が、彼の顔のわずか数センチの所にありました。少年はこの女性により性の意識に目覚めました。しかし、彼はあらゆることを許されておりませんでした。
「いいのよ?欲求のままこの唇を奪ってみてもね。でも、望みはもっともっと溜め込むといいの。あなたのそこに、股間のものに、ね。わかった?」
 少年は頷きました。
「可愛い子」
 麗しい美女は彼の頬にキスをしました。熱くて柔らかな感触が、いつまでもそこに残りました。彼の股間にあるものはいきり立っていました。そして、眼は、血走っていました。

 性的虐待を受けたことのある人間は…いいえ、どのような形の虐待もそうなのでしょうが、自分の心が判らなくなります。自己表現が難しくなります。
 彼は、それまで虐待をされていたのでは決してありません。彼にいくら大人たちから疎ましさや暴力がその身に振るわれようとも、マグマのような少年の熱で、それを溶かしていたのです。その時の彼にはまだ人を愛する力がありました。ところが十二歳、ビトゥーシャと会うことで、彼は様々な辱めを受けました。しかし彼が望んだのでした。彼が、彼女についていくことを希望したのですから。ついていくしかなかったのでしょうか。彼なら、いくらでも自分の力で身を立てることができたかもしれません。
 その女の人間性も、もし彼女が言うように自分と近しいものがあるなら、きっと理解していたでしょう。似たような境遇で、どんな生き方をしてきたか、彼らは互いをそこから知る由があったのです。彼は初めて人の下に立つことを選びました。明らかに、同様の生き方をしていたならば、向こう側に一日の長があったのです。もしかしたら、彼は母親の影をビトゥーシャに認めたのかもしれません。でなければ、色々な辱めを受けた彼が、それでも彼女についていこうとはしなかったはずですから。自分の心が判らなくなるのは…決して虐待を受けたことがあるから、ではありません。きっと、それを受けようが受けまいが、人に本来具わっている、成長しようという意志が、判らなくなることを望むのでしょう。判らなくなることは、いいことなのです。殻を破るのは大変でも、それが、人生の意味になりますから。いいえ、例え、そうでなくても、判らないということが判らなくても、いいのです。殻に籠もるのはまるで人間の特権のようです。あの町のように、苦しい伝統を守り続けた国もあるくらいなのです。判らなくともいいのです。でも、判ろうとすれば、それは…自由と同じ、苦痛をその身に課し続けます。
 ビトゥーシャの外見的な特徴は、恐ろしいほど美しいというところにありました。しかし、もし、経験豊かな人物が評すれば、「恐」と「美」は倒置されるでしょう。虐待を受けたとなれば、彼女も同じなのです。ビトゥーシャは始めから美しい顔立ちをしていました。顔だけでなく、完璧な肢体も所持していました。赤ん坊の頃から、幼児の頃から、彼女の美は人々の慰み物になったのでした。それは、美でしょうか。少なくとも、彼女の周りにいる人間はそう表現していましたが、何か、その美は危険を晒して、強烈な誘惑を冠するものでした。ピロット少年に出会った時、彼女はおおよそ三十歳の年齢でしたが、肌はたるむことなく、張り良く、滑らかでした。そして、目はぱっちりとアーモンド形に開いて、その中には金色の月のような眼が静かに浮かんでいました。細い曲線を描く眉はきりりと締まり、魅惑的な額を、やや赤みがかった前髪がはらりと垂れて隠していました。唇は厚く、ちらちらと覗く舌の色は誘惑の桃色でした。笑うと、太陽が笑ったかのようでした。彼女は今や自由に自分の色気を出したり引っ込めたりできましたから、これが普段の彼女の見目でしたが、ピロットといる時は違いました。目はらんらんと情欲を湛え、いつでも少年の欲望に応対できる構えを見せていました。いつも唇と舌は少年のものを欲していました。こちらの方が殻のない彼女なのです。彼女は自分が慰み物としてあることをよしとしていました。ただし、代金は請求しますが。彼女の気分次第で、どこまでも釣り上がる代金でしたが。少年ピロットはこれをよく知っていました。ですから、彼女には指一本、触れることができませんでした。もし触れれば、彼女との約束も破ることになりますし、そうすれば、彼は一巻の終わりでした。歯から皮膚から何もかも剥がされて雑巾のように路地に捨てられるか、少なくとも彼女の自由に体中を辱められて、死ぬこと以上の苦痛を味わわされることでしょう。それが、彼女のものになった者の、裏切りの行く末なのです。彼は、期待をされていました。期待を裏切れば、もう彼はただの物になるばかりでした。
 無論、誘惑はその顔面だけではなく、その雄弁な肢体は、服に包まれていても男の男らしい気分を常に煽っていました。彼女に恋をしない男などいないでしょう。ですが、それでもまだ無限の色気を抑えた程度でそうなるのです。もし、体中の淫乱な空気を発散すれば、その場で男たちは、誰でもいいから抱きたくなるでしょう。衣服がなければ尚更でした。彼女はピロットの前で無防備な肢体を曝け出していました。ですが、彼はいかなる時も、その情欲に身を委ねてはならないのです。ビトゥーシャにも、他の誰かにも。彼は自分の興奮した表情を、いつも彼女に見せなければなりませんでした。その表情を、彼女以外の誰にも見せてはならないという訓練も課されていました。ビトゥーシャの胸は狂おしいほどに張っています。先にあるものはどんな果実よりも甘く見えます。方法さえ知っていればこの世の中で最高の快楽を覚えられる股間の溝は、彼に誘いの匂いを振り撒いて、なお何もしてはならないと禁ずるのです。それが、彼が十二の時から、続けられたのです。
 彼は、よく約束を守りました。ビトゥーシャは色んな所へ彼を連れて行きました。そこで、彼女は自分の業を見せました。細いばちで小太鼓が軽快な音を鳴らしました。空で雲がその時行進したのです。足音を立てて、いにしえからの、動かざる動きの中で。小太鼓は次第に脚を緩めました。緩やかなテンポの合間で彼はビトゥーシャの肢体をしっかと見るのです。これが、どんなことを彼にもたらすか、多分、彼も認識していたのでしょう。その音楽は、ひときわ大きな角笛の音で終わるのです。その時に、彼は自分を二つに分割するのです。まるで、恐ろしい悪魔のように。彼は、故郷の町の地下で、体を幽霊に明け渡したことがありました。彼は、もう自分が二分割された経験をしていたのです。なぜ、オグが人間を操るかといえば、彼の中の悪意が人の中にもあるからでした。もし、死霊が人間に取り憑くなら、共感のある相手でしか、霊は体に入れないでしょう。得体の知れないものが入ったとしても、それを受け入れる素地が彼にはあったといえます。
 彼は、ビトゥーシャと共にいることで、こうした「素地」を、徹底的に鍛えられました。彼は、オグのように、人の悪意を確かに操れる力を手に入れ始めたのでした。彼の中にある、その立派な悪意を常に彼女に刺激されていたからです。彼女はそれだけを彼に求めました。人に苦痛を与える快楽を、我が物にしてしまう体力を。そして、黄金のように、その行いには非常な価値があるという認識を、植え付けました。最も困難な願いを真っ直ぐな望みにしてしまえるような、その結果、何を失うかはまったく顧みない、ただ一途な欲求ばかりを志向する人間の感情に、こうべを下げられる…。
 しかしそれは、かつて彼のふるさとが経験をしたことでした。そしてまた、それはオグの性質そのものでした。

 ビトゥーシャは兄により破瓜を経験しました。いいえ、本当に破られたものは、その場所というだけで、その中ではありませんでした。その場所が侵されたのは、実に五歳の年齢でしたから。彼女は、生まれながらに情欲を人に欲求する肉体の持ち主でした。赤ん坊にそんな欲動を覚えて人は相手を選びましたが、相手選びも辞さない強烈なそれが襲えば、どこにいても関係がなく、中にはその赤子に、いいえ他の赤子にも、射精してしまう者がいました。狂おしい体は肉親も誘惑しました。彼女は最初から性的な虐待を受けました。稀に見る他の人間を心から掌握してしまう美貌の持ち主は、気を付けねばなりません。それが身を破滅させるのは、他人だけではないのです。
 ビトゥーシャは物心付いた時から非常な心理家でした。どうすれば自分が、相手の心を狂わせられるかよく知っていました。そして、狂った相手が何を思うか、どんな行為に走るのか。彼女は、それが楽しくて、お人形遊びのごとく集まってくる人々を操り互いに関わり合わせました。その遊びが血を流させたことはよくあることで、彼女の寝台は、愛液と精液と血液に彩られることも珍しくなく、さながら儀式の台座でした。彼女は悪魔の申し子のようでした。しかし、それは彼女がそうした環境に置かれたからにすぎませんでした。それが彼女の肉体の理由によるものであっても、人間は、もし自分を求めて殺し合う人々を見たればどうなるものでしょうか。そこに楽しさを見出さねば、自殺を願うばかりになるでしょう。ビトゥーシャに後者の衝動があったかなどは言えませんが。
 しかし異常な楽しさを、彼女は感じていました。ですが、彼女に愛という感情がなかったかといえば、そうは言えませんでした。
 彼女の魅力は女さえ虜にしました。彼女は、十五歳で結婚をしています。相手は長老で、七十二歳の国の御大尽でした。始めビトゥーシャは彼の側室に迎えられましたが、すぐに正室の座に就きました。彼女の魅力は彼の妻たちを奪い、まるで彼女が妻たちの夫であるような、位の転換が行われたのです。老人は、この力をいたく歓迎しました。自分のそばにいつも彼女を置くようになりましたが、それで、彼女が満足するはずもありませんでした。彼女の悪意は次のものを求めました。安穏や平穏は求めるものではありませんでした。不安と狂気と、然るべき運命の不順を、望みました。彼女は蟻の巣が壊されるごとき、蜂たちが立派な指揮系統を狂わせられるごとき、人々の、心の奥の破壊を目指しました。まずは、側室たちから。希望を失わせることなど簡単なことです。自分に注目させて、裏切ればいいのです。その時、誰も目標のそばにいないことが肝要です。ビトゥーシャは女たちを反目し合うように仕込みました。それは容易なことでした。女たちはそこに連れられて来たのですから、もともとの身分も生まれ故郷もばらばらだったからです。あるいは共通の趣味を持っていたり、似た境遇の者同士が仲良くなっていることはありましたが、彼女はその関係よりもっと濃密に彼女らと交流できましたから、彼女がそこに来る前の大切であったものを、ことを、一つずつ壊していけました。たとえば、楽器がうまい具合に音を出さなくしたり、里親の形見を紛失させたり、同じ髪型を維持できなくさせたりしたのです。ビトゥーシャは彼女たちが互いを知るより詳しく、彼女たち自身を知ることができたのです。そのうち彼女たちの間で事件が起きたり、裏切りが起きたりしました。
 こうした中、死人は誰も現れませんでした。ビトゥーシャは彼女たちに自死させませんでした。自死させることを妨げられました。自分への愛は持ち続けることを許したからです。自分との関係が唯一だと彼女たちに分からせたからでした。側室たちは、次々に老人の屋敷から出て行くことになりました。老人は、もはや彼女だけに夢中でしたし、彼に嫁いだ者たちも、彼女との関係さえあればどこでも生きられるようになったからです。
 そして、老人の周りには彼女以外誰もいなくなりました。その時、まだビトゥーシャは少女のあどけなさを残していました。ビトゥーシャは老人に一冊の手帳を渡しました。そこには老人が生まれた時から、現在に至るまでの、幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期…細かな伝記が、載っていました。彼女は老人を調べ尽くしていました。老人はさすがに薄気味悪くなりました。なぜこんなことをしたか、彼女に問いただそうとして、その目を見た時、はたと気づきました。自分は、自分の全てを、この年端もいかない少女に、吸い取られてしまったことを。
 彼が親しかった人間は、皆どこかへ行ってしまいました。彼が手篭めにした人間も、周りから消えてしまいました。彼は一人ぼっちでした。ようやく彼は、言い知れない不安に襲われました。それまでは、彼も手中にしているその技を、彼女も持っていることが彼をして気に入らせていたのでしたが!
「お前の望みは、一体何だ?」
 老人は食事も彼女に決められていました。肉付きも血色も良い体でしたが、ただ、活力があまりないようでした。
「私の望み…?はは、そうね、もう分かったわ。これが私の望みだったって!」
 彼は彼女に抵抗ができませんでした。その体には毒が盛られていたからです。彼女は老人を解剖しました。ゆっくり、丁寧に、彼の皮膚の一枚一枚を剥ぎ、その裏側にある肉の一筋一筋をほどき、そのさらに内側にあるはらわたを、顔面の部位を、徐々にばらばらにしていったのです。またその血管から血も抜き取りました。そうして、どこまでが、老人の生命の限界かを調べたのでした。彼女の解剖は見事でした。彼女が分かったのは、血があれば人はとにかく生きる生き物だということでした。
 老人が震える唇で言いました。
「私がいったい何をしたというのか。恐ろしいことだ。こんなにも辱められることがあっていいものか。もう許しておくれ。私は死にたい、死んでいいから」
「だめよ」
 彼女は断言しました。
「あなたの苦痛が私の食べ物だから。あなたのその脳みその狂っていく過程がとても大事だから。大丈夫。今十分にあなたは私を満足させているわ。だから、この満足が、もっと続くまで、あなたは生きなくてはならない」
 それからすぐに老人は死亡しました。彼の脳の線は限界でした。
「さて、今度は何をして遊ぼうか」
 ビトゥーシャは天真爛漫な笑顔を見せて、すっきりした表情で、老人の屋敷を後にしました。彼女という人間が、どれだけ恐ろしい性格をしていたか、それを描き出すエピソードは、枚挙に暇がありません。しかし彼女は、人間にこそ興味があって、その関心の中、恐ろしいことをしているだけでもありました。オグがそうであるように、未練を残した死霊たちがそうであるように。
 ビトゥーシャはたまたま手に入れた少年を、自分の思い通りに育てることにしました。すると、少年の側でも、彼女の期待に応える成長ぶりを見せました。しかし、彼女はどちらでもよかったのです。少年が、いつ彼女の期待を裏切っても。これは遊びなのですから。そう、育てることは、彼女に新しい楽しさを見出させました。ですが、彼女が育てているものは、少年の片面でした。それは、ビトゥーシャもまた自分自身の人間の片面だけを成長させていました。彼女には少年の内面が、そこできしきしと摩擦を起こしているものが何かわかりませんでした。彼女にはそうした経験がありませんでした。彼女には愛された経験がなく、少年の方には、ありました。
 ビトゥーシャにとって手に入らないものはなかったでしょう。最も手に入れ難いものをあげつらえば、それは彼女も欲しがったことがないものでしたが、人から、愛されることでした。それは手に入らないのです。それは黄金とは違います。遊楽とは違います。それはいつのまにか与えているものでした。彼女からピロットに与えていたものでした。ピロットがどうしても彼女から離れてしまえなかったのは…彼女の奴隷に身をやつしたからではなく、育てられたからでした。
 ありがとう、と誰かに言えれば…救われるのは、自分です。そのために、人はどうやら生きているのかもしれません。
「アステマ…アステマ…」
 彼は寝ていました。起き上がると、裸の彼女が、窓から覗く朝日を浴びて伸びをしていました。きらきらとしている魅惑的な肌はただ滑らかなのではなく、途方もないイバラの棘を纏っていました。ですが、確実に彼は彼女に親しみを覚えていました。
「復讐に、行かなくちゃならないの」
 彼の前で、彼女は常に楽しそうでした。
「あなたが?」
「そう」
 彼女が標的に定めた獲物を欲しがる目は、彼のものでした。多分、そうした目は、彼にしか見せていないものでした。そうでなければ、見つめられる方で、餌になるばかりの相手でしょう。
 ビトゥーシャは、彼と会う以前、人から追われていました。相手は国を興した大富豪で、彼女のかつての仲間でした。その相手に復讐に行くと言ったのですが、ピロットは、楽しげにそう言い放った彼女の気分を判らなくもありませんでした。彼女にかかれば、どんなことも楽しみに変化してしまうのです。宝箱はいつも目の前にあります。それが開かれて、中にあるものの具象を、どんな風に認めるかは人間次第です。きらきらと眩しいのは、その宝物そのものではなくて、それを見る人の目に違いないでしょう。
 だから、人間は、業が深い。
 彼は、彼女といると温かいものを感じました。彼と、彼女は厳しい契約関係を結んでいるのであり、そこに愛なるつながりはありませんでした。ですが、双者とも、自分と相手と、一緒の方向を向くことができる確信を持っていました。ピロットが見ようとするものは、ビトゥーシャの見ようとするものでした。彼を煽るばかりの肉感的な肢体のみを彼女は見せたのではなく、彼女の行いをまるごと彼に提示して見せていました。しかしそれは、彼も行っていたはずの、遊楽の頂点のようなもの、まるで神聖さにも至るような遊びでした。彼は、この遊びにずっと魅了されていました。苦も苦痛と感じなくて済みました。だから、彼は…イアリオを受け入れる時、苦々しく、それに応じたのでした。イアリオは、彼のこの遊びを一緒にできない人間でした。それでいて、彼を理解しようとしてくるのです。
 ビトゥーシャの復讐の相手は、山深いところにある宮殿に住んでいました。彼女はただ一人ピロットだけを連れて、森を突っ切り、宮殿の敷地に潜入しました。侵入はビトゥーシャの最も得意とするところで、追っ手を振り切るよりも速やかに、物音も立てずに気付かれず、見張りの者の幾人かを冷酷に殺害しながらその足元まで辿り着きました。彼女はピロットにも手伝わせました。音もない殺人の技術を試させたのです。様々な人殺しの方法を、彼は彼女から教わりました。彼はためらいなくその技術をものにしていきました。なぜなら、彼は町人に殺されたあの二人組の盗賊の死骸を見ていたからです。彼は町で一度たりとも人を死に追いやったことはありませんでした。瀕死まで懲らしめたことはあっても、彼の望みは、戦った相手が自分を怯えた目で見るようになることで、自分が優位に立てばよかったのです。相手が死んではその優位を感じられませんでした。
 彼はどんな町人にも優位に立ちたかったのかもしれません。あっさりと盗賊たちを殺してしまうような者たちにも。彼の生命は、人を殺すことを望みました。それは、もしかしたら人間を知るため、だったかもしれません。その要望はビトゥーシャと同じ機軸を向いていました。彼女によって、その実践の機会を様々に与えられました。さて、二人は仰々しくそそり立つ煉瓦の壁を、縄で越えて、格子柵のない窓から宮殿の中に入り込みました。ビトゥーシャは小皿を取り出し、部屋の壁に当てて向こうの音を探りました。向こう側の部屋は、大富豪が大勢の女を連れ込み遊興する寝室と食卓でした。ビトゥーシャとピロットは、その隣部屋の倉庫に忍び込んでいました。
「寝ているわ」
 時刻は丑三つ時でした。彼女たちは事前に宮殿まわりを調査していて、敷地内の番人の数はおよそ百五十人とみていました。そのうち、寝室の番人は多くて四人ほどでしょう。寝室の窓は無用心にも柵がはずされていました。彼らは、忍び込んだ倉庫部屋の扉を思い切り蹴破りました。そして、すぐに窓から隣部屋へと移りました。番人たちは蹴破られた部屋に注目しました。彼女たちは、寝室の中で控えていた番兵を音もなく殺しました。彼らは蹴破る音に反応し、廊下に通じる扉か、壁の向こうに目をやっているところに、背後から必殺の一撃を刺すことができたのです。扉は鍵が掛けられたままにされました。窓の下の床に、はずされた格子が置かれていたのを二人は拾い上げ、窓枠に嵌め直しました。
 ビトゥーシャはピロットを扉のそばに控えさせ、まだ目を開けない大富豪の老人の近くに裸のまま侍り眠る女たちの命を、冷酷に奪っていきました。彼女は短剣より少し長い刃渡りの剣を使い、一人の女の首を切り落としました。そして、それから滴る血を、老人の口元に掛けました。老人は目を覚ましました。彼のよく知った相手が頭上で悪魔のように笑っているのを見て、彼は跳ね起きました。
「お前は…カモウシカ…」
 彼女は彼からその名前で呼ばれていました。
「ご無沙汰ね、男爵」
 大富豪は、元はこの世界で最も財力のある国家の男爵でしたが、その国の金品の多くを盗賊のように奪い取り、もう一つの国を興したのです。その折、彼に興味を持ったビトゥーシャに言い寄られ、彼の国興しの手伝いをしてもらっていました。彼女は敵の排除の役割を担いました。大富豪は彼が男爵として仕えていた国の国民が、国に対して根深く持っていた不信と恨みを背景に、その国の中に新しい国家を興していました。敵となるのは彼が裏切った国だけとなるはずでしたが、近隣の国々もまた新興国に対して様々な圧力を加えてきました。彼女はこの勢力の排除に乗り出したのです。
 そのやり口は、彼も閉口するほど酷薄で微塵も容赦ないものでした。彼女は新興国と国境を接する外国の村々を焼き払いながら、その火の手を町や都市にまで伸ばしました。木材を大量に用意し、乾燥させ、藁を纏わせ火をつけて民家に投げ入れる作戦を徹底して続けました。その木材は自国の国境から伐採させ、ために火の手は逆風など浴びてその国に返りませんでした。彼女は人がいるところならばどんな場所にも火を投げ入れさせました。
 大富豪の国は守られましたが、国民は外界から拒絶されるようになりました。交易ができなくなり、飢饉が起きるとたちまち困窮しました。ビトゥーシャは目覚ましい働きを見せましたが、あまりにやり過ぎました。そこで、彼女は追われる身となったのです。大富豪は一切の責任を彼女に取らせるつもりでした。外国との交流も彼女の命と交換で、復活させるつもりでした。しかしビトゥーシャは彼の追っ手に追われながら、彼の国の周囲に甘く囁きました。私がいなくなったから、あの国は遠からず没落するだろう。男爵の国の領民は結局彼に不満を持ってしまったから、いつでも彼から領土を取り崩すことができますよ。
 そのために、彼の国の領民にあなたから武器を持たせるように。彼らの自由を保証すれば、領民はあなたの国に属して、男爵を攻撃するようになります。
 それは現実になりました。依然、男爵の領土には余りある金品がありましたが、それは領民に還元されることはなく、すっかり民心は彼から離れてしまいました。もし奪い取れるなら、男爵の所持する宝物さえ、今や自由にできると彼女は領民たちもけしかけていました。男爵の興した国はまもなく死に瀕しました。男爵は、このことの影に、ビトゥーシャが暗躍していることをよくわかっていました。彼はさらに彼女を追わせましたが、逆に、このようにして彼が彼女に追い詰められたのです。
 ビトゥーシャは追われることを何とも思っていませんでした。追っ手は狡猾でなかなか振り切れないこともありましたが、それは人生のスパイスなのです。彼女に死の恐れなどまったくありません。しかし彼女は逃げるよりも敵を捕まえ尋問する方がもっと得意でした。追跡者こそ彼女の思うがままにできる人形と同意でした。
 彼女にとって、復讐は遊びでした。いいえ、いかなる出来事も、皆遊びでした。ビトゥーシャはこの快楽に弟子を連れていき、一緒に愉しもうとしました。
「見て?この生首。さっきまで生きていたのよ?まだ目がきょろきょろと動くかしら。新鮮だもの、新鮮さ、あなた、それが大好物だったはずよね?」
 一対一となった男爵は、もはや言葉も出ないほど、怯えて顔を白くしていました。ビトゥーシャはふふっと笑い、おもむろに衣服を脱ぎ出しました。彼女の見事な肢体が露わになって、その昔彼もこの肉体が欲しいと思っていた頃のように、男爵の下半身が反応をしました。
「見て、アステマ。男とは愚かだわ!もうすぐ死ぬというのに、この有様」
 彼女の体から匂い立つものは、どんな状況であっても誰彼も虜にしてしまうのでした。老人は喘ぎました。恐怖以上の戦慄が全身を隈なく走り、心をすっかり呪縛しました。ビトゥーシャの蠱惑的な顔が迫ってきます。魅惑的な唇が突き出されています。ですが、それは彼の口には触れず、
 もっと下を触り、
 老人は呻きました。
「ふふっふふっもうこんなにして…何が望みかしら?一体。あなたの命運は尽きているのに。だってさっきの生首に、毒を塗って、それがちょうどあなたの口に滴るようにしていたのだから…」
 ビトゥーシャはついに老人の腰に身を沈めました。老人は、びくびくと反り返り、毒が全身を回った反応を示しました。しかしその毒は、体を巡る本物の毒以上に、心と身を犯しました。彼は失神しました。
「ハハハ、ハハハ」
 ビトゥーシャは卑猥な音を立てて彼との行為に耽りました。その様子を、ピロットは目を見開いてしっかりと見ていました。死んだ老人は口の端から汚らしい唾を飛び散らせていました。
 湯気立つベッドの上で、女が快感の声を上げると、その腰の下から、まだ固さを失わない老人の一物が現れました。男爵は石のようになっていました。彼のあらゆるものが塊となって萎れず、まるで黄金のように、そこに滞りました。
「死んでも役立つのね。男というのは」
 ビトゥーシャはまた彼に跨り、思う存分、死体になった彼を陵辱しました。その後で、彼女はピロットを抱き寄せました。ピロットは動けませんでした。何をおいても、この女性を前にしては、今は恐怖しか感じませんでした。
「可愛い坊や。よく我慢しているね。私としたい?でも、ここは、十七歳になるまで使ってはいけないわ。溜め込んでおくの。いい?よくここに欲望を溜め込んでおくのよ。そうすれば、あなたの素敵な放出は、真っ白なはずなのに、黒くて素晴らしいものになるから。真珠なの。いやらしい卵白はそれこそ魅力的な宝物。でも、あなたのはもっとそれ以上。あらゆる力の源は、ここにあるのよ」
 彼女は上気した顔を彼に近づけて、桃色の息吹を吹きかけました。豊かな乳房は少年のはだけた素肌を熱くして、ぬくもりは恐るべき彼女の欲望を伝えてきました。少年はびくびくとしていました。この猛烈な誘惑に、この激烈な拒絶に、彼の意識は白濁し、そこに溜められているもののように、黒くなることを誓わされました。
 彼女はうっとりと彼を眺めました。そして、彼の頬に、凄まじいキスをすると、彼は失神し、倒れました。
 彼は、虚ろな夢の中で、あの地下都市の黄金が、毒々しく煌めくのを見ました。黄金が、彼に訴え掛けました。
「どうしたの?どうしたの?僕らはお前を待っているぞ。あの世の暗がりで、待っているぞ。
 偶然、お前は生まれたのではない。誕生は、お前こそ望んだのだ。
 見た通り、命とその死は、限りなく等しいからさ。お前は、どうしてここにいる?」
 欲望が、死と命を超えるものだと、彼は小金の群れを見て思いました。ビトゥーシャはそれを教えました。確かにそれは、価値あるものかもしれません。しかし、だったら、人がなぜそれに囚われるかは、実はその価値の中にも見出せないことでした。
 ビトゥーシャは、あの町の歴史の真理は教えてくれませんでした。ですが繰り返しピロットに夢として現れるふるさとの情景は、

をくっきりと映していました。彼が見て知ったものを、彼の中に、収めなければなりませんでした。手を広げて、丸ごと。
 それが、彼という人間でした。

 彼は産み落とされました。彼を産み落としたのは、誰だったでしょうか。彼は、町に温められても育ってきました。一方で、町の冷気には地下都市に入る前は触れてきませんでした。彼は人の冷気には存分に触れましたが、それとは次元の違うより大きくて混沌とした、町の人間にすらその自覚の乏しいものに出会うには、第二次性徴の始まりに差し掛かるまで待たされました。彼はその冷気を何をきっかけに感じ始めたでしょうか。触れただけでなく、それをそれと感じ始めたのは。誰と共にいることで、感じるようになったのでしょうか。彼はそうした冷たさをはっきりとよく知るために海の外へ出ていったのです。彼が町の一部だとしたら、彼がビトゥーシャに育てられたものはそれだったのです。そして、町が彼の一部ならば、彼は、それを忘れることができません。まして、そこから離れる最後に見たものが、あの黄金煌めく光景なら…。溜め込まれたものは何でしょう。それは、黄金?いいえ違いました。オグは、そこにいました。そこにいなければなりませんでした。だから、人間に任さなければならなかったのです。自分の扱いを。
 彼は、そのことを意識せずも、そうした感覚を鍛えていきました。黄金はこちらに向かって話し掛けてくるのです。ビトゥーシャが彼の力の源に期待しているものと、それは同じでした。どうしようもなく古い時代からあるもの、たがの外れた、尽きぬ欲望…。でも、その力の一つの結末を、彼はもう見ていました。ゆえに、その力はずっと彼の傍らに座り続けました。町から出ていったにもかかわらず、その町の下に隠された真実を全身で受け止めたからです。もし、真の黄金というものがあるなら。変わり続けることのないものがあるなら。それが彼の中で燻り続けたのです。あの小金の群集ではなくて。具体的な黄金などではなくて。
 彼は火を見ました。それはビトゥーシャの手でまた点けられたものでした。しかし彼女が命令したものではありませんでした。彼女に唆された人々が、街にそれを放ったのです。街の人々は、互いに対立を、憎悪を、憤懣を、満ちるところまで満たされていました。一気にそれらを開放させてあげれば、火に手をかけるのは造作ないことでした。人々の心の熱は炎によりさらに高められ、惨劇が止まりませんでした。その有様は、彼のふるさとで、三百年前に行われたもののようでした。
 ビトゥーシャは人間同士殺し合わせることは簡単だと言います。何か見せつけてあげればいいのです。猫の死骸でも、人の遺骸でも。忌まれることやその行いを、あちこちに配置すれば、人の心は腐っていき、次第に制御ができないものとなるのです。まずそれが重要でした。憎悪を募らせる下準備として。抑制の効きにくくなった心がその鬱憤を晴らすものを何か求め出した時が、いざ彼ら自身の手で、忌むべきことをやらせる待ち望まれし機会でした。炎はその象徴でした。ビトゥーシャはその街を死骸でいっぱいにしたのです。はじめのうちは小動物の死体がそこに放り込まれました。腐った臭いがあちこちから漂い、処理し切れぬものとなって、朝から晩まで人々は腐臭を拭えなくなりました。そのうち、死体は人となり出し、彼らの街の人間もその犠牲者として選ばれました。異様な恐怖が街を埋めて、人々は警備を増強し夜を徹した見回りを行うようになりました。ですがそれでも事態は収まらず、人々は我が身の明日に怯えるようになりました。
 街は、外部との連絡も断たれました。ビトゥーシャが山賊を周囲に呼び寄せていたのです。彼女によるそうした街の支配が三ヶ月ほど過ぎた時、にわかに炎の手が上がりました。街の一番善良と思われる宮司の社に、彼女が点けさせたのです。それで人々に多大な動揺が走りました。精神的な柱を傷つけられ、どうしたらいいか、彼らは自分で判断ができなくなりました。彼らは扉に鍵を掛け、皆が、皆を恐れるようになりました。ビトゥーシャのしもべたちはますます自由に街で活動ができるようになりました。ビトゥーシャは街の人間の余裕のない心理に付け込んで、さらに噂話を広めさせました。噂は、彼らにとって自分を防備するための主要な情報になりました。誰もが扉の向こうの情報を欲し、それに応じてビトゥーシャは都合のいいことを吹き込めたのです。ビトゥーシャは
 扉の前で、その扉の向こう側にいる住人についての噂を流しました。街の人間からその人物がどのように思われているか、いかに警戒されていて、近づかれれば攻撃しないわけにはいかないと皆が思っているなどということを、さも流言のように入り口で、聞こえるように囁いてやったのです。噂の当事者たちは(そのような流言は流れていないのに)これにより、他の人間の反応を恐ろしく思うようになりました。人の憎しみは、この時によく働きます。誰も味方がいないという状況こそが、他を憎み嫌う心を持たせるのです。しかし人間の歴史はこれを繰り返してきたところがありました。どんなに小さなコミュニティでも、それは起こり、人の中に憎しみを育てるのです。
 そのパワーが、沸騰する水のように、あちらこちらで充填されました。その憎しみは、あたかも街全体の意思であるかのように、いびつに動き出しました。人間の手を超えて。人間の手を超えたそれは、火となり、彼ら自身を焦がすべく、盛大に燃え盛りました。このように社会を閉ざし、ビトゥーシャが展開してみせた、煮え滾った悪の土壌は、まさにピロットが見ることを望んだ光景でした。彼はビトゥーシャの目的も、その意識も、感覚も、喜悦も、すべて分かりました。そして、街の人間の、恐怖の感覚も、抗うことのできなくなってしまった自分の憎しみも、それに伴った哀しみも、怒りも、何かに縋りつくも縋りついたものに裏切られていく絶望も、よく判りました。彼はふつふつと自分の中に、今炎の中にいる人々のような憎しみと怒りが、煮え盛るのを感じました。その憎しみと、怒りの先には、明確に誰かがいるような気がしました。
 この時彼は、自分はいずれ故郷に帰らねばならないのではないか、と思い始めました。目の前の出来事は、彼の故郷が経験したはずの事実でしたが、それはまた、現在進行中の彼自身の恐るべき過程にも混在していました。生まれた土地に火を点けて、狂い出す人々を見て、彼はこの景色こそが彼のふるさとで求められているもののように、感じました。そうでなければ、地下の黄金は日の目を見ず、ずっとただ死者たちのものなのです。…憎しみは、ある一定の方向を向いています。それは殻を破ろうとして、もがいていました。
 しかし孤独であることは、自分のぬくもりを確かめているから感じることでした。憎しみを持つのは、愛情があるからでした。憎しみは人間を向いています。まるで、それはオグのように。人間がいなければ決して抱かない感情なのです。どうしようもないほどにそれが膨らんでしまえば、人は火を選ばざるをえないのでしょう。炎は、彼に彼の町の行く末を見せました。
 彼にはあの街にある黄金は、人の手に返してあげなくてはならないものだと思えました。それは人が造ったものなのです。

 街の人々は、まるでビトゥーシャの子供たちのようでした。

 彼は、十七歳になりました。彼の上にビトゥーシャが跨り、艶かしい姿で、興奮した呼吸で、彼女だけが独り喘いでいました。研修期間は過ぎて、いよいよ儀式の始まりでした。
 しかしもしかしたら、この瞬間まで、彼女はずっと彼に跨っていたのかもしれません。彼を、産み落とそうとして。彼女には、女性として、その体が大人になる兆しが、月の力を感ずる現象が、現れていませんでした。またぐらから血の滲む思いをしていませんでした。どこで狂ったのでしょうか?彼女の肢体は完璧なのに。あるいはだから、彼女は人間をいとおしむことができないのかもしれません。男に跨るだけなのでしょう。誰かを愛して、その相手の子供を、授かりたいとは思わないでしょう。
 彼女は、ただ仲間が欲しかっただけかもしれません。それは、あのオグと同じ、その孤独から、願いから。人間の願望を知ってしまう、心無い神様からのプレゼントを貰って。
 少年はそれをわかっていました。彼はビトゥーシャの心の中を読み込んでいました。彼女の欲しがるものは何なのか。自分から何を掬い出し、実現させたく思っているのか。純粋なかたち。暴欲の塊こそを、この体から取り出すために、自分を育てたのだと、彼は分かりました。彼女にとっては少年に、彼の果てしない望みの実現が今こそ行われようとしている舞台を、整えてあげたのでした。ピロットは悪魔のような気分にならねばならず、そのために彼のあらゆる心が自由になるはずでした。しかしそれは逆でした。むしろ、ビトゥーシャの方が、虜にされる番となったのです。彼女は我を忘れていました。彼女は彼の母親に、なろうというのに。彼女には、寝台の上に寝そべった彼の肢体は神々しく、触れてはならないもののように見えました。
(乱れるわ。私は乱れる)
 熱に冒され、ビトゥーシャは夢見心地でした。
(望んではならないものが今望まれているのだろうか)
 彼女はまるで、絶対の価値を持つ不変の黄金を産み落とそうとしているかのようでした。それが望みでした。彼女は自分の悪を、この少年に体現しようと目論みました。かたちあるものの中に、自分の存在を刻印しようとしました。ですが、目の前の少年は、すべてを内包しているかのようでした。自分にあるものも、自分にないものも。彼女はその時、愛を感じていました。しかしビトゥーシャにそれは判りませんでした。
「ああ、生まれる…生まれるわ…」
 何が?行為をしながら、ピロットはあの町のことを考えていました。ぼんやりと浮かぶのです。非常な快楽の最中のはずが。その町で何かやり残したことがあったのだと彼は判りました。今の行為よりも熱中しそうな、何かが。
 彼の苦しみはここに始まりました。今度は彼が、自分の愛を、誰かに手渡そうとするのです。

 彼が、トラエルの町に戻るまで犯した最大の罪があるなら、それは、ビトゥーシャと共に企んだ一国家の婚姻でした。その国は、王妃を亡くしていましたが、王妃とそっくりの王女を、新たに妃に据えたのです。つまり、親子が結婚をしたのです。その国は、その国の属する大陸で、最も幸せの多い国だと言われ、その国民も、周囲の国々も、皆が王室を尊敬していました。王室の犯した突然の反倫理に、国民も周囲の民も皆動揺しました。悪はそれを見て笑いました。
「もっとだ。もっとだよ。これからさ。これから、もっとこのようなものを見るんだ」
 ピロットの言う通りになりました。それから、その大陸は暗黒の時代の到来を迎えたのです。勿論、前もってビトゥーシャが色んな種を撒いていましたが、彼女の心も虜にしたピロットが、一斉にその花びらを咲かせたのです。混沌が大陸中を席巻し、人々は倫理を忘れました。
 混沌があればいいのです。混沌は苦しみを生み出しません。ただ翻弄されるがままなのです。だから、その混沌を、生み出しているものに気が付けば、自ずと悪は意識されます。人から離れた人自身であると。悪は混沌を見て笑いました。しかし、恐ろしいことが、彼の中で進行をしていました。彼は混沌の意味が、それを生み出す人間の意味が、自分自身のテーマだとよくわかっていました。なぜなら、彼を海へ追い出したものなのですから。黄金が鈍く記憶の深みに光り続けていました。彼が欲しいのは、もしかしたら、あの二人組の盗賊と同じものになりつつあったのかもしれません。彼は彼らと同じことを考えました。あの黄金を糧に何を得ることができるのか…?黄金は、もはや目的ではなく、何かの代替物でした。代替物たることを、彼は海の外で学びました。
 彼は、混沌の主、悪の使いにならんとしました。しかし始めから皆そうなのです。彼が今いる大陸は、彼の故郷が、かつて経験した事実をなぞっているに過ぎませんでした。彼は、いよいよ帰るべき故郷を意識し出しました。どこにでも混沌はありました。そしてどこにでもそれは生まれました。

 彼は、自分を知りに、あの町へ戻らなくてはいけませんでした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み