第25話 三年の刻 後

文字数 53,967文字

 オットー=シュベルには弟がいました。弟とは彼は反りが合わず、いつも喧嘩ばかりしていました。しかしその間柄も彼が海外に行くようになって、変化しました。弟も本が大好きで、彼と同じように図書館にあるものは全部読んでしまっていましたが、弟が好きな物語は暗く暗澹とした世界を描いたものでした。シュベルはその反対に、あっけらかんとした、終わりもすっきりした物語が好みでした。二人は互いの好きなお話に突っ込み合っていました。弟は現実にこんなことはない、と兄の好きなジャンルを揶揄し、兄こそお話はハッピー・エンドで終わるべきで、真実や現実は必ずしもお話に描かれるべきじゃないと反論しました。
 シュベルは海の外に出て行くようになり、自分の想像がそこで実現化される経験をして、自分が怖くなりました。いいえ、はっきりとそれを認識したわけではなく、彼は、自分の体がばらばらになるような心地にそれを感じていただけですが。ピロットから様々なものを教えられ、あたかもそれが真理だと教え込まれ、彼は弟に為したようにそれに反論ができませんでした。彼は、犠牲の羊となりました。子供たちがピロットにも秘密にした遊びを終わらせるために、わざと大人たちに捕まったのです。彼はそこでたくさんの嘘をつきました。それが虚偽だとばれぬ嘘をたくさんつきました。彼には疑問が膨らみました。自分は間違ったことをしている、その認識が、彼の中でいくらか進んだのです。
 振り返り、彼は、これまでのことを思い出しました。そして、何が間違っていたのか、何が本当の出来事だったのかを、彼の中で一つ一つ確認しました。それが彼にはできました。それを助けたのは、書物から貰った、たくさんの知識でした。彼は、親分のしていることはただ親分のためにだけ利があることを認めました。そして、自分たちは何が自分にとっての利であるか、まったく分かっていないことに気づきました。
 成人式の叛乱の時に、彼の心の中では何が自分たちを動かしているのか、はっきりと掴みかけていました。彼は叛乱に与しましたが、半ば諦めの心地もありました。自分が、ピロットに誘われ海の外へ向かってしまったことを、そこで為した行いの一つ一つの意味を、すでに成人した彼は痛いほどよく知っていたのです。反逆は事前に知られ、その準備をされ、彼らは失敗しました。その瞬間、ピロットに唆された者たちの誰もが身の上を理解しました。自分たちが、弄ばされていたことを。
 しかし、シュベルは事前にそのことを理解していました。彼らの多くのように、大人たちに捕まった瞬間に、それが判って驚いたのではありません。彼は、逃げました。町から遠く、海の外へ、逃げることを思いました。
 エンナルは子供たちのまとめ役として、ピロットからも厚い信頼を得ていましたが、これだけの後輩が自分の下へ集まったことによって、彼の自立心が疼きました。ピロットは彼ほど直接に子供たちと付き合うことはしませんでした。彼の方が、より後輩たちの様子を分かり、監督ができるのでした。彼はピロットの言うことをよく聞いていましたが、いつか、それは聞いている振りにもなりました。彼は、ピロットに心酔していましたが、ピロットからものをいろいろと教え込まれるにつれて、彼自身も親分のような不羈の感覚に至るようにもなったのです。
 彼は、独立を望むようになりました。自分でも、親分と同じように下の者を囲み、好き勝手できるのではないかと考え出したのです。彼は、成人式にて反逆が成功すれば、ピロットにも反逆ができると考えました。しかし、それは、失敗しました。次々と仲間が捕縛されて、彼は一目散に地下に向かいました。そこから、海の外に自分だけが出て行くために、彼は走りました。
 しかし彼に併走する者がいました。それは三人いました。そこにはシュベルがいました。あとの二人は、前々からピロットの指導に不満を持っていたり、仲間にたいそう好かれていたりした者でした。
 四人ならば。そう、各人は思いました。小舟に乗るのも過ぎた人数ではないですし、何より、あのピロットに対して抵抗できるはずでした。もし彼が、船着場で彼らを待ち伏せしていたとしても。彼らは地下街を飛ぶように抜け、波止場に辿り着きました。
 そこにはもうすでにピロットがいました。もし彼が、成人式の様子を高見していたならば、いち早く自分たちがここに来られたかもしれなかった期待は脆く崩れました。しかし彼らは手にした武器を振り上げました。
「どいてください。僕たちは逃げます」
「あなたの試みは失敗しました。俺たちは逃げます。どうせここにいちゃ生きてられないんだから」
「お前たち」
 彼は、腰を下ろしていた杭からゆっくりと立ち上がり、以前、彼らの前に姿を現した時のように手を広げました。
「そうだな。確かに、計画は失敗した。だが、お前たちはまだ生きているだろう?これからも、また実行の機会はある」
「これはあなたの計画だ。俺たちのじゃない」
 エンナルはピロットの威圧にも負けずきっぱりと言いました。ピロットはにやりと笑いました。エンナルの心を見透かしていたのです。
「あなたに散々騙されてきた。あなたといるだけで、僕らは苦しかったよ」
 シュベルが言いました。今度は彼はとても悲しそうな顔をしました。その表情に、シュベルは詰まったように「えっ」とびっくりしました。
「残念だ」
 ピロットは彼らを目で追いました。
「だがな、俺たちは、一蓮托生だ。もう契約を結んでしまったんだよ。この地下の街の国民となることを。この街は、俺たちの街だ。黄金は、それを欲しがる衝動は、自分たちのものだってな。今までもそう振舞ってきただろう?この街の国民は、外で悪事を働いてもいいのさ。人殺しもしていいのさ。だから、自由というものが何なのか、分かる」
「ええ、存分にそれは知りましたよ。だけど、結局、あなたの言いなりになっていただけだ。ここをどいてくれませんか。でなければ、あなたをここで倒して行く」
 エンナルがピロットのような酷薄な目を薄く左右に伸ばしました。他の三人も覚悟を決めた目をしました。しかしピロットはゆっくりと笑っています。彼は何もかもが当然だと言わんばかりに、冷たい目をし、唇を薄く引き延ばしていました。
「まあまあお前たち、俺たちは仲間だったじゃあないか。同じ志を持っていた。けれど、海の外へ出て行ってどう暮らしていく?よくて盗賊、もしくは牢屋入り、まともな暮らしなんてできないぜ。二度とここへは戻れないんだから。ここにある黄金は持っていけなくなるんだからな。黄金を使って、羽振りのいい過ごし方しか俺はお前たちに教えてないんだから。
 お前ら、この町でしか生きられないんだよ。俺の言う通り、もう一回ここに戻って、計画を実践するしかないんだよ」
 彼は甘い蜜のような口調で語りかけました。諭すような、叱るような。その誘惑は、再び彼の下へ戻れば、甘い未来が約束されるのを彼らに想像させました。そして彼らは誘惑を断ち切りたいがために彼に反抗しているのではないことに、それぞれが気づきました。彼らは自立したかったのです。自立して、先の甘い暮らしも、自分の手で立てていきたいなどと荒唐無稽な夢を見ていたのです。
「安心しろ。お前たちは永遠だ。この街はずっと三百年間生き続けたんだ。死の街のまま。ここは不滅だ」
 彼の言葉は、地獄のようです。
「お前たちが死んでも安心していいのさ。この国は、永遠だから。なんてったって、あの黄金があるんだからな?お前たちの分、しっかりと生きるさ。だから、安心して、ここで暮らしていればいい…」
 話はここまででした。四人は、あっさりと彼に殺されました。煙玉の目潰しを喰らい、その刹那に彼の一撃を正確に急所に打たれたのです。四人は恐怖の瞬間もありませんでした。その遺骸は、少し上の、町人に見つかりやすい地下の路上に捨て置かれました。

 人は死後、どうなるのでしょうか。その意識は、まもなくあらゆる死を呑み込むどこかの坩堝にも紛れ込むのでしょうか。いいえ、正しい道を歩めば、大元に帰ります。どこから人の魂はやって来たか。生きている間人間はそれを失念していますが、人は生死の世界を行き来しているのです。まるで家族が、生まれた時には待っているように、命を変えて、戻る場所があるのです。
 シュベルの魂はその場所へと続く階段を見失っていました。彼は躍り場に来ていました。一服したくてそこにいるのではありません。彼は、そこからどちらの方角に昇るべき段があるのか、分からなくなっているのです。
 風が吹きました。彼はそちらに顔を向けました。彼の声は潰れてひどいだみ声になっていましたが、それは、ピロットに相対した時に鋭い恐怖が喉下を突いたからでした。彼はどんな本にも書かれていない物語の主人公をそこに発見したような心地になっていたのです。彼は、主人公が暗い闇に取り残されるシーンが好きでした。勿論、そこからなんとか這い出して、目的を果たすために修業して、力を付けて、思いを遂げるのですが。しかし彼はとてもそのお話の中に出てくる者のように、ピロットが暗闇から抜けて出てくるとは思いませんでした。まるで痩せさらばえた上半身を剥き出しにしたこの男は、暗闇を引き連れているようで、もしこの男が陽の下に現れるとすれば、暗い闇もそこから溢れてくるようでした。
 今、死んで彼はその暗黒に呑まれました。すっかり、その体はばらばらになっていたのです。彼は、急いで彼の体を集めました。殺されて、自由になったからでした。彼は体を集めることができました。そして、つなぎ合わせることができました。元通りとはいかないまでも、なんとか足を動かして歩けるほどに回復はできたのです。彼は、もしだみ声にならなければどういった声になっていたか、その時に知りました。その声は通り良く、風に乗ればどこまでも飛んでいくほど朗々とした響きを持っていました。
 彼は納得しました。自分は、このために生きていたのだと。
 一方エンナルは真っ暗闇にいました。シュベルは薄暗闇にいて手探りでも地面の固い凹凸に触れられたというのに、彼の場合は上下も分からず落ちていく心地でした。落ちているのか、上昇しているのか。頭の先へ動いているのか、足元へ引っ張られているのか。または横へ流されているのか。彼の所在は彼自身にありませんでした。
 彼はオグの懐に飛び込みました。魔物はすぐそこにいました。しかしその体は満腹でした。彼は叫びました。無数の彼が魔物の腹に映されていたからです。彼はその中に入れませんでした。魔物の一部になれませんでした。
 彼はいずれ、この世に還帰し、再び生を始めるのですが、その時は自我を失ったような素朴な人間になっていました。彼の体はばらばらになったまま、この世に還っていたのです。

 死とは何か。それは町の下にたくさんありました。ピロットはこの場から出て行きました。計画は失敗し、当然首謀者にその罪を着せようとするのですから、彼は出て行かなければなりませんでした。しかしこの逃亡に意味はありませんでした。

町に破壊をもたらす必要はなかったからでした。
 彼にはそれが分かりました。別に自分があの町に何か恨みを抱いているのでもなし、特別に執着があるわけでもないのに、この行動に、俺のすべてを懸けるほどの重要性はまったくないと。彼はしかし震えるものを感じました。自分のこの手で町の人間を殺してやった。彼らを自殺に追い込めた。そして、手ずから命を奪えた。可哀そうに。皆まで知らず、連中は俺の言うままに動いた。そして町の人間に捕まり、舌を噛み切った。まるであの炎に呑まれた山の街のように、自分から恐怖をつくり出して。
 彼とビトゥーシャはそのような光景を何度も見たはずでした。彼はその度に自分が王様のように君臨する心地になり、いい気分でしたが、今回のその様は、ある変化を彼にもたらしました。今までの行いを、繰り返すように彼の生まれた町にも与えて、人間の絶望と悲哀を感じて、良い気分になるはずが、物凄い痛みを肌に感じたのです。彼は悪の化身でした。そのように自ら動きました。どんな人間も、誘惑と破壊を求めているように感じたからでした。
 町は、その誘惑と悲哀を守るために自らを閉ざしました。その経験が、何よりも恐ろしかったからでした。ですが、町の人々は気づかぬうちにその経験をこそ守ってきました。経験を恐ろしがったのではなく、繰り返し、地下に、それを置いたのでした。生まれて来る人間は、新しい。新しく生まれて来た人は、単純に伝統を受け継ぐのではなく、その身に引き付け、考えて、繰り返すのです。それは守ることになりました。
 彼らは何よりも昔の人間たちの犯した罪を、悪を、大事にしてきたのです。保存してきたのです。忘れず、監視して、教訓を胸に。それは受け入れ難いものを、時間をかけて受け入れていく様子でした。つぶさに、互いを見遣って、時に互いを恐れて、町の伝統を守らない者を罰して、殺して。ただ、それはいかにも町の未来を見ないようにも思いました。この町は破壊されたがっている、そう感じてもおかしくはないことでした。
 町はただ生まれてきて、育って、ようやく産声を上げただけでした。可愛い卵を抱いていただけでした。卵の中身を大事にしていただけでした。
 ピロットはまさにこの産声を上げたくて吠える殻の中の人間でした。彼は自分が子供たちを唆したと思っていますが、実は彼が自分を誘惑していたのでした。こうするように。彼の自我は分裂したままでした。彼が彼自身と思っている彼は悪の手先でした。そうではありませんでした。
 本当の彼は今でもイアリオを想っているのです。この町で暮らしていくことを思っているのです。彼が壊したのはその未来です。自分から。
 彼は一人海の外へ出てこの苦しみに耐えました。彼の身体は痛みました。吐き気がしました。彼はこの町を捨てたつもりでした。いいえ、彼は、捨てるつもりでここから出て行ったのではありません。彼は自ら好いた思いを向けたこの町自身に、たくさんの気持ちを覚えたのです。おそらく、どの町人よりも、彼は人間のたくさんの思いを感じました。
 彼はその思いの束を抱え切れぬほど抱えていました。ただただそれは彼にやるべきことを教えるのです。彼は子供たちを誘惑し、悪の道に走らせ、そして自滅させたのではありません。そのさだめの羅列を見るために、彼はそうしたのです。

「やれやれ」
 そうテオルドはひとりごちました。
「僕以外にもこの町をかき乱そうとするのは結構だが、野蛮に尽きるよ。彼は、きっと、黄金に唆されているんだね。でも僕は、オグだから、そんなのはもういらないんだよ。もういい。もういい。もう、たくさんだから。この町を破滅させて、何もかも新しくしようということなんだ。荒い仕事は好まれないんだ。この場合、切実な理由が大事なんだよ?」
 ピロットのやったことを皆まで俯瞰して、そう彼は言いました。彼はすでに霧の魔物として在る片割れと意識を共有していました。それが、もうピロットに会っていたこと、ピロットはそれに対して脂汗を流す以外になかったことを知っていました。
 オグは、彼をどうともしませんでした。ピロットが計画していた町の支配は未然に防ぎましたが、そんなことをしても、町が治まるわけがありませんでした。テオルドはこの町のより隠された力、三百年間もったよりもっとこの町を動かし続けてきた力を、感じ出していました。彼は警備隊の人々にも言ってシュベルやエンナルたちが他の若者たちのような自殺ではなかったことを隠そうと申し合わせました。この一件はたとえ真実があってもそれを知らなければならないというほどではなかったのです。
 彼は地下の海の入り口に何も手を入れませんでした。首謀者はここから出て行って、また戻ってくることも当然考えられましたが、彼は、警備隊の人間にも何もしておくことはないと説得しました。もしかしたら黄金は密かに使われていて、若者たちの親分は新しく仲間を引き連れてここから上の町を襲うことも考えられましたが、これだけ小さな入り江から、たくさんのならず者たちが上陸してくることもないと。
 しかし彼は予想していました。もう一度、ピロットはここにやって来るだろう。そして、果たされなかった本当の目的を実現しに新しいはかりごとを引っさげてくるのだと。彼はピロットが悪人ではないことをよく知っていました。悪いことはしていても、その悪とは何なのか知るような人間でしたから。ただし、それをオグのようにははっきりと認識していない。テオルドは彼にずっと温かいものを感じていました。それは、孤独を愛するような仕草がどことなく昔から彼には具わっていたからでした。イアリオとともに、三人は子供の頃から共有してきた当時は何も分からない深い哀しみがありました。それは今、三人にそれぞれに明らかにされてきて、彼らはそれに自我を揺さぶられ、何事か為すべきものと自分を見ているのでした。
 だから、もう一度ピロットにはここに戻ってきてほしかったのです。彼がしてしまったことは、まさに自分がしていることでもありましたから。オグは、彼をどうともしようとしませんでしたが、テオルドは、彼を待ち望みました。
 そう間も空けず、ピロットは戻ってきました。ここへ、何も持たずに。一艘の舟に何も連れずに。
 彼には確かめることがありました。再び、この入り江が自分を入れるようなことがあったら、自分はあの目的を実現しなければならないと。そうであってほしくない、と彼は考えました。町の人間は当然秘密の入り江まで来て、そこを防ぐだろうと思いました。いくら四人の子分たちを少し上にまで引っ張っていって、目立つ路上に放ったとして、誤魔化しは効くまいと思いました。彼はそれを願ったのです。
 しかし、戻ってきてみると、入り江は空いたままでした。そこは、相変わらず美しい青い海を弧の向こうに広げて、相変わらず来た者を虜にしました。ここから彼は、子供たちを悪の道に導き引き入れたのですが、それを許した場所でした。彼は許されました。何十人もの命を間違った方に行かせ、自分のために殺したに他ならない結末になったのに、彼の願いは空しく、町に、拒まれなかったのです。
 彼は思い知らされに故郷に帰ってきました。そこはずっと過去を、過ちを、悪を許し続けてきたのです。いいえ。悪は、過ちは許されず、そこに監視されてきたのですが。二度とこのようなことが起きてはならないと、警戒されてきたのですが。
 そこはオグなるもののいるところでした。悪の怪物は、じっと、機会を窺っていました。許されざる自分が消え去る時を。つらい道のりを歩むばかりだった運命をやめる時を。
 彼の意識は飛びました。だから、彼の体はまた夢遊病者のように勝手に歩き回りました。彼は暗闇を抜けて明るい日差しの射す外に出ました。彼は陽の光の射す中で
 あの女性を発見しました。彼は
 焼け爛れるような心地を味わいました。火酒を呑んだ喉口のような。空いている手を、彼は振り上げました。そして
 自分を、建物の影に押し留めました。
(ああ。これは何だ)
 彼は自分を訝しみました。
(まるで白いものが自分の中を流れているようだ。乳のような、温かい何かが)
 恐ろしいことが彼の体には起きていました。もし、イアリオが、その願いを乗せた弓矢をあの新月の十二歳の晩、空に放って、その矢を彼女の先祖が、町を見守る幽霊が、彼に届けていたとしたら…彼はたまらず地下へと引き上げました。彼の心臓がどくどくと力強く彼に血を流していました。ピロットは胸を押さえました。
 その時です。霧の姿のオグが、いきなり彼の前にぬっと現れました。
(お前はそれが欲しいのだろう、本当は)
 魔物は彼に囁きました。
(お前の欲しいもののために、ほら、力がここにあるぞ)

 人は、誤ったことをした時、誰かに叱ってほしいものです。それが、意固地になって、叱られる機会も失い。その人自身が、それまでのその人から、移ってしまいます。魔法に掛かったごとく、変身してしまうのです。
 それは第一の人間の不可思議でした。誰もが誤ったことをしたことがあるとしても、それぞれが、それを抱えているとしても。罪の告白は、気を楽にします。そして、その人自身を元通りにしますが、重ねた罪は、その人をどんどん元の場所から遠ざけてしまいます。
 元に戻れない霊たちは、このような過程を経ている者がいました。そして、罪を重ねていなくても、元に戻れなくなった者たちは、やはり、自分自身を変えてしまったのです。ですが、生命の神秘が螺旋にあるのだとすれば、それは偉大でした。それにしても、人は、自分の世を積み重ねています。
 生まれては死に、生まれては死に。その度に、人は、どちらにも元通りになっているはずが。ちょっとずつ、少しずつ、階段を昇って。同一の死を迎えてはいず、同一の生も貰ってはいません。それにしても、人は、自分の世を積み重ねているのです。

 ピロットは元に戻りたく思いました。いえ、彼は元に戻りたくはありませんでした。
 悪はそれに応えました。そして、それに応えませんでした。それは
 この世で起きていました。あらゆるものが変化する、この世でそれは起きました。
 巡り、廻るこの世界で。悪は巡るのです。いいえ、すべてが、過去から今へと巡るのです。
 ピロットは、悪を行いながら、その悪の行く末を感じ続けました。ピロットは、悪と同化しながら、それを生まれ立てさせながら、それが何かに戻ろうとすることを分かりました。戻る場所は、どこでしょうか。母のいない、この暗黒空間で、彼はそれが分かるような気がしました。悪は母から生まれました。母の元から、悪は分離していきました。それは、自己の消滅を望みました。どのようにして、変わらぬものは自殺を図れるのか。大いなる大河がありました。霊たちの坩堝、根源へと帰る前のあらゆる意識を一つにして流れる空の道。
 彼らは一つになろうとしたのです。それまで、一つにつながっていた者たちは、今、ばらばらになったからです。各自の意識が各自に芽生え、自らが起こした罪と悪に気づき、死を望むようになって。彼らは自由でした。彼らを縛るものはありませんでした。本当は。
 母親の体の中は、その身を縛るものだったでしょうか。生まれる前も、生まれてからも。ここに、母はいない。なぜなら人が、恐れたから。いなかった。なのに。だから。無窮の愛情を、オグなるものも、白霊たちも、皆がそれを求めたというのでしょうか。ばらばらになる前の自己に還りたがったのでしょうか。それしかないと。記憶と感情がないまぜになった不確かな曖昧な生を受けたばかりにまで還りたがって。しかし彼らが望んだレトラスという大河にその身を漬け込みたいという願いは。死ではなく、むしろ、極限の生の始まりを指しながら。
 彼はどこに帰りたかったのでしょうか。帰る?生まれたばかりなのに?帰る必要はない。俺は自由だ。そう彼は思いました。思おうとしました。なのに。だから。螺旋。彼は
 多分、どこまでも誰よりも自分を知りたかった。そして、戻りたかった。自分を知ろうとした相手の前に。自分を知ろうとした人の元に。それは
 その相手を、強く、怖れたから。
 ピロットは泣き叫びました。うだうだと流れる涙は彼の頬を濡らして死に絶えた街に跡を付けました。絶叫は地下の街中に轟くほど大きいものでした。ですが、その叫びが上の町に届くことはありませんでした。彼女にも。
(お前の欲しいもの。ここへ、この中へ引き入れよう。ゆっくりと。ゆっくりと。一緒に暮らそう)
 オグは言いました。彼は身を捩りました。
(ここへ。この中へ。お前のこの体内へ!お前の領域へ。この暗闇へ。おまえ自身の力で!)
「ああああああ」
 それは矛盾した物言いでした。彼の中の悪はこうしたことを言うのですが、本当の悪は、その悪をよく知った目の前の霧です。冷たい霧の粒子たちはその一粒一粒がこのような裏切りを重ねてきたのです。それは人を尊敬しませんでした。人を恨み、そして侮りました。
 それらが還ろうとする場所は、途方もなく長い霊たちの列でした。ばらばらになった魂は、一つになることを望むのです。生まれる前の、あるいは生まれたばかりのような、未然なる状態に。
 悪魔は、その手を彼からはずしました。ピロットは動けなくなりました。悪は、彼の中で、成長しました。悪は、彼の中で、明確な目的を挙げました。
 彼は、再び舟に乗り、向こう側の大陸でしばらく小屋に閉じ籠もりました。そして、また、小舟を操って生まれた町に戻ってきました。彼はすっかり痩せさらばえました。不健康なほどに。

 オグは、三百年以上もの間目を覚まさずにいました。彼は、ずっとうたごえを聴いていました。緩やかな、滔々と流れる水のような。彼は意識の集合でありながら、眠ることもある存在でした。彼は魔法によってつくられ、多くの意識を身体にしていますが、ばらばらになることはなく、その経験は身体に共有されました。
 彼のつくりは複雑でした。意識をつなぎ止める魔法というものは、人間の、変わりたくないという意志からきています。しかし、それが変わりゆく肉体を持っているかぎりは、時と共に移ろいゆく。どんなに奇跡と疑わない感情でも、二度と忘れることはできないと受け止めた屈辱も、変わりゆく運命です。時のある世界にいるかぎりは。
 まるで、それらは変わらないように見えることがあります。はじまりの想いと同じように、相手を想う、恋心も。大切な人を失った衝撃も。しかし、時間と共に移ろうことが、変わらないという現象も見せています。それは時と共に変わっていなかったという

を見せているのです。変わることも、変わらぬことも、時があるから、そのように認識されます。
 そのように世界を分析した人間が、どのようにして変わらぬものを生成するのか、その方法を考えました。人から分離すればいい、時間を持つ体からその一部を切り離せばいい、そう考えました。思いや言葉は、人から離れ、人に取り憑く性質を持っていました。その瞬間、それらは変化しないものになることを、その人間は気づきました。人に属するかぎりは、各人の体に侵入しているかぎりは、それは変化するのですが、まるでその人の周りでふらふらと浮遊していたり、その人が信仰を持っていたりすれば、思いや言葉は所在をなくし、人と共に変化しなくなるのです。
 そうした変わらぬ思いや言葉には、不思議な魔力が掛かりました。現実を変えたり、幻を見せたり、あるいは生き物の生死を自由にしたりするほど大きく働きました。今は、その魔法の力は減衰していますが、かつては、こうした人間にはどうしようもできないほど制御できない力が世界には働いていました。その時代、オグは生まれました。人は、どのようにしたら魔法が掛かるか考えました。魔法の存在を人が気づく前は、それはいつのまにか、掛かっていたのです。思いを、言葉を、封じて繰り返すこと。隔絶したところで、それを念じること。そうすると、どこからともなく同じような思いたちがやって来て、世界に働き掛けるのです。
 すると、世界は改変されました。いえ、正しくは、人間が意識する世界が改変されたのです。
 魔法の働きについてこれ以上詳しく述べることはここではやめましょう。オグは、この魔法を生成する過程そのものを閉じ込めた産物でした。つまり、魔法の触媒となるために、一定の思いを集め、変わらぬようにしたのです。それは決して悪の意識を集めたものではありませんでした。ですが、世界を改めようとするような

ですから、邪まではないものではありませんでした。
 オグは、人の様々な思いを叶えてきました。つまり、彼は世界を変えてきました。そしてそれが変えた世界の様相は、人が自分の思い通りに変えてばかりいたものですから、だんだんと動かなくなっていきました。魔法が効かなくなっていったのです。次第に彼は世界を変えたく思う思いばかりに強く反応するようになりました。それが、たとえそれまでのように現実に世界を変える力にならなくても、彼はその思いを実現させてあげようとしました。
 それははじめから人の悪を唆していたずらに誘惑したのではありません。それは人の悪に、反応するようになったのです。そして、それが今まで実現させてきた思いたちは、善の思いも確かにありましたが、世界を変えてしまったという意味では、その思いを持つ人間のみが願ったことだったという意味では、他者に向かっては果てしなく邪まなことをしていて、人から離された思いの束は、どこかに収束するという具合にはなりませんでした。それらは集合こそすれ生命のように循環しませんでした。
 だから、いつまでも、この世に留まり続けました。はじめからそのようになるよう生み出されていたのですが、そうして生み出される前に、すでにそれは、この世に留まり続ける性質を持っていました。思いは思い自身を振り返りません。言葉は言葉そのものを省みたりしません。反省するのは、それを放った人間自身、それを思い知った人でした。オグに収束した意識は、次第に、生まれ変わった者たちにも働き掛けます。彼らの前世が受け取らなかった意味が、そこで再度実現されます。都合のいい願いによって何が起きたか。変えてしまったものがどんなことを犯したか。
 忘れてはいなかったのは生まれ変わった魂たちでした。それは思い出したのです。オグによって刺激されて、自ら離した思いの意味を。
 そこは時間が流れる世界でした。魂は知らぬ間に成長していました。離すばかりであった思いたちは、よほど人間が向き合うことのできないものばかりでした。しかし、魂は成長します。そして
 離れた意識はそれが人から離れた存在だったと自覚していきました。魂が前の世の思いに触れた時、それがどのようにこの世に縛られていたかを見た時、前世は来世を更新します。人から離れた人の一部もまた。変わらぬものが、変わらぬことを、自覚していったのです。
 オグは、自分が人間の意識だということを自覚していきました。ずっと変わらずに保存されている、人に魔法を掛ける力の源であることに、それ自身が気づいていきました。そして
 それはその中にいる無数の意識たちの共通の理解となりました。その時に、オグは、巨大な眠りを求めました。アラルと同化したオグは、彼女の一件があって、本来ばらばらであった自身の身体に気づきました。一人一人の思いが目覚め、変わらぬものたちが、絶叫をして。
 オグは、三百年以上もの間ずっと地下でひっそりとし続けました。その間にそれは人に悪を働きませんでした。なぜ、イアリオが誕生してそれは目を覚ましたか。それは還ろうとしたのです。
 それは、どこへか。彼は、目を覚まし、古代の洞窟を彷徨いました。そして、幾人かの人間に出会いました。彼は彼らを食べました。あの二人組の盗賊や、テオルドがそれに触れられる前に、それに取り憑かれた者たちがいたのです。ですが、彼らは目立った悪さらしい悪さをしませんでした。
 オグは、彼らの身体を透過して、取り憑くのをやめました。なぜなら彼が求める人間の体ではないからでした。オグが侵入した体は悪人とも呼べる者たちでしたが、それは町のルール上許される程度での悪いことで、人を殴りつける親方であったり、食べ物をくすねたりする小者であったり、恋敵を自殺まで追い込むような嫉妬狂いだったりしました。町は、悪いことは大抵許しました。懲役に近い罰は設けていましたが、町から追い出すことはできませんし、死刑にするべき罰は地下の黄金に欲望を刺激されるかこの町の外側に出て行くかに限定されていたのです。オグはもう自分と共に苦しむような魂しか相手にしませんでした。いいえ、それはずっと、自ら犯した悪に向き合えるような人間しか相手にしませんでした。
 それはそうした悪を内包していたからです。世界を変えるほど強大な思いしか食べてこなかったからです。そして世界の改変を望むような思いは、残り、後の、来世すらも御してしまうほどだったのです。そして世界を変えてやろうとするほどの思いを持った魂は、来世にもその宿業を背負ったのです。あの二人組の盗賊は、どちらも前世を怪物に喰われていました。二人はただの盗賊ではなく、盗みこそ手段として、より大きな目的のために動きました。彼らは、自分たちの冒険と生業に完結を望みました。この街の歴史を知って、十分な満足を得ようとしたのです。
 彼らを見て、オグは、彼ららしい完結をしてもらおうとしました。その結果、彼らは町人に殺されました。死滅した街の歴史をここから持ち出すということは、町の破滅に即つながっていたからでした。
 それがテオルドに取り憑いたのは、明らかに少年の身体が過去の亡霊に呪われ続けていたからですが、目覚めたオグは、別段腹をすかせていませんでした。むしろ、それまで食べていたものが活力となっていました。オグは、自らの破滅を望むようになったのですが、人の悪意は変わらないものであったために、変わるものを望みました。それは自らに魔法を掛けられませんでした。それは魔法を掛けようとしたのです。彼の存在に掛けられた呪われたことわりをはずして、大いなる道へ回帰するための呪文を。
 彼のために、彼とは別の存在が、同じことを願わなければなりませんでした。彼と同様の破滅を。二人組の盗賊は、そのためにオグに選ばれていました。オグの体にはもう何も入らないのですから、それ以外の存在として、この世に縛られた災いの霊として。二人は確かにそれになりました。いえ、正しくは、二人の一部がそれになりました。いきなり町人に殺された彼らは、予想していたとはいえ驚き、この街の暗闇の深さに改めて震撼したのです。そして死してこの街に保存された数多の無念の思いを聴いたのです。ここから出してくれ、我々を、光ある地上にへ、と。
 二人はその囚われと、自らにある真の思いとを比較しました。それは実は同じである、と気づいたのです。この街の歴史に相当関心があった事実は、この街に溜め込まれた闇ほど、途方もない光を望んでいたのです。秘密を知ることそのものが、解放ではなく、ただ光を求めるばかりだったのです。その光は明るくなくても良いのです。黒い光でもいいのです。「秘密を知りたい」という、魔法がありました。二人はその前世でかつて、その魔法を誰かに掛けていました。触媒を用い。
 オグは、上の町にまで足を伸ばし、人間を物色しました。町の人間はほとんどが、悪を許された人間たちでした。自分のそれなど振り返らずにいられたのです。なぜならそのほとんどがもう過去に犯されていて、彼らは、そのそばに暮らし続けていたからでした。町は小さな規模であっても活力に溢れ、この土地に限った規模まで人口を増やし、それで納得していました。外側に広がる思想や感覚など彼らには育たず、十分な生活を保持していました。つまり世界の改革を望むような意志は、この町では育たなかったのです。オグは、ここには用はないと思いました。しかし、なぜか体はその土地から離れませんでした。
 いつか、その住処に子供たちが出入りし始めた時、それは遠目から彼らを観察しました。彼らに圧しかかろうともしました。オグは、子供たちを欲していました。上の町に出向いた時も、それは子供たちを中心にして見ていました。それは昼間の光には紛れてしまって思うようには日中は外に出られませんでしたが、彼らの賑やかな笑い声や、途方もなく純粋な叫び声は、その心を温めました。意識は意識の外側を求め出していました。自分以外のものが、自分と同じようにそこにいることを、それは感じ出していました。螺旋。
 なぜそれは周りの世界を変えてしまおうとするばかりに強い意思を持ってしまったのか。自分の思い通りに世界を変えようと。それは
 自分の思いが叶わなかったから。叶わないと、知ったから。だから。人は
 愛らしい絶叫をするのです。
 どうして自分の願いは叶わなかったのか。誰かがいるから。他者が、いるから。
 だから、他人と願いを一つにしなければ、思い通りには動かせない。なぜなら。
 動かしたいのは、人がいる世界だから。誰かがいなければ、人は願わないからだ。しかし。
 言葉がなければ、人は願えない。たくさんの人間が使った言葉がなければ、それを望めない。たくさんの
 人間がいなければ、人は何か願うことはない。願うとは、たくさんの人間の思いを聴くことでもあるのです。そうでなければ、人は、願えないから。螺旋。オグは
 たくさんの人間から成り立っていました。それはそれが生まれてくる最初の時から。それは最初からたくさんの人の思いを吸い取る存在として誕生していたから。しかしそれは本当の願いが叶うということが分かりません。螺旋。この世界に産まれてくることそのものが、願われたことだと。勿論
 子供たちのはしゃぐ声を、その明るい純粋な何も知らない声色を、忌み嫌う輩もいます。ピロットやテオルドは、それがどうも癇に障ることが多かった子供です。何も知らない、ということを、孤独に何か知っている者は、馬鹿にします。イアリオは何も感じませんでした。それが当たり前だと思っていたのです。はしゃぐことも、ピロットのように、よく怒ることも。テオルドのように、暗がりに身を潜めることも。当たり前のように。螺旋。この世界はたくさんの人間から成り立っていました。そうでなければ、人は、生まれてきません。
 そうしたことを、おそらくはイアリオは知りに行くために、この町を出て行ったのでしょう。いえ、本当はそう感じていたことを、よく知るために。知るとは恐ろしいことでした。なぜなら自分の姿もよく知ることになるから。人の、影なる姿もよく分かるから。ピロットは、このようなイアリオの歩みを先行しているようで後追いで追っていました。彼は分からずに、彼女のような姿勢を取っているのです。強烈に
 魂が、惹かれるということがあったから。多くの人がいなければ、孤独は感じられないから。自分だけの感覚というものを、自分だけの感情というものを、大事にはしないから。その他大勢と共有する感覚で大丈夫だから。
 人は、一人一人が違う。違いながら、意思を疎通する。だから。産まれてくるということを。
 人は、選択をしませんでした。何かと同じ人生をこそそれは望みました。いかに今世が悪かったか、それは反省しました。生まれ変わるなら何かになりたいとそれは願いました。何かと同化したい。願いを叶えたいと。自分が生まれてきたことそのものを、それは肯定しなかったのです。自分を変えるとは。願いが叶うとは。何を滅し、何を否定し、何を変え、何を
 変えなくするものなのか。自信を持つ。願いが叶う。それは成功と謳われる。しかしそれは何かと同化していることに他ならない。

 おそらくは願いの叶わなかった白い霊たちは、ヴォーゼに連れられて、繰り返し子孫の町へやって来ました。ところが、オグが目覚めてから、子孫よりその悪の怪物に気を取られる者たちがいました。彼らは何かに同化できなかった者たちです。成仏ができなかった意思たちです。三百年より以前…まだ彼が活動していた頃も、彼らはそれに関心を持ちませんでした。オグの方が、生きている人間に用があり、白霊たちもまた生者に思いを聞かせることが慰めとなったからでした。
 白霊たちは、集っているとはいえばらばらでした。それらはヴォーゼに声を聴かれるようになる前は、そこにある扉を開こうとそこに集まっているだけでした。そこには扉がありました。あの世の道を開けるはずの、いかめしい、人工の門が。町から北の山脈の頂の、その上に、人の目には見えない門が。
 白霊たちは、人間の思いの残滓です。それらはオグに取り込まれることなく、この世を彷徨うようになった呪縛の霊たちです。それらははじめ、この世の世界を彷徨していました。各自、ばらばらに。それが、あの門をつくられてから、その門の下に集うようになりました。その門は、いわゆるレトラスと呼ばれるようになった意識の大河に帰還するための道標でした。その大河は、人が、真に死を迎える前訪れるだろう、あらゆる霊が源に向かって還ってゆくその流れでした。かつて、人間はこの流れに望みを持ちました。なぜなら強く魔法の蔓延った時代、自分の霊がこの世に縛りつけられ、還れなくなるということが分かったからです。魔法の時代、人は様々なひどいものを見ました。
 その当時の影響の抜けないイアリオの時代の人々は、まだ、人が魔法を扱えていた時につくられたものにその身を左右されました。白霊たちは、旧時代の者たちもその中にはいましたが、その変わらぬものという性質のために、人の魔法の影響を強く受けました。大河に還るための門は、その魔法によって開けられる。つまり、多くの人間の思いが身を一つにしてそれを願えば、その門は開かれる。
 人間はこの仕組みに望みを持ちました。そして、これまで何回か、その扉が開けられたことがありました。それは三回ではありませんでした。
 しかし、何をもって、人は魔法を掛けられるのでしょうか。同じ思い、同質の願いでもって、それは掛けられました。人間の世界を構築する意識というものに働きかけて。世界を構築する意識を捻じ曲げて。一度掛けられた魔法は、なかなか解くことはできませんでした。もし、それが解けるとすれば、術者か、あるいは掛けられた者が、魔法が掛けられた仕組みを克服することでした。その思いの繰り返しをほどき、共感することでした。
 たくさんの思いを、笑えることでした。それは許すことでした。
 人はなかなかそれを笑えませんでした。なぜなら究極の思念であって、そこに到達するまでに、犠牲があったからです。そこに到達して、手に入れたものは、世界を変えなくてはならないという変わらぬ願いでした。人は
 自分が黄金を生み出していると気づきません。究極の価値を。オグは、その唾液からゴルデスクというまがいものの黄金を生み出します。彼の通り道は、銀を真似たフュージという金属がどこからか根を出して、人間を引っ掛け、虜にしました。確かに変わらぬ願いはたくさんの願いを叶えてきました。いいえ、


 そのいびつさは彼の身体に保存されてきたものでした。叶えようとする心が、悪意が、保存されてきたのです。同時に
 叶えられなかった、叶わなかったという、絶望をも。人は変わらぬものを求めます。安心して、生きていたいからです。人間は、願いが叶うことを求めます。なぜなら環境を変えたいからです。それは当たり前のことで、不可思議なことではありませんが、不可思議なことが起こることを、その思いは準備します。霊の束縛を、それは実現します。オグも、白霊たちも、そのようなこの世の仕組みに囚われていました。
 オグがいる棲家に、ふらふらと女性の幽霊が彷徨ってきました。彼女は白霊たちの一員でした。がりがりに痩せて、おぼつかなげな目をしていました。恋人に裏切られたのです。身も心も相手に捧げたのが、別の女に子供をつくられて、別れることを望まれました。その男性は実直でした。ですからいくら彼女の気持ちを分かっていても、子を産んだ方の相手を選んだのです。
 この時にもし悪を働いた存在がいたとすれば、男性との間に、子をもうけた女かもしれません。真実を言えばその女は以前子を堕ろしていたのです。それで、その女は別の男と別れていました。女はその実直な男性に甘えたのです。か弱く、切なく、必死で。命を懸けて。
 子は誕生し、男性はその女を選ばざるをえなくなりました。男性の恋人であった、思いを残した女性はその全部の経緯を知りませんでした。驚愕の進展に魂が
 変わらぬことを望みました。癒されることを望みませんでした。
 彼女はオグの元にやって来て、それに同化しようとしました。彼女の思いを勿論ヴォーゼは聴きました。その女性の霊はイアリオの元にも集っていました。そして、変わるべきは自らだとそこで感じました。滅びるべきは自分だ、そして周りに集う者たちも、皆それを願っていると。
 彼女は先行して動きました。なぜならこの苦しみが自身に還ってくるように(魂が成長して)感じられて、耐えられなくなったからでした。レトラスに至る大門を、オグも白霊たちも皆開けようとしている、いざその時が訪れることを、待つこともできました。混沌とした、混然一体たる意識の坩堝に自ら入って、その後の死まで、消滅まで。ですが
 その時を待たなくても、オグの中には、あらゆる悪を向いた意識がありました。彼女は悪を望みました。悪は希望を聴きます。それが実現しなくても、それが実現するように、あらゆる手段を使います。その女性の霊はまだ新しい死霊だったかもしれません。まだ新しい時代にその死霊は生まれました。新しい死霊はオグに吸収される素質がありました。オグは、生きている人間を死なせてその無念を喰いますが、魂が新鮮であれば、人の願いを叶えるものとなるためその新しく生まれた

変わらぬ思いを集めるように、旧時代にそうして魔法の触媒となるよう、人間につくられていたからです。
 オグのそうした資質は変わっていなかったのです。彼の中身は総じて絶叫を上げていて、自分たちの死を望んでいても、その集合が手を振り上げれば、未だたちまち人間は虜にできるのです。そうした呪いの呪縛が彼には掛けられていました。
 その女の霊のように、白霊の中で、待ち切れず、彼に思いを吸収されてしまおうとした者たちがいました。一度自らの抱いたものが無念であったと気づいた者たちは、滅びるべきは自分だと感じた者たちは、自身が時間の世界にいることをただならぬ脅威と恐怖に彩られて見るようになったのです。自らは変われないから。ならば
 何かで塗り潰してくれないか。彼女らはかつてのテオルドと同一のことを望みました。
 愚かな魂はイアリオたちの目の前で、オグに吸収される儀式を行いました。オグは、彼女らの目の前に現れ、その魂を自分に取り込んだのです。
 忘れてはなりません。オグは、あらゆる人の悪意を内包しています。その女の幽霊の持つ悪も、実はその身体にはありました。彼と一つになった女の霊は何と実は出会っていたか。彼女が囚われていた思いは本当は何だったのか。その後オグはその霧の体を崩して方々に流れ出しました。そしてその場に居合わせたイアリオたちに向かって粒子の触手を伸ばしました。
 ハオスはこの時オルドピスに帰っていました。彼はこの瞬間を目撃していませんでした。歴史ある彼の民族の時代にも、見たことのなかった、かの悪魔の生成する瞬間を。悪とは
 己を騙すことを。それこそ生命の躍動なることを。悪とは世界の改変である。そして

排斥であると。
 女の霊は新しい記憶に塗り潰されました。そして、何か新しいものに生まれ変わりました。女は

忘れて新たな存在となったのです。誰かの願いを叶える者となったのです。他の誰かの世界を変える者になったのです。
 それが悪だとはなかなか人は分かりませんでした。それは善にも見えるのです。それらはそこでは区別されませんでした。しかしそれは笑えます。なぜなら可笑しなことだから。
 そしてオグはそれに共感します。彼はそれを笑いました。間違った快感を貪り喰らう者を。彼はそれを分かり過ぎるほど、よく分かっていたから。ですがよく分かり過ぎるほどだから、体を、心を消滅したかったのです。変わりたかった。何か別のものに。
 彼は思いがけず再び人間の悪意を実現させたのです。もうよかったのに。誰かの、思いを叶えるのは。彼はもだえました。霊がうたって溶けました。自分自身の
 一部の中に。そうです。女の霊は、その自分の一部に、こうして入り、身を塗り潰したのです。そして、その自分自身の一部は、遥か遠い時代を経て、もう、十分なくらい育ちました。自らが死ぬことを望むくらいに。
 いくら魂が変遷しても、間違ったことはしてしまうのです。育ったのは霊魂であっても、成人した者ほど、過ちを犯すのは不思議ではありません。この世は誤った導きに満ち溢れているのだから。

 速やかにオグは溶かした体を流しました。まだ苦しみは継続していました。苦しみはなくなりませんでした。別のものに塗り潰されたというのに。
 オグは、経験をその身体の内側にいる者たちに共授しました。そのような魔法が掛かっていました。魔法の掛かる恐ろしさは、その願いがもたらすものが、同じ願いを持った者同士に共有され合うということです。変化の後の世界を、認識させ合うということです。オグは、ただの悪魔、怪物というだけではありません。それは人から離れながら人の意識の記憶を持ち続ける。だから、彼は消滅せず、彼と出会う人間は、彼のことを思い出すのです。
 彼は霊と合一するたびに、経験を共有し合いました。苦しみを失くそうとして、犯した過ちを。苦しみはなくなりませんでした。なくなるのです。以前の自分が。そして、以前の世界が。ただそれだけでした。ただそれだけだったということを、彼は記憶しました。
 彼こそいなくなるべきでした。そうすれば、人間は彼を思い出さなくて済んだのです。彼こそいなくなるべきでした。悪の記憶などこの世にあるべきではないのです。彼こそいなくなるべきでした。そうすれば。そうすれば。
 また新しい悪が誕生して、人間を、責め続けるから。世界を思い通りにしようと、人間は容易く画策するから。過去を忘れようとして、未来を創ろうとするから。魔法を掛けたくて、魔法の掛け方を勉強するから。生き生きと命が躍動して、なにものにも縛られず、愚かなことをするから。
 受け入れるということを、放棄、できるから。そのような思いの塊でした。彼は受け入れたくない人の思いの塊でした。しかし。テオルドがこの町で気づいたように、この世は、彼を、受け入れている。時間は、その器をつくっている。変わらぬということは、何か。それこそ変わらぬことなのです。人が、繰り返し生を受けているということ。そして、悪が、この世に留まり続けていること。ピロットが地下街で絶叫したように、オグは体を溶かしました。螺旋。速やかにその黒い腕は相手を探しました。相手はいました。すぐそこに。
 イアリオがいました。そこには、かつて、彼が中に入った魂が。彼はその中で安らごうとしたのです。彼は彼女に入って生まれ変わろうともしたのです。まるで
 まるでピロットのように。まるで。まるで、受け入れられる器をそこに、見つけたかのように。注ぎ込もうと。自らを。
 ピロットがそれを拒みました。ピロットはそれを制止しました。彼はもう一つの目的を果たそうとしていました。それはもう一度彼女を目撃する機会が得られた時、彼女のことを忘れようとすること。出来心のような恋を断つことでした。彼はそのためにまた海の外からこの国へやって来ていました。地下の暗がりを通り抜け、地上へと現れようとしていました。その時、イアリオは他に子供たち二人を連れて、ここで行う最後の探索に来ていました。彼女は町から出て行こうとしていました。彼は、ピロットは彼女の足跡を見つけました。それが彼女の足跡だと分かりました。薄暗がりで、奇妙にへこむその土の地面を、彼は新しいものと認識しました。暗き街にはところどころに土が撒かれていた場所がありました。岩壁を砕いて掘り進んでいった街ですから冷たい地面に人は素足を触れさせるばかりだったのですが、そこに暖かい土の温もりを求めることがあったのです。そして、どこからか迷い込んだ種がその土に、発芽し岩窟内に咲くはずもない花が時折咲きました。光を求めない、植物がそこに根付きました。
 地下街は上の町の守備隊が監視にやって来るところでした。ですからその足跡もあるはずでした。彼女の踏んだ跡などそれに紛れていたでしょう。彼が見つけた跡など本当に彼女のものかどうか分からないはずでしたが、彼は、それを見分けました。
 彼は、その後をついていきました。すると、足跡は地下のさらに地下の、怪物の棲家に続いていました。彼もずっと訪れていた、子供らにゴルデスクの塊を授けていた古の横穴のある所に。彼は悲鳴を聞きました。こちらに向かって走って来る足音を聞きました。複数の足音でした。彼は通路の端に身を寄せました。松明の明かりに現れたのは、彼が避けようとしていた、彼がもう一度会わんとしていた、その相手でした。ピロットはその相手の背の向こうに白い影を見つけました。それは増えていって、ざわざわと、生き物のように冷たい触手を伸ばしていました。
(この者の中に入ろう)
 彼は刹那にそのような生き物の声を聞きました。
(欲望を叶えるために。あらゆることを許されるために)
 悪魔とは神聖なる生き物でした。それは神の懐に生まれたのです。神の、懐に。それは人間を誘惑して、自分の思い通りにしようとします。そして、人は神を裏切ったことを知る。
 いいえ、人間は、それを生み出しています。生み出した後、知るのです。自分の神を、裏切ったと。人間から離れた悪は、それを知るのです。だから元に戻らねばならない。元に。元に戻るためには。彼は
 その方法を知りません。その方法に準拠するやり方は知っています。混沌へと還ること。どの混沌へか。彼は
 知りゆく者でした。彼の経験は他の追随を許しません。だから彼は孤独でした。だから彼は道を見失っていました。彼しか歩んでいない道のりを辿っていたからです。
 母を。母を。どこかにいる母を。どこかにいると分からない母を。彼は、彼らは
 彼は、ピロットは見つけた時、それを求める方法が、判りませんでした。なぜなら彼らはいつ母親から離れたか分からないからです。生まれた場所を捨てて、立身したその瞬間、縁を断ち切ったからです。それが生を否定することだと彼らは判りませんでした。ですが肉体は転生を繰り返すのです。かつてそれが入った霊魂も、それがかどわかした醜い心も、それが滅ぼした人間の魂も、それと同一化した一部の主も。この世は人間を肯定し続けていました。懐に彼らを生まれ変わらせていました。自由の正体はこれだと彼らは気づきませんでした。彼らはこの世で何をしても自由なのです。なぜなら
 再び彼らはこの世に生まれるから。そして、彼らが関わった人間の社会に、変わりゆく時間に、時代に、また触れるからでした。
 あるいは彼らのからだそのものが母となる器だったと言えるかもしれません。そんなことは、当然彼らは知りません。別の人間に、彼らは母を見出すのです。彼らは
 認められたかった。誰かに話を聞いてほしかった。元に戻りたかった。もう苦しみたくなかった。彼らは混沌を欲しました。オグも、ピロットも。そこからまた生まれたかったのです。ですがテオルドは違いました。彼は器を知っています。変わるべき人の気持ちも、変わりたくある時代の流れも、変わろうとしない古の思いも、呪われた思念も、


 テオルドと同じようにそうしたこの世の理を知りに行く旅を控えた人を、二つの存在は、求めました。オグは、彼女が転生した時に目覚めましたが、彼女の肉体の成長をそうして待ったのではありません。彼は、待ったのです。自分が、生まれ変わる時を。すなわちそれは、いつなのか。彼をつくり上げた魔法というものが志向するレトラスという大いなる流れに、彼は戻ることを求めました。彼を生み出した魔法というものがその呪縛を彼に掛けて、彼にそれを求めさせました。彼は
 魔法のないこの世を知りません。その影響のない物事を判りませんでした。彼はまだ自分を自分の思い通りにしたかったのです。彼は受け入れるということをわからない人間でした。勿論、彼の中にいる人々は。その一つ一つの魂は!それは悪いことではないのです。彼にとっては。それは悪いことではないのです。他の存在にとっては違っても。
 彼は思慮の足りない亡霊でした。しかし思慮の足りなさは万人に言えることでした。ピロットは生まれ立ての悪でした。彼は、待ったのです。自分が、生まれ変わる時を。彼は一度生まれ変わってしまったから。それにもかかわらず、生まれ切っていない自分があったから。
 彼女を忘れて。彼女を攻撃して。彼女を笑って。彼女を置いてけぼりにして。その機会を待ったのです。いくら自分が、この町にやるべきことをしても、その反省も、結局は、彼女が軸になるのです。

。彼だけがこの町と関わっていることにならない。それが
 恐ろしかったのです。彼が、解放してあげるべき世界は、彼女にはどう映っていたか。恐ろしかったのです。イアリオが、彼の、そう感じたすべてを判っていることが。
 彼は彼女を切り離したく思いました。だから
 彼は彼女を助けてあげました。なぜなら
 彼はまだ彼女から独立をできなかったからです。彼は
 逃げ出す三人の最後尾のレーゼの肩を掴みました。驚いてレーゼは引っくり返りました。驚いてイアリオは振り返りました。十年もの間想い続けていた相手をそこに認めました。手にはナイフを持ったまま。
 彼は彼女を切り離したく思いました。苦しむことが、素直に人生の意味ならば、絶対に、それは侵されません。ナイフの切っ先が彼を向いています。
 彼は、右手をレーゼに掛けたまま、左手をオグに突き出しました。
「これで我慢してくれよ。お前にはこれをくれてやる。そのかわり、こいつらは、俺によこせ」
 彼は彼に語り掛けました。レーゼはその呟きを聞いていました。霧の触手は、彼の腕を掴み、引きちぎるようにしました。そして、去って行きました。
「大丈夫だ。霧はもう襲ってはこない」
 彼は言いました。
「私がいるから、危険は去ったのだ」

 ピロットは、イアリオに固く抱擁された後も、ぐったりと疲れて、じっとそこに座り込んでいました。彼は、喉が渇いたら水を飲みました。オグの棲家の、地下の湖の。そこには多数の鉱物の結晶が混じっていました。その湖へと注ぐ水流の源の、狩人たちのまったく飲まない水を。彼は吐き出して、また飲みました。
「オグ、オグか…生意気だ。幻のような悪魔に、この俺がたぶらかされるものか」
 しばらくおいて、彼はそのように呟きました。失われていた記憶が完全に蘇りました。そして、彼から仮面が剥がれ落ちました。
 あの時、初めて黄金を見て、その顔に貼り付かせた悪意のマスクを。
「イアリオがいたな…この町に。あれは、何だったんだ。あいつに俺は名前を渡した。それから、おかしくなってしまった気がする。俺が俺ではなくなってしまった。だから、上の町を壊さなきゃならなかったんだ。そのために俺は来たんだ」
 彼はオグから彼女を守りました。そうして、彼自身が彼女を壊すためです。彼は彼女から離れることこそ希望したのです。どうしようもなく、ほだされてしまっているのは、彼女の、彼に向けられた情だったから。彼はまるで長い眠りから覚めたようでした。彼は石から立ち上がりました。暗闇の中をぐるっと見回して、溶け落ちそうな、火傷の後のひどい冷たさを放つオグに喰われた左腕を懐にしまいました。
「上の黄金を洗いざらい運ぼう。そうして俺の王国を築こう。そのために何をするべきか?ああ、ああ、明確だ。こうしよう。俺は、あのふるさとを破壊する」
 彼は力を失くした左腕を支え、鍾乳洞を、オグの棲家を出て行きました。しかし、出ていく所を間違って、彼は、一度も行ったことのない横穴にふらふらと侵入しました。イアリオが長い夢に見た、アラルが青い幽霊と刃を交わした、川床の小島へと向かったのです。
 彼の目に光が飛び込んできました。そこは海の、なんともいえない、自由と悪とがきらきらと輝いてはいず、純粋に大地の上で浴びる、暖かな陽光だけが、ありました。彼の脳裏に、十年以上前泉のそばでイアリオに倒された思い出が蘇りました。木立の柱から降り注ぐ木漏れ日。やり返す気のない敗北。その時、彼は、記念に一本枝をその土へ突き立てていました。…生まれ立ての彼は、泣き出しました。そうして彼は自分の来し方を分かりました。生きるために、彼はこの道を選んだのです。



 これより三年後…つまりは、イアリオが町を出て行ってから、三年の後、レーゼは、月の無いイアリオと約束した日に、北の墓丘へ向かいました。その時、彼の顔は、かわいそうになるくらいに窶れ、今にも消えそうな、灯火のごとく、生命が、尽き掛けていました。



 イアリオたちは、地下で出会ったピロットからゴルデスクの塊を貰っていました。それを、外で眺めてみるといいと言われました。オグはまさにその石だから。
 シオン=ハリトは、イアリオからその石を預けられました。彼女がいなくなってから、ハリトがこの石を彼に返すよう頼まれたのです。でも、彼女は、ずっとその石をいじっていました。まるで、それがイアリオの形見でもあるように?いいえ、この石に、ハリトはずっと魅入られていました。
「オグはこの石…?何だってんだろう。本当にこの石、あの不思議な岩場にあったものなのかな」
 ハリトは鞄にゴルデスクを戻しました。ゴルデスクは、静かに、奇妙に、鞄の中で青白い光を放ちました。石は宿主を選びました。もはや、イアリオもピロットも、そしてテオルドも、黄金からは遠ざかり始めていました。
 再びピロットに会うために、ハリトとレーゼは、イアリオと共に入っていた馴染みの煙突の先端の出入り口から、地下へと降りました。
「そういえばさあ、お前…」
 レーゼが声を掛けたハリトは、以前にも増して大人っぽくなりました。勿論、成人の儀を越えたから、そしてまた、イアリオが町を去っていたからなのでしょうが、上のセジルは渋めの藍色に桃色の花びらのあしらいを付けた折り返しをしており、帯には緑を締め、麻地と下の白襦袢に映えて大人しい印象を与えました。どこからどう見てもお針子のお姉さんのようです。まして、元来が狐のような吊り上がったぱっちりとした目をしていて、それが色気を出してきたものですから、ハリトは、触れたくても触れられないような妖艶な孤高さを醸していました。
「ずっと前に、ほら、オグに触れた時…お前、俺を一人で地下の街へ連れてったろ?海が見える、あの穴からさ。その時の目的って何だったんだ?」
「ああ、あれ。今更、何なのよ?」
「いや、気になってさ」
 その時と今、イアリオなしで二人で潜ろうとしているから、とは彼は言いませんでした。ハリトは少しむっとしてレーゼを見ました。
「…何だよ」
「別に」
 ハリトは軽やかに煙突から工場の床に飛び降りて、レーゼを連れて、ピロットがいるはずの湖の向こうの鍾乳洞を目指しました。ゴルデスクが奇妙に光り始めていました。
 彼は、いました。しかし、ぜいぜいと息をついて、苦しそうでした。彼は、あの川床の小島から戻ってきて、まだそこにいました。
「ピロットさん、どうしたんですか?」
 レーゼが彼に駆け寄り、岩にもたれかかったピロットの体を助けようとしました。
「痩せまくっている…あなたがここで、ずっと過ごしてきたのなら、何を食べていたんです?教えてください!」
 その隣で、ハリトはふくれっ面をしました。影に隠れて、その表情はよく見えませんでしたが。
「助けようよ。私たちの家に連れていこう。そこで、食事を摂らせて、話を聞けばいいでしょう?」
「いや、そうはしない」
 レーゼはきっぱりと言いました。
「彼が求めればそうする。イアリオもそう言ってたろ?」
 ハリトは苦虫を噛んだような顔をしました。折角、今は、レーゼと一緒にいるのに、二人っきりで、二人でここに臨んでいるのに…!
 ハリトの中に、歪んだ意識が入り込みました。ハリトはそこで、オグに触れられた時の感触を思い出しませんでした。彼女の鞄にはゴルデスクの塊がありました。今、その所有者は彼女です。イアリオに手渡され、それをピロットに返すように言われた黄金が…。
 さてその所有者は誰でしょう。元々は?一体、誰のものだったのでしょうか。ハリトは、暗闇の奥に無数のこれと同じ光を持つ石たちを見つけたような気がしました。実際、その空間の奥には、ゴルデスクとフュージの鍾乳窟があるのですが。そして、そこにはたくさんの人々の遺骸もまだ眠っていたのですが。すべての人間がある一人の人間から生まれたとする、あの神話が本当なら、それは元来その人のものだったのでしょうか?では、今は…?現在は、無数のものに散らばって、それが大きく一つのものに集合しています。その光は、暗闇に紛れて、ハリトのその表情のように、よく見えませんでしたが。
「こっちを見ている…」
 ハリトは、苦しげな表情の中でもこちらを見上げようとしたピロットを見て、言いましたが、本来の彼女の意識ではない別の意識が、そう言わさせていました。ピロットは、もやもやした頭で、必死に目の前にいる人間の姿を確認しようとしていました。ハリトは彼を覗き込みました。彼の前で膝をついて、その顔を優しく撫でました。黄金が、彼女の瞳の中で光りました。そうです。ようやく、彼女はイアリオの手元から、彼を奪ったのです!
 彼女はにやりと悪魔のように微笑みました。
「持ってきましょう。パンを、今すぐ、上の町から」

 二人がその鍾乳洞へと戻った時、ピロットはもうそこにいませんでした。…ハリトから見たピロットは、痩せ細った普通の男のようでした。彼女は彼に何の魅力も感じませんでした。あのぎらぎらした妖しい瞳も、男らしい危うさにも。それらはすべて、イアリオに食べられてしまっていたのです。もはや、ハリトはイアリオから色々なものを預けられていて、彼女がいなくても、彼女のように、振舞えるだろうと思い込んでいました。レーゼに対しても。
 一方、レーゼにとってピロットは、言わずもがな、イアリオが好きになった相手だということだけはあるなと認められました。彼が、何をしたかレーゼは承知していませんが、彼女との深い結び付きを間近で見つめて、あれだけ美しい瞳をイアリオにさせた男性に、彼自身、尊敬の思いを抱いたのです。レーゼは彼のことが大事になりました。でも、ハリトには、彼はなくてもいいものでした。
 イアリオと名渡しの儀式を行ったピロットはその名を海の外で別の人間とも与え合ったことで、シュベル以上に魂がばらばらに引き裂かれました。いいえ、彼は元々誰にでもなれる資質を得ていましたから、亡霊に取り憑かれることも得意なほど、人間の心が分かるほど、優し過ぎて、自分を明け渡す才能に恵まれていました。彼はビトゥーシャの魂に触れ、その想いに理解が増すほど、それと同様の質を持ったイアリオという魂が彼の中に忍び寄ってきたのです。いいえ、人間悪を体現したような女性の影は、彼女の過去世にいくらでもいた陰影でした。彼女は繰り返しその生を経てきたのです。だから彼が解ったのは、彼女のほんの一部でした。これから彼女が分かりうることは、彼にも影響を与えていました。
 彼女は彼の理解者でした。しかし彼はそうではありませんでした。彼はビトゥーシャの理解者でした。彼は海の外でそうして恋人を、そして母親を、見つけたと思いました。そうではありませんでした。悪の女は彼に魅入られ、彼を産み落とすはずが、彼女こそ新しく生まれ落とされて
 彼はその女の理解者でしたが、はたと、生まれ故郷に面白いものが待っていると感じました。海の外で、自由に行っていた悪とは違う。その悪を包括するもの。その悪を跪かせるもの。それはオグではありませんでした。テオルドが言っていたような古い怪物ではありませんでした。もっと巨大なもの。怪物をこそ産み落とす
 町をこそ産み落とす。それは自分たちでした。人でした。過去の自分たちでした。三百年前の祖先たちでした。人は悪に呑まれるものの、それを自由に産み落とす存在でした。彼の目の前で人は容易く悪に染まり、海外でも、戻ってきたふるさとでも、彼の思い通りに彼らは動きましたが、はじめから彼は彼の思う通りに動かない存在を知っていたのです。それは
 彼と名前を交換しました。彼は向こうの名前を受け取りました。彼はその相手を失念しました。古い、古代から続くような記憶が、彼の思い出を邪魔したのです。彼女を思い出すことを彼は恐れました。人は神を恐れるのです。それは
 生まれたばかりの自分たちを古くから見つめているから。彼は
 イアリオと相対しその名前は覚えていたものの自分のことを忘れました。彼は彼女から生まれてきたようでした。自分のことを忘れたのは自分がまだ生まれてないからでした。彼女から。この暗がりから。
 自分のことを忘れたのは自分がまだ生まれてないからでした。ハリトは、レーゼに抱かれていい思いをしたものの、段々、物足りなくなっていきました。それは、レーゼすらも、ピロットのように彼女が尊敬した相手に食べられてしまっていたからでした。彼女は憂鬱な思い違いの巨大さに苛まれるようになりました。彼女は本来の彼女の大きさを感じられなくなりました。まるで、そうとは知らず、あの暗黒の地下をその胎内にしてしまう恐るべき大母のようになっていました。
 レーゼにとって、ハリトは守るべき存在でしたが、それが、愛の対象になっていたかといえば、決してそうではなく、それが彼の苦しみになりました。本当に心からハリトを好きであるか、好きではあるが、それはどの程度かということが彼の課題となったのです。ハリトと、イアリオとを比較して並べるようなことはしませんでした。彼女は彼にとっていまだ大きすぎるのです。ところが、ふと、抱いているのはハリトではなく彼女であるような錯覚に陥ることがありました。それが彼の本当の望みでした。
 彼は、泣きました。ハリトは彼女から預けられたのでもあったのですから。彼は、彼女との約束を守らねばなりません。彼は、その言葉に偽りなく星々に宣言したように彼自身を貫かなくてはなりません。時に感情と言葉は裏腹になっても、通すべき筋というものを彼は大事にしました。
 ですが、大なる乖離は始まりました。彼は、心にイアリオを置きながら、ハリトと眠っていたのです。

 イアリオがいなくなったことは、確かにちょっとした騒ぎにはなりました。しかし、その騒ぎもすぐに収まっていったのは、彼女が、確かに出掛ける準備を着々とこの町で行っていたということが、わかっていったからでした。彼女がいた職場では、滞りなく彼女の仕事を引き継ぐことができたし、何より、彼女がいなくなっても不安にさせない気配りまで完璧になされていました。大勢の人が、彼女が町から去ったのは、彼女の結婚に関することだと疑っていませんでした。多分、イアリオはオルドピスから来た人間にそのような好意を持ってしまったんだ、それで行ってしまったんだろうと。覚悟の上だったのだと、彼らは考えました。なぜなら、オルドピスについて彼女は議会に何度も尋ねていましたし、かの国の人間に、彼女は議会を手伝っていた時に会っていましたから。それに、長らく一人で地下に潜っていたのも、やはり、あのピロットとの思いに決着をつけるためだったのだろうと、町の者すべてが想像しました。実は、そのように彼女が自分からほのめかし、彼らがそう連想するように誘導していたのですが。
 勿論議会は彼女の脱出を問題にしました。相応の処置をオルドピスに頼むとともに、彼女に親しい人間を呼び出して詰問もしました。また、北の山脈のふもとに暮らす狩人たちに連絡をつけて、イアリオの足跡探査に全力を上げました。でも、それが始まったのはイアリオが町から脱出して五日ほどが経ってからでした。彼女はトラエルの町からの伝令がオルドピスの駐屯地に到着する以前に、もう北の森の端の砦に着いていました。オルドピスの指導者トルムオは、町から出て以降の彼女の足跡と伝令のもたらした情報から、彼女が人々を騙しながら都の奥までわざわざクロウルダを追ってきたことを知りました。彼女のその度胸たるやいかほどのものか、それほどの行動に駆り立てたトラエルの町の実情が今やどれほど切羽詰ったものなのかを、よく鑑みたのでした。オグの人柱となったハオスから、同志たちに届けられた死後の情報も、いかに正確なものだったかを理解したのです。かの魔物が、暴れ出そうとしている…それに気付いた町の住民がいる…やがてオルドピスを訪れて、町に何が起きようとしているか、住民自らが知ろうとするだろう、ということを。オルドピスは彼女を迎え入れ、彼女のするようにさせましたが、かの町には、彼女はまだ見つかっていないと伝えました。
 テオルドは、この一件を見過ごすことはしませんでした。彼にとって、イアリオは事のどこまでを町の(街の)領分として捉えているのか、分からないところがありました。彼女の調べ物も、彼女の動向も、できるだけ把握をしていましたが、まさか町から出て行くとは予想もしていないことでした。だからといって、それが大局に何か影響を与える予想はなく、彼にとっては、瑣末事項であることは分かっていました。一人の女性がただ脱走しただけなのです。
 でも、守備隊の隊長として、彼は動きました。素早く物見を展開させて、地下にも、山脈のふもとにも見張りを補充しました。そして、ふもとの狩人たちが何か知っていることを彼は見抜きました。山の原住民は彼女について何も言いませんでした。誰も山には来なかったと言いました。ですが、そんなはずはありません。山歩きが素人の女性を見出すことができないくらいに目が鈍ければ、彼らは日ごろの食事にもありつけないのです。しかしそれは彼女が北の山伝いに出て行くことを選択した場合で、他の道筋を辿っていたならば、それは不正確な直感でした。しかしイアリオが海から出て行ったとは考えられませんでした。テオルドはイアリオを放っておくことにしました。もしかしたら、彼女はいつか戻ってくるかもしれない。僕にはそう考えられる。こう仮定できるからだ。彼女が出掛けていった目的が、地下をさらに調べるものだとしたらと…!彼は、イアリオも、ピロットも、自分と似たところがあることを思い出しました。ピロットが起こした諸事と、彼女が拵えた件のことは、同一の機軸を行っているのかもしれないと思いました。
 彼は、イアリオの件があってから、しばらくして北の山脈に再び臨みました。一人で馬を駆けさせて。彼は、山を見上げて言いました。
「ここが、小川か。いや、天を流れる乳の川か。オグが、言ってるな。ここから、どうしても出て行きたいって」
 テオルドは深く意気を吸い込みました。
「この場所が、門か。いったいどのような門だか。でも、僕にはやることがある。生きている人間が、やらなければいけないこと。それは犠牲だ。人は、犠牲になって、何かを開く。そうして今まで変わってきたんだ」
 彼は、目を閉じ、耳に聞こえる音に神経を澄ませました。遠く、空から、とんびが高く啼く向こう、さらにあちらから、何か、きらきらとした音が届くのを感じました。
「あそこだ」
 テオルドは呟きました。
「門がある」
 その門は生きている人間の目には隠されていました。霊たちが入りたくて入れずにいた、レトラスの門がそこにありました。かの扉は、死霊が大いなる大河に還るために、通過しなければならないものとされていました。大河は、いずれ私たちを産まれてくる前の元の姿に戻し、再びの生を得る準備を行わせるのだといいます。この世にずっと執着し続ける霊たちにとっては、自分たちが意思を持って回帰するのを阻む、まさに「苦しみの門」としてありました。
 テオルドの頭上には、遥か高くに、雲塊のようにかすかに両開きの扉が浮かんで見えました。そして、その手前には無数の死霊が金色に輝いていました。あまりに集まり過ぎていて、その密度が黄金色になるまでにひしめき合っていたのです。ああ、とテオルドは感嘆しました。
「国と国は、つなげなきゃ。生者と、死者の国も。そうしなきゃ、滞るんだ。あの川床の澱みみたいにね」
 彼は、ピロットよりも先に、地下の洞窟を探検していた際に(一人で)アラルが死んだ川床の小島に辿り着いていました。その川は、この世の果てから流れて来る水だと、アラルは感じていました。川上の先の方を見ると、どんよりと澱んでいるように川の水は見えたのです。
「永遠の国などあるものか。それは黄金だ。希望の果てにしかそれはないんだ。人間の、くだらない思いの中にしか存在しない。…僕たちの本当の国は、それぞれの心の中にこそあるんだ。それが、つながり合い、一つの世界を創っていく。…
 ああ、それが、光だ。それこそ僕が望んでいたもの!闇の中の光、誰もが、本当に望みしものだ…」
 彼は、馬から降り、地面に突っ伏し、ごろんとあおむけになりました。ヒバリが空を飛んでいました。背の低い草が、実を揺らし、風になびいていました。
「ここが、僕たちの故郷…」
 テオルドはうたいました。
「本当の源なんだ」

 誰かの手の平が挙がりました。それは、物言う意見の印でした。この町では、先年から、本当にごく最近になって、裁判の機会が増加していました。彼らの裁判はオルドピスにおいて採用されている方式に則っていました。つまり、裁判官と陪審員がいて、その両脇に弁護する役割の人間と罪を追求する側の人間がいて、被告と原告とが居並ぶのです。しかし裁判官と弁護士と検察官は評議会の人間が兼任しました。この町では弁舌の立つ者が議員に選ばれるのですが、当然、裁判には口がものを言うからです。
 イアリオがいなくなった辺りからでしょうか、突然、ここで裁く件数が多くなったようです。裁判は議会に併設された議場で施行されますが、その回数が増え過ぎて、予算や法律などに割くべき仕事に支障をきたすようになりました。そこで、議員ではない人間を法廷に置いて、裁判を任せることにしました。すると、少しずつ、彼らの裁判はおかしくなりました。送られてくる訴状も陳腐なものが多くなり、果てしなく、堂々巡りの議論に終始することも珍しくなくなってしまったのです。でも、いくら訴状が陳腐なものでも、訴える当人たちは、いたって本気なものですから、どうしても収めなくてはなりませんでした。
 西区のシャム爺もなんだかあちこちで喧嘩が多くなってきたことに気が付きました。皆がいらいらするようになった原因はまるで見当もつきませんが、彼自身も、周りに呑まれるようにえもいわれぬ苛立ちを募らせました。それは、この町における積年の思いが、恨み染みた感情が、募ってくるようでした。
 ぞわぞわとした手が、町を包み出していました。それは果たしてオグの手だったのでしょうか。確かにかの魔物は、目覚めてから、霧の姿で町を呑み込むことがありましたが。彼を閉じ込めた蓋はもう開けられて、その身体は、その念と共に、クロウルダの子守唄も効果なく外へだだ漏れていましたが。
 また、町に復讐を望むイラの霊もいましたが。先祖は時に、重大な課題をその子孫に課します。今までイラの思いに応えるような人間は現れなかったのでしょう。しかし、テオルドが生まれ、ピロットも、イアリオも、誕生しました。彼女の声が聞こえる生きた子孫が。そして、三百年前に滅んだ国に、取り残された思いの残滓も、忙しないオグと白霊たちのざわつきに反応していました。彼らはつたない希望を抱えていました。十二人の子供たちに、訴えたような。そしてその希望は他の者たちとも共有されているのを、耳にします。彼らのいる場所のさらに地下にも、地上にも、意を同じくする者たちがいる。そして、我らは、それらと共に戻り還ることができるかもしれないと。暗闇ではない、光ある地上へと。彼らが皆意図するところは、意味上の地上ではありませんでした。光ある場所と言っても、そこは暗がりではない場所を言っているのではありませんでした。彼らは皆心の暗闇に押し込められていたのです。過去が、過ちが、苦しみが、希望が。絶望が。それが臨む光ある場所は、どこか。まるで混沌なるあの大河なのか。それとも彼らの一部が希望した、母なるものへの胎内なのか。彼らはそばにイアリオを失くしました。彼女は自分の課題を克服するために、そこを出て行かなければなりませんでした。彼らは植物たる動物のようでした。植物のいない、動物だけの世界に彼らは住んでいるようでした。禿山の、中腹にも、頂上にも、溢れ返る生き物たちの群れのようでした。緑は一切ありません。大事な色を皆が見失っていました。植物を、逆さにすると、動物になるという話があります。生殖器が下になるからです。彼らは現実が何もかも一つに染まってしまっているようでした。見える景色は、すっかり色を失って。
 彼らは、現実を、まるで動物たちだけが住む世界のように見ていました。しかし、それは、もしや逆さまになった植物なのでは?世界中を、自分の鏡にしてしまったのでは?テオルドの中にいるオグは、彼がかつて、イアリオの前世に取り込まれたことを思い出しました。しかし、人は、人間の父親になり、母親になります。子孫が生まれます。子孫に世界を遺します。その矛盾。明らかに遺すべきではなかったものを遺してしまう因果深き人間は、ここに、存します。
「この町に、騒ぎを起こそう。もっともっと、そうだ、自分たちが閉じ込めた、人々の霊の苦しさと同じものを」
 テオルドはそのようなことを呟きました。天には青空が拓けています。
「でなければ、この町は生まれないから。町が、自分の子供を産まない。町は、生まれ変わらない。ここは、循環しない!あの門の先にも行けない。ずっと、ここに留まったままだ。人間を否定して、自分すらも成長させず、いつまで、本当にこのままでいるのだろうか。ああ、イアリオも…それに気付いたんだろうか。彼女は、確かオグだったもんな」
 閉じ籠もることは、絶望です。しかし、同時に安心を得ます。他に何も、思い煩うことはないのですから。
 でも、そうすると、身に起きた変化は分からなくなります。きっと、今日を平安に生きたいと願う思いが、そうさせるのだとしても、暗い影が、潜んでいました。究極の保守は、革新かもしれません。テオルドは、それでした。
(愛する者と滅びたっていい)
 テオルドはそう望みました。
(元来、皆が望むのはそうしたことじゃないか)
 破滅へと向かう、ある一の町の経緯とは。気をつけて。ここは、いるべき場所じゃない。どんなに望んでも、何も、変わらない。変わっていく方へしか、変わってはいかない。人は母親になろうとし、父親になろうとする。そうして循環していく。大いなる循環、それが、この町の物語でした。

 巨大な森が、ありました。そこでは、かろうじて生きている二人の人間がいました。縦長の顔、そしてつやつやした鉱物のような肌。まるで、植物か動物かわからないような姿で、ゆっくり、ゆっくり、歩いています。風が逃げていきました。彼らの声は、言葉は、忌みていて、その呪詛は聴くものを焦がすからです。彼らはそこに取り残されました。他の人間たちは皆いなくなりました。森は彼らのために彼らに渡され、その領域で、彼らこそ末代として最後の生き残りとして生きていました。
 火事があり、森が焼けて、とうとう、住む場所がなくなるまで!…そうなるのは誰でしょうか。
 テオルドは、自分がそうなる夢を見ました。単独の死。孤独なる死。オグは、悉くこのような印象を人に与えます。人は一人きりで死ぬのです。それが、彼好みの絶望でした。彼だってそうなのですから。そこでつどえるのです。一緒に同じことが願えるのです。もっともっと、巨大に思いは膨らんで、きっとそれが実現できるように!魔法の媒体として生まれた彼は、魔法の媒体になるよう集められた人間の一部は。しかし、彼が叶えようとしてきたのは、本物の願いではありません。彼の、そうした思いが永遠になることではありません。彼こそ永遠の存在となり、それが彼の身を苦しめていることに気が付いて、彼は、我が身の破滅を願いました。
 うお座が空に懸かり、月が、まあるく燐光を放っています。その下で、オグは、変身して町中を行き来しました。どこからでも家の中に彼は入られます。霧となった彼に町中の人間は触れられました。不思議な欲情と、怖い気持ちと、恐ろしい何かが自分の中に存在している気分で、人々は朝を迎えるようになりました。彼はそれまで際立った悪さこそ町人にしませんでしたが、イアリオが誕生して実は、町の中をうろつき出していました。
 しかし、彼に触れられたその感覚は、町の人間にとってはまるでずっと以前から繰り返されてきたもののようでした。実際、彼らはそうした記憶を持ちながらここに生き続けていたのです。彼らの間で舞い上がっているものは、彼らの過去です。それは、すこぶる悪意あるものでした。その経験は、確かに、それまでオグが体験してきたものとは違いました。彼は、とある町や村で少しだけ人にかかわり、決定的な「悪」を働かせるだけです。その活動が、他の人間に恐怖を伝播し、彼らが自分自身を覗き込むようにして、その自意識をかき乱すのです。イアリオが見た、自滅した村の数々は、彼らが、オグによる影響であっても彼ら自らが滅びた、その痛々しい姿でした。オグが、それを引き起こしたのか、それとも彼らが、そうしてオグを呼び寄せたか。どちらにしても、それが起こったという事実を、場は残していました。
 オグなるもの、オグという機能がこうした自らの仕事を嫌悪したかといえば、そうではありませんでした。彼は集められた力の塊で、他に力を分け与える者でした。彼が苦しんだのではなく、彼に吸収された、数多の霊たちが苦しんだのです。その

は自由を求めました。解放を望みました。とはいえ彼らは

でした。彼らはそれを自覚していませんでした。言葉とは人を動かす力を持ちます。彼らの思いも、数多の人間を唆し、力ずくで、彼らを動かしてきたのです。苦しんだ霊たちが、その苦しみを消そうとして、消したはずが、消えずに残ったものが彼らを責めました。
 さしもの「悪」は混沌を望んだでしょう。それが元来の所有物であると分かれば。ですがそれを知るのは人間でした。いつまでも人はそれを知らない生き物でした。今までは。人々は気づいたでしょうか。彼らに立ちはだかったのは彼らの過去であることを。それが、今、彼らを、ようやく苦しめられるようになったことを。もし、人が自分の子供たちに何を残すべきかを考えたとしたら、それは残されるべきものでしょうか。いいえ、悪も善も、皆残るのです。

 艶かしい、つやつやとした肌の持ち主は、笑っていました。微笑んでいました。彼女が笑っているのはすべてにでした。彼女は、自分を愛してくれる男とは違った相手と寝たのです。でも、それは、別段禁じられたことではありませんでした。かの町ではそうしていいのです。
 シオン=ハリトはそうしてレーゼを裏切りました。自分の欲望に忠実になりました。彼女は、一体、何のためにそんなことをしたのかというと、大きな大きな相手が極限まで小さくなったためでした。イアリオがいなくなって、彼女は誰を愛していいかわからなくなったのです。それまで、彼女がいなくなるまで、イアリオに向けていた思慕、そしてレーゼに向かっていた平安の感情は、その中で、寂れて萎れていきました。
 まるでハリトはオグのように、未熟なままの悪のように、体中が命を求めました。人間を求め、そのぬくもりを欲しがりました。彼女はもしかしたらこう考えていたかもしれません。自分はいない方が良かったかもしれない。振り返れば昔から自分は、ずっと他人に迷惑ばかりかけてきたじゃないか。そう考えたら寂しい。ああ、寂しい。だから求める。当然じゃないか。
 彼女が差し出した社会への手の平は、底冷えのするほど冷たいものでした。ですが、今まで彼女が振り回してきた、周囲の同年代の子供たちには、迷惑こそ掛けたことはあるものの、ずっと有益な進歩も与えていました。彼女がいることで、自分は振り回されるのを発見したのです。そして振り回されにくくなるのです。しかしハリトは自分の殻に閉じ籠もってしまいました。
 確かに迷惑だったかもしれません。しかし迷惑をかけない人間などいるでしょうか。お互いが、お互いに命を預け合っているのです。互いの道筋が、交差したその時間に。だから、何も、考えることなどないはずなのに。それが見えず、分からず、イアリオに、まっすぐな眼差しで彼女は抱き締められていました。ハリトは、その眼差しにこそ怯えたのです。それまでの自分が、がらがらと崩壊するように感じて。
 それまで、我慢して頑張っていた自分が急にみじめに思え出して。
 苦しんだのは、レーゼです。彼は、なぜ自分の恋人がこんな行為に走るのか分かりませんでした。彼女の体ががちゃがちゃしたものに見えました。がらくたの寄せ集めのように見えました。こんなにも相手には魅力がなかったかと思うぐらいに。それでも彼はまだハリトを抱きました。ハリトの方が、ごめんねと言って、彼に、体を預けてきたのです。彼女の唯我ぶりはよく知っていましたから、そのような浮ついた行為もまた彼女らしさかもしれないと思いましたが、それが、どうも裏切りを前提としたもののようにも彼は感じられました。彼が好きだった彼女は今どこかと、彼は思いました。ここには、少なくともいないように感じて。
 彼は心の中でイアリオを呼びました。彼は、約束事は決して反故できない性格の持ち主でした。ハリトと一緒に、地下の都を継続して探索すること、あの天女どもの言った予言を確かめることは、彼自身の夢と共に、大事な大事な彼の意志でした。でも、彼はハリトを持て余しました。ハリトとの約束も、彼には重いものでした。彼女のそばにいることを、選んだのは彼でした。彼は次第に疲弊していきました。彼は助けを求めました。随分友人にも相談しました。
 けれど、彼は自分自身にも気づいていました。本当は、彼の愛する人間はだれなのか…!そして、その相手を引き止められなかったことを、重い敗北にも感じていました。彼は、純粋に、己に苦しみを覚えました。
(イアリオ)
 まだ仕事場にいる方が彼の心を楽にしました。その労働の延長線上には彼の夢が輝いているのです。しかし、だんだんと彼に見せつけるようにして他の男と寝るようになった恋人は、彼の心を暗澹とせ、誰にともなく、彼は笑い者になっている自分を感じました。
(もしかして、これが)
 彼は、妄想だろうと思いながら、こんなことを考えました。
(天女の言っていた、あの破滅の始まりだろうか)
 そんなことはない、と思いながら、彼は彼自身の夢に向かって、白い町に噴水を造るという輝かしい目的に向かって、歩み続けました。そんな折、町で暴動が起こりました。

 三百年間、そんなことは町には起きたことがありませんでした。彼らは、固い結束で結ばれていたのです。だから、暴動と言うものが起きたこと、自分たちにそのような感情があったことは、様々に広く動揺を引き起こしました。その暴動はどうして起きたか、仕掛け人以外、誰にも分かりませんでした。
 その首謀者は、カルロス=テオルドでした。彼はオグと同化していました。そうであれば、それは手馴れたものでした。彼は、シダ=ハリト、ハムザス=ヤーガット、トーマ=ヨルンド、エジゲマ=カムサロスにも手伝ってもらいました。彼は、彼らとピロットが再び町に帰って来られるよう祈りながら一緒に地下世界を監視しようなどと申し合わせていましたが、彼が警備隊の長になってから、それは必要のないことになりました。ですが、四人の暗い心を彼はつなぎとめていました。勿論、彼らにはピロットが密かに帰還していたことなど知らせてはいません。彼らは不安でなければならないのです。彼らは、動物の臓物を用いてお払いに似たことをしていました。それは、再び地下に潜るために講じた供物の儀式でしたが、儀式とは恐怖も内包した段取りを経るものでした。彼らは儀式を続けたのです。彼らは小動物を殺しました。その温かい死後の内臓を、直に触れて安心などしました。彼らは、別に恋人がいなかったわけではありません。彼らは、相当な不安を抱えていても、親に大事にされてもいたし、社会に出て、極度につまずいたわけでもありません。しかしテオルドに常に極小の不安をもたらされていました。それはいつしか積み重なって、厖大にも思えるほど積み重ねられて、ぞくぞくと背筋を這う拭い去れない冷気を召喚しました。そして、その冷気は、何かの命に触れないと表に現れてくる感じの、いつもそばにある得体の知れないものでした。彼らは愛を感じるものに、その冷たい感触を温めてはもらえませんでした。
 彼らの殺した動物は、いかにも誰かに殺されたように、その無残な姿を他の町人にも見せつける場所に、捨て置かれました。テオルドは儀式以外でも彼自身が命を奪った小動物たちを、同様に、もっと町中に放り投げ始めました。
 人々はそれを奇妙に感じましたが、あまり問題にしませんでした。どうして動物たちの腹が裂かれ、その内臓をこれ見よがしにひけらかしているのかなど、枯れ葉やゴミと共に片付けてしまえばどうでもいいことでした。ですが、これを見た人々は、気味の悪さと共に、静かな興奮を覚えました。とてもエロティックでいやらしい、ある種の欲情ももたらされたのです。それは、夜な夜な、徘徊するオグにも触れられて覚える気分と似通っていました。
 昼と夜、彼らは同じものに挟まれました。どちらもオグがもたらしたものだったのですが、三百年前から隠し通してきたものでもありました。彼らはどうも、昼と夜が区別の付かない、おかしな感覚になりました。軽い興奮状態が常態化したのです。テオルドが企図したのは、三百年前人々が滅びる直前の再現でした。
 この様子を見て、死霊のイラなどは、ひどく喜びました。彼女は何をか望みました。彼女は町の人間たちの一人一人の顔を見に行きました。オグのように彼女は夜だけ地下から地上へと出ることができましたが、外へ出ると彼女は人間を誘惑できず、思うように力を発揮できませんでした。ですが、近頃は自分の憎悪を叩きつけられるくらいにはなりました。人々は、間近にイラの霊を感じると、特に鈍感な人間などは夢精後のふわふわとした心地が朝に残ったり、悪夢の覚めた後のほっとした奇妙な感覚を抱いたりしましたが、ほとんどは自分に親なり友人なりから怒りをぶつけられた記憶を思い出していたり、中には失禁までしてしまった者もいました。でも、彼らはそれを他の誰かには話しませんでした。イラの中にある憎悪は、町にこそ虐げられたという感情にはぐくまれた憎しみでした。それはイラばかりにあるのではなく、長年そこに溜め込まれた思いでもありました。彼らは決してそんな気持ちを表に出したりしませんでしたが、地下の亡霊たちと共に、そのような気持ちがあることも振り返らなかったのでした。憎しみという感情に変じずも、呑み込むように受け入れた、彼ら自身の自立を阻む恐ろしいルールに多少とも彼らは違和感を覚え続けてきたのです。三百年の歴史はいかにも重く、彼らが変えてこなかった、供養されてこなかった思いは、体よく地面の下に沈められ続けていたのです。
 それに向き合うことができなかったから。では、どうして、町は唯一それと向き合える力を持っただろうあの若者を、そこから脱出させたのでしょうか。彼女を捕縛せずに、永遠の虜囚とせずに、奴隷とせずに、死罪とせずに。テオルドは、ひょっとしたらとこう考えました。彼女は自らを完全な傍観者たらしめんとして、出て行かされたのではないかと。彼は、イラのように、あるいは祖先のハルロスのように、自分の筆を使って何かを書き留めようとは思いませんでした。現在の町の維持に反するようなことは。ありのままを書こうとは。しかしイアリオなら、それができるのではないか。決して容易ではないこの作業を、誰かがどこかで為すべきだとしたら!その役割は僕ではない…ピロットでもない…町は滅びる。滅びなくてはならない。そう町自身が訴えているとすれば、その声を聞き届けられている者が僕や彼以外にいるとすれば、彼女しかいないではないか。…人は、自分で日常を支配しているように思っているが、本当は、日常だと思われるものが人を支配しているのだ。その日常に、異常なものが紛れ込んだ時、段々とそれは日常に取って代わられていくのだが、彼女はそれに気づいただろう。いろいろなそれに気づいただろうな。
 今、僕が用意しているのは、あのオグを模倣し、かつ三百年前も復元すること。それにも、彼女は敏感に反応しただろうな。もしまだここにいれば。しかしたとえまだここにいても、彼女はやっぱりこの町を出て行かなければならないと考えただろう。この町を救うために。彼女は健全だった。不健全さをその魂は目いっぱい抱えていたからね。僕と彼女は似通っているんだ。同じオグを経験した記憶がある者として。しかし誰もがオグを通しているんだ。皆忘れてしまっているだけで、その中に集められたのは、あらゆる人間の忘却された悪だとされたから。
 テオルドはオグの成り立ちや性質などを、彼の理解するかぎり(つまりは魔物の中にいる存在が自覚できた範囲に限り)のことを知っていましたが、そのすべてがどうであったかまでは知ることはできませんでした。ですが、かの魔物は魔法の媒体として人間の思いを集め出した時から、あらゆる人間にまでその触手を伸ばそうとしていたと感じていました。実際、この存在を生み出した者たちは、そこまでできるだろうと判っていました。限定的な時間、場において同質の思念を集めてそれを形作るのではなく、過去と世界中に渡って人から離れた思念を集める仕組みさえつくってしまえば、これまでにない媒質を誕生させられるはずだと。この世界はその仕組みを持っていました。それはこの世に必ず人間が生まれるという霊的な循環に倣うシステムでした。
 彼はこのシステムを前提にオグを理解していたのではありませんが、ハルロスとイラにつながる自身の血の連なりを通してならば、呪いの塊として誕生した自分の肉体を振り返れば、分かり易くなることでした。彼は人の抱くあらゆる感情は自分も抱けるものだと分かっていました。たとえ、現実に覚えたことのない感情があるとしても、その気持ちを今後も持つことはないなどと考えることはできないと。今後とは、今世だけではなく来世も含めた時間の繋がりを念頭に置けばということです。つまり、オグはその時間の繋がりも支配するほど過去にも未来にも伸びた存在だから、その中にある悪はすべての人間が(大なり小なりと比べられるかもしれないが)経験したことのあるものを束ね、一緒くたにしているのだろうと考えたのです。実際、彼の考える通りのことをなぞってオグは誕生しました。そこに違いがあるならば、魔物を成立させた魔法使いたちも思い及んだことのない、この世に生命が生まれてくることそのものによって、集合的悪魔もまた生まれてきたということでした。
 魔法とオグに関する研究は、一冊の本にも匹敵するほどの情報量となるため、ここに記すのはそこから取捨選択をした内容となりますが、終末期となるそれが働いた悪や、人間に及ぼした影響なども、実は限りないものでした。テオルドは小動物の死骸を町中に放り投げましたが、方々で見かけられていたそれらは、いつしか骨になっていきました。哺乳類の骨です。次第にその骨の大きさは増していきました。ネズミなどから、ゆっくりと、野ウサギ、カワウソ、角なし鹿、幼馬にまで至りました。人々は、誰がこのようなことを意図的にやっているのかと疑い出しました。けしからんことだ、早く犯人を見つけるべきだと、訴え出しました。ですが、警備隊には犯人であるテオルドが隊長の任に就いていますし、このようないたずらは悪質な遊びの域を出ていないものだということから、犯人探しはあまり重要視されませんでした。
 しかし、彼らがおしなべて戦慄する事態にまで、悪質な遊戯は至りました。骨はあまりに大きくなりすぎていました。そして、頭骨こそなけれど、人間にそっくりと思われるものがあちこちで見つかりました。テオルドは、彼の仲間たちに手伝ってもらい、地下から人間の骨を持ち出していました。四人ともあの儀式の延長のつもりでそれを手伝っていました。ハリトもヨルンドも、自分たちがしていることが町人らをざわめかせ、問題になっていることに心苦しさを覚えていましたが、テオルドは、悪びれもせずそれはいいことなんじゃないかと言いました。
「だって、僕たちの使命のためだろ?あの街は守らなくてはならないというさ。それなら、もうちょっと強力なまじないをしてしまおう」
 四人は、子供の頃彼らを脅かした地下の豪邸に行き、壁に無残に釘打ちされた古の犠牲者の骨をそこからはずしました。彼らはかつて無邪気にそこで遊んで、土蔵を壊したために人間の骨に抱きつかれ、癒されることのない傷を付けられたというのに、罰当たりなことをまたしてしまいました。人間の骨は、もはや恐怖をもたらさず、親しみを持てるほどにもなっていたのです。しかし、あるべき恐怖こそ本当はそこにあるもので、彼らはそれを忘れてしまっているだけでした。テオルドに、

、忘れさせられたのです。
 彼らは持ち出した骨に白い粉をまぶして新しく死んだ人間のもののように見せかけました。昔の人間の死と今の人間の死を、見せかけながら近づけたのです。このようにして地下世界と地上世界とを繋げ、人々の中に蔭差した疑心は、彼らの三百年前に近づきつつありました。彼らは、傍にある暗黒をはっきりと判っているものだと今まで思い込んでいました。それだから、見守っているのだと。見張っているのだと…。それはそれから離れられない理由ではありませんでした。堂々と、真の闇を受け入れて、それまでも心に受容して生きる人間ではありませんでした。
 破滅も再生するものでした。あらゆる自然の産物に同じく。彼らは子供のようでした。自分自身をもてあます。生きているということは、すべてが、新しい出会いなのです。彼らはそれも恐れるようでした。罪が深くて、そこに迷い込んで。その衝撃的な事件を体感したということが、彼ら自身の大きな変化でしたのに。彼らの大きな成長でしたのに!命の力…彼らは恐怖に盲目になっていました。だから、彼らは自ら粛清のために彼らの仲間を殺しました。命を奪うのも命の力でした。それが歴史でした。報われぬ魂は、ずっと、彼らの傍にいました…。
 いつしか、町には人殺しの噂が立ちました。誰も人殺しなどしていないにもかかわらず。それほど町人たちの精神は追い詰められていきました。いいえ、一部の人間が、まずたまらなくなってそのような噂を

(実際は彼らがそれを広めた。しかし、彼らにとってはその噂は

)のでした。その恐怖はどこまで伝播するものだったか。今までならば、テオルドが(イアリオが)生まれてくるまではそれは広がらなかったでしょう。オグが目を覚まさなければそれは広められなかったでしょう。起きていない人殺しの話など!
 …いずれ、本物の死体が置かれました。町の西部の丘にある、働くことのできない人々の居住地にいる人のものでした。それは少年でした。四肢に異常がありました。彼は甘やかされて育ちました。彼が笑うと周りが笑うのです。その屈託のない、穢れなど持ちようのない、心からの笑顔に人々は癒されていましたが、彼に、テオルドは自殺願望を植えつけました。お前に未来の可能性などあるか?と言って。彼は少年でした。「今はいい。自分の未来がどうなろうがそれに気付かなくていいから。この町ではお前のような者にも何かの役割を与えられる。だがお前は他人と大きく違う。他の人間が乗り越えねばならないものを、お前は越える必要がない。お前は保護されている。ずっと、一生、保護されるのだ。
 それは人形と同じだ。手足のまったく動かない。お前はただ、生きているだけだが、生命のない人形と何が違う?」
 …アイデンティティーの問題は、人の著しい課題でした。そこには暗黒が蔓延りやすいのです。誰にも分からないような危機が、誰にも訪れうるのです。ですが、この町ではその問題を成人の儀を通して共有される仕組みがありました。その成人になる前の人間を、テオルドは、そしてピロットは、唆したのです。テオルドに誘惑された少年は、自殺してしまいました。少年は自分で自分を追い詰めました。彼の相談者は誰もいないようでした。テオルドは彼に、自分の死に価値のあることを知らせました。自分が死ぬことで補償される現実があることを…!彼がいなくなることによって、居住区の一部屋が空き、周りの人々も少しずつ食事の量を増やすことができるということを。
 しかし、テオルドは複雑な表情で死んだ少年を抱き締めました。まるで、こんなことで人が死んでもいいのかといったような顔をしていました。彼は警備隊やハムザスらと共に、親愛なる仲間を荼毘に付すとして、彼を火葬しました。
「最も自分の命を自由にできるのは、自分に違いないのだが」
 彼は自分に言い聞かせるように言いました。
「もしその命を手放すのだとしたら、やっぱりそれは、彼の選択だ」
 オグはよく分かっていました。人の命を奪うものは人から離れた力だと。でもそれは、元々が人自身のものだということを、もう彼は知っていました。それを実験したわけではありません。彼の中に、そのオグの中に、少年の前世が残した怨念を見つけていたのです。現世と同様に自殺したその過去世を。「僕は、鏡だ」テオルドは呟きました。「そして、それはとても哀しいことだ」
 少年の死は可能性の象徴だ、と彼は皆に言いました。オグはすぐにこの少年の霊が皮肉にもあの北方山脈の頂に向かったことを知りました。人間の再生を願って止まない、哀しき流転の漂流者たちの中に!彼は、火を放たれたこの遺体を、その火が遺骸を嘗め尽くす前に水を掛けて消させて、夜中、ある町角に運びました。中途半端に焼け焦げた死体は、それが誰であるかはすぐに分かるほど原形を留めていました。そして、何者かが彼を殺して火を放ち、これ見よがしに街中に捨てたことになりました。…彼の死は当初テオルドの近辺だけに隠されていて、テオルドはハムザスや警備の者たちに本当のことは黙っていてくれるよう頼んでいました。少年の死は、彼の死の理由の通り町を愛するために、自ら望んだ、英雄のような死だと説明していたからです。
 町には合同葬祭の形式もありました。人の死は個別に悼まれるよりも集団で悼むべきだという思想もありました。確かに少年はある程度の人数に囲まれて葬儀を行われましたが、その親や、親戚たちを集めてはいませんでした。彼らは少年を仲間だと言いました。仲間内で葬儀しようと誰からともなく発案されて、その流れで少年は密かな弔いを受けていました。火葬を取り仕切ったのはテオルドでしたが、彼の呼び掛けは

の合意と同等に取られました。そこで、少年は墓の中にこのまま入るよりも、彼は皆のために死んだのだから、人々にそれをよく知られる必要があるだろうと、オグを身に入れている者は仲間たちに呼び掛け、それは為されたのです。人知れず彼が自分を殺すことを実践したなら、その理由も隠されるべきで、本当のことを我々が知っているだけで十分ではないか?
 彼の仲間たちは自分たちが混乱していることに気づきませんでした。それからしばらくして暴動は起こりました。明らかに、自然にはそれは始まっていませんでした。逆さまになった植物が、彼らの目の前をたくさん闊歩しているようでした。動物として。それは動物として。
 逆さまになった植物たちが、自己主張をしていました。ほら、ここに、僕らはいるよ。僕たちはいるよと。力の暴発は町の東地区で起こりました。市場はめちゃくちゃに壊され、品物は全部叩き潰されてしまいました。暴徒たちは農業地区でも暴れ回りました。なぜなら、彼らは農夫たちだったからです。
 この国に貨幣はありません。全部物々交換で、価値の基軸となる品物は農作物でした。農業以外の仕事は、抵当が「何日分の食料」あるいは「これだけの品質の作物」となるのですが、勿論、いい仕事にはそれなりの希少な作物か人気の高い食べ物が割り当てられていました。一方、農家は町預かりの土地を耕し作物を育てていました。農地は荘園なのです。その管理は厳しく、町全体が適度に潤うほどに食料の生産は施策され、余剰生産物は農夫のものになるものの、努力次第でそれがよほど蓄えられることはありませんでした。営々と営まれる日々の暮らしは、彼らに支えられているものの、彼らの身分は、保証されているとは言い難いものでした。彼らは生産物でしか町への貢献を示せず、任せられた土地にあまり実りがなければ、その直接の打撃を受けるばかりだったからです。彼らは知れた暮らししかできなかったのです…この町において職業の選択は自由ですが、どこにもあてのない人々が、主に農夫にあてがわれていたのです。頗る微妙な心理がそこで育てられていました。
 作物を育てる仕事こそ、大事な人間の命を守る立派な使命でしたのに、本来そこにあるべき誇りは、徐々にテオルドに壊されていきました。彼の所属する警備隊には、志願して直接なる者の他に、定期的に補充される人員がいました。どの仕事を問わずまんべんなく成人は隊員になるのです。警備隊に補填された、特に農夫たちを選んで、彼は虜にしたのです。彼は、彼らの微妙な心理を突つき出し、もっとおいしい生活を望まないか、もっと楽して暮らしたくないかと繰り返し彼らを刺激しました。
「僕は叶えられない。叶えられるとしたら、それは農地に行かない、建物の中で仕事に励んでいる人たちだろう。彼らにこちらの主張を伝えなければならないんだよ」
 彼は、彼らにいかに農地を耕す者たちと、服飾を作ったり立派に建物を建築する者たちとの間に格差があるかを説きました。それは食物を貨幣のように分配するこの町の仕組みの矛盾を突いた内容でしたが、農夫たちの誰もが、彼の話を成る程と思ってしまいました。彼はさらに言いました。
「どうだろうか、黄金は、地下にあるものとして僕たちが守らなければならないものとして、端から遵守しなければならない約束事として今まであったけれど。どうしてそれを求める心はずっと僕たちの中にあったのだろうか?」
 彼の呼び掛けは彼らのずっと深いところに落ち着くように沈んでいきました。彼は、この町の矛盾を突いたようで、人間の心の悪質なわだかまりをこそ明らかにしたのですが、それは農夫たちには分かりませんでした。しかしそれはオグの得意技でした。彼は、農夫たちの中に侵入し、悪を行うよう働きかけたのです。ですがそれが可能となったのは、彼らの中に、その悪があるから。そして
 テオルドこそ、その悪を抱えた人間として矛盾した生き方を彼らがしていることを、よく知っていたからでした。一方で彼は、農夫以外の者たちに、今の農夫たちはこんな怪しげな考え方をしているぞ、と伝えました。彼は、町の中に対立の軸を設けていったのです。警備隊に来た幾名かに働き掛けることによって、その考え方を、広く伝播させていったのです。

 さて、人々は夜な夜な侵入してくる霧のオグと、イラの亡霊と、町角の死体や骨によって、不思議な興奮状態にありました。誰もがこの感情を持て余し、きっかけがあれば爆発しそうでした。彼らはこの感情に弱い面があったかもしれません。黄金は地下にあり、それを守るとしても、それは冷静な判断ではなかったのです。さる興奮状態における選択だったのです。彼らはこの興奮により一度は滅びたのですが、その反省は、興奮自体を遠ざける恰好になりました。黄金は、捨て置かれました。心の中の、歴史という黄金は。彼らはずっといびつな形で構築してきた心理社会の、崩壊の極点に面していたのです。何かがきっかけでそれは潰れました。
 でも、そのきっかけは分かりません。彼らは、翻弄されるように、どこから来るか分からない憎しみに増長されました。自分にその感情が特別になくとも、相手が持てば、こちらも持ってしまうことがあります。憎しみも、怒りも、哀しみも、愛情も。彼らは感情を持て余してきたのです。その感情は一度爆発したことがあるから、その爆発を恐れてしまったから。彼らは
 感情を爆発させました。それによって地下にいるオグと地上にいるオグは、これで、自分たちが望んだものを生きている人間もきっと望むだろうと思いました。もういいのです。人から離れた願望を叶えるのは!もういいのです。本当に、この手から離れてしまったものを、守っていくのは!武器は、事前に彼らに持たされていました。心の武器と、体の武器と。奪い合いは、してはならないことでした。しかし、その衝動は、常に私たちとともにありました。あらゆる思いが、まさに自由になろうとしていたのです。農夫たちは、武器庫から(警備隊に志願した者たちに手引きされて、)武器を取り出すことまでして、町と交渉しようと臨みました。しかし、町の警備兵たちも事前に(彼らと同じように、)武器を持って、何事が起きるか分からない混乱に備えていました。両者ともテオルドにその準備をさせられていました。互いに敵を殺傷する能力を持った武器を抱えているのを見て、彼らは感情を大きく増幅させました。テオルドは、町を守る側には特に策略を持たせず、町を攻める側がやや有利になるよう腐心していました。数の方は攻める側が多く、また若干の戦闘訓練も、農夫たちには施されていました。守る側が、受けに回り、混乱しやすいように計らったのです。さらに、守備側には相手の交渉に乗らないよう釘も刺していました。そして現場には彼は登場しませんでした。
 力と力のぶつかり合いが起きやすい土壌をつくられ、両者はまんまと悪魔の望むままに追突し合いました。そして、双方とも昨今の霊たちの動きに触発されて、訳の分からない興奮状態もつくられていました。農夫側はそのいきり立つ気持ちのまま東の市場にまで侵入してしまいました。そこには、彼らが作ったはずの、良い出来の作物がたっぷりとありました。でも彼らが売るためにそこへ持って来たのではありません。各々の店が、自分たちの商品の交換に貰った品物なのです。少しの自由経済が、この市場を潤していました。
 それを見て、農夫たちはオグに唆された感情を、一気に暴発させられました。怒りが止め処なくなり、どこで収まればいいか分からなくなりました。まとまった行動を取らなくなった彼らは別個に警備隊に捕縛されていきました。ですが逃げ惑い、逃げ切った連中は、未だ収まりのつかない怒りを抱え、彼らの土地で、町に宣戦布告をしました。実にこの内乱は三週間とかからず鎮圧されたのですが、互いに流血し合わせるほど激しく争い、おもむろに死者も出して、甚だエスカレートしました。
 事態は鎮火されましたが、すべての町人が、大変恐ろしい思いをしました。農夫たちのすべてが、それ以外の人々すべてが、この戦闘に関わったわけではないのに、各々の心に隠れている争いの火種を今更発見したような心地がしたのです。そして、彼らは三百年前にも互いに互いを憎んだという事情があったことを、まざまざと思い出したのです。
 でも、そんなことはこの町だけではなく、どこにでもいつの時代でもあったことでした。人は争いを起こすからどのようにして争いを収めるのかを、どの土地でも有史以来人間は考え続けてきたのです。それでも途方もない戦争が起こり、人は人の無力を味わい、やりきれない思いを後悔しても遅しと抱えてきたのです。しかし彼らはそんな事実からも遠ざかり、自国の伝統に甘んじ続けてきたのです。
 クリシュタ=レーゼは、この事件の当事者たりえませんでした。彼は、農園の休憩所となっている仮宿に、療養に来ていました。それまで彼は、自分の家に目張りして、霧の侵入を防ぐことなどをしていました。その霧の正体がかの魔物であるかは彼には分かりませんでしたが、防いでいた方がいいと思ったのです。しかし彼は窶れ果ててしまいました。恋人の自分に対し裏切りを続けるハリトとうまくコミュニケーションも取れなくなってしまい、彼女との約束と、イアリオにこそある本当の自分の気持ちとが、まるまる乖離したまま時間が過ぎていったのです。彼は万力に頭が挟まれているような心地がしました。彼は医者に頼んで、仕事の上司にあたる父親とハリトに宛てて、説得力のある病名を自分に付けてもらいました。医者も、彼がなんらかの精神的な病に罹っていると分かりましたので、適当な病名を彼に付けながら、彼のために療養できるような場所を与えたのです。
 彼の恋人は、彼からの報告を受けて、愕然とした顔をしました。今もって彼とのつながりがイアリオとのつながりで、それこそ彼女が自分を大切にできる糸だったのです。それがあるからこそ、彼女は揺らぐことができたのです。彼女は、今や彼をすっかり自分のものだと思っていました。それが本当に巨大な安心を生んでいました。事実は確かにそうでした。彼女は表情を強張らせ、がちがちに固まりました。彼女は彼に同情しませんでした。その原因が自分だと思いませんでした。
 ハリトは、ピロットに返し損ねたゴルデスクをまだ持っていました。彼女はその塊に面と向かい合いました。霧の忍び寄る深い夜に。毒々しい黄金の輝きの奥に、彼女は陶然としたものを感じました。
「自分は一人でいるべきではなかった」
 ハリトは虚空に訴えました。ものはそこにあるのに、真実の想いもそこにあるのに、彼女は間違ったことを信じました。
「たった一人だけを、愛し続けるなんて始めからできなかったことだったんだわ。だから、他にも男を作らないと」
 それは、この町ではしてもいいことでした。でも、ハリトの欲望は、もう、彼女自身から離れてしまっていました。どうにもならないものになっていました。そう、オグのように。都合のいい満足を、彼女は追い求める体になってしまいました。決して自分を満たさない満足を。それは、悲哀を、その体の奥深くに溜めていきました。

「オグが暴れ出そうとしている」
 板間の上り框に腰掛け、レーゼは呟きました。三畳間の仮宿は奥に寝床がしつらえられている他は何もなく、小屋の屋根を伸ばした下に水桶と薪と、料理道具などと共に、切石で囲んだかまどがあるばかりでした。レーゼの借りた小屋にはたくさん野菜が届けられました。石工や大工などの職人たちをまとめ上げる父親から送られたものもありましたが、病人には、この町では滋養の高い食物を取らせるのです。
「あの天女の言った通りに?地下にいる亡霊も、一緒になって出て行こうとしているのか?」
 すっかり気弱になった彼はあらゆる感覚に敏感になっていました。以前ならばマイナスを向くような事柄に対しては跳ねつけるような強靭さを見せていましたが、底知れぬ冷気が、彼の背筋を覆っていました。町に噴水を造ること…その望みとその意志はまだ彼の心に健在しているものの、イアリオを想う気持ちも、ハリトを大事に考えることも、放り出さずに胸に抱えてはいるものの、その疲労のために…彼らしい実直さのために自分が傷ついてゆく様もよく知らず、疲れていった彼は、町の人間の中では誰よりも、混乱しつつある町を外側から眺めることになりました。彼はそこが目に見えない者たちに覆われ、次第に正気を失くされていった、詳しいいきさつをよく知りませんでした。にわかに小屋の外が喧しくなって、顔を赤くした人間たちが次々に息荒く道を通っていくのを、おかしいなと考えただけでした。彼は怯えました。イアリオと約束をした、三年の歳月がもうすぐ経とうとしていました。彼は何一つしていない、と思いました。ピロットからオグを聴くことも、地下都市を調べ尽くすことも、彼女から任された一切を、彼は継続していませんでした。ハリトと結婚することも!ただ天女の文言が、顕在化しつつあるのではないかという感覚だけがありました。彼は町で暴動が起きたことを知り、心配になって彼の家族のところに帰りました。そして、療養中の彼にまったく見舞いに来なかった恋人のところへも行きました。彼は、陶酔する恋人の体を発見しました。彼女は複数の男たちと交わって、不安を拭うかのように、必死になっていました。欲情する彼女の体は、小金のように輝いて見えました。彼女は彼を見つけましたが、にこっと笑っただけで、何も言い掛けませんでした。彼女はもう彼を求めませんでした───己の快楽に埋没する感覚に、ただひたすら、打ち込んでいました。
 彼はここに見るもう一人の自分につらい怒りを覚えました。彼もその場に加わって、あらゆることを、頭の中から追い出そうとまで考えました。でも、
「ああ、そうか…」
 とばかり呟いて、バタンと扉を閉じました。彼はこの時、ハリトこそ、自分の一部だと認識したのです。彼女をよく理解したのです。彼女はまるで分かたれた彼の分身でした。彼から飛び出した諸力でした。彼の中に戻らない、戻ろうとしない、いびつな歪んだ彼の鏡の像でした。
 彼はこの時気付きました。天女の言葉は、本当でした。
「『エアロス』だ」
 彼はまた呟きました。
「イアリオが言っていたことだ。たまらない。俺たちは、自分たちを、この渦の中に放り込もうとしているのか?そのためにこの町を造ったのか?オグがいる。俺たちの先祖がいる。そのために…?だから…?」
 過去はじっとうつむいて、未来を見上げる日を待っていました。それは今と結びつこうとしていました。破滅はこうして訪れたのです。かの町に母親がいないようでした。彼らを見守る、絶対的な守護者はいないようでした。いいえ、それは、もしかしたらイアリオがいなくなってから、そうなったかもしれません。誰も何も慰めず、青い果実の中で、再現しようとしていたのです。花は開かれねば熟成しないのならば、その反発は、絶対でしょう。自らを慈しまなければ、花は枯れて当然でした。だから、彼らが、そう決めたのです。子供たちが、呟きました。「もう町は守らなくていいのか」
 ピロットは、海外に出て、彼の仲間を集めていました。彼の思い通りの悪を果たしてくれる、極めて凶悪な、人間たちです。彼の希望は、純粋な、破壊に定まりました。その理由に、彼の街の黄金を使ってもよいと考えました。彼にとって、黄金は、もう自分の中にありますから、それを、仲間の募集のためにアピールしました。その仲間たちが、彼に導かれて、彼に作戦を立てられて、徐々に、町に入って来ました。あのアーチから。途方もなく美しい入り口から。求められたのは「混乱」でした。上の町が統制を執れなければ、下の街の黄金を奪えるわけです。
 テオルドによって仕込まれた幻惑と、ピロットによって仕掛けられた作戦とが、かの町の中で連動しました。人々はいくつもの人間の死体を次第に見るようになりました。いつのまにか誰かが殺されているのです。明日の身は自分かもしれないなどという不安は、まだいたずらなものに思えましたが、現実には本物でした。彼らは、夜な夜な現れるオグによる興奮と共に、切羽詰まった、狭窄した不安にも、囚われるようになっていきました。そして、普段見られないような焦燥が、不注意が、誰もかもの心理を圧迫し、余裕のない毎日に待ち受けられました。
 そんな折、医者のヨーア=マットはある一団に拘束されました。町では、各々が徒党を組むようになりました。自らを守るために、普段は武器を持たない者たちでも、かたくなな護りを敷こうとしました。医師の立場は病人、怪我人を診ることでしたから、徒党など関係なく、中立にならざるをえませんでしたが、周りがそれを許さなかったのです。彼の技術が欲しがられたのです。万が一があったら、ただちに治療してもらえるように。憎しみが平安を奪う形で、町には相互不信が際立つようになりました。誰もが自分を大事にするなら、徒党を組みたがるのも、その巨大な「自身」を守るために色々なことを工作するのも、普通でした。マットは体の芯に冷え冷えとした鉄の棒が差し込まれた心地がしました。彼はイアリオとのやり取りを思い出しました。
(彼女が言っていたな。地下の亡霊たちを、慰める必要があるんだって)
 その言葉が、どうしてか、彼の涙を誘いました。
(あいつらが今この地上に溢れているんだろうか。まるでそんな気がする。ごく自然に俺たちは今憎しみを持っているみたいだ。それが当たり前かのように)
 この頃評議会は、もっぱらテオルドに事態の沈静を任せていましたが、彼らの間にも相互不信が高まっていきました。テオルドの工作は数限りありませんでした。ここにそれを全部記すことはできないのですが、彼の囁きに揺らがぬ人間はいなかったのです。黄金を守るという、大義は内乱には当てはまりませんでした。それどころか、誰かが地下の黄金を占めようとしているなどという、意味不明な流言がはやりました。彼らは互いに監視し合う立場でした。皆で守ろうというのは、誰かそれをせしめてはならないという事でした。彼らは、その独立した欲望こそ彼らの中にあるのを恐れたのです。
 誰からともなく、彼らは地下に足を向け出しました。彼らの守らなくてはならないもののために、武器を持って、それを護るために。それは誰のものでしょうか。皆のものでした。皆のそれぞれの中にあるものでした。彼らは喧嘩をよくしましたが今まではそのひどさの範囲は「町人である」ことからはずれませんでした。けれど、今繰り広げられようとしているひどさは、明らかにそれを超えうるものでした。彼らをつなぎとめる唯一の「理由」は行使されず、各々が、次第に欲望をむき出しにしていきました。欲しいものは奪い取ればいいのです。そうに違いありません。誰もが相手に敬愛など覚えなければいいのです。同じ場所に住んでいても。
 彼らは、自分たちを育てたふるさとを忘れました。彼らは、元々そのふるさとをどこかに預けていたのです。永遠は、豊かにならず、約束されるものは、いつかの荒廃なのです。うたうのはその時遺された遺品です。彼らは二度と同じことは起こらないなどと油断して考えていました。起きないために注意していても、過ちは繰り返されるのです。
 オグは、過ちの象徴です。彼は永遠の存在でした。
 ヒトロス=オヅカが、ぼうっとした顔のまま、道端に立っていました。彼は、十五人の子供たちの中でも、頭が悪く、加減のできない腕力で他に迷惑をかけることがありました。彼は、どこにも属していませんでした。仕事は農夫でしたが、彼に与えられた土地はちゃんと耕し、作物をよく育て、他の農夫たちの仕事を多々手伝っていました。彼は便利屋でした。それでいて一度も不満は漏らしませんでした。そんな彼も町の荒々しい雰囲気を感じていました。
 マルセロ=テオラは、あのラベルを慕っていた彼女は、何よりも自分の子供を守ろうとしていました。人々は皆興奮し、息荒く、女性たちまでも何か武器を取っていました。こんなことはおかしいと感じながらも、どうにもしようがないのでした。テオラも熱に浮かされたかのように、自分の子供を守らなければと、その感情だけが繰り返されていました。学校はあるものの、付き添って連れて行きました。彼女の夫は頑健で、石切りの仕事場で働いていましたが、家を留守にする機会がどうしても多くなりました。ヒトロス=オヅカが、突然彼女の家を訪問しました。
「やあ」
 すると、そのまま、子供のいる前で、彼はテオラを襲いました。オヅカは平気で事を済ませると、戸口に仁王立ちになって、帰宅者を待ちました。テオラの夫は、オヅカによって殴り殺されました。
 彼は、ずっと彼女に憧れを抱いていたのです。今が、その本懐を遂げるべきだと、思われたのです。町中で繰り広げられるようになっていった喧嘩や逃走は、彼の伏せていた思いを自由にしてしまってもいいと彼に思わせたのです。
 このようなことが、町のどこでも、行われるようになっていきました。

 レーゼは、月の出ない約束の夜が近づいているのを恐れをもって待っていました。彼は、もし、イアリオが帰ってきたら何と報告すればいいのでしょうか?ハリトに裏切られ、町で三百年前のような事態が萌芽しつつあって、ただ天女の文言が着実に顕現しつつあるように感じるなどと、言えばいいのでしょうか。彼は何もしていない自分を恥じました。彼は、もう誰もいなくなってしまった農園に、一人仰向けに寝転び、夜に星を数え出しました。自分の夢はどうしたでしょう。もう諦めてしまったのでしょうか。そんなことより、町中を覆い尽くすようになっていったいにしえの霊とオグの影に、びくびくと怯えるようになってしまいました。町の明暗よりも、彼の意志の実現よりも、恐怖が勝ち、縋るもののないこの世に脆弱な身を晒しました。しかし、同時に彼は自分の命のぬくもりも感じていました。それは嬉しさが混じりました。人々の、どうしようもない興奮、憎悪や怒りは微塵もその身体を侵さず、彼は独り身を強く感じながら、その体に生気を覚えていました。約束の日が来ました。彼は、北の墓丘に向かいました。そばにハリトは連れず、一人で、騒々しい町を後ろにして、うつろな眼差しで、のろのろと歩いていきました。夕陽が彼を照らし、長々と影を後ろへ伸ばし、引き摺らせました。彼の影には過去がいくつも溜まっていました。彼の前世も、そのまた前世も、いつから始まったかわからない彼の生が、ずっと、数珠になってつながっていました。彼の故郷を襲っているのはそれです。故郷の人間を襲っているのはそれぞれの影です。彼らの過去です。真っ白な光が頭上から襲えば、それは消えてしまいます。影は本人と同化して、まるで、見えなくなって、なかったかのようになります。
 今に囚われる、現在の感情は、永遠になくならないことを、約束しているのです。それはなくならないのです。確かにあったのです。しかしそれから、人は前に進むのです。現在は、過去と未来との数珠つながりです。では一体、なぜそれを忘れてしまうのでしょうか。
 彼は、約束の場所に来ました。そこで、うつむいて、来ないかもしれない待ち人を待ちました。月はなく、星だけが、空で瞬いています。彼の他に、誰もいませんから、ずっと、風だけがさやさやと草に音を立てていました。彼は何も望みませんでした。彼女がやって来るのも、願っていませんでした。灯りが、幽霊のように近づいてきました。彼の真の想い人が、やって来ました。相手は、愛しい目で彼を見つめました。彼はその気配に気付いていませんでした。赤々と光がその手元を照らして、彼はやっと、面を上げたのです。そこには、本当に好きな女性が立っていました。
「レーゼ…?」
 彼は、気を失いそうになりました。この三年の間、ずっと見たかった顔が、本当はずっと見たかった顔が、目の前にありました。彼は涙ぐみました。しかし震えました。震えてたまらなく恐ろしくなりました。
「どうしたの、何が、あったの?」
 イアリオが彼の顔を覗き込んで言いました。彼は歯をがちがちと鳴らせました。震えが止まらなくなりました。
「分からない。でも、怖い…ハリトが…」
「ハリトが?」

「ハリトが…」

 彼はその場にうずくまりました。くぐもった声を出して気絶したのです。イアリオはあっと叫んで、彼を抱き起こしました。彼女の側に控えていた、ロンドたちも出て行きました。
 慰める者のいなかった、寂しい墓地に、丘陵の間に隠れて、小さな赤々とした松明が静寂な光を放っていました。そこまで、星たちの明かりは届いておりませんでした。
 天国に昇った祖先の魂とされる白い星たちは、動かず、何も言わず天井に瞬いているだけでした。
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