第20話 夢の中

文字数 53,485文字

 「白い塔に 白い道       どこへ行くか 馬引き貨車
  我が道を いざ 我が夢を   果たしにそこの 山村へ
  私のいるべき ふるさとへ   凱旋挙げて 飛んでゆく
  雲霞に羽ばたく 鷲のよに   私は飛んで家に帰る
  私はアラル 雲下の人     麗しの町 エスタリアへと
  哀しみはすべての民へ     希望こそあらゆる者に
  魔物倒しに 私は行った    そうして泉の 水飲むために
  私は行った 私は斬った」

 イアリオの町では、大昔に地下牢に入れられた女性の戦士のお話がありました。この物語の始まりで、彼女がそれに扮装し、地下都市で遊ぶ子供たちを追い返したことがありました。上記はその女性を謡う詩でした。彼女は、逆に魔物に返り討ちにされ、人間の心の悪意を読めるようになり、そのせいで悪を働き、人々を呪いながら死んでいくのでした。エスタリアとはトラエルの町の北にある、町人の警戒の拠点に今やなっている滅びし遺跡でした。
 イアリオは、夢の中で、アラル、アラルと呼ばれていました。彼女は、町の北の墓丘で出会った、ヴォーゼという女の霊からも、その名前で、呼ばれました。彼女は、そのアラルという女と、夢の中で身を一つにしていました。
 夢は、彼女が子供の頃から始まりました。彼女の一挙手一投足が、夢見手であるイアリオに全部宿りました。思い出すように。記憶がまったく蘇るように。
 アラルには、愛する者がいました。相手は女性でした。ヴォーゼという名の女性でした。小さい頃から、アラルはヴォーゼと二人きりでいました。ヴォーゼは器量良く朗らかで、面倒見の良い女でした。人気が高くて、人前に出るとすぐに人が集まってきました。ヴォーゼは、一人きりになることがあまりありませんでした。しかし彼女は周りの目には見えない、深い孤独に入ることがありました。そんな時、傍には必ずアラルがいました。ヴォーゼはアラルに精神をとても助けられていました。
 二人とも、互いに心を許し、無言でいても、傍にいて退屈しませんでした。ですが、二人は女同士、恋人であることを自覚できませんでした。だからといって友人と言って片付けられる間でもありませんでした。成長するにつれて、互いを唯一のパートナーのように意識し出し、二人とも、他人には明かせない苦しみを抱えることになりました。二人のような、愛の形があることは、万人には明かせない秘密でした。
 アラルは野に塗れたような、非常に野生的な性格をしていました。男勝りで剣技に長け、周りを震え上がらせるような強烈な自我を持っていました。それでも、小さい頃は歌がうまくて、皆に褒められる可愛らしい声で人々を慰めることができました。成長するにつれて、歌は歌わなくなりました。彼女には、剣の師匠がいました。剣の師匠は、亡霊でした。地下に掘られた倉庫の中に、ずっと棲み続けている男の子の霊がいたのです。その彼が教えてくれるのでした。
 おかげでアラルはどんな男の子よりも喧嘩が強くなりました。そしてしまいには、近隣の戦争に参加して、殊勲の勝利を手に入れました。

 二人のいる町、エスタリアは、峠の出入り口で栄えた通商の要衝でした。南には広大で肥沃な土地が開け、その向こうには港がありました。行き交う旅人は多くてきららかな太陽と過ごしやすい天候はとても喜ばれました。北に抜ける峠の向こうは大抵が茫漠とした森か荒地で、森の中に住む少数の変わった人々以外は集落をつくりませんでした。森人に案内を頼めれば深い森は抜けられるものの、東の内陸にあるコパ・デ・コパなどの都市と、西方で交易を望む国々とをつなぐ一番進みやすい陸路は、森から西の乾いた荒地を通る必要があったのです。この交易の中間地点に、エスタリアの町はありました。わざわざ山の間を通る必要はありましたが、さらに南まで足を伸ばせば港町もあったのです。南の港から内陸の都市へ向かうためにこの町を訪れる商人たちもいて、人々の意気は盛んで賑わっていました。
 エスタリアを支配下に置く国はありませんでした。南の港はクロウルダという民族が起こした町で、エスタリアとその町と、協同して自身を守ってきました。エスタリアは元々商人たちが興した旅籠街でした。クロウルダの港から交易のルートを築こうとしてそこに拠点を敷いたのです。商人たちは山脈の陰に住む狩人たちとも交流し、クロウルダや旅人とも混血し、住民を増やし、街を大きくしていきました。
 アラルは、南の港の船員とここの住民の間に生まれた子供でした。彼女はとても整った顔立ちでした。一見性別の分からない雰囲気は、幼い時分はもてはやされていました。しかし成長するにつれて、普通の女性にはないほど身体に筋肉がついていきました。彼女は頭も刈り込んで、町のどの人間よりもずっと男らしい顔立ちになっていきました。そして、彼女がまだ戦場に立つことのない頃から、南方の港では繰り返し海賊の侵入がありました。
 イアリオは、このアラルという女性に重なって夢を見ていましたが、彼女から見た当時のヴォーゼという女性は、肉付き良く血色も良くて、魅力的に見えました。もし、自分が男なら、間違いなくこの女をものにしていただろうと思えました。それは、相手からも同様らしく、ヴォーゼはアラルに、もしあなたが男なら、と話していました。
 アラルは、母親と一緒に父親の船の帰りを迎えによく港へ出向きました。そこで炊事の手伝いなどをして、二つ槍の旗の目印を、遠い水平線の彼方に探しながら待ちました。ある時、父親の船団が別の船団に追われながら火を放たれているのを目撃しました。船に点いた、ぼうぼうと燃え盛る炎はこちらに近づくにつれて巨大になり、アラルの眼前いっぱいに広がって、恐怖と威圧を与えました。幸い父親は無事でしたが、彼女はこの時はっきりと、身を震わせる怒りに燃やされました。その後、次第に海賊たちによるクロウルダの港への攻撃は激化し、遂に乗り込まれました。戦闘は陸に展開し、都市戦となりました。しかし、クロウルダはこの戦い方が得意でした。町中に張り巡らしたオグ監視用の地下道で根強く対抗できたからです。彼らは遂には侵入者共を追い返せました。
 ですが、この土地はよほど向こうの気に入ったのでしょう。間を置かず再び彼らの襲撃がありました。今度は以前より大規模なもので、クロウルダたちは地下道にも敵の占拠を許し、一時的に港から退却せざるをえなくなりました。
 反撃の芽はありました。クロウルダたちはエスタリアの町に退き、エスタリアの人々や、商売上つながりのある内陸の都市や国々からの援軍を頼みました。彼らの港をならず者たちに占拠されたままでは困る国々がいっぱいあったのです。彼らは辛抱して港湾奪取の機会を待とうとしました。
 しかし、彼らは懸念すべきことがありました。彼らの儀式ができないこの機に、かの魔物が暴れ出さないかということです。クロウルダは、オグを追い続け、これを捉えると町を造り、神殿を造り彼に供物を捧げて封じ込めました。その供物の供奉も様子見もできない状況になったのです。彼らはなんとか霊的な交信も図ってみましたが、まったくオグの動きはわかりませんでした。
 そこへ、一人の海賊が血まみれになりながら、港付近に潜んでいたクロウルダの斥候のところへ歩み寄ってきました。ふらふらとした足取りで、もうすぐ死にそうでした。何かの罠でもあることを警戒しながら、クロウルダは彼に話し掛けました。すると、男はひと塊の黄金を取り出して、彼らに懇願しました。
「どうかこれで、傷の手当てをしてくれないか。ゴルデスクだ、地下から取れた」
 黄金は、毒々しい色を陽光に晒して、クロウルダたちの顔をしかめさせました。
「お前たちはもうかの魔物の住処に下って盗みを働いたか」
 希少な金属ゴルデスクは、無論海賊には垂涎のお宝でした。しかし、それはオグの人欲しい唾液からなるものでした。
「お前のその傷痕は何だ」
「ゴルデスクの奪い合いだ。俺は殺しはしなかった。死んだ人間の懐から頂戴したまでさ」
 海賊はぬけぬけと言いました。それが彼の誇りであるかのように。 
「我らを知らないか。偉大な悪魔を封じし神官なるぞ。我らの神殿の奥に這入り、悪魔の宝物を奪ったところで、我らに金の代わりになるか。諦めろ。そしてお前の仲間たちの命運は尽きた。
 ゴルデスクは、かの魔物と同じだ。人間の意識を狂わせ、破滅させる」
 彼らは、そう言いながらも誰かが海の外へゴルデスクを運べば、つらい命運が他にも波及するだろうと思いました。しかしオグを囲う彼らにしても、そこまで保護する気になりませんでした。自業自得の災いは、ただ自分だけを襲うのかといえば、そうではないのです。
 海賊の男は事切れました。彼らは男を埋葬してあげました。ですが男の仲間まで皆、土に埋める気は彼らにはありませんでした。一人でも土の中で温かみにくるまれて安らげば、あるいはその集団はいつか、人欲の支配から逃れて成仏をすると、彼らは信じていました。オグが、一人でも集落の人間を導いてしまえばそこは滅びてしまうのなら。誰かが安らぐことは必要でした。それに弔いがなければ人間は、あの世で方向を見失ってしまうものですから。
 さて、揺り籠の中で、今、悪魔は睡眠中でしょうか。クロウルダなどという、神官を自称する者たちに、彼は寝心地の良い空間を与えられていました。神官たちは歌を歌いました。彼のそばで。あの世でも、この世でも。その歌はずっと、子守唄でした。あやすような、布団に包まれたような。良い匂いの香料が焚かれて、まどろみの中、彼は何もかも忘れていました。
 しかし海賊たちは、彼の住処まで足を踏み入れました。かの魔物がそれでも昏々と眠り続けることを、陰気な神官たちは願いました。クロウルダたちは緊張しながら港の様子を窺いました。助けを求めてきた海賊の言葉通り、港には彼の仲間たちがたくさん倒れていました。息をしている者もいましたが、クロウルダは情け容赦なくその命を絶ちました。彼らは徐々に、港町の奥に入り、その地下に近づいていきました。町は、ほとんど人気がありませんでした。瀕死の人間のする呼吸以外は、不気味な沈黙が支配していて、海賊の乗ってきた船ももやわれたままでした。
 彼らは慎重に神殿に近づきました。地下に築いた二本柱からなる門と、祈りの歌がほどよく響くように岩盤を削った丸い空間へと。すると、ぼろぼろに衣服を切り裂かれた、少年のような影が、柱の門の向こうからぬっと現れました。よく見ると、その背丈は子供ですが顔はいかつく、筋肉は隆々とこぶをつくっていました。しかし顔には乾いた血糊がべっとりとこびりつき、その片腕は失われていました。
 クロウルダは問いました。「ここで何をしているか?」
 小男は答えました。「オグだ。オグがいる。あ?伝説の?そうさ、俺たちは奴に食われたんだ。すっかり、全身が、あいつにやられた。後は殺し合いさ。ぬくもりを欲しがっての死合さ。俺たちは血が欲しかった。相手の血を体中に浴びたかった!そうすれば、誰よりも強くなるからな。ほら、見ろ!」
 男は残った腕をぶんぶんと振り回しました。その仕草はまるで透明な剣を見せびらすようでした。彼の手には何もないのに、何か持っているように手を半開きにしていたのです。クロウルダたちはぎょっとして彼を見つめました。彼は不自然な荒い息をついていました。
「ここは、どこだ?」
 彼は唐突に大人しく口調を変えました。
「地下だ。オグの棲家たる」
 神職の祈祷師が言いました。
「そうか」
 彼はばったりとその場に倒れました。その背中からいきなり血が噴き出しました。男はびくびくと体を引きつらせ、弱々しい声で言いました。
「オグだ。オグが来る。ああ、あいつは俺を呑み込んだ。あいつの腹に詰まった記憶が俺に流れ込んできた。あいつは一人だ。一人の人間だ。俺もあいつの一部になった。あいつの手足になって、仲間たちと殺し合いを始めた。ああ、光が見える。何の光だ?希望だ、希望の灯り、俺たちの、俺とオグの、求める、ああ…光が見える…しかし、黄金のように、毒々しい…」
 イアリオが夢の中で見た彼は、そうして死にました。それは夢でした。ですが、過去の記憶のようでもありました。アラルはここにいませんでしたが、彼女はアラルから離れて、彼女の生きた時間の別の場所の出来事を、このように見ていました。
 クロウルダは、侵略者たちは皆オグやゴルデスクの虜となったのだろうと考えました。もはや港からも脱出が不可能なほど、彼らの意識も滞ってしまっただろうと。ただし、気になるのは魔物の動きで、もし彼が人間をいくらか食べたとしたら、もう動き出して、この地を後にしつつあるかもしれませんでした。緊急に調査が必要でした。彼は食べると飢えることを覚えます。次の食事ができる所に、身を移動させようとするのです。まどろみの中にいれば、彼は空腹を感じません。だからクロウルダたちは彼を眠りに就かせていたのです。移動した彼は、その足跡を辿ることができても、人間のそれと同じ速度ではないですから、再度見つけるのに、骨が折れました。クロウルダはもはやこの町は捨てねばならないことを覚悟しました。
 彼らは人を集めて偵察隊を送りました。二柱の門の向こう側は、かび臭い洞窟が続き、丸い空間から歌声を届かせるだけの距離を延ばしました。彼は湖にいました。水の傍に棲み、水を通じて彼は身体を保つのです。その湖に通じる道中に、生き生きとした生命の気配はまったくなく、ただ人間のすすり泣きは、どこからも聞こえました。怖い目に遭い、怖い目に遭いおおせたのです。それでいて、彼らも自らの欲望の暴発する、くだらない遊びに手を貸していたのです。ただの、黄金の取り合いに、何を懸けていたかといえば、それは命ではなく、オグの懐に満ちている、恐慌に近い苛立ちでした。彼らは懸けているものに気づきませんでした。それが命と勘違いしてしまったのです。確かに退けられるのは命でした。ですが得たものは、新しい不安と、突き上げる激しい憎しみの感情でした。
 子供の頃の、子供同士の宝物の取り合いは、文字通り命懸けでした。はじめての喧嘩はそのようにして経験されました。ゴルデスクは、まさにこの頃の感覚を逆撫でにしました。それは、人間を不安にさせました。宝物は、永遠でないといけない。永遠の価値を持ち、永遠に、自分の下になくてはならないと。しかしものの価値とはそれを見出す人自身と一体です。その黄金は人から離れたものにこそ永遠の価値があると知らしめるのです。すると、自分と言う存在はそれに吸収されてしまい、所在無く、振り回されることになります。それが生み出し、増大させる不安は、こうした性質を持つものでした。
 生命に比べて、とわであるものとは、一体何でしょう。一体、人は何を恐ろしく思うものでしょうか。自分自身が、知らぬ間に加担していたものに対しては?不安は突き動かされて厖大になりますが、それが映す映像は大抵見えないのです。不安は欲望と紙一重です。欲しくないのに欲しいのが不安です。ゴルデスクはなぜ欲しがられるのでしょう。それが、価値あるもの以上に、人の不安感を刺激して、さも価値あるものに見せかけるからです。
 人はこれを奪い合いました。これを自分のものにするために、別のものを差し出しました。ゴルデスクはこれを吸収しました。そして、さもオグのように膨れ上がりました。どんな声が、かの黄金の窪みに潜むようになるのでしょうか。延々と、それは呟くのです。
 欲しい、欲しい、何かが欲しいと。
 クロウルダの偵察隊は、そうした猛烈な不安に押し潰されて、すすり泣き嘆くばかりになった人間を葬り去りながら、オグの棲む地下の湖へ近寄っていきました。すると、ごうと風が唸って、いくつもの顔面がのぞいた奇妙な霧の塊が浮かんでいるのを見つけました。それは、どうやらオグではなかったらしいのですが、オグに準じた化け物のように、彼らは感じました。それは霊でもありませんでした。人の意識が、水の精を孕むと、個人の中で混濁した意識が、あるいは他者同士がくっつき合った思いが、かたちを持ち宙に浮かぶことがあったのです。
 とにかくも、危険が間近にあることを彼らは感じました。このまま進むか戻るか、彼らは考えましたが、もう少し先に進むことにしました。広大な空間が開けました。右手側に深い穴が空き、その向こうの高台から滴り落ちる細い滝と暗がりとを呑み込んでいました。滝壷に落とされる水の音は小さく、その穴の深さを物語っています。このさらに奥が、オグの棲み家たる、湖でした。クロウルダたちはたいまつを掲げました。そこに何かいたのです。異様な気配は彼らのうなじを逆立てました。小さな滝の飛沫の音が彼らを守っているようでした。湖から出て、その寝床と隣り合った暗い部屋に現れたのは、大きな怪物でした。無限の顔と、無限の手足と、無限の内臓と、無限の心臓を、透明な体に持っていました。このような形のオグを彼らは初めて見ました。彼は霧の姿でない場合は、鯉や蛇、そして鳥など、何かの生き物の巨体を借りて出現していたのです。
 化け物は、まさにひとしきり過ぎた食事を終えたばかりでした。そこにはそれが食べたものが雑多に浮かんでいたのです。そしてその形を借りて
 彼が今まで食べたものを。思い出したように。
 彼は巨体を揺すっていました。そこに飲み込んだのは外形だけでなく、恐怖や悪意や、憎しみなど、無数の感情もありました。地の底から、あるいはそれが反響した天井から、猛烈な太鼓の音が轟きました。どろどろどろと、どくん、どくんと、下腹を打つ巨大な叫び声が。クロウルダたちは見たことのないオグの異様な風体にすっかり怯えきりました。その巨体が彼らにかしぎました。彼らは一斉に逃げ出しました。オグは、今までこんなに短い間にたくさん食事したことがなかったので、体が重く、彼らにはまったく追いつけませんでした。

「ヴォーゼ、私を絵に描いてくれないか」
 アラルは恋人のヴォーゼにそう頼みました。
「どうして?」
「いつでもヴォーゼのそばにいられるように。勿論、私もここにいるつもりだが」
 ヴォーゼは彼女の考えていることがわかりませんでした。アラルは、海賊どもがエスタリアの町の南の港に攻め込んでいる最中は、山脈向こうの大きな戦争に手を貸していました。そこでまた名を挙げて、ふるさとに凱旋を果たしていました。エスタリアでは北側から足しげく商人たちがやって来ていて、南からの戦いの足音は近づいてきていませんでした。ですが、船員であるアラルの父親は港に戻れず、海外に出ずっぱりでした。港から逃れてきた水夫や大工やクロウルダ、その他の市民は皆エスタリアに匿われたので、町は人間でぱんぱんに膨らんでいました。
 アラルはかつて見た父親の燃え上がる船を思い出して、身を震わせる怒りを新たにしていました。彼女は故郷に戻ってから、港が占拠されたことを知ったのです。アラルは南の港町に自分が乗り込むことを考えました。勿論、後々ここから繰り出される援軍に混じっていくべきでしたが、その身体が疼いて仕方がなくなりました。
 ヴォーゼは素晴らしい作品を仕上げました。刈り上げた頭に、長襦袢に包まれていながらもわかるしなやかな筋肉、鋭い目。ポージングはなく佇んでいるだけでしたが、それが強力な戦士の姿であることがなぜか一目で分かる絵でした。
 出来た絵は描き手であるヴォーゼ自身をどきりとさせました。戦場から帰ってきた彼女の恋人は、すっかり変わった人間になっていたのです。
「やっぱり、ヴォーゼは何でもうまいんだな。私がいなくても、こんな立派な絵が出来る」
 絵は、貴重な文化財としてこの地方では珍重されました。紙は輸入されているものでした。しかし民は交易によって裕福でしたから、手すさびにそれを使うこともできました。ヴォーゼは確かに町のなかでも富裕な者の娘でしたが、最近では、特にアラルが町から離れている時に、一人になる時間を大事にして、文化的なものに様々に触れていました。
 アラルはそれを知って彼女に絵を頼んだのです。そして、自分がいなくても、彼女が一人で身を立てられるくらいにその技術があることを確かめたのです。
「何を言ってるの?あなたがいなくて悲しまないなんてないわ。どれだけ私が、あなたが戦場でいる時に、心を痛めているか、教えてあげたでしょう?」
「だからつまらないんだ。私の戦功を讃えてもらわなくては。一体、ヴォーゼは私をどのように見ているんだ?私は戦士だ、戦場でこそ自分であれる。ヴォーゼのそばにいる自分は、私のようではない」

 イアリオは、夢の中で二人のやり取りを覗き込みながら、主にアラルの気分になりながらも、自分がヴォーゼと重なり合う瞬間がありました。どちらの感情も彼女の中に流れました。そして、この時のアラルの言葉に触れた時に、まさにアラルと自分が重なり合っているために、「怖い」とはっきり感じました。

 ヴォーゼが答えました。
「また悲しいことを言う。どれだけ私があなたと一緒にいて、心が安らかになるか、何度も伝えているのに」

 「怖い」とまた、イアリオは思いました。

「怖いんだ」
 アラルが言いました。しかしその怖さは、イアリオが感じたものとは違いました。
「何を?」
 ヴォーゼが訊きました。
「私もそれは同じだから。今まで何度も、私はヴォーゼを私から引き離そうとしていたんだ。知っていたかい?これ以上の悲しみがあるならば、それは私が戦に行けずに消耗していってしまうことだ。私の活力はここにはない。ここには、安らぎだけがあるから」
 イアリオは彼女たちの幼少の頃から夢に見て知っているので、どうしてアラルがこのように言うのかわかりました。アラルは世界がどのように引っくり返っても自分がヴォーゼと一つにはなれないのだと理解していました。女同士で一つ屋根の下に暮らすことを、許すような世界が訪れないのに、ヴォーゼを愛する自分が許せなかったのです。それは、ヴォーゼについても同じことで、アラルは彼女に自分を愛してほしくはありませんでした。ヴォーゼにはふさわしい人がいる、立派な男性がその傍にいるべきだと。女の私が彼女の幸福を妨げてしまってはならないと。そう思っていたのです。
「それで、十分ではないの?」
 ヴォーゼは短く尋ねました。彼女は、アラルとは今までの関係のままでもいいと思っていました。彼女の方がアラルよりずっと、柔軟に考えていました。
「不安なんだ。私がだんだん消えてしまうようで」
 アラルは何かを焦っていました。その焦りは、この夢を見るイアリオにも覚えがあるものでした。あの町で、自分が町を出て行かなくてはならないと、感じたような焦燥にそれはよく似ていたのです。
 ヴォーゼは、どうやらアラルが海賊に乗っ取られた港へ自分が行きたいことを、こちらに伝えているのだとわかりました。そしてそのメッセージは、クロウルダへの援軍の人々と共に行く、というものではなく、一人でも討伐しに行きたい、と訴えているようなものに感じました。そしてそれは、自分のためでもあるのでしょう。ヴォーゼのためでもあるのでしょう。
「絵だけを残して、行ってしまうの?」
 ヴォーゼはまた、短く訊きました。
「よくわかったね。そのつもりだ」
 アラルはにこやかに返しました。聞き分けのできた、子供に対するように。
「どこへ?もう戻らないの?」
 ヴォーゼは不安が募りました。それは、アラルが戦場へ旅立った時に感じたものと同じでした。ヴォーゼはいつからか、彼女は自分から、強いて遠ざかり始め、まるで、自分は死んでもいいといったような覚悟を持っているらしく見えました。ヴォーゼは皆までその理由を訊きませんでした。いつも短く質問して、彼女の機嫌を窺うようなことをしていました。
「きっといつか、戻るよ。遠くの国からこのエスタリアに、私の武勲が知れ渡る頃にはね」
 ヴォーゼは青ざめました。自分の恋人はいよいよ自分の前から立ち去ろうとしていると、決心していることが分かりました。その決意は今まで胸に秘めていたのでしょう。ヴォーゼを、悲しませたくないために。でもこうして知らせたのであれば、もう、動かないものにそれはなったのです。

 こうしてアラルは、恋人に別れを告げました。もう一人、彼女は告白をするべき相手がいました。彼女を鍛えた、地下の亡霊。少年の師匠です。
「もう、君に教えることは何もないのかもしれないな」
 少年の霊は、青白い炎を上げていました。アラルはその少年以外、亡霊を見たことがなかったので、霊は青い炎を上げるものだと思っていました。いいえ、そのような輪郭を持つ幽霊は、強い想いをこの世に残した者たちでした。
「戦場でも活躍できるくらいだから、君は君の武術をもう君なりに磨けるんだろう。僕ができることはほとんどやり切ったから、そろそろ、この町を出て行ってもいいかもしれない」
 少年はイアリオも見たことがない服装をしていました。襟足のあるシャツ、背広のような上着、そしてシルクのパンツを履いていました。このような上品な、およそ社交場でしかお目にかかれないような衣服で、少年の霊はずっとアラルに剣術を教えていました。
「…私は、今になって一つわかったことがあります。それは、ヴォーゼがいるから、私はこの町から出て行きたいということです。私の望む心は彼女と共にいることではない。彼女といると堪えられなくなります。穏やかではいられません。穏やかになることを、私は拒んできました。平穏は私の望むものではないのです。それではなく血が、滾る血潮が、安らぎではなく荒ぶる心が、欲されるのです」
「そうだよ、アラル。君は本懐を遂げなきゃ!」
 少年は嬉しそうに片手にグラスを持つ仕草をしました。地下の倉庫にはたくさんの酒樽が積み上げられていました。彼女も少年を真似て、ぎこちなく片手を上げました。空想のグラスの端と端がかちんと合わせられました。
 アラルはまた、ヴォーゼに別れを告げたことを少年に言いました。
「そうか。いよいよだね」
 少年の霊は頷きました。彼女の決意が固いことを確かめたのです。強い冷気がその場に漂いました。ぴりりとした冷たい空気は、アラルの心と体を引き締めました。
「ところでアラル、港町の様子はどうなんだい?」
「わかりません。行くのは止められていますから。海賊どもがもしこの町を襲うようなことがあれば、私は守るためにここにいなければなりませんが、あの港には魔物が眠っているために、どうなるかは予測がつかないのです。打って出ることは魔物も刺激することになるから、慎重なのです」
「それは、おかしい」
「どういうことですか?」
 少年の霊は不自然に揺らぎました。それはただ身じろいだだけにアラルには見えました。夢見手のイアリオは、軽く呼吸が苦しくなりました。
「アラルほどの腕前の者がここにはいるのに、海賊はおろか魔物にすらチャレンジしないとは!皆、君の実力はもう知っているだろう?北の地でどれほどの武勲を得ることができたか!君は二十人の戦士たちを斃した。それも前線で、矢面に立ちながら。君がいれば、敵は追い払えると考えるものだろう。今こそ君が、その剣舞で何もかも脅威をなくすことができるんじゃないかい?」
 幼い頃からの師匠から言われると、アラルは自分が一人でも港に赴いて活躍ができる、そんな気がしてきました。このように彼女は少年の霊に言われ、自信をつけて戦争にも参加していました。また、男の子たちと喧嘩をする時も、勿論武道の手ほどきを受けてからでしたが、アラルは突発的に手を出すことはなく、どうにも収まりの付かなくなった状況になった時にだけ、腕を振り回すように教えられていました。
 彼女はいつも準備して事に当たりました。そして、それは少年の霊の指導の下でした。しかし、彼女はオグの恐ろしさも大人たちからよく聞いていました。
「あの魔物が、果たしてこの手にかけられるでしょうか。無限の悪意を持った怪物を、一介の人間の手で?でしたら、もうとっくにやっつけられたでしょう。わざわざ神官が見張りをしなくてもよかった」
 クロウルダは周囲の人々に啓発も行っていました。自分たちの役目をアピールしながら、何びともオグに近づけさせないために。
「やってみなきゃ、わからない。アラルの手は、そんなに小さいかい?仮に討てなくても、町を出て修行して、強くなってまた戦ってみたらいいじゃないか。そのために今一戦交える必要があるんじゃないか?強大なものほど想像でその大きさを測ってはならない。実際に手を合わせてみてから、どうすれば勝てるか、どうすれば強くなれるか、考えていくのが、強くなっていく者の向上心だから」
 しかし彼女は、ことあるごとに、少年にオグに対する対峙心をはぐくまれてきました。いつか、それは滅ぼさねばならない魔物として言われてきたのです。オグは、少年にまるで過小評価されたような実物に当てはまらない心象を、アラルにほのめかされ続けていました。
 アラルは自分の師匠のことを一(ごう)とも疑ったりしませんでした。彼女は師匠に言われたことで自分の腹が決まったような気がしましたが、それはずっと自分の腹の中で考えていたことのように思えて、その本当は違いました。
 もしかしたら、彼女はヴォーゼよりも自分の親よりも、この幽霊を、愛していたかもしれません。
「できれば、置き土産にしたいものです」
 アラルは、大変愚かな決断をしました。
「今ここで、私は私のなすべきことをするのです」
 その決断こそ、自分をより強く、たしなめてくれるものだと思いました。麗嬢のヴォーゼを、愛してしまった自分を、たしなめてくれるものだと。夢を見るイアリオは怖くて堪らなくなりました。彼女はこの夢のさなか、夢の続きを見るべきかどうか、迷いました。
 これは夢だとはっきりと彼女は認識していました。ですが、生々しい、現実に起きたことをなぞっているような、手触りすらあるアラルの心は彼女そのものになり、夢は、それを見ている者から見る見ないの選択を取り上げていました。夢の中で、彼女の髪は猛烈に逆立ちました。巨大な月の月光が、眠りに就く彼女のからだを照らしていました。月台から見える月は、天に近く、あまりに巨大に見えました。
 月の儀式の台座に寝そべり、神官は月が変わらないことを認めました。暦を読むために、その満ち欠けをじっと観察しました。その不思議な天の観測は、暦を読むことそのものの神秘にも触れていました。いつから時代は始まったのか。いつから人はその意識に気づき、歴史を認識したか。月台の神官たちは、自ずと古い時代にも思いを馳せるようになったのです。いつから人は、繰り返し時代に生きることを自覚するようになったのか。いつから人間は、時代を差別するようになったのか。昔はいいなどと思うようになり、未来を不安に感じるようになったか。
 繰り返される歴史の正体は、今と昔の変化と同一性です。人間の意識が、変わっていくものと、変わらぬものとを認めるのです。
 月の満ち欠けが、女体に影響を与えることも古くから人間は判りました。母親となる身体に、まるで命を呼ぶような働きかけを行うのです。

 アラルは港へやって来ました。片手に剣を提げて、います。それは細身の刀でした。刺突に優れ、斬るのに不適でした。鞘から抜けば、それは鋭い弦月の光を煌めかせました。この時代の服装は、イアリオたちの時代から遡るにしても、トラエルの町のものと頗る同じでした。スカート様のパンセはいくらか丈が短く、かろうじて膝が隠れるくらいで、上着のセジルは裾を縫い止めず、だらんと垂らしているものでしたが。アラルはそこに革と鉄でできた肩当と鎧と、膝当をあてがいました。そして兜を頭に嵌めました。彼女にとって一番高価な武具はこれで、精鉄を伸ばした軽く頑丈なメットでした。どこからどう見ても前線に臨む足軽の風体で、じっと港の入り口に待機をしているクロウルダの面々と彼女は向き合いました。
 港はかつて彼らが建てた時より町として工夫され育ちました。大工たちが、そして料理人たちが移住してきて、海外から彼らとは異なる人々が集まり、そこを住みよい場所にするべく働きました。クロウルダは、港を造りながらオグを祀り、自身は貿易商人として生計を立てて暮らしていました。その民族の中で、神官職に就くのは順番で、誰もがオグへの祝詞を唱えられ、そして選ばれて人身の供奉となることができました。彼らは港を造ることにもはや秀でていました。どんな所でも水辺に船舶が繋げられる波止場と波を抑える湾を造り出せました。その大規模な工事のやり方を彼らは熟知し、雇える人間さえいれば、望みの港湾を完成させられたのです。そして、港は人を集めました。彼らは、自分たちだけでオグの活動を抑えていることに誇りを持っていましたが、その町は、実に多くの人々に造られ支えられ、維持されてきたのです。
 エスタリアの南の港は、はじめは硬い岩盤の岩壁に沿った浜を埋め立てて造られていました。港の外に暗礁を仕込み、波が津波とならないように海の中に障害物を置きました。とても小さな桟橋から始まったのですが、ここの地理的利便性に誘惑された人々が、より大きくしようと岩盤を削り出しました。すっかり港は規模を大きくし、岩の屋根に覆われた異様な(魅力的な)水辺の町となりました。
 そしていたく海賊たちに気に入られたのです。町は、岩盤の上に坂を伸ばし、その頂上を出入り口としました。二本のスカイブルーに染め上げた柱がその門でした。そこに偵察隊を後方で支援するクロウルダの人間たちがござを敷き座っていました。
「何用で来られたのだ、女戦士殿」
 彼らは一目で軽装の戦士がアラルだと分かりました。彼らはエスタリアを今は拠点として、凱旋してきた彼女を迎え入れるエスタリアの人々と共に遠くから眺めていたからです。
「まるでこれから戦にでも出掛けられるようだ」
 ちなみに、クロウルダたちは港の戦いにおいて港町の人々と協力し合いながら彼らも武器を持ち抵抗していましたが、特別に兵士を雇って海賊を追い返そうとはしていませんでした。なぜなら彼らがするべきことはオグの監視であって、港の守護ではないからです。
 彼らの質問に、アラルは堪え切れないように笑いました。
「戦にはなっているだろう。私も参戦しようと思ってな」
「あなたの力が必要になれば我々からそう言う。ここにいるのは人だけではない、もしも、それが出てきたら取り返しのつかないことになるのだ」
「私がいるではないか。私がなんとかして食い止めてみよう」
 アラルは傲慢さを隠さずにそう言いました。
「愚かな。しかし今、かの魔物は腹が膨れ上がり、移動が困難だという。
 だがどんな事態になるかまだわからない。人を呑んだ以上、あれはこの町から去って行くはずだから」
 女戦士の目が閃きました。彼女は戦地で食事後の駐屯地を襲撃し、十分に動けない敵の命を取ったことがありました。
「オグが?人をもう?」
 彼女はわくわくしながらそう尋ねました。「怖い」また、夢見手は思いました。
「かの魔物の毒牙に掛けられた者を、一人も出してはならぬ。そして、できるだけ早く、オグの追跡をまた行わねばならぬ。今は動く時でなく、待つ時なのだ。慎重に事態を見極めねばならぬ」
「だったら私が様子を見に行こう。戻ってきて話せばいいんだろう?」
 彼女は長い腕をゆらゆらと揺らしながら言いました。
「そのためにあなたを行かせるわけにはいかない」
「なぜ?」
 クロウルダたちは、彼女の思惑など皆分かっているかのような目を上げました。
「あなたはクロウルダではない。然るべき修行なくしてかの魔物には太刀打ちができない。あの悪意の集団には己の悪を見出すのだ。見るだけで、気分が損なわれてしまう。あなたとて彼に食われ操られる。私たちの刃はその時あなたに向けられるから」
 アラルは片手に剣を振り抜き、脅すように彼らに向けました。彼らは彼女を通しました。あえて彼女の前に立ちはだかることはしませんでした。クロウルダたちは嘆きました。彼女のその愚かさが、自分自身へのオグの到来を招くことを彼らはよく知っていました。自尊心ほど悪に付け入る隙を与えるものはないということを。
 アラルの師匠は、名を明かしませんでした。アラルは彼がいつからその地下室に棲み付き、なぜ自分に剣を教えるか、訊こうと思っていましたが、つい今まで尋ねませんでした。ただ、彼が彼女をずっと愛していることは、よくわかりました。もしかしたら、彼は父親か母親の親戚なのかもしれない、とアラルは思いました。アラルがまだ物心ついてない頃に、病が流行し、大勢の犠牲があったことを彼女は聞いていました。少年の霊はその時に亡くなった者かもしれないと彼女は考えたのです。
 しかし一方、たくさんの人間の死の上に自分の生があるということを、彼女は誰からも教わることなく意識していました。それは戦場で斃した敵の輩のことではなく、無限に伸びた血筋の祖先のことです。自分が、生きているのは一つの偶然だと、彼女は考えました。アラルはそうした感覚に、敬虔な一面がありました。それでいながら、すべての生きとし生けるものを愛するような感情は、彼女にはありません。それはヴォーゼにありました。アラルはむしろ自分が生きていること自体に、何かおかしさを感じていたのです。自分こそ疑問の源でした。女でありながらどうして自分には男にも劣らない筋肉がつくようになったのか、女でありながらなぜ同性の人間を愛してしまったのかと。
 その分彼女は人の心理にも敏感になりました。誰が誰を憎んでいるのかが分かりました。彼女は自分を憎みましたが、同じようにその身を憎む人間を見出しました。その人間と自分は同じだと思いました。彼女のそうした心の論理は、他人に(あず)かるものではありません。ただひたすら自己を見つめるような、実は他者と向き合うことのない、空虚な、(から)足を駆け回すような孤独な心理でした。だからでしょうか、ヴォーゼから深く愛情を向けられていたにもかかわらず、それが彼女に深く根を下ろすことにはなりませんでした。
 彼女は剣を構えて行きましたが、敵には出会いませんでした。みすぼらしい男たちがすすり泣きしている脇を通り過ぎただけです。男たちは恐怖に出会っていました。彼らはオグやゴルデスクに容易に自分の悪の感情を高められなかった者たちでした。自分自身の悪を、のぼせるほど高められた者たちを、見ておののいた人間たちでした。あるいは高められたとて、途中でその昂ぶりが途絶えた人間たちでした。途絶えたあとで、絶望した者たちでした。しかし彼らは生きていました。ある怪物にすべてを喰らわれることなく。アラルは地下道に入り、松明を掲げ、二柱の神殿から奥に入りましたがずっとその光景は続きました。
 彼女は徐々に、何か不思議な威力が目の前に現われつつあることを感じました。彼女はクロウルダのように魔物には触れてきませんでしたから、その感覚は、クロウルダとは異なるものでした。彼女は偵察隊の辿った道筋を行かず、イアリオがハリトとレーゼと共に通った横穴に近い道を行きました。いずれの道も道標がしっかりと岩壁に書かれていて、迷うことはありませんでした。そして、魔物の棲み処たる、冷たい水の湖に辿り着きました。しかしそこにはオグはおらず、ぴちょんぴちょんと跳ねる滴がこっちではないよと言いました。彼女はさらに先へ進みました。狭い入り口を抜けて大きな空洞に行き当たりました。イアリオと再会したピロットが、その湖の先へと連れていった、彼女と抱擁した古代の岩場でした。
 夢見手のイアリオは思い出しました。確か、そこは白みがかった縦長の岩がたくさん並んでいた所だったはずです。しかし、筍のように生えた岩は、黄金色に毒々しく輝いていました。アラルはそこで、不気味に輝くその岩に、体を摺り寄せている男たちを見つけました。彼らは一心にその岩を愛でていました。方々から呟きが聞こえます。
「これは俺のもの…俺のものだ…」
「口が汚いぞ。ふさわしい言葉で愛でたまえ」
「永遠の至高の宝…こんなにも我が手元に…」
「ああ…ああ…何もいらない…これだけがあれば…」
 ゴルデスクの光に彼らは皆囚われていました。これを巡っての争いに彼らは自ら陥ったはずでしたが。にょきにょきと生えた黄金の鍾乳石は争い合う彼らを見て、自らを手元にして満ち足りてしまった彼らをそばに置いて、それ自身が放つ欲望の明かりをいかにも発散し尽くしていました。
 アラルは彼らに関心を持ちませんでした。オグの棲家の奥の危険な鍾乳洞は話に聞いていましたが、自分はそれに惑わされていないと確認するだけでした。さて、オグはどこにいるのでしょうか。
 彼はどこかにいる者ではありませんでした。人の求めに応じて、やって来るのです。そばにいました。そばにいました。しかし、彼はまだ出てきませんでした。彼女はまだ求めていないのです。オグを呼び寄せるほど、自我に巨大な悪をまだ欲していないのです。だから
 彼がそばにいることもまたわからないのです。
 彼女は湖に返り、別の道を進みました。剣の切っ先は敵を求めて、鈍く光っていました。敵?敵なんているのでしょうか。彼女の要望は何でしょうか。それは逃げ出すことでしょうか。いろんな音が鳴っていました。世界には聞こえぬ音も鳴っていました。さらりとした音も、鈍い音も。高い音も、低い音も。全部がそこで鳴っています。しかし聞こえてくるものは違いました。人によって違いました。時代によっても違いました。彼女にはせせらぎの音が聞こえました。洞窟の道はとても幅が狭くなりました。こんな所で誰かが襲撃してくればひとたまりもない気がしましたが、構わずアラルは進みました。道の先から、香しい花の香りがしました。アラルは立ち止まって匂いのする方を確かめました。どうやらこの先、地上に出るものと思われました。風が吹いているのです。
 アラルは、からからという乾いた何かの転がる音を聞きました。その音はどこから聞こえたものか、分かりませんでした。不意に、彼女の脇を何者かがかすめ、彼女はたいまつを奪われてしまいました。灯はたちまちに暗闇を遠ざかりました。彼女は、剣をゆっくりと構えて、どこからでも剣戟が来てもいいように待ち構えました。何も見えませんが、耳で気配は感じられるものと、信じたのです。彼女は動じませんでした。
 何も起きませんでした。彼女は道の先へ、おそらく地上に出る方へ、どうせ敵を討つなら光のある場所でと、歩を速めました。穴は出口に近づくにつれてまた細まりました。彼女は両手を岩壁に当てつつ進みました。そうして穴蔵を掻き分ける手に日差しが当たりました。温かみをそこに覚えて、彼女は洞窟を脱出しました。日差しは高く、ほとんど真上から太陽が大地を照らしていました。アラルは深い深い谷間の亀裂の底にいました。
 そこには川が流れていました。たいそう良い匂いのする川で、アラルは町や戦場近くの川原でもこんな匂いを嗅いだことがありませんでした。うららかで、清涼で、包み込むように、甘さを鼻腔に届けています。辺りに耳を澄ませました。先ほど灯を盗んだ何者か知れない相手が、まだこの近くにいるだろうからと。川のせせらぎの平和な音が、彼女が後ろにした光景とは異常に異なる世界をそこに見せています。一歩一歩、彼女は剣の柄を握り締めて、川を遡る方に進みました。行く手の川は、ぐにゃりと大きく左に曲がっていました。彼女は岩壁の傍の歩ける砂利を、裸足にも関わらず進みました。そして、その岩壁のカーブの向こうに、何とも言えない美しい、緑色の小島を見つけました。小島は丁度川原の真ん中にあります。ふかふかの黒色の土に覆われていて、その上に花が咲き乱れ、蝶が飛び、木の看板がひとつ立っていました。そして、白い服を着た女の子が一人立っていました。
「ア、ラル」
 ふとよく聞き知った声が上からしました。亡霊の少年が、はたはたと空から下り、小島に降り立ちました。蒼白い火を体から上げて。
「よく来たね。この場所へ」
 看板には、誰かの名前が書いてあります。アラルには読めませんでした。いいえ、アラルに同化しているイアリオには読めました。二つの名前が並んでいました。キャロセル、そしてサルバ。サルバ…?
 ああ、ああ、なんてこと!イアリオは今深く浅い昏睡の中でこの夢の意味がわかりました。それは以前見たことのある夢からまったく続くものでした。キャロセルという姉が、その弟を虜にした…弟と通じ合い、自分と弟が離れ離れにならなければいけないことになり、キャロセルは弟に自分を殺すように頼むのです。そして
 弟はその後姉を追い自殺します。なぜ自分は今こんな夢を見ているのか。夢見手のイアリオは気が遠くなりました。禁忌を見ている。見てはならないものを見ている。彼女はそう思いました。しかしそこにあるのは、現実にも近い、生々しい感触と、確かな自分の記憶であるような奇妙な錯覚でした。とてつもない過去をこの目にしているようでした。
 そこにあるのは自分の生まれる前の記憶とでもいうのでしょうか。前世?前世など本当にあるものでしょうか?
 そして、夢の続きを見ることを彼女は拒みました。ですが、一度見た夢は、話を中断せずに、そのまま動き続けました。前世の記憶など見たいものでしょうか。しかし彼女は、幻も見る覚悟を持っていました。あのヴォーゼの亡霊の、放った言葉も受け入れたのです。イアリオは、この夢を見るために彼女の町を出て行ったのです。
 遠い記憶の呼び掛けに、ちゃんと応えるために。
 どんな過去であっても、それを受け入れるために。
 銅鑼の音がします。甲高い、まるで宇宙を司るような。高く、高く。水の音がします。ちろちろと透明で、切なく、儚い。どこまでも、小さく、聞き取れないほどに囁いて。まるでその音たちは、彼女の持つつるぎの切っ先に集まっています。どうして彼女は剣を持っているのでしょうか。敵を、討つために。
 敵とは誰か。
「敵は?この辺りにいるようですが」
 アラルはまったく愚かなことを言いました。彼女の前世は、その弟に向こうの小島で寄り添いました。そして、亡霊の少年はいつくしむ目で、女の子を見ました。
「おいで。大丈夫だから」
 小島から彼女の前世の弟がアラルに向かって呼んでいます。アラルは、イアリオは、過去と今が逆転したような気がしました。
「ここにはいないよ。でも、実を言えば、僕

は彼のしもべなんだ。ああ、剣を振り上げてはいけないよ!僕たちは力のない者たちさ。アラルに剣の扱いを教え、正義を教え、力を教えることはできてもね。
 悪なんてものは押し付けられないのさ」
 少年はアラルの前に悲しそうに佇みました。
「そう、僕たちは…あの魔物に、虜になった者たち。なぜなら、オグは、かつてこの世界に起きた大洪水の末に現れて、全ての人間の悪意を吸ったのだからね。僕たちは皆旧世界に生きていた。僕たちは皆オグに吸収されてしまったんだ…そう、僕たちは…」
 アラルのいる方とは逆から、小島に、続々と大小様々な霧の魔物たちが這い上がってきました。彼らは大きくても人二人分ほどでした。霧塊たちが、緑の小島に溢れました。異常な冷気が辺りを漂うも、日差しは変わらず天から降って来て、中州の緑はぬくもりのある色のままでした。
「彼らは、しもべ。オグは、破壊者。だが生み出すものがある。それは、守護者。ほら、忠実だ。何に忠実かって?決まっている。人間の欲望にだよ」
 少年の横で、女の子は笑いながら、ひらひらと長裾のスカートを回し、歌を歌い始めました。霧の土偶たちは少女の周りに集まって座り、膝小僧を摺り寄せて、おとなしく動かなくなりました。少女の歌声は、可愛らしく異常に美しく響き、アラルの身に毒のように染み入りました。それは女の陰唇を思わせました。性的な文句が並び、花びらと棘とを含みました。聴く者によっては恐ろしい猛毒が満ちていました。
 アラルはだんだんと思考が働かなくなりました。
「彼らは守護者だ。怖いなんてものはない。だって、彼らも僕たちの一部なんだよ?僕たちこそ彼らの一部でもあるのさ」
 少年の声もうたうようでした。雷鳴が起こり、火花が迸りました。彼の透明な体の中で。

 イアリオは、眠る台座の上でもがきました。誰にも言えない苦しみを、反芻したように。体が熱く、火照っていました。しかし、足先は冷たく、凍えていました。彼女を天から眺めて、彼女の中に入りたいと思う者たちがいました。遠い星空にいる者たち。この世に思い残した死霊たちが。彼らはまるで、彼女を月のようだと思いました。地上にいた、明るい月。いいえ、月は、空に浮かんでいます。しかし星のように遠くから見れば、月も彼女も見分けがつかなかったのです。
 それだけ煌々とした光を、霊たちの目から見たら彼女は放っていたのです。邪まな亡霊だけに見える、魅力的な月光を。彼女は依り代に見えたのです。どんな人間もその胎内に宿ることのできる。彼らはおそらく誰かに慰められたく思っていたのでしょう。幻の母親を求めたのでしょう。その感覚は
 古くからある人間にとって最も原始的で恐ろしい感情の一つでした。幾多の悪がそこから生まれました。無理矢理に女の腹を満たそうとする行いを通じて。自分が生まれ変わりたくて。
 そして、絶望して。いかにも悪と、同化して。

 アラルは、少女の歌に聴き入る内に、古い神話を思い出しました。
「海の向こうから、大きな獣がやってきました。その獣は、海を飲み込み、川を飲み込み、全世界のありとあらゆる所の水を飲み込むと、違ったものを吐き出したといいます。再びの海の他に、川の他に、山、大陸、岩、石ころ、植物、動物、人間、さまざまなものを、その口から外に出しました。世界は昔とは違う形になりました。
 ところが、それでその獣は死んだわけではありませんでした。世界と同じように、形を変えていたのです。身体はばらばらにされましたが、その一つ一つの断片がなお生きています。例えば、星になったもの、歌になったもの、神様になったもの、そして人間を食べる悪霊になったものなどが。」
 アラルは沈黙し、薄く目を開いて少年を見ました。彼の体は風に揺らぐように、その縁をゆらゆらとさせていました。彼女は目を瞠りました。彼の顔に、あのヴォーゼの面影を見た気がしたからでした。
(違う)
 イアリオは一人心の中で呟きました。
(彼は、どちらかというと、あいつだ。ピロットだ)

 いいえ、違いました。彼女は終生気づきませんでした。彼女の生でその相手を愛することはありませんでしたから。彼女は(イアリオも、そしてアラルも)愛を自分が向けていたと思っていた相手をその彼に重ねて見ていました。つまり
 別の夢の中、キャロセルという女性が、自分の弟を虜にしたような愛を向けた。苦味が口全体に広がりました。アラルは、愛の種類を選んでいました。ただ向こうから来る愛を、唯一だとして受け取ってはいませんでした。自分自身から迸る愛が、受け手に届かなければなりませんでした。こうあってほしいと望むような。アラルは恋人に望んでいました。恋人が幸せになるように。どうか幸せになるように。自分がいない所で幸せになるように。
「先生に、名前はあるのですか?」
 アラルは生まれて初めてその質問をしました。少年の霊はいびつに笑いました。
「あるよ」
 彼は、歌う少女を引き寄せました。
「サルバ。サルバストラ=セブラル=トアリボロ。僕はある貴族の長男だった。そして、こちらが…知ってるかい?キャロセル、キャロセル=トアリボロ」
 アラルは、がん、と力強く頭を打たれたような気がしました。しかしその衝撃の意味を、彼女は分かりませんでした。知っているのはイアリオでした。知る機会があったのは彼女でした。涙がぼろぼろ零れてきたのは彼女でした。
 もう夢を見たくありませんでした。ですが、夢は、当然まだ動き続けました。
 アラルは息を飲みました。どうしてかわかりませんが、彼女は天を仰ぎたくなりました。彼女たちは、エアロスの伝説を知っていました。あらゆるものを打ち壊す暴風の神と、そしてそれが壊したものを再生するもう一人の神の。あの神々に、彼女たちは、祈りたくなりました。
 壊さねばならないものを感じたのです。そして、結び直すべきものは何かを感じ取ったのです。アラルはいきなりつるぎを島に突き立てました。霧の魔物たちがそれで怯えたように彼女から退きました。アラルは、大声で歌い始めました。
  「この世の静か 破る者たちよ
   手に手に剣を 取り給いて
   何をか得んや 誰をか討ち果たしや
   我そを止めん 苦しみの必定を」
 それは古い歌でした。ずっと昔に洪水に呑まれた大地の、唯一海の上に残った土地の伝説を、彼女は言い伝えられ聞いていました。海の水が引いた跡地には豊穣な世界が広がったと…。彼女は、その豊穣を謳う歌詞を口にしたのです。その
 豊穣を巡って争いが生じたからです。目の前に現れた水に濡れた大地は、人が待ち望み、新しい時代が開けたというのに!アラルが口にした歌詞はその祝詞のほんの一部でしたが、大声で歌わずには、いられませんでした。エアロスと対になるイピリスという神が、その歌の続きの歌詞には現れていました。イピリスは大洪水を起こしてしまったパートナーの意思をも受け入れて、豊穣の大地を褒め称えるのです。
 アラルは、気付いていたでしょうか。無意識に、その歌でたくさんの霧のくぐつたちを慰めました。彼女の声音は凛として、くぐつたちの霧の一粒一粒に、伝わりました。それまでキャロセルという少女の危険な歌に聴き入っていた化け物たちが、次々に、すごすごと小島から引き下がりました。少年が意外そうにそれを見つめました。そして、くるりとアラルを振り返ると、わなわなとし始めました。しかしそれもすぐに収まりました。アラルは遠のいた意識を取り戻しました。少年の言葉も、一語一語振り返ることができました。
「先生は、オグのしもべと、そうおっしゃいましたが、ここは、やはりそのオグの棲家なのですか」
「そうだ。そうだよ。でもね、彼が君を連れて来たんだよ。ゆっくりとね」
 アラルはまるで目の前の師匠が、腹が膨れて満腹のように見えました。けれど健康的な様子ではなく、不健康なものを食べた後のような。
「オグとは何者です?」
 オグとは何者?それは、決して彼女が意識したことがなかった質問です。それはクロウルダが相手にしているもので、今までは自分とは何も関係がなかったからです。ですが、彼女はそのオグを討ちに来ていました。目の前の、この少年の言うことに唆されて。
 アラルは、まだこの少年を信じていました。師匠の言うことに、従順に、耳を貸す元の彼女に戻っただけでした。
「旧時代の記憶。洪水の歴史を知る者。その原因が何か、とね。古い術が彼を造り出した。人間は海に呑まれ、体中がばらばらになったけど、彼が、皆を繋ぎ渡したんだ。オグは救世主だった。でも彼が吸収したものは人間の一部だった。それは、悪意と呼べるものではなかった。純粋な人々の欲求だといっていい。救われたい、助かりたい、生きていたい。どんな人間も危機に際してそれを願わずにはいられないだろう。だがその思いが大海嘯を引き起こしたなんて誰が考えるだろう。考えないね。そりゃそうさ。
 思いの力はひどいものさ。救われたい、助かりたい、生きていたい。すべて独りよがりなのさ。自分だけさ。そう願った人間は、他のことなど気にしない。どんなことをしても救われたいと思うのさ。鈴の音が聞こえるかい?その時起きた、儀式さ。人間は儀式を執り行なう。そうして思いを集約して、威力を持ちたがるのさ。
 古い術は、彼を呼んだ。彼はそれに応えた。すると、大勢の霊魂が彼の所に集まってきた。彼の誕生だ。願いが叶って、人はどうなる?すぐに忘れる。願いは叶ったんだから。じゃあ、折角集まった思いの力は?どうなる?どうなると思う?消えてなくならないんだよ。大抵社に祀られる。けれど、オグはもっと巨大だった。祀れなかった。オグは体を分離した。あまりに大き過ぎて、耐えられなかった。でも、それで彼は自分を見失った。人々の思いが自分を呼んだことを忘れてしまった。彼には人間が必要だった。しかし彼は人間から分かれてしまった。その力を持ったまま」
 この世には、かつて、魔法がありました。魔法は、人の願いを叶えましたが、一人だけの願いではそれは実現しませんでした。複数の人の願いが、重なるように、現実を歪めて思い通りにしたいと思わなくてはならないのです。現実は歪められました。なぜ世界には魔法が掛かるのかと、人々は疑問を持つようになりました。
「彼は応えたかった。人間に。すると、彼の力はある方向を向いて、走り出した。彼はね、実はいいこともしているんだよ。その巨大な力を使って、人間を救ってもいる。でも、あの大洪水の最中求められた強い願いは、新時代にはなくなった。かろうじて、見出されるのは、ね、自己破壊的な願望だったのさ。彼は、お人よしなんだ。人間の願望の後押しをする。彼は、そうするのが大好きなんだ。どんな望みでも、実現したがる。それは…」
 魔法は、掛ける者の願望が叶えられるように見えて、実は別の人間の思いを叶えるものでした。人は、自分の願いこそ真に実現することはなくて、他者の願いを叶えようとする時、本当の「実現」を知ったのです。しかし人は勘違いをしました。他人の心が自分に侵入し、操られ、自分の望みこそ自分にだけ宿ると思い違いをしてしまいました。
 人の心が分かるということは、自分の心が分かるということなのです。あるいは、歩み始めるということ、分かりつつあるようになるということ。
「どうだろう?人が、もっとも実現し難い望みって何だい?彼はそれに気付いたんだよ。人間の、悪の望みにね」

 アラルは、背筋が凍りつく気がしました。イアリオもまた、同じようになりました。人の心が分かるようになるということは、自分の心が分かるようになるということ。

「先生は…」
 アラルは(イアリオは)この少年の心を初めて読み取りました。それまでは彼のことをずっと信じる一方だったのです。
「そう。僕がオグのしもべなら、僕もおんなじだ。誰の願望をかなえようとしていたと思う?君しかいないね。君だろうね。ずっと昔から、君は力を持ちたいと思っていたよ。どんな力か、もう判るんじゃないかい?幼い頃から、君はずっと、自分に自信がなかった。あの恋人に寄せられた想いに、十分応えられるかどうかって。君は彼女を守りたかった。その一心で君は剣の実力を高めていった。でも、なぜ僕が君に宿ったか。オグはね、守り神じゃあないんだ。
 オグの力は、大き過ぎる人の望みを叶えることだ。君は君の手に余ることを望んでいたんだよ。わかるかい?君は、恋人から自分の身を引き離すことを…!」
 大き過ぎる望み…?大き過ぎる望みとは何だ…?アラルは少年の霊の言葉を反芻しましたが、分かりませんでした。少年の影で、再び少女が歌い出しました。イアリオは…少年の言ったことの意味が、
 恐ろしいほどよく分かりました。彼女は、キャロセルという女性の夢を見ています。自分の弟に自分を殺すように命じたことを。
 彼女は、オグの食い荒らした町村の跡を辿っています。そこにいた、亡霊たちの言い分を、クロウルダと共に余すところなく聞いています。
 彼女は、その昔自滅したふるさとを地下に沈めた町の人間です。町の人間が怯えたのは、大き過ぎる人の望みを抱いてしまった自分たちの祖先でした。そして
 彼女は自ら本当は好いていた相手から身を引き離しました。大き過ぎる望み。それは誰かといる自分が分からなくなるということ。誰と共にいるかが分からなくなって
 その誰かと思いを一つにしてしまうこと。悪。
「君は、忘れてしまったのかい?」
 彼が訊いてきました。
「そうか。忘れてしまったか。僕は君に殺されたことがあるんだよ、キャロセル。いいや、キャロセルを前世に持つ、アラル。
 いいや、君は、何者でもない。僕は君の求めに応じてこうして現れたんだから。なあ、キャロセル、アラル、いや、誰かな。誰でもいい。君は望んだんだ。
 今世でも再び、悪いことを。君は愛情を向けてくる相手に自分の愛情を渡すことができない。感覚することができない。君の中には君だけだ。そうした君が、何を望む?
 いい加減なことさ、自分勝手なことさ。君は周りを破滅させる。だからこうして僕が復讐にやってきたんだよ?君は周りの人間の感情など一顧たりともしないのさ。常に自分が中心だ。僕の思いは君には届かなかった。
 僕はね、君の操り人形になった。わかるかい?段々、わかってきたね。前の人生の記憶が蘇ってきたね。そうだよ、君は僕に、ひどいことをさせたんだ。またさせるのかい?君の恋人に、恨まれたいかい?僕は君を追いかけた。すぐに、死んでからも。僕は自殺した。なぜ?君のそばにいなければいけないと思ったからだよ。僕は自分の人生を君のために失ったんだよ。それが僕だったんだ」
 少年の霊は透明な剣を拵えました。それは、イアリオの夢の中でも見たものでした。キャロセルが、弟に頼んで胸を刺し貫かれた一振りの武器です。名を、テスラといいました。その意味は、友愛、情熱。その武器に名を与えて、テスラで私を突き刺して、と彼女は弟に頼んだのです。彼女は愛を頼みませんでした。あれほどのことをしておきながら、姉は、歪んだ絶望を、彼に押し付けることしかしなかったのです。
 しかし確かに彼女は弟のことを愛していました。性交を求めるような我が物にする愛ではなく、あのフィマがニクトを愛でるような、本当に彼の成長を期待して手助けするための、愛を彼女は持っていました。弟もまた、そちらの愛も感じていました。茶色の希望がありました。彼女は自分の愛をごまかしました。自分のために、弟から、弟の愛を盗もうとしました。
 どうして?
「さあ、これで君を突き刺そう」
 弟が近づいてきました。
「悪夢かい?」
 アラルはイアリオのように生まれる前の自分の過去を思い出していました。彼女はキャロセルと同化していました。目の前でくるくると回りながら嬉しそうに歌う白い服の少女はいつか自分自身になりました。
 ギャアギャア。何かが遠くで叫んでいます。
「もう一度、君は死ぬんだよ。君を愛した者からそれを突き刺される。テスラがいいかい?また、最初からやり直しだ。
 君は、彼女に友情しか頼んでいないだろう。愛が恐ろしいから。ヴォーゼはそれがわかっているよ。だから、彼女は悲しむしかないんだよ。君が討ち果たそうとした魔物、それは一体何だい?君自身が呼びつけた。君のために。君のわがままのために。そんなんで倒せるかい?オグは、君を求めたよ。わかるかい?オグの体の中にあるのは、人間の絶望だからだよ。
 そのために人は生きているんだ。最も実現し難い望みは、絶望をすることだ。それは望みと反意だからね。だが望みを絶った霊は安らかに眠る。忘れることができるんだ。
 残るのは、それを願った力なんだ。他人の中に、空中に、それは残る。本人だけさ、救われるのは。いいや、それは、救いになるかい?閉じた世界に一人だけ、それでいて満たされるかな?同じ過ちを繰り返すのさ。今までの自分を振り返ったことがあるかい?
 大抵人間はそうしない。だって後ろ向きの考えは否定されるだろう?皆、前向きがいいのさ。何を踏んできたかはどうでもいいのさ。忘れてしまえ。くそくらえ。事故が起きてもしょうがない。キャロセル、ああキャロセル、僕はまだ君を想う。君を慕っている。どうして僕に自分を殺せと命じたんだい?ずっと僕は考えてきたよ。そしてやっとわかったよ。君は僕をただ愛していたんだ。素直になれなかっただけなんだ。だから…」
 ギャアギャア。叫び声が近くなりました。アラルは一歩も動けませんでした。彼女の師匠の言葉が、うたになっていたからです。魔の響きが、その足を虜にしていました。彼女はまた意識が働かなくなりました。少年の影で、少女が今も歌っています。蒼白い炎を上げた少年が、つるぎを持って、ますますアラルに近寄ってきました。
「僕が、思い出させてあげたいんだ」

 ギャアギャア

 はっしとアラルは脇をかすめた何者かを捕まえました。それは、蒼白い顔をした老いた猿でした。アラルに片足を握られ逆さまになりながら、片手に先程奪ったたいまつを持って、もう片方の手をばたばたさせていました。猿は、目を真っ赤にして歯を剥き出しにして、吠えるように人の言葉を言いました。



 老猿は空いている方の手で、何かわし掴むような動作をしました。アラルは急に胸が苦しくなりました。彼女の意識は暗く沈んでいき、猿を手放してしまいました。そして、自分がどこにいるのかも判別がつかないような、深い昏迷の闇の中に落ち込んでいきました…。



 気が付くと、アラルは薄暗い暗闇にいました。何もかもが帳に覆われた、もしくは濃い霧に呑まれた、重苦しい空気が漂っていました。ただ、ぴちゃっぴちゃっと水の跳ねる音がして、川が頼りなく流れるせせらぎも聞こえました。アラルは立ち上がると、前方に、湖を見つけました。その上に何か立ち込めています。靄か、あるいは霊でしょうか。それは彼女の方に黒い手を伸ばし、掴みかかりました。アラルは抵抗ができませんでした。ゆっくりと、覆い被さられ、組み伏せられて、アラルは体をまさぐられました。…
 彼女はふと目を覚まして、大声で叫びました。洞窟に反響するべきその声は、彼女の耳元だけに響きました。先ほどの夢の中よりは明るさのある、暗闇にいました。手で地面を探ると、とても湿っています。まるで…人の肉のように。ぬくもりがあり、柔らかく、女性器のような手触りです。
 明るさは、背後の岩場から届いていました。彼女は耳の中を探りました。すると、川の藻がたっぷりとそこに詰まっていました。藻を取ると、川のせせらぎが耳に入り、ここが、あの小島のある川原の近くだと思いました。確かに岩場まで足を運ぶと、川が流れ、その下流には緑の島が浮かんでいました。…どれほどの時間が流れたか知りませんが、太陽は、まだ狭い崖の上方にありました。この亀裂は東西にまっすぐ切り裂かれているのでしょうか。遠方から届く光はきらきらと一日はこれから始まるのだと言わんばかりに輝いていました。
 アラルは上流の方を見ました。そこは黒々として渦を巻いて、澱んでいるように見えました。光が当たっているにもかかわらず、泥と藻が混じっているのか、臭い匂いまでしていました。アラルは大変な所に来てしまったと思いました。こんな話を聞いたことがありました。世界の果てから来る川の水は、水源近くが澱んでいて、臭いもするし、なぜか黒い。それはあの世から流れてくるからだ。あの世の水は飲んではいけない。生きたまま飲めば命を壊すし、死んでから飲めば魂を壊す。悪魔になりたいならばご馳走になれ。
 語り部は、海の向こうからやってきたあの大きな獣の伝説の続きに、この話を並べました。身体がばらばらになったあとのその獣は、血の涙を流すようになりました。その涙が、あの世の河川になっていると、伝説は語りました。獣はあの世とこの世を繋ぐ、もしくは、分断している、世界の母のように目されました。獣は、世界中のものをその腹に放り込み、生まれ変わらせていたからです。
 血の涙の河川は、飲んだ者を、人ではなくさせました。物語はそれを飲めば悪魔になると伝えています。しかし人間らしさとは何でしょう。それは悪をも含みます。人ではなくなるということは、その人から、何か離れるのかもしれません。強さ、弱さ、儚さ、あどけなさ、生まれ持った性質が、何かの形に変質するのかもしれません。邪悪は美術にも現れます。もし、すべての人間がすべてのものの母になるという概念があれば、つまり、自分が関わってあらゆるものに(少しでも)変容の機会を与えているという観念があれば、
 母の悲しみは、万人に共有なのかもしれません。その母は
 自分が新たに生み出してしまったものを、血の涙でもって見つめるようになったからです。
 アラルはその水を飲んだのでしょうか。彼女は誰よりも今この世の河川の水源に近い所にいました。人が母親の胎内から産まれ出た時に、生命が始まるなら、その場所は、ほとんど子宮の入り口だったかもしれません。羊水はどこでしょうか。
 そこにありました。ぶよぶよの、巨体を持った、ほとんど水の怪物はその近くにいました。どろどろと地震のような鼓の音が鳴り響きました。彼女は懐に予備のたいまつを持っていました。幸い、それは湿っておらず、火を付けられました。輝く炎は周囲を照らし、ぬめぬめした岩肌を黒々と浮かび上がらせています。手元には剣がありました。彼女は目覚めてからいつそれを握ったか分かりませんでした。そのきらりと光る切っ先を、彼女は確かめ、握る柄に力を込めると、川の方ではなく、この洞窟の奥へと進んでいきました。どうしても討たなければならない相手に思いました。どうしても葬り去らなければいけない相手に感じました。おそらくはこの先にいる者を。この先で自分を待ち構えている者を。
 彼女は奥へ進みました。すると、白い明かりが、前方から淡く広がっていました。ますます鼓の音が近づいてきました。それは轟く魔物の鼓動でしょうか。それとも
 無限に続く自分の世を越えた心臓の音でしょうか。彼女はたいまつを下に置き、両手を剣の柄に添えました。
 白い明かりは子宮のようにやわらかく広がった洞穴の空間の上部から差し込んでいました。明け方の夜空のように白み、その真下に、怪物がいました。無限の手足、無限の内臓、無限の性器を、その透明な体に包んだ大きな化け物は、彼女の方にゆっくりと向き直りました。彼には翼が生えていました。彼自身を運ぶことはできない、その体に比して小さな翼が、三対、六枚。彼女は怯えました。彼女は気を逸しました。怪物は…その顔は…自分だったからです。
「私…!?」
 夢の中で、イアリオはアラルと共に呟きました。天から降り注ぐ神秘的な白光に彼女も魔物も包まれました。そして、魔物の巨体が彼女に傾ぎ、あっという間に、まるごとそれを呑み込みました。

 それで終わりではありませんでした。夢はまだ続きました。くぐつは動きました。オグに呑まれたあとの、それが誰だか分からなくなったような、自己を滅した者の体は。その体はテオルドのように、溶かされて舐め尽くされて、新たに土で捏ねられました。その体は町に戻りました。誰にも知られず、暗闇の内に。
 その体は一組の男女の子供を殺しました。町は騒ぎ立ちました。子供の死体は、縄で喉を絞められていて、かつ短刀でずたずたに腹を切り裂かれていたのです。この犯行を見て、人々はただ一人の容疑者を思い起こせませんでした。彼らは、子供の親と、もう一組のカップルのひどい性交渉のあらましをよく知っていました。淫蕩たる儀式をお互いの家で行い、そこに他人を呼ぶこともありました。人を呼び、行為に耽る自分たちを見てもらうのです。それは、彼らが自由の謳歌だったかもしれません。しかし、それを見る子供の目には、地獄のような苦痛しかありませんでした。
 その子が生まれ変わったアラルの手で殺されたのです。そしてそのうち、子供の親の女性が町の人間に殺されました。犯人は子供の親と付き合いのあるもう一組のカップルの女性だとわかりました。そしてさらに、その復讐なのか、子供の親の男性が彼の妻を殺した女性とカップルの、男を殺しました。
 人々は色めき立ちました。ついには人々は、子供の親の男性と、カップルの女を、処刑することに決めました。…
 アラルはそうした置き土産を町に渡しました。渡したのは、悪でした。それぞれの、ずっと胸に秘めた、誰にも言えない願望を、その手で叶えてやったのでした。一組の男女の、この子がいなかったらという気持ちと、もう一組の男女の、彼らに子がなかったらという気持ちを、汲んであげたのでした。そうしたら、もっと自由に、遊び合うができたのに。秘密の行いは、何か音楽ができるほど、美しく神々しくなったのに。自分にとってもいらないものは、彼らにとってもいらないのだから。それなら、ない方がいい。そんな想像をするほど、彼らはふしだらな行為に耽溺していました。
 子供は
 自分の両親をいらないと思いました。自分のことなんか放っておいて、秘密の儀式とやらに夢中だったからでした。その儀式を彼は見ていました。毎日のように繰り返される、肉が踊り狂う儀式を。彼は憤怒に燃えました。悪を退治する意思に燃えました。彼は両親とカップルの否定するものを見たのです。未来も過去も彼らにはありませんでした。ただ現在だけが、快楽に溺れられる今だけが、彼らを繋ぎ止めて、他のものは、性の祭壇の外に追いやられていました。子供自身の未来はどこにもありませんでした。子供自身の過去もどこにもありませんでした。
 子供は、箱の中に兎を一匹閉じ込めて、自分なりに八つ裂きにしました。自分の代わりに、動物を懲らしめました。子供は、自分が死ぬか、親とカップルが死ぬか、どちらかを選択する必要まで追い詰められました。子供は涙を流して訴えられませんでした。自分の気持ちを誰にも伝えられませんでした。アラルは、オグの棲家に行く前から、子供の中に自分を見ました。そのつらい気持ちに共感し、その子に武器の扱い方などを教えたこともありました。子供は彼女に懐きました。子供は彼女に
 憧れを持ちました。子供は彼女にまるでアラルが倉庫の亡霊に抱くような愛情と敬愛を抱くようになりました。しかし亡霊は彼女に復讐するために彼女を誘惑し続けた悪霊でした。彼女は悪霊になりました。悪霊の主と同化しました。それがしなければならないことがわかりました。悪を揮うこと。人間に悪を分からせること。自分の存在を伝えること。自分の存在は誰の心にも宿ることを、知らしめることです。
 悪は仲間を欲しました。悪は再び塒から出て、最初の仕事を働く相手を、彼女が見た、心に立派な悪を持つ、その子供を選びました。
 その絶望が広がりました。その絶望は誰の心にも宿りうるものでした。子供の両親とその相手たるカップルに、まずはそれが伝わりました。子供がいるということそのものは、その四人にとって本当は邪魔ではなく、性交の儀式をより高める不純な鍵だったのです。その鍵がなければ、四人は性に耽ることなく、異常さを共有し、日常を逸脱することができなかったのです。四人は弱さを共有していました。子供はその弱さを一方的に見せられていました。単なる恋人の交換や、大勢のまぐわいなどは、善神の怒りにも触れず、別の神も降ろすことはできないのです。鍵はなくなりました。つまりこれまでのことはできなくなり
 本当に相手がいらなくなったのです。しかし鍵はなくなりました。波が、洪水が押し寄せました。最初にその大波を食らったのは、カップルの側の女でした。女はいつも子供の視線を感じていました。子供に自分の行為を見られることが重要でした。何をしてもその子に許されると思ったのです。女はその子供に自分は
 殺されてもいいとすら思っていました。そうでなければひどい神を降ろす儀式にはなりませんでした。子供はいなくなりました。誰が殺したのでしょうか。その子をいらないと言ったのは誰でしょうか。女はその子の母親を疑いました。その子の母親でなければ
 その子は殺意の目で見られないと思いました。その子を最も自由にできるのは母親だからです。たやすく女は母親を殺してしまいました。母親こそ、その女よりも遥かに巨大な洪水に襲われていたのです。彼女こそ誰が自分の子供を殺したかがわからなくなり
 まるで自分がそれを望んでいたかのような錯覚に陥っていたのです。本当はそうではありませんでした。母親は自分の子供に委ねていました。その子自身の未来を。その子自身を育てることを。母親は自分を母と感じていませんでした。何をしても関心が自分の体の感覚にしか向かなかったのです。母親には現在の感覚しかありませんでした。過去も未来も気が向かず、あるいは関わりたくない事柄でした。確かに子供を彼女は否定したくありましたが、それがいなければとは心の底から願うことはありませんでした。それを失うことを彼女は想像できませんでした。それを失ってはじめて彼女は自分が大事なものをなくしたのだと感じられました。それまでは彼女自身の心が、感覚が、彼女自身を支配していたのに。彼女はその子を

と言っていました。それが本心ではないのに自分の願いだったようにあとから感じました。
 母親の夫は単純な絶望がその体にのしかかりました。子供が殺され、妻が殺され、その犯人は、カップルのうち誰かだと容易に思いました。儀式は続けられていたのです。性的な儀式が。儀式は続けられていたと思ったのです。儀式の中で子供は死に、我が妻も死んだと感じたのです。加速する何かを子供の父親は感じました。自分も同じことをしなければならないと思いました。そうでなければ追いつけなくなるのです。先に行った者たちに追いつけなくなるのです。
 カップルの男性は遠くに逃げ出そうとしていました。まったく恐ろしいことが身近に起こってしまい、どうにも自分では納めきれないことになったと感じたのです。それは正しい判断でした。またそれは正しい感覚でした。彼は逃げ腰でした。それゆえに子供の父親から呼び出された時、彼は抵抗ができませんでした。逃げ場を求め、逃げ口実を求めて、怯えながらただただ父親の背中についていきました。彼もまた容易に殺されました。抵抗が
 できなかったのです。その暗黒から。結局逃げようとした場所はその暗闇の中なのです。暗闇の中から顔を出して、誰かに助けを求めることはもはや彼にはできませんでした。

 アラルは暗いまどろみの中この有様を見ていました。もはや誰からも彼女の姿は見られなくなっていましたが、彼女の意思と、彼女の宿る別の体はそこにあり続けました。
 彼女は彼女の別の体が手がけた子供の殺害と、その後の四人の行く末を見届けました。彼女の中に深い満足がありました。悪を犯す悪は自分の行いに満たされるものを感じるのです。それは善意が広がる光景を見るのとまったく一緒だったでしょう。ゴミ拾いの活動が人々の共感を呼んで増えたり、貧困者への炊き出しが方々で行われるようになったりするのと。人の意思は伝わるのです。それが善でも、悪であっても。賄賂はなかなかなくならず、いじめは継承されるのです。
 アラルは人間の意思伝達のその深い様相を感じ取りました。すべての意思にこのことが言えました。彼女はオグの深みに触れました。それはただ単純に悪を犯すよう人を唆す媒体ではありませんでした。それには追い求めるものがありました。人の苦しみを、怒りを溜めながら、そうした感情が動かす人という肉体、あるいは精神に関心を持っていました。彼は人間を動かそうとしました。彼が動かそうとして動く人間を見つめました。
 それこそ人間が人間自身を不可思議と認めるものでした。彼らが彼ら自身をまったくよく判らないものとして見る時、発動している何かでした。彼らはそれをたまに魔法と呼びました。また、魔法のようだと考えました。オグはまさにこの魔法によってつくり出された生き物でした。あるいは、この魔法を司る者として生み出された存在でした。
 アラルの宿るオグという生物は、その後、エスタリアの町を出ました。そして、これまでの彼のように、世界中を旅して回りつつ、人の悪を、唆し続けました。イアリオはこの魔物に夢の中ついていきましたが、同じ時間軸の中で、エスタリアの町に残された、アラルの恋人にも自分が重なりました。ヴォーゼはアラルが去ったことを認めました。彼女は宣言どおりに自分の前から消えてしまいました。ヴォーゼは町で起きた一連の事件が彼女の手によって行われたのではと考えたことがありました。クロウルダから、彼女を港の入り口で見かけたと、オグの塒に向かうと言っていたと聞いたのです。もしかしたら、アラルは魔物に食べられてしまったのではと、ヴォーゼは考えました。しかしクロウルダたちからは、そのようなことはないだろうと言われました。オグの体には港を襲った海賊どもが呑み込まれていて、彼は容易には動けないほど太り切っており、逃げ出すのは容易だからと。
 殺された子供の父親と、彼の妻を殺したカップルの女とが処刑されて、町は平穏を取り戻しました。ヴォーゼもまたアラルは自分の前から立ち去っただけなのだと思い始めました。それは大変に哀しいことでしたが、相手の強い意志を彼女は感じていましたから、ずっと前から定められていた必然だったのだろうと諦められました。しかし
 一人の人間が追い詰められるのは、何も本人だけのせいではないのです。そのことに、いささかもヴォーゼは気づくことはありませんでした。人と人とが共鳴して人は動きます。影響し合わない関係はないと言っていいほどに。その影響を、絶ちたいという衝動があるほどに。アラルがオグを呼び込んだように、今度は彼女がそれを呼び込むのです。
 港からは海賊が一掃されました。エスタリアの町に逗留していたクロウルダたちは帰っていきました。ヴォーゼはアラルが再び町から立ち去ったことを誰にも話しませんでした。アラルはそれこそ戦地から凱旋した時に、多くの人々から称賛され祝福されていましたが。彼らが彼女の不在に気づいたのは半年も経ってからでした。しかし人々は彼女がまたどこかの戦場に赴いたのだろうと、今度も実に大きな活躍をして、いつかこの町にその噂が届くのだろうと期待しました。ヴォーゼもまた、彼女の無事を遠くから祈り、いつか、その噂がここに届くのではなく、彼女自身が、再び自分の前に現れてくれることを、願いました。そう、ヴォーゼは願いましたが、願望は、どこか不安をもたげました。
 クロウルダたちは、港に戻り、オグの塒を訪ねました。オグは出て行った後でした。そこは空っぽのはずでした。しかしそこに残された者がいました。テオルドが、オグに取り込まれ新しい体を獲得した後も、彼が分離して、オグもまたそれ自身が活動したように、
 生まれ変わったアラルの中に入り込んだ者と、まるでその分身となりその場に留まった者がいたのです。オグはどうやらその終末に近づくにつれてこうした自己の分裂を試みることがあるようです。クロウルダたちは移動しなかったオグに不信の目を向けましたが、当然彼らにもオグについて分からないことはいっぱいあったのです。彼らは、彼は満腹になるほどたくさん人を食べてしまったから、いつもは一人二人を呑み込んで、次の餌場に向かおうとするのに、その必要がなくなったのだろうと考えました。
 ヴォーゼはどうしてもアラルのことが忘れられなくて、ずっと独り者でいました。独りでいても彼女は大分満足でした。依然彼女は人から慕われていましたし、そのために孤独に落ちるようなことがあっても、アラルを失ったということが、その孤独を孤独と感じさせなくなったのです。彼女はアラルがそばにいることで
 自分の感覚や感情が膨らみ、豊かになり、苦しみも幸福も、満遍なく味わうことができるのに気づきませんでした。彼女は平坦な日常を苦もなく過ごしました。しかし、不安はどこかでかき混ぜられて、いつか彼女に飲み下される時を待ちました。そのうち、町で再び以前のような事件が起きました。子供がまた殺されたのです。また誰かが処刑されました。
 あれから平和が続いていると人々は思い込んでいました。醜過ぎる悪は、断罪され、町から追い出したと考えたのです。しかし、魔物はずっとそばにいました。それはずっとそばにいるのです。なぜ僕は生きているかと確かめたくなるのは、誰でしょう。その手段に用いるのは、果たして人を傷つけない範囲に収まるでしょうか。以前の事件のように二組の男女の狭間で苦しんだ子供がいました。どうもエスタリアの町ではそうしたことが起きやすいようでした。通商の要衝、それであるがために、多くの旅人を懐に入れて、見知らぬ人間との付き合いが多い町には。あまりに現実が、そして現在が働きすぎて、未来も過去もそこでは見失うことがよくありました。新しい町であるために、伝統はなく、たとえ何らかの弱さを自分に抱えたとしても、それを振り返ることは難しかったのです。彼らは弱さを現在に克服しようとしました。
 人間の弱さは歴史にも優しく受け止められることがあります。過去の民族の克服の歴史を辿り直すことによって。また、繰り返される儀式は、そのためにあるところもあります。民族全体を、地域全体を包んで、まどろみの中に溶かすのです。あって良かったことも、悪かったことも、広域の坩堝に溶かし、かき混ぜて、人々に配り直す。それを

人間の歴史そのものに、結び直す。エスタリアの人々はそれをできなかったのです。神を降ろすとすれば、じかに、この体に降ろそうとするのです。二組の男女は互いに子供を持ちました。それが以前とは違う状況でした。一方の子供がもう一方の年下の子供を殺しました。短剣の先から流れ落ちる血を、子供は町の人々に見せました。
 その殺人は白昼堂々、公衆の面前で行われたのです。誰が行ったか判らないようにではなく。殺意を自分が持っていると、皆に判らせるために。
 子供はそうした犠牲になりやすいようです。大人の方が賢いですから。大人の方が世間に対する振舞いを心得ていますから。大人の方が上手いごまかし方を知っているのです。それを知らない人間は
 あるいはそういったことすらも看破してしまう立場にいる者は
 彼らのために、彼らに動かされてしまうことを、知らずに動いてしまうのです。町は、こうした問題を抱えていると、明らかにするために。人々は再び色めき立ちました。彼らは誰を処刑するべきかと考えました。そして、殺人者の子供以外を死に追いやりました。子供はまだ保護されるべきだと大人たちは考えたのです。ですがそれは保護になるでしょうか。いいえ。
 人々は再びこのような経験をし、彼らのために、人間の命を奪いました。自滅したのは、事件の周りにいる、とても密な関係を持ってしまった人々のみだったかもしれません。それを周囲は恐ろしいと感じたのです。しかし殺された者たちは、彼らの中にいました。彼らの中で過ごしました。彼らはまったくそばにいました。消したとして、消えたままでいるものではありませんでした。
 彼らは自分たちの身にそのような恐ろしいものが宿ると少しずつ分かってきました。少しずつ、彼らは変わっていきました。彼らは互いを監視するようになりました。事前に悲劇の芽は摘み取らねばならぬと思い始めました。その時、ヴォーゼはふいに恐ろしい予感にわななきました。今、町に起きていること、それはクロウルダの話に聞いていたことではないか?
 オグに取り込まれた人が悪を働き、町を壊滅させるという。そんなことが、そんなことが、あるはずがあろうか!しかし生憎クロウルダは、そのことに気がつきませんでした。彼らの港には、エスタリアの兆候は指先もかすりませんでした。彼らは目の前のオグに関心があったのです。そのオグは、ぐるぐると彼らの子守唄を聴かされて、ただただ眠り続けていました。
 ヴォーゼの恐怖の予感は、いなくなったアラルにも及びました。彼女はやはり、オグに触れていたのではないか…!彼女が立ち去ってまもなく十年が経とうとしていました。アラルの武勲など耳に届きませんでした。ヴォーゼの心の中で、密かにアラルは、憎しみの対象へ変わっていきました。いつのまにか、いつまでもここに帰って来ない恋人のことが、憎くて仕方がなくなりました。

 アラルの肉体を借りたオグは、よく子供を殺しました。それが最も醜悪なことだと彼はよくわかっていました。誰もが幼い子の死体を見ると、胸が痛みますが、どうしてこんなことが起きたかと、自分の胸も疑います。オグにとって、子供は自分の像でした。その無抵抗さは弱さでした。彼は何かに無抵抗でした。すべてその何かにそれ自身が操られていました。彼は
 操る主体であるにもかかわらず、自分の意思を持てません。それは集合体ですから、自らを突き上げる衝動にしか従えないのです。彼自身が逆に人間の悪に唆され続けたのです。それを見ると、手出しせずにいられなくなり、手を出すことで、その仲間が増えることを知っています。そこに醜悪な満足があり、繰り返しその満足を嗜めずにはいられません。彼はそのように生きるためにそうしているだけでした。
 そのような人間は、ごまんといます。別にオグが宿らなくても、まるで自らオグをつくり出してしまうような。彼らは人のせいにします。決して自分の責任は取りません。なぜなら彼らは操られているだけですから。自分の意思ではなく、何かの意思に突き動かされているだけですから。そう彼らは感じるのです。そしてとてつもない不幸に自分が見舞われていると思います。誰かが彼らにそのことを諭しても、彼らの生命がそれを求めるのは、なぜでしょうか。オグは、それに気づき始めます。なぜなら彼は、大量の人の悪を吸い込んだからです。子供は、未熟さの象徴です。それを殺すことは、成長したくない者のわがままかもしれません。その成長を待てないのですから。
 そしてその未熟さを殺された者たちは、自分が、成熟していないことを知るのかもしれません。成熟のために何をするべきかが分かってくるのかもしれません。人殺しは未熟さを殺すためなのかもしれません。それを受け入れて
 なぜ人は世を、生を、性を繰り返すのか。
 自ら育っていくために。
 螺旋なるその成長の曲線を、辿るために。
 オグは、ふらふらとある軍団に引き寄せられました。それは、海賊どもが組織した、ある町を討たんと集められた雇われ兵たちでした。生まれ
 直したアラルの体はその中に潜りました。そこで聞きました。彼女のオグが聞きました。オグなる彼女が聞きました。これからその集団が攻め込もうとしていた町の名前を。エスタリア。
 エスタリア。その名は
 オグなるアラルの目を開かせました。オグの中にいる無数の意識は眠っているわけではありません。皆がそれと共に悪を働いた経験を共有するのです。そしてその深い満足を分かち合うのです。オグの中にいた彼女は、その中の至極微小な一粒種だったかもしれませんが、その町の名は、大きく彼女を薄暗いまどろみの中から引き上げました。彼女の体に光る目が宿りました。オグたる者のほかの存在たちの意識も、皆、彼女の引き上げられた意識に追従しました。苦しみが彼らを襲いました。悪には理由があるのです。それを犯した理由が。彼女は
 恋人から自らを引き離すために(弟が自分から離れていってしまうことが怖いために)、自分に悪を働いたのです。悪を働くすべての人は、まず自分に、それを働きます。それが判ったのです。オグなる彼女は。
 アラルは恋人の幸せを一心に願って(姉は自分の幸福が弟と共にあるのだと信じ切って)自分自身を否定しました。自分の心を、そして命も。悪はそれを知るために動き続けました。その真の願いを叶えるために、悪は集合しました。繰り返しそれ自身を働きました。彼を慰めるものは誰もいませんでした。ずっと、彼らは孤独でした。しかしその旅路には意味があったのです。人を知ること。自分を知ること。
 誰もが一人で生まれ、一人で育ち、一人で死ぬことを分かるために。
 今までの出来事のすべてが、雪崩落ちてくるかのように彼の体は感じました。それはこの世に居残った悪と同化したアラルの意識でした。命の慟哭がその体をいっぱいにしました。
 彼女はゆっくりと笑いました。まるでこうなることが、分かっていたかのように。アラルは自分の町など攻撃するつもりはありませんでした。恋人のいる町を守るべきでした。
 人にとって、自分自身を愛するほど、困難な課題はないものです。だから、人には絶望が必要でした。なぜなら、望みを絶って初めて分かるのです。何を本当は望んでいたか。愛とは何か。それを認識するには自分の全部が必要です。
 アラルの体は、できうるかぎり全力で、かの町を守りに行きました。

 ですが、すでに戦火はそこを包んでいました。そして、人々は倒れ伏し、生き残りは見当たりませんでした。オグなる彼女は立ち尽くしました。ぼうぼうと燃え盛る火の中に。
 その火は、かつて、それが見出した悪に、付けてきたものでした。
 それによって、方々に、広がっていくものでしたが。
「アラル?」
 彼女の背後から、彼女を呼ぶ声がしました。彼女は振り返りました。そこには彼女の愛した女性がいました。服はぼろぼろで、顔も手足も震えていました。すっかり変わり果てたその姿は、もうすでに亡霊のようでした。
 ヴォーゼは悪魔のように笑いました。
「よく来てくれたものだわ。こっちにいらっしゃい」
 ヴォーゼは藪の中に彼女を連れ込み、激しく愛撫しました。
「愚かな人、馬鹿な人。ああ、この中にオグはいるんだわ。そうでしょ、アラル」
 彼女は口がきけませんでした。
「あなたがこの町で犯した事件を、私はよく知っているわ。誰もあなたのせいにしなかったけれど。でも、私は気づいた。これ見よがしに、誰かを殺して!私たちは動揺したわ。それが、結局我が町を破滅させた。あなたは知っていたんだわ。ああすると、人間の心に何が残るか。きっと、今帰る時も計算づくだったのでしょう。喜び?嬉しさ?それしかあなたにはないでしょう?
 誰も味方がいなかった。誰にも信頼が持てなかった。私たちは内部分裂したわ。外から敵が攻めてくるというのに、その準備ができなかった。私たちは自分たちを守れなかった。どうして?自分だけで手一杯だったからよ。オグの中にいる悪って何?きっと、途方もなく大きくて力強い意志なんだわ。でなければ私たちが、こんなに惑わされないもの。唆されたんじゃないわ。不安になったの。いつまでもここにいていいかって。私たちは、変わろうとしたの。自分たちの力で。あなたの中にオグがいて、それがあんな事件を起こしたなら、多分、それは知らしめるためだった。私たちの、傲慢さを」
 ヴォーゼの言葉はびりびり響いてきました。アラルは、この町に土産を残す前の記憶が全部蘇りました。師匠の霊とのやり取りもすべて。そして、自分がかの悪魔に喰われてしまった時も。あの時、自分はどうなったのでしょうか。ただ、悪魔への闘争心は失せて、逃げ続けねばならない自分を感じて、怖がって、目を伏せたのです。アラルは一度外に出て、眩しい日の光を浴びました。自分の体が、黒く塗り潰されているのを感じました。何かに身を任せなければならないと思いました。
 彼女が選択したのは、前から知っていた二組の男女の隙間にひびを入れることでした。そうしなければ、彼らは、本当に知りたいことを知らないままだとわかっていたからです。それは、自分のことでした。曖昧にしておく愛が一番望ましいと信じる愚かさ。せっつかれるように愛とは反対に見えることをするのは、それへの反応だということ。どうしても委ねられないのは自分の心だということを。アラルは知りたいと思いました。その頑なな態度にひびを入れて、どう変わるか。いえ、何がそのまま残るのか。
 まるで、親に歯向かう思春期の子供のように。
 だとしても、圧倒的な衝撃を、彼女は町に与えました。二組の男女は、殺し合い、処刑されてしまいました。
 確かめようとする行いは、とても自己中心的で、破壊的なのです。親を刺す少年は、いつの時代か絶えるのでしょうか。自分自身を刺す子供の数はそれよりも多いのではないでしょうか。確かめたくて。不安になって。男女はなぜ殺し合ったか。
 真実が己にあるのではなくて、他にあると思ったから、殺したのです。他にあると思ったから、誰かが同じことをしてしまうかもしれないと、町全体が疑ったのです。そして、自分だけで精一杯になったのです。彼らは協力し合えませんでした。来たる脅威はまったく物理的で、彼ら自身の精神と対峙するものではないものでしたが、彼らはすでに自分たちと対峙していたのです。その精神が蝕むものと。その精神が欲したものと。
 海賊どもの連合軍は容易に彼らを打ち破りました。建物には火が点けられ、それに逃げ惑う人々は、どこに逃げればいいかわかりませんでした。なぜなら彼らが戦っていたのは海賊ではなく自分たちだったからです。どこにいても繰り返される戦いだったからです。どこに逃げればいいかわかりませんでした。とりあえず彼らは武器を持ちましたが武器は振るえず侵略者たちに先制の攻撃を浴びました。町は終わりました。自壊しました。
「もういいわ」
 ヴォーゼは懐から短剣を取り出しました。切っ先は青白く光り、恨みがましく唸りました。
「もう終わりよ」
 ヴォーゼは切っ先を自分に当てて、その柄をアラルに握り締めらせました。まるで、キャロセルとその弟のように。今度は立場を逆転して。切っ先は鋭く胸を突き破り、真っ赤な血が飛び散りました。
「あなたを愛したくなかった」
 ヴォーゼはアラルにもたれかかり、涙を流して死にました。…イアリオは、悲しみにならない声で叫びました。しかし、アラルは、痺れる手を放っておき、ヴォーゼを振り切り、地面を揺らすような足取りでその場を後にしました。

 エアロスと、イピリスという、つがいの神様たちは、一方が破壊を、一方が再生を司りました。二人は、自分の子供のしたことに、腹を立てて子殺しをしました。新しく人間を土からこねて、それを育ててきました。でも、新しく生まれ変わった子供たちも、繰り返し彼らに壊されてきました。
 前進をするごとに破壊が生まれます。それが神の物語でなくとも。しかし、個人にはまるで神の息吹が下りたような、壮大なものが起きました。それは限りない命の力を伝えるものでした。
 大盤鐘の、鐘が鳴らされました。数限りない銅鑼が叩かれました。祭りが始まろうとしていました。祭りが始まろうとしていました。アラルは怒りに燃え盛っていました。背後に置いたふるさとを包み込む自滅の際の炎のように。彼女は初めて本当の敵が分かったかのようでした。冷たい土の体に温かい血が通ったようでした。
 彼女はまっしぐらにクロウルダの神殿に行きました。海賊はもう港に攻撃を加えて、逃げ場のないクロウルダたちを散々に蹴散らしていました。神殿はまた放置されていました。もし、悪が悪を憎むことがあるなら(善が善を憎むことがあるなら)、それは、幻を見て気がつかず、自分の幻影をそうして生み出していることに、螺旋を描いて知ることになる旅の果てでした。自分が愛せない、愛せないにもかかわらず愛している対象に、まっすぐ向かっていくことでした。まっしぐらに、突き進んで。そして、不協和音を討とうとしました。
 敵は、そこにいました。自分には今まで見えなかった敵が。
 地下の湖にその敵はいませんでした。アラルはその向こう側の鍾乳洞にはいかず、別の方向に伸びた細い洞窟を進みました。そして日差しの覗く川原へ辿り着きました。彼女をそこで待っている者に出会うために。以前と同じ、真上から滴る柔らかな陽光が、川原を美しく輝かせていました。きらきらとしているのは水の波の面でした。波立つ泡があちらこちらでぷくぷくと弾けていました。それは幼な心に見たことがあるような奇跡の自然に映りました。岩壁のカーブの向こう側に、アラルは歩いていきました。緑の小島がそこにありましたが、前よりも(あれから十年の月日が流れて)少し小さくなっていました。花は咲いていませんでした。彼女は小島に立ちました。周囲からわらわらと、霧の怪物が現れて、小島を上り出しました。オグの守護者である彼らはアラルに打って掛かりました。
 しかし霧は斬ると消え失せて、簡単に倒すことができました。アラルは最後に居残った子供のような背丈の小さな歪んだくぐつも手に掛け、天に向かって呼ばわりました。
「出て来い、サルバ!私はここに来た。大事なものを失って」
 彼女は自分の悪を育てた師匠を呼びました。前世の自分が唆した年下の弟を呼びました。
「ようこそ」
 天から彼が現れました。青白い炎を上げて、さながら悪魔の出で立ちをして。
「アラル、君に会いたかったよ」
 アラルの怒りはついぞ抑え切れませんでした。サルバの姿に見えるのは自分自身でした。自分が犯したことのすべてでした。彼女は悪でした。悪が生み出したものがそこにありました。
 彼女は少年に飛びかかりました。突き刺した剣は、地面を抉るか、空を切り裂くだけでした。サルバの霊はテスラのつるぎを拵えて、それを空に閃かせてみました。すると、その切っ先が炎を灯し、火が明々と真昼に翻りました。その焦げる匂いが辺りに漂いました。嗅いだことのない匂いでした。きな臭く、鼻の奥につんとくる、何ともいえない腐臭でした。
「復讐さ。それは果たされたよ」
 サルバが言いました。
「僕は、ただ、君といつまでもいたかっただけだから」
 それは恐ろしい台詞でした。それは弟の言葉のようであり、まったく自分の言葉でした。
「これが、オグだ。彼は変わらないんだ。ずっと、おんなじ意思を持つんだ。彼はやや子なんだよ。父親(ててご)なのさ。母親なのさ。キャロセル、キャロセル。君を愛している。でも君は、僕の存在を許してくれなかったね…どうしてだい?」
 アラルの手から真っ青な刃が振り下ろされました。
「僕は、君の愛に食われたよ?どうしてだい?こんなに恐ろしいこと、君にはわからないだろうね。僕は、君に許しを請うたよ。君を突き刺しながら。君はゆっくりと笑った。君の望みが叶ったから。君だけの望みが。ああ、恐ろしい。恐ろしいものに、僕がなったよ。オグは言ったよ。仲間を増やせ。そして彷徨え。それしかできないことだから。不思議だ。まだ生きている。僕は死んだのに。生きて何かしなきゃならないんだ。君を殺すことじゃない。君が僕を殺すこと…」
 彼の、脳天に、白刃が届きました。彼は真っ二つに斬られ、にこやかに笑いながら、消え去りました。彼の後ろに、少女がいました。キャロセルという名の、白衣の少女が。アラルはそれも斬りました。ずしんと重たい、何かが背後で落ちました。
 アラルは後ろを振り返りませんでした。小島の先へ、澱んだ川上の水の方へ、歩いていきました。目の前に、門は、開いていました。それは繰り返される輪廻の手前の、残らずにはいられなかった思いそのものたちへ開かれた門でした。水から上がり、その先の湿った洞窟に入ると、十年前が蘇りました。彼女はそこで、死んでいました。アラルの後ろで落ちたのは、生と死の境目の扉でした。
 オグは死者たちの苦痛の呼び声でした。それは、自分がとうの昔に死んでしまったことを忘れた者たちでした。思いだけがただ居残ったのです。それらが、自ら生と死の境の扉を開けたままにしていたのです。開けたままにしておくことで、別の門が開いたのです。今生死の扉は閉じました。
 彼らに魔法を掛けるべくして掛けた門が、ただ、目の前に開いていました。彼らは後戻りできなくなりました。この世に悪をもたらし混乱させ、自分の仲間を増やすことを、できなくなりました。彼らは閉じ込められたのです。自分に掛かった魔法の力だけがある。
 彼らに突然、背後から声が掛かりました。あの少年の声でした。
「滾る想い、憎しみ、それは分かってしまう。君は、もうそれを知ったんだ。十分に知ったんだ。ああ、君は、繰り返しこの世に生まれてきた怪物だ。
 いいかい、人は魂の数珠つなぎだ。背負え。満足するまで背負え。苦痛は、排泄物に過ぎない。お前はもう人間ではない」
 アラルは、少年の声に振り向きませんでした。まっすぐ先へ進みました。真っ暗闇でも目が利きました。耳ざとく、匂いも嗅ぎ分けられました。全身が膨れ上がったかのようでした。彼女はもう剣を持っていませんでした。手ぶらでした。
 何もここにはありませんでした。ここは彼女の棲家でした。
 彼女は自分の場所に戻ってきました。その塒へ。足取り重く。彼女は寝転がりました。仰向けになって。天井に白い光が差し込んでいました。彼女を、美しくそれは照らしました。彼女の中にある、無数の手足は、溶けてなくなりました。内臓も、性器も、透明な体に金色に光りながら、なくなりました。
 土色の希望がありました。何でも壊したものは再生すればいいのです。そうにちがいありません。彼女は一生懸命現在をつくっていました。彼女は人の行いそのものでした。
 彼女は眠たくなりました。いつか目覚める日を待ってから、また旅に出ようと思いました。今度は、もう二度と同じ旅はしたくありませんでした。結局、振り出しに戻るだけですから。大きくなった小さな体はもうはずして、どうせなら生まれ変わりたいものでした。こうして彼女は眠りました。また、夢を見る主体の人間が、自分の夢を見ることで、何かを願うまで。こうして悪は眠りました。眠りながら、彼女はそこにあった、彼女の遺骸を押し潰しました。

 その体に比して微小なる人間が、巨大な叫び声を上げました。オグは、中にいる彼女に目覚め、その中に取り込んだ別の人間たち一人一人の意識も目を覚まし、それぞれが、大絶叫を始めました。時と空間を越える張り裂けんばかりの声を上げ始めました。オグは膨らみました。一人一人が霧の粒子になりました。その叫びは辺りの山まで轟き、どろどろとした太鼓の音になりました。彼らは、独りであることに苦しみました。彼らは、独りになった人間の集合体でした。彼らは、いつか自分が死ぬことを望みました。消滅することを望みました。彼らは、最も望み難いことを、自分自身に課しました。



 月光の白い明かりが頬を染めていました。まだ真夜中に、イアリオは目を覚ましました。美しい夜空が展け、彼方に星が見えました。イアリオは、それまで見た夢をありありと覚えていました。
 彼女は深く息をつきました。口は開けたままでいました。白い星々を眺めながら、洪水のように押し寄せる気高い悲しみの大波に、彼女は襲われました。唐突に空に流れ星が現れました。星はいくつも流れ落ちました。彼女はうつうつと泣き出しました。とめどなく涙が溢れてきました。
 彼女は月台の上に横たわりながら、そのまま夜明けを待ちました。自分が寝に就いてから、一体幾日が経ったでしょう。静かな夜が過ぎました。星と月がゆったりとした動きで天を回りました。イアリオは膝を折りました。ちりちりとした前髪が風に揺れました。睫毛を閉じ、この世に何が動いているか、感じ取ろうとしました。何もかもが、動いていて、それでいて動いていないような気がしました。
 イアリオは目を開けました。すると、夢で会ったヴォーゼと、この生のときに出会ったヴォーゼが、鮮やかに、重なり合って見えました。もし、アラルが自分の前の生ならば、それでもいいとイアリオは思いました。そう考えると
 とてつもない過去が、現在の自分につながって、まったく苦しくありませんでした。むしろ、ぴったりと整って、力が湧きました。オグであった自分。オグであったとわかった自分が。
 町を出て、オグそのものを調べてきた今の自分につながり、過去が、彼女を導いてきたとわかったからです。そしてこれからあの町に帰らんとする未来にも。
「ああ、私は」
 彼女は判りました。
「これから、私の決着をつけに行くんだ」

 イアリオは、オルドピスの首都に戻ることにしました。オグを巡る旅は終点に行き着きました。クロウルダに報告ができるトラエルの町の事情を、彼女は言葉にできるようになったのです。
 彼女の目は以前のように輝き始め、顔はふっくらとして丸くなりました。夢を見終わった彼女の体は、そこに強い意志を秘めたることを、飾りなく教えていました。クロウルダやオルドピスの人々、ロンドたち雇われ兵たちもそれを見て、自分自身の心の底から湧き出す勇気を見つけました。ロンドは、この女性は偉大な過程を乗り越えたと感じました。
「俺にはまったくあなたは手に余る。だから、本当にあなたを誰かに手渡したく思うよ。あなたはどうやら人間を愛したく思っているようだ。あなたを待っている人がどこかにいる。そう思わずにはいられないよ」
「あなたの手も立派よ?あなたこそ必要な誰かを見出す必要があるわ」
 彼女は彼の手を触りながら言いました。ロンドはどきりとしながらも、まったく彼女の言ったとおりだと思わずにはいられませんでした。
「この手は武器を振り回すだけで一杯だ。それで為すべきことを為せるんだから、それでいい。俺は欲を持たないよ。前に突き進むばかりだ」
 彼女は美しくにこりと笑いました。
「ええ、いいわ」

 彼女は道中、オグによって滅ぼされたとされる、巨大な町跡へやって来ました。そこは、オグがその望みどおりに消滅できた、ドルチエストと呼ばれる町でした。トラエルのような海に面した港町で、地面が陥没して一帯が水の中に沈んでいました。イアリオはぞっとしました。地盤沈下は彼の棲家が潰れたためだと聞きました。ドルチエストとは、こちらの国の言葉で「闇中の光」を意味します。この一帯を支配するアガマの国では、禁欲を生の柱にする僧が、整然とした法を敷いて、人々の暮らしを守っていました。ですが、彼らはこの遺跡に手を出しませんでした。遺跡はずっと残り続け、後にそこがクロウルダにオグによって破壊された町跡だと断定されると、そのような名前を後から付けました。アガマの国では、闇は不断の認識を示し、光は天から投じられる奇跡を意味しました。目を瞑り沈思すると、意識は留まらず流れ続けることを感じます。その闇の中の黙考のさなかに、光のようにふいに訪れる発見や確信の瞬間を、アガマの僧侶は掴むのです。「闇中の光」ドルチエストは希望の意でした。破滅の後の再生を期待する気持ちを、名の中にそうして隠したのです。
 海の底には、神殿の入り口のような柱が見えました。イアリオは、それが自分の町の地下にあるものと似ていることに気付きました。
「ええ、ここは、我々がいました。我々がいながら、滅びてしまった最初の町でした」
 クロウルダの、イルマエンという若者が答えました。彼は頭髪が薄く、ひょろりと長い手足でいつも器用に道具をいじっていました。どうやら、ハオスとは師弟関係だったようで、彼との話をイルマエンはイアリオが質問するままに答えてくれました。
「私はあなたの夢の話を聞いて、なるほどと思います。前世はクロウルダでも見ることは適いませんが、オグとの交流はその話の通りです。彼とは死後しか交流ができません。だから我々は死を通して彼と話をします。そうすると、私という人間がかつて行った過去の悪たちが彼の中にあるのを見て、自分もまた彼であったと認識するのです。悪が本当に望んでいるのは自分の消滅です。それが実際に起きた時、この目の前にあるような悲惨な光景が訪れました。彼は、人の心の一部です。自分自身の消滅を望もうとしても、人間のようにはいきません。結果、彼は、とてつもなく大きなものを望むのです。自分がなくなるということは、自分を構成するもの皆失うということ、

、その力は、まさしくエアロスのようになるしかないのです」
「彼女は、委ねられなかったのだろうか?」
 イアリオが呟きました。
「彼女には明らかに人が必要でしょう?でも彼女は、人の悪ばかり食うことになり、人を滅ぼしてまた自分を膨らませてしまった。でも、彼女こそ孤独だから、それは消滅になるしかなかったのね。悪は人から切り離されているから。でも、そうじゃない。
 彼は、命から出てきたのだから、また命に回帰できるんじゃないかしら?」
 彼女の言葉は地面を揺るがせるようでした。オグの人称は、クロウルダやオルドピスには「彼」とされていましたが、イアリオは、自分がそれと重なった体験をしたために「彼女」と呼びました。しかし、性別を定めても何の意味もありません。
「それこそを望むのです。レトラスという、循環機構がこの世界にはあります。大いなる霊魂の回帰する大河です」
 クロウルダたちは消滅したオグが最終的にその霊たちの流れる河に行き着いたと考えました。人の願望を皆一つにして、その河につながる扉を開こうとしたのは、確かなことだと確認されていました。
「そうじゃないわ。そういうことじゃなくてね」
 イアリオはクロウルダの著書を通じて繰り返しこの考えに触れてきました。
「ああ、まだ、それは言葉にはならないけれど」
 しかし、本当の結果がどうだったのかは分かりませんが、あのオグが、オグとなった、自分が、そこを目指して何になるだろうと感じました。それは、今の自分でさえオグの一部をもし抱えていたとしたら、それはきっと誰かに認められることだけを望んだ気がしたのです。それだけでよくないだろうか。それだけで救われないだろうかと。
「彼は、多くの人間の心を自分と同じものに染めます。その最期の時は、人間の力借りなくしてはレトラスには行けないからです。生が死を望まなくてはかの大河への扉は開かないのです。死亡した者だけでは、回帰できません。この町で、彼は町の人間すべてを、自分の従者にしました。クロウルダの先祖も彼に巻き込まれました。そして、皆で一つのことを望みました。扉を開け閉めするのには皆の梃子が必要でした。
 あの世へ行った我らが同士が、このように話してくれました。クロウルダは供物を捧げてその時も魔物を慰めていましたが、その慰みも、彼の深い悲しみに負けたのです。我々の、最大の失敗でした」
「その時の彼女と、私の町にいるオグは、似た状態になっているのでしょうか?」
「ええ」
 イアリオは潮風に吹かれながら、自分の町は、このような跡を残すのだろうかと思いました。あまり彼女は自分の町の未来を見通せませんでした。何が起きても、ただの変化のように、今は感じるのです。いかなる悲劇も、壮大な破滅も、彼女は今や傍観できる態度を取ることができました。
 自分を、そのような純粋な傍観者にするために、彼女は歩んできました。あの町の行く末を見守るために。見届けるために。
「私、自分が訝しくなるくらい平静だわ」
 彼女にはその自覚がありました。彼女は傍にいたロンドにそう話し掛けました。
「ロンド、私っておかしい?」
「おかしくはないが…人とはもう、ちょっと違うなあ」
 イアリオはまっすぐな目をして海を眺めました。ロンドはそう言いながらも、あなたについてはもっと言えることがある、だが自分は、どんな言葉も本当に適しているものは、選べないだろうと考えていました。
 彼女は身を翻しました。海を背に、彼女の姿を、正面を、見せつけるように。
「これから私の町に、何があってもいいわ。そうね。どんなにひどいことが起きても」
 彼はぶるっと身を震わせました。まるで女神の告げでも聞いているかのような心地でした。
「俺はあなたを好きだが、守られなければならない人を、俺は放っておけない性格だ。あなたの町が、もしこんなになるようなら、俺は何とかしてそれを防ぎたいよ」
 イアリオは凛とした声でこれに応えました。
「放っておいて。それでいいの」
 しかし、その後すぐに、人間たる彼女の表情が表れました。
「でも、その通りね。あなたと同じように、クロウルダも考えているわ。私はね、感じるの。恐ろしいことを。皆が、こぞって、あの町に起こることをすべてわかるのではないかって。理解して、受け止められるはずだって。そんなはずはない。そんなはずはないわ。私、おかしいことを言ってるね。そんなはずはないはずだもの。
 でもそう信じてしまう。何があっても、少なくとも、私は受け止められるはずだから」

 イアリオはオルドピスの首都デラスに戻りました。そしてこの約二年間の旅の報告を、かの国の指導者と、クロウルダの長ニングに向けて、行いました。
「あなたには、やはりクロウルダの血が流れている。夢の話はよくわかります。それがまとまろうとしたことは、我々が、今オグの資料を編纂している作業にも似ています。ひと連ねの物語にしなければなりません。それが、かの魔物を自分の中で慰めることにもなりますから」
 ニングは尊大な態度でそう言いました。
「理解するということは、人間にとって、究極の慰みだ。だが本来、理解できないから、言葉を操り交流を深めようとする。それが剣に変わることもあるが。理解しなければならないということもない。ただ、今何をすべきか、それを各人で決めているにすぎない。イアリオ殿、あなたはやり遂げた」
 トルムオがニングを牽制するように言いました。
「オグは危険な魔物です。あれは、常に人々を破滅に誘い込む危険を持っています。理解を広めなければなりません。さあ、あの町で何が起ころうとしています?あなたの言葉を、聞かせてください」
 ニングは急かすように促しました。
「クロウルダは幻想を見ているような気がします」
 イアリオは言いました。その言葉に、ニングは一瞬、自分の耳がおかしいのではないかと思いました。
「あの魔物について、はっきりさせなければならないという強迫的な想いが強すぎます。例えば花が散るように、すべては自然ではないですか?ちらりちらりと降るんです。そして新しい芽を出して、また花開く。どんな命も。
 人間は、愚かで、他愛もなく悪に振り回されてしまって、私の町は、過去に大災害を引き起こしました。あの経験は忘れられない。それでも私たちは、あの事件のあった場所で、繰り返し反省をするのです。二度とこんなことがあってはならないと。でも、それで昔の霊たちは慰められないんですね。なぜなら、あんなことがあったことを、生きている人間は認められないんですから。自分の中に、その衝動があれば、ただちに否定してしまいます。無理からぬことです。けれど、しょうがなかったんですよ?もう一度、あんな風に巨大な破滅が訪れたとしても、私はいいと思います。それが、オグに起こされても。
 私があの町で実感したのは、私のすべてを壊しても、なくならないものが恐らくあるということです。それが怖くて、不安になったり、焦ったり、したのです。まるで、子供が大人に変わろうとする変化を味わっていたみたいに。天女の霊に突きつけられたのは、私自身が変わる予感でした。私がいかに自分の町を憎んでいたか、愛していたか。私は町を離れて、なおそのことに気がつきました。あの町に、愛する人がいます。私はきっと、その人がそばにいるのが怖かったのでしょう。私は自分の変化を手放せない人間ですから。

 オグは、きっとそうした人の集合です。自分を信じられない人間の塊です。あの町で起ころうとしているのは、彼女が、自分を取り戻す未来。だから、はっきりと、エアロスとイピリスは宿るでしょう。私たちが、もし、彼女と共に歩んでいるなら、私たちも、変わります。もし、彼女が私たちの一部で、私たちも彼女の一部なら、きっと、ひどいことは起きません。魂が、入れ替わるだけです。私たちと彼女との間で。きっと、私は、そのような選択を、します」

 ニングはひょろっとした面を恐ろしく青くしました。元からその色だったようにも思えます。
「この世の悪魔が望むのは、ただひたすらに慰められたい願望です。我々の一部なら、ずっと慰めるより他にありません」
「そうして、多分自らを慰めたいのです。逆に、私がクロウルダのことをわかるならば、そうした心理です。私たちは自分たちを慰めることはしなかった。けれど、そうした選択肢もあったはずでした。私たちは憎んで恐れた。でも、クロウルダとも一様にあの魔物へ反応したからでしょう。私たちだからそのように応じているのです。私は、理解ははっきりしなくてもいいと思っている。彼女とは、共に歩んできたのだから、これからも、そうするより他にありますか?」
「だったら、あなたの予感、滅びの予言は放っておくのですか」
「私は帰ります。ふるさとに。なぜなら、私はあの町の住人だから。オグの行く末を見なくてはなりません。私たちの歴史にオグはあったか。そうでも、そうでなくもあるのです。三百年前のことはオグによるものではないけれど、あの中に、オグは潜んでいました。今、この世に未練を残している死者たちが望むことは、多分、自らを知ることです。その願望は、恐らく私たちも持っているはずです。そして、私の町の下に眠る、彼女も」
「オグは一つの願いを霊魂に渡し、その望みの力でレトラスの門を開ける。そうして巨大な力が働き、滅亡が起こる。なんとしても防がねばならないのは、あなたの町が、滅びてしまうことです。お分かりか」
「そうしてクロウルダは自分の一部を失ってしまうことが怖いのですか。あなた方は、自分を知るためにオグに触れる。自分を慰めたいがために、オグを鎮める。わけのわからないものにしておきたくないから。そうでしょ?」
「学問的じゃない。我々は―――」
「そして、オルドピスは私の町を守るべきかどうかを決断しようとしている。黄金は惜しくないでしょう。ただ、オグがどんな暴挙に出るかが疑われるだけで。影響があの町だけに済むのかを一番よく知りたがっています。オグは、私たちの町を滅ぼそうとなどは考えていません。自分と同じ願望を持つ者を、その思いを強くして、まるで自分を探るように、大きな力を出したいだけです。その先は、きっと―――」
 トルムオがじっと彼女を見つめました。イアリオは、息を呑んで、言葉を継ぎました。
「きっと、ドルチエストのように、大勢の人間が、彼と同じ足取りを辿るでしょう」
 トルムオの目が光りました。彼は、自分の中で大きな決断を下したようです。ニングは肩から溜め息をつき、渋い顔をして部屋を出て行きました。イアリオは少しだけその場を外すことを詫びて、扉の外へ出ました。そこへ、愛らしいニクトが、二年ぶりに出会った分伸びた背丈で精一杯彼女を抱擁しようと来ていました。
「ああ、ニクト」
 イアリオは少女を抱き締めながら、自分の旅路を思い出して、わなわなと震え出しました。
「何て恐ろしい旅行だったのだろう。私の中にいるもの、あの町の中にいるもの、あの町の下にいるもの、全部が、一つのことを願っているのを発見していった旅だったわ。その願いが今表れようとしていたの。恐らく、我々の先祖までも、私の前に白い魂魄を晒して、告げた話はそういったものだったんだ。私は怖い。戻ることがじゃない。これから気付くこと、知っていくことに。私の近くにいた人々が、私のように、それと顔を合わせることに!
 ニクト…こんなに寂しくて、つらくて、悲しいことがあるかしら…?」
 ニクトは、豊満な彼女の体に抱きとめられて、顔を赤くしました。少女は、イアリオの悲しみに同情はせずに、その前に一瞬自分を貫いた彼女の視線に震えていました。なんて強い意志が宿っていたでしょう!そして、抱擁は、彼女の不安をぶつけていたのではなくて、ニクトの中にあるオグを、温め慰めたのです。
 ニクトは体中が熱くなりました。やっとイアリオが放してくれて、少女は照れて、笑いました。
「お帰り!」
 そう言うと、イアリオはやっと笑顔になりました。

「あなたたちは、幸い、外との接触を嫌っていた」
 トルムオは、長い髭を少し揺らして、紫の外衣を中央にまとめました。
「私たちは、トラエルの町が、どのように変化せずに、また独自の発展というものがあるか、どうか、見守っていこうとしました。これは学問的興味というものです。やはり、あなたの町の黄金は恐ろしいものですが、それが私たちなりの関わり方で、最も国益を得られる方法だと判断したのです。しかし、あなたの町に、オグが潜んでいるとなれば事情が違った。見守る立場から、見届ける立場になりました。私たちは、あなた方を守ろうとしてきたが、かの魔物の所在が判明してからは、あなた方を囲いの外に出そうと努力してきたことを、ここに告白します」
 オルドピスは、彼らの技術や言葉を彼女の町に伝える目的を、その町にオグがいることが分かってから違えました。町の人々の自衛の手段を提供することから、いつか、人々がオグから離れることを企図したのです。
「ですが、クロウルダと手を組み、かの魔物をどう処置していくかの研究も行ってきました。今は、まだその研究は道半ばで今に有効な手立ては打てません。私たちは、あなた方の町を、どうすべきか議論しました。あなたの言葉が重要で、それ次第で、町人たちを避難させるかどうか決めたく思いました。しかし、あなたは助けを求めなかった。オグと共に、破滅を望むという。ありえないことです、およそ人間らしい判断だとは言えない。私は、非常に怖い。何が起こるか分からない。あの町について我々はほんの少ししか知らなかったのではないか、その町が、ずっと地下に魔物を居させた歴史は、いかなる意味があるかは検証しなかった。
 あなたがこちらへ来てから、私はかの町に使者を何度か送りました。ですが、一人も帰ってきてはいません。何が起きているか、判らずに私たちは二の足を踏んでいます。あなたの回答を頼みにしていた。あなたは町へ帰ると言った。ロンドをあなたに付かせましょう。我々の戦士も。いや、私は、あなたの町を守らないことに決めた。ただあなたを無事にトラエルの町へ送り届けることを決めました」
「…別に、私はあの町の使者ではありませんから、私に何を言っても、公式の約束にはなりません」
 イアリオは、凛とした表情で、老人を射抜きました。
「オルドピスが手助けしてくれたことを、町の皆はずっと感謝するでしょう。私たちの欲しい援助は、皆あなた方から得たものですから。でもそれ以上は貰いません。これは私たちの意志ですから。それで十分です」
 彼女はそう言うと、にわかに自分の下腹部が、熱く濡れているような気がしました。その感触は、高揚感につながりました。どきどきと、胸が高鳴って、まるで何かがそこから誕生するような、熱い生命の躍動を覚えました。彼女は確信しました。きっと、町に帰って、自分は誰かと一つになるのだと。その相手は誰だか知りませんが、ようやく、彼女が自分の外側へと押し出していたものに気付いて受け入れようとしたのです。
 オグがいよいよ暴れ出そうというふるさとで、決着をつけようというのは、自分の未来を決めることでした。だから、彼女は戻ろうという決意をしたのです。それは同時でした。月の台の上で、最終的に望んだのは、鏡に映った自分の像を、
「私は、結局自分のことしか決められません」
 取りこぼすことなく、受け入れることでした。
「でも、そうだからこそ、受け入れられますよ」
 トルムオは頷きました。オルドピスの代表者は、こうしてトラエルの町を切り離し、その行く末を見守ることにしました。トラエルという町は…赤ん坊のような存在でした。生まれようとしない種子でした。もし、あの町が一つのものを望むとしたら、それは、生まれることだとイアリオは感じました。彼女の腹の下が疼きました。生まれるとは、知ることでしょうか。だったら、彼女の町の物語は、およそ変化しないものの中に…それは種だった…変わろうとする意志と未来を描くものでしょうか。
 冬の中に春を覚えるように。芽を出す時を、どんな人間も望むように。自分の中の確信、信念、それは眠っているもので、起きてもふらふらとしがちです。だから、芽吹く時を待ちます。芽吹けばそれは龍になるかもしれません。植物の龍に。

 トルムオは、ただイアリオ一人だけを相手にしていたのではありません。そのように見えて、違いました。賢者はその女性の中に、ひと際大きな業をもたらす悪の所在を始めから見ていました。クロウルダとそれは同じでした。ですが彼らはその彼らの中にある悪とどうしても向き合い切れませんでした。しかし、その女性は、その点においてクロウルダとはどうも違っていました。トルムオには彼女が悪そのものにも思えたのです。実際彼女は、自分を悪と鏡を挟んで向き合っていました。
 だから、彼はトラエルの町を切り離したのです。彼らが知りたかったのは、決してオグの動向ではなく、あの町を背負ったこの女性が、一体何を選ぶかということでした。いざ、それは決しました。あとは、彼女が故郷へ帰るのみでした。
 しかし、町が輩出した町の子供は、彼女だけではありませんでした。ピロットと、テオルド、そしてあの怨霊イラと、白霊ヴォーゼも、またその子供たちでした。彼らが一様に望んでいることがありました。それは自由とも、誕生とも言えました。
 オグは、その思いを喰います。何のために?彼は、あらゆる人間の悪意の集合なら、それが望むのは、最期は自らの破滅でした。もういいのです。他の人間の思いを叶えてあげるのは!
 そうして、悪意を貪るのは。
 最も望み難い願望を

は、つまりは自己破壊でした。自分がいなくなることでした。彼は、ついに自分がばらばらな存在であることに気付きました。彼と、イアリオは同じでした。
 彼は、生まれようとしていました。今までは彼は死と同様の存在でした。彼は言葉でした。言葉が力持つ時に、彼は蠢くのです。それは、人間から離れた場所で威力を発揮するからです。彼の力は、元々は人のものでした。彼が生まれるということは、彼女がその母胎を、完成させるということだったかもしれません。人から離れた力は、人に回帰するのであるなら、その力の本来の性質が、そこで発揮されるのなら、
 イアリオの物語の中で、それは子を宿すと同じことでした。最も望み難い、最大のもの。それは、命の誕生に他なりません。決して望んで成ることではありません。オグが、元々はあらゆる人間の救いを求める声ならば、命は、世界中が求める願いでした。だから、夢うつつの現世を彷徨い歩いたとしても、同じものに出会うのです。生と死が。命と悪が。
 だから、追求するものは同じなのです。彼女も、オグも。それは、町の人間すべてが、そしてまた、かの町の周囲にある国も。どんな子が生まれるのでしょう。どんな子になろうとするのでしょう。自由は痛みを伴いましたが、生まれる自由は保障されていました。誰に?自分に。

 象徴的な明日が、手を広げて、イアリオを待っていました。彼女はそして、笑いました。なぜなら、下らなかったあらゆることが、その意味を転換させて、一気に重さを持ったからでした。命は明日を生きるのです。見えなかった未来に、突き進む覚悟と信念を持っているのは、ただそれだけでした。なぜ生きようとするのでしょうか。それは、
 轍を越えて、
 人間が、
 時間をくぐり、
 結ばれるからです。
 この通り。
 前に。
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